意富比神社(船橋大神宮)、及、その境内社・天満宮訪問~冤罪を晴らす神さま・怨念を晴らす旅(5)

[第167回]
  意富比神社(おおひじんじゃ) と その境内社の 天神社・天満宮 に行ってきました。

  意富比神社(おおひじんじゃ)は、千葉県船橋市宮本5丁目2番1号 にあります。 最寄駅は京成本線の「大神宮下(だいじんぐうした)」駅です。 
  京成電鉄の駅名も船橋大神宮の下のあたりにある駅ということで「大神宮下(だいじんぐうした)」ですし、船橋大神宮(ふなばしだいじんぐう)の方が通りがよく、その方が大きな神社のような響きがありますが、本来の名称は意富比神社(おおひじんじゃ)の方でしょう。
  明治維新政府は、≪ 国家神道の教義を代表し、神権天皇制国家の権威を象徴する社格の高い神社を新たに次々と創建した ・・・。 
その一つは、靖国神社およびその地方分社たる護国神社である。
二つは、すでに述べた湊川神社、菊池神社等南朝の忠臣を祭り別格官幣社の社格を与えられた神社である。
第三は、天皇・皇族を祀る神社で、明治神宮(明治天皇を祭る)、橿原神宮(神武天皇を祭る)、平安神宮(桓武・孝明両天皇を祭る)、吉野神宮(後醍醐天皇を祭る)などがこれに属し、祭神として祀られる天皇・皇族は、主として、南朝の天皇・皇族・国体神話の起点をなす神武天皇、平安の古代国家を開いた桓武天皇、王政復古を成就した明治天皇という観点で選ばれ、とりわけ、明治神宮は、近代天皇制国家の宗教的モニュメントといわれる巨大神社である。
第四は、日本が占領・支配した占領地・植民地に創建された神社である。 台湾に台湾神宮(・・)ほかの数十の神社が、樺太には樺太神社(・・)以下の120社、朝鮮にはアマテラスオオミカミと明治天皇を祭神とする朝鮮神宮(・・)ほかの60余社が創建された。 租借地関東州には、関東神宮(・・)、「満州国」には、アマテラスオオミカミを祀る建国神廟(・・)外の百数十社が創建された。・・・≫(東京弁護士会編『靖国神社法案の問題点』(1976.3.31. 新教出版社)
  国民を精神支配するための「神社」が新たに創設されたとともに、各地の既存の神社もまた、この流れで、その神社の本来の意味合いと異なる意味合いを付与されたり、本来と異なる意味合いの方が強調されたりといったことがずいぶんとなされてきたようです。 たとえば、神奈川県横須賀市の走水神社(はしりみずじんじゃ)(横須賀市走水)は、走水港のすぐ近くで、海のすぐ近くでは井戸を掘っても塩水しか出ない場合が少なくないのですが、走水神社の境内はきれいな真水が出た所であり、おそらくはその井戸を神聖なものとして地域の人たちが尊重してきた所ではないかという感じがするのですが、ヤマトタケルノミコトが浦賀水道を舟で渡ろうとして進まず、ヤマトタケルノミコトの何人もいた妻のひとりであるオトタチバナヒメ(弟橘姫)が海に身を沈めて海峡の神の怒りを鎮めたという記紀のお話から、その場所がこの付近ではないのかな・・ということにして、オトタチバナヒメを祀る神社にした・・ということか?という感じがします。 そして、各地に、国民に天皇制国家の思想を植えつける拠点となる神社を指定することにして、そのため、本来は「○×◇神社」であったものを「○○大神宮」に祀り上げた・・・という感じの「大神宮」が各地にけっこうあります。 「船橋大神宮」もそんな感じの「大神宮」・・かな? というニオイを感じたのです。だから、「大神宮」という名称はどうも胡散臭いような感じがするので、ここでは、意富比神社(おおひじんじゃ)という名称を主として使用して述べます。
  「大神宮」という呼び方を積極的には使わないもうひとつの理由として、「神宮」「大神宮」という呼称を矢鱈と使用してよいのかという問題があります。『これだけは知っておきたい 神社入門』(2007.7.27.洋泉社MOOK)には、 ≪ 神社の名称の最後につく「神社」や「大社」という称号を社号という。 これには「神宮」「大神宮」「宮」「大社」「神社」「社」の六種類がある。「明神」「権現」といった社号もかつては用いられていたが、神仏習合的な言葉なので、現在では通称として用いられるだけである。
  ・・・ たとえば、「神宮」であるが、正式には「神宮」と呼べるのは伊勢神宮だけである。「伊勢神宮」は通称であって、正式名称が「神宮」なのである。
  では、ほかの神社は「神宮号」を僭称しているのかといえば、けっしてそんなことはない。石上神宮(いそのかみじんぐう)は公式歴史書である『日本書紀』においても「神宮」と記されている。『日本後記』でも「神宮」と記されているが、なぜか平安時代になると「石上神社」と呼ばれるようになってしまった。
  鹿島神宮と香取神宮の呼称も古い。・・・
  どのような基準で「神宮」という称号がつけられたのか判然としないが、皇室とゆかりの深い由緒ある神社にだけ許されたものであるらしい。 熱田神宮・宇佐神宮・気比神宮などが古く、明治以降に創建された橿原神宮・明治神宮・平安神宮などは天皇を祭神としている。
  「宮」も格式は高い。あまり数は多くないが、香椎宮・筥崎宮・天満宮・東照宮などがある。これも特別の由緒を認められた神社にのみ許されるものである。
  「大神宮」は伊勢神宮の出張機関ともいうべき東京大神宮の社号であり、特例というべきだろう。・・・
  「大社」は地域の信仰の中核をなした大神社で、出雲大社(古くは杵築大社といった)・春日大社・松尾大社・日吉大社・熊野大社・多賀大社・諏訪大社などがある。
  明治時代に制定された社格制度では、神社の格によってつけられる社号がある程度決められていた。しかし、戦後、この制度は廃止され、これを機に社号を変更した神社もある。≫とが述べられています。
  意富比神社でいただいてきた「船橋大神宮 参拝のしおり」には、≪祭神 天照大神(あまてらすおおみかみ)≫と書かれていますが、「ウィキペディア―意富比神社」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E5%AF%8C%E6%AF%94%E7%A5%9E%E7%A4%BE には、≪天照皇大神を主祭神とし、万幡豊秋津姫命・天手力雄命を配祀する。徳川将軍家の家康公、秀忠公も合祀している。≫と書かれています。 伊勢神宮・内宮と同じくアマテラスオオミカミを祀っている伊勢神宮の船橋市での出張機関だということで「大神宮」という名が使われているのでしょうけれども、やはり「通称」でしょう。 御朱印には「下総國船橋郷 意富比神社」と書かれていますが、こちらが本来でしょう。
  もうひとつ、「○×△神社」というより「○○大神宮」と言った方が大きな神社のような感じがして町おこし・村おこしには良いということで、「○○大神宮」を名のっている神社もあると思います。 
  「ウィキペディア―意富比神社」 には、祭神として、
天照皇大神(アマテラスオオミカミ)
万幡豊秋津姫命
天手力雄命(アメノタヂカラオノミコト)
と出ているのですが、アマテラスオオミカミは有名で、アメノタヂカラオノミコト は力持ちの神さまとなっていますが、万幡豊秋津姫命 は、少々、マイナーな感じの「神さま」です。
  「ウィキペディア―栲幡千千姫命」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B2%E5%B9%A1%E5%8D%83%E5%8D%83%E5%A7%AB%E5%91%BD には、≪栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)は、日本神話に登場する女神である。 『古事記』では萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、『日本書紀』本文では栲幡千千姫命、一書では栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)、天萬栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)、栲幡千幡姫命(たくはたちはたひめのみこと)と表記される。≫と書かれています。
  『古事記』(倉野憲司校注  1963.1.16.岩波文庫)では、
≪天地(あめつち)初めて發けし(ひらけし)時、高天の原(たかまのはら)に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。 次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ) 。 次に神巣日神。 この三柱の神は、みな獨神と成りまして、身を隠したまひき。 ・・・≫
≪・・この高木の神は、高御産巣日の神(たかみむすひのかみ)の別(また)の名ぞ。・・・≫
≪ ここに天照大御神、高木の神の命もちて、太子(ひつぎのみこ) 正勝吾勝勝速日 (まさかつあかつかちはやひ)天の忍穂耳の命(あめのおしほみみのみこと)に詔りたまひしく、「今、葦原の中つ國を平け(ことむけ)訖へぬと白せり。 故、言依さし(ことよさし)たまひし隨に(まにまに)、降りましてしらしめせ。」とのりたまひき。 ここにその太子正勝吾勝勝速日天の忍穂耳の命、答へ白したまひしく、「僕(あ)は降らむ装束(よそおひ)しつる間に、子生れ(あれ)出でつ。 名は天邇岐志国邇岐志(あめにきしくににきし)天津日高日子番能(あまつひこひこほの)邇邇藝命(ににぎのみこと)ぞ。 この子を降すべし。」とまをしたまひき。 この御子は、高木の神の女(むすめ)、萬幡豊秋津師比賣命(よろづはたとよあきつしひめのみこと) に御合して、生みませる子、天火明命(あめのほあかりのみこと)。 次に日子番能邇邇藝命(ひこほの ににぎのみこと) 二柱なり。 ここをもちて白したまひし隋に(まにまに)、日子番能邇邇藝命(ひこほの ににぎのみこと)に詔科せて(みことおほせて)、「この豊葦原の水穂の國は、汝(いまし)知らさむ國ぞと言依さしたまふ。 故、命の隋に(まにまに)天降るべし。」とのりたまひき。 ≫と出ています。
   倉野憲司の注では、≪名義未詳。 書紀には栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)とある。≫と書かれています。 『古事記』において、最初の頃より登場している高御産巣日の神(たかみむすひのかみ)、別名、高木の神の娘で、天孫降臨をした邇邇藝命(ににぎのみこと)のお母ちゃんらしいのですが、何を象徴する神なのかは明確ではないようです。
   「ウィキペディア―栲幡千千姫命」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B2%E5%B9%A1%E5%8D%83%E5%8D%83%E5%A7%AB%E5%91%BD では、≪「栲」は楮の繊維または白膠木、「ハタ」は「機(はた)」のことである。「チヂ」は縮むの意とも、たくさんあるの意ともいい、前者であれば織地が縮んだ上質の織物のこととなり、後者であれば機織がさかんな様子を表す。いずれにしても機織や織物に関係のある名前ということになる。織物の神として信仰される他、安産、子宝等の神徳をもつとされる≫と述べられています。

   アメノタヂカラオノミコト は、アマテラスオオミカミが天の岩戸に隠れた時、外をのぞき見たアマテラスオオミカミの手をつかんで引っ張り出した力持ちの神さま で、『古事記』(岩波文庫)には、
≪ ・・天兒屋命(あめのこやねのみこと)、太詔戸(ふとのりと)言禱き(ごとほき)白して、 天手力男神(あめのたぢからをのかみ) 、戸の掖(わき)に隠り立ちて、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)、天の香山の天の日影を手次(たすき)に繫けて、天の眞拆(まさき)を鬘(かづら)として、天の香山の小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)に結ひて、天の石屋戸に槽伏せて(うけふせて)踏み轟こし(とどろこし)、神懸りして、胸乳(むなち)をかき出で裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき。 ここに高天の原動みて(とよみて)、八百萬の神共にわらひき。 ・・・≫
≪ ・・・かく言す(まをす)間に、天兒屋命(あめのこやねのみこと)、布刀玉の命(ふとだまのみこと)、その鏡を指し出して(いだして)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)に示せ(みせ)奉る(まつる)時、天照大御神、いよよ奇し(あやし)と思ほして、稍(やや)戸より出でて臨みます時に、その隠り立てりし 天の手力男(あめのたぢからおのかみ)、その御手(みて)を取りて引き出す(いだす) 即ち、布刀玉の命(ふとだまのみこと)、尻くめ縄(なは)をその御後方に(みしりへ)に控き度して(ひきわたして)白ししく、「これより内にな還り入りそ。」とまをしき。・・・≫ と出ており、 ≪天の手力男(あめのたぢからおのかみ)≫について、倉野憲司の注では≪腕力の神格化。≫と書かれています。

   説明書きばかりよりお写真を出しましょう。  
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    ↑けっこう立派な社殿です。 「上の写真が拝殿で下の写真が本殿」ではなく、「上の写真が神門で下の写真が拝殿」です。本殿はこの後ろにあるようです。
   ≪江戸開府の頃、徳川家康公(1546~1616)は当宮に社領を寄進、奉行をして本殿・末社等を造営し、以来江戸時代を通して五十石が幕府から献納され幕末に至りました。≫と「船橋大神宮 参拝のしおり」にあります。 ≪・・明治6年(1873)に本殿が造営されたのを初めとして、大正12年(1923)、昭和38年(1963)、同50年(1975)、60年(1985)に本殿・拝殿・末社・鳥居・玉垣・参道等に至るまで随時造営がされ、県文化財指定の灯明台の修復等も経て、今日に至っております。≫と書かれているので、この社殿は、ごく最近のものではなさそうですが明治以降の建築ということでしょう。
 
    「船橋大神宮 参拝のしおり」には≪景行天皇四十年、皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の折、当地にて平定成就と旱天に苦しんでいた住民のために天照大神を祀り祈願された処、御神徳の顕現がありました。 これが当宮の創始であります。≫と書かれているのですが、それが正しいか間違っているかと言っても、もとより日本武尊(やまとたけるのみこと)は実在した人間ではないので正しいか否かの議論をしても意味はありません。
    まず、神社の「由緒」に、ヤマトタケルノミコト と アマテラスオオミカミ が出てくると怪しい。 明治維新政府が天皇制国家の思想を国民に植えつけるための道具として、天皇の祖先だという設定のアマテラスオオミカミと「国土統一のスーパースター」として創作・創造されたヤマトタケルノミコトのお話を各地域に根ざした神社に貼り付けた、そのうちのひとつではないのか?という胡散臭いニオイがする場合が多い。
    
    それで、実際に、意富比神社 というのは、どういう存在であったのか。
    横須賀市の走水神社は、港のすぐ近くで、海に近いにもかかわらず清い真水が出る井戸を神聖な存在として扱った所に、そこが浦賀水道に面する所であったことからオトタチバナヒメが入水した場所であるという話をでっちあげて貼りつけた・・という可能性が高い。 但し、ヤマトタケルノミコトは実在した人間ではないが、ヤマトタケルノミコトの話が創作される過程でそのモデルになるような話が何かあった可能性はないわけではなく、あくまで、もしかすると・・のものであるが、ヤマトタケルノミコトの話のモデルになった男が浦賀水道を三浦半島側から房総半島に渡ろうとしたことがあって、その場所はもしかすると横須賀市の走水港のあたり・・ということなら絶対にないとは言い切れない・・かもしれない。
    で。 意富比神社(おおひじんじゃ)における ヤマトタケルノミコト と アマテラスオオミカミ の話には、何か、たとえ、お話のモデルになった男の話でお話のもとのもと・・とでもいったものでもあったのか、それとも、まったく何もないところに明治維新政府が天皇制国家として国民を精神支配するために話を捏造したというものなのか?

   まず、地形・立地から考えて、この場所は、おそらく、船橋の漁民が、舟で海に出たときに、無事に戻れるように、沖から目印として見た丘だったのではないかと思えます。 特別高くはないけれども、船橋漁港から北、内陸部に向って来ると、この場所に来るのです。 そして、この東西には丘はないのに対して、今、灯明台がある場所が、小高くなっているのです。↓
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「灯明台」 千葉県有形民俗文化財。
   ≪ 境内東方の丘に建てられている木造瓦葺の灯明台は、三階建てで高さ十二メートル程あります。三階の灯室は、洋風の様式を採り入れた六角形で、ひときわ目を惹きます。 明治13年(1880)、地元の漁業関係者によって建設されました。≫(「船橋大神宮 参拝のしおり」)
   ≪ 建築様式は和洋折衷の擬洋風建築で、1階・2階は和風、3階の灯室が西洋式灯台の意匠を取り入れた六角形の作りになっています。≫と船橋市教育委員会の説明書きが出ていました。
   「ウィキペディア―船橋大神宮灯明台」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E6%A9%8B%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E7%81%AF%E6%98%8E%E5%8F%B0 を見ると、≪江戸時代、船橋大神宮境内には常夜の鐘があり、夜間に沿岸を航海する際の目安にされていたが、1868年(慶応4年)に起きた戊辰戦争の戦災によって焼失してしまった。その為本格的な施設の再建が望まれ、地元有志らの寄付によって同大神宮境内の小高い丘(標高27m)に船橋大神宮灯明台が建てられた。建造地にはかつて浅間神社があったことから「浅間灯明台」と呼ばれていた。≫と書かれています。 これがひとつのルーツではないかと思えます。


↓  意富比神社の南側(海側)、京成電鉄「大神宮下」駅の前から意富比神社に向う道 と、意富比神社(おおひじんじゃ)〔船橋大神宮〕  
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「いつもNAVI‐千葉県船橋市の地図」http://www.its-mo.com/map/addr/128488470_503948540_11/12204/%E5%8D%83%E8%91%89%E7%9C%8C%E8%88%B9%E6%A9%8B%E5%B8%82/#ma
  この写真の道は、船橋の港から山側に伸び、国道14号~京成電鉄「大神宮下」駅~意富比神社 に至るのですが、地図と写真の両方から見ていただきたいと思いますが、意富比神社の前でカクッと左(西)に曲がっており、曲がらずにまっすぐに行くと意富比神社の境内に入り境内内の参道に進むのです。 だから、もともとは、この写真に写っている道は、意富比神社に進む道だったのであり、それが、自動車なども通行するようになり神社の西側に進む道の方が主要な道になった・・ということかな・・という感じがします。
   それで。 この場所は、海・港に近い場所であるが、少々、周囲よりも小高い丘になっていて、特に、灯明台のある所が高くなっているのです。 だから、かつては、漁民にとっては、沖から帰る際のめじるしになったもので、霧がでたとか日が暗くなったという時には、この場所に灯りをともして、無事に帰れるようにし、また、無事に戻れるように地元の人たちが祈った場所であった・・・のかな・・という感じの地形・立地です。
   それで、そのうち、漁民だけではなく、農業に従事する人たちも、天候・豊作を祈願するようになり、沖からの目じるし・灯明台以外の意味合いも持つようになった・・のかな・・。 
   さらに、そういう経緯で人が集まる場所では、リクリエーションも催されるようなことになった・・かな?・・・。

   意富比神社の境内にはけっこう本格的な土俵がある。↓
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もしかすると、漁民を中心として、かつてこの場所に集まった人たちが相撲をすることがあった?、あるいは、漁業従事者代表と農業従事者代表とで、相撲の勝負がおこなわれた・・?・・。 それが今日に至っている・・のかな・・? 

   「ウィキペディア―意富比神社」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E5%AF%8C%E6%AF%94%E7%A5%9E%E7%A4%BE には、≪ 後にこの一帯が伊勢神宮に寄進されて御厨(夏見御厨。船橋御厨ともいう)となり、その守護として伊勢神宮の祭神である天照大神を祀る神明社が現在の夏見台の日枝神社に建立されたが、御厨の衰退とともに神明社も廃れ、意富比神社に合祀された。その後、天照皇大神に対する信仰の方が強くなり、次第に意富比神社の社名は忘れられ、もっぱら船橋神明・船橋大神宮と呼ばれるようになった。・・≫とあります。
   そうであれば、祭神に、古来のその地の神とともに、アマテラスオオミカミが祀られていることになっている神社には、どうも、明治以降に、明治維新政府が国民を教化し天皇制による支配を実行するために、その地の古来の神に合わせてアマテラスオオミカミを祀らせた可能性が高い神社がけっこうありますが、意富比神社の場合、アマテラスオオミカミが祀られているのは、それより前、≪この一帯が伊勢神宮に寄進されて御厨(夏見御厨。船橋御厨ともいう)となり、その守護として伊勢神宮の祭神である天照大神を祀る神明社が現在の夏見台の日枝神社に建立されたが、御厨の衰退とともに神明社も廃れ、意富比神社に合祀された。≫というところからか・・・と思えます。

    それで、漁民他の古来の地元の人たちが祀っていたのは、漁民にとっての航海安全・豊漁、農民にとっての天候・豊作、そして、、家内安全・子孫繁栄・健康その他、この地の人びとにとっての一神教的な神として祀られた・・のでは? ・・と思える神、「意富比の大神(おおひのおおかみ)」とでも呼ぶべき神であったのではないのか・・。
    そこに、船橋市の船橋駅北方の夏見台から移ってきたアマテラスオオミカミが加わり、同居するようになり、いつしか、「同居」が「一体化」に変化した?
    そう考えると、アマテラスオオミカミ 以外の2柱の神さま のうち、「萬幡豊秋津師比賣命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)」というのは、「萬(よろづ)」と名がつくごとく、生活全般、物事すべての神さまで、そして、古くから、この地で相撲が地元の人たちでとられ、そして、徳川家康がそれを支援するようになったことから、相撲や力自慢の神さま を祀ろうということになり、ズバリ相撲の神さまということであれば、ノミノスクネ(野見宿禰)であろうけれども、アマテラスオオミカミを祀ったことから、ノミノスクネよりアマテラスオオミカミと縁が深い力自慢の神さまとして、アメノタヂカラオノミコト(天手力雄命)が選ばれた・・・? という可能性は十分にありそうな感じがしてきます。
    しかし、そうであるとして、「萬幡豊秋津師比賣命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)」という『古事記』の中ではあまりメジャーでない方の神さまが選ばれている理由は何だろう? という疑問は残ります。
    そして、「意富比(おおひ)」とはどういう意味なのか? 漁民が海から無事に戻れますように、その上で、できれば豊漁でありますようにと祈願し、そこに漁業以外で生計を立てる者、まず、農民も生活全般を祈願するようになった神さまとして、「おおひなる(おおいなる)神」という意味で「おおひ(おおい)」神社・・というのはありそうな気がします・・。
    しかし、そうなると、「意」「富」「比」という字はどこから来たのだろう? 特に、「おおい」という音からならば、「意」と「富」で「おお」と読むのは一般的ではないので、「意富」には別の意味があるのかもしれない。 「ウィキペディア―意富比神社」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E5%AF%8C%E6%AF%94%E7%A5%9E%E7%A4%BE では、≪大日の意で、この地方の農民がもとから信仰してきたお天道様(太陽神)とする説 ≫、≪古代の有力豪族である意富氏の氏神とする説≫他が載っていますが、もしかすると、文字は≪古代の有力豪族である意富氏≫からで、「おおひ」は「おおいなる神さま」から・・・ということもありそうな感じが・・・。

  ≪家康の歯を納めた家康木造が安置されている≫(「ウィキペディア―意富比神社」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E5%AF%8C%E6%AF%94%E7%A5%9E%E7%A4%BE )という 徳川家康・徳川秀忠を祀る常盤神社(ときわじんじゃ)が、意富比神社の境内社としてあったのですが、建物が古くなったことから建替工事をおこなうということで、解体されたようです。↓
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   意富比神社の境内社の常盤神社(船橋の東照宮)は、設計・監理:株式会社社寺建築研究所、施工:大林組 で平成27年(2015年)10月完成予定で新しく建てられるそうです。 船橋駅の南東に船橋東照宮(「ウィキペディア―船橋東照宮」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E6%A9%8B%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE 、「船橋御殿跡」《船橋御殿跡》http://itot.jp/12204/58 他参照。) がありますが、授与所でききましたが、それとは別のものだそうです。
   もっとも、実在した人物を祀る神社でも、菅原道真を祀る天神社・天満宮の場合は、冤罪を晴らす神さま・学問の神さまなど実在した菅原道真が歴史的にどうかと別に国民の間に支持がありますが、東照宮の場合、江戸時代には、大名においては徳川幕府をひらいた徳川家康を神さまとして祀ることで徳川幕府・徳川家に対して忠誠心を示し、寺社においては庇護者としての徳川家・徳川幕府にその後も庇護を願う意思表示として祀ってきたのですが、徳川幕府が政治をおこなう社会でなくなった今、日光東照宮・上野東照宮などの建物が国宝・重要文化財に指定されているようなものはともかく、そうでない東照宮は、既存のものを維持するだけでなく新たに相当の費用をかけて建造したとしても、はたしてどれだけの価値があるのかという気もいたします。

 
  意富比神社の境内社の「天神社・天満宮」 に参拝してきました。↓
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(↑クリックすると大きくなり、「天神社・天満宮」と書かれているのが読めます。)
左隣りの神さんは、「安房神社・玉前神社」 と書かれています。 安房神社は、千葉県館山市大神宮 の安房神社、玉前神社は、千葉県長生郡一宮町一宮 の玉前神社のことでしょうか。
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  「摂社」と「末社」とはどこが違うのか? 何を基準にして「摂社」と「末社」は分けられるのか?
≪ ・・・本殿の脇や裏側などに小さな社があるのに気づかれた人は多いと思う。・・
   こうした小さな社のことを摂社(せつしゃ)または末社(まつしゃ)という。 枝社(えだやしろ)という呼び方もあるが、少し意味合いが異なる。
   摂社と末社は別のものであるが、その区別は曖昧である。 明治時代に定められた社格制度では、本殿祭神の后や子どもといった血縁の神さまを祀る、本殿祭神が鎮座する以前からその土地におられた神さまを祀る、本殿祭神の荒魂(あらみたま)(神の荒々しい性格の面)を祀る、境内地の地主神を祀る、その神社と特別な関係にある神さまを祀る、といった社を摂社と呼び、それ以外を末社とするとしていた。
   しかし、現在ではこの分類法は用いられていない。一般的には社の規模が比較的大きいものが摂社、小さなものを末社と呼ぶが、この大小についても特別な基準があるわけではない。・・・・≫

   ≪社の規模が比較的大きいものが摂社、小さなものを末社≫という基準、≪その神社と特別な関係にある神さまを祀る、といった社を摂社と呼び、それ以外を末社≫という言う基準から考えると、常盤神社は摂社で、この天神社・天満宮は末社ということになるのでしょうか。
    『これだけは知っておきたい 神社入門』(2007.7.27. 洋泉社MOOK)には、≪・・非業の最期を遂げるといった理由から強力な祟り神となった人間・・。 こうした祟り神のことを御霊(ごりょう)という。≫≪ 菅原道真(845~903)は平安前期の公卿で文筆においても名高かったが、藤原時平らの讒言により大宰府に左遷となり、不遇のうちに現地で世を去った人物である。 その死後から道真左遷にかかわった人物に不幸が続き、内裏に雷が落ちるという事態まで発生したことより、その死霊が御霊に化したと信じられた。 これに当時民間で勃興しはじめていた天神(雷神)信仰が習合して、菅原道真は天満天神と呼ばれるようになったのである。 さらに天台宗や禅宗といった仏教宗派も積極的に天神信仰を受け入れたことにより、その信仰は全国的に広まっていった。・・・≫あります。
   ≪・・天神とつく神社の中には天神信仰以前の天つ神(あまつかみ)や雷神信仰に基づく社もあり、すべてが御霊系の神社とはいえない。≫ということで、この写真の天神社・天満宮が菅原道真を祀る御霊系のものかどうかは断定できないかもしれない・・・が、それならそれで、お殿様などのエライ人が「勧請(かんじょう)」ということをおこない他の神社の祭神を招くことがあるように、天神つながりで個人的に「勧請」させてもらって祈願させてもらえばよいことであると判断し、細かいことは言わずに、怨念を晴らす旅・冤罪を晴らす神さま・菅原道真≒天神 として参拝させていただきました。 末社であっても、我が家から近い天神社なので今後も来させていただきたいと思います。
        (2013.2.20.) 
  インターネット上で、意富比神社内の天神社について検索したところ、
「私の天満宮 217天神社(船橋大神宮内・船橋市)」http://gozmez49.blog.fc2.com/blog-entry-331.html  で取り上げられているのに出会いました。 意富比神社内の天神社は、末社であっても、最近に設けられたものではなく、江戸時代には設けられていたものなのですね。 (2013.2.22.)
☆怨念を晴らす旅・冤罪を晴らす神さま・菅原道真シリーズは、
1.平河天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html 
2.葛飾天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
3.亀戸天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
4.北野天満宮
  1  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html 
  2  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
  3  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
  4  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
  5  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
に続き今回が5番目。今後も続きます。



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  • レイバン ウェイファーラー

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  • エアマックス 95

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