「子供の日」に―子供が大人に歩む日か、子供帝国主義の日か。「成人式」とは。金払って下さい、幕張PTA
[第180回]
職場において、従業員には家族は誰にでもいる。 「家族の事情」は誰にでもある。
「私は子供があるから」と言う女。 ・・・・・←だから、何なの?
それが、通じると思っているバカ女の夫の「新人類」男。 ち○ちん と き○たま を切り落として女になった方がいいのと違うか? 男オバサンでいるよりは、むしろ、男と決別した方がよさそうだ。
最近、「成人の日」が変だ。
私が高校生の頃(1970年代後半)、「成人の日」が変になっていた。
「ぼくは、大学入試が『成人の日』だと思うわ。 最近、『成人の日』とかいうと、『これで、堂々と煙草が吸えますねえ』とか、『これで、堂々と酒が飲めますねえ』とか、言ったりしているが、そんなものは成人式ではないと思う。 未開人の国とかに行くと高い所から飛んでみせるとかして勇気をみせるとか、ヨーロッパの職人の世界ではマスターピースといって親方に認められる作品を作ってみせるとかやってみせて、それで一人前の人間と認められるとか。そういうものが『成人式』ではないかと思う。 『これで、酒が飲めますね』とか、晴れ着着てはしゃいでみたりとかそういうものが『成人式』ではない。 ぼくは、大学入試が現代の『成人式』だと思う。」
と、私が行っていた高校のある先生がおっしゃった。
・・・・ふむ、ふむ。 なるほど。 そうかもしれん・・・・と思った。その時は。
しかし、そうすると、狂徒大学とか頭狂大学とかの入試に合格すれば『成人式』を達成したことになるが、合格できなかった者は『成人式』を達成できなかったことになるのか?
今、思うに、たぶん、その先生もそのあたりについてはよくわかっていなかったのではないかと思う。
その地域で一番の高校くらいに行っていた者の場合、高校あたりまでは「負けた経験」というものはそれほどなかったのではないかと思う。
今はむかし。 PL学園から巨人に入った桑田投手のお父さんが何かの週刊誌で述べていたのを見たが、桑田投手が巨人に入ってしばらくすると、お母さんがなんだか変になってきたという。新聞のスポーツ欄を見て、「おかしい。 この新聞は間違っている。」とつぶやく、という。 何を言っているのかというと、桑田が登板して負けた試合を報道する新聞のスポーツ欄を見て、そうつぶやいたというのだ。お母さんは、息子が「負ける」「負けた」ということが信じられなかったらしい。 なるほど、たしかに、PL学園の時、彼は、ほとんど、「負けた」ということがなかった。 春2回、夏3回のうち、全国優勝2回・準優勝2回・ベスト4が1回、負けたのは2年の春と夏の決勝戦、3年の春の準決勝の3回だけで、他はことごとく圧勝してきたのだから。(たしか、その頃、東大野球部はPL学園に勝てるか? とか、阪神はPL学園に勝てるか? とか、あるいは、日本で最も優秀なスカウトを持っている野球チームはPL学園ではないか、とか、テレビのバラエティーショーで芸人が言ったりしていた。) でも、プロに入るとそうもいかない。 当人は、お母さんと同じというわけでもなかっただろうけれども、しかし、そうはいっても、「今までとは勝手が違う」と思ったかもしれない。 他の投手でも、プロ野球で新人投手が試合に出て打たれると新聞のスポーツ欄に「○○にプロの洗礼」とか出たりする。そういう経験は「成人式」のような性質かもしれない。
まがりなりにも、「一流高校」に行った生徒にすれば、「一流大学」に行きたいだろう。 行かねば「成人式」を達成したことにならない・・・・と思うかもしれない・・・・。 あいつでも通っているのだから、俺が落ちてたまるか・・・と思ったりするかもしれない・・・・・が、そういう時に限って落ちてみたりするんだよなあ・・・・。 ・・・。
数年前だったと思う。 ラジオの野球中継を聞いていた。 どこの試合だったか忘れた。 片方の投手が崩壊して、一方のチームが1イニングに二桁得点、ほとんど毎回得点、猛打賞(1試合に3本以上ヒット)の選手が何人も出た。 アナウンサーが「こうなったら、打率を稼ぐチャンスですから、打たなきゃ損ですねえ。」と言うと、その時、解説者として出ていた元・中日ドラゴンズの谷沢が、ボソッと、「ところが、そういう時に限って、自分ひとりだけ、取り残されてみたりするんですよね~え・・・・。」と。
そうなんだよ。 大学入試にしても、まず、ローニンなんてそんなあほなもの、この俺様がするもんかあ!・・・とか思っていると・・・、ふと、気づくと、あれ? あれ? あれ?
ローニンして、模擬試験を受けると、なんだか受け入れがたいのだけれども、自分よりも1年年下の奴で自分より良い成績を取るやつがいるんだ。 どうしてだろう。 なぜなのだろう?
ローニンまでして落ちるようなアホはどうかしてんじゃないのお!・・・とか思っていたはずが、このままでは自分がそれになってしまうのではないのか?
そして、この大学なら現役の時に、十分、通ったはずなのに・・・と思うところに行くはめになってみたり・・・・。
いったい、何、やってたんだろ。 ばかみたい・・・。
小学校の時も中学校の時も高校の時も自分より成績が下だったはずのやつが同じ大学の上の学年にいる・・・。 小学校の1年から、雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、日夜努力してきたのは、こんなヤツの「後輩」になるためだったのだろうか?
この「隠れてうどん食ってた野郎が!」・・・。 「隠れてうどん食ってた野郎」の「後輩」になるために、あれだけの血のにじむような努力をしてきたということだろうか・・・・?
※「隠れてうどん食ってた野郎」 と言うだけでは何のことかわからない方が多いと思う。
⇒「YouTube-マンモス西 うどん」 http://www.youtube.com/watch?v=gE8drjT15Dk 参照。
遠藤周作『わが青春に悔いあり』(1974.10.30.角川文庫)所収の『狐狸庵閑話(こりゃ・あかんわ)』には、次の文章がある。
≪ 安岡(章太郎)は高知を受けて落ち、わし(遠藤周作)は広島を二度受けて落第しておるのだワ。
その安岡と一緒に旅行すると、必ず彼は自分が落ちた旧制高校の校舎をたずねていき、やるせなさそうな面持をするな。 ・・・あの三月から四月にかけての埃っぽい白々した季節に、孤独で、うすぎたなくて、みじめだった二十数年前のわが姿を、そこ、ここに見つけようとしておるらしく、今は地方大学になっている、それらの旧制高校の校舎の中をトボトボ歩いては立ちどまり、トボトボさまよっては校舎をなでさすり、ウーンと溜息ついたり、吐息を漏らしたりするのであるが、その感じはわしもわかる。 ≫
久米正雄の『学生時代』(新潮文庫)という短編集の中の『受験生の手記』には、会津地方から今でいうところの東大の理科三類(医学部医学科に進学するコース)を受験して落ち、浪人して翌年合格を目指すが翌年も落ちてしまう男子学生の話が出ています。 最初に受ける時、姉夫婦の家に泊めてもらって受けた時、義兄の親戚の女性と仲良くなるが、翌年の合格を目指して東京に出てきてしばらくすると、ひとつ違いの弟が同じく今でいう東大の合格を目指して自分に続いて東京に出てきて、どうも、その女性が弟の方と仲がよいように思えて、気になってしかたがありません。 合格発表の時、
≪ 本館の横から、渡り廊下の方へ歩むと、既に貼り出された提示の紙が見えた。十二三人の受験生が、等しく夏帽子を斜めに仰向かして、その下に黒く立っていた。私は急に激しく動悸と戦慄に襲われながら急いでそこへ歩み寄った。
私は提示を見上げた。終わりの方の三部という区劃(くぎり)を慌てて見別けると、そこのずらりと並んだ番号に熱した眼を急速に注いだ。 一二九、一二九は無かった。私はまだ信じられなかった。もう一度見直した。やはり無かった。そして尠からず(すくなからず)慌てだした。もう一度未練に見直した。無かった。念のため乙の方を見た。乙の方にも一二九は無かった。一部、二部、三部を通じて、一二九という番号は無かった。こうなって来た時、私は嘘のように平気だった。何だか無いのが当然のようにも思った。しかしそれは一瞬だった。次に私は俄然として私の位置を自覚した。落第だ! 何もかも駄目だ。すべてが失われた。――そう思うと、胸の中が煮え返るように、動顛した。
ふと弟はと思った。二部甲の二一六! 私は急いでそこを見渡した。すると紛れもなくそこには、弟の番号が在った、在った!私は自分の眼を疑いたかった。
私はここに更に又、切ない自分の位置を知った。悲しいと云うよりも、苦しいと云うよりも、私はただ息塞る(いきづまる)のみだった。≫
兄は今年は弟が下宿していた姉夫婦の家に行き、弟が風呂に行っている間に、弟が使っている部屋で待ち、そこで、ふと考える。
≪ ふと机の上を見ると誰かからの祝電が載っていた。「セイコウヲシュクス」 私は無意識にその文句を口誦んだ(くちずさんだ)。その時私は突然(だしぬけ)に、澄子さんからの祝いの手紙が来ているに違いないと思いついた。で、そこらを見巡したが、机のあたりには出ていなかった。私は少しく罪の意識に脅かされながら、もう、机の抽斗(ひきだし)を開けてみたい誘惑に勝てなかった。
・・・・果たして、左の抽斗に手紙はあった。 ・・・
「健次さま。私は何よりも嬉しくて堪りません。もう嬉しくて嬉しくて涙が出ました。お兄さまはお気の毒ですけれど、運だから仕方がありません。・・・
御約束によってお祝いの印まで、別封の万年筆をさしあげます。二三度私が使いましたけれど、まだ新しいんですから、どうぞ使って頂戴。
貴方の、澄子より
愛する健次様御許に」
・・・顫える手で再び丁寧に畳み直して、封筒に入れると、もと通り抽斗に蔵った。それから後は五分間ほど、何かにぎゅっと押しつけられて動けなかった。・・・
暫くすると湯から、弟が帰って来た。・・・
「兄さん、ほんとに、お気の毒です」
いつも寡黙な弟に取っては、これだけ云うのも精一杯らしかった。
「いや、僕のはもう仕方がない。が、おまえはうまく及第してよかった。お芽出とう」
私もこう答えるのが関の山だった。・・・・≫
≪ 翌朝、私は上野公園の高台のベンチへ、ぼんやり腰を下ろしている自身を見出した。
・・・あれから佐藤の処に居据っている中に、そこへ青木という佐藤の友人が尋ねて来た。・・・彼らが私を俥に乗せた時、私は何処へ行くか知らなかった。いや、全く知らなかった訳ではない。寧ろ卑怯な自己欺瞞で、知らぬ事に自ら思い定めていたのだ。・・・・私はと或る家の中に有耶無耶で担ぎ込まれた。それから宥めるように或る室に連れ込まれた。そしてそこで初めての、不面目な一夜を過ごした。・・・・
「ああ飛んでもない事をした。自分はここまで堕落したか」私は朝の冷たいベンチの上で、泣きそうになりながら考えた。≫
≪ ・・・・そして涙の中でこう考えた。
「あの汽車に乗って、故郷に帰るのが一番だ。それより外に行く処はない。故郷に帰ったら、又どうにかなるだろう」
・・・・
私はふらふらと山潟で下りた。そして暗い駅路をぬけて、湖の方へ歩いて行った。闇にかたまった家々が途切れて、大きな土手の上に出ると、そこにはもう、音もなく広い湖水が面を延べていた。
・・・・・
・・・ふと気がついてみると、・・・突堤が湖中へ長く伸び出ていた。黒い、真直ぐな、誘うようなその姿が、今度は私の眼に離れなかった。
私はこれから起ち上がって、その突堤を歩いて行くのだ。真直ぐに、どこまでも、どこまでも・・・・・・。≫
今は思う。 大学入試が「成人式」であるとしても、それは、頭狂大学とか狂徒大学とかに合格することが成人式であるということではなく、努力して目指す所に合格してみせるのも「成人式」かもしれないが、合格できなかったとしても、こういった経験をすることが、むしろ、そちらの方が「成人式」ではないのか、と。
慶應義塾大学に大学から入った人間は、多くの人間が、内部進学の人たちを見て、「大学入試って、あった方がいいなあ」と思うらしい。そして、大学から入った者同士で、そう言うのだ。 内部進学の教授は大学から入った人間がそういうことを言うのが不愉快で不愉快でたまらないらしく、「ふん。そんなものは受験勉強だ。何の役にも立つものか。そんなものは害があるんだ。このぼくは中等部から慶應に行ってるんだぞお。きみたち外部の者とは違うんだ。わかってるのかあ!」と講義の最中に教壇で絶叫されたりする。 おえらいんですね!なんか知らんけど。 逆らうとうるさそうだから正面切って逆らわないけれども、でも、大学から入った人間は多くの人間が思っているのだ。行きたいと思ったところに行けたか行けなかったかにかかわらず、大学入試はあった方がいい、と。
大学を受けずに高校を卒業して就職する人は「成人式」を経験していないのかというと、そういうものでもないと思う。 今はむかし、あるアルバイト先に来ていたあまり頂点ではない方の大学の二部に行っているという男性から聞いた話。 高校を卒業する時、いくつかの大学を受けたがすべて落ちたそうな。それで、就職すべく何社かの会社を受けそうだが、ある会社の面接において、大学はどこを受けたかときかれたという。正直に答えたところ、高校はどこかときかれ、これも正直に答えたところ、「は~ん。 そりぁ、落ちて当然だわなあ~あ!」と言われたそうな。 たとえ、そうであったとしても、何も面接でそこまで言わなくてもと思ったという。
つらかったかもしれないが、それがその人にとっては「成人式」であったのかもしれない。
上野東照宮には本当かどうかわからないらしいが徳川家康自筆と言われる「徳川家康公遺訓」があるという。
≪ 勝つことばかり知りて 負くるることを知らざれば 害その身に至たる ≫ この文章の意味は、一度、大学を落ちたくらいでは認識できるものではないと思う。もうしばらく人生を生きなければ十分に理解できるものではないと思う・・・が、落ちて経験するのもまた「成人式」であり、十分に理解できないにしても、一度、「負くること」を知ってみるのも悪くないのかもしれない。
最近、さらにもうひとつ、奇妙な「成人式」を知るようになる。 みちのくプロレスとかいうプロレス団体のサスケだかいうプロレスラーが岩手県議会の議員さんになったようだが、議会に出るのに覆面をしたままで出たという。 議会はプロレスかあ?
そして、さらに。 成人式で、なんだかばかばかしい知事だか市長だかの挨拶にしびれをきらしたように騒ぎ出した「新成人」に向かって、その覆面男が何を言い出したかというと、
「成人なら、式の間くらい、きちっとしろ!」 ・・・と言ったそうな。 「フライデー」だったか「フォーカス」だったかに出ていた。
・・・な~んか、ちょっと、違うんじゃないの?
「成人なら、式の間くらい、覆面を取れ!」 と言うべきじゃないのか?!?
式典の間、静かにするのが嫌なら、最初から参加しなければいいではないか、というなら、私もそう思う。 しかし、だ。 もし、自分は式典の間すらも覆面をつけているヤツ、議会にまで覆面をつけて出席しようというヤツが、保守系の政党と組んで、「成人なら、式の間くらい、きちっとしろ!」 などと勝手なことをぬかすなら、
大いに騒いでやれ! そんな式典の間も覆面して参加するような非常識なやつの言うことなんかに粛々と従うのが成人ではないと思うぞ!
「成人の日」の愚かさかげんに比べると、「子供の日」は、そう愚かにも感じないが、なぜ、感じないかというと、「子供」を特別扱いしたり、「子供」を大義名分にかかげれば何でも通って当然と勘違いしているバカ親、ばかママ・ばかパパが日頃から大量にいて、多くの動物に「発情期」があるにもかかわらず人間には「発情期」がないのはなぜかというと、それは、人間の場合は生活が「文明化」した結果として「年中発情期」となっていつが「発情期」かわからなくなったらしいというのと同様、「子供の日」の愚かさは年中なのだ。 だから、「子供の日」だけ愚かであるのではなく、年中愚かなバカ女・アホ男、新人類女・異星人男が大量にいるということだ。
なんでも、東京ドームでの 巨人―広島 の試合の前に、なじかは知らねど「国民栄誉賞」という最近では最初の頃に比べて相当値打ちがなくなってきた賞を受賞した長嶋茂雄と松井秀喜のセレモニーがおこなわれるとか新聞のスポーツ欄に出ていたが、何もよりによって、鯉のぼりをかかげる子供の日に広島カープとの対戦の前にセレモニーをやらなくても、ゴールデンウイークは何日もあるのだから他の日にやってもよさそうにも思うのだが。
私が勤めてきた在来木造の某社に、小学校くらいの子供を連れてくる人があったが、子供が会社の事務所に黙って入ると、「おい。『こんにちわ』言え。」という父親、黙っていても「こんにちわ」という娘。 そういう子供を見ると、ここはいい家庭なんだなあ、いい親子なんだなあ、という気持ちになる。なんだか、その子供の世話をしてあげたいような雰囲気になる。
それに対して、千葉市中央区鵜の森町 の新華ハウジング有限会社にいた 社長○○川 S二(40代前半。当時) の嫁 ○○川 ◇華(40代前半。当時) の友人だとして縁故入社した女性 T口 恵(30代前半。当時)。 「私は子供があるから」と言って、自分の担当の仕事を他の者にやらせて当然のように思ってしまっている。 女も女だが、夫も夫である。
子供がある人間は他にもいる。 子供以外にも家族はいる。 体が不自由な家族がいる者もいる。なぜ、あなたの子供だけ特別扱いしてもらうのが当然だというのですか? なぜ、あなたの家族だけ特別扱いして、あなたの家族のために他の従業員の家族を犠牲にするのが当然なのですか? あなたの子供はなぜ他の従業員の家族の生活と生命を踏みつぶす権利があるのですか?
「私は子供があるから」といっても、それはあなたの子供でしょ。 それはだんなの子供でしょ。 私が産ませた子供なら、そりゃ、「子供があるんですからねえ」と言えばいいけれども、だんなの子供でしょ。 他人の夫に負担をかけようとするのではなく、自分の夫に協力を求めなさい。
自分の妻がそういう態度を職場で取っていることに、恥を感じないバカぱぱ。 男オバサン。 そんな社会性のなさで仕事が務まりますか? それで、まともな大人と言えますか?
言えないと思いますよ。
「子供の日」になると、なおさら、「私は子供があるから」と
“ 子供帝国主義 ”の主張を強力にするのでしょうね。
「子供の日」というのは、
「30過ぎてまだ精神的に子供であるバカ女とアホ男の日」 ということですかいねえ?
「子供が熱を出してしまいまして、その為に、休ませていただきました。どうも、すいませんでした。」と周囲に言える人、かつ、他の従業員の家族にも同様に配慮できる人は、その人の子供の用事について、他の従業員に考慮してもらったとして悪いことはないと思います。
しかし、「私は子供があるから」と自分の仕事を他の従業員に押しつけるばかりでそれが当然だと信念持ってる人というのは、一度、冷水摩擦でもしていただいた方がいいと思います。 滝に打たれるなり、座禅を組むなり、般若心経の写経をするなり・・・、なんかやった方がいいでしょう。 そのままでははた迷惑です。
自分は「子供」を大義名分にかかげて自分の仕事をひとに押しつけるが、ひとの子供のことは考えない。ひとの子供以外の家族のことは考えない。 そういう態度を何というかというと、
「わがまま」と言います。
30も過ぎてそういう態度を取っているということは、「わがまま」に育てられたということでしょう。
「親の顔が見たい」という言葉を口に出したくもなるのですが、うかつに言って、
「それは、比喩としてなのか、本当に見たいのか」とかきかれても困ってしまう。 本当に見たいくらいであるが、だからといって、実物を見せられても、どうしようもない。
「冷水摩擦でもさせてやりたい」とでも言うと、また、
「それは、比喩としてなのか、本当にさせたいのか。」とか言われそうだが・・・・・。 まあ、実際、冷水摩擦でも座禅でも写経でもなんでもやってみた方がいいのとちがうか?
とりあえず、便所の水で顔を洗った方がいいと思う。
「便所の水」といっても、手を洗う方の「便所の水」では、これだけ重症の者にはききめがないと思う。
便器にたまっている方の「便所の水」で洗っても効き目があるかどうか・・・。
むかし。 「アホの坂田の歌」というのがあった。
「アホはなおるよ、こうすりぁ、なおる。
蚊取り線香を粉にして、そばにふりかけ食ってみろ♪」
「アホはなおるよ、必ず、なおる。
ゆでて冷やして皮むいて、通天閣から突き落とせ♪」というのがあったが、
そのくらいやらないとだめではないかという気がする。
それだけやってもだめかもしれない。
※「アホの坂田の歌」を知らない方は、
⇒「YouTube-アホの坂田 」http://www.youtube.com/watch?v=nyNnvSRNgY4
「通天閣」は「通天閣」ホームページhttp://www.tsutenkaku.co.jp/ 参照。
「産まれてまだそれほど経たない小さい子供がいるから」という大義名分をかかげて、人にめんどうみてもらうのが当然と主張する“ スーパーウーマン ”
周囲の従業員のために産んでいただいたわけではないと思うのですけれども。 別に、わたしゃ産んでいただかなくてもいいのですけれども。 自分が産みたいと思って産んだのと違うのですか? 私、産んでくださいと頼みましたか? 頼んでないと思いますよ。
もしかして、世のためひとのため宇宙の平和のために産んだとでも思っているのですか?
頭ひやした方がいいのじゃないの?
今はむかし、『パーマン』という漫画とテレビアニメーションがあった。 「ええ? ぼく、スーパーマンになれるのお?」と言うと、「違う。 『スー』がない『パーマン』だ。」というフレーズで始まったと記憶している。
今や、「スーパーウーマン」では「スー」が余計な「パーウーマン」が出没している。
子供を産むなら、自分たちで育てていけるかどうか考えて産みなさい。
他人の夫に負担を押し付けるつもりで産むなら産まんでもよろしい。ウーマンでもよろしい。誰か産んでくれと頼んだか? 少なくとも、私は頼んでいないはずだよ。
ピエトロ=ジェルミ監督のイタリア映画『鉄道員』(「YouTube- Il Ferroviere - 鉄道員 【720P】] http://www.youtube.com/watch?v=HjKxfN-v5tg)では、列車の運転手の友人で長く一緒に乗って来たある程度の年齢になって独身の男が、「俺はひとりだから気にするな」と言って、友人の子供のめんどうをみてやる場面があるが、その言葉は、独身の人間の方がこいつの子供ならめんどうみてやると思って口にするのはよいが、子供がある人間の方がない人間に要求してよいものではない。 同じような子供のある者同士でめんどうのみあいをするのは良いが、結婚していてよい年齢でふさわしい相手とめぐりあうことができずにいる人間、結婚はできたけれども子供にめぐまれずにいる人間に要求するようなことはしてはならない。
そういうことをする親の子供はろくな子供にならないだろう。 そういう親が「子供の日」を主張するなら、それは、
「子供帝国主義の日」 であろう。
結婚したいと思いながらなんらかの事情である程度以上の年齢になっても独身でいる人間もいる。 結婚はできたけれども子供が欲しいと思いながらなかなかできずにいる人間もいる。 妊娠したけれども流産してしまったという人もいるだろう。
子供ができたという人間は、なにゆえ、子供が欲しいと思いながらできない人に自分たちの用事のしわよせを押しつける権利があるのか?
そのような「権利」など、ない!
結婚して夫婦ともある程度以上の年齢になり、子供が欲しいと思いながらできずにいる人には、犬や猫を飼って子供のように可愛がっている人がいる。 かつて、勤めていた会社で「○○は、子供がいますから」と言うヤカラがいた時、
「うち、猫いますから。」 と言った人がいた。
言いたくなるわ、そりゃぁ。
「うちは小さい子供がいますから」と人になんでも負担を押しつける「権利」があるように主張するバカ女・アホ男は、その子供がある程度大きくなると、今度は、その子供と同じような小さい子供がある人の世話をするかというと、まあ、一般的にはそうではない。
小学校に行くと、「学校に行くようになったから、勉強を見なければならないから、うちは大変なんですからねえ。」とでも言うでしょう。
中学校に行くくらいになると、さすがに、四六時中見てなくても大丈夫だろうし、子供自体が役に立ってくれる年齢だからと思うと、バカ女・アホ男はそうは言わない。「中学校に行くようになったから、受験を考えないといけないから、まだ学校に行かないような子供とか小学校くらいの子供の人と違って、うちは大変なんですからねえ。」とでも言うでしょう。
高校に行くと、さすがに、大学受験は本人がやらないといけないものであって、親がどうこう言ってもしかたがないから・・・と思いそうだが、そういう時こそ、「大学受験こそ、一番大事なんですからねえ。」とでも言うでしょう。
ローニンしたら「受験生がいるからうちはたいへんなんですから。」と言うでしょう。 大学に入ったら入ったで・・・・。
その子供が結婚して子供でもできようなら、「孫が小さくてうちはたいへんなんですからねえ」とでも言いだすでしょう。 要するに、自分のところが一番たいへんだ。他の人間はどうでもいい、と、こう言いたいわけです。
こういう「平和共存」の精神に欠ける人 というのか、協調性に欠ける人 というのか は、どうしたものでしょうねえ・・・。
親が子供なんでしょう。親が子供・・・。
女性の場合、それだけ、自分の子供のことに集中している、子供に頭がいっぱいになっている、女性とはそういうもの、母親とはそれだけ子供に頭がいっぱいになるもの・・とか言われて、「女だから、いいにしてあげなさいよ」とか「女だから、しかたがない」とか言われたりすることもありますが、職場において、サブ的役割でよいとして勤める人なら、そう考えてあげてもよいかもしれませんが、男性と同じ処遇を要求するなら、そのあたりにおいては「女だからしかたがない」という扱いを要求するのはやめるべきです。
雇用機会均等法というのは、わがままな女性の勝手な主張を認めましょうという法律ではないのです。
いつであったか、ヤフーニュースで、自分が産んだ子供が産まれてすぐに死んでしまった女性が、死亡したのを隠して「子供手当」を受給していて犯罪として捕まったというニュースがあった。
しかし、せっかく、妊娠したけれども流産してしまったり、産まれた子供がすぐに死亡してしまったという者から取り上げた税金から、子供が産まれて順調に、もしくは順調でない部分もあったとしても死亡することなく育っていく者に「子供手当」を支給するというのが、まともな制度だろうか?
子供を失った者から取り上げたカネを子供に恵まれた者に支給するのがそれが人の道として正しいだろうか?
高速道路のサービスエリアなどに行くと、「子供が乗ってます」とかいう自動車の後ろの窓ガラスにつけるプレート が売られているのを見る。
「子供が乗ってます」・・・って、だから、何よ。
「子供が乗っていますから、法定速度を守って安全運転で行きますので、お急ぎの方は遠慮なくお先にどうぞ」という運転をするならわかります。 そういうクルマも中にはあります。
しかし、割合からすると、
「子供が乗ってます」と後部の窓ガラスに貼っているようなクルマにかぎって、
「子供が乗ってんだぞお。 どけ、こらあ!」 みたいな運転のクルマが多い。
勝手なこと言いなさんな!
千葉市中央区の新華ハウジング有限会社(建設業)・ビルダーズパジャン株式会社(不動産業)で、社長 ○○川 S二の妻 ○○川 ◇華の友人だということで縁故入社し、縁故入社であることから好き放題やり、自分が担当としてその報酬を受け取っている仕事を、「子供がいるから」という大義名分で、他の従業員にしても家族の用事があるにもかかわらず、他の従業員に労働基準法違反の時間外無賃労働でさせていた縁故入社の30代の女性 T口 恵が、≪ 息子小一の学校のPTAの役員をやっております。 ≫≪PTAの仕事も悪くはないなと思う≫などと、おのれのブログで述べて公開していました。 (http://blogs.yahoo.co.jp/fit_minami/6680877.html )
↑ クリックすると大きくなります。その上で「+」マークをあててさらにクリックすると、大きくなって、何が書いてあるか読めます。 ≪とても、かわいいものが買えたので、PTAの仕事も悪くないなと思う母なのでした。≫とそう書いてあります。 T口がT口の仕事が残っているのに定時ぴったりに帰ってしまい、T口の為に会社がカネをかけて用意したカラー印刷チラシが期限ぎりぎりに何千枚と床に積み上げられていて、それを紙屑にするのは会社員としてとてもできることではないと思って、担当でない私が体が不自由な母が待っているのに無理をして夜おそくまでポスティングをしても、「すいませんでした」も「ありがとうございました」も言わない女が、そうやって自分の仕事を他の従業員に時間外に無賃労働でやってもらったかわりに空いた時間に、幕張の小学校だか保育園だかのPTAの仕事をやって、なんと、「PTAの仕事も悪くないな」だそうです。はあ~あ・・・・。
≪うちの4歳の娘は目ざとく、「お母さんのミニ―ちゃん見せて! かわいい!!」と言っていました。≫などと書いてあります。 T口のために会社がカネをかけて用意したチラシを期限ぎりぎりに床の上に何千枚と積み上げて平気で定時に帰り、その時間に、担当でない私が、会社員としてとても放置できないと思って、高齢で介護認定を受けている母を待たせた上で、夜遅くまでポスティングをしても、「すいませんでした」も「ありがとうございました」も言わない女 T口 恵の「4歳の娘」は、T口が自分の仕事を担当外の従業員に押しつけて帰り、担当外の従業員が勤務時間外に無賃労働で家族に負担をかけてやり、それによって空いた時間にT口がPTA役員をやって手に入れた「お母さんのミニ―ちゃん」を、その為に体の不自由な私の母が目に見えて弱ってしまったのもおかまいなしに、「お母さんのミニ―ちゃん、見せて! かわいい!!」などと言っていたということですね。 その「4歳の娘」というのは殺人鬼ですね。鬼畜娘ですね。 私の母を弱らせて、それで空いた時間にT口にPTA役員させていた≪(当時)小一の息子≫も殺人鬼ですね。
あきれました。 開いた口がふさがらない。 どういう印象かというと、「この野郎」とか「ムカッ」とかいう感じではありません。 「あ~れ~え!」「ひえ~え!」 とか、 「どっひゃ~あ!」 とかいう感じです。いくらなんでもここまでやるか?!? 自分の仕事を、他の従業員に時間外無賃労働でやらせておいて、おのれは≪ 息子小一の学校のPTAの役員をやっております。≫≪PTAの仕事も悪くはないなと思う≫とは、いったい、どういう了見でそういう口がきけるのか? あきれた。 もはや、精神病理学上の問題でしょう。
その幕張の小学校のPTAの人たち。 新華ハウジング有限会社・ビルダーズジャパン株式会社で、その女の仕事を労働基準法違反の時間外無賃労働でさせられた人間に、報酬を払って下さい。 払うべきです。
人に労基法違反の時間外無賃労働で自分の仕事をさせておいて、おのれは≪PTAの仕事も悪くはないな≫て、何、それ?
「男なら殴られる」態度です。 「男なら殴られる態度」と言っても、だから殴ってよいというものでもないでしょうけれども、≪「男なら殴られる行為」「男なら殴られる態度」を取っても女は殴られない権利がある≫と信念持っている女 というのは、もし、殴る人間がいても≪「男なら殴られる行為」「男なら殴られる態度」を取っても女は殴られない権利があると信念持っている≫態度・行動を取る者の方が悪い。 私は「殴る役」をやるのは嫌だからやらないけれども。 ・・・・というと、誰もがその役を嫌がり、誰かやらんかいなあ・・と思うことになってしまうかもしれないが。そもそも、なぜ、女性は「男なら殴られる態度」を取る権利があるのですか?
もとより、会社・使用者は、三六協定もなしに1日8時間・1週40時間を越えて働かせるのは労働基準法違反で、時間外賃金を払わずに時間外に働かせるのも労働基準法違反であるのですが、スーパー パーウーマンの、そういう態度がなぜまかり通ってしまうのかというと、社長の妻の縁故であるということからであるという点から考えるならば、そういう女の主張というのは「使用者の主張」という性質も持つことになり、労働基準法違反として労基署は取り締まる対象となることも可能性として考えられると思います。
≪「男なら殴られる行為」「男なら殴られる態度」を取っても女は殴られない権利があると信念持っている女≫とは、もし、私生活においてであれば、私ならそういう人間とはつきあわないようにするが、職場の場合は、逃げられないというところが困ったところです。
たとえ、職場の他の従業員に自分の仕事を時間外無賃労働でさせて、一方で≪息子小一の学校のPTAの役員をやっ≫たとしても、それを公開したのでは、その女が報酬をもらっている仕事を労働基準法破りの時間外無賃労働でさせられた者がどう思うかということを考えると、そういうことは言わずに公開せずに黙っていようかな、と思うのが普通であり、その程度のこともわからないようでは、営業の仕事は無理だと思いますが、「世の中いろいろ」で、平気で公開するような新人類というのか異星人(エイリアン)というのかもいるということなのでしょうか・・・・。
あんまり、そういう人と一緒の職場では働きたくないですね。 新華ハウジング(有)・ビルダーズジャパン(株)[千葉市中央区鵜の森町 ]の従業員でも、いいかげんにしろと思う人が多かったようだ。
担当外の従業員に時間外に無賃労働で家族を犠牲にさせてT口の担当の仕事をさせてT口 恵に自分の小学校のPTA役員をさせた≪(当時)小一の≫≪息子≫とそうやって買ったという「ビーズで作った小物」をぬけぬけと≪「お母さんのミニ―ちゃん見せて! かわいい!!」と言っていました≫という≪(当時)4歳の娘≫は、私にとっては親の仇です。他の従業員にとってもそのはずです。
(2013.5.5.)
職場において、従業員には家族は誰にでもいる。 「家族の事情」は誰にでもある。
「私は子供があるから」と言う女。 ・・・・・←だから、何なの?
それが、通じると思っているバカ女の夫の「新人類」男。 ち○ちん と き○たま を切り落として女になった方がいいのと違うか? 男オバサンでいるよりは、むしろ、男と決別した方がよさそうだ。
最近、「成人の日」が変だ。
私が高校生の頃(1970年代後半)、「成人の日」が変になっていた。
「ぼくは、大学入試が『成人の日』だと思うわ。 最近、『成人の日』とかいうと、『これで、堂々と煙草が吸えますねえ』とか、『これで、堂々と酒が飲めますねえ』とか、言ったりしているが、そんなものは成人式ではないと思う。 未開人の国とかに行くと高い所から飛んでみせるとかして勇気をみせるとか、ヨーロッパの職人の世界ではマスターピースといって親方に認められる作品を作ってみせるとかやってみせて、それで一人前の人間と認められるとか。そういうものが『成人式』ではないかと思う。 『これで、酒が飲めますね』とか、晴れ着着てはしゃいでみたりとかそういうものが『成人式』ではない。 ぼくは、大学入試が現代の『成人式』だと思う。」
と、私が行っていた高校のある先生がおっしゃった。
・・・・ふむ、ふむ。 なるほど。 そうかもしれん・・・・と思った。その時は。
しかし、そうすると、狂徒大学とか頭狂大学とかの入試に合格すれば『成人式』を達成したことになるが、合格できなかった者は『成人式』を達成できなかったことになるのか?
今、思うに、たぶん、その先生もそのあたりについてはよくわかっていなかったのではないかと思う。
その地域で一番の高校くらいに行っていた者の場合、高校あたりまでは「負けた経験」というものはそれほどなかったのではないかと思う。
今はむかし。 PL学園から巨人に入った桑田投手のお父さんが何かの週刊誌で述べていたのを見たが、桑田投手が巨人に入ってしばらくすると、お母さんがなんだか変になってきたという。新聞のスポーツ欄を見て、「おかしい。 この新聞は間違っている。」とつぶやく、という。 何を言っているのかというと、桑田が登板して負けた試合を報道する新聞のスポーツ欄を見て、そうつぶやいたというのだ。お母さんは、息子が「負ける」「負けた」ということが信じられなかったらしい。 なるほど、たしかに、PL学園の時、彼は、ほとんど、「負けた」ということがなかった。 春2回、夏3回のうち、全国優勝2回・準優勝2回・ベスト4が1回、負けたのは2年の春と夏の決勝戦、3年の春の準決勝の3回だけで、他はことごとく圧勝してきたのだから。(たしか、その頃、東大野球部はPL学園に勝てるか? とか、阪神はPL学園に勝てるか? とか、あるいは、日本で最も優秀なスカウトを持っている野球チームはPL学園ではないか、とか、テレビのバラエティーショーで芸人が言ったりしていた。) でも、プロに入るとそうもいかない。 当人は、お母さんと同じというわけでもなかっただろうけれども、しかし、そうはいっても、「今までとは勝手が違う」と思ったかもしれない。 他の投手でも、プロ野球で新人投手が試合に出て打たれると新聞のスポーツ欄に「○○にプロの洗礼」とか出たりする。そういう経験は「成人式」のような性質かもしれない。
まがりなりにも、「一流高校」に行った生徒にすれば、「一流大学」に行きたいだろう。 行かねば「成人式」を達成したことにならない・・・・と思うかもしれない・・・・。 あいつでも通っているのだから、俺が落ちてたまるか・・・と思ったりするかもしれない・・・・・が、そういう時に限って落ちてみたりするんだよなあ・・・・。 ・・・。
数年前だったと思う。 ラジオの野球中継を聞いていた。 どこの試合だったか忘れた。 片方の投手が崩壊して、一方のチームが1イニングに二桁得点、ほとんど毎回得点、猛打賞(1試合に3本以上ヒット)の選手が何人も出た。 アナウンサーが「こうなったら、打率を稼ぐチャンスですから、打たなきゃ損ですねえ。」と言うと、その時、解説者として出ていた元・中日ドラゴンズの谷沢が、ボソッと、「ところが、そういう時に限って、自分ひとりだけ、取り残されてみたりするんですよね~え・・・・。」と。
そうなんだよ。 大学入試にしても、まず、ローニンなんてそんなあほなもの、この俺様がするもんかあ!・・・とか思っていると・・・、ふと、気づくと、あれ? あれ? あれ?
ローニンして、模擬試験を受けると、なんだか受け入れがたいのだけれども、自分よりも1年年下の奴で自分より良い成績を取るやつがいるんだ。 どうしてだろう。 なぜなのだろう?
ローニンまでして落ちるようなアホはどうかしてんじゃないのお!・・・とか思っていたはずが、このままでは自分がそれになってしまうのではないのか?
そして、この大学なら現役の時に、十分、通ったはずなのに・・・と思うところに行くはめになってみたり・・・・。
いったい、何、やってたんだろ。 ばかみたい・・・。
小学校の時も中学校の時も高校の時も自分より成績が下だったはずのやつが同じ大学の上の学年にいる・・・。 小学校の1年から、雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、日夜努力してきたのは、こんなヤツの「後輩」になるためだったのだろうか?
この「隠れてうどん食ってた野郎が!」・・・。 「隠れてうどん食ってた野郎」の「後輩」になるために、あれだけの血のにじむような努力をしてきたということだろうか・・・・?
※「隠れてうどん食ってた野郎」 と言うだけでは何のことかわからない方が多いと思う。
⇒「YouTube-マンモス西 うどん」 http://www.youtube.com/watch?v=gE8drjT15Dk 参照。
遠藤周作『わが青春に悔いあり』(1974.10.30.角川文庫)所収の『狐狸庵閑話(こりゃ・あかんわ)』には、次の文章がある。
≪ 安岡(章太郎)は高知を受けて落ち、わし(遠藤周作)は広島を二度受けて落第しておるのだワ。
その安岡と一緒に旅行すると、必ず彼は自分が落ちた旧制高校の校舎をたずねていき、やるせなさそうな面持をするな。 ・・・あの三月から四月にかけての埃っぽい白々した季節に、孤独で、うすぎたなくて、みじめだった二十数年前のわが姿を、そこ、ここに見つけようとしておるらしく、今は地方大学になっている、それらの旧制高校の校舎の中をトボトボ歩いては立ちどまり、トボトボさまよっては校舎をなでさすり、ウーンと溜息ついたり、吐息を漏らしたりするのであるが、その感じはわしもわかる。 ≫
久米正雄の『学生時代』(新潮文庫)という短編集の中の『受験生の手記』には、会津地方から今でいうところの東大の理科三類(医学部医学科に進学するコース)を受験して落ち、浪人して翌年合格を目指すが翌年も落ちてしまう男子学生の話が出ています。 最初に受ける時、姉夫婦の家に泊めてもらって受けた時、義兄の親戚の女性と仲良くなるが、翌年の合格を目指して東京に出てきてしばらくすると、ひとつ違いの弟が同じく今でいう東大の合格を目指して自分に続いて東京に出てきて、どうも、その女性が弟の方と仲がよいように思えて、気になってしかたがありません。 合格発表の時、
≪ 本館の横から、渡り廊下の方へ歩むと、既に貼り出された提示の紙が見えた。十二三人の受験生が、等しく夏帽子を斜めに仰向かして、その下に黒く立っていた。私は急に激しく動悸と戦慄に襲われながら急いでそこへ歩み寄った。
私は提示を見上げた。終わりの方の三部という区劃(くぎり)を慌てて見別けると、そこのずらりと並んだ番号に熱した眼を急速に注いだ。 一二九、一二九は無かった。私はまだ信じられなかった。もう一度見直した。やはり無かった。そして尠からず(すくなからず)慌てだした。もう一度未練に見直した。無かった。念のため乙の方を見た。乙の方にも一二九は無かった。一部、二部、三部を通じて、一二九という番号は無かった。こうなって来た時、私は嘘のように平気だった。何だか無いのが当然のようにも思った。しかしそれは一瞬だった。次に私は俄然として私の位置を自覚した。落第だ! 何もかも駄目だ。すべてが失われた。――そう思うと、胸の中が煮え返るように、動顛した。
ふと弟はと思った。二部甲の二一六! 私は急いでそこを見渡した。すると紛れもなくそこには、弟の番号が在った、在った!私は自分の眼を疑いたかった。
私はここに更に又、切ない自分の位置を知った。悲しいと云うよりも、苦しいと云うよりも、私はただ息塞る(いきづまる)のみだった。≫
兄は今年は弟が下宿していた姉夫婦の家に行き、弟が風呂に行っている間に、弟が使っている部屋で待ち、そこで、ふと考える。
≪ ふと机の上を見ると誰かからの祝電が載っていた。「セイコウヲシュクス」 私は無意識にその文句を口誦んだ(くちずさんだ)。その時私は突然(だしぬけ)に、澄子さんからの祝いの手紙が来ているに違いないと思いついた。で、そこらを見巡したが、机のあたりには出ていなかった。私は少しく罪の意識に脅かされながら、もう、机の抽斗(ひきだし)を開けてみたい誘惑に勝てなかった。
・・・・果たして、左の抽斗に手紙はあった。 ・・・
「健次さま。私は何よりも嬉しくて堪りません。もう嬉しくて嬉しくて涙が出ました。お兄さまはお気の毒ですけれど、運だから仕方がありません。・・・
御約束によってお祝いの印まで、別封の万年筆をさしあげます。二三度私が使いましたけれど、まだ新しいんですから、どうぞ使って頂戴。
貴方の、澄子より
愛する健次様御許に」
・・・顫える手で再び丁寧に畳み直して、封筒に入れると、もと通り抽斗に蔵った。それから後は五分間ほど、何かにぎゅっと押しつけられて動けなかった。・・・
暫くすると湯から、弟が帰って来た。・・・
「兄さん、ほんとに、お気の毒です」
いつも寡黙な弟に取っては、これだけ云うのも精一杯らしかった。
「いや、僕のはもう仕方がない。が、おまえはうまく及第してよかった。お芽出とう」
私もこう答えるのが関の山だった。・・・・≫
≪ 翌朝、私は上野公園の高台のベンチへ、ぼんやり腰を下ろしている自身を見出した。
・・・あれから佐藤の処に居据っている中に、そこへ青木という佐藤の友人が尋ねて来た。・・・彼らが私を俥に乗せた時、私は何処へ行くか知らなかった。いや、全く知らなかった訳ではない。寧ろ卑怯な自己欺瞞で、知らぬ事に自ら思い定めていたのだ。・・・・私はと或る家の中に有耶無耶で担ぎ込まれた。それから宥めるように或る室に連れ込まれた。そしてそこで初めての、不面目な一夜を過ごした。・・・・
「ああ飛んでもない事をした。自分はここまで堕落したか」私は朝の冷たいベンチの上で、泣きそうになりながら考えた。≫
≪ ・・・・そして涙の中でこう考えた。
「あの汽車に乗って、故郷に帰るのが一番だ。それより外に行く処はない。故郷に帰ったら、又どうにかなるだろう」
・・・・
私はふらふらと山潟で下りた。そして暗い駅路をぬけて、湖の方へ歩いて行った。闇にかたまった家々が途切れて、大きな土手の上に出ると、そこにはもう、音もなく広い湖水が面を延べていた。
・・・・・
・・・ふと気がついてみると、・・・突堤が湖中へ長く伸び出ていた。黒い、真直ぐな、誘うようなその姿が、今度は私の眼に離れなかった。
私はこれから起ち上がって、その突堤を歩いて行くのだ。真直ぐに、どこまでも、どこまでも・・・・・・。≫
今は思う。 大学入試が「成人式」であるとしても、それは、頭狂大学とか狂徒大学とかに合格することが成人式であるということではなく、努力して目指す所に合格してみせるのも「成人式」かもしれないが、合格できなかったとしても、こういった経験をすることが、むしろ、そちらの方が「成人式」ではないのか、と。
慶應義塾大学に大学から入った人間は、多くの人間が、内部進学の人たちを見て、「大学入試って、あった方がいいなあ」と思うらしい。そして、大学から入った者同士で、そう言うのだ。 内部進学の教授は大学から入った人間がそういうことを言うのが不愉快で不愉快でたまらないらしく、「ふん。そんなものは受験勉強だ。何の役にも立つものか。そんなものは害があるんだ。このぼくは中等部から慶應に行ってるんだぞお。きみたち外部の者とは違うんだ。わかってるのかあ!」と講義の最中に教壇で絶叫されたりする。 おえらいんですね!なんか知らんけど。 逆らうとうるさそうだから正面切って逆らわないけれども、でも、大学から入った人間は多くの人間が思っているのだ。行きたいと思ったところに行けたか行けなかったかにかかわらず、大学入試はあった方がいい、と。
大学を受けずに高校を卒業して就職する人は「成人式」を経験していないのかというと、そういうものでもないと思う。 今はむかし、あるアルバイト先に来ていたあまり頂点ではない方の大学の二部に行っているという男性から聞いた話。 高校を卒業する時、いくつかの大学を受けたがすべて落ちたそうな。それで、就職すべく何社かの会社を受けそうだが、ある会社の面接において、大学はどこを受けたかときかれたという。正直に答えたところ、高校はどこかときかれ、これも正直に答えたところ、「は~ん。 そりぁ、落ちて当然だわなあ~あ!」と言われたそうな。 たとえ、そうであったとしても、何も面接でそこまで言わなくてもと思ったという。
つらかったかもしれないが、それがその人にとっては「成人式」であったのかもしれない。
上野東照宮には本当かどうかわからないらしいが徳川家康自筆と言われる「徳川家康公遺訓」があるという。
≪ 勝つことばかり知りて 負くるることを知らざれば 害その身に至たる ≫ この文章の意味は、一度、大学を落ちたくらいでは認識できるものではないと思う。もうしばらく人生を生きなければ十分に理解できるものではないと思う・・・が、落ちて経験するのもまた「成人式」であり、十分に理解できないにしても、一度、「負くること」を知ってみるのも悪くないのかもしれない。
最近、さらにもうひとつ、奇妙な「成人式」を知るようになる。 みちのくプロレスとかいうプロレス団体のサスケだかいうプロレスラーが岩手県議会の議員さんになったようだが、議会に出るのに覆面をしたままで出たという。 議会はプロレスかあ?
そして、さらに。 成人式で、なんだかばかばかしい知事だか市長だかの挨拶にしびれをきらしたように騒ぎ出した「新成人」に向かって、その覆面男が何を言い出したかというと、
「成人なら、式の間くらい、きちっとしろ!」 ・・・と言ったそうな。 「フライデー」だったか「フォーカス」だったかに出ていた。
・・・な~んか、ちょっと、違うんじゃないの?
「成人なら、式の間くらい、覆面を取れ!」 と言うべきじゃないのか?!?
式典の間、静かにするのが嫌なら、最初から参加しなければいいではないか、というなら、私もそう思う。 しかし、だ。 もし、自分は式典の間すらも覆面をつけているヤツ、議会にまで覆面をつけて出席しようというヤツが、保守系の政党と組んで、「成人なら、式の間くらい、きちっとしろ!」 などと勝手なことをぬかすなら、
大いに騒いでやれ! そんな式典の間も覆面して参加するような非常識なやつの言うことなんかに粛々と従うのが成人ではないと思うぞ!
「成人の日」の愚かさかげんに比べると、「子供の日」は、そう愚かにも感じないが、なぜ、感じないかというと、「子供」を特別扱いしたり、「子供」を大義名分にかかげれば何でも通って当然と勘違いしているバカ親、ばかママ・ばかパパが日頃から大量にいて、多くの動物に「発情期」があるにもかかわらず人間には「発情期」がないのはなぜかというと、それは、人間の場合は生活が「文明化」した結果として「年中発情期」となっていつが「発情期」かわからなくなったらしいというのと同様、「子供の日」の愚かさは年中なのだ。 だから、「子供の日」だけ愚かであるのではなく、年中愚かなバカ女・アホ男、新人類女・異星人男が大量にいるということだ。
なんでも、東京ドームでの 巨人―広島 の試合の前に、なじかは知らねど「国民栄誉賞」という最近では最初の頃に比べて相当値打ちがなくなってきた賞を受賞した長嶋茂雄と松井秀喜のセレモニーがおこなわれるとか新聞のスポーツ欄に出ていたが、何もよりによって、鯉のぼりをかかげる子供の日に広島カープとの対戦の前にセレモニーをやらなくても、ゴールデンウイークは何日もあるのだから他の日にやってもよさそうにも思うのだが。
私が勤めてきた在来木造の某社に、小学校くらいの子供を連れてくる人があったが、子供が会社の事務所に黙って入ると、「おい。『こんにちわ』言え。」という父親、黙っていても「こんにちわ」という娘。 そういう子供を見ると、ここはいい家庭なんだなあ、いい親子なんだなあ、という気持ちになる。なんだか、その子供の世話をしてあげたいような雰囲気になる。
それに対して、千葉市中央区鵜の森町 の新華ハウジング有限会社にいた 社長○○川 S二(40代前半。当時) の嫁 ○○川 ◇華(40代前半。当時) の友人だとして縁故入社した女性 T口 恵(30代前半。当時)。 「私は子供があるから」と言って、自分の担当の仕事を他の者にやらせて当然のように思ってしまっている。 女も女だが、夫も夫である。
子供がある人間は他にもいる。 子供以外にも家族はいる。 体が不自由な家族がいる者もいる。なぜ、あなたの子供だけ特別扱いしてもらうのが当然だというのですか? なぜ、あなたの家族だけ特別扱いして、あなたの家族のために他の従業員の家族を犠牲にするのが当然なのですか? あなたの子供はなぜ他の従業員の家族の生活と生命を踏みつぶす権利があるのですか?
「私は子供があるから」といっても、それはあなたの子供でしょ。 それはだんなの子供でしょ。 私が産ませた子供なら、そりゃ、「子供があるんですからねえ」と言えばいいけれども、だんなの子供でしょ。 他人の夫に負担をかけようとするのではなく、自分の夫に協力を求めなさい。
自分の妻がそういう態度を職場で取っていることに、恥を感じないバカぱぱ。 男オバサン。 そんな社会性のなさで仕事が務まりますか? それで、まともな大人と言えますか?
言えないと思いますよ。
「子供の日」になると、なおさら、「私は子供があるから」と
“ 子供帝国主義 ”の主張を強力にするのでしょうね。
「子供の日」というのは、
「30過ぎてまだ精神的に子供であるバカ女とアホ男の日」 ということですかいねえ?
「子供が熱を出してしまいまして、その為に、休ませていただきました。どうも、すいませんでした。」と周囲に言える人、かつ、他の従業員の家族にも同様に配慮できる人は、その人の子供の用事について、他の従業員に考慮してもらったとして悪いことはないと思います。
しかし、「私は子供があるから」と自分の仕事を他の従業員に押しつけるばかりでそれが当然だと信念持ってる人というのは、一度、冷水摩擦でもしていただいた方がいいと思います。 滝に打たれるなり、座禅を組むなり、般若心経の写経をするなり・・・、なんかやった方がいいでしょう。 そのままでははた迷惑です。
自分は「子供」を大義名分にかかげて自分の仕事をひとに押しつけるが、ひとの子供のことは考えない。ひとの子供以外の家族のことは考えない。 そういう態度を何というかというと、
「わがまま」と言います。
30も過ぎてそういう態度を取っているということは、「わがまま」に育てられたということでしょう。
「親の顔が見たい」という言葉を口に出したくもなるのですが、うかつに言って、
「それは、比喩としてなのか、本当に見たいのか」とかきかれても困ってしまう。 本当に見たいくらいであるが、だからといって、実物を見せられても、どうしようもない。
「冷水摩擦でもさせてやりたい」とでも言うと、また、
「それは、比喩としてなのか、本当にさせたいのか。」とか言われそうだが・・・・・。 まあ、実際、冷水摩擦でも座禅でも写経でもなんでもやってみた方がいいのとちがうか?
とりあえず、便所の水で顔を洗った方がいいと思う。
「便所の水」といっても、手を洗う方の「便所の水」では、これだけ重症の者にはききめがないと思う。
便器にたまっている方の「便所の水」で洗っても効き目があるかどうか・・・。
むかし。 「アホの坂田の歌」というのがあった。
「アホはなおるよ、こうすりぁ、なおる。
蚊取り線香を粉にして、そばにふりかけ食ってみろ♪」
「アホはなおるよ、必ず、なおる。
ゆでて冷やして皮むいて、通天閣から突き落とせ♪」というのがあったが、
そのくらいやらないとだめではないかという気がする。
それだけやってもだめかもしれない。
※「アホの坂田の歌」を知らない方は、
⇒「YouTube-アホの坂田 」http://www.youtube.com/watch?v=nyNnvSRNgY4
「通天閣」は「通天閣」ホームページhttp://www.tsutenkaku.co.jp/ 参照。
「産まれてまだそれほど経たない小さい子供がいるから」という大義名分をかかげて、人にめんどうみてもらうのが当然と主張する“ スーパーウーマン ”
周囲の従業員のために産んでいただいたわけではないと思うのですけれども。 別に、わたしゃ産んでいただかなくてもいいのですけれども。 自分が産みたいと思って産んだのと違うのですか? 私、産んでくださいと頼みましたか? 頼んでないと思いますよ。
もしかして、世のためひとのため宇宙の平和のために産んだとでも思っているのですか?
頭ひやした方がいいのじゃないの?
今はむかし、『パーマン』という漫画とテレビアニメーションがあった。 「ええ? ぼく、スーパーマンになれるのお?」と言うと、「違う。 『スー』がない『パーマン』だ。」というフレーズで始まったと記憶している。
今や、「スーパーウーマン」では「スー」が余計な「パーウーマン」が出没している。
子供を産むなら、自分たちで育てていけるかどうか考えて産みなさい。
他人の夫に負担を押し付けるつもりで産むなら産まんでもよろしい。ウーマンでもよろしい。誰か産んでくれと頼んだか? 少なくとも、私は頼んでいないはずだよ。
ピエトロ=ジェルミ監督のイタリア映画『鉄道員』(「YouTube- Il Ferroviere - 鉄道員 【720P】] http://www.youtube.com/watch?v=HjKxfN-v5tg)では、列車の運転手の友人で長く一緒に乗って来たある程度の年齢になって独身の男が、「俺はひとりだから気にするな」と言って、友人の子供のめんどうをみてやる場面があるが、その言葉は、独身の人間の方がこいつの子供ならめんどうみてやると思って口にするのはよいが、子供がある人間の方がない人間に要求してよいものではない。 同じような子供のある者同士でめんどうのみあいをするのは良いが、結婚していてよい年齢でふさわしい相手とめぐりあうことができずにいる人間、結婚はできたけれども子供にめぐまれずにいる人間に要求するようなことはしてはならない。
そういうことをする親の子供はろくな子供にならないだろう。 そういう親が「子供の日」を主張するなら、それは、
「子供帝国主義の日」 であろう。
結婚したいと思いながらなんらかの事情である程度以上の年齢になっても独身でいる人間もいる。 結婚はできたけれども子供が欲しいと思いながらなかなかできずにいる人間もいる。 妊娠したけれども流産してしまったという人もいるだろう。
子供ができたという人間は、なにゆえ、子供が欲しいと思いながらできない人に自分たちの用事のしわよせを押しつける権利があるのか?
そのような「権利」など、ない!
結婚して夫婦ともある程度以上の年齢になり、子供が欲しいと思いながらできずにいる人には、犬や猫を飼って子供のように可愛がっている人がいる。 かつて、勤めていた会社で「○○は、子供がいますから」と言うヤカラがいた時、
「うち、猫いますから。」 と言った人がいた。
言いたくなるわ、そりゃぁ。
「うちは小さい子供がいますから」と人になんでも負担を押しつける「権利」があるように主張するバカ女・アホ男は、その子供がある程度大きくなると、今度は、その子供と同じような小さい子供がある人の世話をするかというと、まあ、一般的にはそうではない。
小学校に行くと、「学校に行くようになったから、勉強を見なければならないから、うちは大変なんですからねえ。」とでも言うでしょう。
中学校に行くくらいになると、さすがに、四六時中見てなくても大丈夫だろうし、子供自体が役に立ってくれる年齢だからと思うと、バカ女・アホ男はそうは言わない。「中学校に行くようになったから、受験を考えないといけないから、まだ学校に行かないような子供とか小学校くらいの子供の人と違って、うちは大変なんですからねえ。」とでも言うでしょう。
高校に行くと、さすがに、大学受験は本人がやらないといけないものであって、親がどうこう言ってもしかたがないから・・・と思いそうだが、そういう時こそ、「大学受験こそ、一番大事なんですからねえ。」とでも言うでしょう。
ローニンしたら「受験生がいるからうちはたいへんなんですから。」と言うでしょう。 大学に入ったら入ったで・・・・。
その子供が結婚して子供でもできようなら、「孫が小さくてうちはたいへんなんですからねえ」とでも言いだすでしょう。 要するに、自分のところが一番たいへんだ。他の人間はどうでもいい、と、こう言いたいわけです。
こういう「平和共存」の精神に欠ける人 というのか、協調性に欠ける人 というのか は、どうしたものでしょうねえ・・・。
親が子供なんでしょう。親が子供・・・。
女性の場合、それだけ、自分の子供のことに集中している、子供に頭がいっぱいになっている、女性とはそういうもの、母親とはそれだけ子供に頭がいっぱいになるもの・・とか言われて、「女だから、いいにしてあげなさいよ」とか「女だから、しかたがない」とか言われたりすることもありますが、職場において、サブ的役割でよいとして勤める人なら、そう考えてあげてもよいかもしれませんが、男性と同じ処遇を要求するなら、そのあたりにおいては「女だからしかたがない」という扱いを要求するのはやめるべきです。
雇用機会均等法というのは、わがままな女性の勝手な主張を認めましょうという法律ではないのです。
いつであったか、ヤフーニュースで、自分が産んだ子供が産まれてすぐに死んでしまった女性が、死亡したのを隠して「子供手当」を受給していて犯罪として捕まったというニュースがあった。
しかし、せっかく、妊娠したけれども流産してしまったり、産まれた子供がすぐに死亡してしまったという者から取り上げた税金から、子供が産まれて順調に、もしくは順調でない部分もあったとしても死亡することなく育っていく者に「子供手当」を支給するというのが、まともな制度だろうか?
子供を失った者から取り上げたカネを子供に恵まれた者に支給するのがそれが人の道として正しいだろうか?
高速道路のサービスエリアなどに行くと、「子供が乗ってます」とかいう自動車の後ろの窓ガラスにつけるプレート が売られているのを見る。
「子供が乗ってます」・・・って、だから、何よ。
「子供が乗っていますから、法定速度を守って安全運転で行きますので、お急ぎの方は遠慮なくお先にどうぞ」という運転をするならわかります。 そういうクルマも中にはあります。
しかし、割合からすると、
「子供が乗ってます」と後部の窓ガラスに貼っているようなクルマにかぎって、
「子供が乗ってんだぞお。 どけ、こらあ!」 みたいな運転のクルマが多い。
勝手なこと言いなさんな!
千葉市中央区の新華ハウジング有限会社(建設業)・ビルダーズパジャン株式会社(不動産業)で、社長 ○○川 S二の妻 ○○川 ◇華の友人だということで縁故入社し、縁故入社であることから好き放題やり、自分が担当としてその報酬を受け取っている仕事を、「子供がいるから」という大義名分で、他の従業員にしても家族の用事があるにもかかわらず、他の従業員に労働基準法違反の時間外無賃労働でさせていた縁故入社の30代の女性 T口 恵が、≪ 息子小一の学校のPTAの役員をやっております。 ≫≪PTAの仕事も悪くはないなと思う≫などと、おのれのブログで述べて公開していました。 (http://blogs.yahoo.co.jp/fit_minami/6680877.html )
↑ クリックすると大きくなります。その上で「+」マークをあててさらにクリックすると、大きくなって、何が書いてあるか読めます。 ≪とても、かわいいものが買えたので、PTAの仕事も悪くないなと思う母なのでした。≫とそう書いてあります。 T口がT口の仕事が残っているのに定時ぴったりに帰ってしまい、T口の為に会社がカネをかけて用意したカラー印刷チラシが期限ぎりぎりに何千枚と床に積み上げられていて、それを紙屑にするのは会社員としてとてもできることではないと思って、担当でない私が体が不自由な母が待っているのに無理をして夜おそくまでポスティングをしても、「すいませんでした」も「ありがとうございました」も言わない女が、そうやって自分の仕事を他の従業員に時間外に無賃労働でやってもらったかわりに空いた時間に、幕張の小学校だか保育園だかのPTAの仕事をやって、なんと、「PTAの仕事も悪くないな」だそうです。はあ~あ・・・・。
≪うちの4歳の娘は目ざとく、「お母さんのミニ―ちゃん見せて! かわいい!!」と言っていました。≫などと書いてあります。 T口のために会社がカネをかけて用意したチラシを期限ぎりぎりに床の上に何千枚と積み上げて平気で定時に帰り、その時間に、担当でない私が、会社員としてとても放置できないと思って、高齢で介護認定を受けている母を待たせた上で、夜遅くまでポスティングをしても、「すいませんでした」も「ありがとうございました」も言わない女 T口 恵の「4歳の娘」は、T口が自分の仕事を担当外の従業員に押しつけて帰り、担当外の従業員が勤務時間外に無賃労働で家族に負担をかけてやり、それによって空いた時間にT口がPTA役員をやって手に入れた「お母さんのミニ―ちゃん」を、その為に体の不自由な私の母が目に見えて弱ってしまったのもおかまいなしに、「お母さんのミニ―ちゃん、見せて! かわいい!!」などと言っていたということですね。 その「4歳の娘」というのは殺人鬼ですね。鬼畜娘ですね。 私の母を弱らせて、それで空いた時間にT口にPTA役員させていた≪(当時)小一の息子≫も殺人鬼ですね。
あきれました。 開いた口がふさがらない。 どういう印象かというと、「この野郎」とか「ムカッ」とかいう感じではありません。 「あ~れ~え!」「ひえ~え!」 とか、 「どっひゃ~あ!」 とかいう感じです。いくらなんでもここまでやるか?!? 自分の仕事を、他の従業員に時間外無賃労働でやらせておいて、おのれは≪ 息子小一の学校のPTAの役員をやっております。≫≪PTAの仕事も悪くはないなと思う≫とは、いったい、どういう了見でそういう口がきけるのか? あきれた。 もはや、精神病理学上の問題でしょう。
その幕張の小学校のPTAの人たち。 新華ハウジング有限会社・ビルダーズジャパン株式会社で、その女の仕事を労働基準法違反の時間外無賃労働でさせられた人間に、報酬を払って下さい。 払うべきです。
人に労基法違反の時間外無賃労働で自分の仕事をさせておいて、おのれは≪PTAの仕事も悪くはないな≫て、何、それ?
「男なら殴られる」態度です。 「男なら殴られる態度」と言っても、だから殴ってよいというものでもないでしょうけれども、≪「男なら殴られる行為」「男なら殴られる態度」を取っても女は殴られない権利がある≫と信念持っている女 というのは、もし、殴る人間がいても≪「男なら殴られる行為」「男なら殴られる態度」を取っても女は殴られない権利があると信念持っている≫態度・行動を取る者の方が悪い。 私は「殴る役」をやるのは嫌だからやらないけれども。 ・・・・というと、誰もがその役を嫌がり、誰かやらんかいなあ・・と思うことになってしまうかもしれないが。そもそも、なぜ、女性は「男なら殴られる態度」を取る権利があるのですか?
もとより、会社・使用者は、三六協定もなしに1日8時間・1週40時間を越えて働かせるのは労働基準法違反で、時間外賃金を払わずに時間外に働かせるのも労働基準法違反であるのですが、スーパー パーウーマンの、そういう態度がなぜまかり通ってしまうのかというと、社長の妻の縁故であるということからであるという点から考えるならば、そういう女の主張というのは「使用者の主張」という性質も持つことになり、労働基準法違反として労基署は取り締まる対象となることも可能性として考えられると思います。
≪「男なら殴られる行為」「男なら殴られる態度」を取っても女は殴られない権利があると信念持っている女≫とは、もし、私生活においてであれば、私ならそういう人間とはつきあわないようにするが、職場の場合は、逃げられないというところが困ったところです。
たとえ、職場の他の従業員に自分の仕事を時間外無賃労働でさせて、一方で≪息子小一の学校のPTAの役員をやっ≫たとしても、それを公開したのでは、その女が報酬をもらっている仕事を労働基準法破りの時間外無賃労働でさせられた者がどう思うかということを考えると、そういうことは言わずに公開せずに黙っていようかな、と思うのが普通であり、その程度のこともわからないようでは、営業の仕事は無理だと思いますが、「世の中いろいろ」で、平気で公開するような新人類というのか異星人(エイリアン)というのかもいるということなのでしょうか・・・・。
あんまり、そういう人と一緒の職場では働きたくないですね。 新華ハウジング(有)・ビルダーズジャパン(株)[千葉市中央区鵜の森町 ]の従業員でも、いいかげんにしろと思う人が多かったようだ。
担当外の従業員に時間外に無賃労働で家族を犠牲にさせてT口の担当の仕事をさせてT口 恵に自分の小学校のPTA役員をさせた≪(当時)小一の≫≪息子≫とそうやって買ったという「ビーズで作った小物」をぬけぬけと≪「お母さんのミニ―ちゃん見せて! かわいい!!」と言っていました≫という≪(当時)4歳の娘≫は、私にとっては親の仇です。他の従業員にとってもそのはずです。
(2013.5.5.)
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