大阪天満宮参拝 3―梅が咲く「神楽殿・参集殿・梅花殿」と星合池・祖霊社と大将軍社。看板で努力する会社
[第244回]冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らす全国お百度参り(16)‐3
大阪天満宮では、社殿(拝殿・弊殿・本殿)の東に渡り廊下でつながれた「神楽殿・参集殿・梅花殿」があります。↓
↑ 東京から千葉市北西部にかけてと大阪付近では経度は違っても緯度はそれほど変わらないと思ったのですが、梅の開花は関西の方が幾分早いようで、2月末、東京から千葉にかけてはまだ梅は咲いていませんが、大阪ではつぼみの木もあるけれども咲いている梅もあります。 花粉症の発生も関西の方が幾分早いようです。
今回、梅と松の盆栽の展示の梅盆展が開催されており、普段はこの建物には入らせてもらえないのですが、今回、見学料500円を納付の上入場させていただくことができました。
「神楽殿・参集殿・梅花殿」は3棟の建物からなるということで3つの名称がついているようですが、中に入るとひと続きです。梅盆展の展示は写真撮影禁止でしたが、お庭は撮らせていただいてもいいだろうと思い撮影させていただきました。↓
※大阪天満宮の境内地図は
⇒《大阪天満宮HP 境内案内図》http://www.tenjinsan.com/keidai.html

北側の道を隔てた場所に「星合の池」と「祖霊社」があり、「神楽殿・参集殿・梅花殿」の前、その中庭とともに梅の花がきれいに咲いているのが見られます。↓
↑ 星合池 は、大阪天満宮HP《境内案内図 星合池 祖霊社》http://www.tenjinsan.com/photo8.html には≪通称亀の池とも呼ばれています≫と書かれており、亀の形にモルタルで造ったものが配置されていますが、四天王寺(http://www.shitennoji.or.jp/ )の亀の池と違って本物の亀はいません。
「祖霊社」は大阪天満宮の歴代の神職・氏子を祀っているそうです。
⇒「大阪天満宮HP 境内案内図 星合の池 祖霊社」http://www.tenjinsan.com/photo8.html
大阪天満宮は、もともと、この場所に大将軍社があり、菅原道真が太宰府に流される際、大将軍社に参拝したのが縁で、ここに天満宮が設けられたそうです。
≪ 昌泰4年(901)年 藤原時平のざん言により、俄に左遷の命が下りましたので都を出発になりました。途中河内の叔母君に分かれを告げられた(菅原道真)公は、川船と、海船の乗りかえ港であった難波の渡辺に寄られ、大将軍の社(当宮の地主神)に御参拝になり海路筑紫へ旅立たれました。
この由縁で村上天皇の勅願に依り当宮が創祀されたのであります。≫
≪ 大阪天満宮は、贈太政大臣正一位菅原道真公(845~903)を主神として奉祀してあります。
天暦3年(949)村上天皇の勅願に依って大将軍の森(後に天神の森と称せられ、現在南森町と云う)に御鎮座になり、以後千有余年、寸尺も位置を変更することなく現在に至りました。≫
と大阪天満宮でいただいた由緒書に書かれています。
その≪(菅原道真が)大将軍の社(当宮の地主神)に御参拝になり≫という大将軍社が↓
《ウィキペディア―大阪天満宮》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE には、≪901年に菅原道真が、藤原時平により九州大宰府へ配転(左遷)させられた際、同地にあった大将軍社に参詣した。903年に菅原道真が没した後、天神信仰が始まる。949年に大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わった。そのため村上天皇の勅命によって天満宮を建立させたのが始まりである。≫と出ています。
≪ この間正平2年(1342年)楠木正行と山名時氏の合戦、元亀元年(1570)の石山合戦、天保8年(1837)の大塩の乱等に焼失しましたが現在の本殿は天保14年(1843)の建築でその様式は権現造りであります。≫と由緒書には書かれています。
「権現造り」の「権現」とは「東照大権現」徳川家康のことで、日光東照宮(http://www.toshogu.jp/)・上野東照宮(http://www.uenotoshogu.com/ )の造りのことを言い、仙台市の大崎八幡宮(http://www.oosaki-hachiman.or.jp/ )では大崎八幡宮の方が日光東照宮よりも建築は先だということから「権現造り」と言わずに「石の間造り」と言っているといいます。 又、拝殿・弊殿(石の間)・本殿の3部構成の社殿ということなら、京都の北野天満宮(http://kitanotenmangu.or.jp/ )の方が先でもあるでしょう。
しかし、「権現造り」と「石の間造り」を同じものの別称と考えるべきでしょうか。 そうではなく、ドイツ人建築家ブルーノ=タウトが酷評した 日光東照宮のような刻みまくり塗りたくりした絢爛豪華、はではで、「きんりらきんにさりげなく♪」の建物で、かつ、拝殿・弊殿・本殿の3部構成でなる「石の間造り」の建物を「権現造り」と言うべきで、「石の間造り」と「権現造り」は一緒ではなく「石の間造り」の中に「権現造り」があると考えるべきではないでしょうか。 そう考えるならば、北野天満宮や大阪天満宮は「石の間造り」ではあっても「権現造り」ではないと判断できると思います。
もっとも、神社の造りには「○○造り」と言われるものが相当にあるようで、それぞれの神社の社殿で少しずつ違うわけですから、少しでも違いがあれば「○○造り」と名称をつけるならば、かぎりなく「○○造り」はできてくることになります。中学校や高校の「歴史」「日本史」のテキストにでてくるのは、伊勢神宮の「神明造」、出雲大社の「大社造」、住吉大社の「住吉造」、春日大社の「春日造」、宇佐八幡宮の「八幡造」、日吉大社の「日吉造」、下賀茂神社・上賀茂神社の「流造(ながれづくり)」、そして、日光東照宮の「権現造」の8つで、この8つの変形・バリエーションの「○○造り」が大量にあるようですが、「権現造り」については「ぎんぎらぎんにさりげなく♪」で拝殿・弊殿・本殿の3部構成のものを「権現造り」と定義すると、拝殿・弊殿・本殿の3部構成であるけれども「ぎんぎらぎんにさりげなく♪」ではないものはどう言えばいいのか?となるわけで、そうなると「石の間造り」と呼ぶ方が妥当か? となるのです。
(「ぎんぎらぎんにさりげなく♪」を知らない方は、
⇒《YouTube―近藤真彦 ギンギラギンにさりげなく》http://www.youtube.com/watch?v=ZpW_tjzJN6E )
大阪天満宮の場合、「登竜門」の所の説明書きに≪・・東西唐門両側に鯉に竜の図柄の金燈籠がありましたが戦前の金属供出でなくなり台座を残すのみとなっておりました。 この度 菅原道真公千百年大祭記念として篤志の方の奉納により昔ながらの図柄の燈籠が再現されることとなりました。・・≫という「宮司 寺井種伯」氏の文章が書かれており、「きんきらきん」であったものが部分的に戦前戦中の「金属供出」でなくなったものがあることが考えられ、今の社殿よりもっと「きんきらきん」であったならば「権現造り」に近かったかもしれません。
しかし、そうであったとしても、やはり、菅原道真と徳川家康は祭神としての性格が異なります。 徳川時代、将軍家の先祖で徳川幕府をおこした「神君 家康公」として神様あつかいされた徳川家康と、もともと儒家で「お勉強しい」から文章博士となり、「菅家廊下」で道真の儒学の弟子であった定相王が宇多天皇になりその宇多天皇から評価され、道真を評価していた人のもとで仕事をしていたはずが、いつしか権力者である藤原北家主流派や皇族から臣籍降下した源氏一族の対抗勢力の代表格のようになってしまい、結果、左遷されてしまった道真とは歴史上の人物としての評価も異なれば、「神」としての性格も異なり、「ぎんぎらぎんにさりげなく」は家康には似合っても菅原道真には似合わないと思います。
撮影は2月27日です。 まだしばらく梅の花を見ることはできます。
JR東西線「大阪天満宮」駅の入口のそば、天神橋筋商店街の入口には「天神さん」のデコレーションが飾られています。↓

これから大阪天満宮に行かれるかたには、往きは京阪・地下鉄の「天満橋」(もしくは「北浜」「なにわ橋」)から北上するのをお勧めしますが、帰りはJR「大阪天満宮」、もしくは地下鉄「南森町」から帰るのも悪くないと思います。
↑ 天神橋筋商店街に入る箇所。 「エイブル」と「ミニミニ」が、会社名称のみをどぅか~んと表示しておのれの存在を主張しています。
千葉市中央区鵜の森町 の新華ハウジング有限会社(建設業)・ビルダーズジャパン株式会社(不動産業)・ジャムズグローバルスクエア株式会社(不明業)は、会社の横の道は車両の通行が多く、かつ、JR外房線の踏切と信号にはさまれた場所で、しばしばクルマが停止する所なので、私はそこに会社名と業務内容のみを大きく書いた看板を立てるべきだと何度も何度も何度も何度も主張したが、社長の長○川S二(40代前半)とその子分のU草A二(30代半ば)は「つけます」と言い、「つけます」と言ってもつけないので「つけると具合が悪い理由が何かあるのですか?」と言うと、「そんなことありませんよ。つけます、つけます。」と言ってつけない。

「つけない」のなら「・・という理由でつけたくない」と言ってもらいたいのです。つけるつもりがないのに「つけます」と言わないでもらいたいのですが、「つけます」「つけます」と言いまくってつけなかった。 つけるつもりもないのに「つけます」「つけます」と言いまくるのは、つけるべきだと指摘・主張した人間に対して失礼です。
新華ハウジングが建築していた建物の工事中現場はどこも工事中の仮設水道がでていない。千葉県東金市日吉台の工事現場で相当工事が進んでいるのに仮設水道が出ていないので、自称「工事責任者」のU草A二に「もう造作工事に入っているのに、まだ仮設水道が出ていませんよ」と指摘すると、「すぐ出します」と言って出さない。 しばらくして「まだ、仮設水道が出ていませんよ」と言っても、「出します、出します」と言って出さない。 またしばらくして「まだ、仮設水道が出ていませんが、新華ハウジングでは仮設水道を出す費用を節約しようということで出さないのですか」と言うと、U草は「そんなことありませんよ。出しますよ、すぐに出します」と言って断固として出さない。結局、仮設水道はいつ出したかというと、完成まで出さなかった。 どうやって、水道なしで家1件の工事をやってのけたのかというと、今は基礎工事の際のコンクリートは生コン車が来てどぼどぼどぼおと生コンを流しこむのであり現地で砂と砂利とセメントと水を混ぜて作るわけではないので水道が出てなくても基礎工事はできるということで、その後は水が必要な時はペットボトルに近くの公園とかスーパー・コンビニのトイレの水道から汲んできて使用して建てたらしい。 1回、2回ならともかく、家1件建てるための水を公園の水道やスーパー・コンビニにトイレの水道からいただくというのは窃盗罪にならないか?!?と思うのだが、長○川やU草にとってはそれが当たり前のことのようでした。 仮設水道にしても「つけます」と言ったらつけてもらいたいし、つけるつもりがないのに「つけます」と言わないでもらいたい。そう思いませんか?
千葉県東金市日吉台の工事現場では高基礎兼べた基礎の下の土がえぐり取られて大きく空間が空いていた。私が「そのままにしておいてはよくないですよ。私が土を埋めてきていいですか」と言うと、自称「工事責任者」のU草は「やらなくていいです。こちらでやりますから」と言ってやらない。「営業上もいいことないから私が土を埋めてきていいですか」と言うと「やらなくていです。こちらでやります」と言って断固としてやらない。
U草は「ぼく、営業やったことないですけど、営業できますから」と厚かましい文句を何度も口にしていたが、「営業上もよくないから土を入れて塞いでおきたい」と私が言うのに「いいです。こちらでやりますから」と言って断固としてやらないまったく営業できていない営業できない男にそういう文句は口にしてもらいたくないものだ。
↑の写真のように会社名をどぅかぁ~ん! と掲示する会社と「つけます」と言って断固としてつけない会社では、「つけます」と言って断固としてつけないの方が営業がしやすい・・などと考えるバカは普通いませんわな・・。 「プロミスの黄色い看板」は多くの場所で街の景観を破壊しているが、しかし、「プロミス」を強烈に印象づけている。商売やって利益をあげようと思ったら↑のようにやることやらにゃいけませんわな・・・。社長の長○川は、看板ひとつにしてもつけると言ってつけず、私がつけてくれといくら言ってもつけず、「家族の笑顔って最高です」と家族とハワイにバカンスに行き沖縄に遊びに行きしていたが、ハワイてそんなに行かなきゃならんもんか? つけるべきものもつけずに行かなきゃならんもんか? 従業員が悪戦苦闘している最中にそうやってハワイにバカンスに行っていた息子てどんな人間に育つのだろう?
従業員に「放射線管理区域」に該当したホットスポットに仕事に行かせ、「こういう時に社会貢献しない奴は俺は絶対に許さねえよ」と言って従業員に粉塵舞う被災地に福島県中通経由で「ボランティア」に行かせ、会津若松市の仮設住宅の建設工事に福島県中通経由で従業員に行かせて、自分は「放射能、こわいよ、こわいよ」とハワイに避難する社長(父親)とともにハワイに避難した息子て、どんな人間に育つのだろうなあ・・。
ー・-・-・-・-・-・-・-
≪ 九州への旅は瀬戸内海を辿るのが通例だが、罪人の扱いなので粗末な馬車で陸路を辿った。千五百里の道程(みちのり)である。食事もほとんど与えられず、大宰府に着いた時には痩せ細っていた。
大宰府権帥(ごんのそち)という役職であるが職務は与えられず、半ば朽ちた粗末な小屋に寝泊まりし、乏しい食料でかろうじて飢えを凌いだ。
同伴した男児はわずかな期間の後に病に倒れ亡くなった。
愛児を亡くしたことで道真自身も生きる気力を失い、呆けたように日々を送った。
・・・・・
大宰府に配流されて二年後の延喜3年(903年)2月、菅原道真は大宰府にて薨じた。享年59。
・・・・・・
・・・藤原菅根は内裏の門前で上皇に手をかけて押しとどめたことが罪とされて蔵人頭を解任されたが、すぐに復職が許された。 ・・・・
・・・・(藤原)菅根は数年後には参議に昇ったが、謎の熱病にとりつかれて53歳で亡くなった。熱病は激しい苦痛を伴うもので、まさに悶死と言ってよかった。その前後から天候が不順になったこともあって、道真の祟りではないかという風評が流れ始めた。
延喜9年(909年)、四月。
左大臣藤原時平が熱病にかかって悶死した。享年39。
藤原菅根の死の翌年である。
天候不順がさらに激しくなり、京の市中に隕石が火の玉となって落下した。
・・・・
延喜13年(913年)、3月。
右大臣源光が騎馬で狩猟に出かけた。にわかに雷雨があり、あたり一面が泥沼になった。帰路を見失った源光が駆け回るうちに深みに落ち、馬ごと泥の中に沈み込んでいった。右大臣の変死体が発見されると、人々はにわかな雷雨と増水を怪しみ、天神の呪いではないかと噂をした。
延喜23年(923年)、3月。
皇太子保明親王(やすあきらしんのう)がにわかな熱病で没した。享年21.
昌泰の変が起こった昌泰4年(延喜元年)、左大臣時平は妹の穏子(やすこ)を入内させた。二年後に生まれたのが保明親王である。翌年、わずか二歳で皇太子に立てられた。これで道真の娘婿であった斉世親王(ときよしんのう)の皇位継承の可能性は断たれた。その皇太子の突然の死に、人々は天神の祟りだと恐れた。
保明親王には三歳になる男児があったため、ただちに皇太子に立てられたのだが、二年後、その慶頼王(よしよりおう)がわずか五歳で病没した。天神への恐れが高まった。
延長8年J(930年)、6月。
長く続いた日照りのため、宮中の清涼殿では公卿や文官が集まって、雨乞いについての合議を進めていた。その時、にわかに黒雲がわきおこって、雷鳴とともに青い閃光が清涼殿を貫いた。その場にいた人のすべてが床に薙ぎ倒された。
落雷が清涼殿を直撃したのだ。数名の死者が出たが、その中に大納言藤原清貫の無残に焼け焦げた姿があった。
藤原清貫自身も、父の保則(やすのり)も、道真と親しいというわけではなかったが、昌泰の変でとくに帝や左大臣時平に加担していたわけではない。しかし帝の側近であったことは確かだし、大宰府に出向いて調書をとったことから、天神の祟りを受けたと人々は噂することになった。
醍醐帝は目の前で清貫が雷に打たれるさまを目撃した。その衝撃と、自分にも祟りが及ぶのではないかという恐怖でそのまま病臥することになり、二度と立ち上がることはできなかった。
九月、醍醐帝が薨じた。享年46。 ≫
(三田誠広(みた まさひろ)『菅原道真 見果てぬ夢』2013.2.18. 河出書房新社)
「狙う相手は、左大臣藤原時平、右大臣源光、参議藤原菅根、
醍醐天皇、皇太子保明親王、その子 慶頼王、藤原清貫」
⇒《YouTube-必殺仕事人 OP 》http://www.youtube.com/watch?v=8WD1ckiHdeM
《YouTube-新必殺仕事人「仕事人出陣」 》http://www.youtube.com/watch?v=08L3bIXekLk
《YouTube-月が笑ってらぁ 藤田まこと 修正ver (歌詞 静止画付き)》http://www.youtube.com/watch?v=wJlnsIEqaXA
☆ 大阪天満宮参拝は三部作として作成しました。
1―大阪天満宮への道。駅名と地名。天神橋と天満橋。納得いかないJR東西線の駅名。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2―天神橋から大阪天満宮へ。表門、社殿と摂社。社殿・摂社を塞ぐ露天の店は再考願いたいhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
とともに御覧くださいませ。
(2014.3.3.)
☆ 冤罪を晴らす神様・菅原道真・怨念を晴らす全国お百度参り シリーズは、
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
意富比神社 末社 天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
白井市(白井市河原子の)天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
千葉神社 摂社 千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
東京都
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html
神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
(2014.3..)
大阪天満宮では、社殿(拝殿・弊殿・本殿)の東に渡り廊下でつながれた「神楽殿・参集殿・梅花殿」があります。↓
↑ 東京から千葉市北西部にかけてと大阪付近では経度は違っても緯度はそれほど変わらないと思ったのですが、梅の開花は関西の方が幾分早いようで、2月末、東京から千葉にかけてはまだ梅は咲いていませんが、大阪ではつぼみの木もあるけれども咲いている梅もあります。 花粉症の発生も関西の方が幾分早いようです。
今回、梅と松の盆栽の展示の梅盆展が開催されており、普段はこの建物には入らせてもらえないのですが、今回、見学料500円を納付の上入場させていただくことができました。
「神楽殿・参集殿・梅花殿」は3棟の建物からなるということで3つの名称がついているようですが、中に入るとひと続きです。梅盆展の展示は写真撮影禁止でしたが、お庭は撮らせていただいてもいいだろうと思い撮影させていただきました。↓
※大阪天満宮の境内地図は
⇒《大阪天満宮HP 境内案内図》http://www.tenjinsan.com/keidai.html
北側の道を隔てた場所に「星合の池」と「祖霊社」があり、「神楽殿・参集殿・梅花殿」の前、その中庭とともに梅の花がきれいに咲いているのが見られます。↓
↑ 星合池 は、大阪天満宮HP《境内案内図 星合池 祖霊社》http://www.tenjinsan.com/photo8.html には≪通称亀の池とも呼ばれています≫と書かれており、亀の形にモルタルで造ったものが配置されていますが、四天王寺(http://www.shitennoji.or.jp/ )の亀の池と違って本物の亀はいません。
「祖霊社」は大阪天満宮の歴代の神職・氏子を祀っているそうです。
⇒「大阪天満宮HP 境内案内図 星合の池 祖霊社」http://www.tenjinsan.com/photo8.html
大阪天満宮は、もともと、この場所に大将軍社があり、菅原道真が太宰府に流される際、大将軍社に参拝したのが縁で、ここに天満宮が設けられたそうです。
≪ 昌泰4年(901)年 藤原時平のざん言により、俄に左遷の命が下りましたので都を出発になりました。途中河内の叔母君に分かれを告げられた(菅原道真)公は、川船と、海船の乗りかえ港であった難波の渡辺に寄られ、大将軍の社(当宮の地主神)に御参拝になり海路筑紫へ旅立たれました。
この由縁で村上天皇の勅願に依り当宮が創祀されたのであります。≫
≪ 大阪天満宮は、贈太政大臣正一位菅原道真公(845~903)を主神として奉祀してあります。
天暦3年(949)村上天皇の勅願に依って大将軍の森(後に天神の森と称せられ、現在南森町と云う)に御鎮座になり、以後千有余年、寸尺も位置を変更することなく現在に至りました。≫
と大阪天満宮でいただいた由緒書に書かれています。
その≪(菅原道真が)大将軍の社(当宮の地主神)に御参拝になり≫という大将軍社が↓
《ウィキペディア―大阪天満宮》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE には、≪901年に菅原道真が、藤原時平により九州大宰府へ配転(左遷)させられた際、同地にあった大将軍社に参詣した。903年に菅原道真が没した後、天神信仰が始まる。949年に大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わった。そのため村上天皇の勅命によって天満宮を建立させたのが始まりである。≫と出ています。
≪ この間正平2年(1342年)楠木正行と山名時氏の合戦、元亀元年(1570)の石山合戦、天保8年(1837)の大塩の乱等に焼失しましたが現在の本殿は天保14年(1843)の建築でその様式は権現造りであります。≫と由緒書には書かれています。
「権現造り」の「権現」とは「東照大権現」徳川家康のことで、日光東照宮(http://www.toshogu.jp/)・上野東照宮(http://www.uenotoshogu.com/ )の造りのことを言い、仙台市の大崎八幡宮(http://www.oosaki-hachiman.or.jp/ )では大崎八幡宮の方が日光東照宮よりも建築は先だということから「権現造り」と言わずに「石の間造り」と言っているといいます。 又、拝殿・弊殿(石の間)・本殿の3部構成の社殿ということなら、京都の北野天満宮(http://kitanotenmangu.or.jp/ )の方が先でもあるでしょう。
しかし、「権現造り」と「石の間造り」を同じものの別称と考えるべきでしょうか。 そうではなく、ドイツ人建築家ブルーノ=タウトが酷評した 日光東照宮のような刻みまくり塗りたくりした絢爛豪華、はではで、「きんりらきんにさりげなく♪」の建物で、かつ、拝殿・弊殿・本殿の3部構成でなる「石の間造り」の建物を「権現造り」と言うべきで、「石の間造り」と「権現造り」は一緒ではなく「石の間造り」の中に「権現造り」があると考えるべきではないでしょうか。 そう考えるならば、北野天満宮や大阪天満宮は「石の間造り」ではあっても「権現造り」ではないと判断できると思います。
もっとも、神社の造りには「○○造り」と言われるものが相当にあるようで、それぞれの神社の社殿で少しずつ違うわけですから、少しでも違いがあれば「○○造り」と名称をつけるならば、かぎりなく「○○造り」はできてくることになります。中学校や高校の「歴史」「日本史」のテキストにでてくるのは、伊勢神宮の「神明造」、出雲大社の「大社造」、住吉大社の「住吉造」、春日大社の「春日造」、宇佐八幡宮の「八幡造」、日吉大社の「日吉造」、下賀茂神社・上賀茂神社の「流造(ながれづくり)」、そして、日光東照宮の「権現造」の8つで、この8つの変形・バリエーションの「○○造り」が大量にあるようですが、「権現造り」については「ぎんぎらぎんにさりげなく♪」で拝殿・弊殿・本殿の3部構成のものを「権現造り」と定義すると、拝殿・弊殿・本殿の3部構成であるけれども「ぎんぎらぎんにさりげなく♪」ではないものはどう言えばいいのか?となるわけで、そうなると「石の間造り」と呼ぶ方が妥当か? となるのです。
(「ぎんぎらぎんにさりげなく♪」を知らない方は、
⇒《YouTube―近藤真彦 ギンギラギンにさりげなく》http://www.youtube.com/watch?v=ZpW_tjzJN6E )
大阪天満宮の場合、「登竜門」の所の説明書きに≪・・東西唐門両側に鯉に竜の図柄の金燈籠がありましたが戦前の金属供出でなくなり台座を残すのみとなっておりました。 この度 菅原道真公千百年大祭記念として篤志の方の奉納により昔ながらの図柄の燈籠が再現されることとなりました。・・≫という「宮司 寺井種伯」氏の文章が書かれており、「きんきらきん」であったものが部分的に戦前戦中の「金属供出」でなくなったものがあることが考えられ、今の社殿よりもっと「きんきらきん」であったならば「権現造り」に近かったかもしれません。
しかし、そうであったとしても、やはり、菅原道真と徳川家康は祭神としての性格が異なります。 徳川時代、将軍家の先祖で徳川幕府をおこした「神君 家康公」として神様あつかいされた徳川家康と、もともと儒家で「お勉強しい」から文章博士となり、「菅家廊下」で道真の儒学の弟子であった定相王が宇多天皇になりその宇多天皇から評価され、道真を評価していた人のもとで仕事をしていたはずが、いつしか権力者である藤原北家主流派や皇族から臣籍降下した源氏一族の対抗勢力の代表格のようになってしまい、結果、左遷されてしまった道真とは歴史上の人物としての評価も異なれば、「神」としての性格も異なり、「ぎんぎらぎんにさりげなく」は家康には似合っても菅原道真には似合わないと思います。
撮影は2月27日です。 まだしばらく梅の花を見ることはできます。
JR東西線「大阪天満宮」駅の入口のそば、天神橋筋商店街の入口には「天神さん」のデコレーションが飾られています。↓
これから大阪天満宮に行かれるかたには、往きは京阪・地下鉄の「天満橋」(もしくは「北浜」「なにわ橋」)から北上するのをお勧めしますが、帰りはJR「大阪天満宮」、もしくは地下鉄「南森町」から帰るのも悪くないと思います。
↑ 天神橋筋商店街に入る箇所。 「エイブル」と「ミニミニ」が、会社名称のみをどぅか~んと表示しておのれの存在を主張しています。
千葉市中央区鵜の森町 の新華ハウジング有限会社(建設業)・ビルダーズジャパン株式会社(不動産業)・ジャムズグローバルスクエア株式会社(不明業)は、会社の横の道は車両の通行が多く、かつ、JR外房線の踏切と信号にはさまれた場所で、しばしばクルマが停止する所なので、私はそこに会社名と業務内容のみを大きく書いた看板を立てるべきだと何度も何度も何度も何度も主張したが、社長の長○川S二(40代前半)とその子分のU草A二(30代半ば)は「つけます」と言い、「つけます」と言ってもつけないので「つけると具合が悪い理由が何かあるのですか?」と言うと、「そんなことありませんよ。つけます、つけます。」と言ってつけない。
「つけない」のなら「・・という理由でつけたくない」と言ってもらいたいのです。つけるつもりがないのに「つけます」と言わないでもらいたいのですが、「つけます」「つけます」と言いまくってつけなかった。 つけるつもりもないのに「つけます」「つけます」と言いまくるのは、つけるべきだと指摘・主張した人間に対して失礼です。
新華ハウジングが建築していた建物の工事中現場はどこも工事中の仮設水道がでていない。千葉県東金市日吉台の工事現場で相当工事が進んでいるのに仮設水道が出ていないので、自称「工事責任者」のU草A二に「もう造作工事に入っているのに、まだ仮設水道が出ていませんよ」と指摘すると、「すぐ出します」と言って出さない。 しばらくして「まだ、仮設水道が出ていませんよ」と言っても、「出します、出します」と言って出さない。 またしばらくして「まだ、仮設水道が出ていませんが、新華ハウジングでは仮設水道を出す費用を節約しようということで出さないのですか」と言うと、U草は「そんなことありませんよ。出しますよ、すぐに出します」と言って断固として出さない。結局、仮設水道はいつ出したかというと、完成まで出さなかった。 どうやって、水道なしで家1件の工事をやってのけたのかというと、今は基礎工事の際のコンクリートは生コン車が来てどぼどぼどぼおと生コンを流しこむのであり現地で砂と砂利とセメントと水を混ぜて作るわけではないので水道が出てなくても基礎工事はできるということで、その後は水が必要な時はペットボトルに近くの公園とかスーパー・コンビニのトイレの水道から汲んできて使用して建てたらしい。 1回、2回ならともかく、家1件建てるための水を公園の水道やスーパー・コンビニにトイレの水道からいただくというのは窃盗罪にならないか?!?と思うのだが、長○川やU草にとってはそれが当たり前のことのようでした。 仮設水道にしても「つけます」と言ったらつけてもらいたいし、つけるつもりがないのに「つけます」と言わないでもらいたい。そう思いませんか?
千葉県東金市日吉台の工事現場では高基礎兼べた基礎の下の土がえぐり取られて大きく空間が空いていた。私が「そのままにしておいてはよくないですよ。私が土を埋めてきていいですか」と言うと、自称「工事責任者」のU草は「やらなくていいです。こちらでやりますから」と言ってやらない。「営業上もいいことないから私が土を埋めてきていいですか」と言うと「やらなくていです。こちらでやります」と言って断固としてやらない。
U草は「ぼく、営業やったことないですけど、営業できますから」と厚かましい文句を何度も口にしていたが、「営業上もよくないから土を入れて塞いでおきたい」と私が言うのに「いいです。こちらでやりますから」と言って断固としてやらないまったく営業できていない営業できない男にそういう文句は口にしてもらいたくないものだ。
↑の写真のように会社名をどぅかぁ~ん! と掲示する会社と「つけます」と言って断固としてつけない会社では、「つけます」と言って断固としてつけないの方が営業がしやすい・・などと考えるバカは普通いませんわな・・。 「プロミスの黄色い看板」は多くの場所で街の景観を破壊しているが、しかし、「プロミス」を強烈に印象づけている。商売やって利益をあげようと思ったら↑のようにやることやらにゃいけませんわな・・・。社長の長○川は、看板ひとつにしてもつけると言ってつけず、私がつけてくれといくら言ってもつけず、「家族の笑顔って最高です」と家族とハワイにバカンスに行き沖縄に遊びに行きしていたが、ハワイてそんなに行かなきゃならんもんか? つけるべきものもつけずに行かなきゃならんもんか? 従業員が悪戦苦闘している最中にそうやってハワイにバカンスに行っていた息子てどんな人間に育つのだろう?
従業員に「放射線管理区域」に該当したホットスポットに仕事に行かせ、「こういう時に社会貢献しない奴は俺は絶対に許さねえよ」と言って従業員に粉塵舞う被災地に福島県中通経由で「ボランティア」に行かせ、会津若松市の仮設住宅の建設工事に福島県中通経由で従業員に行かせて、自分は「放射能、こわいよ、こわいよ」とハワイに避難する社長(父親)とともにハワイに避難した息子て、どんな人間に育つのだろうなあ・・。
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≪ 九州への旅は瀬戸内海を辿るのが通例だが、罪人の扱いなので粗末な馬車で陸路を辿った。千五百里の道程(みちのり)である。食事もほとんど与えられず、大宰府に着いた時には痩せ細っていた。
大宰府権帥(ごんのそち)という役職であるが職務は与えられず、半ば朽ちた粗末な小屋に寝泊まりし、乏しい食料でかろうじて飢えを凌いだ。
同伴した男児はわずかな期間の後に病に倒れ亡くなった。
愛児を亡くしたことで道真自身も生きる気力を失い、呆けたように日々を送った。
・・・・・
大宰府に配流されて二年後の延喜3年(903年)2月、菅原道真は大宰府にて薨じた。享年59。
・・・・・・
・・・藤原菅根は内裏の門前で上皇に手をかけて押しとどめたことが罪とされて蔵人頭を解任されたが、すぐに復職が許された。 ・・・・
・・・・(藤原)菅根は数年後には参議に昇ったが、謎の熱病にとりつかれて53歳で亡くなった。熱病は激しい苦痛を伴うもので、まさに悶死と言ってよかった。その前後から天候が不順になったこともあって、道真の祟りではないかという風評が流れ始めた。
延喜9年(909年)、四月。
左大臣藤原時平が熱病にかかって悶死した。享年39。
藤原菅根の死の翌年である。
天候不順がさらに激しくなり、京の市中に隕石が火の玉となって落下した。
・・・・
延喜13年(913年)、3月。
右大臣源光が騎馬で狩猟に出かけた。にわかに雷雨があり、あたり一面が泥沼になった。帰路を見失った源光が駆け回るうちに深みに落ち、馬ごと泥の中に沈み込んでいった。右大臣の変死体が発見されると、人々はにわかな雷雨と増水を怪しみ、天神の呪いではないかと噂をした。
延喜23年(923年)、3月。
皇太子保明親王(やすあきらしんのう)がにわかな熱病で没した。享年21.
昌泰の変が起こった昌泰4年(延喜元年)、左大臣時平は妹の穏子(やすこ)を入内させた。二年後に生まれたのが保明親王である。翌年、わずか二歳で皇太子に立てられた。これで道真の娘婿であった斉世親王(ときよしんのう)の皇位継承の可能性は断たれた。その皇太子の突然の死に、人々は天神の祟りだと恐れた。
保明親王には三歳になる男児があったため、ただちに皇太子に立てられたのだが、二年後、その慶頼王(よしよりおう)がわずか五歳で病没した。天神への恐れが高まった。
延長8年J(930年)、6月。
長く続いた日照りのため、宮中の清涼殿では公卿や文官が集まって、雨乞いについての合議を進めていた。その時、にわかに黒雲がわきおこって、雷鳴とともに青い閃光が清涼殿を貫いた。その場にいた人のすべてが床に薙ぎ倒された。
落雷が清涼殿を直撃したのだ。数名の死者が出たが、その中に大納言藤原清貫の無残に焼け焦げた姿があった。
藤原清貫自身も、父の保則(やすのり)も、道真と親しいというわけではなかったが、昌泰の変でとくに帝や左大臣時平に加担していたわけではない。しかし帝の側近であったことは確かだし、大宰府に出向いて調書をとったことから、天神の祟りを受けたと人々は噂することになった。
醍醐帝は目の前で清貫が雷に打たれるさまを目撃した。その衝撃と、自分にも祟りが及ぶのではないかという恐怖でそのまま病臥することになり、二度と立ち上がることはできなかった。
九月、醍醐帝が薨じた。享年46。 ≫
(三田誠広(みた まさひろ)『菅原道真 見果てぬ夢』2013.2.18. 河出書房新社)
「狙う相手は、左大臣藤原時平、右大臣源光、参議藤原菅根、
醍醐天皇、皇太子保明親王、その子 慶頼王、藤原清貫」
⇒《YouTube-必殺仕事人 OP 》http://www.youtube.com/watch?v=8WD1ckiHdeM
《YouTube-新必殺仕事人「仕事人出陣」 》http://www.youtube.com/watch?v=08L3bIXekLk
《YouTube-月が笑ってらぁ 藤田まこと 修正ver (歌詞 静止画付き)》http://www.youtube.com/watch?v=wJlnsIEqaXA
☆ 大阪天満宮参拝は三部作として作成しました。
1―大阪天満宮への道。駅名と地名。天神橋と天満橋。納得いかないJR東西線の駅名。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2―天神橋から大阪天満宮へ。表門、社殿と摂社。社殿・摂社を塞ぐ露天の店は再考願いたいhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
とともに御覧くださいませ。
(2014.3.3.)
☆ 冤罪を晴らす神様・菅原道真・怨念を晴らす全国お百度参り シリーズは、
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
意富比神社 末社 天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
白井市(白井市河原子の)天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
千葉神社 摂社 千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
東京都
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html
神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
(2014.3..)
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