「引かば押せ」の男、実際にやりもせず「ぼく、営業できますから」と言う男~営業と会社の話(15)
〔第69回〕 「押さば押せ、引かば引け」という言葉があります。営業の考え方として、「押さば引け、引かば押せ」という態度を取る人がいるのですが、それはおかしい。そうではなく、(あえて言うならば)「押さば押せ、引かば引け」が本来であるはずだと、私は、ずっと、考えてきたのです。 「押さば押せ、引かば引け」とは、本来は、剣道から来た言葉だと私は理解してきた、というより、高校の1年の時の体育の剣道の授業の時に、その時の先生が「押さば押せ、引かば引け、と言う」と説明されたのが頭にあって、そこから来たと思いこんできたのです。
お客様(この場合、見込客・契約客の両方を指します)に対して、「押さば引け、引かば押せ」という対応をする人がいるのです。 それでは、何でも要求しまくる人、我儘放題の人には何でも言う事を聞き、安い価格で仕事をし、こちらの事情を理解して協力してくれる人には、いいかげんな仕事をする、高い金額を要求する、ということになり、そういうことをしていたのでは、最初は協力してくれていた人からも、そのうち、協力してもらえなくなり、そのうち収集つかなくなっていくでしょう。 そうではなく、「あえて言うならば『押さば押せ、引かば引け』」という姿勢であるべきです。「あえて言うならば」とついているのは、住宅建築請負業の場合、契約の際に金額交渉の話が出ても、ビジネスである以上、おかしなことではないし、「これくらいサービスでやってもらえないですか」といった話もでておかしなことではないと思いますが、一方で、施主と建築屋は、良い工事をおこなうためのパートナー・協力者でもあるので、常に《「押さば押せ、引かば引け」であるか「押さば引け、引かば押せ」か》という思考を続ける必要はなく、「あえて言うならば『押さば押せ、引かば引け』」という姿勢ということで良いと私は思っています。
最終学校を卒業して入社したばかりの新人で「押さば引け、引かば押せ」という態度を取ってしまう人が時々いるのは、ひとつには、三波春夫とレツゴー三匹という自分が営業の仕事で実績を残したわけでもないくせに「お客様は神様です」という文句を流行らせて、それが営業の心がけみたいに世間に思わせてしまった人間がいるからということがあると思います。《「お客様は神様です」からお客様の言われることは何でもきかなければならない》と考えてしまうと、その結果として、何でも要求しまくる人の言う事は聞き、業者の立場を理解して協力してくれる人には甘えまくるという結果となってしまうのです。それは営業としてはしろうとのやることだと思います。
(もっとも、《ウィキペディア―三波春夫》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B3%A2%E6%98%A5%E5%A4%AB、あるいは、《三波春夫オフィシャルサイト――「お客様は神様です」について》http://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html を見ると、「お客様は神さです」という文句は三波春夫が考えていたこととは違った意味で広まってしまったという話ですが。)
※三波春夫については、
《ウィキペディア―三波春夫》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B3%A2%E6%98%A5%E5%A4%AB
《三波春夫オフィシャルサイト――「お客様は神様です」について》http://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html
※レツゴー三匹については、
《ウィキペディア――レツゴー三匹》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%84%E3%82%B4%E3%83%BC%E4%B8%89%E5%8C%B9#.E5.A4.96.E9.83.A8.E3.83.AA.E3.83.B3.E3.82.AF 他参照。
在来木造の某社に在籍した時、工事担当者から、私の担当のお客様はいい人が多いから助かると言われたことがありましたが、それは、1.良好な人間関係を構築して、その中から契約していただくという姿勢を取ってきたので、たとえ、ミスがあっても、ひとつだけで、完全に信頼関係が失われるというものでもない、2.住宅建築においては施主と建築屋は、住居というひとつの作品を作るための協力者であるという姿勢をとっていただくようにしてきたことから、何か問題点が出ても、どうするべきか一緒に考えていただける、3.そして、「押さば引け、引かば押せ」というような対応はしてきていないので、「何でも要求しまくればきいてもらえる」という認識の方はいない、そして、「黙っていれば無茶苦茶されてしまうというようなことはない」、「特に気をつけて要求しなくても、ある程度以上のことはきっちりとやってもらえる」という信頼感を持ってもらえている、少なくとも、持ってもらえる方向で努力してきている、ということがあったからだと思います。 某社を退職する少し前、本社から、顧客管理台帳の右下だったかに、A・B・Cであったか、A・B・C・Dであったか、契約客について、「うるさい人」「難しい人」か、「寛容な人」「理解のある人」かのしるしをつけるように指示してきたことがあって、それにより、「うるさい人」「難しい人」には、工事をきっちりとやるようにして、問題発生を防ぐというようなことを言ってきたことがありましたが、私は、それは、根本的に、考え方を間違えていると思いました。そういうことをやったのでは、理解のある方も、そのうち、理解してもらえなくなってしまいます。 業者の立場を考えて協力していると、この人は気をつけなくても大丈夫な人だと決めつけられてしまって、いいかげんな工事をされてしまうというのでは無茶苦茶です。いったい、誰がそんなおかしなことを言いだしたのか、と思ったのですが、そのすぐ後で退職してしまったので、その後、その点について、某社でどうしているかはわかりません。
この「『押さば引け、引かば押せ』というような態度ではいけない」という認識は、営業がお客様(見込客・契約客)に対しての姿勢としてだけでなく、一般の人間関係においてもいえることです。「押さば引け、引かば押せ」というような態度を取っていたのでは、そのうち、譲ってくれていた相手も譲らなくなります。 ところが、「◇◇さんだったら大丈夫だ」などと人を馬鹿にしたようなことを言って「押さば引け、引かば押せ」という態度を取る人がいるのです。私はそういう人間を軽蔑しますし、「営業力のない奴」と見ますが、そういう人が現実にいるのです。
もうひとつ、「◇◇さんだったら大丈夫だ」などと、人をフヌケのように決めつける人というのは、その際に、十分に相手を見ているのかという問題もあります。 平均的な人間なら、10のうち2か3譲ってくれるがそれ以上は無理なところを、大変寛容で、10のうち5くらい譲ってくれる人がいたとして、5まで譲ってくれるんだから、この人は何でも譲る人間だ、と勝手に決めつけるような者がいます。 私は、そういう思考をする人間というのは、アホ!と思っているのですが、アホ!は、日本の会社にはけっこういるようで、私の勤め先にもいます。
野球とゴルフのたとえをするとオッサンだと思うのですが、あえて、野球のたとえを出します。プロ野球のシーズン中の試合において、監督の求めに応じて、少々、無理をきいた選手がいたとします。選手の方では、自分はチームのために無理をきいたのだから、その分を査定・契約の際には、百パーセント納得がいくかどうかはさておき、ある程度考慮してもらえるだろう、と考えます。ところが、査定、契約に際して、この選手は言う事をきく人間だから、査定・契約においても、何でもきくだろうなどと考えて、無理をきかなかった選手よりも低い扱いにされたとしたらどうでしょうか。ふざけるな!ということになりますね。
別に、野球選手でなくても、一般の職場においても、会社の為にと思って、無理をきき、我慢もしてきたからには、その分は、理解してもらえているだろうと考えていると、そうではなく、この人は何でも言う事をきいてくれる人だから、無理をきかない人間よりも給料だって安くていいんだ、それ以外も何でもきく人間だとかいうようなことを思われるようであれば、もう、無理をきいたり、我慢したりもしなくなる、というより、できなくなりますね。 そうならないようにするのが経営者の仕事であると私は思うのですが、そうなるようにする人というのがいるのです。
平均的な人なら2か3までしか譲らないものを5くらいまで譲ってくれる人に・・というケースもありますが、もうひとつ、「徹底的に争わないといけない問題を争うことができるように、譲れるものは徹底的にゆずっておこう」という姿勢をとっている場合というのがあります。私は、そういう姿勢をとっている人は評価できる人であると思っていますし、そういう人は、「何でも言う事をきいてくれるフヌケ」とは、まったく異なる人であると思っています。これは、当たり前と言えば当たり前のことですが、これを、まったくわかっていないという人が現実にいるのです。
ルドルフ=フォン=イェーリングが『“RECHT”(権利=法)のための闘争』という本を書いています。日本では、『権利のための闘争』という翻訳名で出版されていますが(岩波文庫他)、『権利のための闘争』と表現してしまうと、趣旨を誤解されてしまうおそれがあります。 イェーリングは、イマヌエル=カントが『純粋理性批判』(岩波文庫他)で述べた「自ら(みずから)虫けらとなる者は、後で踏みつけられても文句は言えない」という言葉を引き、決して譲ってはならない権利をどぶに捨てるような者は、精神の入れ替えが必要であるが、そこまでめんどうみることはできないとし、そして、
1.権利である以上はどのようなものでも主張するべきだと言っているのではなく、譲っても良い場合と決して譲ってはならない場合というのがあり、金額として見て高額のものでも譲って良い場合もあれば、人間としての尊厳にかかわるような問題においては金額として見ては高額でなくても譲るわけにはいかない場合がある。たとえば、自分のものを人が権利を主張して持っていこうとしたとしても、その人がその人のものであると誤解して持っていこうとする場合と、こちらのものであると認識しながらこちらの権利を侵害することを意図して持っていこうとする場合では意味が違う、相当に高額の損失であっても譲って良い場合もあり、逆に、金額としてはわずかのものについて、それより大きな費用をかけて争わなければならない場合もある、
2.自分にとってだけではなく、その権利は社会おおやけにとって、守られなければならないというような権利は法であり、そのような権利(=法)を主張するのは、権利であるだけではなく義務でもある、誰にとっても守られなければならない権利を主張せずにいる者は、国民にとっての義務を怠っているのである、
ということを言っているのです。
在来木造の某社にいた時、ある営業所で、「あんた、一見、何でも言うことききそうに見えるだろ。それで、実際にはそうじゃないだろ。だから、何でも言う事をききそうだと思った人間が、そのギャップにびっくりするんだ。」と同じ営業所の人から言われたことがあったのです。 それで、そうかあ? そんなふうに見えるかあ? 人の言う事を何でもきくフヌケに見えるのか~あ??? と不思議に思ったのです。 私がイェーリングの『“RECHT”(権利=法)のための闘争』を読んだのは、20台の前半だったと思います。 『“RECHT”(権利=法)のための闘争』に述べられている内容は、もっともだと思ったけれども、しかし、特別のことが述べられているのではなく、当たり前のことを述べてあると思ったのですが、『“RECHT”(権利=法)のための闘争』に述べられている内容を当たり前だと認識しない人にとっては、なぜ、そのような権利を主張するのかという気持ちになるらしいということも気づきました。イェーリングは『“RECHT”(権利=法)のための闘争』において、人間として譲ってはならない権利(=法)を守るために闘うのは権利であるだけでなく義務であるとイェーリングは主張しているのですが、同時に、何でも闘えと言っているのではなく、何でも主張するべきだと言っているのでもなく、決して譲ってはならない権利(=法)を守るためには、譲ることができるものについては、無駄に闘わない、ということも言っているのです。私は、この点についてももっともなことだと思い、そして、それも、イェーリングが特別にものすごいことを言っているのではなく、当たり前といえば当たり前のことを言っていると理解し、その方針で実行してきたつもりなのです。 ところが、どうも、世の中には、人間として国民として決して譲ってはならない権利(=法)を主張できるように、細かい問題、性質として重要でない問題について譲っていると、「何でも言う事をききそう」と誤解する人というのがいるらしいのです。 そういう、私からすると、「そんなこと思うかあ~あ?」というようなことを思う人が世の中にはいるらしい、ということに気づいたものの、それで、対応を変えるかというと変えませんでした。 むしろ、そこで、人の反応を見るようにしたのです。 細かい問題について譲っていると、「何でも言う事をききそう」などと思いこむバカか、それとも、イェーリングが『“RECHT”(権利=法)のための闘争』において述べているような認識をきっちりと持っている人であるか、ということを見るようにしたのです。
千葉市中央区の私が勤めている会社において、社長代理のような立場でいる男が、私に「○○さんのような『言うことをきいてくれる人』に先にきいてもらって、それから他の社員にも、『○○さんもこのように承諾しているんだから』ということで承諾させようと思っているんです」などと言ってきたことがあったので、「どういうことですか? 私、言うことをきく人間てどういうことですか?」と言ったのですが、「そうじゃないですか。○○さんは言うことをきいてくれる人間じゃないですか。」と断固として言うので、「どうしてですか?」と何度も言ったのですが、いくら言っても理解しないので、この男はアホや!と思い、処置なし!とも思ったのです。
『ビッグコミック』という小学館から月2回発行されている漫画雑誌に佐藤 優(さとう まさる)という鈴木宗男と親密であったことから失職した外交官の話が連載されています。 その中で、ロシア連邦(旧・ソビエト連邦)の政治家ブルブリスという男が「私はバカは嫌いだ」という言葉を口にすることがよくあると出ています。「クレムリンで権力を掌握した黒幕は誰なのですか?」と尋ねる憂木マモル(佐藤優氏がモデルらしい)に「マモル。私はバカは嫌いだと言ってるだろう。」とブルブリス氏が述べる場面があります。そのくらい自分で考えろ、これだけ考える条件がそろえば自分でわかるだろう、という意味で言ったようです。 ブルブリス氏とは意味は同じではないかもしれませんが、イェーリングが『“RECHT”(権利=法)のための闘争』において述べているような意味で、本当に争わなければならないことを争えるように細かいことについて譲っていると、この人は何でもきいてくれる人間だと思ってしまうような男を見ると、「私はバカは嫌いだ」と言いたくなります。 さらに、こういうことを言うと、さらにダメ押しで、「言わなきゃわからないじゃ~ん」などとまで言うバカまで出てくることがあり、もう一回「私はバカは嫌いだ」と言わなければならない事態になると、もううんざりしてしまうのです。
こういう問題について、「噛んで含めてのどの奥まで押し込んだ上で、さらに、ケツの穴から手をつっこんで下からも引っ張る」くらいのことまでして、それでも理解できないような人間を見ると、実際のところ、つきあうのが嫌になってくるのですが、一般の人間関係においては、こういうアホとはつきあわないようにしようということもできるのですが、職場においては逃げられないという問題があるのです。(ケツの穴に手をつっこむ、なんて肛門科の医者でもないのにやりたくないし。)
又、『憂国のラスプーチン』には、もうひとつ、「永田町用語」というのがいくつか載っていて、そのひとつに、議員が言う文句で「他の先生を大事にしてください」というものがあり、それは、「おまえ、俺を軽く見ているな。覚えておけよ。」という意味らしいのですが、これなどは、永田町に限ったことではなく、会社においても、婉曲な表現・遠回しの表現を使って「おまえ、俺を軽く見ているな。覚えておけよ。」ということを言う場合というのはあると思います。ただ、永田町用語の場合、役人はそれを理解するらしいのですが、私などが勤める会社においては、婉曲な表現・遠回しの表現で言っても、言われたことを理解できない人が少なからずいるので、そうなると、言ってもしかたがないか、と思ったりもしますし、「バカは嫌いだ」とも思うようになります。
※佐藤 優(さとう まさる)氏については、
「ウィキペディア――佐藤優(外交官)」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%84%AA_(%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98) 他参照。
この会社では、会社の仕事で使用する備品・消耗品を購入すると、購入した人間が月末まで立て替えないといけないことになっていたのです。それまでに領収証をなくしてしまうと個人負担になってしまいますし、実際、私は領収証をなくしてしまって個人で支払うことになってしまったものがあります。領収証をなくしてしまうといったことがなくても、1か月ほど立て替えるというのは、高くない給料の従業員にとってはきついのですが、それまで、私たちが「なんとかならないですか」といっても「ならないです。業者はもっと長く立て替えてます」というようなことを言ってきたのです。(請負契約の業者と雇用契約・労働契約の従業員とは立場が違うということくらいは理解するべきです。) ところが、 社長の嫁さんの縁故入社で入ってきた新入女性社員が、カラ―上質紙を使いたいと言い、1か月建て替えるのは嫌だからすぐに出してほしいと「社長代理」に言いだしたところ、それまで、私などが「なんとかならないですか」と言っても「なんともならないです」と言っていた男が、縁故入社が言いだすと、突然、「なんとかします」と言いだしたのです。 はあ~あ? 何、それ?!?><@¥&!と思っていると、私に「○○さん、カインズホームに行って、△△買ってきてもらえますか。」と言うので、縁故入社が言うと、すぐに会社で出すようにするのか、これなら、これからは、全員で使うような者は、何であれ、縁故入社の人間に言わすようにすればよいのだな、はさみと縁故入社は使いようということか・・・・と思って買ってきて、代金を請求すると、「お金、ありません。出しておいてください。」などと言うので、「どういうことですか。」と言っても、「お金ありませんから。 ○○さんが出してください。」などと言いだした。要するに、縁故入社の機嫌を取る為に、縁故入社が使う物を買うのに、縁故入社に立て替えさせずに私に出させようとしたということのようでした。「ケンカ売ってるんですか」と言っても、「そんなこと言っても、お金ありませんから」と言い、「私だってないんですよ。」と言っても、「そんなこと言っても、ぼく、お金ないですもん。○○さんが出して下さい。」と言ったのです。「ケンカ売ってるんですか」とまで言われても、それでもわからないというのは、もはや、噛んで含めてのどの奥まで押し込んで、さらに、ケツの穴に手を入れて下からも引っ張るような言い方をしているのであり、そこまで言っても理解できないということは、もはや、口で言ったのではわからないということで、法的手段をとるか、もしくは、首根っこつかまえて、首をへし折られたくなければ、今すぐ出しやがれと言うかするしかないということになります。 そして、法的手段を取るといっても、弁護士に頼んだのでは弁護士の手数料の方が高いし、人権擁護委員に言うと「そうですかあ~あ。困りましたねえ~え。まあ、人権擁護委員というのは、何の権限もないので何もできないんですよ。なんとかなったらいいのですけどねえ~え。」と言うだけで終わりですし、労基署に言っても、労基署というのは、実質的には、企業の労働基準法違反を取り締まっているふりをしながら実際には取り締まらないことによって企業の労基法違反を守っているところという性質があり、さらに、実際に千葉労基署に言っても、「経費は労基署は関係ないですね」と言って、会社の経費ちょろまかしを守ろうとするのです。(会社の経費を立て替えた分を支払わないということは、その分だけ、賃金を支払っていないということと同じであり、労基署は関係ないなどという詭弁は通じないはずで、そのような詭弁を弄して会社のちょろまかしを守ろうとする千葉労働基準監督署は労働者の敵と言わざるをえません。)
在来木造の某社にいた時、住宅展示場で、土曜・日曜と祝日のみ、住宅展示場の入り口に受付として女性のアルバイトを雇っていました。福島県の いわき市の営業所にいた時、私が在籍した住宅展示場では、その総合住宅展示場には、同社の展示場が2つありました。正社員の場合は、給料は月末払いでしたが、受付のアルバイトの人には、1日ごとにその日の終わりに支払うようにしていました。私がいた展示場と同じ総合住宅展示場内のもうひとつの展示場には、その時、近くの大学の大学生であった別の場所の展示場に勤務している営業職従業員の嫁さんの妹とその友達が来ていました。 アルバイト代は、各展示場の営業職従業員の担当者が、営業所長がいる展示場の経費担当者から、あらかじめ預かっておいて、当日の終わりに支払うことになっていました。ところが、私がいた展示場では私がその担当になっていて、経費担当から忘れずにアルバイト代を預かるようにしていたのですが、同じ総合住宅展示場に出展していいたもうひとつの展示場の担当者はアルバイト代を預かるのを忘れることが多く、アルバイトの人が来た日の終わりにアルバイト代を渡す時になっても、「もらってきてないわ。来週じゃだめ?」などと言いだすことがあり、実質的に同じ場所に友だち同士でアルバイトに来ているのに片方にだけ渡して、もう片方の人に渡さないというわけにもいかないし、又、会社として、いつこれだけ支払いますと言ってアルバイトに来てもらった相手に、それをその日に渡さないというのは、会社の恥だと私は思い、それで、私が在籍していない方の展示場の担当者が「もらってきてないわ。来週じゃだめ?」などと言いだした時に、「それじゃ、私が立て替えておく」と言って支払うようにしました。そうやって、自分が負担を払ってでも会社の恥をさらさないように貢献するということに対して、会社はそれを認めてくれてよいはずと思っていましたが、残念ながら理解していたようではありません。その時に、その時、大学生であった別の展示場に勤務している営業職従業員の嫁さんの妹が、その日の終わりにアルバイト代を支払うと言って来てもらっておきながら支払う用意ができていない会社には首をかしげながら、私には「いいえ。○○さんに出していただくことはありません。」と言ったのです。それを聞いて、私は、この人は、家庭でそういう教育を受けてきた娘さんなんだな、きっちりとした家庭の人なんだな、と思いました。 私が顧客の立場である場合においても、ビジネスである以上、金額交渉の話が出てもは当たり前であり、そういう話はしますが、だからといって、営業担当者個人に出させようなどということは絶対にしません。又、自分が営業担当として見込客と接する場合においても、ビジネスである以上、金額交渉の話が出るのは不思議なことではなく、但し、会社によって、営業担当者に金額についての裁量権を相当に持たせている所と、ほとんど持たせていない所があり、又、きける話ときけない話があるということはありますが、会社に値引きやサービスをしてもらおうというのは、話としてありえても、営業担当者に出させようとするものではなく、営業担当者に出させようという人があった時には、そういうものではありませんよ、というメッセージを送るようにしていました。アルバイトの人の場合は、正社員とは立場が違うので、アルバイトの人がアルバイト代を受け取るべき時に受け取れないことがないように正社員が負担をかぶることがあっても、それは、負担をかぶらないといけないような会社に問題はあっても、アルバイトの人はもらって帰って悪くないのですが、別の場所の展示場に所属の営業担当者の嫁さんの妹の場合は、自分の義兄の同僚に個人として負担させるのは申し訳ないと思って言ってくれたのだと思いますが、そういう場面で、そう言える人というのは、きっちりとした家庭の人なんだなという印象を受けます。
それに対して、千葉市中央区の××ハウジングの社長の嫁さんの縁故入社の女性は、私が出すと言っていないし、私が出す理由はまったくないにもかかわらず、「社長代理」が私を嵌めて私に出させたので、本来のこの会社の今までのやり方であれば、その縁故入社が立て替えないといけないものを私に出させて平気でいたのです。 この縁故入社の人の場合は、いわき市の住宅展示場に来ていた女性とは違って、実際にはパートみたいな勤め方であったとしてもアルバイトではなく正社員として入社していたのですから、「○○さんに出していただくことはありません。」と言って自分が出すのが当然であるはずですが、それにもかかわらず、私に出させているのです。 それを見て、いわき市の展示場にアルバイトで来ていた大学生であった女性とは家庭が違うようだな、とも思い、この人は、あまりいい家庭で育っていないようだな、あまり良い教育を受けていない人だな、と思い、考えようによっては、かわいそうな人なんだな、と思いました。こういう人は、まず、お客様にも同様の態度を取るでしょうし、お客様からも、この人は、あまりいい家庭で育っていないようだな、あまり良い教育を受けていない人だな、と思われるでしょう。こういう時に、きっちりと、「○○さんに出してもらうことはありません」と言える人というのは、その分だけ「営業力がある人」であり、平気で出させているアホというのは、その分だけ「営業力がない」ということにもなります。縁故入社であるからということで、こういったことを認めていたのでは、会社の秩序を乱すことにもなり、又、そういう人を縁故入社で入れた人間というのは、それに対して責任がないという主張はできないはずです。
その「社長代理」のブタ男は、こういう陰湿なことをやって、それで「うまくやった」と思っているらしく、それで自分は「営業力がある」と思っているらしいのですが、それをされた方の側からすれば、「おまえ、覚えておけよ!」ということであり、ブタ男はわざわざ恨みを買っているのです。 私は、このブタ男とバカ女に正面からケンカを売られたと認識しており、こういう行為はそう簡単には忘れはしませんし、こういうものは金額の多寡にかかわらず許せるものではなく、イェーリングの『“RECHT”(権利=法)のための闘争』の考え方からしても、「許してはならないもの」です。 この男は顧客に対しても同様の態度・対応をして、それを「営業力」だと思っているのでしょうけれども、私が感じたのと同じく、お客様も、「覚えておれよ」という気持ちにならされていることでしょう。
営業を仕事としている人間でも、たとえば、在来木造の某社の私が過去に在籍したある営業所に、「一発で決めてやる」と、強打・KOを売り物にするボクサーみたいなことを矢鱈と言う人がいました。 有望見込客で、ワン・ツー・スリーくらいで「クロージング」をおこなえば、見込客の方でもそろそろ契約しようかなという気持ちになってもらえているので契約はまとまりやすいという時に、すでに見込客の方が契約しようかと思われているのに「クロージング」に入らない営業、すでにスリーを過ぎているのに「クロージング」に入らない営業もいれば、見込客が、十分検討しているけれどもまだもう少し考えさせてほしいと思っているのに「クロージング」に入る営業、ワンの段階で「クロージング」に入る営業もいました。 あまりにも早くに契約を迫る営業、「一発で決めてやる」と、なんだかボクシング漫画の登場人物みたいな文句を口にする人というのは、なぜ、そう急ぐのかというと、ひとつには、省エネというのか、労力をかけるのを極度に嫌う手間惜しみする人間であるからという場合もありますが、それよりも、初対面から始めのうちは好印象を与えるけれども、何回も会って、つきあいが長くなっていくと、化けの皮が剥がれて嫌われていくというタイプの人は、必要以上に早く契約を迫ろうとする傾向があるようです。 「社長代理」のブタ男も、この陰湿な性格をお客様にも見抜かれてしまうらしく、短期で契約して工事も短期ですんだような人はよいけれども、長くつきあった人には嫌われるという傾向があるようです。
このブタ男は、「ぼくなんか、営業やったことないですけど、それでも、営業できてますから」などとヌケヌケと口にしたことがあるのです。 「おまえ、ふてぶてしい奴だなあ」と私は思いました。「営業できて」ないでしょ。あつかましい、ふてぶてしい。 それで、できているというのかい? こういう殺されても死なないような無神経な男、こういうふてぶてしいブタ男は、一回、生実池(おゆみいけ)にでも叩きこんでやるかしないと感じないのではないか。
※生実池(おゆみいけ)については、
「マピオン電話帳―生実池(おゆみいけ)」http://www.mapion.co.jp/phonebook/M12010/12101/L0323340/ 他参照。
↑生実池(おゆみいけ) 千葉市中央区生実町(おゆみちょう)
〔 放射線量 生実池 道路脇 土の部分の上 高さ約1m
2011.11.3.午前11時30分頃
γ線量:0.13μ㏜(マイクロシーベルト)/時
β線粒子束密度:0.000 particle ㎠/min
測定使用機器: ウクライナ ECOTEST社製 TERRA-P+ 〕
今まで、勤めてきた会社で、営業の仕事につく人を見、又、自分が営業の仕事をしてきて思ったこと、気づいたことがあります。、営業の仕事というのは、いかにも営業という感じの人と営業みたいでない人では、営業みたいでない人の方が成果を出している場合もあり、営業みたいな人が成果を出すとは限らないということ。 又、実際に営業の仕事をして、それで、自分は営業の仕事に向いていると思ったという人は良いのですが、そうではなく、実際に営業の仕事をやりもしないで、自分は営業に向いていると思っている人というのがいるのですが、そういう人が実績を出すかというとそうでもなく、それは勝手に思い込んでいるだけでしかないということです。 それで、「元大工」の「工事責任者」をやって、「ぼく、営業やったことないですけど、営業できます」と勝手に言っている男というのも、それは勝手に思い込んでいるだけでしかない。 「ぼく、営業できますから」と言うなら、一度、今の会社をやめて、純粋な営業としてどこか他の今までと縁のない所で雇ってもらって、それで、「営業」をやってみ。 それで、全国一とかの成績でなくてもいいから、人並みくらい・平均くらいの成績でもある程度の期間残して、それから言いなさい。そういうことになります。
〔 最近、大工というに値するレベルでないのに大工だと主張する人が少なからずいるというのですが、実際、筋交い(すじかい)の入れ方もわかっていない男が「ぼく、元大工ですから」と口にしても、「ああ、そうですか」と言ってあげるしかないですね。〕
縁故入社の機嫌をとるために、人を嵌めて縁故入社が使う物の経費を出させて、それが「営業」であり、そういうことをする能力が「営業力」だなどと思っているような男は、お客様(見込客・契約客)にも、同様のことをするでしょう。 私は、そういうものを「営業力」とは認めないし、「営業」とはそういうものではなく、そういうもの「営業力」とはを言いません。 お客様も認めないでしょう。 だから、タヌキが風邪をひいたような愛嬌のある風貌をしているにもかかわらず、お客様の評判が悪いのです。そして、それをまったく考えないということは、「営業力がない」ということで、そうであるにもかかわらず、「ぼく、営業やったことないですけど、営業で来ますから」と胸張って言っているようでは、気づく希望は乏しいということです。
(2011.10.4.)
お客様(この場合、見込客・契約客の両方を指します)に対して、「押さば引け、引かば押せ」という対応をする人がいるのです。 それでは、何でも要求しまくる人、我儘放題の人には何でも言う事を聞き、安い価格で仕事をし、こちらの事情を理解して協力してくれる人には、いいかげんな仕事をする、高い金額を要求する、ということになり、そういうことをしていたのでは、最初は協力してくれていた人からも、そのうち、協力してもらえなくなり、そのうち収集つかなくなっていくでしょう。 そうではなく、「あえて言うならば『押さば押せ、引かば引け』」という姿勢であるべきです。「あえて言うならば」とついているのは、住宅建築請負業の場合、契約の際に金額交渉の話が出ても、ビジネスである以上、おかしなことではないし、「これくらいサービスでやってもらえないですか」といった話もでておかしなことではないと思いますが、一方で、施主と建築屋は、良い工事をおこなうためのパートナー・協力者でもあるので、常に《「押さば押せ、引かば引け」であるか「押さば引け、引かば押せ」か》という思考を続ける必要はなく、「あえて言うならば『押さば押せ、引かば引け』」という姿勢ということで良いと私は思っています。
最終学校を卒業して入社したばかりの新人で「押さば引け、引かば押せ」という態度を取ってしまう人が時々いるのは、ひとつには、三波春夫とレツゴー三匹という自分が営業の仕事で実績を残したわけでもないくせに「お客様は神様です」という文句を流行らせて、それが営業の心がけみたいに世間に思わせてしまった人間がいるからということがあると思います。《「お客様は神様です」からお客様の言われることは何でもきかなければならない》と考えてしまうと、その結果として、何でも要求しまくる人の言う事は聞き、業者の立場を理解して協力してくれる人には甘えまくるという結果となってしまうのです。それは営業としてはしろうとのやることだと思います。
(もっとも、《ウィキペディア―三波春夫》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B3%A2%E6%98%A5%E5%A4%AB、あるいは、《三波春夫オフィシャルサイト――「お客様は神様です」について》http://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html を見ると、「お客様は神さです」という文句は三波春夫が考えていたこととは違った意味で広まってしまったという話ですが。)
※三波春夫については、
《ウィキペディア―三波春夫》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B3%A2%E6%98%A5%E5%A4%AB
《三波春夫オフィシャルサイト――「お客様は神様です」について》http://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html
※レツゴー三匹については、
《ウィキペディア――レツゴー三匹》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%84%E3%82%B4%E3%83%BC%E4%B8%89%E5%8C%B9#.E5.A4.96.E9.83.A8.E3.83.AA.E3.83.B3.E3.82.AF 他参照。
在来木造の某社に在籍した時、工事担当者から、私の担当のお客様はいい人が多いから助かると言われたことがありましたが、それは、1.良好な人間関係を構築して、その中から契約していただくという姿勢を取ってきたので、たとえ、ミスがあっても、ひとつだけで、完全に信頼関係が失われるというものでもない、2.住宅建築においては施主と建築屋は、住居というひとつの作品を作るための協力者であるという姿勢をとっていただくようにしてきたことから、何か問題点が出ても、どうするべきか一緒に考えていただける、3.そして、「押さば引け、引かば押せ」というような対応はしてきていないので、「何でも要求しまくればきいてもらえる」という認識の方はいない、そして、「黙っていれば無茶苦茶されてしまうというようなことはない」、「特に気をつけて要求しなくても、ある程度以上のことはきっちりとやってもらえる」という信頼感を持ってもらえている、少なくとも、持ってもらえる方向で努力してきている、ということがあったからだと思います。 某社を退職する少し前、本社から、顧客管理台帳の右下だったかに、A・B・Cであったか、A・B・C・Dであったか、契約客について、「うるさい人」「難しい人」か、「寛容な人」「理解のある人」かのしるしをつけるように指示してきたことがあって、それにより、「うるさい人」「難しい人」には、工事をきっちりとやるようにして、問題発生を防ぐというようなことを言ってきたことがありましたが、私は、それは、根本的に、考え方を間違えていると思いました。そういうことをやったのでは、理解のある方も、そのうち、理解してもらえなくなってしまいます。 業者の立場を考えて協力していると、この人は気をつけなくても大丈夫な人だと決めつけられてしまって、いいかげんな工事をされてしまうというのでは無茶苦茶です。いったい、誰がそんなおかしなことを言いだしたのか、と思ったのですが、そのすぐ後で退職してしまったので、その後、その点について、某社でどうしているかはわかりません。
この「『押さば引け、引かば押せ』というような態度ではいけない」という認識は、営業がお客様(見込客・契約客)に対しての姿勢としてだけでなく、一般の人間関係においてもいえることです。「押さば引け、引かば押せ」というような態度を取っていたのでは、そのうち、譲ってくれていた相手も譲らなくなります。 ところが、「◇◇さんだったら大丈夫だ」などと人を馬鹿にしたようなことを言って「押さば引け、引かば押せ」という態度を取る人がいるのです。私はそういう人間を軽蔑しますし、「営業力のない奴」と見ますが、そういう人が現実にいるのです。
もうひとつ、「◇◇さんだったら大丈夫だ」などと、人をフヌケのように決めつける人というのは、その際に、十分に相手を見ているのかという問題もあります。 平均的な人間なら、10のうち2か3譲ってくれるがそれ以上は無理なところを、大変寛容で、10のうち5くらい譲ってくれる人がいたとして、5まで譲ってくれるんだから、この人は何でも譲る人間だ、と勝手に決めつけるような者がいます。 私は、そういう思考をする人間というのは、アホ!と思っているのですが、アホ!は、日本の会社にはけっこういるようで、私の勤め先にもいます。
野球とゴルフのたとえをするとオッサンだと思うのですが、あえて、野球のたとえを出します。プロ野球のシーズン中の試合において、監督の求めに応じて、少々、無理をきいた選手がいたとします。選手の方では、自分はチームのために無理をきいたのだから、その分を査定・契約の際には、百パーセント納得がいくかどうかはさておき、ある程度考慮してもらえるだろう、と考えます。ところが、査定、契約に際して、この選手は言う事をきく人間だから、査定・契約においても、何でもきくだろうなどと考えて、無理をきかなかった選手よりも低い扱いにされたとしたらどうでしょうか。ふざけるな!ということになりますね。
別に、野球選手でなくても、一般の職場においても、会社の為にと思って、無理をきき、我慢もしてきたからには、その分は、理解してもらえているだろうと考えていると、そうではなく、この人は何でも言う事をきいてくれる人だから、無理をきかない人間よりも給料だって安くていいんだ、それ以外も何でもきく人間だとかいうようなことを思われるようであれば、もう、無理をきいたり、我慢したりもしなくなる、というより、できなくなりますね。 そうならないようにするのが経営者の仕事であると私は思うのですが、そうなるようにする人というのがいるのです。
平均的な人なら2か3までしか譲らないものを5くらいまで譲ってくれる人に・・というケースもありますが、もうひとつ、「徹底的に争わないといけない問題を争うことができるように、譲れるものは徹底的にゆずっておこう」という姿勢をとっている場合というのがあります。私は、そういう姿勢をとっている人は評価できる人であると思っていますし、そういう人は、「何でも言う事をきいてくれるフヌケ」とは、まったく異なる人であると思っています。これは、当たり前と言えば当たり前のことですが、これを、まったくわかっていないという人が現実にいるのです。
ルドルフ=フォン=イェーリングが『“RECHT”(権利=法)のための闘争』という本を書いています。日本では、『権利のための闘争』という翻訳名で出版されていますが(岩波文庫他)、『権利のための闘争』と表現してしまうと、趣旨を誤解されてしまうおそれがあります。 イェーリングは、イマヌエル=カントが『純粋理性批判』(岩波文庫他)で述べた「自ら(みずから)虫けらとなる者は、後で踏みつけられても文句は言えない」という言葉を引き、決して譲ってはならない権利をどぶに捨てるような者は、精神の入れ替えが必要であるが、そこまでめんどうみることはできないとし、そして、
1.権利である以上はどのようなものでも主張するべきだと言っているのではなく、譲っても良い場合と決して譲ってはならない場合というのがあり、金額として見て高額のものでも譲って良い場合もあれば、人間としての尊厳にかかわるような問題においては金額として見ては高額でなくても譲るわけにはいかない場合がある。たとえば、自分のものを人が権利を主張して持っていこうとしたとしても、その人がその人のものであると誤解して持っていこうとする場合と、こちらのものであると認識しながらこちらの権利を侵害することを意図して持っていこうとする場合では意味が違う、相当に高額の損失であっても譲って良い場合もあり、逆に、金額としてはわずかのものについて、それより大きな費用をかけて争わなければならない場合もある、
2.自分にとってだけではなく、その権利は社会おおやけにとって、守られなければならないというような権利は法であり、そのような権利(=法)を主張するのは、権利であるだけではなく義務でもある、誰にとっても守られなければならない権利を主張せずにいる者は、国民にとっての義務を怠っているのである、
ということを言っているのです。
在来木造の某社にいた時、ある営業所で、「あんた、一見、何でも言うことききそうに見えるだろ。それで、実際にはそうじゃないだろ。だから、何でも言う事をききそうだと思った人間が、そのギャップにびっくりするんだ。」と同じ営業所の人から言われたことがあったのです。 それで、そうかあ? そんなふうに見えるかあ? 人の言う事を何でもきくフヌケに見えるのか~あ??? と不思議に思ったのです。 私がイェーリングの『“RECHT”(権利=法)のための闘争』を読んだのは、20台の前半だったと思います。 『“RECHT”(権利=法)のための闘争』に述べられている内容は、もっともだと思ったけれども、しかし、特別のことが述べられているのではなく、当たり前のことを述べてあると思ったのですが、『“RECHT”(権利=法)のための闘争』に述べられている内容を当たり前だと認識しない人にとっては、なぜ、そのような権利を主張するのかという気持ちになるらしいということも気づきました。イェーリングは『“RECHT”(権利=法)のための闘争』において、人間として譲ってはならない権利(=法)を守るために闘うのは権利であるだけでなく義務であるとイェーリングは主張しているのですが、同時に、何でも闘えと言っているのではなく、何でも主張するべきだと言っているのでもなく、決して譲ってはならない権利(=法)を守るためには、譲ることができるものについては、無駄に闘わない、ということも言っているのです。私は、この点についてももっともなことだと思い、そして、それも、イェーリングが特別にものすごいことを言っているのではなく、当たり前といえば当たり前のことを言っていると理解し、その方針で実行してきたつもりなのです。 ところが、どうも、世の中には、人間として国民として決して譲ってはならない権利(=法)を主張できるように、細かい問題、性質として重要でない問題について譲っていると、「何でも言う事をききそう」と誤解する人というのがいるらしいのです。 そういう、私からすると、「そんなこと思うかあ~あ?」というようなことを思う人が世の中にはいるらしい、ということに気づいたものの、それで、対応を変えるかというと変えませんでした。 むしろ、そこで、人の反応を見るようにしたのです。 細かい問題について譲っていると、「何でも言う事をききそう」などと思いこむバカか、それとも、イェーリングが『“RECHT”(権利=法)のための闘争』において述べているような認識をきっちりと持っている人であるか、ということを見るようにしたのです。
千葉市中央区の私が勤めている会社において、社長代理のような立場でいる男が、私に「○○さんのような『言うことをきいてくれる人』に先にきいてもらって、それから他の社員にも、『○○さんもこのように承諾しているんだから』ということで承諾させようと思っているんです」などと言ってきたことがあったので、「どういうことですか? 私、言うことをきく人間てどういうことですか?」と言ったのですが、「そうじゃないですか。○○さんは言うことをきいてくれる人間じゃないですか。」と断固として言うので、「どうしてですか?」と何度も言ったのですが、いくら言っても理解しないので、この男はアホや!と思い、処置なし!とも思ったのです。
『ビッグコミック』という小学館から月2回発行されている漫画雑誌に佐藤 優(さとう まさる)という鈴木宗男と親密であったことから失職した外交官の話が連載されています。 その中で、ロシア連邦(旧・ソビエト連邦)の政治家ブルブリスという男が「私はバカは嫌いだ」という言葉を口にすることがよくあると出ています。「クレムリンで権力を掌握した黒幕は誰なのですか?」と尋ねる憂木マモル(佐藤優氏がモデルらしい)に「マモル。私はバカは嫌いだと言ってるだろう。」とブルブリス氏が述べる場面があります。そのくらい自分で考えろ、これだけ考える条件がそろえば自分でわかるだろう、という意味で言ったようです。 ブルブリス氏とは意味は同じではないかもしれませんが、イェーリングが『“RECHT”(権利=法)のための闘争』において述べているような意味で、本当に争わなければならないことを争えるように細かいことについて譲っていると、この人は何でもきいてくれる人間だと思ってしまうような男を見ると、「私はバカは嫌いだ」と言いたくなります。 さらに、こういうことを言うと、さらにダメ押しで、「言わなきゃわからないじゃ~ん」などとまで言うバカまで出てくることがあり、もう一回「私はバカは嫌いだ」と言わなければならない事態になると、もううんざりしてしまうのです。
こういう問題について、「噛んで含めてのどの奥まで押し込んだ上で、さらに、ケツの穴から手をつっこんで下からも引っ張る」くらいのことまでして、それでも理解できないような人間を見ると、実際のところ、つきあうのが嫌になってくるのですが、一般の人間関係においては、こういうアホとはつきあわないようにしようということもできるのですが、職場においては逃げられないという問題があるのです。(ケツの穴に手をつっこむ、なんて肛門科の医者でもないのにやりたくないし。)
又、『憂国のラスプーチン』には、もうひとつ、「永田町用語」というのがいくつか載っていて、そのひとつに、議員が言う文句で「他の先生を大事にしてください」というものがあり、それは、「おまえ、俺を軽く見ているな。覚えておけよ。」という意味らしいのですが、これなどは、永田町に限ったことではなく、会社においても、婉曲な表現・遠回しの表現を使って「おまえ、俺を軽く見ているな。覚えておけよ。」ということを言う場合というのはあると思います。ただ、永田町用語の場合、役人はそれを理解するらしいのですが、私などが勤める会社においては、婉曲な表現・遠回しの表現で言っても、言われたことを理解できない人が少なからずいるので、そうなると、言ってもしかたがないか、と思ったりもしますし、「バカは嫌いだ」とも思うようになります。
※佐藤 優(さとう まさる)氏については、
「ウィキペディア――佐藤優(外交官)」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%84%AA_(%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98) 他参照。
この会社では、会社の仕事で使用する備品・消耗品を購入すると、購入した人間が月末まで立て替えないといけないことになっていたのです。それまでに領収証をなくしてしまうと個人負担になってしまいますし、実際、私は領収証をなくしてしまって個人で支払うことになってしまったものがあります。領収証をなくしてしまうといったことがなくても、1か月ほど立て替えるというのは、高くない給料の従業員にとってはきついのですが、それまで、私たちが「なんとかならないですか」といっても「ならないです。業者はもっと長く立て替えてます」というようなことを言ってきたのです。(請負契約の業者と雇用契約・労働契約の従業員とは立場が違うということくらいは理解するべきです。) ところが、 社長の嫁さんの縁故入社で入ってきた新入女性社員が、カラ―上質紙を使いたいと言い、1か月建て替えるのは嫌だからすぐに出してほしいと「社長代理」に言いだしたところ、それまで、私などが「なんとかならないですか」と言っても「なんともならないです」と言っていた男が、縁故入社が言いだすと、突然、「なんとかします」と言いだしたのです。 はあ~あ? 何、それ?!?><@¥&!と思っていると、私に「○○さん、カインズホームに行って、△△買ってきてもらえますか。」と言うので、縁故入社が言うと、すぐに会社で出すようにするのか、これなら、これからは、全員で使うような者は、何であれ、縁故入社の人間に言わすようにすればよいのだな、はさみと縁故入社は使いようということか・・・・と思って買ってきて、代金を請求すると、「お金、ありません。出しておいてください。」などと言うので、「どういうことですか。」と言っても、「お金ありませんから。 ○○さんが出してください。」などと言いだした。要するに、縁故入社の機嫌を取る為に、縁故入社が使う物を買うのに、縁故入社に立て替えさせずに私に出させようとしたということのようでした。「ケンカ売ってるんですか」と言っても、「そんなこと言っても、お金ありませんから」と言い、「私だってないんですよ。」と言っても、「そんなこと言っても、ぼく、お金ないですもん。○○さんが出して下さい。」と言ったのです。「ケンカ売ってるんですか」とまで言われても、それでもわからないというのは、もはや、噛んで含めてのどの奥まで押し込んで、さらに、ケツの穴に手を入れて下からも引っ張るような言い方をしているのであり、そこまで言っても理解できないということは、もはや、口で言ったのではわからないということで、法的手段をとるか、もしくは、首根っこつかまえて、首をへし折られたくなければ、今すぐ出しやがれと言うかするしかないということになります。 そして、法的手段を取るといっても、弁護士に頼んだのでは弁護士の手数料の方が高いし、人権擁護委員に言うと「そうですかあ~あ。困りましたねえ~え。まあ、人権擁護委員というのは、何の権限もないので何もできないんですよ。なんとかなったらいいのですけどねえ~え。」と言うだけで終わりですし、労基署に言っても、労基署というのは、実質的には、企業の労働基準法違反を取り締まっているふりをしながら実際には取り締まらないことによって企業の労基法違反を守っているところという性質があり、さらに、実際に千葉労基署に言っても、「経費は労基署は関係ないですね」と言って、会社の経費ちょろまかしを守ろうとするのです。(会社の経費を立て替えた分を支払わないということは、その分だけ、賃金を支払っていないということと同じであり、労基署は関係ないなどという詭弁は通じないはずで、そのような詭弁を弄して会社のちょろまかしを守ろうとする千葉労働基準監督署は労働者の敵と言わざるをえません。)
在来木造の某社にいた時、住宅展示場で、土曜・日曜と祝日のみ、住宅展示場の入り口に受付として女性のアルバイトを雇っていました。福島県の いわき市の営業所にいた時、私が在籍した住宅展示場では、その総合住宅展示場には、同社の展示場が2つありました。正社員の場合は、給料は月末払いでしたが、受付のアルバイトの人には、1日ごとにその日の終わりに支払うようにしていました。私がいた展示場と同じ総合住宅展示場内のもうひとつの展示場には、その時、近くの大学の大学生であった別の場所の展示場に勤務している営業職従業員の嫁さんの妹とその友達が来ていました。 アルバイト代は、各展示場の営業職従業員の担当者が、営業所長がいる展示場の経費担当者から、あらかじめ預かっておいて、当日の終わりに支払うことになっていました。ところが、私がいた展示場では私がその担当になっていて、経費担当から忘れずにアルバイト代を預かるようにしていたのですが、同じ総合住宅展示場に出展していいたもうひとつの展示場の担当者はアルバイト代を預かるのを忘れることが多く、アルバイトの人が来た日の終わりにアルバイト代を渡す時になっても、「もらってきてないわ。来週じゃだめ?」などと言いだすことがあり、実質的に同じ場所に友だち同士でアルバイトに来ているのに片方にだけ渡して、もう片方の人に渡さないというわけにもいかないし、又、会社として、いつこれだけ支払いますと言ってアルバイトに来てもらった相手に、それをその日に渡さないというのは、会社の恥だと私は思い、それで、私が在籍していない方の展示場の担当者が「もらってきてないわ。来週じゃだめ?」などと言いだした時に、「それじゃ、私が立て替えておく」と言って支払うようにしました。そうやって、自分が負担を払ってでも会社の恥をさらさないように貢献するということに対して、会社はそれを認めてくれてよいはずと思っていましたが、残念ながら理解していたようではありません。その時に、その時、大学生であった別の展示場に勤務している営業職従業員の嫁さんの妹が、その日の終わりにアルバイト代を支払うと言って来てもらっておきながら支払う用意ができていない会社には首をかしげながら、私には「いいえ。○○さんに出していただくことはありません。」と言ったのです。それを聞いて、私は、この人は、家庭でそういう教育を受けてきた娘さんなんだな、きっちりとした家庭の人なんだな、と思いました。 私が顧客の立場である場合においても、ビジネスである以上、金額交渉の話が出てもは当たり前であり、そういう話はしますが、だからといって、営業担当者個人に出させようなどということは絶対にしません。又、自分が営業担当として見込客と接する場合においても、ビジネスである以上、金額交渉の話が出るのは不思議なことではなく、但し、会社によって、営業担当者に金額についての裁量権を相当に持たせている所と、ほとんど持たせていない所があり、又、きける話ときけない話があるということはありますが、会社に値引きやサービスをしてもらおうというのは、話としてありえても、営業担当者に出させようとするものではなく、営業担当者に出させようという人があった時には、そういうものではありませんよ、というメッセージを送るようにしていました。アルバイトの人の場合は、正社員とは立場が違うので、アルバイトの人がアルバイト代を受け取るべき時に受け取れないことがないように正社員が負担をかぶることがあっても、それは、負担をかぶらないといけないような会社に問題はあっても、アルバイトの人はもらって帰って悪くないのですが、別の場所の展示場に所属の営業担当者の嫁さんの妹の場合は、自分の義兄の同僚に個人として負担させるのは申し訳ないと思って言ってくれたのだと思いますが、そういう場面で、そう言える人というのは、きっちりとした家庭の人なんだなという印象を受けます。
それに対して、千葉市中央区の××ハウジングの社長の嫁さんの縁故入社の女性は、私が出すと言っていないし、私が出す理由はまったくないにもかかわらず、「社長代理」が私を嵌めて私に出させたので、本来のこの会社の今までのやり方であれば、その縁故入社が立て替えないといけないものを私に出させて平気でいたのです。 この縁故入社の人の場合は、いわき市の住宅展示場に来ていた女性とは違って、実際にはパートみたいな勤め方であったとしてもアルバイトではなく正社員として入社していたのですから、「○○さんに出していただくことはありません。」と言って自分が出すのが当然であるはずですが、それにもかかわらず、私に出させているのです。 それを見て、いわき市の展示場にアルバイトで来ていた大学生であった女性とは家庭が違うようだな、とも思い、この人は、あまりいい家庭で育っていないようだな、あまり良い教育を受けていない人だな、と思い、考えようによっては、かわいそうな人なんだな、と思いました。こういう人は、まず、お客様にも同様の態度を取るでしょうし、お客様からも、この人は、あまりいい家庭で育っていないようだな、あまり良い教育を受けていない人だな、と思われるでしょう。こういう時に、きっちりと、「○○さんに出してもらうことはありません」と言える人というのは、その分だけ「営業力がある人」であり、平気で出させているアホというのは、その分だけ「営業力がない」ということにもなります。縁故入社であるからということで、こういったことを認めていたのでは、会社の秩序を乱すことにもなり、又、そういう人を縁故入社で入れた人間というのは、それに対して責任がないという主張はできないはずです。
その「社長代理」のブタ男は、こういう陰湿なことをやって、それで「うまくやった」と思っているらしく、それで自分は「営業力がある」と思っているらしいのですが、それをされた方の側からすれば、「おまえ、覚えておけよ!」ということであり、ブタ男はわざわざ恨みを買っているのです。 私は、このブタ男とバカ女に正面からケンカを売られたと認識しており、こういう行為はそう簡単には忘れはしませんし、こういうものは金額の多寡にかかわらず許せるものではなく、イェーリングの『“RECHT”(権利=法)のための闘争』の考え方からしても、「許してはならないもの」です。 この男は顧客に対しても同様の態度・対応をして、それを「営業力」だと思っているのでしょうけれども、私が感じたのと同じく、お客様も、「覚えておれよ」という気持ちにならされていることでしょう。
営業を仕事としている人間でも、たとえば、在来木造の某社の私が過去に在籍したある営業所に、「一発で決めてやる」と、強打・KOを売り物にするボクサーみたいなことを矢鱈と言う人がいました。 有望見込客で、ワン・ツー・スリーくらいで「クロージング」をおこなえば、見込客の方でもそろそろ契約しようかなという気持ちになってもらえているので契約はまとまりやすいという時に、すでに見込客の方が契約しようかと思われているのに「クロージング」に入らない営業、すでにスリーを過ぎているのに「クロージング」に入らない営業もいれば、見込客が、十分検討しているけれどもまだもう少し考えさせてほしいと思っているのに「クロージング」に入る営業、ワンの段階で「クロージング」に入る営業もいました。 あまりにも早くに契約を迫る営業、「一発で決めてやる」と、なんだかボクシング漫画の登場人物みたいな文句を口にする人というのは、なぜ、そう急ぐのかというと、ひとつには、省エネというのか、労力をかけるのを極度に嫌う手間惜しみする人間であるからという場合もありますが、それよりも、初対面から始めのうちは好印象を与えるけれども、何回も会って、つきあいが長くなっていくと、化けの皮が剥がれて嫌われていくというタイプの人は、必要以上に早く契約を迫ろうとする傾向があるようです。 「社長代理」のブタ男も、この陰湿な性格をお客様にも見抜かれてしまうらしく、短期で契約して工事も短期ですんだような人はよいけれども、長くつきあった人には嫌われるという傾向があるようです。
このブタ男は、「ぼくなんか、営業やったことないですけど、それでも、営業できてますから」などとヌケヌケと口にしたことがあるのです。 「おまえ、ふてぶてしい奴だなあ」と私は思いました。「営業できて」ないでしょ。あつかましい、ふてぶてしい。 それで、できているというのかい? こういう殺されても死なないような無神経な男、こういうふてぶてしいブタ男は、一回、生実池(おゆみいけ)にでも叩きこんでやるかしないと感じないのではないか。
※生実池(おゆみいけ)については、
「マピオン電話帳―生実池(おゆみいけ)」http://www.mapion.co.jp/phonebook/M12010/12101/L0323340/ 他参照。
↑生実池(おゆみいけ) 千葉市中央区生実町(おゆみちょう)
〔 放射線量 生実池 道路脇 土の部分の上 高さ約1m
2011.11.3.午前11時30分頃
γ線量:0.13μ㏜(マイクロシーベルト)/時
β線粒子束密度:0.000 particle ㎠/min
測定使用機器: ウクライナ ECOTEST社製 TERRA-P+ 〕
今まで、勤めてきた会社で、営業の仕事につく人を見、又、自分が営業の仕事をしてきて思ったこと、気づいたことがあります。、営業の仕事というのは、いかにも営業という感じの人と営業みたいでない人では、営業みたいでない人の方が成果を出している場合もあり、営業みたいな人が成果を出すとは限らないということ。 又、実際に営業の仕事をして、それで、自分は営業の仕事に向いていると思ったという人は良いのですが、そうではなく、実際に営業の仕事をやりもしないで、自分は営業に向いていると思っている人というのがいるのですが、そういう人が実績を出すかというとそうでもなく、それは勝手に思い込んでいるだけでしかないということです。 それで、「元大工」の「工事責任者」をやって、「ぼく、営業やったことないですけど、営業できます」と勝手に言っている男というのも、それは勝手に思い込んでいるだけでしかない。 「ぼく、営業できますから」と言うなら、一度、今の会社をやめて、純粋な営業としてどこか他の今までと縁のない所で雇ってもらって、それで、「営業」をやってみ。 それで、全国一とかの成績でなくてもいいから、人並みくらい・平均くらいの成績でもある程度の期間残して、それから言いなさい。そういうことになります。
〔 最近、大工というに値するレベルでないのに大工だと主張する人が少なからずいるというのですが、実際、筋交い(すじかい)の入れ方もわかっていない男が「ぼく、元大工ですから」と口にしても、「ああ、そうですか」と言ってあげるしかないですね。〕
縁故入社の機嫌をとるために、人を嵌めて縁故入社が使う物の経費を出させて、それが「営業」であり、そういうことをする能力が「営業力」だなどと思っているような男は、お客様(見込客・契約客)にも、同様のことをするでしょう。 私は、そういうものを「営業力」とは認めないし、「営業」とはそういうものではなく、そういうもの「営業力」とはを言いません。 お客様も認めないでしょう。 だから、タヌキが風邪をひいたような愛嬌のある風貌をしているにもかかわらず、お客様の評判が悪いのです。そして、それをまったく考えないということは、「営業力がない」ということで、そうであるにもかかわらず、「ぼく、営業やったことないですけど、営業で来ますから」と胸張って言っているようでは、気づく希望は乏しいということです。
(2011.10.4.)
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