永谷天満宮(横浜市港南区)参拝~冤罪を晴らす神様・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り(11)

[第196回]
  冤罪を晴らす神様・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り シリーズ 第11回、今回は、横浜市港南区上永谷の永谷天満宮(ながやてんまんぐう)です。

   横浜地下鉄には、ブルーラインとグリーンラインがある・・といっても、横浜市在住者以外には、なんか、わかりにくい名前つけてからに、もうちょっとどっちがどっちかわかりやすい名前のつけかたできんのかという感じがします・・・が、昔からある1号線がブルーライン。横浜駅から南側は日本で最初に鉄道が新橋―横浜間に走った時の横浜駅があった「桜木町」・南に横浜球場があって西に有隣堂本店(http://www.yurindo.co.jp/store/honten/ )がある「関内(かんない)」から京急「黄金町(こがねちょう)」の少し南の「阪東橋(ばんどうばし)」、「南太田(みなみおおた)」の少し南の「吉野町」「蒔田(まいた)」から「弘明寺(ぐみょうじ)」「上大岡」を経てJR東海道線・横須賀線の「戸塚」、さらにその西の小田急・相模鉄道「湘南台」まで、北側は新幹線の「新横浜」から港北ニュータウンの「センター南」・「センター北」を経て東急田園都市線の「あざみ野」まで行っているのがブルーラインで、東急東横線の「日吉(ひよし)」から「センター北」・「センター南」を経てJR横浜線の「中山」まで行っているのがグリーンラインです。 実際に乗る時は、どっちがどっちか考えないといけないのは「センター北」「センター南」駅で乗る時だけで、他は、横浜駅や新横浜駅・桜木町駅から乗るならとにかく地下鉄に乗ればそれがブルーライン(1号線)、日吉で地下鉄(東急でない方の電車)に乗ればグリーンラインです。 ブルーラインは地上を走る部分がけっこうありますが、パンタグラフで上から電気をとるのではなく、横から電気を取る方式の電車です。
   もっとも、東京の地下鉄にしても、乗りなれるとわかるけれども、銀座線だけでなく日比谷線も銀座を通り、日比谷線だけでなく三田線も日比谷を通り、三田線だけでなく浅草線も三田を通り、浅草線だけでなく銀座線も浅草を通る。新宿線と言われたって新宿を通る線なんかいっぱいあるので、地名からきた路線名がついていてもあまり意味のない名前でもある。  その点、大阪の地下鉄は、京都は南北の道も東西の道も「○○通り」であるが(京都は東西の通りは「○条通り」が多く「○条通り」でない通りは南北のものが多いので南北と東西の道が両方とも「通り」であってもそのわりにわかりやすいが)、大阪は南北の道は「○○筋(すじ)」、東西の道は「◇◇通り」で、南御堂・北御堂の前の道である御堂筋(みどうすじ)の下を走っているのが御堂筋線、谷町筋の下を走っているのが谷町線、千日前通り(せんにちまえどおり)の下を走っているのが千日前線とわかりやすい・・・が、「御堂筋」という名前の駅はないし、「千日前」という名前の駅もないので、大阪の地名を知らない人にとっては、むしろ、わかりにくいかもしれない。 ちなみに、東京者は、大阪に行くと、地下鉄御堂筋線の「西中島南方」を「にしなかのしま なんぽう」と読む(人がいる)が、これは「にしなかじま みなみかた」である。「吹田」は「ふいた」ではなく「すいた」である。「『吹く』は『ふく』だろうが。『すいた』なら『吸田』だろうが。大阪の人間の読み方が間違ってるんだ。」と言って大阪の地名の読み方を「訂正」させようとする東京人がいるが、それなら、あんたは「吹奏楽」を「ふいそうがく」と言うのですか? ということになる。

   横浜地下鉄ブルーラインの「上永谷(かみながや)」駅は地下鉄といってもこの駅は地上というより高架になっていて、そこから北側に下りて、北西方向に少し歩くと、永谷天満宮(ながやてんまんぐう)はあります。
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  「日本三躯 永谷天満宮」と書かれています。 由緒書や境内の掲示版の説明書き、《ウィキペディア―永谷天満宮》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E8%B0%B7%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE によると、太宰府に左遷された菅原道真が自身を鏡に写して3体の道真像を彫り、その1体が大宰府の安楽寺→大宰府天満宮、一体が大阪府の道明寺(どうみょうじ)→道明寺天満宮に、そして、もう1体がこの横浜市港南区上永谷の永谷天満宮に祀られているということで、「日本三体天神」と言われるようです。
   今の鏡ではなく平安時代の鏡を見て、自分の像を彫れるか? と疑問も感じないではありませんが、それは「言わぬが花」でしょうか。 言い伝えですから、そうであってもなくても、そう伝わってきてそれを人々が尊重してきたということに価値があると考えるべきかもしれません。
   ウィキペディアには≪ 新編相模国風土記稿によれば、道真像は道真左遷に伴い播磨国へ流刑になった道真五男の菅秀才こと淳茂に与えられたもので、淳茂はのちに関東に下向し、相模国鎌倉郡永谷郷に居館を構えて道真像を奉祀したといわれている。≫と書かれていますが、現地での看板の説明書きには≪御末子の菅原秀方淳茂卿に下賜されたもの。・・・・菅原秀方淳茂卿はこの御像を関東に持ち帰り、永谷の地で、朝夕崇拝なされた。・・・≫と書かれています。
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(↑クリックすると大きくなります。↑)
   「菅秀」なのか「菅秀」なのか、ウィキペディアは何らかの情報をもとに編纂されたものだから、現地の情報の方が確かか? と思うと、由緒書にも≪一躯は秀才淳茂に、・・・≫と書かれています。 横浜市港南区のホームページ、《横浜市港南区 ふるさと港南 港南区の民話 永谷天神と菅秀才 上永谷》http://www.city.yokohama.lg.jp/konan/furusato/minwa/minw-17.html には、≪菅原道真には、十三人の子どもがおりましたが、その第五子敦茂は、父の才能を受けつぎ菅秀才と呼ばれるほどで、父の道真も大いに期待し、三体の道真像のうちの一体を、そっと渡していたのでしょう。・・・≫と書かれており、≪父の才能を受けつぎ菅秀才と呼ばれるほどで、≫ということは「秀方」ではなく「秀才」ということでしょうか。 現地の看板の説明書きには≪御末子の菅原秀方淳茂卿≫とあるのに対し、《横浜市港南区 ふるさと港南 港南区の民話 永谷天神と菅秀才 上永谷》http://www.city.yokohama.lg.jp/konan/furusato/minwa/minw-17.html には≪菅原道真には、十三人の子どもがおりましたが、その第五子敦茂は≫とあり、末子なのか13人の子供の5番目なのか、どちらなのだろうという気もしますが、1000年以上昔のことなので、諸説あるのかもしれません。 

≪ 歌舞伎『菅原伝授手習鑑』全五段のなかでも四段目の「寺子屋の段」が最も有名です。
  菅丞相(道真)の門弟・武部源蔵夫婦は、寺子屋を開きながら、丞相の子・菅秀才(かんしゅうさい)をかくまっていました。 それを嗅ぎつけた藤原時平は、秀才の首を打てと迫る。 たまたま新入りの寺子があったので、その首を打って、検視役の松王に差し出します。 実は身代わりになったのは、この松王の子の小太郎でした。
  白無垢の装束に着がえた松王は再び寺子屋に現れ、女房の千代に「女房よろこべ、せがれはお役に立ったぞ」と、余りに有名なセリフを吐くのです。
  この芝居は、近松の『天神記』を下敷きにしたもので、松王・梅王・桜丸の三ツ子の兄弟、その父の白太夫、武部源蔵夫婦など菅丞相に忠義をつくす人物を登場させ、二段目の「道明寺」、三段目の「賀の祝」そして四段目で、悲痛な親子の別れを描き出し、大いに好評を博しました。 忠臣蔵・義経千本桜とともに、三大傑作の一つに数えられています。
   最終段の「大内」は現在は滅多に上演されませんが、・・・
   天災がしきりに起こる大内裏に、斉世親王と刈谷姫、菅秀才がひそかに参内する。 それを知った時平一味に襲われるが、雷が落ちて救われます。時平は、桜丸の怨霊に取りつかれて、ついに悶え死んでしまう。 松王と桜丸、それに白太夫も一堂に会して、菅秀才は菅家相続を許され、菅公の霊は天満大自在天神と崇められることになる――。  ・・・≫と、
『わかりやすい天神信仰 学問の神さま』〔1994.12.20. (株)鎌倉新書〕に出ています。  菅原道真だけでなく、佐倉宗吾の話などもそうですが、歌舞伎などに取り上げられると、話は有名になり多くの人に知られるようになりますが、同時に本来の伝記と内容が変わったり異なった話がつけ加わったりする場合もあり、そこで変えられたり加えられたりした話が伝記と混同されて伝わってしまう場合もあり、良い面とそうでない面の両方があるように思います。 「菅 秀才」は歌舞伎『菅原伝授手習鑑』にも登場するらしいので、それから考えると、「菅秀方」ではなく「菅秀才」なのでしょうか。

  由緒書には≪御神躯は菅原文時、藤原道長、上杉金吾らに伝わり、明応二年(1493)2月の或る夜、相模八ヵ郷の領主、上杉刑部大夫藤原乗国が、永谷の居城にあって霊夢を見て、天満宮の社殿を造営し、御神躯を安置し奉った。≫とあります。
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↑ 社殿。 拝殿部分。
  けっこう大きな建物で、これが社殿全体かと思って横から山を登ってみると↓
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↑ 本殿と弊殿・・ということでしょう。
   山の地形を生かし、本殿は拝殿より少し高い場所に土地を削るのではなく、高い位置にそのまま作られているのですが、しかし、拝殿部分に比べると、本殿と弊殿の造りは、実際のところ、貧相に見えます。 拝殿部分は入母屋の屋根で、かつ、単に寄棟と切妻をミックスしただけの“現代入母屋”ではなく屋根にそりのある本入母屋の屋根であるのに対し、本殿・弊殿の部分は切妻屋根です。本殿・弊殿部分の横貼りサイディングは洋風のイメージがあり、神社には?という印象があります。 
   山際に立つ建物なので、本殿・弊殿部分は湿気やすい場所であるために建物も痛みやすく、拝殿部分が建てられた時より後で、本殿・弊殿は建て替えられたがその時に予算がなかったので拝殿よりも安っぽい建築になったのか、それとも、もしかして、本来は拝殿部分だけが社殿で、後から「石の間造り」にするために本殿・弊殿の部分を加えたのか。 本殿・弊殿部分は拝殿部分に比べて見えにくい位置にあるのですが、横にまわって見ると、どうも、本殿・弊殿部分には少々違和感を感じます。
 

  入口付近に「天神山天満宮参道」という石碑が立っているので、永谷天満宮のある山は天神山と呼ばれたことがあったのでしょう。 その天神山の上から見た 横浜地下鉄ブルーライン「上永谷(かみながや)」駅方面。↓
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   由緒書には、≪菅秀才淳茂郷は関東に下向相模国永谷郷の下之坊(現在の貞昌院の前身)に居を構え、朝な夕なに裏山天神山の山頂に立たれ、遥か西方遠く大宰府に居られる父公に朝夕の御挨拶をされ、遙拝し、思慕せられたと云う、・・・≫と書かれています。 ≪その場所が菅秀塚で、其の遺髪を納めたと伝える。≫そうです。 
  逆に、ブルーライン「上永谷」駅のプラットホームから見た天神山は↓
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  ↓ 貞昌院。 かつて、菅原淳茂の居館があった場所という。 現在は曹洞宗の寺となっているようです。
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  天神山では、蝉がかまびすしく鳴いていました。↓
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  私が子供の頃、蝉取りをする友人がおり、友人は蝉がいるのを見つけることができたのですが、私はなかなか見つけられなかったのです。 ところが、不思議なことに、間違いなくその頃よりは視力は悪くなっている最近、蝉がいるのを発見できるのです。 私が子供の頃、大阪でいた蝉はクマゼミが多かったのに対し、最近、東京・千葉・神奈川で見る蝉はアブラゼミが多く、透明感のあるクマゼミよりも茶色のアブラゼミの方が見えやすいということもあるかもしれません。 地域によって、多くいる蝉が違うのか、それとも、私が子供の頃(1960年代)には雀はいっぱいいたがカラスはそれほどいなかったのに、最近は、カラスはよくいて、雀は本当に少なくなったように、蝉も、1960年代と多くいる蝉が変わったのか、どちらでしょう。
  9月に入り、ミ~ンミンミンミンミ~ン~ン、ミ~ンミンミンミンミ~ン~ン♪ という、いかにも暑いぞ~、暑苦しいぞ~という感じの声に、ツクツクボ~ォシ ツクツクボ~ォシ ツクツクボ~ォシ とっぽじーじょ~ぉ とっぽじーじょ~ぉとっぽじーじょ~ぉ ジ~~~ィ~~い♪ という声がまじるようになりましたが、それでも、暑い!  

↓ 永谷天満宮のトイレは、トイレの建物が周囲から浮き上がらないように、神社の周囲の環境に馴染む保護色とでもいった色彩・形態で作られています。↓
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↓鯉が泳ぐ 永谷天満宮の前の「川」 ↓
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  永谷天満宮は、《ウィキペディア―天満宮》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE に神奈川県の天満宮として、鎌倉の荏柄天神社と川崎市幸区の天満天神社とともに出ていたのと、『わかりやすい天神信仰―学問の神さま』〔1994.12.20.(株)鎌倉新書〕に掲載されている「主要天満宮名簿」に神奈川県の天満宮として6社記載があるうちの1社として掲載されていたことから知りました。

   永谷天満宮 の住所は、横浜市港南区上永谷5-1-5 。
   電車の駅としては 横浜市地下鉄ブルーラインの「上永谷」駅が最寄駅です。 私は、行きは「上永谷」駅の北側に降りて県道22号(環状2号)の沿って歩いて行きました。 帰り、逆側から行ってみようとしたのですが、かなり遠回りになりました。帰宅してから地図を見返すと隣りの駅の「下永谷」に行った方がむしろ近い場所まで行ってしまったようです。
   千葉県在住者の私は、今回、JRの総武横須賀線直通快速で横浜駅まで行き、地下鉄ブルーラインで「上永谷」まで行きました。 帰りは、ブルーラインで「戸塚」まで行き、「戸塚」から総武線横須賀線直通快速に乗りました。
   永谷天満宮の目の前に、「永野小学校前」というバス停があり、「上大岡」駅ともうひとつどこかの駅まで行くバスが通っているようです。


  冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らす全国お百度参りシリーズ。
神奈川県では、
三渓園天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html  
に次いで2社目です。

東京都。
平河天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
亀戸天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html

千葉県。
葛飾天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
意富比神社 末社 天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
白井市 (白井市河原子の)天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
千葉神社 摂社 千葉天神 と 鵜の森町の「神札」
 (上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
 (下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html

京都府。
北野天満宮
 1  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
  2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
  3  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
  4  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
  5   https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html 

  (2013.9.2.) 








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