冤罪を晴らす神さま・菅原道真・北野天満宮・3―楼門・三光門・社殿(拝殿・弊殿・本殿・楽の間・脇殿)
[第161回] 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・第4回・北野天満宮 5部作その3 いよいよ北野天満宮 の境内へ入ります。
JR円町駅から「天神通り」を歩いているつもりで「天神御旅商店街」を西に歩いて妙心寺まで行き、そして、丸太町通りを東に歩いて円町駅に戻り、再度、「天神通り」を北に歩いて「今出川通り」にぶつかり、ついに北野天満宮まで来ました。 ついに来たぞお・・て感じ。 バックミュージックとしては、ワグナーのオペラ『タンホイザー』の「巡礼の合唱」あたりで・・・(⇒「YouTube―ワーグナー 巡礼の合唱 「タンホイザー」 より Robert Shaw 」https://www.youtube.com/watch?v=rZWmnpM0Is4 )
「楼門」↓です。 (⇒「北野天満宮」ホームページ「境内のご案内」http://kitanotenmangu.or.jp/goyuisho/keidai/ 参照。)
↑ この「楼門」、中側(北側)から見ると、まん中に広い通りがあって、東よりに勝手口か脇道かというような狭い通行路があるのですが、表、外側(南側)から見れば、その東側の狭い通行路が階段のないスロープになっています。 昔からそうなっていたのか最近このように作ったのかというと、門の作りは昔からで、中央部の通路は昔からのままにして、東側の狭い出入口を利用してその外側に車いすでも出入りできるスロープを設けたものかという感じがいたします。
私は長く住宅建築請負業の会社に勤めてきましたが、母が歳を行くにしたがって高齢者・障害者の立場ではどうなるかということを実地で体験することになりました。 段差のないスロープというのは、車いすの人にだけ使えるものでもないのです。 母は脳出血と脳梗塞をやったことがあるため、体がふらつくのですが、絶対に少しの階段でも上がれないということはないけれども、スロープに比べて階段は登りにくく、かつ、転びやすいのです。また、杖をつく場合、スロープであれば少しずつ杖の場所を移動させることもできますが、階段では杖を移動させる瞬間は足だけで立たないといけないのでその時が不安です。 山岳修行と合わせて成り立つ寺社は別として、平地にある寺社の場合にはこういった配慮をぜひしていただきたいと思いますし、こういう配慮をされているものを見ると、建築屋としてはうれしくなります。
「パラリンピック」で「車いすの部」とかいって競争で優勝したりする人など見ると、筋肉隆々・足以外は健康そのものて感じのおにいさんばかりで、足以外は私なんかよりよっぽど元気で、私なんか眼も若い頃から近視でなさけないことに老眼まででてきてしまったし、腰痛に長く苦しんでいて最近では膝にも痛みが出てきたし、コレステロール・尿酸値高めだし、春になれば花粉症で他にもいろいろで、それで、なんでパラリンピック「車いすの部」の足以外は元気そのものこれ以上元気・健康な人間ないて感じの体力自慢のにいちゃんに「障害者の権利」を主張されなきゃならんのか?と疑問を感じもすれば、「障害にもめげず、パラリンピック入賞」だとか言って、エライえらいエライえら~いて感じに新聞に書かれて当人もそのつもりになってふんぞりかえって写真に写ったりしているのは、なんかちょっと変て感じがしますが、そういう足以外は元気元気なにいちゃんが障害者ヅラするのを奨励するのは気が進まないけれども、車いす使用者だけでなく、車いすを使用する必要はないけれども、自由に歩けるわけではない年寄りにとってもスロープは助かるので、こういう配慮はぜひ普及させてもらいたいと思います。
「三光門(中門)」↓ 重要文化財。
「拝殿」↓ 国宝。
神社によっては、廻廊、もしくは、塀によって、本殿が囲まれて、拝殿は見えても、本殿はほとんど見えないという神社もありますが、北野天満宮は、「三光門(中門)」と「拝殿」をつなぐように「塀」が設けられているけれども、その内側は中庭になっていて、拝殿の後ろにある本殿と拝殿・本殿をつなぐ弊殿の横・後ろにまわることもできます。 拝殿の前の「中庭」に来ると、落ちついた和やかな雰囲気で、大阪天満宮も悪くないし亀戸天神も湯島天神も悪くないけれども、やはり、北野天満宮こそ真打ちというのか、すべての天神社・天満宮・北野・菅原神社をことごとく見てまわったわけでもないけれども、やっぱり、北野天満宮はいいなあという気持ちになります。
『週刊朝日百科 国宝の美23 建築7 厳島神社・日吉大社・北野天満宮』(2010.1.31.朝日新聞出版)の黒田龍二「日吉大社」の項に、
≪ 京における延暦寺の拠点であった北野天満宮と八坂神社が大規模で複雑な形態に発展したのに対して、日吉大社では古格が保たれた(その後、八坂神社は「祇園造」に)。 とくに北野天満宮本殿は最初、日吉造であったと考えられることから、日吉大社も北野と同じ石の間造に展開する可能性がなかったわけではない。 日吉大社の古い形式は意図的に保持されたものであり、そこに古社ゆえの特性、そして価値観を見いだすことができる。≫とあります。
『週刊朝日百科 国宝の美23 建築7 厳島神社・日吉大社・北野天満宮』(2010.1.31.朝日新聞出版)の黒田龍二「北野天満宮」の項には、
≪ 北野天満宮は、菅原道真の御霊を鎮めるため、天暦元年(947)に創建された。その後、天徳3年(959)には日吉造(ひよしづくり)のような三間三面庇の本殿となり、天延元年(973)には拝殿も備わっていた。 遅くとも平安末期には今のような石の間造となり、鎌倉時代には珍しい形態と評された。 桃山時代になると、石の間造は、豊臣秀吉を祀る豊国廟、さらに徳川家康を祀る東照宮に用いられた。・・・≫と書かれています。
実は、私、若い頃、北野天満宮は菅原道真没後すぐに建てられた建物が今も残っているのだと思い込んでいたのです。 そして、その北野天満宮の「石の間造り」が、エライ人を祀る神社の作り方として「使える」とふんだ徳川家が日光東照宮に使用してきんきらきんに塗りたくり刻みまくりした「権現造り」とした・・というものだと思っていたのです。 しかし、実際には、北野天満宮の最初の創建時から「石の間造り(いしのまづくり)」であったわけではなく、≪現在の本殿は慶長十二年(1607)、豊臣秀頼公が造営されたもので、この時作られた中門、東門、絵馬堂、神楽殿、校倉等も現存しています。≫と「北野天満宮」ホームページ 「ご由緒について」「社殿について」http://kitanotenmangu.or.jp/goyuisho/ に述べられています。
今の社殿は豊臣秀頼の出資により1607年、1600年の関ヶ原の戦いと1614年の大坂冬の陣のまん中の時期に建てられたもので、これら、関ヶ原の戦い以後に豊臣秀頼が寺社の建築物を造営したり補修したりしたのは大坂の陣をにらんだ上で徳川家康が大阪城に豊臣秀吉が蓄えた金銀を消費させることを目的に秀頼にさせたもの、徳川の陰謀であったといったことが言われてきましたが、北野天満宮のホームページの「ご由緒について」の「社殿について」では≪この社殿造営は、父秀吉公の遺志であったと伝えられます。≫と書かれています。 もうひとつの考え方として、関ヶ原の戦いは大きな影響を及ぼしたとしても、直ちに完全に豊臣の勢力がなくなったわけではなく、大阪から京都にかけての地域では豊臣の力はまだ及んでいて、それゆえに豊臣秀頼が造営をおこなったもので、徳川の陰謀というより、関東などでは徳川が勢力があったとしても関西地域限定では豊臣の方が支配的勢力を持っていたからだと考える見方もあるかと思います。大坂の陣で「豊臣縁故の大名」が豊臣方につかなかったとしても、浪人とはいえ元・大名の真田幸村(信繁)らが豊臣方に加わったのは、ひとつには関西地域においては豊臣の勢力はまだ存在し、真田幸村(信繁)にしても、最初から負け戦に加わるつもりではなく勝つつもりで参加したのではないか、もしかすると豊臣が勝つかもしれないと思わせるような部分が大坂の陣の開始前の関西地域にはあったのではないのかという気もします。
北野天満宮のホームページはhttp://kitanotenmangu.or.jp/ ですが、画面に出すと、URL欄に梅のマークがでます。建築デザインには「イアリング型」と「ピアス型」があると私は何年か前から認識してきました。「イアリング型」「ピアス型」とは何か。 そもそも、イアリングとピアスがどう違うかと言いますと、多くの男性は、耳たぶに穴をあける痛いのがピアス、穴をあけずに両側からはさむのがイアリングで、「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝のはじめなり」ということで、ピアスなんかすることないじゃんと思ったり、私なんか、高校生くらいの頃は、そういうものをする人間というのは「不良」だと思っていて、大学生になってもその意識が続いて、イアリングは「基本的に不良」で、ピアスは「相当に不良」だと思っていたのですが、まあ、「良」とか「不良」とかいっても何を基準にいうのかという問題もあり、そもそも、事故を起こして大量に放射性物質をまきちらす原子力発電所などというものを作りまくった連中とか、資本制経済の原理から考えて株主の権利を「100%減資」したからには会社は消えてなくなったはずなのになぜか存続してそれを「再上場」するというマカ不思議なことしている日本航空の方がよっぽど「不良」と違うのかという気もします。 が、そのあたりは横に置いておきまして、イアリングというのは耳たぶを金具ではさむ構造になっているのでそのはさむ金具よりも大きいデザインのものでなければならなくなるのに対し、ピアスは耳たぶに穴をあけてとめるのでイアリングよりはるかに小さいものにすることが可能だというのです。 その結果、ピアスの場合、「あ、つけてたんだ」とふと気づくデザインのものが可能であるのに対して、イアリングは「つけてますよお」という感じのデザインになるというのです。 これは、名前は忘れたが最近では「女子穴」とかいわれる女性アナウンサーが週刊誌に「読んだら忘れて」というコラムで書いていた話ですが、建築デザイン、あるいは、建築に付随する装飾においても言えることではないか、どちらが良い悪いということではないけれども、「つけてますよお」というデザインと、ふと「あ、つけてたんだあ」と気づくデザインがあるのではないのかと。で、「世界の丹下健三」及び、その後継の丹下都市建築設計(http://www.tangeweb.com/ )のデザインは超弩級に「つけてますよお」「みてえ~え」のもので、だいたい、あの新宿コクーンタワーの悪趣味はなんじゃいと思うのですが、あれが好きだという人もいるらしいので「蓼食う虫も好き好き」なのかもしれません・・が、この北野天満宮のホームページを開くとURL欄に梅のマークが出るというのは、最初気づかず、しばらく本文を見ていて、何気なしにふと「あ、こんなところに・・」と気づく「ピアス型」デザインとしてなかなか・・と思ったのでした。 そう思いません?
三光門(中門)をくぐり拝殿の前に出て右側に授与所があります。
ところで、普通、このくらいの神社なら御朱印帳は置いてあると思いませんか? それも、一般御朱印帳ではなく、前面には社殿が描かれ背面には梅鉢の紋とか、あるいは、梅色の地に社殿と道真の姿とか、社殿と梅の木と牛とか何か素敵なオリジナル御朱印帳が用意されていそうな・・と思いません? それで、天神・天満宮・北野・菅原神社系の神社のオリジナル御朱印帳が欲しいと思い、できれば、真打ちの北野天満宮で購入したいと思ったのですが、インターネットで念のため検索すると、
「blog.ONSENCLUB 2―オイラの御朱印収集・・・「まさか…( ̄▼ ̄|||) 朱印帳が売ってないよ~~」http://blog2.onsenclub-web.com/?eid=1276321
「YAHOO!知恵袋―明日参詣するのですが、北野天満宮でも御朱印帳の販売をしているのでしょうか。 あ」http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1124011656
などに、北野天満宮には御朱印帳は用意されていないと書かれていたのです。まさか、これだけの神社でないなんてと思いながら、こうはっきりと書かれている以上、公開された方の思い違いとかではなく、本当にないのだろう、もともと、御朱印というのはお寺のものなので、神社でも熱心なところとそうでないところがあってもおかしくないし、由緒ある神社なら逆に何か考えがあって御朱印帳は用意しないということもあるかもしれない、と思い、それで、[第157回]《亀戸天神社 訪問~冤罪を晴らす神さま・菅原道真・第3回、及、エスカレーターの不合理 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html で述べた亀戸天神社に急遽行って御朱印帳を取得した上で北野天満宮に来たのでしたが、念のため授与所で訪ねてみました。 が、やはり「御朱印は社務所で扱っています」が「帳面はありません」ということでした。 浄土真宗の寺の中には、浄土真宗の寺では御朱印はないものだというはっきりとした考えのもとに御朱印を用意しない寺があるようですが、そのような何かはっきりとした主義・主張・ポリシーから御朱印はあるが御朱印帳は用意しないのか、別にそういうことでもなく単に置いていないだけなのかわかりませんが、北野天満宮の授与所ではオリジナルのものも一般のものも御朱印帳は用意されていないようです。
神社というものは、社殿の前から拝むだけで後ろには回らないものなのか、それとも、前から拝んだ後に、背後にも足を運ぶべきなのか。 いずれでも良いのか。 私は長くよくわからなかったのです。
たとえば、奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)(http://www.oomiwa.or.jp/ )などは三輪山という山がご神体でその前に拝殿があるわけですから、後ろに回りようがないわけですし、広島県の厳島神社(http://www.miyajima-wch.jp/jp/itsukushima/ )がなぜ海上に社殿が設けられているのかというと、ひとつの考え方として、厳島(宮島)という島が神聖な島であり、福岡県の沖ノ島のように立ち入り禁止にはなっていないとしても島が神聖な存在であるということでその島の前の海に社殿が設けられているのではないのかと考えることもできるわけで、そうなると、厳島神社の場合、社殿の後ろに回ることができたとしても、神聖な存在は厳島(宮島)という島であることを考えれば後ろというのは島の後ろを意味するはずで、社殿の後ろというのはそれほど意味はないことになります。
はっきりと後ろに回るものとなっているらしいのが、大阪市の今宮戎神社(http://www.imamiya-ebisu.net/ )で、「えべっさん」はもともと相当に庶民的な神さまで≪ 「えべっさんは耳が遠い」「えべっさんはいつも眠っている」などの民間伝承があり、≫今宮戎神社では≪参詣者は拝殿前での参拝がすむと、右回りに本殿を回る。そして本殿裏の羽目板(現在は大きなドラが取り受けられている)をトントンと叩いて、「えべっさん、頼んまっせ」など、直接声をかけながら祈る風習が、今も残っている。 一説では、あまりに多くの人々が口々に勝手なことを祈るので、えびす神はとても聞くことができず、耳の聞こえないふりをする、そこで、賽銭の取られ損にならぬよう、念を押すのだという。大阪人らしい親しみをもった神様とのつきあい方に、土地の根付いた信仰が垣間見られる。≫と『週刊古社名刹巡礼の旅 通天閣と天王寺』(2010.1.19. 集英社)に書かれている。
何年か前の正月、老母を連れて、千葉県船橋市の二宮神社(http://www.ninomiya-jinja.jp/ )に行ったことがあるのですが、その時、母はやはり大阪の人間なのか、前から参拝した後、後ろに行ってみようと言って歩きかけたところ、係の人から「後ろには行かないでください」と言われたことがありました。 この神社では社殿の後ろには行かないものなのだろうかと思ったのですが、それは正月で混んでいたので前から参拝した後は「順路」に従って帰ってもらいたいということであったのかもしれません。普段なら、「係の人」はそのあたりにいませんから、制止されることもないでしょう。
私は長く住宅建築請負業の会社に勤めてきましたが、上棟式や地鎮祭の時に写真を撮ろうとするお施主様がおられ、又、自分が拝んでいるところを撮ってくれと言われる方もあります。 一度、地鎮祭にお施主様1人、建築会社として私1人が参加して、神主様とともに地鎮祭をおこなっていた時、お施主様(ご主人)が自分が「2礼2拍手1礼」(「2拝2拍手1拝」)しているところを写真に撮ってくれと言って私にカメラを渡そうとされたことがあり、私はその時お断りさせていただきました。 なぜなら、地鎮祭というものは神聖なものであり、施主側1人、建築会社1人のみが参加している時、たとえ、自分が「2礼2拍手1礼」(「2拝2拍手1拝」)している時でない時でも、その場においては神聖な行事に参加しているのであり、神聖な行事に参加している構成員であるので、その神聖な立場を離れてカメラマンをやるわけにはいかないと判断したのです。 地鎮祭が開始前か終わってからならいくらでも写真に撮って良いと思いますし、それに協力しても良いと思います。 又、施主側・建築会社側のいずれでも、多人数が参加している時に、そのうちの1人がカメラマンをやるのなら悪くないかもしれませんが、施主側1人・建築会社側1人のみしか参加していない場合には、たとえ、「2礼2拍手1礼」をしていない時でも、謹んで神聖な気持と態度でその場に参加するべきものであり、それを放棄して写真を撮ってくれと言われると、あなたは地鎮祭をやりたいのか写真を撮りたいのかどちらですか、神聖な地鎮祭をいいかげんにして写真を撮っても、それは「地鎮祭の写真」にならないのと違いますかと言いたくなるのです。 同様なことは上棟式においても起こります。 上棟式には地鎮祭と違って、建築会社側は上棟作業をおこなうためにある程度以上の人数が参加しますから、主要な参加者(担当大工・担当工事担当者・担当営業)以外の者がカメラマン役をやって写真を撮っても悪くないと思います。 但し、「2礼2拍手1礼」(「2拝2拍手1拝」)している最中に横か斜め後ろから写真を撮るのなら悪くないと思うのですが、ある時、手伝いに行っていた入社1年目の新人が、できるだけ見事な写真を撮ってあげたいという気持ちからだとは思うのですが、拝む人の正面の位置から写真を撮っていたので、私は、それはやめた方がいいと言いました。 拝む人の正面の位置から写真を撮ろうとすると、カメラマン役の人間が拝まれることになってしまいますし、「2礼2拍手1礼」(「2拝2拍手1拝」)する人としては、正面の位置にカメラを持って立たれたのでは気持ちが散漫になってしまうと思うのです。 上棟式というものも、「上棟式の写真を撮ること」と「上棟式をおこなうこと」のどちらが大事なのかというと、「上棟式をおこなうこと」であるはずですから、斜め後ろくらいから撮るなら悪くないと思いますが、拝まれる位置に立って写真を撮るのはやめた方がいいと私は思います。 神社も、もしかすると、本殿の後ろの場所に回ると、前から参拝する人に拝まれる場所に立ってしまうことになるので、それで、後ろに回るべきではないという考え方があるのかもしれない・・と考えたのでした。
今宮戎神社の場合、なにしろ、「えべっさん」というのはしょっちゅう居眠りしたりするずいぶんと庶民的であんまり気難しいことは言わない神さまらしいので問題ないのでしょう。 ちなみに、兵庫県の西宮戎神社(http://nishinomiya-ebisu.com/index.html )は毎年、阪神タイガースが初詣に行く神社らしいのですが、毎年初詣に行くわりにはたいして優勝しない・・というのは、これは決して「えべっさん」が悪いのではなく、「えべっさん」というのはあくまで商売繁盛の神さまであって勝負事に勝つ神さまではないのであり、ゆえに、今年も甲子園球場は阪神が勝とうが負けようが大入り満員・・・・。
(「阪神ファンはいちばんやあ!」て、そりゃ、巨人ファンは毎年優勝しないと怒るのに対して、阪神ファンは20年に1回優勝すれば大喜びして応援してくれるんだから、いいファンだわなあ~あ。⇒「YouTube-六甲おろし 唄:立川清登」http://www.youtube.com/watch?v=yV814_p2fxE )
で。 後ろにまわって良い神さまというのは「えべっさん」「関西系」に限らないようで、東京の雑司が谷鬼子母神堂( http://www.kishimojin.jp/ 、[第139回]《 雑司ヶ谷鬼子母神堂訪問、及、鬼子母神の話と神がアブラハムにイサクを燔祭に捧げよと命じた話の意味》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_2.html 参照。)に行くと、鬼子母神堂の後ろの位置に妙見堂があり、後ろからは妙見堂を拝むようになっています。
北野天満宮も後ろにまわって良い神社らしい。↓
↑ この写真の右寄りに「拝む場所」が見えるように、はっきりと後ろからも拝むようになっているのです。
『週刊朝日百科 国宝の美23 建築7 厳島神社・日吉大社・北野天満宮』(2010.1.31.朝日新聞出版)の黒田龍二「北野天満宮」の項には≪・・・神仏習合のあり方で、少なくとも鎌倉時代には本殿内部の背面側に舎利塔(釈迦の骨を納めた塔)を祀っていた。参詣の人は背面から舎利塔を拝したので、本殿背後の門は舎利門と呼ばれた。舎利塔は、明治時代の神仏分離で京都・常照皇寺に移されたが、北野天満宮では、背面からも拝む参拝方式が現在も続いている。背面からの参拝は霊場寺院にしばしばみられ、神社でも大阪の今宮神社などでみられる。≫と述べられています。
但し、≪舎利塔は・・・常照皇寺に移された≫ということで、現在、↓のような掲示が出ており、背後からは、菅原道真の祖先・祖父・父を祀っていることになっているようです。
(↑ クリックして大きくすると説明書きの文字を読めます。)
常照皇寺についてインターネットで検索すると、
「京都府 歴史的自然環境地域 常照皇寺」http://www.pref.kyoto.jp/shizen-kankyo/hozen10.html
「わたしの青秀庵―名所旧跡めぐり 常照皇寺」http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/jyosyo-kouji.htm
などが出てきました。
大阪府豊中市の服部天神宮(http://www.apsara.ne.jp/hattori-tenjingu/indexj.html )にも、拝殿と逆側(西側)にも拝む場所が設けられていて、阪急宝塚線の「服部(はっとり)」駅から行くと西側(拝殿と逆側)」が近いため、そちらから拝むものかと思って東側に行くと、東から西に向って拝殿があるというように造られていましたが、天神社・天満宮であることから、北野天満宮と同じく、服部天神宮も後ろ側からも拝むように造られているのでしょうか。
東面です。↓ 最も左:楽の間、その右:拝殿、 中:弊殿、 右寄り:本殿
西面、 ↓
↑左:本殿、 中:弊殿、 右端:拝殿。 本殿の手前:脇殿。
一見、東西対称のような感じがして、よく見ると、東西で異なる部分もあり、西側には、本殿の横に「脇殿」があります。(この写真では左下の部分)
↑ 北東側から見た 本殿・弊殿・拝殿・楽の間。
パリのシテ島にあるノートルダム寺院は、前から見た印象と後ろから見た印象にずいぶんと違いがあり、観光案内書などには後ろから見た写真が載っている場合の方が多いのですが、北野天満宮の社殿も、後ろに回って拝むということが長く行われてきた神社だけあって、後ろから見た外観も拝殿の前から見たものとはまた違った趣きがあります。 拝殿の前に立つと、周囲が塀で囲まれた中庭で落ち着いた気持ちになれますが、本殿の北東に回ると、拝殿の方が本殿より大きいとともに拝殿の両袖に楽の間が設けられているので、本殿・弊殿・楽の間・拝殿と社殿の全体が見えて壮観です。建物が雁行する配置は桂離宮の御殿群と通じるところがあるようにも思えます。17世紀初めの建築時に考えられて造られたのか、その後、整えられていったのか、鎌倉時代には背面側に舎利塔を祀っていたのですから、17世紀初めの現社殿建築時には、背面からの外観も建築時から考えて造られたと考える方が自然でしょうか。
↓ 楽の間 だけでもなかなかの建築です。
村上重良『国家神道』(1970.11.27.岩波新書)に≪(江戸時代、)神社建築では、仏教寺院の様式とともに、中国の建築様式がとりいれられ、権現造り(堂社造り、東照宮)、八棟造り(北野神社)が新たに登場した。≫とあります。 『週刊朝日百科 国宝の美23 建築7 厳島神社・日吉大社・北野天満宮』(2010.1.31.朝日新聞出版)の黒田龍二「北野天満宮」の項には、北野天満宮の社殿について≪「八棟造(やつむねつくり)」の異称もある。≫と書かれていたのですが、その8つの棟とはどれを指すのか、それとも、いくつもの棟木があるということで厳密には8つではないのかどうなのだろうと思って、現地で数えたのですが、よくわからなかったのです。ところが帰って、自分が撮った写真や『国宝の美23 』に載っている写真などを見て数えると、たしかに8つです。
まず、拝殿の棟木1、本殿の棟木1、楽の間の棟木が東と西で計2、東西方向の棟木はこれで4本です。 南北方向のものは、弊殿の棟木1、本殿の西についている脇殿の棟木1、そして、拝殿の屋根の上に載っている唐破風(からはふ)に1・千鳥破風(ちどりはふ)に1、で南北方向も4、で計8つの棟木があることになります。わかってみると難しくありません。
※唐破風、千鳥破風については、
「ウィキペディア―破風」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B4%E9%A2%A8
など参照。
たしか、上野東照宮(http://www.uenotoshogu.com/)は、拝殿・弊殿・本殿ともが透塀の内側に入っていたと思いますが、北野天満宮は塀は拝殿と三光門(中門)を東西からつなぎ間に中庭を形作っています。
さて、次回は北野天満宮内の摂社をとりあげたいと思いますが、その前に、天満宮といえば、↓
ですよね。 〔第157回〕《亀戸天神社 訪問~冤罪を晴らす神さま・菅原道真・第3回、及、エスカレーターの不合理 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html の下の方の店頭の牛の写真と比較してみてください。↑こちらは食べちゃだめよ!
次回(https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html )は、文子社・火之御子社・老松社他、北野天満宮の摂社・末社をめぐります。ぜひご覧くださいませ。
※怨念を晴らす旅・冤罪を晴らす神さま・菅原道真 シリーズは、
1.平河天満宮(東京都千代田区) [第140回]《冤罪を晴らす神様・菅原道真を祀る 平河天満宮に行ってきました。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
2.葛飾天満宮(千葉県市川市) [第154回]《葛飾八幡宮・葛飾天満宮(市川市)訪問~冤罪を晴らす神様・怨念を晴らす神様・菅原道真・第2回 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
3.亀戸天神社(東京都江東区) [第157回]《亀戸天神社 訪問~冤罪を晴らす神さま・菅原道真・第3回、及、エスカレーターの不合理 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
4.北野天満宮(京都市上京区) 5部作
その1 [第159回]《北野天満宮へ行くはずが、なぜか妙心寺に来ちゃった? 天神御旅商店街と丸太町通り円町花園間 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
その2 [第160回]《円町駅から北野天満宮へ~天神通り~文子天満宮舊址・西の京瑞饋神輿保存会・奥渓家住宅・百鬼夜行資料館 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
今回が、 その3
その4 [第162回]《冤罪を晴らす神さま・北野天満宮・その4 文子社・火之御子社・地主神社・老松社 他 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
その5 [第163回]《北野天満宮訪問 5―菅原道真と競合する神様。 京福電鉄 今むかし。「西院」駅の怪。間違った福沢像理解》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
ぜひ他の回もご覧くださいませ。
(2013.2.3.)
JR円町駅から「天神通り」を歩いているつもりで「天神御旅商店街」を西に歩いて妙心寺まで行き、そして、丸太町通りを東に歩いて円町駅に戻り、再度、「天神通り」を北に歩いて「今出川通り」にぶつかり、ついに北野天満宮まで来ました。 ついに来たぞお・・て感じ。 バックミュージックとしては、ワグナーのオペラ『タンホイザー』の「巡礼の合唱」あたりで・・・(⇒「YouTube―ワーグナー 巡礼の合唱 「タンホイザー」 より Robert Shaw 」https://www.youtube.com/watch?v=rZWmnpM0Is4 )
「楼門」↓です。 (⇒「北野天満宮」ホームページ「境内のご案内」http://kitanotenmangu.or.jp/goyuisho/keidai/ 参照。)
↑ この「楼門」、中側(北側)から見ると、まん中に広い通りがあって、東よりに勝手口か脇道かというような狭い通行路があるのですが、表、外側(南側)から見れば、その東側の狭い通行路が階段のないスロープになっています。 昔からそうなっていたのか最近このように作ったのかというと、門の作りは昔からで、中央部の通路は昔からのままにして、東側の狭い出入口を利用してその外側に車いすでも出入りできるスロープを設けたものかという感じがいたします。
私は長く住宅建築請負業の会社に勤めてきましたが、母が歳を行くにしたがって高齢者・障害者の立場ではどうなるかということを実地で体験することになりました。 段差のないスロープというのは、車いすの人にだけ使えるものでもないのです。 母は脳出血と脳梗塞をやったことがあるため、体がふらつくのですが、絶対に少しの階段でも上がれないということはないけれども、スロープに比べて階段は登りにくく、かつ、転びやすいのです。また、杖をつく場合、スロープであれば少しずつ杖の場所を移動させることもできますが、階段では杖を移動させる瞬間は足だけで立たないといけないのでその時が不安です。 山岳修行と合わせて成り立つ寺社は別として、平地にある寺社の場合にはこういった配慮をぜひしていただきたいと思いますし、こういう配慮をされているものを見ると、建築屋としてはうれしくなります。
「パラリンピック」で「車いすの部」とかいって競争で優勝したりする人など見ると、筋肉隆々・足以外は健康そのものて感じのおにいさんばかりで、足以外は私なんかよりよっぽど元気で、私なんか眼も若い頃から近視でなさけないことに老眼まででてきてしまったし、腰痛に長く苦しんでいて最近では膝にも痛みが出てきたし、コレステロール・尿酸値高めだし、春になれば花粉症で他にもいろいろで、それで、なんでパラリンピック「車いすの部」の足以外は元気そのものこれ以上元気・健康な人間ないて感じの体力自慢のにいちゃんに「障害者の権利」を主張されなきゃならんのか?と疑問を感じもすれば、「障害にもめげず、パラリンピック入賞」だとか言って、エライえらいエライえら~いて感じに新聞に書かれて当人もそのつもりになってふんぞりかえって写真に写ったりしているのは、なんかちょっと変て感じがしますが、そういう足以外は元気元気なにいちゃんが障害者ヅラするのを奨励するのは気が進まないけれども、車いす使用者だけでなく、車いすを使用する必要はないけれども、自由に歩けるわけではない年寄りにとってもスロープは助かるので、こういう配慮はぜひ普及させてもらいたいと思います。
「三光門(中門)」↓ 重要文化財。
「拝殿」↓ 国宝。
神社によっては、廻廊、もしくは、塀によって、本殿が囲まれて、拝殿は見えても、本殿はほとんど見えないという神社もありますが、北野天満宮は、「三光門(中門)」と「拝殿」をつなぐように「塀」が設けられているけれども、その内側は中庭になっていて、拝殿の後ろにある本殿と拝殿・本殿をつなぐ弊殿の横・後ろにまわることもできます。 拝殿の前の「中庭」に来ると、落ちついた和やかな雰囲気で、大阪天満宮も悪くないし亀戸天神も湯島天神も悪くないけれども、やはり、北野天満宮こそ真打ちというのか、すべての天神社・天満宮・北野・菅原神社をことごとく見てまわったわけでもないけれども、やっぱり、北野天満宮はいいなあという気持ちになります。
『週刊朝日百科 国宝の美23 建築7 厳島神社・日吉大社・北野天満宮』(2010.1.31.朝日新聞出版)の黒田龍二「日吉大社」の項に、
≪ 京における延暦寺の拠点であった北野天満宮と八坂神社が大規模で複雑な形態に発展したのに対して、日吉大社では古格が保たれた(その後、八坂神社は「祇園造」に)。 とくに北野天満宮本殿は最初、日吉造であったと考えられることから、日吉大社も北野と同じ石の間造に展開する可能性がなかったわけではない。 日吉大社の古い形式は意図的に保持されたものであり、そこに古社ゆえの特性、そして価値観を見いだすことができる。≫とあります。
『週刊朝日百科 国宝の美23 建築7 厳島神社・日吉大社・北野天満宮』(2010.1.31.朝日新聞出版)の黒田龍二「北野天満宮」の項には、
≪ 北野天満宮は、菅原道真の御霊を鎮めるため、天暦元年(947)に創建された。その後、天徳3年(959)には日吉造(ひよしづくり)のような三間三面庇の本殿となり、天延元年(973)には拝殿も備わっていた。 遅くとも平安末期には今のような石の間造となり、鎌倉時代には珍しい形態と評された。 桃山時代になると、石の間造は、豊臣秀吉を祀る豊国廟、さらに徳川家康を祀る東照宮に用いられた。・・・≫と書かれています。
実は、私、若い頃、北野天満宮は菅原道真没後すぐに建てられた建物が今も残っているのだと思い込んでいたのです。 そして、その北野天満宮の「石の間造り」が、エライ人を祀る神社の作り方として「使える」とふんだ徳川家が日光東照宮に使用してきんきらきんに塗りたくり刻みまくりした「権現造り」とした・・というものだと思っていたのです。 しかし、実際には、北野天満宮の最初の創建時から「石の間造り(いしのまづくり)」であったわけではなく、≪現在の本殿は慶長十二年(1607)、豊臣秀頼公が造営されたもので、この時作られた中門、東門、絵馬堂、神楽殿、校倉等も現存しています。≫と「北野天満宮」ホームページ 「ご由緒について」「社殿について」http://kitanotenmangu.or.jp/goyuisho/ に述べられています。
今の社殿は豊臣秀頼の出資により1607年、1600年の関ヶ原の戦いと1614年の大坂冬の陣のまん中の時期に建てられたもので、これら、関ヶ原の戦い以後に豊臣秀頼が寺社の建築物を造営したり補修したりしたのは大坂の陣をにらんだ上で徳川家康が大阪城に豊臣秀吉が蓄えた金銀を消費させることを目的に秀頼にさせたもの、徳川の陰謀であったといったことが言われてきましたが、北野天満宮のホームページの「ご由緒について」の「社殿について」では≪この社殿造営は、父秀吉公の遺志であったと伝えられます。≫と書かれています。 もうひとつの考え方として、関ヶ原の戦いは大きな影響を及ぼしたとしても、直ちに完全に豊臣の勢力がなくなったわけではなく、大阪から京都にかけての地域では豊臣の力はまだ及んでいて、それゆえに豊臣秀頼が造営をおこなったもので、徳川の陰謀というより、関東などでは徳川が勢力があったとしても関西地域限定では豊臣の方が支配的勢力を持っていたからだと考える見方もあるかと思います。大坂の陣で「豊臣縁故の大名」が豊臣方につかなかったとしても、浪人とはいえ元・大名の真田幸村(信繁)らが豊臣方に加わったのは、ひとつには関西地域においては豊臣の勢力はまだ存在し、真田幸村(信繁)にしても、最初から負け戦に加わるつもりではなく勝つつもりで参加したのではないか、もしかすると豊臣が勝つかもしれないと思わせるような部分が大坂の陣の開始前の関西地域にはあったのではないのかという気もします。
北野天満宮のホームページはhttp://kitanotenmangu.or.jp/ ですが、画面に出すと、URL欄に梅のマークがでます。建築デザインには「イアリング型」と「ピアス型」があると私は何年か前から認識してきました。「イアリング型」「ピアス型」とは何か。 そもそも、イアリングとピアスがどう違うかと言いますと、多くの男性は、耳たぶに穴をあける痛いのがピアス、穴をあけずに両側からはさむのがイアリングで、「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝のはじめなり」ということで、ピアスなんかすることないじゃんと思ったり、私なんか、高校生くらいの頃は、そういうものをする人間というのは「不良」だと思っていて、大学生になってもその意識が続いて、イアリングは「基本的に不良」で、ピアスは「相当に不良」だと思っていたのですが、まあ、「良」とか「不良」とかいっても何を基準にいうのかという問題もあり、そもそも、事故を起こして大量に放射性物質をまきちらす原子力発電所などというものを作りまくった連中とか、資本制経済の原理から考えて株主の権利を「100%減資」したからには会社は消えてなくなったはずなのになぜか存続してそれを「再上場」するというマカ不思議なことしている日本航空の方がよっぽど「不良」と違うのかという気もします。 が、そのあたりは横に置いておきまして、イアリングというのは耳たぶを金具ではさむ構造になっているのでそのはさむ金具よりも大きいデザインのものでなければならなくなるのに対し、ピアスは耳たぶに穴をあけてとめるのでイアリングよりはるかに小さいものにすることが可能だというのです。 その結果、ピアスの場合、「あ、つけてたんだ」とふと気づくデザインのものが可能であるのに対して、イアリングは「つけてますよお」という感じのデザインになるというのです。 これは、名前は忘れたが最近では「女子穴」とかいわれる女性アナウンサーが週刊誌に「読んだら忘れて」というコラムで書いていた話ですが、建築デザイン、あるいは、建築に付随する装飾においても言えることではないか、どちらが良い悪いということではないけれども、「つけてますよお」というデザインと、ふと「あ、つけてたんだあ」と気づくデザインがあるのではないのかと。で、「世界の丹下健三」及び、その後継の丹下都市建築設計(http://www.tangeweb.com/ )のデザインは超弩級に「つけてますよお」「みてえ~え」のもので、だいたい、あの新宿コクーンタワーの悪趣味はなんじゃいと思うのですが、あれが好きだという人もいるらしいので「蓼食う虫も好き好き」なのかもしれません・・が、この北野天満宮のホームページを開くとURL欄に梅のマークが出るというのは、最初気づかず、しばらく本文を見ていて、何気なしにふと「あ、こんなところに・・」と気づく「ピアス型」デザインとしてなかなか・・と思ったのでした。 そう思いません?
三光門(中門)をくぐり拝殿の前に出て右側に授与所があります。
ところで、普通、このくらいの神社なら御朱印帳は置いてあると思いませんか? それも、一般御朱印帳ではなく、前面には社殿が描かれ背面には梅鉢の紋とか、あるいは、梅色の地に社殿と道真の姿とか、社殿と梅の木と牛とか何か素敵なオリジナル御朱印帳が用意されていそうな・・と思いません? それで、天神・天満宮・北野・菅原神社系の神社のオリジナル御朱印帳が欲しいと思い、できれば、真打ちの北野天満宮で購入したいと思ったのですが、インターネットで念のため検索すると、
「blog.ONSENCLUB 2―オイラの御朱印収集・・・「まさか…( ̄▼ ̄|||) 朱印帳が売ってないよ~~」http://blog2.onsenclub-web.com/?eid=1276321
「YAHOO!知恵袋―明日参詣するのですが、北野天満宮でも御朱印帳の販売をしているのでしょうか。 あ」http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1124011656
などに、北野天満宮には御朱印帳は用意されていないと書かれていたのです。まさか、これだけの神社でないなんてと思いながら、こうはっきりと書かれている以上、公開された方の思い違いとかではなく、本当にないのだろう、もともと、御朱印というのはお寺のものなので、神社でも熱心なところとそうでないところがあってもおかしくないし、由緒ある神社なら逆に何か考えがあって御朱印帳は用意しないということもあるかもしれない、と思い、それで、[第157回]《亀戸天神社 訪問~冤罪を晴らす神さま・菅原道真・第3回、及、エスカレーターの不合理 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html で述べた亀戸天神社に急遽行って御朱印帳を取得した上で北野天満宮に来たのでしたが、念のため授与所で訪ねてみました。 が、やはり「御朱印は社務所で扱っています」が「帳面はありません」ということでした。 浄土真宗の寺の中には、浄土真宗の寺では御朱印はないものだというはっきりとした考えのもとに御朱印を用意しない寺があるようですが、そのような何かはっきりとした主義・主張・ポリシーから御朱印はあるが御朱印帳は用意しないのか、別にそういうことでもなく単に置いていないだけなのかわかりませんが、北野天満宮の授与所ではオリジナルのものも一般のものも御朱印帳は用意されていないようです。
神社というものは、社殿の前から拝むだけで後ろには回らないものなのか、それとも、前から拝んだ後に、背後にも足を運ぶべきなのか。 いずれでも良いのか。 私は長くよくわからなかったのです。
たとえば、奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)(http://www.oomiwa.or.jp/ )などは三輪山という山がご神体でその前に拝殿があるわけですから、後ろに回りようがないわけですし、広島県の厳島神社(http://www.miyajima-wch.jp/jp/itsukushima/ )がなぜ海上に社殿が設けられているのかというと、ひとつの考え方として、厳島(宮島)という島が神聖な島であり、福岡県の沖ノ島のように立ち入り禁止にはなっていないとしても島が神聖な存在であるということでその島の前の海に社殿が設けられているのではないのかと考えることもできるわけで、そうなると、厳島神社の場合、社殿の後ろに回ることができたとしても、神聖な存在は厳島(宮島)という島であることを考えれば後ろというのは島の後ろを意味するはずで、社殿の後ろというのはそれほど意味はないことになります。
はっきりと後ろに回るものとなっているらしいのが、大阪市の今宮戎神社(http://www.imamiya-ebisu.net/ )で、「えべっさん」はもともと相当に庶民的な神さまで≪ 「えべっさんは耳が遠い」「えべっさんはいつも眠っている」などの民間伝承があり、≫今宮戎神社では≪参詣者は拝殿前での参拝がすむと、右回りに本殿を回る。そして本殿裏の羽目板(現在は大きなドラが取り受けられている)をトントンと叩いて、「えべっさん、頼んまっせ」など、直接声をかけながら祈る風習が、今も残っている。 一説では、あまりに多くの人々が口々に勝手なことを祈るので、えびす神はとても聞くことができず、耳の聞こえないふりをする、そこで、賽銭の取られ損にならぬよう、念を押すのだという。大阪人らしい親しみをもった神様とのつきあい方に、土地の根付いた信仰が垣間見られる。≫と『週刊古社名刹巡礼の旅 通天閣と天王寺』(2010.1.19. 集英社)に書かれている。
何年か前の正月、老母を連れて、千葉県船橋市の二宮神社(http://www.ninomiya-jinja.jp/ )に行ったことがあるのですが、その時、母はやはり大阪の人間なのか、前から参拝した後、後ろに行ってみようと言って歩きかけたところ、係の人から「後ろには行かないでください」と言われたことがありました。 この神社では社殿の後ろには行かないものなのだろうかと思ったのですが、それは正月で混んでいたので前から参拝した後は「順路」に従って帰ってもらいたいということであったのかもしれません。普段なら、「係の人」はそのあたりにいませんから、制止されることもないでしょう。
私は長く住宅建築請負業の会社に勤めてきましたが、上棟式や地鎮祭の時に写真を撮ろうとするお施主様がおられ、又、自分が拝んでいるところを撮ってくれと言われる方もあります。 一度、地鎮祭にお施主様1人、建築会社として私1人が参加して、神主様とともに地鎮祭をおこなっていた時、お施主様(ご主人)が自分が「2礼2拍手1礼」(「2拝2拍手1拝」)しているところを写真に撮ってくれと言って私にカメラを渡そうとされたことがあり、私はその時お断りさせていただきました。 なぜなら、地鎮祭というものは神聖なものであり、施主側1人、建築会社1人のみが参加している時、たとえ、自分が「2礼2拍手1礼」(「2拝2拍手1拝」)している時でない時でも、その場においては神聖な行事に参加しているのであり、神聖な行事に参加している構成員であるので、その神聖な立場を離れてカメラマンをやるわけにはいかないと判断したのです。 地鎮祭が開始前か終わってからならいくらでも写真に撮って良いと思いますし、それに協力しても良いと思います。 又、施主側・建築会社側のいずれでも、多人数が参加している時に、そのうちの1人がカメラマンをやるのなら悪くないかもしれませんが、施主側1人・建築会社側1人のみしか参加していない場合には、たとえ、「2礼2拍手1礼」をしていない時でも、謹んで神聖な気持と態度でその場に参加するべきものであり、それを放棄して写真を撮ってくれと言われると、あなたは地鎮祭をやりたいのか写真を撮りたいのかどちらですか、神聖な地鎮祭をいいかげんにして写真を撮っても、それは「地鎮祭の写真」にならないのと違いますかと言いたくなるのです。 同様なことは上棟式においても起こります。 上棟式には地鎮祭と違って、建築会社側は上棟作業をおこなうためにある程度以上の人数が参加しますから、主要な参加者(担当大工・担当工事担当者・担当営業)以外の者がカメラマン役をやって写真を撮っても悪くないと思います。 但し、「2礼2拍手1礼」(「2拝2拍手1拝」)している最中に横か斜め後ろから写真を撮るのなら悪くないと思うのですが、ある時、手伝いに行っていた入社1年目の新人が、できるだけ見事な写真を撮ってあげたいという気持ちからだとは思うのですが、拝む人の正面の位置から写真を撮っていたので、私は、それはやめた方がいいと言いました。 拝む人の正面の位置から写真を撮ろうとすると、カメラマン役の人間が拝まれることになってしまいますし、「2礼2拍手1礼」(「2拝2拍手1拝」)する人としては、正面の位置にカメラを持って立たれたのでは気持ちが散漫になってしまうと思うのです。 上棟式というものも、「上棟式の写真を撮ること」と「上棟式をおこなうこと」のどちらが大事なのかというと、「上棟式をおこなうこと」であるはずですから、斜め後ろくらいから撮るなら悪くないと思いますが、拝まれる位置に立って写真を撮るのはやめた方がいいと私は思います。 神社も、もしかすると、本殿の後ろの場所に回ると、前から参拝する人に拝まれる場所に立ってしまうことになるので、それで、後ろに回るべきではないという考え方があるのかもしれない・・と考えたのでした。
今宮戎神社の場合、なにしろ、「えべっさん」というのはしょっちゅう居眠りしたりするずいぶんと庶民的であんまり気難しいことは言わない神さまらしいので問題ないのでしょう。 ちなみに、兵庫県の西宮戎神社(http://nishinomiya-ebisu.com/index.html )は毎年、阪神タイガースが初詣に行く神社らしいのですが、毎年初詣に行くわりにはたいして優勝しない・・というのは、これは決して「えべっさん」が悪いのではなく、「えべっさん」というのはあくまで商売繁盛の神さまであって勝負事に勝つ神さまではないのであり、ゆえに、今年も甲子園球場は阪神が勝とうが負けようが大入り満員・・・・。
(「阪神ファンはいちばんやあ!」て、そりゃ、巨人ファンは毎年優勝しないと怒るのに対して、阪神ファンは20年に1回優勝すれば大喜びして応援してくれるんだから、いいファンだわなあ~あ。⇒「YouTube-六甲おろし 唄:立川清登」http://www.youtube.com/watch?v=yV814_p2fxE )
で。 後ろにまわって良い神さまというのは「えべっさん」「関西系」に限らないようで、東京の雑司が谷鬼子母神堂( http://www.kishimojin.jp/ 、[第139回]《 雑司ヶ谷鬼子母神堂訪問、及、鬼子母神の話と神がアブラハムにイサクを燔祭に捧げよと命じた話の意味》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_2.html 参照。)に行くと、鬼子母神堂の後ろの位置に妙見堂があり、後ろからは妙見堂を拝むようになっています。
北野天満宮も後ろにまわって良い神社らしい。↓
↑ この写真の右寄りに「拝む場所」が見えるように、はっきりと後ろからも拝むようになっているのです。
『週刊朝日百科 国宝の美23 建築7 厳島神社・日吉大社・北野天満宮』(2010.1.31.朝日新聞出版)の黒田龍二「北野天満宮」の項には≪・・・神仏習合のあり方で、少なくとも鎌倉時代には本殿内部の背面側に舎利塔(釈迦の骨を納めた塔)を祀っていた。参詣の人は背面から舎利塔を拝したので、本殿背後の門は舎利門と呼ばれた。舎利塔は、明治時代の神仏分離で京都・常照皇寺に移されたが、北野天満宮では、背面からも拝む参拝方式が現在も続いている。背面からの参拝は霊場寺院にしばしばみられ、神社でも大阪の今宮神社などでみられる。≫と述べられています。
但し、≪舎利塔は・・・常照皇寺に移された≫ということで、現在、↓のような掲示が出ており、背後からは、菅原道真の祖先・祖父・父を祀っていることになっているようです。
(↑ クリックして大きくすると説明書きの文字を読めます。)
常照皇寺についてインターネットで検索すると、
「京都府 歴史的自然環境地域 常照皇寺」http://www.pref.kyoto.jp/shizen-kankyo/hozen10.html
「わたしの青秀庵―名所旧跡めぐり 常照皇寺」http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/jyosyo-kouji.htm
などが出てきました。
大阪府豊中市の服部天神宮(http://www.apsara.ne.jp/hattori-tenjingu/indexj.html )にも、拝殿と逆側(西側)にも拝む場所が設けられていて、阪急宝塚線の「服部(はっとり)」駅から行くと西側(拝殿と逆側)」が近いため、そちらから拝むものかと思って東側に行くと、東から西に向って拝殿があるというように造られていましたが、天神社・天満宮であることから、北野天満宮と同じく、服部天神宮も後ろ側からも拝むように造られているのでしょうか。
東面です。↓ 最も左:楽の間、その右:拝殿、 中:弊殿、 右寄り:本殿
西面、 ↓
↑左:本殿、 中:弊殿、 右端:拝殿。 本殿の手前:脇殿。
一見、東西対称のような感じがして、よく見ると、東西で異なる部分もあり、西側には、本殿の横に「脇殿」があります。(この写真では左下の部分)
↑ 北東側から見た 本殿・弊殿・拝殿・楽の間。
パリのシテ島にあるノートルダム寺院は、前から見た印象と後ろから見た印象にずいぶんと違いがあり、観光案内書などには後ろから見た写真が載っている場合の方が多いのですが、北野天満宮の社殿も、後ろに回って拝むということが長く行われてきた神社だけあって、後ろから見た外観も拝殿の前から見たものとはまた違った趣きがあります。 拝殿の前に立つと、周囲が塀で囲まれた中庭で落ち着いた気持ちになれますが、本殿の北東に回ると、拝殿の方が本殿より大きいとともに拝殿の両袖に楽の間が設けられているので、本殿・弊殿・楽の間・拝殿と社殿の全体が見えて壮観です。建物が雁行する配置は桂離宮の御殿群と通じるところがあるようにも思えます。17世紀初めの建築時に考えられて造られたのか、その後、整えられていったのか、鎌倉時代には背面側に舎利塔を祀っていたのですから、17世紀初めの現社殿建築時には、背面からの外観も建築時から考えて造られたと考える方が自然でしょうか。
↓ 楽の間 だけでもなかなかの建築です。
村上重良『国家神道』(1970.11.27.岩波新書)に≪(江戸時代、)神社建築では、仏教寺院の様式とともに、中国の建築様式がとりいれられ、権現造り(堂社造り、東照宮)、八棟造り(北野神社)が新たに登場した。≫とあります。 『週刊朝日百科 国宝の美23 建築7 厳島神社・日吉大社・北野天満宮』(2010.1.31.朝日新聞出版)の黒田龍二「北野天満宮」の項には、北野天満宮の社殿について≪「八棟造(やつむねつくり)」の異称もある。≫と書かれていたのですが、その8つの棟とはどれを指すのか、それとも、いくつもの棟木があるということで厳密には8つではないのかどうなのだろうと思って、現地で数えたのですが、よくわからなかったのです。ところが帰って、自分が撮った写真や『国宝の美23 』に載っている写真などを見て数えると、たしかに8つです。
まず、拝殿の棟木1、本殿の棟木1、楽の間の棟木が東と西で計2、東西方向の棟木はこれで4本です。 南北方向のものは、弊殿の棟木1、本殿の西についている脇殿の棟木1、そして、拝殿の屋根の上に載っている唐破風(からはふ)に1・千鳥破風(ちどりはふ)に1、で南北方向も4、で計8つの棟木があることになります。わかってみると難しくありません。
※唐破風、千鳥破風については、
「ウィキペディア―破風」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B4%E9%A2%A8
など参照。
たしか、上野東照宮(http://www.uenotoshogu.com/)は、拝殿・弊殿・本殿ともが透塀の内側に入っていたと思いますが、北野天満宮は塀は拝殿と三光門(中門)を東西からつなぎ間に中庭を形作っています。
さて、次回は北野天満宮内の摂社をとりあげたいと思いますが、その前に、天満宮といえば、↓
ですよね。 〔第157回〕《亀戸天神社 訪問~冤罪を晴らす神さま・菅原道真・第3回、及、エスカレーターの不合理 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html の下の方の店頭の牛の写真と比較してみてください。↑こちらは食べちゃだめよ!
次回(https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html )は、文子社・火之御子社・老松社他、北野天満宮の摂社・末社をめぐります。ぜひご覧くださいませ。
※怨念を晴らす旅・冤罪を晴らす神さま・菅原道真 シリーズは、
1.平河天満宮(東京都千代田区) [第140回]《冤罪を晴らす神様・菅原道真を祀る 平河天満宮に行ってきました。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
2.葛飾天満宮(千葉県市川市) [第154回]《葛飾八幡宮・葛飾天満宮(市川市)訪問~冤罪を晴らす神様・怨念を晴らす神様・菅原道真・第2回 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
3.亀戸天神社(東京都江東区) [第157回]《亀戸天神社 訪問~冤罪を晴らす神さま・菅原道真・第3回、及、エスカレーターの不合理 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
4.北野天満宮(京都市上京区) 5部作
その1 [第159回]《北野天満宮へ行くはずが、なぜか妙心寺に来ちゃった? 天神御旅商店街と丸太町通り円町花園間 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
その2 [第160回]《円町駅から北野天満宮へ~天神通り~文子天満宮舊址・西の京瑞饋神輿保存会・奥渓家住宅・百鬼夜行資料館 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
今回が、 その3
その4 [第162回]《冤罪を晴らす神さま・北野天満宮・その4 文子社・火之御子社・地主神社・老松社 他 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
その5 [第163回]《北野天満宮訪問 5―菅原道真と競合する神様。 京福電鉄 今むかし。「西院」駅の怪。間違った福沢像理解》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
ぜひ他の回もご覧くださいませ。
(2013.2.3.)
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