剣術・絵画・杜氏・営業に共通 ―― 技が見えるのは努力・精進した者にのみ~営業と会社の話(23)
〔第92回〕
雁屋 哲 作・花咲 アキラ 画の『美味しんぼ(おいしんぼ)』に、日本酒 と 杜氏(とうじ)の話がありました。 『美味しんぼ 〔酔うぞ~! とことん酒編〕』(2000.6.30.小学館 My First BIG)に掲載されている「第3話 杜氏と水」という話です。 路上で、去ろうとする男にすがりついて止めようとしている男がいた。 去ろうとしていたのは長く日本酒造りを経験してきたベテランの杜氏(とうじ)・喜山さんで、すがりついていたのは『江戸一番』という酒造会社の専務で社長の弟の均野法二さん。 日本酒造りには腕の良い杜氏が必要で、喜山さんは、Q県の「七ツ里」という酒で有名な酒蔵の杜氏であったが、酒造りは手作業で、いい酒を造るには量の限界があるが、その限界を超えてまで造れという蔵主さんと、いい酒しか造りたくないという杜氏の喜山さんの間がまずくなって、喜山さんが「七ツ里」をやめた。 『江戸一番』は都内で日本酒造りをしていたが、うまい酒を造れずにいたが、喜山さんが「七ツ里」をやめたことを聞き、必死にくどいて『江戸一番』の杜氏になってもらうことを承諾してもらったが、専務の均野法二さんが、Q県まで杜氏の喜山さんを迎えに行き、一緒に電車に乗って東京まで来て、上野駅で降り、近くの喫茶店に入っていたところ、喜山さんが怒りだして帰ろうとした。専務の均野法二さんは何を怒っているのかさっぱりわからず、なぜ、帰ろうとするのかもわからなかった。 山岡と栗田さんと中松警部が話を聞き、中松警部と均野法二さんは、なぜ、怒ったのかわからないが、山岡は「なに言ってんの。それじゃ杜氏さんが怒るの当たり前さ。」と言い、栗田さんも、「私も分かったわ。 どうして喜山さんが怒ったか!」と言う。
専務の均野法二さんは、電車の中で弁当とお茶を買うが、そのお茶はプラスチックの容器にティーパックを入れて熱いお湯を注ぐもので、「まるでローソクみてえな匂いじゃねえかっ!」(中松)、「熱湯を注ぐことでプラスチックの容器が溶けだしたとしか考えられないわ!」(栗田)、「匂いも味も絶望的だし、体にだって悪いに決まっている。」(山岡)というものだった。 喫茶店で均野法二さんが飲んだ水は「ぶわっ!こらダメだ、水道の水だ! 消毒の臭いに加えてカビ臭いぜっ!」(中松)、「東京のビルの水は、水道の水をいったんタンクにためてビルの内部に給水する・・・ そのタンクの清掃が充分でないと、こんな匂いがする。」(山岡)というもので、その「ローソクみてえな匂い」のお茶・「消毒の匂いに加えてカビ臭い」水を専務の均野法二さんがおいしそうに飲んだことから、「日本酒造りに一番大事なのは、水でしょう? それなのに、かんじんの経営者が水の味に鈍感だとしたら、よいお酒を造ることができるでしょうか?」(栗田)と杜氏の喜山さんは思い、さらに、専務の均野法二が電車中で煙草を吸ったことを見て、「均野さんは、煙草もお吸いになる。 それは舌も鼻もダメになっていることの証拠です。」(栗田)と杜氏の喜山さんは判断し、「口はばったいようですが、水の味も分かって頂けない蔵主さんではとても・・・・」と思うようになって、『江戸一番』に勤めるのはやめようと考えた。
それで、このお話は、経理と販売が専門の専務の均野法二さんと違って、「舌も鼻もすごい」兄の社長が登場して、水を判断して見せて、「こんな味の分かる蔵主さんの下でなら、ぜひ働かせて頂きたいです!」といつものごとくハッピーエンドで終わるという話ですが、 杜氏の喜山さんが「水の味も分かって頂けない蔵主さんではとても・・・」と考えて去ろうとしたことについて、「なるほどな、それじゃ杜氏さんはやる気がなくなるよなあ。」(中松)と、この漫画の登場人物も考え、そして、読者も多くの人もそう考えると思うのですが、杜氏といった専門職・専門性が高い「職人」などでない職種の人間が同様の態度を取ると、即ち、「ベンチがアホやから野球ができん。」と言うかどうかはともかく、そう判断して退職すると、それを理解してもらえずに、「わがままだ」とか、「がまんが足らない」とか言われてしまう場合があるように思うのです。 江本孟紀氏が阪神タイガースを辞めたのは、監督らの采配が不満で「ベンチがアホやから野球ができん」と言って辞めたと思われているようですが、実際は、そうではなく、交代の時に、ベンチの方にグローブを投げるということはしたけれども、そのくらいはそれまでもやったことはあって、引きあげてロッカールームに行った時に、ボソッと「アホめが」とつぶやいたというだけで、監督の中西に面と向かって言ったわけでもなく、何人もの記者を前にしての記者会見のような場で誰のことについて言っているのか明らかにした上で「アホめが」と言ったわけでもなく、ロッカールームで「アホめが」とつぶやいたのも誰のことを言ったかも言っていないらしく、江本はそれまでから監督らの対応を良いと思っていなかったけれども、辞めようという気になったのは、実際にその対象の相手に向かって「ベンチがアホやから野球ができん」と言ったのでもなく、記者会見のような場で正式に言ったのでもなく、「アホめが」とつぶやいたのも誰のことを言っているか明らかにしてつぶやいたのでもないのに、新聞が「ベンチがアホやから野球ができん」と書いたことから、球団が、事実関係を本人に確かめもせずに「謹慎10日間」を言い渡したことから辞めたらしいのですが、後に江本氏自身が「歴史的名文句」と言ったように、「ベンチがアホやから野球ができん」という気持ちになる人間は、それを口にするかどうかは別として、日本の会社員には少なくなかったのではないでしょうか。 中小企業の役員をしていた私の父などは、江本氏について「甘ったれとるからじゃ!」とか言い、それに対して、「サラリーマンのかがみ・鹿取」について、「えらい! そういうもんじゃ。」とか言っていましたが、鹿取という人が、どんなに疲れている時でも、他の投手ではなく自分に登板の指名をしてもらうことを喜んだというのは、鹿取自身に質問したところ、「(雨が降りそうな日に登板すると手抜きをすると言われた江川のような)そういうことを、(テスト入団の)僕がやったとして、通じたと思う?」と言ったといい、鹿取としては、疲れていても仕事をしろと言われることを喜んだのではなく、他の投手を指名せずに自分を指名してくれたことを喜んだ、どんなに疲れていても仕事を他の者にまわしてほしくないということで喜んだ、自分の仕事を他の者に取られなかったということを喜んだということのようで、サラリーマンの発想ではなく、鹿取という人の発想は、どんなに忙しい時でも、他の業者に仕事をまわすのではなく自分の所に頼んでほしいという自営業の人の発想ではないかと思います。 そして、「ベンチがアホやから野球ができん」という気持ちに従業員がならないように配慮するのが管理者の仕事であると思います。
それで、あまりにも簡単に職場を変わると、その後の就職に際して、評価が下がってしまうおそれがあるので、「あまりにも簡単に」は変わらない方が良いとは思うのですが、そうは言っても、一般の会社員においても、、「口はばったいようですが、水の味も分かって頂けない蔵主さんではとても・・・・」という判断は「あり」ではないか、たとえば、営業のような仕事であっても、「この経営者では、早めにおつきあいはやめにした方がよいかもしれない」という判断はあると思うようになったのです。 特に、年齢も経験も若い時ではなく、ある程度以上の経験と実績のある者としては、「ベンチがアホやから」などと口に出して怒らせてもしかたがないし、言ってあげても理解できないような経営者では、黙って去った方がよいのかもしれないとも思うようになってきたのです。
池波正太郎の小説に『鬼平犯科帳』があり、漫画家の さいとう たかを が劇画にし、隔週刊の漫画誌「コミック乱」(リイド社)に連載しており、又、テレビドラマにもなったようです。 その中に、上杉さんという剣客の話があった。上杉さんは、父から剣術を習い、腕は相当のものであったが、世渡りがうまくなく貧乏生活をしていた。鬼平こと火つけ盗賊改め 長官の長谷川平蔵の息子・辰蔵が習いに行っていた剣術道場の道場主の年齢は下の兄弟子でもあった。 火つけ盗賊改めの士気高揚のためにもということで、上杉さんと辰蔵の師匠とでの模範試合を火盗改めの敷地で行った。 長谷川平蔵は、上杉さんの腕前に感心するが、息子の辰蔵は、平蔵に「しかし、上杉さんというのは、そんなにすごいのでしょうかねえ。」と言いだし、平蔵は「なんだと。 おまえは、あれを見てわからんのか。なんて、なさけない奴だ。あのすごさがわからんのか。」と言う場面がありました。
数年前、東京の六本木にある新国立美術館で「フェルメール展」が開催され、その際に、日本経済新聞に掲載されていた評論に、「絵画というものは、何人もが同じ絵を見ても、誰にでも同じものが見えるのではない。その人の能力で見えるものしか見えない。」と書かれていたのを見ました。
この3つと共通していえることに、営業の能力というものもあるのではないかと思ったのです。 私は、住宅建築請負業の業種の会社に長く勤務し、「営業」という職種で最も長く勤務してきました。 大学卒業後、最初に勤めた時から今に至るまでで20年以上、その間、前職を退職後、次の会社に勤務するまで無職であった期間や他の職種・他の業種に勤務していた期間を除いても20年近く勤務し、ある程度以上の実績を残してきました。 私がかつて在籍した在来木造の某社においては、「営業所長」になっている人が、各地域で数か所の営業所の営業所長を担当していて、新卒新人は各地の営業所長が在籍する営業所に配属するということをやっていました。 今もそうしているかどうかは知りません。 新人を営業所長が見ることができるようにということでだと聞きましたが、実際には、それはあまり意味がないのではないかと、見ていて思いました。 そうではなく、新人は「中くらいの人」につけた方がよいのではないか、そして、「中くらいの人」は、時として、新人をつけられて新人のめんどうをみてあげることで自分自身の力も向上させ、時には、全国上位10位以内くらいの人・営業所長になっている人と同じ営業所に配属してもらって、全国上位10位以内の人の動きぶりを見て、それを盗んで自分のものにするというようにした方がよいのではないか、新人は、スーパーマン的成績を残している人の仕事ぶりを見ても、どこがいいのかわからないのではないか、と思ったのです。又、「教えろ」と本社から言われても、全国上位10位以内くらいの人は、教え渋るとかいうことではなく、右も左もわからない新人に教えるのは疲れるだけで、「中くらいの人」で、「中くらい」から上に行きたいと努力しながら行けずにいるという人になら、教えてやってもいいよ、という場合はあるのではないかと思ったのです。
又、在来木造の某社に入社して東京営業所に配属された時、最初、東京では無名の会社で苦労したものですが、その不利な条件でも、ひとりだけ、けっこう売っていた男がいたのです。 彼が、なぜ、売れるのか、彼の接客などを壁の後ろで聞いたり、お茶を持って行った際に見たりもしましたが、どこが他の者と違うのか、なかなかわからなかった。 しかし、その後、配属が変わり他の営業所に行って、彼と別の場所である程度以上成績を残すようになって、ふと、「そう言えば・・・・」と彼の特徴に気づいたものがありました。 ある程度以上の力がついた者であってこそ、その人の能力・実力・技が見えるという場合があるように思います。
〔第62回〕《男性社員にゴキブリ処理をさせる方法、もしくは、「営業力のある女」と「ない女」~営業と会社の話(8) 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201109article_2.html で、在来木造の某社の山梨県で1位の成績を残していた女性の話を述べましたが、それなども、私は、その人を見て、このおばさん、すごいなあ、さすがに上位の成績を残すだけあるなあ、と感心しましたが、それなども、私と同じものを見ても気づかない人の方が多いと思います。 又、職場で、ゴキブリがいたということで、はた迷惑、営業妨害にも、「ギャアーあ」と大声でわめき、さらに追い打ちのように「これだけ、男どもがいるのだから、ゴキブリ退治は男どもにやってもらえばいいんだ。」などと言いだした女性を見て、この人は、社会人として問題があるとともに、他の職種ならまだしも、営業は厳しいな・・と私は思ったのですが、それなどにも、不快感を覚えても、「こんなことでは、この人は営業は厳しいな」と私と同じだけ気づくことのできない人もいるかもしません。 気づく人はそれ分だけ営業能力があるということで、気づかない人はその分だけ営業能力がないということです。
そして、さらに、千葉市中央区のSハウジングに勤めて、営業経験のない社長には、営業としての相当の技を目の前で見せてあげても理解できないのではないかと思う経験をしたのです。 又、だめだなあ~あ、とあきれるようなものを目の前で見ても見えないらしいなあ、という経験もしたのです。 「これはすごい」という技を目の前で見せても、さらに、それをかんで含めるように解説しても、理解できない人には理解できないのであり、教えてあげようなどとアホなことは思わない方がいいのではないか、と思うようになったのです。 そう思うと、営業もまた、杜氏と、この点で、変わらないのではないか、と思ったのです。
『聖書』の「福音書」には、
≪ わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 喜び喜べ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい、あなたがたより前の予言者たちも、同じように迫害されたのである。
あなたがたは、地の塩である。 もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。・・・・≫
(「新約聖書 マタイによる福音書」第5章11節―13節前半 日本聖書協会口語訳 『聖書』日本聖書協会) と書かれている。
宗教的な問題に限らず、見ても見えない人に評価されようとしても無駄であり、営業にしろ、それ以外の問題にしろ、杜氏の喜山さんと同じく、見れば見える経営者の会社を求めるようにするというのは「甘ったれている」とか「しんぼうが足らない」とかいう性質のものではなく、見えない人の前でいくら最高の技を見せても無駄と考えるべきかもしれないと思うようになった。
『聖書』のような崇高な本ではなく、もっと俗っぽい本の話も引用してみます。 週刊文春編集部編『女が嫌いな女』(文春新書)という本がででている。 私は、書店の棚にあったものをパラパラと見ただけでしかないが、確か、5位くらいに、小倉優子の名前があったが、著者は、小倉優子にとっては、女に好かれないと言われても、、もともと、当人は男に好かれることは考えていても女に好かれようとは最初から考えていないはずであり、「女に好かれない」というのは、小倉優子にとっては、むしろ、ほめられているようなものであり、・・・・と書いていた。 そうかもしれない。
それで、アホに評価されなかったとしても、それは、むしろ、ほめられているようなものであるかもしれない、と、この本をパラパラと書店で見て思ったのです。 長谷川平蔵は、剣豪の上杉さんと上杉さんの兄弟弟子である剣術師範の模範試合を見て、上杉さんの剣術をすごいと思ったけれども、まだ未熟な辰蔵は「そんなにすごいもんでしょうかねえ」としか思えなかった。 私がかつて在籍した在来木造の某社においては、営業所長などになっている人というのは、営業力もある人が多いけれども、同じ営業所になると、他の営業の担当の見込客を横取りしたりする人が多くて、嫌になることが多いという話もあったけれども、私は、途中から、たとえ、そういうことがあったとしても、全国上位10位以内というくらいの人と同じ営業所に配属してもらえれば、その人の技を盗めるのではないかと思い、そういう人と同じ営業所に配属されたいと思うようになった。 中途半端な人は「見込客を盗られるだけ」で嫌な思いをするだけかもしれないけれども。
『聖書』には、
≪ 聖なるものを犬にやるな。 また真珠を豚に投げてやるな。 恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついいてくるであろう。≫
(「新約聖書 マタイによる福音書」第7章第6節 日本聖書協会口語訳 『聖書』日本聖書協会) と書かれています。
これもまた、宗教上の問題だけでなく、営業の技についても、理解できる能力のある人、理解できるレベルの人でない人には、教えてあげても無駄。 「聖なるもの」とでもいうくらいの、自分の汗と涙と引き換えに身につけたようなものを、汗も流さず涙も流さずに、口先だけで「教えてくれてもいいでしょう」と言う人に教えようとしても無駄ではないか、営業経験もなく、「私は社長なんですよ」といえばアホにでも噛んで含めるように教えてもらえると思っているような人には、たとえ、噛んで含めても教えることはできない・・・・と思うようになりました。
そういう経営者は、トンチンカンな相手をありがたがることもあり、俗耳に入りやすい自分自身に経験のない社長が喜びそうなことをきかせてくれる 新興宗教系の団体・右翼系の団体あたりが開催するあまり骨にも身にもならない「セミナー」にはまる可能性が高い、ということでしょう。 そういう団体にはまってしまった人は、実際に経験のある人間・実際に苦労している人間の言うことをきかずに、経験もない者がが語る勝手な講釈をありがたがるようになる・・と私は最初は思っていたのですが、そうではなく、実際に経験のある人間・実際に苦労している人間の言うことをきかずに、経験も苦労もない者が語る勝手な講釈をありがたがるような人だから、そういう団体にはまる、という面もあるのかもしれないと思うようになりました。 どちらか、あるいは、両方なのか・・・・・。
だから、営業というのは、「基本的には、自分で考えるもの」であり、人から学ぶのも「基本的には、盗むもの」である、というのは正しい と思います。
杜氏ほどは専門的な職種とされていないので、職場のよりごのみはなかなか評価されないかもしれませんが、それでも、杜氏と同じく、目の前の営業の技を見える経営者の所にできる限り勤めよう、というのは、決して「甘ったれている」とか「思いあがっている」とか「しんぼうがたらない」とかいうものとは別と思うようになりました。
(2012.4.20.)
『美味しんぼ』の「杜氏と水」の話では、杜氏の喜山さんは、山岡が、純米大吟醸酒「七ツ里」と「七ツ里」の水・「岡星」が使っている富士山の水・「美食倶楽部」で使っている京都鞍馬の水を、どれがどの水か知らされずに飲んでみて、「七ツ里」の水はどれか答えるという問題を「江戸一番」の社長に課し、「江戸一番」の社長が見事にあててみせたことから、「こんなに味の分かる蔵主さんの下でなら、ぜひ働かせて頂きたいです!」と喜山さんが言い、ハッピーエンドに終わるという話になっています。 『美味しんぼ』としては、良い日本酒を造るには良い水が必要だということ、日本酒は、それを造るのに使った水の味が影響すること、良い日本酒を造ろうと思ったら水について敏感でないといけないこと、又、煙草は舌や鼻をダメにするので良い日本酒を造ろうと思う者は精進してつつしむべきだということ、現在のビルの水道の水はいったんタンクにためて供給するのでカビ臭く消毒の匂いがする場合がある・・といった話を入れた上でお話を成り立たせるのが、いつものパターンであり、これらの話を入れることで成り立っている話で、これらの話を入れず、ハッピーエンドにしなければ、『美味しんぼ』の話としては困るのでしょうけれども、私が杜氏の喜山さんの立場なら、「ローソクみてえな匂い」のお茶・「消毒の臭いに加えてカビ臭い」水に平気で、舌や鼻をダメにする煙草も気にしない人間だと、自分をその会社から評価されたと判断した上で、もうこの会社とは縁のないものとしようといったん決めたならば、たとえ、社長の舌や鼻が弟の専務と違ってすごかったとしても、その後のつきたいはさておき、その時そこで勤務することは、くつがえさないし、くつがえして良い場合は少ないと思います。 専務の態度に絶望的な不満を持っても、それで辞めるかどうかの最終決定はまだしていないという段階であれば、社長の舌や花がすばらしいからと知ったことから、もう少し様子を見た上で判断しようと考えることはあると思いますが。 (2012.4.21.)
雁屋 哲 作・花咲 アキラ 画の『美味しんぼ(おいしんぼ)』に、日本酒 と 杜氏(とうじ)の話がありました。 『美味しんぼ 〔酔うぞ~! とことん酒編〕』(2000.6.30.小学館 My First BIG)に掲載されている「第3話 杜氏と水」という話です。 路上で、去ろうとする男にすがりついて止めようとしている男がいた。 去ろうとしていたのは長く日本酒造りを経験してきたベテランの杜氏(とうじ)・喜山さんで、すがりついていたのは『江戸一番』という酒造会社の専務で社長の弟の均野法二さん。 日本酒造りには腕の良い杜氏が必要で、喜山さんは、Q県の「七ツ里」という酒で有名な酒蔵の杜氏であったが、酒造りは手作業で、いい酒を造るには量の限界があるが、その限界を超えてまで造れという蔵主さんと、いい酒しか造りたくないという杜氏の喜山さんの間がまずくなって、喜山さんが「七ツ里」をやめた。 『江戸一番』は都内で日本酒造りをしていたが、うまい酒を造れずにいたが、喜山さんが「七ツ里」をやめたことを聞き、必死にくどいて『江戸一番』の杜氏になってもらうことを承諾してもらったが、専務の均野法二さんが、Q県まで杜氏の喜山さんを迎えに行き、一緒に電車に乗って東京まで来て、上野駅で降り、近くの喫茶店に入っていたところ、喜山さんが怒りだして帰ろうとした。専務の均野法二さんは何を怒っているのかさっぱりわからず、なぜ、帰ろうとするのかもわからなかった。 山岡と栗田さんと中松警部が話を聞き、中松警部と均野法二さんは、なぜ、怒ったのかわからないが、山岡は「なに言ってんの。それじゃ杜氏さんが怒るの当たり前さ。」と言い、栗田さんも、「私も分かったわ。 どうして喜山さんが怒ったか!」と言う。
専務の均野法二さんは、電車の中で弁当とお茶を買うが、そのお茶はプラスチックの容器にティーパックを入れて熱いお湯を注ぐもので、「まるでローソクみてえな匂いじゃねえかっ!」(中松)、「熱湯を注ぐことでプラスチックの容器が溶けだしたとしか考えられないわ!」(栗田)、「匂いも味も絶望的だし、体にだって悪いに決まっている。」(山岡)というものだった。 喫茶店で均野法二さんが飲んだ水は「ぶわっ!こらダメだ、水道の水だ! 消毒の臭いに加えてカビ臭いぜっ!」(中松)、「東京のビルの水は、水道の水をいったんタンクにためてビルの内部に給水する・・・ そのタンクの清掃が充分でないと、こんな匂いがする。」(山岡)というもので、その「ローソクみてえな匂い」のお茶・「消毒の匂いに加えてカビ臭い」水を専務の均野法二さんがおいしそうに飲んだことから、「日本酒造りに一番大事なのは、水でしょう? それなのに、かんじんの経営者が水の味に鈍感だとしたら、よいお酒を造ることができるでしょうか?」(栗田)と杜氏の喜山さんは思い、さらに、専務の均野法二が電車中で煙草を吸ったことを見て、「均野さんは、煙草もお吸いになる。 それは舌も鼻もダメになっていることの証拠です。」(栗田)と杜氏の喜山さんは判断し、「口はばったいようですが、水の味も分かって頂けない蔵主さんではとても・・・・」と思うようになって、『江戸一番』に勤めるのはやめようと考えた。
それで、このお話は、経理と販売が専門の専務の均野法二さんと違って、「舌も鼻もすごい」兄の社長が登場して、水を判断して見せて、「こんな味の分かる蔵主さんの下でなら、ぜひ働かせて頂きたいです!」といつものごとくハッピーエンドで終わるという話ですが、 杜氏の喜山さんが「水の味も分かって頂けない蔵主さんではとても・・・」と考えて去ろうとしたことについて、「なるほどな、それじゃ杜氏さんはやる気がなくなるよなあ。」(中松)と、この漫画の登場人物も考え、そして、読者も多くの人もそう考えると思うのですが、杜氏といった専門職・専門性が高い「職人」などでない職種の人間が同様の態度を取ると、即ち、「ベンチがアホやから野球ができん。」と言うかどうかはともかく、そう判断して退職すると、それを理解してもらえずに、「わがままだ」とか、「がまんが足らない」とか言われてしまう場合があるように思うのです。 江本孟紀氏が阪神タイガースを辞めたのは、監督らの采配が不満で「ベンチがアホやから野球ができん」と言って辞めたと思われているようですが、実際は、そうではなく、交代の時に、ベンチの方にグローブを投げるということはしたけれども、そのくらいはそれまでもやったことはあって、引きあげてロッカールームに行った時に、ボソッと「アホめが」とつぶやいたというだけで、監督の中西に面と向かって言ったわけでもなく、何人もの記者を前にしての記者会見のような場で誰のことについて言っているのか明らかにした上で「アホめが」と言ったわけでもなく、ロッカールームで「アホめが」とつぶやいたのも誰のことを言ったかも言っていないらしく、江本はそれまでから監督らの対応を良いと思っていなかったけれども、辞めようという気になったのは、実際にその対象の相手に向かって「ベンチがアホやから野球ができん」と言ったのでもなく、記者会見のような場で正式に言ったのでもなく、「アホめが」とつぶやいたのも誰のことを言っているか明らかにしてつぶやいたのでもないのに、新聞が「ベンチがアホやから野球ができん」と書いたことから、球団が、事実関係を本人に確かめもせずに「謹慎10日間」を言い渡したことから辞めたらしいのですが、後に江本氏自身が「歴史的名文句」と言ったように、「ベンチがアホやから野球ができん」という気持ちになる人間は、それを口にするかどうかは別として、日本の会社員には少なくなかったのではないでしょうか。 中小企業の役員をしていた私の父などは、江本氏について「甘ったれとるからじゃ!」とか言い、それに対して、「サラリーマンのかがみ・鹿取」について、「えらい! そういうもんじゃ。」とか言っていましたが、鹿取という人が、どんなに疲れている時でも、他の投手ではなく自分に登板の指名をしてもらうことを喜んだというのは、鹿取自身に質問したところ、「(雨が降りそうな日に登板すると手抜きをすると言われた江川のような)そういうことを、(テスト入団の)僕がやったとして、通じたと思う?」と言ったといい、鹿取としては、疲れていても仕事をしろと言われることを喜んだのではなく、他の投手を指名せずに自分を指名してくれたことを喜んだ、どんなに疲れていても仕事を他の者にまわしてほしくないということで喜んだ、自分の仕事を他の者に取られなかったということを喜んだということのようで、サラリーマンの発想ではなく、鹿取という人の発想は、どんなに忙しい時でも、他の業者に仕事をまわすのではなく自分の所に頼んでほしいという自営業の人の発想ではないかと思います。 そして、「ベンチがアホやから野球ができん」という気持ちに従業員がならないように配慮するのが管理者の仕事であると思います。
それで、あまりにも簡単に職場を変わると、その後の就職に際して、評価が下がってしまうおそれがあるので、「あまりにも簡単に」は変わらない方が良いとは思うのですが、そうは言っても、一般の会社員においても、、「口はばったいようですが、水の味も分かって頂けない蔵主さんではとても・・・・」という判断は「あり」ではないか、たとえば、営業のような仕事であっても、「この経営者では、早めにおつきあいはやめにした方がよいかもしれない」という判断はあると思うようになったのです。 特に、年齢も経験も若い時ではなく、ある程度以上の経験と実績のある者としては、「ベンチがアホやから」などと口に出して怒らせてもしかたがないし、言ってあげても理解できないような経営者では、黙って去った方がよいのかもしれないとも思うようになってきたのです。
池波正太郎の小説に『鬼平犯科帳』があり、漫画家の さいとう たかを が劇画にし、隔週刊の漫画誌「コミック乱」(リイド社)に連載しており、又、テレビドラマにもなったようです。 その中に、上杉さんという剣客の話があった。上杉さんは、父から剣術を習い、腕は相当のものであったが、世渡りがうまくなく貧乏生活をしていた。鬼平こと火つけ盗賊改め 長官の長谷川平蔵の息子・辰蔵が習いに行っていた剣術道場の道場主の年齢は下の兄弟子でもあった。 火つけ盗賊改めの士気高揚のためにもということで、上杉さんと辰蔵の師匠とでの模範試合を火盗改めの敷地で行った。 長谷川平蔵は、上杉さんの腕前に感心するが、息子の辰蔵は、平蔵に「しかし、上杉さんというのは、そんなにすごいのでしょうかねえ。」と言いだし、平蔵は「なんだと。 おまえは、あれを見てわからんのか。なんて、なさけない奴だ。あのすごさがわからんのか。」と言う場面がありました。
数年前、東京の六本木にある新国立美術館で「フェルメール展」が開催され、その際に、日本経済新聞に掲載されていた評論に、「絵画というものは、何人もが同じ絵を見ても、誰にでも同じものが見えるのではない。その人の能力で見えるものしか見えない。」と書かれていたのを見ました。
この3つと共通していえることに、営業の能力というものもあるのではないかと思ったのです。 私は、住宅建築請負業の業種の会社に長く勤務し、「営業」という職種で最も長く勤務してきました。 大学卒業後、最初に勤めた時から今に至るまでで20年以上、その間、前職を退職後、次の会社に勤務するまで無職であった期間や他の職種・他の業種に勤務していた期間を除いても20年近く勤務し、ある程度以上の実績を残してきました。 私がかつて在籍した在来木造の某社においては、「営業所長」になっている人が、各地域で数か所の営業所の営業所長を担当していて、新卒新人は各地の営業所長が在籍する営業所に配属するということをやっていました。 今もそうしているかどうかは知りません。 新人を営業所長が見ることができるようにということでだと聞きましたが、実際には、それはあまり意味がないのではないかと、見ていて思いました。 そうではなく、新人は「中くらいの人」につけた方がよいのではないか、そして、「中くらいの人」は、時として、新人をつけられて新人のめんどうをみてあげることで自分自身の力も向上させ、時には、全国上位10位以内くらいの人・営業所長になっている人と同じ営業所に配属してもらって、全国上位10位以内の人の動きぶりを見て、それを盗んで自分のものにするというようにした方がよいのではないか、新人は、スーパーマン的成績を残している人の仕事ぶりを見ても、どこがいいのかわからないのではないか、と思ったのです。又、「教えろ」と本社から言われても、全国上位10位以内くらいの人は、教え渋るとかいうことではなく、右も左もわからない新人に教えるのは疲れるだけで、「中くらいの人」で、「中くらい」から上に行きたいと努力しながら行けずにいるという人になら、教えてやってもいいよ、という場合はあるのではないかと思ったのです。
又、在来木造の某社に入社して東京営業所に配属された時、最初、東京では無名の会社で苦労したものですが、その不利な条件でも、ひとりだけ、けっこう売っていた男がいたのです。 彼が、なぜ、売れるのか、彼の接客などを壁の後ろで聞いたり、お茶を持って行った際に見たりもしましたが、どこが他の者と違うのか、なかなかわからなかった。 しかし、その後、配属が変わり他の営業所に行って、彼と別の場所である程度以上成績を残すようになって、ふと、「そう言えば・・・・」と彼の特徴に気づいたものがありました。 ある程度以上の力がついた者であってこそ、その人の能力・実力・技が見えるという場合があるように思います。
〔第62回〕《男性社員にゴキブリ処理をさせる方法、もしくは、「営業力のある女」と「ない女」~営業と会社の話(8) 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201109article_2.html で、在来木造の某社の山梨県で1位の成績を残していた女性の話を述べましたが、それなども、私は、その人を見て、このおばさん、すごいなあ、さすがに上位の成績を残すだけあるなあ、と感心しましたが、それなども、私と同じものを見ても気づかない人の方が多いと思います。 又、職場で、ゴキブリがいたということで、はた迷惑、営業妨害にも、「ギャアーあ」と大声でわめき、さらに追い打ちのように「これだけ、男どもがいるのだから、ゴキブリ退治は男どもにやってもらえばいいんだ。」などと言いだした女性を見て、この人は、社会人として問題があるとともに、他の職種ならまだしも、営業は厳しいな・・と私は思ったのですが、それなどにも、不快感を覚えても、「こんなことでは、この人は営業は厳しいな」と私と同じだけ気づくことのできない人もいるかもしません。 気づく人はそれ分だけ営業能力があるということで、気づかない人はその分だけ営業能力がないということです。
そして、さらに、千葉市中央区のSハウジングに勤めて、営業経験のない社長には、営業としての相当の技を目の前で見せてあげても理解できないのではないかと思う経験をしたのです。 又、だめだなあ~あ、とあきれるようなものを目の前で見ても見えないらしいなあ、という経験もしたのです。 「これはすごい」という技を目の前で見せても、さらに、それをかんで含めるように解説しても、理解できない人には理解できないのであり、教えてあげようなどとアホなことは思わない方がいいのではないか、と思うようになったのです。 そう思うと、営業もまた、杜氏と、この点で、変わらないのではないか、と思ったのです。
『聖書』の「福音書」には、
≪ わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 喜び喜べ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい、あなたがたより前の予言者たちも、同じように迫害されたのである。
あなたがたは、地の塩である。 もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。・・・・≫
(「新約聖書 マタイによる福音書」第5章11節―13節前半 日本聖書協会口語訳 『聖書』日本聖書協会) と書かれている。
宗教的な問題に限らず、見ても見えない人に評価されようとしても無駄であり、営業にしろ、それ以外の問題にしろ、杜氏の喜山さんと同じく、見れば見える経営者の会社を求めるようにするというのは「甘ったれている」とか「しんぼうが足らない」とかいう性質のものではなく、見えない人の前でいくら最高の技を見せても無駄と考えるべきかもしれないと思うようになった。
『聖書』のような崇高な本ではなく、もっと俗っぽい本の話も引用してみます。 週刊文春編集部編『女が嫌いな女』(文春新書)という本がででている。 私は、書店の棚にあったものをパラパラと見ただけでしかないが、確か、5位くらいに、小倉優子の名前があったが、著者は、小倉優子にとっては、女に好かれないと言われても、、もともと、当人は男に好かれることは考えていても女に好かれようとは最初から考えていないはずであり、「女に好かれない」というのは、小倉優子にとっては、むしろ、ほめられているようなものであり、・・・・と書いていた。 そうかもしれない。
それで、アホに評価されなかったとしても、それは、むしろ、ほめられているようなものであるかもしれない、と、この本をパラパラと書店で見て思ったのです。 長谷川平蔵は、剣豪の上杉さんと上杉さんの兄弟弟子である剣術師範の模範試合を見て、上杉さんの剣術をすごいと思ったけれども、まだ未熟な辰蔵は「そんなにすごいもんでしょうかねえ」としか思えなかった。 私がかつて在籍した在来木造の某社においては、営業所長などになっている人というのは、営業力もある人が多いけれども、同じ営業所になると、他の営業の担当の見込客を横取りしたりする人が多くて、嫌になることが多いという話もあったけれども、私は、途中から、たとえ、そういうことがあったとしても、全国上位10位以内というくらいの人と同じ営業所に配属してもらえれば、その人の技を盗めるのではないかと思い、そういう人と同じ営業所に配属されたいと思うようになった。 中途半端な人は「見込客を盗られるだけ」で嫌な思いをするだけかもしれないけれども。
『聖書』には、
≪ 聖なるものを犬にやるな。 また真珠を豚に投げてやるな。 恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついいてくるであろう。≫
(「新約聖書 マタイによる福音書」第7章第6節 日本聖書協会口語訳 『聖書』日本聖書協会) と書かれています。
これもまた、宗教上の問題だけでなく、営業の技についても、理解できる能力のある人、理解できるレベルの人でない人には、教えてあげても無駄。 「聖なるもの」とでもいうくらいの、自分の汗と涙と引き換えに身につけたようなものを、汗も流さず涙も流さずに、口先だけで「教えてくれてもいいでしょう」と言う人に教えようとしても無駄ではないか、営業経験もなく、「私は社長なんですよ」といえばアホにでも噛んで含めるように教えてもらえると思っているような人には、たとえ、噛んで含めても教えることはできない・・・・と思うようになりました。
そういう経営者は、トンチンカンな相手をありがたがることもあり、俗耳に入りやすい自分自身に経験のない社長が喜びそうなことをきかせてくれる 新興宗教系の団体・右翼系の団体あたりが開催するあまり骨にも身にもならない「セミナー」にはまる可能性が高い、ということでしょう。 そういう団体にはまってしまった人は、実際に経験のある人間・実際に苦労している人間の言うことをきかずに、経験もない者がが語る勝手な講釈をありがたがるようになる・・と私は最初は思っていたのですが、そうではなく、実際に経験のある人間・実際に苦労している人間の言うことをきかずに、経験も苦労もない者が語る勝手な講釈をありがたがるような人だから、そういう団体にはまる、という面もあるのかもしれないと思うようになりました。 どちらか、あるいは、両方なのか・・・・・。
だから、営業というのは、「基本的には、自分で考えるもの」であり、人から学ぶのも「基本的には、盗むもの」である、というのは正しい と思います。
杜氏ほどは専門的な職種とされていないので、職場のよりごのみはなかなか評価されないかもしれませんが、それでも、杜氏と同じく、目の前の営業の技を見える経営者の所にできる限り勤めよう、というのは、決して「甘ったれている」とか「思いあがっている」とか「しんぼうがたらない」とかいうものとは別と思うようになりました。
(2012.4.20.)
『美味しんぼ』の「杜氏と水」の話では、杜氏の喜山さんは、山岡が、純米大吟醸酒「七ツ里」と「七ツ里」の水・「岡星」が使っている富士山の水・「美食倶楽部」で使っている京都鞍馬の水を、どれがどの水か知らされずに飲んでみて、「七ツ里」の水はどれか答えるという問題を「江戸一番」の社長に課し、「江戸一番」の社長が見事にあててみせたことから、「こんなに味の分かる蔵主さんの下でなら、ぜひ働かせて頂きたいです!」と喜山さんが言い、ハッピーエンドに終わるという話になっています。 『美味しんぼ』としては、良い日本酒を造るには良い水が必要だということ、日本酒は、それを造るのに使った水の味が影響すること、良い日本酒を造ろうと思ったら水について敏感でないといけないこと、又、煙草は舌や鼻をダメにするので良い日本酒を造ろうと思う者は精進してつつしむべきだということ、現在のビルの水道の水はいったんタンクにためて供給するのでカビ臭く消毒の匂いがする場合がある・・といった話を入れた上でお話を成り立たせるのが、いつものパターンであり、これらの話を入れることで成り立っている話で、これらの話を入れず、ハッピーエンドにしなければ、『美味しんぼ』の話としては困るのでしょうけれども、私が杜氏の喜山さんの立場なら、「ローソクみてえな匂い」のお茶・「消毒の臭いに加えてカビ臭い」水に平気で、舌や鼻をダメにする煙草も気にしない人間だと、自分をその会社から評価されたと判断した上で、もうこの会社とは縁のないものとしようといったん決めたならば、たとえ、社長の舌や鼻が弟の専務と違ってすごかったとしても、その後のつきたいはさておき、その時そこで勤務することは、くつがえさないし、くつがえして良い場合は少ないと思います。 専務の態度に絶望的な不満を持っても、それで辞めるかどうかの最終決定はまだしていないという段階であれば、社長の舌や花がすばらしいからと知ったことから、もう少し様子を見た上で判断しようと考えることはあると思いますが。 (2012.4.21.)
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