冤罪を晴らす神様・菅原道真を祀る 平河天満宮に行ってきました。
〔第140回〕
東京都千代田区平河町 にある 平河天満宮に参拝してきました。
東京の天満宮・天神社で有名なところといえば、湯島天神(文京区湯島。 最寄駅:東京メトロ千代田線「湯島」他。http://www.yushimatenjin.or.jp/pc/index.htm )・亀戸天神(江東区亀戸。 最寄駅:JR総武線・東武亀戸線「亀戸」、JR総武線・東京メトロ半蔵門線「錦糸町」 http://www.kameidotenjin.or.jp/)の2つでしょうか。この2つは小説にもよく登場します。 全国的には、京都の北野天満宮(http://kitanotenmangu.or.jp/ )・福岡県の太宰府天満宮(http://www.dazaifutenmangu.or.jp/)、関西人にとっては大阪天満宮(http://www.tenjinsan.com/ )あたりが有名なところかと思います。
村上重良『日本の宗教』(1981.3.20. 岩波ジュニア新書)には、≪個人の怨霊を神として祀った代表的な例とは、菅原道真(845―903)の霊と雷神などが習合した天神です。 道真は、左大臣藤原時平のために無実の罪で九州の太宰府に流され、そのまま没しました。道真の怨霊は、藤原一門に祟り、急死する者があいつぎました。さらに雷を落とし、災害をもたらしたので、貴族も民衆も怖れおののき、947(天暦元)年、平安京北野にある天神の祠の地に、道真の霊を天満大自在天神として祀り鎮めました。 天神とはもともと天の神のことで、広く各地で祀られていましたが、道真の霊と天神、雷神の信仰が結びついて天神信仰が生まれたのです。 中世には、天神の御霊神としての性格はうすれ、道真が学芸をよくしたことから、文字や詩歌、学問の神となり、全国各地に天神を祀る天満宮、天神社などがつくられました。≫(P.70) と書かれています。
三橋健『図説あらすじでわかる! 日本の神々と神社』(2010.5.15.青春新書)では、「天満宮・天神社・北野神社」の項に(62~63頁)、北野天満宮(京都市上京区)・大宰府天満宮(福岡県)・防府天満宮(山口県防府市)を「三天神」 として書かれています。
『これだけは知っておきたい神社入門』(2007.7.27.洋泉社MOOK)では、「こんなときはどの神社に? 神さまご利益ガイド」に「天神さま」として、太宰府天満宮・北野天満宮(京都市)・荏柄天神社(神奈川県鎌倉市)・を「日本三大天神」とし、江戸時代に富くじで千両当たりくじがでたことから、ひそかにギャンブルの神さまとしても崇められてきたとして湯島天満宮(東京都千代田区)、《【学問・芸能の神さま】天神さま》 として、錦山天満宮(北海道江別市) ・ 亀戸天神社(東京都江東区) ・ 飛騨天満宮(岐阜県高山市) の3社、《【病気平癒の神さま】天神さま》 として、五条天神社(東京都台東区)・小松天満宮(石川県小松市)の2社と防府天満宮をあげています。 もっとも、五条天神社は、少彦名命も祀っているということですから、「病気平癒の神さま」としては少彦名命の方が担当かとも思えます。(P.70)
「ウィキペディア-天満宮」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE では、北野天満宮(京都市)・大宰府天満宮(福岡県太宰府市)・防府天満宮(山口県防府市)・大阪天満宮(大阪市)の4つに≪日本三大天神のひとつ≫と書かれており、「ウィキペディア-日本三大天神」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E5%A4%A7%E5%A4%A9%E7%A5%9E には、≪大宰府天満宮・北野天満宮・防府天満宮の3ヶ所をもって日本三天神と称する。 異説として防府天満宮を外して、大阪天満宮、小平潟天満宮等を入れる場合もある。≫と書かれています。小平潟天満宮(「ウィキペディア-小平潟天満宮」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B9%B3%E6%BD%9F%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE) は福島県耶麻郡猪苗代町にあるようです。
「三大○○」といっても、別に法律で決まっているわけでもなく、“言った者勝ち”みたいなところもありますが、北野天満宮と大宰府天満宮の2つははずせないでしょう。 関西人にとっては、北野天満宮・大宰府天満宮と、3つめは大阪天満宮という感覚ではないでしょうか。
戸部民夫『日本の神様がわかる本』(2005.1.5. PHP研究所)では、菅原道真を祀る神社として、北野天満宮(京都市上京区)・大宰府天満宮(福岡県太宰府市) ・ 湯島天神(東京都千代田区) ・ 亀戸天神(東京都江東区) ・ 防府天満宮(山口県防府市)の5社があげられています。 『和東天神縁起絵巻』(和東天満宮蔵)の菅原道真の絵が出ていますが、和東天満宮がどこにあるのかは、インターネットで検索してみましたが、今のところ、見つけることができません。。(P.26)
武光誠『日本人なら知っておきたい神道と神社』(2007.1.10.河出書房新社)では、「篤い信仰を集める神社と神々の物語‐北野天満宮」のところに、京都市の北野天満宮と大宰府天満宮・防府天満宮・亀戸神社(亀戸天神)の4社があげられています。 (P.67)
日本の神様を考える会編『日本の神々のすべてがわかる』(2008.3.30.日本文芸社)では、「ポピュラーな神々‐天神さま」のところに、大宰府天満宮と北野天満宮の2社があげられています。(P.56) 大阪天満宮(大阪市北区天神橋2丁目。 最寄駅:JR東西線「大阪天満宮」、地下鉄谷町線・堺筋線「南森町」 http://www.tenjinsan.com/ )は、「ポピュラーな神々‐天神さま」のところではあげられていませんが、「祭り‐神々の饗宴‐日本の3大祭り」のところで(P.142)、≪京都・八坂神社の『祇園祭り』、大阪天満宮の『天神祭』 、そして東京・神田明神の『神田祭り』(ないし、東京・日枝神社の『山王祭』)。≫として名前が出ています。
そして、志村有弘監修『図説 日本の魔界地図』(2007.9.7.PHP研究所)では、「第5章 呪い怨む人の念が渦巻く地 北野天満宮」(P.85~86)に、「おもな天満宮・天神社」として全国の天満宮・天神社を34社あげられていますが、関東地方では、神奈川県の荏柄天神社(鎌倉市)と群馬県の菅原神社(東吾妻町)と、東京都で亀戸天神社(江東区)・湯島天満宮(千代田区)・布多天神社(調布市) ・ 谷保天満宮(国立市) と 平河天満宮(千代田区) があげられています。
山本博文監修『あなたの知らない千葉県の歴史』(2,012.7.20.洋泉社歴史新書)には、「中世房総の文化を今に伝える『平群天神縁起絵巻』とは?」として、千葉県南房総市平久里(へぐり)中の平群(へぐり)天神社に菅原道真の一代記を描いた『平群天神縁起絵巻』という絵巻があることが書かれています。 「妙見さん」を祀る千葉神社のホームページ(http://www.chibajinja.com/080tenjin.html)を見ると、千葉神社の摂社の千葉天神を≪千葉県内最大の天神様であり、≫と書かれていますが、「最大」とか「第一」とかいうのは、誰が何を基準に決めるのか・・・、なんか、よくわからないところもあります。
ひとが代表的なものと言うからということで、そう認定しなければならないわけでもないとは思うのですが、とりあえず、以上に名前が出ているものでは、東京都23区では、亀戸天神・湯島天神・五條天神社と平河天満宮の4社が出ており、そのうち、亀戸・湯島と五條天神社には参拝したことがあったので、今回、平河天満宮に行ってみました。
参拝してきましたので、もったいつけずに、お写真の方を出しましょう。
(午後に行きましたので、東から西を撮った写真は少々写りが悪くなってしまっています。
写真はすべて、クリックすると大きくなります。大きくして御覧下さいませ。)
↑ この銅の鳥居は、千代田区指定有形文化財となっているそうです。
↑ 平河天満宮 拝殿
拝殿の手前の両側に牛の石像が見えますが、狛犬の代わりに左右に牛がいるというわけではなく、牛よりも拝殿の近く、拝殿のすぐ手前の左に「犬」、右に「獅子」だという「狛犬」がいます。
↑ 本殿は構造としては鉄骨造のようですが、「拝殿~弊殿(石の間)~本殿」という北野天満宮や大阪天満宮と同じ「石の間造り」の様式となっています。 北側から見たもので、左が拝殿、右が本殿、その間が弊殿です。
中学の「歴史」・高校の「日本史」のテキストなどには、神社の社殿の様式として、「大社造り」(出雲大社)・「神明造り」(伊勢神宮)・「住吉造り」(住吉大社)・「春日造り」(春日大社)・「日吉造り」(日吉大社)・「八幡造り」(宇佐八幡宮)・「流れ造り」(下賀茂神社・上賀茂神社)と「権現造り」 (日光東照宮・上野東照宮など)の8様式がでています。 日光東照宮・上野東照宮は「拝殿~弊殿~本殿」という造りになっていて、東照大権現(徳川家康)を祀ることから「権現造り」という言い方をされるのですが、同じ造りになっている仙台市の大崎八幡宮(http://www.okos.co.jp/oosaki/ )では、日光東照宮よりも大崎八幡宮の方が建築されたのは先だということから「権現造り」と言わずに「石の間造り」という言い方をしていると聞きました。 しかし、「拝殿~弊殿~本殿」という「石の間造り」の様式は、大崎八幡宮よりも、もっと前、京都の北野天満宮で造られており、そして、「権現造り」という言い方をする場合には、単に、「拝殿~弊殿~本殿」という並びの造りを言うのではなく、日光東照宮・上野東照宮や大崎八幡宮のような絢爛豪華な装飾をほどこしたもののことを言うと考えるべきで、「拝殿~弊殿~本殿」という並びの「石の間造り」の1種として「権現造り」があると考えるべきではないでしょうか。日光東照宮・上野東照宮の弊殿は、石敷きではないので、拝殿と本殿の間に石敷きの弊殿(石の間)があるのが「石の間造り」だとするならば、「石の間造り」と「権現造り」は別物ということになります。もっとも、北野天満宮にしても、弊殿の部分は石敷きであるわけでもなく、そうなると、「石の間造り」と「権現造り」との違いは、きんきらきんの装飾があるかないかという点か・・とも思えますが、さらに、北野天満宮にしても、日光東照宮ほどではないとしても、まったく装飾がないわけでもなく、明確な区分けは難しそうです。
↑ 平河天満宮 摂社 平河稲荷神社
↑ 平河天満宮 摂社 三殿宮〔塩神社・大鳥神社・浅間神社〕
↑ 平河天満宮 拝殿 と 手前の 布袋さん?
「奉納 学校法人 城西大学」と書かれたこの肥満体のおっさんの石像は、「布袋(ほてい)さん」?かな・・・・という感じがするのですが、それなら、天満宮に「布袋さん」の像がある理由は何だろうか・・・と思うのですが、何なんだろう・・・・・。 もし、知っている方、おられたら、教えてください。
平河天満宮の付近には、近くの人材紹介会社にお世話になったことがあってこの付近には何度か行ったことがありましたが、平河天満宮には、今回、はじめて行きました。
平河天満宮は、電車の便としては、東京メトロ 半蔵門線の「半蔵門」駅が最も近く、いただいてきた由緒書には「一番出口 徒歩1分」と書かれていますが、1分ではなく2分か3分はかかるのではないのかという気もしますが、間違いなくすぐです。 千葉県在住の私は、今回、行きはJR総武線で「錦糸町」駅から東京メトロ半蔵門線に乗り換え、「半蔵門」で降りて行きました。 山登りはできるだけ「ピストン登山」は避けたいと書いた登山・ハイキングの本を見たことがありますが、寺社の参拝や歴史的建築物の見学も、その周囲もまた理解するようにした方が望ましいこと、寺社の参拝は、その寺社に行っている時だけが参拝ではなく、自宅を出てから自宅に帰るまでの間が参拝・巡礼であるという考え方から、できるだけ往きと帰りでまったく同じ経路を取らないようにしたいという考え方から、帰りは、東京メトロ 有楽町線の「麹町(こうじまち)」駅から有楽町線に1駅乗って「市ヶ谷」でJR中央線に乗り換えて帰りました。 由緒書には「麹町」から「徒歩3分」と書かれていますが、これももう少しかかると思いますが、遠くはありません。 JR 中央線の「四谷」までもそう遠くないはずで、1駅だけ乗るのは馬鹿らしいようにも思ったのですが、門前町があるわけでもなく、都内の街中であり、クルマの多く通る道の歩道を歩いても、さして面白くもないと思い、「麹町」から東京メトロ有楽町線に乗りました。
由緒書によれば、平河天満宮 は、太田道灌が、1478年に、江戸城内の北よりに建立したのが始まりだそうです。 「ウィキペディア‐江戸城」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E の江戸城の古地図「ファイル:Haichi1.jpg 」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Haichi1.jpg には、北東に「平河門」と書かれた門があります。 「YAHOO地図(東京都千代田区千代田 平川門)」http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?p=%E5%B9%B3%E5%B7%9D%E9%96%80&lat=35.6897647&lon=139.7580492&ei=utf-8&datum=wgs&lnm=%E5%B9%B3%E5%B7%9D%E9%96%80&idx=35&v=2&sc=3&uid=745f163c504e7b5d6250ececd871831ac4e49f4d&fa=ids で見ても、丸紅本社ビルのすぐ西、東京メトロ「竹橋」駅の真上のあたり、首都高速道路の一ツ橋出口のすぐ南、白山通りと内堀通りの交差するT字路に「平川門」交差点があり、その南に橋を渡った皇居側に「平川門」があります。 その後、徳川家康が江戸城入場後に、平河門の外に移し、その後、1607年に、2代将軍秀忠が現在地(「YAHOO地図 (千代田区平河町1-7-5)」http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?lat=35.68242822&lon=139.74074895&ac=13101&az=53.1.7.5&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=東京都千代田区平河町1丁目7-5 )に移し、地名を平河天満宮にちなんで平河町としたそうです。
今回、訪問に際して、インターネット上の
「平河天満宮」ホームページ? http://hirakawatenjin.or.jp/index.html
「猫のあしあと 平河天満宮」 http://www.tesshow.jp/chiyoda/shrine_hirakawa_tenman.html
「古今御朱印研究室 平河天満宮」http://goshuin.ko-kon.net/touto_jinja/01_hirakawa_tenjin.html
「千代田区観光協会 平河天満宮」http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/376/Default.aspx
など参考にさせていただきました。
東京の寺社は、「江戸もの」の小説や漫画に登場することが多いという点で、他の地域の寺社よりも、知名度アップの点で有利です。 平河天満宮も、「コミック乱 ツインズ」(リイド社)に連載されている池波正太郎 原作・大島やすいち『剣客商売』にも、2012年12月号の「第58話 小さな茄子二つ」という話で、剣術家・秋山小兵衛が若い頃、江戸の麹町の辻平右衛門道場に入門した頃、その道場の裏手にあった狩野為信としう絵師の屋敷にいた門人の山本春太郎とともに平河天満宮に一緒に行き饅頭を買って食べたという話がでてきます。
互いに、一流の剣客・絵師になってみせると誓い合った2人であったが、師匠の娘とできていたのではないかと思われる山本は狩野為信の屋敷を追い出され、それから、何十年も経ち、老年に入った秋山小兵衛が住山桂山と名を変えた山本春太郎と出会った時、山本は金貸しとなり、もはや、絵を描くことはやめてしまっていたという話であるが、この漫画に出てくるような饅頭屋は今回訪問した時には、平河天満宮、及び、その周囲には出ていませんでした。
「古今御朱印研究室 平河天満宮」http://goshuin.ko-kon.net/touto_jinja/01_hirakawa_tenjin.html に、≪神社でいただいた由緒書きには「江戸三大天神」とあった。一般には江戸三大天神というと湯島(文京区)・亀戸(江東区)・谷保(国立市)もしくは五條天神社(台東区)とすることが多いが、残りの二社はどこを当てるのであろうか。≫と書かれていた。 御朱印をいただき、その際に由緒書をいただいてきたが、たしかに、そこには「江戸三大天神 平河天満宮(平河天神) 」と書かれている。 「あと2つはどこなんですかあ~あ?」と質問しようかと思ったけれども、不謹慎かなと思って遠慮したが、帰りの電車中で、別に不謹慎でもなく、きけばよかった、しまったと思いました。 別に、法律で決められているわけでもないので、それぞれの人が自分で考えて、この3つだろうと思う人は思えばよいことだと思うが、谷保天満宮は国立市の谷保にあり、「東京三大天神」とか「武蔵国三大天神」とかならともかく、「江戸三大天神」ということならば、「江戸」は今の東京都23区よりひと回り、もしくは二回り小さい範囲であり、「山手線の内側とその周囲くらい」と考えるべきと思われることから、国立市の谷保は江戸ではないと思われること、又、五條天神社は、五條天神社のホームページhttp://www4.ocn.ne.jp/~gojyou/gojyou_tenjinjya.htm を見ても、≪医薬祖神 五條天神社≫と書かれており、「ウィキペディア‐五條天神社」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%A2%9D%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%8F%B0%E6%9D%B1%E5%8C%BA)を見ても、≪祭神 大己貴命 少彦名命 相殿 菅原道真公≫と書かれているように、医薬の神様・少彦名命(すくなひこなのみこと)の方が中心ではないかと思われることから、湯島天神・亀戸天神と平河天満宮で「江戸三大天神」ということかなと思います。 もっとも、現在、東京都と千葉県は江戸川を境にしていますが、かつて、武蔵国と下総国は江戸川ではなく、それより西の隅田川を境にして「両国」から東が下総国であった時代もあったようで、そうなると亀戸は武蔵国ではなく下総国に属することになりますし、「江戸」の範囲を狭く考えるなら、亀戸は江戸に入るかどうか微妙とも言えます。そうなると、平河天満宮と湯島天神と3つ目は五條天神社か、文京区春日の北野神社か・・。
平河天満宮は、由緒書によれば、主祭神は、菅原道真 で、相殿として、誉田別命(ホンダワケノミコト)・徳川家康 とされているようです。
菅原道真とはどういう人であったか。 井上清『日本の歴史 上』(1963.9.25. 岩波新書)には次のように出ている。
≪ ・・・その中で、藤原氏一門の四家系のうちの北家(ほくけ)が、着実に勢力をのばした。 藤原良房は、858年(天安2)その外孫清和天皇が九歳で皇位につくと、その摂政になった。 皇族以外のもので摂政になったのは、これがはじめてである。 ついで良房の養嗣子基経は、陽成天皇の摂政となり、天皇が成人になると、事実上の摂政と同じ権力をもつ「関白」という地位を新設して、みずからそれになった。
しかし、まだ藤原氏北家の独裁は、不動のものではなかった。 基経の死後、宇多天皇は関白を置かず、菅原道真(845-903年)を重く用いて藤原氏に対抗させた。 つぎの醍醐天皇も同様に関白をおかず、律令による政治の復興につとめた。 そのまたつぎの朱雀・村上の二代の天皇も、同様に律令制復興の努力をつづけた。 それゆえ宮廷歴史家は、醍醐帝のときの年号「延喜」(901-22年)と村上帝のときの年号「天暦」(947‐56年)をとって、その間の政治を「延喜天暦の治」と讃美するが、かの純友・将門の乱が、ほかならぬこの間におこったことが、何よりもよく、古代天皇制の再興はできないことを示していた。 また894年(寛平6)、菅原道真の意見により、すでにたえだえになっていた遣唐使が、航海のぎせいの多いことと唐国のみだれを理由として、永久にやめられたが、このことは、藤原氏とか反藤原氏とかにかかわりなく、すべての貴族たちが、八世紀の彼らの父祖のような、たくましい冒険と探究の活力を、もはや失ったことを示していた。
藤原北家は、一時は摂関の地位にこそつけなかったとはいえ、依然として朝廷の最高官位をしめた。 醍醐帝の左大臣藤原時平は、右大臣菅原道真を大宰府に流す陰謀に成功したし、この後も藤原氏はつぎつぎに競争者を倒し、969年(安和2)、冷泉天皇の摂政藤原実頼が、左大臣源高明を失脚させたのを最後に、藤原氏北家の独裁は不動のものとなった。・・・≫
天神・菅原道真を祀る神社では、≪神徳は、受験合格、詩歌・文筆・芸能・学問の上達、農業守護、厄除け、病気平癒などで、菅公の事跡から、冤罪を晴らす神としての信仰もある。 ≫(戸部民夫編『日本の神様がわかる本』2005.1.5. PHP研究所)
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冤罪製造機・千葉地方裁判所・三浦隆明 には天罰が下らなければならない。 又、下さなければならない。
まず、 三浦隆明に天罰が下るよう、二礼二拍手一礼をしてまいりました。
三浦隆明の悪行については、別稿で少しずつじっくりと述べていきたいと思います。
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≪ わざわいなるかな、悪を善、善を悪と言う者。
彼らは闇を光に、光を闇に、
苦みを甘味に、甘味を苦みに化する。≫ (『旧約聖書・イザヤ書』5章20節 中沢洽樹訳 〔『世界の名著 聖書』1978.9.20.中公バックス 所収〕)
≪ わざわいなるかな、人を害して
みずからは害されぬ者よ!
人を欺いて、みずからは欺かれぬ者よ!
人を害し終えたなら、おまえが害される番だ。
人を欺き終えたなら、おまえが欺かれる番だ。≫ (『旧約聖書・イザヤ書』33章1節 中沢洽樹訳)
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≪ (菅原道真は)藤原時平らの謀略で左遷され、大宰府に配流の身になり、おのれの不遇を嘆きながら903(延喜3)年、京に戻ることなく59歳で死去する。
その年の8月、都では大雨や雷雨が多く、その後も天変地異が襲うと道真が怒りを現わしているのであると考えられるようになった。
908(延喜8)年、道真左遷に加担した藤原菅根が事故死。 909(延喜9)年、道真左遷を画策した時平が、39歳で病没すると、人々は道真の祟りであると噂した。 さらに醍醐天皇の皇太子保明親王が21歳の若さで亡くなり、天皇は道真の怨霊の仕業であると、恐怖した。 ・・・・
そして930(延喜8)年の日照り続きの夏、御所の清涼殿に貴族たちが集まって雨乞いのことを話し合っていた。すると、突然すさまじい閃光と轟音と共に清涼殿に雷が落ち、大納言の藤原清貫、右中弁の平希世ら道真の左遷に賛同した者たちが焼死した。・・・・≫
(『図説 日本の魔界地図』2007.PHP研究所)
☆ 冤罪を晴らす神さま・菅原道真シリーズ、次回は、葛飾天満宮(千葉県市川市)(https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html )です。ぜひ、御覧下さいませ。
(2012.10.28.)
東京都千代田区平河町 にある 平河天満宮に参拝してきました。
東京の天満宮・天神社で有名なところといえば、湯島天神(文京区湯島。 最寄駅:東京メトロ千代田線「湯島」他。http://www.yushimatenjin.or.jp/pc/index.htm )・亀戸天神(江東区亀戸。 最寄駅:JR総武線・東武亀戸線「亀戸」、JR総武線・東京メトロ半蔵門線「錦糸町」 http://www.kameidotenjin.or.jp/)の2つでしょうか。この2つは小説にもよく登場します。 全国的には、京都の北野天満宮(http://kitanotenmangu.or.jp/ )・福岡県の太宰府天満宮(http://www.dazaifutenmangu.or.jp/)、関西人にとっては大阪天満宮(http://www.tenjinsan.com/ )あたりが有名なところかと思います。
村上重良『日本の宗教』(1981.3.20. 岩波ジュニア新書)には、≪個人の怨霊を神として祀った代表的な例とは、菅原道真(845―903)の霊と雷神などが習合した天神です。 道真は、左大臣藤原時平のために無実の罪で九州の太宰府に流され、そのまま没しました。道真の怨霊は、藤原一門に祟り、急死する者があいつぎました。さらに雷を落とし、災害をもたらしたので、貴族も民衆も怖れおののき、947(天暦元)年、平安京北野にある天神の祠の地に、道真の霊を天満大自在天神として祀り鎮めました。 天神とはもともと天の神のことで、広く各地で祀られていましたが、道真の霊と天神、雷神の信仰が結びついて天神信仰が生まれたのです。 中世には、天神の御霊神としての性格はうすれ、道真が学芸をよくしたことから、文字や詩歌、学問の神となり、全国各地に天神を祀る天満宮、天神社などがつくられました。≫(P.70) と書かれています。
三橋健『図説あらすじでわかる! 日本の神々と神社』(2010.5.15.青春新書)では、「天満宮・天神社・北野神社」の項に(62~63頁)、北野天満宮(京都市上京区)・大宰府天満宮(福岡県)・防府天満宮(山口県防府市)を「三天神」 として書かれています。
『これだけは知っておきたい神社入門』(2007.7.27.洋泉社MOOK)では、「こんなときはどの神社に? 神さまご利益ガイド」に「天神さま」として、太宰府天満宮・北野天満宮(京都市)・荏柄天神社(神奈川県鎌倉市)・を「日本三大天神」とし、江戸時代に富くじで千両当たりくじがでたことから、ひそかにギャンブルの神さまとしても崇められてきたとして湯島天満宮(東京都千代田区)、《【学問・芸能の神さま】天神さま》 として、錦山天満宮(北海道江別市) ・ 亀戸天神社(東京都江東区) ・ 飛騨天満宮(岐阜県高山市) の3社、《【病気平癒の神さま】天神さま》 として、五条天神社(東京都台東区)・小松天満宮(石川県小松市)の2社と防府天満宮をあげています。 もっとも、五条天神社は、少彦名命も祀っているということですから、「病気平癒の神さま」としては少彦名命の方が担当かとも思えます。(P.70)
「ウィキペディア-天満宮」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE では、北野天満宮(京都市)・大宰府天満宮(福岡県太宰府市)・防府天満宮(山口県防府市)・大阪天満宮(大阪市)の4つに≪日本三大天神のひとつ≫と書かれており、「ウィキペディア-日本三大天神」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E5%A4%A7%E5%A4%A9%E7%A5%9E には、≪大宰府天満宮・北野天満宮・防府天満宮の3ヶ所をもって日本三天神と称する。 異説として防府天満宮を外して、大阪天満宮、小平潟天満宮等を入れる場合もある。≫と書かれています。小平潟天満宮(「ウィキペディア-小平潟天満宮」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B9%B3%E6%BD%9F%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE) は福島県耶麻郡猪苗代町にあるようです。
「三大○○」といっても、別に法律で決まっているわけでもなく、“言った者勝ち”みたいなところもありますが、北野天満宮と大宰府天満宮の2つははずせないでしょう。 関西人にとっては、北野天満宮・大宰府天満宮と、3つめは大阪天満宮という感覚ではないでしょうか。
戸部民夫『日本の神様がわかる本』(2005.1.5. PHP研究所)では、菅原道真を祀る神社として、北野天満宮(京都市上京区)・大宰府天満宮(福岡県太宰府市) ・ 湯島天神(東京都千代田区) ・ 亀戸天神(東京都江東区) ・ 防府天満宮(山口県防府市)の5社があげられています。 『和東天神縁起絵巻』(和東天満宮蔵)の菅原道真の絵が出ていますが、和東天満宮がどこにあるのかは、インターネットで検索してみましたが、今のところ、見つけることができません。。(P.26)
武光誠『日本人なら知っておきたい神道と神社』(2007.1.10.河出書房新社)では、「篤い信仰を集める神社と神々の物語‐北野天満宮」のところに、京都市の北野天満宮と大宰府天満宮・防府天満宮・亀戸神社(亀戸天神)の4社があげられています。 (P.67)
日本の神様を考える会編『日本の神々のすべてがわかる』(2008.3.30.日本文芸社)では、「ポピュラーな神々‐天神さま」のところに、大宰府天満宮と北野天満宮の2社があげられています。(P.56) 大阪天満宮(大阪市北区天神橋2丁目。 最寄駅:JR東西線「大阪天満宮」、地下鉄谷町線・堺筋線「南森町」 http://www.tenjinsan.com/ )は、「ポピュラーな神々‐天神さま」のところではあげられていませんが、「祭り‐神々の饗宴‐日本の3大祭り」のところで(P.142)、≪京都・八坂神社の『祇園祭り』、大阪天満宮の『天神祭』 、そして東京・神田明神の『神田祭り』(ないし、東京・日枝神社の『山王祭』)。≫として名前が出ています。
そして、志村有弘監修『図説 日本の魔界地図』(2007.9.7.PHP研究所)では、「第5章 呪い怨む人の念が渦巻く地 北野天満宮」(P.85~86)に、「おもな天満宮・天神社」として全国の天満宮・天神社を34社あげられていますが、関東地方では、神奈川県の荏柄天神社(鎌倉市)と群馬県の菅原神社(東吾妻町)と、東京都で亀戸天神社(江東区)・湯島天満宮(千代田区)・布多天神社(調布市) ・ 谷保天満宮(国立市) と 平河天満宮(千代田区) があげられています。
山本博文監修『あなたの知らない千葉県の歴史』(2,012.7.20.洋泉社歴史新書)には、「中世房総の文化を今に伝える『平群天神縁起絵巻』とは?」として、千葉県南房総市平久里(へぐり)中の平群(へぐり)天神社に菅原道真の一代記を描いた『平群天神縁起絵巻』という絵巻があることが書かれています。 「妙見さん」を祀る千葉神社のホームページ(http://www.chibajinja.com/080tenjin.html)を見ると、千葉神社の摂社の千葉天神を≪千葉県内最大の天神様であり、≫と書かれていますが、「最大」とか「第一」とかいうのは、誰が何を基準に決めるのか・・・、なんか、よくわからないところもあります。
ひとが代表的なものと言うからということで、そう認定しなければならないわけでもないとは思うのですが、とりあえず、以上に名前が出ているものでは、東京都23区では、亀戸天神・湯島天神・五條天神社と平河天満宮の4社が出ており、そのうち、亀戸・湯島と五條天神社には参拝したことがあったので、今回、平河天満宮に行ってみました。
参拝してきましたので、もったいつけずに、お写真の方を出しましょう。
(午後に行きましたので、東から西を撮った写真は少々写りが悪くなってしまっています。
写真はすべて、クリックすると大きくなります。大きくして御覧下さいませ。)
↑ この銅の鳥居は、千代田区指定有形文化財となっているそうです。
↑ 平河天満宮 拝殿
拝殿の手前の両側に牛の石像が見えますが、狛犬の代わりに左右に牛がいるというわけではなく、牛よりも拝殿の近く、拝殿のすぐ手前の左に「犬」、右に「獅子」だという「狛犬」がいます。
↑ 本殿は構造としては鉄骨造のようですが、「拝殿~弊殿(石の間)~本殿」という北野天満宮や大阪天満宮と同じ「石の間造り」の様式となっています。 北側から見たもので、左が拝殿、右が本殿、その間が弊殿です。
中学の「歴史」・高校の「日本史」のテキストなどには、神社の社殿の様式として、「大社造り」(出雲大社)・「神明造り」(伊勢神宮)・「住吉造り」(住吉大社)・「春日造り」(春日大社)・「日吉造り」(日吉大社)・「八幡造り」(宇佐八幡宮)・「流れ造り」(下賀茂神社・上賀茂神社)と「権現造り」 (日光東照宮・上野東照宮など)の8様式がでています。 日光東照宮・上野東照宮は「拝殿~弊殿~本殿」という造りになっていて、東照大権現(徳川家康)を祀ることから「権現造り」という言い方をされるのですが、同じ造りになっている仙台市の大崎八幡宮(http://www.okos.co.jp/oosaki/ )では、日光東照宮よりも大崎八幡宮の方が建築されたのは先だということから「権現造り」と言わずに「石の間造り」という言い方をしていると聞きました。 しかし、「拝殿~弊殿~本殿」という「石の間造り」の様式は、大崎八幡宮よりも、もっと前、京都の北野天満宮で造られており、そして、「権現造り」という言い方をする場合には、単に、「拝殿~弊殿~本殿」という並びの造りを言うのではなく、日光東照宮・上野東照宮や大崎八幡宮のような絢爛豪華な装飾をほどこしたもののことを言うと考えるべきで、「拝殿~弊殿~本殿」という並びの「石の間造り」の1種として「権現造り」があると考えるべきではないでしょうか。日光東照宮・上野東照宮の弊殿は、石敷きではないので、拝殿と本殿の間に石敷きの弊殿(石の間)があるのが「石の間造り」だとするならば、「石の間造り」と「権現造り」は別物ということになります。もっとも、北野天満宮にしても、弊殿の部分は石敷きであるわけでもなく、そうなると、「石の間造り」と「権現造り」との違いは、きんきらきんの装飾があるかないかという点か・・とも思えますが、さらに、北野天満宮にしても、日光東照宮ほどではないとしても、まったく装飾がないわけでもなく、明確な区分けは難しそうです。
↑ 平河天満宮 摂社 平河稲荷神社
↑ 平河天満宮 摂社 三殿宮〔塩神社・大鳥神社・浅間神社〕
↑ 平河天満宮 拝殿 と 手前の 布袋さん?
「奉納 学校法人 城西大学」と書かれたこの肥満体のおっさんの石像は、「布袋(ほてい)さん」?かな・・・・という感じがするのですが、それなら、天満宮に「布袋さん」の像がある理由は何だろうか・・・と思うのですが、何なんだろう・・・・・。 もし、知っている方、おられたら、教えてください。
平河天満宮の付近には、近くの人材紹介会社にお世話になったことがあってこの付近には何度か行ったことがありましたが、平河天満宮には、今回、はじめて行きました。
平河天満宮は、電車の便としては、東京メトロ 半蔵門線の「半蔵門」駅が最も近く、いただいてきた由緒書には「一番出口 徒歩1分」と書かれていますが、1分ではなく2分か3分はかかるのではないのかという気もしますが、間違いなくすぐです。 千葉県在住の私は、今回、行きはJR総武線で「錦糸町」駅から東京メトロ半蔵門線に乗り換え、「半蔵門」で降りて行きました。 山登りはできるだけ「ピストン登山」は避けたいと書いた登山・ハイキングの本を見たことがありますが、寺社の参拝や歴史的建築物の見学も、その周囲もまた理解するようにした方が望ましいこと、寺社の参拝は、その寺社に行っている時だけが参拝ではなく、自宅を出てから自宅に帰るまでの間が参拝・巡礼であるという考え方から、できるだけ往きと帰りでまったく同じ経路を取らないようにしたいという考え方から、帰りは、東京メトロ 有楽町線の「麹町(こうじまち)」駅から有楽町線に1駅乗って「市ヶ谷」でJR中央線に乗り換えて帰りました。 由緒書には「麹町」から「徒歩3分」と書かれていますが、これももう少しかかると思いますが、遠くはありません。 JR 中央線の「四谷」までもそう遠くないはずで、1駅だけ乗るのは馬鹿らしいようにも思ったのですが、門前町があるわけでもなく、都内の街中であり、クルマの多く通る道の歩道を歩いても、さして面白くもないと思い、「麹町」から東京メトロ有楽町線に乗りました。
由緒書によれば、平河天満宮 は、太田道灌が、1478年に、江戸城内の北よりに建立したのが始まりだそうです。 「ウィキペディア‐江戸城」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E の江戸城の古地図「ファイル:Haichi1.jpg 」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Haichi1.jpg には、北東に「平河門」と書かれた門があります。 「YAHOO地図(東京都千代田区千代田 平川門)」http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?p=%E5%B9%B3%E5%B7%9D%E9%96%80&lat=35.6897647&lon=139.7580492&ei=utf-8&datum=wgs&lnm=%E5%B9%B3%E5%B7%9D%E9%96%80&idx=35&v=2&sc=3&uid=745f163c504e7b5d6250ececd871831ac4e49f4d&fa=ids で見ても、丸紅本社ビルのすぐ西、東京メトロ「竹橋」駅の真上のあたり、首都高速道路の一ツ橋出口のすぐ南、白山通りと内堀通りの交差するT字路に「平川門」交差点があり、その南に橋を渡った皇居側に「平川門」があります。 その後、徳川家康が江戸城入場後に、平河門の外に移し、その後、1607年に、2代将軍秀忠が現在地(「YAHOO地図 (千代田区平河町1-7-5)」http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?lat=35.68242822&lon=139.74074895&ac=13101&az=53.1.7.5&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=東京都千代田区平河町1丁目7-5 )に移し、地名を平河天満宮にちなんで平河町としたそうです。
今回、訪問に際して、インターネット上の
「平河天満宮」ホームページ? http://hirakawatenjin.or.jp/index.html
「猫のあしあと 平河天満宮」 http://www.tesshow.jp/chiyoda/shrine_hirakawa_tenman.html
「古今御朱印研究室 平河天満宮」http://goshuin.ko-kon.net/touto_jinja/01_hirakawa_tenjin.html
「千代田区観光協会 平河天満宮」http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/376/Default.aspx
など参考にさせていただきました。
東京の寺社は、「江戸もの」の小説や漫画に登場することが多いという点で、他の地域の寺社よりも、知名度アップの点で有利です。 平河天満宮も、「コミック乱 ツインズ」(リイド社)に連載されている池波正太郎 原作・大島やすいち『剣客商売』にも、2012年12月号の「第58話 小さな茄子二つ」という話で、剣術家・秋山小兵衛が若い頃、江戸の麹町の辻平右衛門道場に入門した頃、その道場の裏手にあった狩野為信としう絵師の屋敷にいた門人の山本春太郎とともに平河天満宮に一緒に行き饅頭を買って食べたという話がでてきます。
互いに、一流の剣客・絵師になってみせると誓い合った2人であったが、師匠の娘とできていたのではないかと思われる山本は狩野為信の屋敷を追い出され、それから、何十年も経ち、老年に入った秋山小兵衛が住山桂山と名を変えた山本春太郎と出会った時、山本は金貸しとなり、もはや、絵を描くことはやめてしまっていたという話であるが、この漫画に出てくるような饅頭屋は今回訪問した時には、平河天満宮、及び、その周囲には出ていませんでした。
「古今御朱印研究室 平河天満宮」http://goshuin.ko-kon.net/touto_jinja/01_hirakawa_tenjin.html に、≪神社でいただいた由緒書きには「江戸三大天神」とあった。一般には江戸三大天神というと湯島(文京区)・亀戸(江東区)・谷保(国立市)もしくは五條天神社(台東区)とすることが多いが、残りの二社はどこを当てるのであろうか。≫と書かれていた。 御朱印をいただき、その際に由緒書をいただいてきたが、たしかに、そこには「江戸三大天神 平河天満宮(平河天神) 」と書かれている。 「あと2つはどこなんですかあ~あ?」と質問しようかと思ったけれども、不謹慎かなと思って遠慮したが、帰りの電車中で、別に不謹慎でもなく、きけばよかった、しまったと思いました。 別に、法律で決められているわけでもないので、それぞれの人が自分で考えて、この3つだろうと思う人は思えばよいことだと思うが、谷保天満宮は国立市の谷保にあり、「東京三大天神」とか「武蔵国三大天神」とかならともかく、「江戸三大天神」ということならば、「江戸」は今の東京都23区よりひと回り、もしくは二回り小さい範囲であり、「山手線の内側とその周囲くらい」と考えるべきと思われることから、国立市の谷保は江戸ではないと思われること、又、五條天神社は、五條天神社のホームページhttp://www4.ocn.ne.jp/~gojyou/gojyou_tenjinjya.htm を見ても、≪医薬祖神 五條天神社≫と書かれており、「ウィキペディア‐五條天神社」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%A2%9D%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%8F%B0%E6%9D%B1%E5%8C%BA)を見ても、≪祭神 大己貴命 少彦名命 相殿 菅原道真公≫と書かれているように、医薬の神様・少彦名命(すくなひこなのみこと)の方が中心ではないかと思われることから、湯島天神・亀戸天神と平河天満宮で「江戸三大天神」ということかなと思います。 もっとも、現在、東京都と千葉県は江戸川を境にしていますが、かつて、武蔵国と下総国は江戸川ではなく、それより西の隅田川を境にして「両国」から東が下総国であった時代もあったようで、そうなると亀戸は武蔵国ではなく下総国に属することになりますし、「江戸」の範囲を狭く考えるなら、亀戸は江戸に入るかどうか微妙とも言えます。そうなると、平河天満宮と湯島天神と3つ目は五條天神社か、文京区春日の北野神社か・・。
平河天満宮は、由緒書によれば、主祭神は、菅原道真 で、相殿として、誉田別命(ホンダワケノミコト)・徳川家康 とされているようです。
菅原道真とはどういう人であったか。 井上清『日本の歴史 上』(1963.9.25. 岩波新書)には次のように出ている。
≪ ・・・その中で、藤原氏一門の四家系のうちの北家(ほくけ)が、着実に勢力をのばした。 藤原良房は、858年(天安2)その外孫清和天皇が九歳で皇位につくと、その摂政になった。 皇族以外のもので摂政になったのは、これがはじめてである。 ついで良房の養嗣子基経は、陽成天皇の摂政となり、天皇が成人になると、事実上の摂政と同じ権力をもつ「関白」という地位を新設して、みずからそれになった。
しかし、まだ藤原氏北家の独裁は、不動のものではなかった。 基経の死後、宇多天皇は関白を置かず、菅原道真(845-903年)を重く用いて藤原氏に対抗させた。 つぎの醍醐天皇も同様に関白をおかず、律令による政治の復興につとめた。 そのまたつぎの朱雀・村上の二代の天皇も、同様に律令制復興の努力をつづけた。 それゆえ宮廷歴史家は、醍醐帝のときの年号「延喜」(901-22年)と村上帝のときの年号「天暦」(947‐56年)をとって、その間の政治を「延喜天暦の治」と讃美するが、かの純友・将門の乱が、ほかならぬこの間におこったことが、何よりもよく、古代天皇制の再興はできないことを示していた。 また894年(寛平6)、菅原道真の意見により、すでにたえだえになっていた遣唐使が、航海のぎせいの多いことと唐国のみだれを理由として、永久にやめられたが、このことは、藤原氏とか反藤原氏とかにかかわりなく、すべての貴族たちが、八世紀の彼らの父祖のような、たくましい冒険と探究の活力を、もはや失ったことを示していた。
藤原北家は、一時は摂関の地位にこそつけなかったとはいえ、依然として朝廷の最高官位をしめた。 醍醐帝の左大臣藤原時平は、右大臣菅原道真を大宰府に流す陰謀に成功したし、この後も藤原氏はつぎつぎに競争者を倒し、969年(安和2)、冷泉天皇の摂政藤原実頼が、左大臣源高明を失脚させたのを最後に、藤原氏北家の独裁は不動のものとなった。・・・≫
天神・菅原道真を祀る神社では、≪神徳は、受験合格、詩歌・文筆・芸能・学問の上達、農業守護、厄除け、病気平癒などで、菅公の事跡から、冤罪を晴らす神としての信仰もある。 ≫(戸部民夫編『日本の神様がわかる本』2005.1.5. PHP研究所)
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冤罪製造機・千葉地方裁判所・三浦隆明 には天罰が下らなければならない。 又、下さなければならない。
まず、 三浦隆明に天罰が下るよう、二礼二拍手一礼をしてまいりました。
三浦隆明の悪行については、別稿で少しずつじっくりと述べていきたいと思います。
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≪ わざわいなるかな、悪を善、善を悪と言う者。
彼らは闇を光に、光を闇に、
苦みを甘味に、甘味を苦みに化する。≫ (『旧約聖書・イザヤ書』5章20節 中沢洽樹訳 〔『世界の名著 聖書』1978.9.20.中公バックス 所収〕)
≪ わざわいなるかな、人を害して
みずからは害されぬ者よ!
人を欺いて、みずからは欺かれぬ者よ!
人を害し終えたなら、おまえが害される番だ。
人を欺き終えたなら、おまえが欺かれる番だ。≫ (『旧約聖書・イザヤ書』33章1節 中沢洽樹訳)
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≪ (菅原道真は)藤原時平らの謀略で左遷され、大宰府に配流の身になり、おのれの不遇を嘆きながら903(延喜3)年、京に戻ることなく59歳で死去する。
その年の8月、都では大雨や雷雨が多く、その後も天変地異が襲うと道真が怒りを現わしているのであると考えられるようになった。
908(延喜8)年、道真左遷に加担した藤原菅根が事故死。 909(延喜9)年、道真左遷を画策した時平が、39歳で病没すると、人々は道真の祟りであると噂した。 さらに醍醐天皇の皇太子保明親王が21歳の若さで亡くなり、天皇は道真の怨霊の仕業であると、恐怖した。 ・・・・
そして930(延喜8)年の日照り続きの夏、御所の清涼殿に貴族たちが集まって雨乞いのことを話し合っていた。すると、突然すさまじい閃光と轟音と共に清涼殿に雷が落ち、大納言の藤原清貫、右中弁の平希世ら道真の左遷に賛同した者たちが焼死した。・・・・≫
(『図説 日本の魔界地図』2007.PHP研究所)
☆ 冤罪を晴らす神さま・菅原道真シリーズ、次回は、葛飾天満宮(千葉県市川市)(https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html )です。ぜひ、御覧下さいませ。
(2012.10.28.)
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