北野神社(文京区)訪問―梅が美しい「牛天神」―冤罪を晴らす神さま 菅原道真・怨念を晴らすお百度参り6
[第169回]全国怨念を晴らす旅・冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り シリーズ 第6回は、東京都文京区の 北野神社、「牛天神」 (東京都文京区春日1-5-2)です。
「牛天神」北野神社 のホームページの「交通のご案内」http://www.ushitenjin.jp/access/index.html を見ると、東京メトロ丸の内線・南北線「後楽園」より10分、都営三田線・大江戸線「春日(かすが)」より10分、JR中央線・東京メトロ東西線・有楽町線「飯田橋」より10分、と書かれています。 「飯田橋」駅には東京メトロ南北線・大江戸線の駅もありますが、それが書かれていないのは、南北線なら「後楽園」、大江戸線なら「春日」の方が若干近いからでしょうか。
今回は、JRで「飯田橋」駅まで行き、飯田橋駅から歩きました。飯田橋駅の北側、首都高速池袋線の下に川というのか堀というのかが流れており、その東側の南北の道を北に進み、ミニストップが右手にある角を右(東)に曲がって直進すると「安藤坂」から「教育センター前」交差点に出て、その向こう(東)に北野神社(牛天神)の石段が見えてきます。↓
↑ 「教育センター前」交差点から(西側から)見た「北野神社(「牛天神」)」と参道。
↑写真はクリックすると大きくなります。 大きくすると、右寄りの建物の壁面中央に「梅鉢」の紋が見えます。この建物は境内南東よりにある牛天神会館です。
大きくしたうえで、さらに「+」マークをあててクリックすると、「北野神社」と書かれた石碑とその向こうに「牛天神」と書かれているものと、その向こうの石階段に立っている紫色の幟に「北野神社」と書かれているのが読めます。
↑ 石段沿いの梅の木に花が美しく咲いています。
↑ 北野神社(「牛天神」) 拝殿 です。(↑↓写真はクリックすると大きくなります。) 拝殿の両脇に石製の牛の像があります。 平河天満宮(千代田区)〔[第140回]《冤罪を晴らす神様・菅原道真を祀る 平河天満宮に行ってきました。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html 参照。〕では、社殿の前の両側に座った牛の像があったものの、それより社殿に近い位置に、狛犬の像もあったのですが、この(文京区の)北野神社では、社殿のすぐ前の両側には座った牛の像があります。 ここでは、牛が狛犬の代りを勤めているのか?・・・と思いきや、↓
↑ 平河天満宮では社殿のすぐ前の両脇に狛犬がいて、その前の両側に牛の像がいましたが、北野神社では、逆に、社殿のすぐ前の両側に牛の像がいて、それよりも手前の両側に狛犬がいたのです。
↑ 東側から見た社殿。 ↑ぜひ、クリックして写真を大きくして見てください。↑ 一番後ろ、北側の建物が「本殿」で、一番前、南側の建物が「拝殿」と思われますが、そうなると、まん中の東西に棟木が走っている建物は、「拝殿」なのか「本殿」なのか?
一番北側の「本殿」と思われる建物が、他の建物よりも高い地盤の上に建っているので、やはり、それが「本殿」なのでしょう。 となると、まん中の建物は、やはり、「拝殿」ということになるのでしょうか。
これは、「石の間造り」ではなく、まん中から前(まん中から南)側が、「八幡造り」で、「拝殿」部分が、「前殿(まえどの)」と「後殿(うしろどの)」の2つから構成されていて、その間の部分は「弊殿(へいでん)〔石の間(いしのま)〕」ではなく、「相の間(あいのま)」で、この「前殿+相の間+後殿」の背後(北側)に「本殿」があって、「前殿+相の間+後殿」と「本殿」の間の部分が「弊殿(石の間)」ということになる、ということで、何造りと呼ぶべきかというと、「八幡造り」を拝殿部分に含んだ「石の間造り」?・・・。 しかし、まん中から前の部分が「八幡造り」だとすると、「八幡造り」では「前殿」「後殿」の両方が「本殿」という扱いであるはずで、それがここでは「拝殿」になっているということでしょうか?
また、前の「前殿+相の間+後殿」の拝殿部分ですが、この部分だけ見ると、やはり、この部分で「石の間造り」になっているようにも見えますし、この部分について、「八幡造り」かというと、少し違うようにも思えます。
もちろん、いくつかの「○○造り」と名称をつけられている様式に無理矢理分類しなければならないこともないわけで、それと異なる作りがあって悪いことはないわけです。 これは、「前殿+相の間+後殿」の「八幡造り」で「拝殿」が構成されて、その後ろに「弊殿(石の間)」で繋がれる「本殿」がある「石の間造り」ととらえるよりも、「石の間造り」で構成される「拝殿」と「弊殿(石の間)」で繋がれる「本殿」がある「ダブル 石の間造り」とでも言うべき様式・・と考えた方がよいのでしょうか?・・・。 しかし、「ダブル 石の間造り」とすると、まん中の部分は「拝殿」なのか「本殿」なのか、と再び素朴に疑問がでてきます・・。
※「八幡造り」については、
《ウィキペディア―八幡造》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E9%80%A0
《玄松子の記憶―【神社建築 本殿様式】八幡造》http://www.genbu.net/tisiki/yahata.htm
※「石の間造り」については、
《ウィキペディア―権現造》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E7%8F%BE%E9%80%A0
他参照。
↑ この北野神社は、北野神社のホームページの「御祭神と縁起」http://www.ushitenjin.jp/about/index.html 「境内のご案内 (ねがい牛)」http://www.ushitenjin.jp/keidai/index.html や、文京区の観光案内http://www.city.bunkyo.lg.jp/visitor_kanko_jisha_kitano.html、境内の案内表示板・由緒書を見ると、源頼朝がこの地に来た時、入江の松に船をつなぎ、岩に腰を降ろして休息をとった時、夢に菅原道真が現れて、願い事が2つかなうと語ったといい、眼を覚まして見ると、その岩が牛の形をしていた、もしくは、眼を覚ました時、ふと見ると、夢に菅原道真が現れた時に道真が乗っていた牛に似た岩があった、といい、その岩をご神体として社殿を造営したのがこの北野神社(牛天神)の始まりといい、その「源頼朝が見た夢で菅原道真が乗っていた牛に似た岩」「源頼朝が腰かけて夢を見た岩」というのが、↑この写真の岩だそうです。 道真は頼朝の夢の中で、願い事が2つかなうと言い、その通り、源頼朝には、息子・頼家が生まれ、平家をしりぞけることができたということで、今日でも、この岩を撫でると願いがかなうと言われているそうです。
この神社は、最初の写真で石段が見えるように西側・南側より少々高い丘にあります。今現在は、この付近は海に近い場所ではありませんが、この少し東にある不忍池(しのばずのいけ)もかつては海とつながっていたと言われるように、この付近もこの神社の下のあたりまで海水がきていたのでしょうか。
この岩の左よりの方が牛の顔の方にあたるそうです。 牛に似ていると言われると似ているようにも思えてきます。
↑ 境内社 「太田神社・高木神社」
「太田神社・高木神社」と書かれていますが、社(やしろ)はひとつです。 祀られているのは、
天鈿女命(あめのうずめのみこと)・・・芸能の神、福の神、商売繁盛の神、
猿田彦命(さるたひこのみこと)・・・道案内の神、
宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)・・・五穀豊穣の神、
黒闇天女(くろやみてんにょ)〔弁財天の姉〕・・・福の神
だそうですが、2つの社名が書かれていて、複数の神さまが祀られているのですが、どちらにどの神さまが祀られているのでしょう。
「黒闇天女(くろやみてんにょ)」とは何者なのか? 北野神社のホームページの「境内ご案内(太田神社 高木神社)」http://www.ushitenjin.jp/keidai/index.html には、≪昔々、小石川の三百坂の処に住んでいた清貧旗本の夢枕に一人の老婆が立ち、「わしはこの家に住みついている貧乏神じゃが、居心地が良く長い間世話になっておる。そこで、お礼をしたいのでわしの言うことを忘れずに行うのじゃ…」と告げた。正直者の旗本はそのお告げを忘れず、実行した。すると、たちまち運が向き、清貧旗本はお金持ちになる。そのお告げとは・・・≫≪もとは、貧乏神と言われた黒闇天女(くろやみてんにょ)(弁財天の姉)をお祀りしていましたが、江戸時代にあったとされる出来事から、人についている貧乏神を追い払い、福の神を招き入れることができると庶民の信仰を集めるようになったそうです。≫と書かれています。 文京区教育委員会が建てた説明書きには≪この神社はもともと貧乏神と言われた黒闇天女(くろやみてんにょ)(弁財天の姉)を祀っていたが、江戸のころ、この近くに住む貧乏旗本の窮状を救ってからは、福の神として庶民の信仰を集めるようになったという伝説が残っている。≫と書かれているのですが、「goo辞書 こくあん‐てんにょ【黒闇天女】」http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/76664/m0u/ を見ると、≪⇒黒闇天(こくあんてん)≫と書かれており、「goo辞書‐ こくあん‐てん【黒闇天】」http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/76663/m0u/ を見ると、≪容貌(ようぼう)醜悪で、人に災難を与えるという女神。吉祥天の妹で、密教では閻魔王(えんまおう)の妃とする。黒闇天女。黒闇女。黒夜神。≫と書かれています。 「吉祥天」は≪もとヒンドゥー教の女神であるラクシュミー(Laksmii)が仏教に取り入れられたもの。ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の妃とされ、また愛神カーマの母とされる。≫(「ウィキペディア―吉祥天」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%A5%A5%E5%A4%A9 )、「弁財天」は≪仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvatī)が、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名≫(「ウィキペディア―弁財天」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E6%89%8D%E5%A4%A9 )で、「弁財天の姉」と「吉祥天の妹」では、ずいぶんと違うようにも思いますが、実在した人物でもないので複数の説があってもおかしなことではないのかもしれません。
『古事記』(倉野憲司校注 1963.1.16.岩波文庫)には、
≪ 〔速須佐之男の命(はや すさのおのみこと)、〕 また大山津見の神(おおやまつみのかみ)の女(むすめ)、名は神大市比賣(かむおほいちひめ)を娶して(めとして)生める子は、大年神(おおとしのかみ)。 次に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。二柱。≫とあり、倉野憲司の注では、宇迦之御魂神について≪食物の御魂の神。書紀には倉稲魂とある。≫と書かれています。 戸部民夫『日本の神様がわかる本』(2005.1.5. PHP出版社)には≪宇迦之御魂神≫について≪ウカノミタマ神は、平常は稲荷(いなり)神として大活躍し、「お稲荷さん」といえば誰でも知っている。それくらい全国各地に数多く祀られていて、非常にしたしまれている庶民的な神さまである。≫と書かれています。
≪ ・・・天宇受賣命(あめのうずめのみこと)、天の香山の天の日影を手次(たすき)に繋けて(かえて)、天の眞拆(まさき)を鬘(かづら)として、天の香山の小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)に結ひて、天の石屋(いわや)戸に槽伏せ(うけふせ)て蹈み轟こし、神懸かりして、胸乳(むなち)をかき出で(いで)裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき。ここに高天の原動みて(とよみて)、八百萬の神共にわらひき。 ≫
≪ ここに日子番能邇邇藝命(ひこほの ににぎのみこと)、天降りまさむとする時に、天の八衢(やちまた)に居て、上(かみ)は高天の原を光し(てらし)、下(しも)は葦原の中つ國を光す(てらす)神、ここにあり。 故ここに天照大御神、高木の神の命もちて、天の受賣命の神(あめのうずめのかみ)に詔りたまひしく、「汝(いまし)は手弱女人(たおやめ)にあれども、い對ふ(いむかふ)神と面勝つ(おもかつ)神なり。 故、専ら(もはら)汝往きて問はむは、『吾が御子の天降り(あもり)爲る(する)道を、誰ぞかくて居る。』とのりたまひき。 故、問ひたまふ時に、答へ白ししく(もうししく)、「僕(あ)は國つ神、名は猿田毘古神(さるだびこのかみ)ぞ。出で居る所以(ゆゑ)は、天つ神の御子天降りますと聞きつる故に、御崎に仕え奉らむとして、參向へ(まひむかへ)侍ふ(さもらふ)ぞ。」とまをしき。 ≫と『古事記』にあります。
『古事記』では、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)は、天照大御神が天石屋(あまのいわや)に隠れたとき、その前で踊った女性で、「天孫降臨」の時、その経路にいた猿田毘古神(さるだびこのかみ)に、誰が何故にそこにいるのかと尋ねた神、猿田毘古神(さるだびこのかみ)は、「天孫降臨」に際して、仕えようとしてきたと言い「天孫」を道案内した神とされるようです。
ここでは、この3神の中では、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が主となっている印象があります。 この社の前に「道祖神」の石碑があることから考えて、猿田毘古神(さるだびこのかみ)は天鈿女命(あめのうずめのみこと)とつながりが深いことから、道祖神と同視して祀られるようになったということはないでしょうか。
そして、農業・食物の神で全国的人気のある「稲荷」(⇒宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が加えられた可能性はありそうな気がしたのですが、文京区教育委員会が建てた説明書には≪合祀の高木神社は、旧・大六天町(現・小日向1丁目)にあった五穀豊穣の神である大六天神社を、道路拡張に伴い、ここに移したものである。≫と書かれているので、「稲荷」(⇒宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)はそこからきたものということでしょう。
「摂社」と「末社」との区別のしかたとして、≪明治時代に定められた社格制度では、本殿祭神の后や子どもといった血縁の神さまを祀る、本殿祭神が鎮座する以前からその土地におられた神さまを祀る、本殿祭神の荒魂(あらみたま)(神の荒々しい性格の面)を祀る、境内地の地主神を祀る、その神社と特別な関係にある神さまを祀る、といった社を摂社と呼び、それ以外を末社とするとしていた。≫≪一般的には社の規模が比較的大きいものを摂社、小さなものを末社と呼ぶが、この大小についても特別な基準があるわけではない。≫(『これだけは知っておきたい神社入門』〔2007.7.27.洋泉社MOOK〕)という2つのどちらの基準から考えても、この「太田神社 高木神社」は「摂社」の方に分類されそうです。単に、他の神社の神さまも拝みたいが遠くまで行けない人のために設けた・・・というようなものではなく、相当に重要な位置づけがありそうな感じがします。
まず、「貧乏神」が福をさずけてくれたという話があって、その貧乏神が最初から「黒闇天女」であったのかどうかはわからないが、「貧乏神」が「福の神」になった「神さま」がおられたのでしょう。
それと別に、道祖神が祀られていたのではないでしょうか。
明治以来の『古事記』『日本書紀』に登場する「神さま」と各地の神社の神さまを融合する「神仏習合」ならぬ「神神習合」の政治的な動向のもとで、「福の神」に「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」が結びつけられ、「道祖神」に「天鈿女命」と『古事記』でつながりが深い「猿田毘古神(さるだびこのかみ)」が結びつけられた。それが「太田神社」。
その後、≪旧・大六天町(現・小日向1丁目)にあった五穀豊穣の神である大六天神社を、道路拡張に伴い、ここに移した≫ことから「稲荷」〔宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)〕がやってきた。これが「高木神社」。
「天鈿女命」と「猿田毘古神」は『古事記』において近い存在ですが、「宇迦之御魂神」はこの2神とそう近くない神であるのに、なぜ同じ社にいらっしゃるのかと思ったのですが、そういう経緯らしい。
それで。 どうも、この北野神社のルーツとしては、
1.「貧乏神」が「福の神」となって福を授けてくれたというお話から祀られた「黒闇天女」
2.道祖神
3.道路拡張から引っ越してきた稲荷神
それに、菅原道真≒天神 と4つのルーツがあり、いずれも、この神社にとっての重要性は低くないと見てよさそうに思えます。
「福の神」が祀られてきた太田神社ですが、「太田」という名前からですと、江戸城を築城したという太田道灌が思い浮かびます。 江戸城に近い場所ですから、何らかの関係があったとしてもおかしくないように思えますが、どうなのでしょうか。
稲荷神が祀られる「高木神社」の方ですが、「高木」という名前からですと、『古事記』に登場する「高木の神」「高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」が連想されます。 『古事記』では、
≪ 天地(あめつち)初めて發けし(ひらけし)時、高天の原(たかまのはら)に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。 次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。 次に神産巣日神(かみむすひのかみ)。 この三柱の神は、みな獨神(ひとりがみ)と成りまして、身を隠したまひき。≫
≪ この高木の神は、高御産巣日の神(たかみむすひのかみ)の別(また)の名ぞ。≫と書かれています。倉野憲司の注には、「高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」と「神産巣日神(かみむすひのかみ)」を≪以下の二神は生成力の神格化。≫としています。 ≪生成力の神格化≫であれば、農業・食物の神の「稲荷神」とつながってもおかしくないようにも思えます。 この地に引っ越してくるより前に、そのつながりで「高木神社」という名称がつき、農業・食物の神として全国的・一般的に祀られる「稲荷神」と『古事記』『日本書紀』の中に登場する神の中で「稲荷神」だとされる宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が祀られているということにされた・・・ということは可能性としてはありそうな感じもしますが、どうでしょう。
文京区教育委員会の説明書には≪北野神社は、江戸時代金杉天神、俗に牛天神と呼ばれた。御祭神は菅原道真公である。・・・≫と書かれている。
菅原道真を祀る神社は全国にいくつもあり、名称として「天神」「天満」「菅原」「北野」という名前を社名に入れるものが多い。 この神社も京都の「北野天満宮」から「北野」という社名がつけられたのか・・と思いがちだが、「北野神社」ホームページの「境内のご案内 (ねがい牛)」http://www.ushitenjin.jp/keidai/index.html を見ると、≪・・・・その後、ここにあった牛に似た石を御神体とされ、大宰府天満宮より御魂を勧請されたと伝えられており、これが撫で岩の発祥で牛天神の始まりです。≫と書かれており、菅原道真を祭神とする神社でも、京都の北野天満宮から「勧請」した神社ではなく、福岡県の太宰府天満宮から「勧請」した方の神社らしく、北野天満宮から「勧請」したのではなく太宰府天満宮から「勧請」した神社が、何故、「北野神社」という名称なのか? というと、もしかすると、神社名は、「江戸城の北の方にある神社」からきているという可能性もありえないことはないとも思えます。
さらに、もしかすると、「江戸城の北の方にある神社」から「北野神社」という名称がついたことから、菅原道真を祀るようになった・・という可能性もないとはいえないのではないか・・・。
もしかすると、太田道灌から名前がついた「太田神社」がもともとは本体であったのではないのか?・・・それは、「福の神」が祀られるようになったように、この地域に住む人たちに「幸福な生活」をもたらすこの土地の一般的な唯一心的な神さまであったのではないか?・・・・・と考えられないことはないような気がしてきます。
もしかすると、本殿が2つあるような社殿の造りは、まん中の「本殿」が菅原道真を祀り、その後ろの「本殿」はこの地に昔から祀られてきたこの地の神を祀ってきたということ? という可能性もありえそうに思えてきます。
江戸城の 北の 位置から江戸城に「気」を送り込む「パワースポット」のような丘を尊重したのが最初の始まり・・という可能性も考えられそうに思えます。
これらは、あくまで、「もしかすると・・・・の可能性も考えられないことはないのではないか」というもので、断定できるような論拠があるわけでもなく、軽率に断定すべきものでもないと思います。
↓ 江戸時代に徳川光圀(“悪代官を懲らしめる神さま”(?)水戸黄門)(⇒「YouTube- あゝ人生に涙あり 」https://www.youtube.com/watch?v=Gu37IixsIg4 )が奉納した桜の木 5本のうち、枯れずに今も残っている1本で、≪木から“気”が出ており、参拝者の方々は桜の木より“気”をいただいてお帰りになります≫(「北野神社」ホームページ「境内のご案内 (桜の木)」http://www.ushitenjin.jp/keidai/index.html )ということですが、3月初旬においては、梅は満開ですが、桜の花はまだのようです。↓
造園にも関係がある仕事である住宅建築請負業の会社に私は長く勤務してきたのですが、正直なところ、桜は派手で美しいが、散った時のことを考えると敷地が狭い住宅で狭い庭に植えた場合、散った花が近隣の家に大量に飛んで近所から嫌がられる可能性があるが、しかし、それでも美しいので、自宅に植えられない場合、近所に「桜の名所」があるとうれしい・・と思ってきたのですが、一方で、お恥ずかしいことに、梅は桜に比べて地味でおもしろみがないように思ってきたのです。 しかし、この北野神社の梅を見て認識を改めました。 実に美しく、又、複数の種類の梅が咲くのも興味深い。桜と違ってその下で酒飲んで騒ごうという雰囲気でなく、静かに楽しめるところもいいと思います。
この神社に来て梅の花を見ると、≪「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」という有名な歌は、京都を去る道真が詠んだものである。≫(戸部民夫『日本の神様がわかる本』[2005.1.5.PHP研究所] )という歌の気持ちがわかるような気がいたします。
東京メトロ丸の内線では「後楽園」が最寄駅ですが、今回、その東側の「本郷三丁目」まで歩いてみました。
この神社の北東側を春日通りに向おうとすると、その間に「警視庁第五方面本部」(「Mapion電話帳 警視庁第五方面本部」http://www.mapion.co.jp/phonebook/M13003/13105/L13101010600000000106/ )なるものがあります。(お~お、こわ~あ)
※ 今回、訪問・参拝に際し、
《「牛天神」北野神社》ホームページ http://www.ushitenjin.jp/
《文京区 文京区の観光案内 北野神社 牛天神》http://www.city.bunkyo.lg.jp/visitor_kanko_jisha_kitano.html
を参考にさせていただきました。
《ウィキペディア―天満宮》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE には、東京都で14社(23区内8社、23区以外6社)掲載の1社として名前が出ていますが、ウィキペディアの「北野神社(文京区)」は「作成中」となっています。
☆怨念を晴らす旅・冤罪を晴らす神さま・菅原道真 シリーズは、
1.平河天満宮(東京都千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
2.葛飾天満宮(千葉県市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
3.亀戸天神社(東京都江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
4.北野天満宮(京都市上京区)
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
5.意富比神社 末社 天神社(千葉県船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
に続き、6社めです。 今後も続きます。
(2013.3.4.)
☆牛天神から春日通りを経て本郷三丁目駅までについて、[第170回]《牛天神から春日通、本郷三丁目。中央大理工学部・東京戦没者霊苑・シビックセンター。名曲喫茶。住宅と擁壁》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_3.html として公開したしました。御覧下さいませ。(3.8.)
「牛天神」北野神社 のホームページの「交通のご案内」http://www.ushitenjin.jp/access/index.html を見ると、東京メトロ丸の内線・南北線「後楽園」より10分、都営三田線・大江戸線「春日(かすが)」より10分、JR中央線・東京メトロ東西線・有楽町線「飯田橋」より10分、と書かれています。 「飯田橋」駅には東京メトロ南北線・大江戸線の駅もありますが、それが書かれていないのは、南北線なら「後楽園」、大江戸線なら「春日」の方が若干近いからでしょうか。
今回は、JRで「飯田橋」駅まで行き、飯田橋駅から歩きました。飯田橋駅の北側、首都高速池袋線の下に川というのか堀というのかが流れており、その東側の南北の道を北に進み、ミニストップが右手にある角を右(東)に曲がって直進すると「安藤坂」から「教育センター前」交差点に出て、その向こう(東)に北野神社(牛天神)の石段が見えてきます。↓
↑ 「教育センター前」交差点から(西側から)見た「北野神社(「牛天神」)」と参道。
↑写真はクリックすると大きくなります。 大きくすると、右寄りの建物の壁面中央に「梅鉢」の紋が見えます。この建物は境内南東よりにある牛天神会館です。
大きくしたうえで、さらに「+」マークをあててクリックすると、「北野神社」と書かれた石碑とその向こうに「牛天神」と書かれているものと、その向こうの石階段に立っている紫色の幟に「北野神社」と書かれているのが読めます。
↑ 石段沿いの梅の木に花が美しく咲いています。
↑ 北野神社(「牛天神」) 拝殿 です。(↑↓写真はクリックすると大きくなります。) 拝殿の両脇に石製の牛の像があります。 平河天満宮(千代田区)〔[第140回]《冤罪を晴らす神様・菅原道真を祀る 平河天満宮に行ってきました。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html 参照。〕では、社殿の前の両側に座った牛の像があったものの、それより社殿に近い位置に、狛犬の像もあったのですが、この(文京区の)北野神社では、社殿のすぐ前の両側には座った牛の像があります。 ここでは、牛が狛犬の代りを勤めているのか?・・・と思いきや、↓
↑ 平河天満宮では社殿のすぐ前の両脇に狛犬がいて、その前の両側に牛の像がいましたが、北野神社では、逆に、社殿のすぐ前の両側に牛の像がいて、それよりも手前の両側に狛犬がいたのです。
↑ 東側から見た社殿。 ↑ぜひ、クリックして写真を大きくして見てください。↑ 一番後ろ、北側の建物が「本殿」で、一番前、南側の建物が「拝殿」と思われますが、そうなると、まん中の東西に棟木が走っている建物は、「拝殿」なのか「本殿」なのか?
一番北側の「本殿」と思われる建物が、他の建物よりも高い地盤の上に建っているので、やはり、それが「本殿」なのでしょう。 となると、まん中の建物は、やはり、「拝殿」ということになるのでしょうか。
これは、「石の間造り」ではなく、まん中から前(まん中から南)側が、「八幡造り」で、「拝殿」部分が、「前殿(まえどの)」と「後殿(うしろどの)」の2つから構成されていて、その間の部分は「弊殿(へいでん)〔石の間(いしのま)〕」ではなく、「相の間(あいのま)」で、この「前殿+相の間+後殿」の背後(北側)に「本殿」があって、「前殿+相の間+後殿」と「本殿」の間の部分が「弊殿(石の間)」ということになる、ということで、何造りと呼ぶべきかというと、「八幡造り」を拝殿部分に含んだ「石の間造り」?・・・。 しかし、まん中から前の部分が「八幡造り」だとすると、「八幡造り」では「前殿」「後殿」の両方が「本殿」という扱いであるはずで、それがここでは「拝殿」になっているということでしょうか?
また、前の「前殿+相の間+後殿」の拝殿部分ですが、この部分だけ見ると、やはり、この部分で「石の間造り」になっているようにも見えますし、この部分について、「八幡造り」かというと、少し違うようにも思えます。
もちろん、いくつかの「○○造り」と名称をつけられている様式に無理矢理分類しなければならないこともないわけで、それと異なる作りがあって悪いことはないわけです。 これは、「前殿+相の間+後殿」の「八幡造り」で「拝殿」が構成されて、その後ろに「弊殿(石の間)」で繋がれる「本殿」がある「石の間造り」ととらえるよりも、「石の間造り」で構成される「拝殿」と「弊殿(石の間)」で繋がれる「本殿」がある「ダブル 石の間造り」とでも言うべき様式・・と考えた方がよいのでしょうか?・・・。 しかし、「ダブル 石の間造り」とすると、まん中の部分は「拝殿」なのか「本殿」なのか、と再び素朴に疑問がでてきます・・。
※「八幡造り」については、
《ウィキペディア―八幡造》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E9%80%A0
《玄松子の記憶―【神社建築 本殿様式】八幡造》http://www.genbu.net/tisiki/yahata.htm
※「石の間造り」については、
《ウィキペディア―権現造》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E7%8F%BE%E9%80%A0
他参照。
↑ この北野神社は、北野神社のホームページの「御祭神と縁起」http://www.ushitenjin.jp/about/index.html 「境内のご案内 (ねがい牛)」http://www.ushitenjin.jp/keidai/index.html や、文京区の観光案内http://www.city.bunkyo.lg.jp/visitor_kanko_jisha_kitano.html、境内の案内表示板・由緒書を見ると、源頼朝がこの地に来た時、入江の松に船をつなぎ、岩に腰を降ろして休息をとった時、夢に菅原道真が現れて、願い事が2つかなうと語ったといい、眼を覚まして見ると、その岩が牛の形をしていた、もしくは、眼を覚ました時、ふと見ると、夢に菅原道真が現れた時に道真が乗っていた牛に似た岩があった、といい、その岩をご神体として社殿を造営したのがこの北野神社(牛天神)の始まりといい、その「源頼朝が見た夢で菅原道真が乗っていた牛に似た岩」「源頼朝が腰かけて夢を見た岩」というのが、↑この写真の岩だそうです。 道真は頼朝の夢の中で、願い事が2つかなうと言い、その通り、源頼朝には、息子・頼家が生まれ、平家をしりぞけることができたということで、今日でも、この岩を撫でると願いがかなうと言われているそうです。
この神社は、最初の写真で石段が見えるように西側・南側より少々高い丘にあります。今現在は、この付近は海に近い場所ではありませんが、この少し東にある不忍池(しのばずのいけ)もかつては海とつながっていたと言われるように、この付近もこの神社の下のあたりまで海水がきていたのでしょうか。
この岩の左よりの方が牛の顔の方にあたるそうです。 牛に似ていると言われると似ているようにも思えてきます。
↑ 境内社 「太田神社・高木神社」
「太田神社・高木神社」と書かれていますが、社(やしろ)はひとつです。 祀られているのは、
天鈿女命(あめのうずめのみこと)・・・芸能の神、福の神、商売繁盛の神、
猿田彦命(さるたひこのみこと)・・・道案内の神、
宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)・・・五穀豊穣の神、
黒闇天女(くろやみてんにょ)〔弁財天の姉〕・・・福の神
だそうですが、2つの社名が書かれていて、複数の神さまが祀られているのですが、どちらにどの神さまが祀られているのでしょう。
「黒闇天女(くろやみてんにょ)」とは何者なのか? 北野神社のホームページの「境内ご案内(太田神社 高木神社)」http://www.ushitenjin.jp/keidai/index.html には、≪昔々、小石川の三百坂の処に住んでいた清貧旗本の夢枕に一人の老婆が立ち、「わしはこの家に住みついている貧乏神じゃが、居心地が良く長い間世話になっておる。そこで、お礼をしたいのでわしの言うことを忘れずに行うのじゃ…」と告げた。正直者の旗本はそのお告げを忘れず、実行した。すると、たちまち運が向き、清貧旗本はお金持ちになる。そのお告げとは・・・≫≪もとは、貧乏神と言われた黒闇天女(くろやみてんにょ)(弁財天の姉)をお祀りしていましたが、江戸時代にあったとされる出来事から、人についている貧乏神を追い払い、福の神を招き入れることができると庶民の信仰を集めるようになったそうです。≫と書かれています。 文京区教育委員会が建てた説明書きには≪この神社はもともと貧乏神と言われた黒闇天女(くろやみてんにょ)(弁財天の姉)を祀っていたが、江戸のころ、この近くに住む貧乏旗本の窮状を救ってからは、福の神として庶民の信仰を集めるようになったという伝説が残っている。≫と書かれているのですが、「goo辞書 こくあん‐てんにょ【黒闇天女】」http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/76664/m0u/ を見ると、≪⇒黒闇天(こくあんてん)≫と書かれており、「goo辞書‐ こくあん‐てん【黒闇天】」http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/76663/m0u/ を見ると、≪容貌(ようぼう)醜悪で、人に災難を与えるという女神。吉祥天の妹で、密教では閻魔王(えんまおう)の妃とする。黒闇天女。黒闇女。黒夜神。≫と書かれています。 「吉祥天」は≪もとヒンドゥー教の女神であるラクシュミー(Laksmii)が仏教に取り入れられたもの。ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の妃とされ、また愛神カーマの母とされる。≫(「ウィキペディア―吉祥天」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%A5%A5%E5%A4%A9 )、「弁財天」は≪仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvatī)が、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名≫(「ウィキペディア―弁財天」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E6%89%8D%E5%A4%A9 )で、「弁財天の姉」と「吉祥天の妹」では、ずいぶんと違うようにも思いますが、実在した人物でもないので複数の説があってもおかしなことではないのかもしれません。
『古事記』(倉野憲司校注 1963.1.16.岩波文庫)には、
≪ 〔速須佐之男の命(はや すさのおのみこと)、〕 また大山津見の神(おおやまつみのかみ)の女(むすめ)、名は神大市比賣(かむおほいちひめ)を娶して(めとして)生める子は、大年神(おおとしのかみ)。 次に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。二柱。≫とあり、倉野憲司の注では、宇迦之御魂神について≪食物の御魂の神。書紀には倉稲魂とある。≫と書かれています。 戸部民夫『日本の神様がわかる本』(2005.1.5. PHP出版社)には≪宇迦之御魂神≫について≪ウカノミタマ神は、平常は稲荷(いなり)神として大活躍し、「お稲荷さん」といえば誰でも知っている。それくらい全国各地に数多く祀られていて、非常にしたしまれている庶民的な神さまである。≫と書かれています。
≪ ・・・天宇受賣命(あめのうずめのみこと)、天の香山の天の日影を手次(たすき)に繋けて(かえて)、天の眞拆(まさき)を鬘(かづら)として、天の香山の小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)に結ひて、天の石屋(いわや)戸に槽伏せ(うけふせ)て蹈み轟こし、神懸かりして、胸乳(むなち)をかき出で(いで)裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき。ここに高天の原動みて(とよみて)、八百萬の神共にわらひき。 ≫
≪ ここに日子番能邇邇藝命(ひこほの ににぎのみこと)、天降りまさむとする時に、天の八衢(やちまた)に居て、上(かみ)は高天の原を光し(てらし)、下(しも)は葦原の中つ國を光す(てらす)神、ここにあり。 故ここに天照大御神、高木の神の命もちて、天の受賣命の神(あめのうずめのかみ)に詔りたまひしく、「汝(いまし)は手弱女人(たおやめ)にあれども、い對ふ(いむかふ)神と面勝つ(おもかつ)神なり。 故、専ら(もはら)汝往きて問はむは、『吾が御子の天降り(あもり)爲る(する)道を、誰ぞかくて居る。』とのりたまひき。 故、問ひたまふ時に、答へ白ししく(もうししく)、「僕(あ)は國つ神、名は猿田毘古神(さるだびこのかみ)ぞ。出で居る所以(ゆゑ)は、天つ神の御子天降りますと聞きつる故に、御崎に仕え奉らむとして、參向へ(まひむかへ)侍ふ(さもらふ)ぞ。」とまをしき。 ≫と『古事記』にあります。
『古事記』では、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)は、天照大御神が天石屋(あまのいわや)に隠れたとき、その前で踊った女性で、「天孫降臨」の時、その経路にいた猿田毘古神(さるだびこのかみ)に、誰が何故にそこにいるのかと尋ねた神、猿田毘古神(さるだびこのかみ)は、「天孫降臨」に際して、仕えようとしてきたと言い「天孫」を道案内した神とされるようです。
ここでは、この3神の中では、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が主となっている印象があります。 この社の前に「道祖神」の石碑があることから考えて、猿田毘古神(さるだびこのかみ)は天鈿女命(あめのうずめのみこと)とつながりが深いことから、道祖神と同視して祀られるようになったということはないでしょうか。
そして、農業・食物の神で全国的人気のある「稲荷」(⇒宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が加えられた可能性はありそうな気がしたのですが、文京区教育委員会が建てた説明書には≪合祀の高木神社は、旧・大六天町(現・小日向1丁目)にあった五穀豊穣の神である大六天神社を、道路拡張に伴い、ここに移したものである。≫と書かれているので、「稲荷」(⇒宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)はそこからきたものということでしょう。
「摂社」と「末社」との区別のしかたとして、≪明治時代に定められた社格制度では、本殿祭神の后や子どもといった血縁の神さまを祀る、本殿祭神が鎮座する以前からその土地におられた神さまを祀る、本殿祭神の荒魂(あらみたま)(神の荒々しい性格の面)を祀る、境内地の地主神を祀る、その神社と特別な関係にある神さまを祀る、といった社を摂社と呼び、それ以外を末社とするとしていた。≫≪一般的には社の規模が比較的大きいものを摂社、小さなものを末社と呼ぶが、この大小についても特別な基準があるわけではない。≫(『これだけは知っておきたい神社入門』〔2007.7.27.洋泉社MOOK〕)という2つのどちらの基準から考えても、この「太田神社 高木神社」は「摂社」の方に分類されそうです。単に、他の神社の神さまも拝みたいが遠くまで行けない人のために設けた・・・というようなものではなく、相当に重要な位置づけがありそうな感じがします。
まず、「貧乏神」が福をさずけてくれたという話があって、その貧乏神が最初から「黒闇天女」であったのかどうかはわからないが、「貧乏神」が「福の神」になった「神さま」がおられたのでしょう。
それと別に、道祖神が祀られていたのではないでしょうか。
明治以来の『古事記』『日本書紀』に登場する「神さま」と各地の神社の神さまを融合する「神仏習合」ならぬ「神神習合」の政治的な動向のもとで、「福の神」に「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」が結びつけられ、「道祖神」に「天鈿女命」と『古事記』でつながりが深い「猿田毘古神(さるだびこのかみ)」が結びつけられた。それが「太田神社」。
その後、≪旧・大六天町(現・小日向1丁目)にあった五穀豊穣の神である大六天神社を、道路拡張に伴い、ここに移した≫ことから「稲荷」〔宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)〕がやってきた。これが「高木神社」。
「天鈿女命」と「猿田毘古神」は『古事記』において近い存在ですが、「宇迦之御魂神」はこの2神とそう近くない神であるのに、なぜ同じ社にいらっしゃるのかと思ったのですが、そういう経緯らしい。
それで。 どうも、この北野神社のルーツとしては、
1.「貧乏神」が「福の神」となって福を授けてくれたというお話から祀られた「黒闇天女」
2.道祖神
3.道路拡張から引っ越してきた稲荷神
それに、菅原道真≒天神 と4つのルーツがあり、いずれも、この神社にとっての重要性は低くないと見てよさそうに思えます。
「福の神」が祀られてきた太田神社ですが、「太田」という名前からですと、江戸城を築城したという太田道灌が思い浮かびます。 江戸城に近い場所ですから、何らかの関係があったとしてもおかしくないように思えますが、どうなのでしょうか。
稲荷神が祀られる「高木神社」の方ですが、「高木」という名前からですと、『古事記』に登場する「高木の神」「高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」が連想されます。 『古事記』では、
≪ 天地(あめつち)初めて發けし(ひらけし)時、高天の原(たかまのはら)に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。 次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。 次に神産巣日神(かみむすひのかみ)。 この三柱の神は、みな獨神(ひとりがみ)と成りまして、身を隠したまひき。≫
≪ この高木の神は、高御産巣日の神(たかみむすひのかみ)の別(また)の名ぞ。≫と書かれています。倉野憲司の注には、「高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」と「神産巣日神(かみむすひのかみ)」を≪以下の二神は生成力の神格化。≫としています。 ≪生成力の神格化≫であれば、農業・食物の神の「稲荷神」とつながってもおかしくないようにも思えます。 この地に引っ越してくるより前に、そのつながりで「高木神社」という名称がつき、農業・食物の神として全国的・一般的に祀られる「稲荷神」と『古事記』『日本書紀』の中に登場する神の中で「稲荷神」だとされる宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が祀られているということにされた・・・ということは可能性としてはありそうな感じもしますが、どうでしょう。
文京区教育委員会の説明書には≪北野神社は、江戸時代金杉天神、俗に牛天神と呼ばれた。御祭神は菅原道真公である。・・・≫と書かれている。
菅原道真を祀る神社は全国にいくつもあり、名称として「天神」「天満」「菅原」「北野」という名前を社名に入れるものが多い。 この神社も京都の「北野天満宮」から「北野」という社名がつけられたのか・・と思いがちだが、「北野神社」ホームページの「境内のご案内 (ねがい牛)」http://www.ushitenjin.jp/keidai/index.html を見ると、≪・・・・その後、ここにあった牛に似た石を御神体とされ、大宰府天満宮より御魂を勧請されたと伝えられており、これが撫で岩の発祥で牛天神の始まりです。≫と書かれており、菅原道真を祭神とする神社でも、京都の北野天満宮から「勧請」した神社ではなく、福岡県の太宰府天満宮から「勧請」した方の神社らしく、北野天満宮から「勧請」したのではなく太宰府天満宮から「勧請」した神社が、何故、「北野神社」という名称なのか? というと、もしかすると、神社名は、「江戸城の北の方にある神社」からきているという可能性もありえないことはないとも思えます。
さらに、もしかすると、「江戸城の北の方にある神社」から「北野神社」という名称がついたことから、菅原道真を祀るようになった・・という可能性もないとはいえないのではないか・・・。
もしかすると、太田道灌から名前がついた「太田神社」がもともとは本体であったのではないのか?・・・それは、「福の神」が祀られるようになったように、この地域に住む人たちに「幸福な生活」をもたらすこの土地の一般的な唯一心的な神さまであったのではないか?・・・・・と考えられないことはないような気がしてきます。
もしかすると、本殿が2つあるような社殿の造りは、まん中の「本殿」が菅原道真を祀り、その後ろの「本殿」はこの地に昔から祀られてきたこの地の神を祀ってきたということ? という可能性もありえそうに思えてきます。
江戸城の 北の 位置から江戸城に「気」を送り込む「パワースポット」のような丘を尊重したのが最初の始まり・・という可能性も考えられそうに思えます。
これらは、あくまで、「もしかすると・・・・の可能性も考えられないことはないのではないか」というもので、断定できるような論拠があるわけでもなく、軽率に断定すべきものでもないと思います。
↓ 江戸時代に徳川光圀(“悪代官を懲らしめる神さま”(?)水戸黄門)(⇒「YouTube- あゝ人生に涙あり 」https://www.youtube.com/watch?v=Gu37IixsIg4 )が奉納した桜の木 5本のうち、枯れずに今も残っている1本で、≪木から“気”が出ており、参拝者の方々は桜の木より“気”をいただいてお帰りになります≫(「北野神社」ホームページ「境内のご案内 (桜の木)」http://www.ushitenjin.jp/keidai/index.html )ということですが、3月初旬においては、梅は満開ですが、桜の花はまだのようです。↓
造園にも関係がある仕事である住宅建築請負業の会社に私は長く勤務してきたのですが、正直なところ、桜は派手で美しいが、散った時のことを考えると敷地が狭い住宅で狭い庭に植えた場合、散った花が近隣の家に大量に飛んで近所から嫌がられる可能性があるが、しかし、それでも美しいので、自宅に植えられない場合、近所に「桜の名所」があるとうれしい・・と思ってきたのですが、一方で、お恥ずかしいことに、梅は桜に比べて地味でおもしろみがないように思ってきたのです。 しかし、この北野神社の梅を見て認識を改めました。 実に美しく、又、複数の種類の梅が咲くのも興味深い。桜と違ってその下で酒飲んで騒ごうという雰囲気でなく、静かに楽しめるところもいいと思います。
この神社に来て梅の花を見ると、≪「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」という有名な歌は、京都を去る道真が詠んだものである。≫(戸部民夫『日本の神様がわかる本』[2005.1.5.PHP研究所] )という歌の気持ちがわかるような気がいたします。
東京メトロ丸の内線では「後楽園」が最寄駅ですが、今回、その東側の「本郷三丁目」まで歩いてみました。
この神社の北東側を春日通りに向おうとすると、その間に「警視庁第五方面本部」(「Mapion電話帳 警視庁第五方面本部」http://www.mapion.co.jp/phonebook/M13003/13105/L13101010600000000106/ )なるものがあります。(お~お、こわ~あ)
※ 今回、訪問・参拝に際し、
《「牛天神」北野神社》ホームページ http://www.ushitenjin.jp/
《文京区 文京区の観光案内 北野神社 牛天神》http://www.city.bunkyo.lg.jp/visitor_kanko_jisha_kitano.html
を参考にさせていただきました。
《ウィキペディア―天満宮》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE には、東京都で14社(23区内8社、23区以外6社)掲載の1社として名前が出ていますが、ウィキペディアの「北野神社(文京区)」は「作成中」となっています。
☆怨念を晴らす旅・冤罪を晴らす神さま・菅原道真 シリーズは、
1.平河天満宮(東京都千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
2.葛飾天満宮(千葉県市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
3.亀戸天神社(東京都江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
4.北野天満宮(京都市上京区)
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
5.意富比神社 末社 天神社(千葉県船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
に続き、6社めです。 今後も続きます。
(2013.3.4.)
☆牛天神から春日通りを経て本郷三丁目駅までについて、[第170回]《牛天神から春日通、本郷三丁目。中央大理工学部・東京戦没者霊苑・シビックセンター。名曲喫茶。住宅と擁壁》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_3.html として公開したしました。御覧下さいませ。(3.8.)
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