冤罪を晴らす神さま・北野天満宮・その4 文子社・火之御子社・地主神社・老松社 他
〔第162回〕
怨念を晴らす旅・冤罪を晴らす神さま・菅原道真・北野天満宮 5部作その4 です。
今回は、まず、北野天満宮境内の摂社・末社についてとりあげていきます。
↓ 「末社 文子(あやこ)社」 です。 前前回〔第160回〕《円町駅から北野天満宮へ~天神通り~文子天満宮舊址・西の京瑞饋神輿保存会・奥渓家住宅・百鬼夜行資料館 》 に、天神通りの西側の「文子天満宮舊址」の写真を掲載しましたが、「文子(あやこ)」というのは、「文子天満宮舊址」と同じく、道真の嫁さんとか娘とかの名前ではなく、菅原道真を北野の地に祀るべきだと道真の霊から言われたという巫女の名前だそうです。
↑ ≪ 祭神 多治比文子〔たじひのあやこ〕
(相殿) 神 良種〔みわのよしたね〕・太郎丸・最鎮(さいちん)
多治比文子[たじひのあやこ]は京都に住んでいた少女の巫女。 神 良種[みわのよしたね]は近江国(滋賀県)比良の神主で、太郎丸はその子。最鎮[さいちん]は、昔、この境内地にあった朝日寺の僧。
この四人は、多治比文子と太郎丸が菅公の御神霊より受けた「私の魂を北野の地に祭れ」というお告げに従い、力を合わせて北野天満宮を創建した人々である。≫
と説明書きが書かれています。
北野天満宮のホームページの「境内ご案内」http://kitanotenmangu.or.jp/goyuisho/keidai/ の境内地図では、本殿の左に桃色で長方形が書かれていますが、その一角にあります。
北野天満宮境内には、本殿の北東の位置に「文子天満宮」があります。北野天満宮ホームページの「境内地図」では、(4)の「明月社」の左(西)あたりです。 今回、私は写真を撮ってこなかったのですが、北野天満宮境内の文子天満宮の写真は、インターネット上では、たとえば、《blog.ONSENCLUB-オイラの御朱印収集・・・「まさか…( ̄▼ ̄|||) 朱印帳が売ってないよ~~」》http://blog2.onsenclub-web.com/?eid=1276321 などで、「文子天満宮」の写真を公開されているのが見られます。
「文子社」と「文子天満宮」はどう違うかというと、「文子天満宮」は、菅原道真の霊が「わが魂を右近馬場(現境内地)に祭れ」と文子に語ったものの、特に権力者でも何でもない少女の巫女であった文子は北野天満宮を設営することもできず、とりあえず、自宅にお祀りして、それが何度か移転して、現在の境内の「文子天満宮」になったというもので、「文子天満宮」は「文子」を祀っているのではなく、文子が菅原道真を祀るために自宅に設けた社が移転してきたもの で、「文子社」は文子と神 良種と太郎丸と最鎮を祀っているもののようです。
奈良県の三輪山を御神体とする大神神社(http://www.oomiwa.or.jp/ )は、この字で「おおみわじんじゃ」と読むそうですが、今は一般には、「神」を「みわ」とは読まないのですが、「神 良種」で「みわのよしたね」と読んだということは、大神神社に限ったことではなく、かつては「神」という字で「みわ」と読んだのでしょうか。
↓ 「摂社 火之御子社(ひのみこしゃ)」 です。
↑≪ 祭神 火雷神〔からいしん〕≫と書かれています。
↑「境内ご案内」http://kitanotenmangu.or.jp/goyuisho/keidai/ の地図では、三光門の下(南)の位置に、桃色の小さい四角形が4つ書かれていますが、右側(東側)のひとつです。
「天神」と「菅原道真」とはどういう関係にあるのか、「天神=(イコール)菅原道真」というわけでもないようだが、と前々から思っていたのですが、菅原道真が天神として祀られるようになったものの、天神は、菅原道真より前から信仰されていたようです。 この火雷神の社の説明書きには、≪ ご祭神火雷神は、天満宮鎮座の天暦元年(947年)以前に、この地に『北野雷公』として称え祀られ、雷電・火難・豊作などの守護神として、広く人々の崇敬を集めた。・・・・平安時代、・・五穀豊穣と合わせて雷害のないことを祭神に祈願するようになった。・・・≫と書かれています。
↓ 「摂社 地主神社(じぬしじんじゃ)」 です。
↑≪ 祭 神 天神地祇〔てんじんちぎ〕
(相殿) 敦実親王〔あつみしんのう〕 ・ 斎世親王〔ときよしんのう〕 ・ 源英明朝臣〔みなもとのときあきらあそん〕 ≫
本殿の後ろの東よりにあります。 「境内案内図」http://kitanotenmangu.or.jp/goyuisho/keidai/ では、「(2)地主社」として示されているもので、本殿の後ろ(北側)に並んでいる摂社の中では東よりの一番大きい社です。
≪ 『続日本紀』に「承和3年(836年) 菅公御生誕の9年前)2月1日、遣唐使のために、天神地祇を北野の地に祀る」と記録されている通り、天満宮創建以前よりこの地に鎮座していた神社である。≫ ということで、
≪ 主祭神の天神地祇とは、日本国内六十余国に祭られたすべての神々のこと ≫で、≪ ともに祭られる3人の皇子はいずれも道真公の御血縁など、特に公とゆかりの深い方々である。≫ と説明書きに書かれています。
≪ 現社殿は豊臣秀頼公の造営≫だそうです。
西岡常一・小原二郎『法隆寺を支えた木』(1978.6.20.NHKブックス)の西岡常一「1.飛鳥と木」に、
≪ ・・・法隆寺大工の先人たちが、長い間の体験から残してくれた口伝の一つなのです。これをくわしくかきますと、
仏法を知らずに、堂塔伽藍を論ずべからず
天神地祇を拝さずに、宮を口にすべからず
法隆寺大工は太子の本流たる誇りを心奥にもて
ということです。 ・・・≫ と書かれていますが、ここで言う天神地祇も、≪天神地祇とは、日本国内六十余国に祭られたすべての神々のこと ≫と考えてよいのでしょうか。
上の写真は正面(南側)から撮影したものですが、右側(東側)から見ると↓のようになります。「流れ造り」でできているようですが、正面から見た印象と右側から見た印象でずいぶんと違いがあります。 見る場所により異なる印象を与える建築というのは、建築屋としては、「建築屋的感動」を覚えます。 この社は摂社としては大きいもので、それだけに、「流れ造り(ながれづくり)」のものとしても、はっきりとその特徴がでているゆえに、右横から見たものが正面からの印象との違いも大きいのでしょう。↑↓
↓ 「老松社(おいまつしゃ)」 は、北野天満宮境内に2か所あります。
↑ 上の写真の「老松社」は、本殿の後ろ(北側)、地主神社の左(西)にあり、下の写真の「老松社」は三光門の前(南)の参道の左右にある4つの小さい社のうち西側にあるひとつです。
ちなみに、私は前々から「摂社」と「末社」とはどう違うのだろう、どういう基準で分けられているのだろう、と思い続けてきたのですが、両方の説明書きの写真を撮って来て見比べて見て発見したのですが、本殿の後ろ側にある「老松社」では説明書きに「末社 老松社」と書かれており、三光門の前にある「老松社」では説明書きに「摂社 老松社」と書かれているので、これは、前にある「老松社」が「摂社」で後ろにある「老松社」が「末社」であるというわけでもないでしょう。「摂社」と「末社」の違いというのはそう難しく考えなくてもよいということなのかと思います。
≪ 祭神 島田 忠臣(しまだ ただおき)翁≫で、
≪ 神徳 植林・林業の神 ≫ だそうです。
植林・林業の神さまとしては、「五十猛命(いそたけるのみこと)」を祀るとされる和歌山市の「伊太祁曽神社(いだきそじんじゃ)」(http://itakiso-jinja.net/index.php?blogid=6&catid=83 )とか、静岡県熱海市の「来宮神社(きのみやじんじゃ)」(http://www.kinomiya.or.jp/ )、「久久能智神(くくちのかみ)」を祀る兵庫県西宮市の「公知神社(くちじんじゃ)」(http://kuchijinja.jp/ )などが思い浮かびます。 西岡常一・小原二郎『法隆寺を支えた木』(1978.6.20.NHKブックス)の中の小原二郎「5.. ヒノキと日本人」に≪・・・興味深いのは『日本書紀』の素戔鳴尊(スサノオノミコト)の説話である。それによると、「日本は島国だから、舟がなければ困るだろうといわれて、ひげや胸の毛を抜いてまき散らしたところ、ヒノキとスギとクスノキとマキが生えた。そこで尊はそれぞれの用途を示して、ヒノキは宮殿に、スギとクスノキは舟に、マキは棺の材に使え」と教えたことが書かれている。≫と書かれており、それから考えると、八坂神社(京都市)のホームページhttp://web.kyoto-inet.or.jp/org/yasaka/ には、「植林・林業の神」とは出ていませんが、素戔鳴尊(スサノオノミコト)も植林・林業の神様と考えてよいかもしれません。 「五十猛命」も「久久能智神」も「素戔鳴尊(スサノオノミコト)」も『古事記』に登場する神さまであって実在した人物ではないのに対して、「島田忠臣」とは、≪ 菅公の家臣と伝えられ、また一説には公の岳父(夫人の父)ともいわれる≫実在した人物のようで、≪ 菅公が配流先の太宰府で、自らの無実を神々に訴えるため天拝山(てんぱいざん)に登られた時、公の笏を預かってお供をした人物で、後に菅公は忠臣に松の種を持たせ当地に撒くように託された。 道真公のご神霊がこの地に降臨される時、多数の松が一夜にして生じたという伝説は、この事跡によるものといわれる。≫と書かれています。
≪「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」という有名な歌は、京都を去る道真が詠んだものである。≫(戸部民夫『日本の神様がわかる本』2005.1.5.PHP研究所)というように、菅原道真と天神社・天満宮・北野・菅原神社に関係する樹木は梅かと思っていたら、松も関係するのですね。
↓ その梅の木は、1月の終わりにおいては、まだ、つぼみができてきたかというもので、花が咲くのはもう少し先のようです。
(↑クリックして大きくした上で、さらに +マークでクリックして拡大すれば、梅のつぼみがついてきているのが見えます。)
↑ 梅の花が咲くころに、また、来ることができればよいのですが、その頃は混むかもしれませんね。
次回(https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html )は、北野天満宮と「神徳」が「競合」する神さま、京福電鉄・北野白梅町→帷子の辻→西院 他について述べます。ぜひ、御覧下さいませ。
(2013.2.3.)
☆怨念を晴らす旅・冤罪を晴らす神さま・菅原道真シリーズは、
1.平河天満宮(東京都千代田区)
[第140回]《冤罪を晴らす神様・菅原道真を祀る 平河天満宮に行ってきました。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
2.葛飾天満宮(千葉県市川市)
[第154回]《葛飾八幡宮・葛飾天満宮(市川市)訪問~冤罪を晴らす神様・怨念を晴らす神様・菅原道真・第2回 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
3.亀戸天神社(東京都江東区)
[第157回]《亀戸天神社 訪問~冤罪を晴らす神さま・菅原道真・第3回、及、エスカレーターの不合理 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
4.北野天満宮(京都市上京区) 5部作
その1 [第159回]《北野天満宮へ行くはずが、なぜか妙心寺に来ちゃった? 天神御旅商店街と丸太町通り円町花園間 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
その2 [第160回]《円町駅から北野天満宮へ~天神通り~文子天満宮舊址・西の京瑞饋神輿保存会・奥渓家住宅・百鬼夜行資料館 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
その3 [第161回]《罪を晴らす神さま・菅原道真・北野天満宮・3―楼門・三光門・社殿(拝殿・弊殿・本殿・楽の間・脇殿) 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
今回が、その4
その5 [第163回]《北野天満宮訪問 5―菅原道真と競合する神様。 京福電鉄 今むかし。「西院」駅の怪。間違った福沢像理解》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
ぜひ、他の回もご覧下さいませ。
(2013.2.3.)
怨念を晴らす旅・冤罪を晴らす神さま・菅原道真・北野天満宮 5部作その4 です。
今回は、まず、北野天満宮境内の摂社・末社についてとりあげていきます。
↓ 「末社 文子(あやこ)社」 です。 前前回〔第160回〕《円町駅から北野天満宮へ~天神通り~文子天満宮舊址・西の京瑞饋神輿保存会・奥渓家住宅・百鬼夜行資料館 》 に、天神通りの西側の「文子天満宮舊址」の写真を掲載しましたが、「文子(あやこ)」というのは、「文子天満宮舊址」と同じく、道真の嫁さんとか娘とかの名前ではなく、菅原道真を北野の地に祀るべきだと道真の霊から言われたという巫女の名前だそうです。
↑ ≪ 祭神 多治比文子〔たじひのあやこ〕
(相殿) 神 良種〔みわのよしたね〕・太郎丸・最鎮(さいちん)
多治比文子[たじひのあやこ]は京都に住んでいた少女の巫女。 神 良種[みわのよしたね]は近江国(滋賀県)比良の神主で、太郎丸はその子。最鎮[さいちん]は、昔、この境内地にあった朝日寺の僧。
この四人は、多治比文子と太郎丸が菅公の御神霊より受けた「私の魂を北野の地に祭れ」というお告げに従い、力を合わせて北野天満宮を創建した人々である。≫
と説明書きが書かれています。
北野天満宮のホームページの「境内ご案内」http://kitanotenmangu.or.jp/goyuisho/keidai/ の境内地図では、本殿の左に桃色で長方形が書かれていますが、その一角にあります。
北野天満宮境内には、本殿の北東の位置に「文子天満宮」があります。北野天満宮ホームページの「境内地図」では、(4)の「明月社」の左(西)あたりです。 今回、私は写真を撮ってこなかったのですが、北野天満宮境内の文子天満宮の写真は、インターネット上では、たとえば、《blog.ONSENCLUB-オイラの御朱印収集・・・「まさか…( ̄▼ ̄|||) 朱印帳が売ってないよ~~」》http://blog2.onsenclub-web.com/?eid=1276321 などで、「文子天満宮」の写真を公開されているのが見られます。
「文子社」と「文子天満宮」はどう違うかというと、「文子天満宮」は、菅原道真の霊が「わが魂を右近馬場(現境内地)に祭れ」と文子に語ったものの、特に権力者でも何でもない少女の巫女であった文子は北野天満宮を設営することもできず、とりあえず、自宅にお祀りして、それが何度か移転して、現在の境内の「文子天満宮」になったというもので、「文子天満宮」は「文子」を祀っているのではなく、文子が菅原道真を祀るために自宅に設けた社が移転してきたもの で、「文子社」は文子と神 良種と太郎丸と最鎮を祀っているもののようです。
奈良県の三輪山を御神体とする大神神社(http://www.oomiwa.or.jp/ )は、この字で「おおみわじんじゃ」と読むそうですが、今は一般には、「神」を「みわ」とは読まないのですが、「神 良種」で「みわのよしたね」と読んだということは、大神神社に限ったことではなく、かつては「神」という字で「みわ」と読んだのでしょうか。
↓ 「摂社 火之御子社(ひのみこしゃ)」 です。
↑≪ 祭神 火雷神〔からいしん〕≫と書かれています。
↑「境内ご案内」http://kitanotenmangu.or.jp/goyuisho/keidai/ の地図では、三光門の下(南)の位置に、桃色の小さい四角形が4つ書かれていますが、右側(東側)のひとつです。
「天神」と「菅原道真」とはどういう関係にあるのか、「天神=(イコール)菅原道真」というわけでもないようだが、と前々から思っていたのですが、菅原道真が天神として祀られるようになったものの、天神は、菅原道真より前から信仰されていたようです。 この火雷神の社の説明書きには、≪ ご祭神火雷神は、天満宮鎮座の天暦元年(947年)以前に、この地に『北野雷公』として称え祀られ、雷電・火難・豊作などの守護神として、広く人々の崇敬を集めた。・・・・平安時代、・・五穀豊穣と合わせて雷害のないことを祭神に祈願するようになった。・・・≫と書かれています。
↓ 「摂社 地主神社(じぬしじんじゃ)」 です。
↑≪ 祭 神 天神地祇〔てんじんちぎ〕
(相殿) 敦実親王〔あつみしんのう〕 ・ 斎世親王〔ときよしんのう〕 ・ 源英明朝臣〔みなもとのときあきらあそん〕 ≫
本殿の後ろの東よりにあります。 「境内案内図」http://kitanotenmangu.or.jp/goyuisho/keidai/ では、「(2)地主社」として示されているもので、本殿の後ろ(北側)に並んでいる摂社の中では東よりの一番大きい社です。
≪ 『続日本紀』に「承和3年(836年) 菅公御生誕の9年前)2月1日、遣唐使のために、天神地祇を北野の地に祀る」と記録されている通り、天満宮創建以前よりこの地に鎮座していた神社である。≫ ということで、
≪ 主祭神の天神地祇とは、日本国内六十余国に祭られたすべての神々のこと ≫で、≪ ともに祭られる3人の皇子はいずれも道真公の御血縁など、特に公とゆかりの深い方々である。≫ と説明書きに書かれています。
≪ 現社殿は豊臣秀頼公の造営≫だそうです。
西岡常一・小原二郎『法隆寺を支えた木』(1978.6.20.NHKブックス)の西岡常一「1.飛鳥と木」に、
≪ ・・・法隆寺大工の先人たちが、長い間の体験から残してくれた口伝の一つなのです。これをくわしくかきますと、
仏法を知らずに、堂塔伽藍を論ずべからず
天神地祇を拝さずに、宮を口にすべからず
法隆寺大工は太子の本流たる誇りを心奥にもて
ということです。 ・・・≫ と書かれていますが、ここで言う天神地祇も、≪天神地祇とは、日本国内六十余国に祭られたすべての神々のこと ≫と考えてよいのでしょうか。
上の写真は正面(南側)から撮影したものですが、右側(東側)から見ると↓のようになります。「流れ造り」でできているようですが、正面から見た印象と右側から見た印象でずいぶんと違いがあります。 見る場所により異なる印象を与える建築というのは、建築屋としては、「建築屋的感動」を覚えます。 この社は摂社としては大きいもので、それだけに、「流れ造り(ながれづくり)」のものとしても、はっきりとその特徴がでているゆえに、右横から見たものが正面からの印象との違いも大きいのでしょう。↑↓
↓ 「老松社(おいまつしゃ)」 は、北野天満宮境内に2か所あります。
↑ 上の写真の「老松社」は、本殿の後ろ(北側)、地主神社の左(西)にあり、下の写真の「老松社」は三光門の前(南)の参道の左右にある4つの小さい社のうち西側にあるひとつです。
ちなみに、私は前々から「摂社」と「末社」とはどう違うのだろう、どういう基準で分けられているのだろう、と思い続けてきたのですが、両方の説明書きの写真を撮って来て見比べて見て発見したのですが、本殿の後ろ側にある「老松社」では説明書きに「末社 老松社」と書かれており、三光門の前にある「老松社」では説明書きに「摂社 老松社」と書かれているので、これは、前にある「老松社」が「摂社」で後ろにある「老松社」が「末社」であるというわけでもないでしょう。「摂社」と「末社」の違いというのはそう難しく考えなくてもよいということなのかと思います。
≪ 祭神 島田 忠臣(しまだ ただおき)翁≫で、
≪ 神徳 植林・林業の神 ≫ だそうです。
植林・林業の神さまとしては、「五十猛命(いそたけるのみこと)」を祀るとされる和歌山市の「伊太祁曽神社(いだきそじんじゃ)」(http://itakiso-jinja.net/index.php?blogid=6&catid=83 )とか、静岡県熱海市の「来宮神社(きのみやじんじゃ)」(http://www.kinomiya.or.jp/ )、「久久能智神(くくちのかみ)」を祀る兵庫県西宮市の「公知神社(くちじんじゃ)」(http://kuchijinja.jp/ )などが思い浮かびます。 西岡常一・小原二郎『法隆寺を支えた木』(1978.6.20.NHKブックス)の中の小原二郎「5.. ヒノキと日本人」に≪・・・興味深いのは『日本書紀』の素戔鳴尊(スサノオノミコト)の説話である。それによると、「日本は島国だから、舟がなければ困るだろうといわれて、ひげや胸の毛を抜いてまき散らしたところ、ヒノキとスギとクスノキとマキが生えた。そこで尊はそれぞれの用途を示して、ヒノキは宮殿に、スギとクスノキは舟に、マキは棺の材に使え」と教えたことが書かれている。≫と書かれており、それから考えると、八坂神社(京都市)のホームページhttp://web.kyoto-inet.or.jp/org/yasaka/ には、「植林・林業の神」とは出ていませんが、素戔鳴尊(スサノオノミコト)も植林・林業の神様と考えてよいかもしれません。 「五十猛命」も「久久能智神」も「素戔鳴尊(スサノオノミコト)」も『古事記』に登場する神さまであって実在した人物ではないのに対して、「島田忠臣」とは、≪ 菅公の家臣と伝えられ、また一説には公の岳父(夫人の父)ともいわれる≫実在した人物のようで、≪ 菅公が配流先の太宰府で、自らの無実を神々に訴えるため天拝山(てんぱいざん)に登られた時、公の笏を預かってお供をした人物で、後に菅公は忠臣に松の種を持たせ当地に撒くように託された。 道真公のご神霊がこの地に降臨される時、多数の松が一夜にして生じたという伝説は、この事跡によるものといわれる。≫と書かれています。
≪「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」という有名な歌は、京都を去る道真が詠んだものである。≫(戸部民夫『日本の神様がわかる本』2005.1.5.PHP研究所)というように、菅原道真と天神社・天満宮・北野・菅原神社に関係する樹木は梅かと思っていたら、松も関係するのですね。
↓ その梅の木は、1月の終わりにおいては、まだ、つぼみができてきたかというもので、花が咲くのはもう少し先のようです。
(↑クリックして大きくした上で、さらに +マークでクリックして拡大すれば、梅のつぼみがついてきているのが見えます。)
↑ 梅の花が咲くころに、また、来ることができればよいのですが、その頃は混むかもしれませんね。
次回(https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html )は、北野天満宮と「神徳」が「競合」する神さま、京福電鉄・北野白梅町→帷子の辻→西院 他について述べます。ぜひ、御覧下さいませ。
(2013.2.3.)
☆怨念を晴らす旅・冤罪を晴らす神さま・菅原道真シリーズは、
1.平河天満宮(東京都千代田区)
[第140回]《冤罪を晴らす神様・菅原道真を祀る 平河天満宮に行ってきました。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
2.葛飾天満宮(千葉県市川市)
[第154回]《葛飾八幡宮・葛飾天満宮(市川市)訪問~冤罪を晴らす神様・怨念を晴らす神様・菅原道真・第2回 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
3.亀戸天神社(東京都江東区)
[第157回]《亀戸天神社 訪問~冤罪を晴らす神さま・菅原道真・第3回、及、エスカレーターの不合理 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
4.北野天満宮(京都市上京区) 5部作
その1 [第159回]《北野天満宮へ行くはずが、なぜか妙心寺に来ちゃった? 天神御旅商店街と丸太町通り円町花園間 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
その2 [第160回]《円町駅から北野天満宮へ~天神通り~文子天満宮舊址・西の京瑞饋神輿保存会・奥渓家住宅・百鬼夜行資料館 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
その3 [第161回]《罪を晴らす神さま・菅原道真・北野天満宮・3―楼門・三光門・社殿(拝殿・弊殿・本殿・楽の間・脇殿) 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
今回が、その4
その5 [第163回]《北野天満宮訪問 5―菅原道真と競合する神様。 京福電鉄 今むかし。「西院」駅の怪。間違った福沢像理解》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
ぜひ、他の回もご覧下さいませ。
(2013.2.3.)
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