桜が美しい三渓園(横浜市)、及、三渓園天満宮 訪問―冤罪を晴らす神様・菅原道真・怨念を晴らす旅(8)
[第175回] 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らす旅(8)
[1] 三渓園について。
神奈川県横浜市中区本牧三之谷 に「三渓園(さんけいえん)」という庭園があります。 「庭園」という表現が最適かどうかはわかりません。 紀州徳川家の別邸で数寄屋造りの「臨春閣」、京都の旧・燈明寺本堂、三重塔などの重要文化財に指定されているもの12棟の他、日本の東西から伝統的な建築物がいくつも移築されてきていますが、単に建物を保存する為に移築したというものではなく、この場所の地形と移築した建物を使って、庭園として造り上げられています。
建物を移築した施設としては、私が今まで足を運んだことのあるものとしては、東京都小金井市の江戸東京たてもの園http://tatemonoen.jp/ はホームページに「植物図鑑 花ごよみ」http://tatemonoen.jp/about/calender.html があったりもしますが、やはり、名称通り江戸と東京の建物を集めたという施設であり、愛知県犬山市の明治村http://www.meijimura.com/ は、自然環境を生かして作られ、植物も美しい花を咲かせているようですが、やはり、主として明治の元号の時代の建物、旧・帝国ホテルなど大正の元号の時代のものも少々を移築して作られた建物が中心の施設で、福島県いわき市の いわき市暮らしの伝承郷http://www.denshogo.jp/ は失われてしまうのは惜しい江戸時代・明治時代の民家を移築したもので、建物の周囲の植物も美しいものがあるけれども、いわき市の民家の庭のように作ったもの(地元の人には「わざわざ見に行かなくてもうちの家と一緒だ」と言う人もあるようですが。)。 福島県南会津郡下郷町の大内宿http://ouchi-juku.com/ は移築ではなく宿場の建物を保存したものらしく、建物だけでなく景観の保存がおこなわれているようですが、庭園として作為的に作られたものではない。 それに対して、三渓園は、もとの地形を生かしてはいるけれども、作為的に庭園として造り、建物も庭園の一部分を形成するものとして移築されたもので、伝統的建造物の保存の意味合いも結果として持っているとしても、新たに庭園を造るにおいて、廃寺になった寺の建造物などを移築して再利用し、草木と建物との調和をはかって新たなものを作為的に作ろうとした性質のものとして、江戸東京たてもの園・明治村・いわき市暮らしの伝承郷・大内宿などとは異なる性質のものと言えると思います。
「ウィキペディア―三渓園」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%BA%AA%E5%9C%92 によると、「三渓(さんけい)」というのは、この庭園を造った実業家で美術愛好家であったという原 富太郎という人の「号」だそうです。 岐阜県に生まれ、横浜の原商店の養子になって生糸貿易で財を成した人で、古美術に関心を持ち、仏画・茶道具などを収集したそうで、伝統的な建造物もまた、同様に、京都の旧・燈明寺三重塔などを購入して移築したそうで、1906年(明治39年)より市民に公開するようになり、「三渓園」ホームページの「財団について」http://www.sankeien.or.jp/foundation/index.htmlによると、現在は横浜市が40%出資する公益財団法人三渓園保存会が運営しているそうです。
移築された建物には、寺や神社であった建物もあります。 それらについては、寺であれば、移築するのであれば、単に庭園の建築物として利用される三渓園に移築するのではなく、もし、その寺を存続させることができないのであれば、どこであれ、他の寺に移築して使用するべきではないのか、という考え方もあるでしょうし、今は一般に公開されていますが、旧・燈明寺三重塔が移築された時点などでは、「実業家で美術愛好家」とはいえ個人の庭園に寺の三重塔が移築されたようであり、はたして、寺の建築物を個人の庭園に移築するが好ましいのか、という問題もあったかと思います。
神社の場合、この場所に移築した場合、場所を移ったとしても、もとの神社と同じ「祭神」を祀る神社であると考えるべきものなのか、それとも、「民家」を移築しても、そこに人が住まない以上は、あくまで「旧・○○家住宅」であって現・民家ではないのと同様に、移築する前は神社の建物であっても、この三渓園に移築すれば、あくまで「元・○○神社 社殿の建物」ということで現在は神社ではないということになるのか、といった問題もあるかとは思います。
《ウィキペディア―三渓園》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%BA%AA%E5%9C%92 では、≪国宝級の美術品を多数所蔵し、日本の美術コレクターとしては、益田孝(鈍翁)と並び称される存在であった。彼は古美術品のみならず室町時代の旧燈明寺三重塔をはじめとする京都ほか各地の古建築を購入して移築、庭園も含めて整備を進めていった。≫と書かれているのですが、寺の三重塔などというものが個人の手に渡るということがはたして好ましいのかという問題はあるとは思われますが、しかし、≪移築自体に本来の価値に対する評価を投げかける意見もあるが、中には現地で荒廃していた建築物を修復して移築したものも含まれている。≫とも書かれています。
今回、JR根岸線の「根岸」駅までJRで行き、根岸駅からバスで「本牧(ほんもく)」まで乗り、「本牧(ほんもく)」バス停から歩きました。 帰りは、「本牧三渓園前」バス停から「横浜駅改札前」までバスに乗りました。「本牧三渓園前」の方が「本牧」よりも近いのですが、「本牧三渓園前」という名前のバス停でも、三渓園の目の前ではなく、少し歩きます。 横浜駅まで乗るとけっこうあります。 電車の最寄駅はどこかというと、JR根岸線の「根岸」か「山手」になるのでしょうけれども、いずれも近くはないので、バスを利用した方がよさそうです。
(「三渓園」ホームページ「交通案内」http://www.sankeien.or.jp/access/index.html 参照。)
[2] 三渓園天満宮 訪問 -冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り(8)
(写真はすべてクリックすると大きくなります。)
三渓園内に、「三渓園天満宮」があります。 これは、≪もと間門天神(まかど てんじん)といい、三渓園にほど近い間門(まかど)の旧家・高梨家の先祖が本牧の丘の中腹に建てたもの≫で、≪昭和52年(1977年)に三渓園に移築されました。≫と説明書きが出ていました。
発想がいいか悪いかわかりませんが、同じ横浜市の旭区に高梨乳業株式会社(http://www.takanashi-milk.co.jp/company/gaiyou.html )というのがあって、社長の名字が「高梨」であったはずですが、この間門天神の高梨家と関係あるのかないのか、と思い浮かぶのですが、どうなのでしょう。

一番上の写真に写っている橋は「観心橋」と言います。 大阪府河内長野市にある国宝の本堂があり楠木正成と縁の深い真言宗の観心寺(かんしんじ)(http://www.kanshinji.com/ )の「観心(かんしん)」です。 現在、天満宮が建っている場所には、戦前は「楠公社」が建っていたそうです。 「楠公」とは、楠木 正成(くすのき まさしげ)のことで、現地に立っている説明書きによると、大阪府河内長野市の観心寺に、楠木正成が1334年(建武1年)に建立し、正成の守護神という牛頭明王を祀った社を移築し、三渓園に移築後は≪高村光雲門下の彫刻家・米原雲海作の楠公の木彫像が安置され≫たが、空襲で「社」も楠公像も焼失したそうです。
もともと、牛頭明王を祀っていた建物を移築したという場合、移築したとしてもその社は、やはり、牛頭明王の社ということになるのでしょうか。 寺の場合は、創設時と別の宗派に変わることはあるわけですが、神社の場合、特に、移築した後は神職や氏子がいないという場合、どうなるのでしょう。 三渓園では、移築後は、≪楠公の木彫像が安置され≫たということですが、移築すれば、建物の所有者がその社の神さまを決めることができるということでしょうか。 ある程度の年数、住んだ家の庭に、氏神様を祀る社を設けるのに、新品ではなく中古の社を買ってきて設置したというものと同じ扱いで、それまでと異なる神さまを祀ってもいいということになるのでしょうか。。 それまで、ある程度以上の人が拝んできた社の場合、それを誰かがお金を出して買ったからといって、それまで拝んできた人たちの「気持ち」というのか「念」とでもいうのかは、なくならないような気もいたします。もっとも、前にあった場所で維持できないという場合であれば、どのような使い方であれ、使って存続させた方がいいということになるのでしょうけれども、それにしても、移築するとともに祀る神さまが変わるというのは、どうなのだろう、という気もいたします。
現在、戦中に空襲で焼失した(観心寺から移築した観心寺では牛頭明王を祀っていた)社の後に、間門の高梨家が設けた間門天神が移築されてきているのですが、手前の橋の名前が「観心橋」とついているのは、観心寺(かんしんじ)から移築した社の前の橋ということでついた名前だそうです。
上の一番下の写真で写っている社の右手前の石像も(写真はクリックすると大きくなるので、ぜひ、クリックして大きくして見てください。↑)、天満宮・天神社で見かけるものとは異なるように思いますし、神社ではなく、寺にありそうな石像のような印象を受けます。不動明王か?判断つきかねますが〔不動明王については、「ウィキペディア―不動明王」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%98%8E%E7%8E%8B 他参照。〕、観心寺のような真言宗などの密教系寺院に配置されていそうな石像です。 この石像も牛頭明王を祀っていた建物の手前に置かれていて、牛頭明王を祀っていた木造の建物→楠木正成の木像を安置した木造の建物が空襲で焼失した後も、石でできていたものであったので残った・・・というものでしょうか。
楠木正成を「楠公」様として祀るのは戦前・戦中に、天皇制国家主義者が国民を精神支配するために、「南朝の遺臣」を神さま扱いして、天皇への忠誠を誓わせた政治的性格の強いものであるので(現在の天皇は「南朝の正統」 後醍醐天皇の子孫ではなく、「南朝の遺臣」楠木正成や新田義貞のおかげで天皇になったのではなく、「逆賊」足利尊氏のおかげで天皇になった「北朝」の天皇の子孫のはずなのですが)、『太平記』における楠木正成の話は魅力的なところはあるとしても、戦後においては、神さま扱いするのはほどほどにしておいた方が良いと思えます。 ですから、楠木正成の木造を安置していたものが焼失したとして、新たに楠木正成を祀るものを作る必要はないと思います。 もともとは、牛頭明王を祀っていた建物であったわけですが、牛頭明王を祀っていた木造の建物が焼失した後に、他から天神≒菅原道真を祀っていた建物を移築した場合、それは、天神社を移築したことになるのか、牛頭明王を祀る建物が焼失したので、別の場所で天神社を祀っていた建物を移築して牛頭明王を祀るようにしたことになるのか、どうでしょうか。 天神≒菅原道真の方が、一般に人気があるから天満宮、というのは少々軽いような気もします。 「牛頭天王」は「ウィキペディア―牛頭天王」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%8E%8B によると、≪インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、祇園神という祇園信仰の神≫だそうで、神仏習合が進み、≪京都祇園社(現八坂神社)の祭神≫ともなり、スサノオのミコトと結びついたらしいのですが、天神≒菅原道真を祀る天満宮と違って、本来あった寺と離れては存続しにくい存在かもしれません。三渓園は庭園としてはすばらしい庭園ではあるのですが、寺社の建物の移築については、このあたりについての考察・検討を十分におこなった上で移築された印象はなく、「宗教施設を移築した」というものではなく「建物を移築した」という性質が強いものではないかという印象を受けました。 もし、移築しなければその場で崩壊・廃墟となってしまうおそれのある寺社ならば、庭園の構成物としてであっても移築して失われないようにした方が良いかもしれませんが、しかし、宗教的な建物の場合、宗教的な意味合いと離れて建物としてだけの価値を見出すということが可能なのか、という問題は残ると思います。
三渓園天満宮(旧・間門天神)の社の前の狛犬は「楠公社」(元・観心寺で牛頭明王を祀っていた社)があった頃からのもので、社に向って左側の狛犬の頭がなくなっているのは、空襲による破壊の痕だそうです。↓
[3] 三渓園の桜 、及び、土・池・アスファルト舗装の場所に桜が散った場合について。
3月末、三渓園は、桜が満開ですが、少し、葉がまじりかけてきています。 三渓園は、「内苑」と「外苑」からなり、普段は、午後5時までで入園は午後4時30分までらしいのですが、この桜の季節については、「外苑」だけは、午後9時まで開園されているようです。
↑ 三渓園 大池と桜
伝統的建造物の移築、特に、寺社の建物の移築については賛否もあるようですが、庭園はなかなかよく考えて作られています。
桜という木は、花が咲いた時は実にきれいなのですが、それほど庭が広いわけではない個人の家、あるいは、道路に面した場所に植えた場合、花が散った時にどうかという問題があります。
この三渓園ほどの広さがあって、地面が土であれば、↓ 土の上に花びらが散っても、それはそれで、桜の花びらのじゅうたんが敷かれたようなもので、悪くありませんし、花びらもいずれは土に帰るでしょう。
また、池の水面に落ちた場合も、↓の写真の左よりのように、池に散った桜の花びらもまた風情があって悪くないと思いますし、↓写真の右より、観心橋の下あたりに桜の花びらがたまっているのも、これもまた悪くないように思います。
↑ 左背後の灯りのついている建物はトイレですが、この庭園の景観をそこなわないよう、周囲に調和した建物で作られているところがなかなかと思います。
しかし、↓のように、道路の植樹として植えられた桜や、庭でも道路に近い場所に植えられた桜の花びらが、アスファルト舗装の道路の上に落ちた場合はどうでしょうか。
↑ アスファルト舗装の上に散った桜の花びらを「きれい」と思うか、それとも、「ごみが散ったのと同じ」と感じるか。 土の上に落ちたものと違って、土に帰るということはないので、速いか遅いかはともかく、人が片づけなければなりませんが、誰が片づけるのか。 また、片づけたい人と、しばらくそのまま置いておきたい人とが出てくるのではないかとも思えます。
樹木である以上は、まったく葉が落ちないというわけにはいかないでしょうけれども、桜は花が散る度合いが半端ではありません。 道路に植樹する場合、また、道路に近い場所に植える場合、いずれも、そのあたりを検討した上でおこなう必要がありそうです。
また、私が生まれてすぐの頃、1960年代前半、大阪市東住吉区に住んでいた我が家の前の道の表面は土でした。 そのうち、1960年代後半、2面道路に面していた我が家の広い方の道がアスファルト舗装され、最近、行ってみると、もう一方も舗装されていました。 クルマが通る場合は舗装された道の方が通りやすいでしょう。 しかし、桜の花びらが散った場合などを考えると、むしろ、土の道の方がいい面もあります。 私が住んでいた家の前の2つの道の狭い方は、土であるとともに、クルマも入ってこない道で、その土の道で、なわとびをしたり、夏は、せんこう花火をしたりしたりして遊びました。 その頃、「公園として作られた公園」はそれほどありませんでしたが、道が土でできていてクルマがそれほど通らないと、道が公園の役割も兼ねていたので、十分、そこで遊べました。 いつしか、「人が通行することと、子供が遊ぶ場所」であった道が、「主としてクルマが通る場所で、人ははじっこを気がねして通る場所で、子供は遊んではならない場所」に道が変わってしまった、クルマに道を取りあげられてしまいました。 そして、「公園」という名前のものはかつてより多くなったものの、そこでも、「球技はしてはいけません」とか書かれていて、いったいどこでやればいいの? という感じになってきました。 クルマが普及して便利になった面もありますから、全面的に否定するべきだとは思いませんが、一度、このあたりで、道路のあり方を考え直してみても悪くないのではないかと思いますが、いかがでしょう。 とりあえず、絶対的に舗装した道がいい、と考えるのではなく、ケースバイケースで、土の道の方が、むしろ、良い場合というのもありうる、すべての道を同じに考えるのではなく、「クルマと人が通る道」と「人が通るとともに子供が遊ぶこともでき、クルマはそこの住んでいる人かそこの家に用事がある人のみが入る道」とを分けて考える、ということを考えてみてはどうかと思います。
高森朝雄原作・ちばてつや画 の『あしたのジョー』という漫画で、矢吹丈が丹下段平のトレーニングを受け出すと、ロードワークとして、なんだか、狭い道ばっかり走らされるので、矢吹丈が、「おっちゃん、なんだって、こんな走りにくい狭い道ばっかり走らせるんだい」と言うと、段平が「広い道はすべて舗装されてしまって、走ると膝にこたえてよくないんじゃ。」と言い、表面が土の狭い道を選んで走るという場面がありました。 最近では、私が住んでいる近所でも、狭い道でも舗装され、土の道を捜すのはけっこうたいへんです。 舗装するのが絶対に悪いなどということはないと思いますが、「道路とは主としてクルマのためのもの」というような観念は、道路のあり方としていかがかと思うし、舗装した道がいいに決まっているという決めつけは、考え直してみてもいいのではないのかな・・という気がいたします。(『あしたジョー』→《YouTube―あしたのジョー「美しき狼たち」(1980)》 http://www.youtube.com/watch?v=oaqOX-6P4_0 )
〔参考〕
「三渓園」ホームページ http://www.sankeien.or.jp/index.html
「ウィキペディア―三渓園」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%BA%AA%E5%9C%92
「ウィキいぺディア―原富太郎」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AF%8C%E5%A4%AA%E9%83%8E
他。
今回、全般に写真が暗めになってしまっていますが、訪問時刻が遅めであったことによるものです。千葉県から行くとけっこうかかります。 普段は午後5時まで、入園午後4時30分までで、今回は桜のシーズンであったために4時30分を過ぎても入園できましたが、もう少々、早めに行くようにすべきでした。
☆冤罪を晴らす神さま・菅原道真シリーズ は、
1.平河天満宮(東京都千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
2.葛飾天満宮(千葉県市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
3.亀戸天神社(東京都江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
4.北野天満宮(京都市上京区)
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
5.意富比神社 末社 天神社(千葉県船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
6.北野神社(「牛天神」)(東京都文京区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
7.白井市河原子の天満宮(千葉県白井市)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
今回が、第8回になります。
(2013.3.29.)
[1] 三渓園について。
神奈川県横浜市中区本牧三之谷 に「三渓園(さんけいえん)」という庭園があります。 「庭園」という表現が最適かどうかはわかりません。 紀州徳川家の別邸で数寄屋造りの「臨春閣」、京都の旧・燈明寺本堂、三重塔などの重要文化財に指定されているもの12棟の他、日本の東西から伝統的な建築物がいくつも移築されてきていますが、単に建物を保存する為に移築したというものではなく、この場所の地形と移築した建物を使って、庭園として造り上げられています。
建物を移築した施設としては、私が今まで足を運んだことのあるものとしては、東京都小金井市の江戸東京たてもの園http://tatemonoen.jp/ はホームページに「植物図鑑 花ごよみ」http://tatemonoen.jp/about/calender.html があったりもしますが、やはり、名称通り江戸と東京の建物を集めたという施設であり、愛知県犬山市の明治村http://www.meijimura.com/ は、自然環境を生かして作られ、植物も美しい花を咲かせているようですが、やはり、主として明治の元号の時代の建物、旧・帝国ホテルなど大正の元号の時代のものも少々を移築して作られた建物が中心の施設で、福島県いわき市の いわき市暮らしの伝承郷http://www.denshogo.jp/ は失われてしまうのは惜しい江戸時代・明治時代の民家を移築したもので、建物の周囲の植物も美しいものがあるけれども、いわき市の民家の庭のように作ったもの(地元の人には「わざわざ見に行かなくてもうちの家と一緒だ」と言う人もあるようですが。)。 福島県南会津郡下郷町の大内宿http://ouchi-juku.com/ は移築ではなく宿場の建物を保存したものらしく、建物だけでなく景観の保存がおこなわれているようですが、庭園として作為的に作られたものではない。 それに対して、三渓園は、もとの地形を生かしてはいるけれども、作為的に庭園として造り、建物も庭園の一部分を形成するものとして移築されたもので、伝統的建造物の保存の意味合いも結果として持っているとしても、新たに庭園を造るにおいて、廃寺になった寺の建造物などを移築して再利用し、草木と建物との調和をはかって新たなものを作為的に作ろうとした性質のものとして、江戸東京たてもの園・明治村・いわき市暮らしの伝承郷・大内宿などとは異なる性質のものと言えると思います。
「ウィキペディア―三渓園」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%BA%AA%E5%9C%92 によると、「三渓(さんけい)」というのは、この庭園を造った実業家で美術愛好家であったという原 富太郎という人の「号」だそうです。 岐阜県に生まれ、横浜の原商店の養子になって生糸貿易で財を成した人で、古美術に関心を持ち、仏画・茶道具などを収集したそうで、伝統的な建造物もまた、同様に、京都の旧・燈明寺三重塔などを購入して移築したそうで、1906年(明治39年)より市民に公開するようになり、「三渓園」ホームページの「財団について」http://www.sankeien.or.jp/foundation/index.htmlによると、現在は横浜市が40%出資する公益財団法人三渓園保存会が運営しているそうです。
移築された建物には、寺や神社であった建物もあります。 それらについては、寺であれば、移築するのであれば、単に庭園の建築物として利用される三渓園に移築するのではなく、もし、その寺を存続させることができないのであれば、どこであれ、他の寺に移築して使用するべきではないのか、という考え方もあるでしょうし、今は一般に公開されていますが、旧・燈明寺三重塔が移築された時点などでは、「実業家で美術愛好家」とはいえ個人の庭園に寺の三重塔が移築されたようであり、はたして、寺の建築物を個人の庭園に移築するが好ましいのか、という問題もあったかと思います。
神社の場合、この場所に移築した場合、場所を移ったとしても、もとの神社と同じ「祭神」を祀る神社であると考えるべきものなのか、それとも、「民家」を移築しても、そこに人が住まない以上は、あくまで「旧・○○家住宅」であって現・民家ではないのと同様に、移築する前は神社の建物であっても、この三渓園に移築すれば、あくまで「元・○○神社 社殿の建物」ということで現在は神社ではないということになるのか、といった問題もあるかとは思います。
《ウィキペディア―三渓園》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%BA%AA%E5%9C%92 では、≪国宝級の美術品を多数所蔵し、日本の美術コレクターとしては、益田孝(鈍翁)と並び称される存在であった。彼は古美術品のみならず室町時代の旧燈明寺三重塔をはじめとする京都ほか各地の古建築を購入して移築、庭園も含めて整備を進めていった。≫と書かれているのですが、寺の三重塔などというものが個人の手に渡るということがはたして好ましいのかという問題はあるとは思われますが、しかし、≪移築自体に本来の価値に対する評価を投げかける意見もあるが、中には現地で荒廃していた建築物を修復して移築したものも含まれている。≫とも書かれています。
今回、JR根岸線の「根岸」駅までJRで行き、根岸駅からバスで「本牧(ほんもく)」まで乗り、「本牧(ほんもく)」バス停から歩きました。 帰りは、「本牧三渓園前」バス停から「横浜駅改札前」までバスに乗りました。「本牧三渓園前」の方が「本牧」よりも近いのですが、「本牧三渓園前」という名前のバス停でも、三渓園の目の前ではなく、少し歩きます。 横浜駅まで乗るとけっこうあります。 電車の最寄駅はどこかというと、JR根岸線の「根岸」か「山手」になるのでしょうけれども、いずれも近くはないので、バスを利用した方がよさそうです。
(「三渓園」ホームページ「交通案内」http://www.sankeien.or.jp/access/index.html 参照。)
[2] 三渓園天満宮 訪問 -冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り(8)
(写真はすべてクリックすると大きくなります。)
三渓園内に、「三渓園天満宮」があります。 これは、≪もと間門天神(まかど てんじん)といい、三渓園にほど近い間門(まかど)の旧家・高梨家の先祖が本牧の丘の中腹に建てたもの≫で、≪昭和52年(1977年)に三渓園に移築されました。≫と説明書きが出ていました。
発想がいいか悪いかわかりませんが、同じ横浜市の旭区に高梨乳業株式会社(http://www.takanashi-milk.co.jp/company/gaiyou.html )というのがあって、社長の名字が「高梨」であったはずですが、この間門天神の高梨家と関係あるのかないのか、と思い浮かぶのですが、どうなのでしょう。
一番上の写真に写っている橋は「観心橋」と言います。 大阪府河内長野市にある国宝の本堂があり楠木正成と縁の深い真言宗の観心寺(かんしんじ)(http://www.kanshinji.com/ )の「観心(かんしん)」です。 現在、天満宮が建っている場所には、戦前は「楠公社」が建っていたそうです。 「楠公」とは、楠木 正成(くすのき まさしげ)のことで、現地に立っている説明書きによると、大阪府河内長野市の観心寺に、楠木正成が1334年(建武1年)に建立し、正成の守護神という牛頭明王を祀った社を移築し、三渓園に移築後は≪高村光雲門下の彫刻家・米原雲海作の楠公の木彫像が安置され≫たが、空襲で「社」も楠公像も焼失したそうです。
もともと、牛頭明王を祀っていた建物を移築したという場合、移築したとしてもその社は、やはり、牛頭明王の社ということになるのでしょうか。 寺の場合は、創設時と別の宗派に変わることはあるわけですが、神社の場合、特に、移築した後は神職や氏子がいないという場合、どうなるのでしょう。 三渓園では、移築後は、≪楠公の木彫像が安置され≫たということですが、移築すれば、建物の所有者がその社の神さまを決めることができるということでしょうか。 ある程度の年数、住んだ家の庭に、氏神様を祀る社を設けるのに、新品ではなく中古の社を買ってきて設置したというものと同じ扱いで、それまでと異なる神さまを祀ってもいいということになるのでしょうか。。 それまで、ある程度以上の人が拝んできた社の場合、それを誰かがお金を出して買ったからといって、それまで拝んできた人たちの「気持ち」というのか「念」とでもいうのかは、なくならないような気もいたします。もっとも、前にあった場所で維持できないという場合であれば、どのような使い方であれ、使って存続させた方がいいということになるのでしょうけれども、それにしても、移築するとともに祀る神さまが変わるというのは、どうなのだろう、という気もいたします。
現在、戦中に空襲で焼失した(観心寺から移築した観心寺では牛頭明王を祀っていた)社の後に、間門の高梨家が設けた間門天神が移築されてきているのですが、手前の橋の名前が「観心橋」とついているのは、観心寺(かんしんじ)から移築した社の前の橋ということでついた名前だそうです。
上の一番下の写真で写っている社の右手前の石像も(写真はクリックすると大きくなるので、ぜひ、クリックして大きくして見てください。↑)、天満宮・天神社で見かけるものとは異なるように思いますし、神社ではなく、寺にありそうな石像のような印象を受けます。不動明王か?判断つきかねますが〔不動明王については、「ウィキペディア―不動明王」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%98%8E%E7%8E%8B 他参照。〕、観心寺のような真言宗などの密教系寺院に配置されていそうな石像です。 この石像も牛頭明王を祀っていた建物の手前に置かれていて、牛頭明王を祀っていた木造の建物→楠木正成の木像を安置した木造の建物が空襲で焼失した後も、石でできていたものであったので残った・・・というものでしょうか。
楠木正成を「楠公」様として祀るのは戦前・戦中に、天皇制国家主義者が国民を精神支配するために、「南朝の遺臣」を神さま扱いして、天皇への忠誠を誓わせた政治的性格の強いものであるので(現在の天皇は「南朝の正統」 後醍醐天皇の子孫ではなく、「南朝の遺臣」楠木正成や新田義貞のおかげで天皇になったのではなく、「逆賊」足利尊氏のおかげで天皇になった「北朝」の天皇の子孫のはずなのですが)、『太平記』における楠木正成の話は魅力的なところはあるとしても、戦後においては、神さま扱いするのはほどほどにしておいた方が良いと思えます。 ですから、楠木正成の木造を安置していたものが焼失したとして、新たに楠木正成を祀るものを作る必要はないと思います。 もともとは、牛頭明王を祀っていた建物であったわけですが、牛頭明王を祀っていた木造の建物が焼失した後に、他から天神≒菅原道真を祀っていた建物を移築した場合、それは、天神社を移築したことになるのか、牛頭明王を祀る建物が焼失したので、別の場所で天神社を祀っていた建物を移築して牛頭明王を祀るようにしたことになるのか、どうでしょうか。 天神≒菅原道真の方が、一般に人気があるから天満宮、というのは少々軽いような気もします。 「牛頭天王」は「ウィキペディア―牛頭天王」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%8E%8B によると、≪インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、祇園神という祇園信仰の神≫だそうで、神仏習合が進み、≪京都祇園社(現八坂神社)の祭神≫ともなり、スサノオのミコトと結びついたらしいのですが、天神≒菅原道真を祀る天満宮と違って、本来あった寺と離れては存続しにくい存在かもしれません。三渓園は庭園としてはすばらしい庭園ではあるのですが、寺社の建物の移築については、このあたりについての考察・検討を十分におこなった上で移築された印象はなく、「宗教施設を移築した」というものではなく「建物を移築した」という性質が強いものではないかという印象を受けました。 もし、移築しなければその場で崩壊・廃墟となってしまうおそれのある寺社ならば、庭園の構成物としてであっても移築して失われないようにした方が良いかもしれませんが、しかし、宗教的な建物の場合、宗教的な意味合いと離れて建物としてだけの価値を見出すということが可能なのか、という問題は残ると思います。
三渓園天満宮(旧・間門天神)の社の前の狛犬は「楠公社」(元・観心寺で牛頭明王を祀っていた社)があった頃からのもので、社に向って左側の狛犬の頭がなくなっているのは、空襲による破壊の痕だそうです。↓
[3] 三渓園の桜 、及び、土・池・アスファルト舗装の場所に桜が散った場合について。
3月末、三渓園は、桜が満開ですが、少し、葉がまじりかけてきています。 三渓園は、「内苑」と「外苑」からなり、普段は、午後5時までで入園は午後4時30分までらしいのですが、この桜の季節については、「外苑」だけは、午後9時まで開園されているようです。
↑ 三渓園 大池と桜
伝統的建造物の移築、特に、寺社の建物の移築については賛否もあるようですが、庭園はなかなかよく考えて作られています。
桜という木は、花が咲いた時は実にきれいなのですが、それほど庭が広いわけではない個人の家、あるいは、道路に面した場所に植えた場合、花が散った時にどうかという問題があります。
この三渓園ほどの広さがあって、地面が土であれば、↓ 土の上に花びらが散っても、それはそれで、桜の花びらのじゅうたんが敷かれたようなもので、悪くありませんし、花びらもいずれは土に帰るでしょう。
また、池の水面に落ちた場合も、↓の写真の左よりのように、池に散った桜の花びらもまた風情があって悪くないと思いますし、↓写真の右より、観心橋の下あたりに桜の花びらがたまっているのも、これもまた悪くないように思います。
↑ 左背後の灯りのついている建物はトイレですが、この庭園の景観をそこなわないよう、周囲に調和した建物で作られているところがなかなかと思います。
しかし、↓のように、道路の植樹として植えられた桜や、庭でも道路に近い場所に植えられた桜の花びらが、アスファルト舗装の道路の上に落ちた場合はどうでしょうか。
↑ アスファルト舗装の上に散った桜の花びらを「きれい」と思うか、それとも、「ごみが散ったのと同じ」と感じるか。 土の上に落ちたものと違って、土に帰るということはないので、速いか遅いかはともかく、人が片づけなければなりませんが、誰が片づけるのか。 また、片づけたい人と、しばらくそのまま置いておきたい人とが出てくるのではないかとも思えます。
樹木である以上は、まったく葉が落ちないというわけにはいかないでしょうけれども、桜は花が散る度合いが半端ではありません。 道路に植樹する場合、また、道路に近い場所に植える場合、いずれも、そのあたりを検討した上でおこなう必要がありそうです。
また、私が生まれてすぐの頃、1960年代前半、大阪市東住吉区に住んでいた我が家の前の道の表面は土でした。 そのうち、1960年代後半、2面道路に面していた我が家の広い方の道がアスファルト舗装され、最近、行ってみると、もう一方も舗装されていました。 クルマが通る場合は舗装された道の方が通りやすいでしょう。 しかし、桜の花びらが散った場合などを考えると、むしろ、土の道の方がいい面もあります。 私が住んでいた家の前の2つの道の狭い方は、土であるとともに、クルマも入ってこない道で、その土の道で、なわとびをしたり、夏は、せんこう花火をしたりしたりして遊びました。 その頃、「公園として作られた公園」はそれほどありませんでしたが、道が土でできていてクルマがそれほど通らないと、道が公園の役割も兼ねていたので、十分、そこで遊べました。 いつしか、「人が通行することと、子供が遊ぶ場所」であった道が、「主としてクルマが通る場所で、人ははじっこを気がねして通る場所で、子供は遊んではならない場所」に道が変わってしまった、クルマに道を取りあげられてしまいました。 そして、「公園」という名前のものはかつてより多くなったものの、そこでも、「球技はしてはいけません」とか書かれていて、いったいどこでやればいいの? という感じになってきました。 クルマが普及して便利になった面もありますから、全面的に否定するべきだとは思いませんが、一度、このあたりで、道路のあり方を考え直してみても悪くないのではないかと思いますが、いかがでしょう。 とりあえず、絶対的に舗装した道がいい、と考えるのではなく、ケースバイケースで、土の道の方が、むしろ、良い場合というのもありうる、すべての道を同じに考えるのではなく、「クルマと人が通る道」と「人が通るとともに子供が遊ぶこともでき、クルマはそこの住んでいる人かそこの家に用事がある人のみが入る道」とを分けて考える、ということを考えてみてはどうかと思います。
高森朝雄原作・ちばてつや画 の『あしたのジョー』という漫画で、矢吹丈が丹下段平のトレーニングを受け出すと、ロードワークとして、なんだか、狭い道ばっかり走らされるので、矢吹丈が、「おっちゃん、なんだって、こんな走りにくい狭い道ばっかり走らせるんだい」と言うと、段平が「広い道はすべて舗装されてしまって、走ると膝にこたえてよくないんじゃ。」と言い、表面が土の狭い道を選んで走るという場面がありました。 最近では、私が住んでいる近所でも、狭い道でも舗装され、土の道を捜すのはけっこうたいへんです。 舗装するのが絶対に悪いなどということはないと思いますが、「道路とは主としてクルマのためのもの」というような観念は、道路のあり方としていかがかと思うし、舗装した道がいいに決まっているという決めつけは、考え直してみてもいいのではないのかな・・という気がいたします。(『あしたジョー』→《YouTube―あしたのジョー「美しき狼たち」(1980)》 http://www.youtube.com/watch?v=oaqOX-6P4_0 )
〔参考〕
「三渓園」ホームページ http://www.sankeien.or.jp/index.html
「ウィキペディア―三渓園」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%BA%AA%E5%9C%92
「ウィキいぺディア―原富太郎」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AF%8C%E5%A4%AA%E9%83%8E
他。
今回、全般に写真が暗めになってしまっていますが、訪問時刻が遅めであったことによるものです。千葉県から行くとけっこうかかります。 普段は午後5時まで、入園午後4時30分までで、今回は桜のシーズンであったために4時30分を過ぎても入園できましたが、もう少々、早めに行くようにすべきでした。
☆冤罪を晴らす神さま・菅原道真シリーズ は、
1.平河天満宮(東京都千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
2.葛飾天満宮(千葉県市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
3.亀戸天神社(東京都江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
4.北野天満宮(京都市上京区)
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
5.意富比神社 末社 天神社(千葉県船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
6.北野神社(「牛天神」)(東京都文京区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
7.白井市河原子の天満宮(千葉県白井市)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
今回が、第8回になります。
(2013.3.29.)
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