露天神社(つゆのてんじんじゃ)(お初天神)参拝【上】鳥居・社殿・露の井・お初 徳兵衛の像・梅新ビル他
[第225回]冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らす全国お百度参り(17)‐1
大阪市北区曽根崎の露 天神社(つゆのてんじんじゃ)(お初天神)に参拝してまいりました。 一般には「お初天神」の方が通りがいいのですが、なぜ、「お初天神」というかというと、近松門左衛門の『曽根崎心中』という作品のモデルである「お初」という女性と「徳兵衛」という男性がこの露の天神社の森で心中したそうで、そこから「お初天神」と言われるようになったということです。
場所は街中も街中。 最も近い駅は大阪市地下鉄谷町線「東梅田」駅で南東へすぐ。 JRなら「大阪」駅、阪急・阪神・地下鉄御堂筋線なら「梅田」駅が最寄です。 私は今回は「東梅田」から行きましたし、これまでに行ったときも、いずれも、「梅田」「東梅田」から行っていましたが、このブログを打ちこみながら地図を見ていると、南側の地下鉄御堂筋線・京阪本線「淀屋橋」、京阪中之島線「大江橋」からも遠くないことに気づきました。


↑ の写真が露 天神社(つゆのてんじんじゃ)(お初天神)の鳥居ですが、ここでは、この鳥居から露の天神社の中に入る前に、少々、南に行ってみたいと思います。
↓ 露の天神社のこの鳥居のすぐ南側のビルには、鳥居のちょうど南の部分に↓のように、参道のように「くりぬき」の歩行者用の通路が設けられているのです。
(↑ クリックすると大きくなるので、ぜひ大きくして見てください。「くりぬき」の向こうに「露の天神社」と横に書かれた幕のかかった露の天神社の鳥居が見えます。)
地図を見ると、これは「梅新第一生命ビル」ですが、全体は↓です。
↑ これも、ぜひクリックして大きくしてみてください。 歩道橋の向こう側に「くりぬき」があり、その向こうに露の天神社の鳥居が見えます。
この「くりぬき」は、ビルの建築主と建設会社がこの地域において存在感のある有名神社に配慮して自分の所の土地に建てるビルに通路を設けたものか、それとも、もともと道路・参道であった所の上にビルを造りたいと思ってこのようにしたものか、建築主の土地であるが、このような配慮をすることが義務付けられた法令があったのか、いずれだろうかと思ったのですが、《ウィキペディア―梅新第一生命ビルディング》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%96%B0%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0 を見ると、
≪ 露天神社(通称・お初天神)の参道を挟んで東西に分かれていた土地を敷地整序型土地区画整理事業の手法で参道を含めて一体化して建設された。≫と書かれています。
この「くりぬき」部分からビルに入れる入口が設けられています。 なかなか・・と思ったのですが、もしも、もともと道であった両側を合わせて建てるという場合でなく、あくまで自分の敷地に建てるという場合でも、このように造れば、鳥居の前の歩行者用通路は一般の人が通るようになり、ビルに人を呼びこむようになりますから、経営上も悪くないのではないかと思います。
で、こうなると、とりあえず、建築探偵団の歌を歌わないわけにはいきません。
⇒《YouTube―少年探偵団の歌 》http://www.youtube.com/watch?v=LmBouLSmUlw
《YouTube―少年探偵団(ひばり児童合唱団) 歌唱:亀太郎》http://www.youtube.com/watch?v=SNdkgi50p_o
しかし、この歩道橋は無粋ですね。 もうちょっとなんとかならんのかという気がします。 ナポリに行って海沿いの道を歩いた時、ナポリの海岸沿いの道のガードレールは深緑の色でできていましたが、それはナポリの海の色に合わせたものでした。 大阪人も、もうちょっとなんとか考えられないものかと思います。
⇒《YouTube―Luciano Pavarotti - 'O sole mio 》http://www.youtube.com/watch?v=d_mLFHLSULw
ウィキペディアによると、梅新第一生命ビルディングは2007年(平成19年)11月の竣工だそうです。 そういえば、私が高校生くらいの頃、今となっては40年近く前は、このあたりは↑な感じではなかったように記憶しています。
たしか、このあたりに、知る人ぞ知る 大月楽器店があったはずなのですが、どこへ行ったのでしょうか。 桜橋のササヤ書店( http://www.gakufu.net/ )が向いの大阪駅前第一ビルに入ったように、大月楽器店もこの梅新第一生命ビルか他のビルかの中に入ったのでしょうか・・・・と思って、インターネットで検索すると、《 大阪・梅田32番街 クラシックの殿堂「大月シンフォニア」永遠の響き 》http://sanmarie.me/essay-14 が見つかりました。 ≪10年以上前。 大阪はキタの梅田の阪急32番街の30階(確か・・)に「大月シンフォニア」というクラシック専門店があった。・・・・ガラス張りの見晴らしのいいフロアには、品のいいクラシックの名曲が流れ、レーベルや演奏家ごとに見映え良く整理された商品棚には、歴史的名盤から最新のアルバムまで、クラシックのCDやLD(当時、まだDVDは無かった)が所狭しと並べられ、クラシック・ファンが泣いて喜ぶ豊富な品揃えで知られていた。また店員さんのクラシック音楽に対する知識も並大抵ではなく・・・≫と書かれていて、そして、なんと、≪大阪・梅田に燦然と輝くクラシックの殿堂が、ある日突然、閉店となり、固く閉ざされたシャッターにお知らせの張り紙を見た時は、太陽がいきなり沈んだように茫然自失としたものだ。≫≪母体だった「大月楽器」さんという企業が倒産したのが原因なのだそうだが――。≫とある。 ええ~え


≪大阪の住民は、いったい何にお金を使っているのだ? その飲み代で、ワーグナーのLDを買おうという気はないのかっ。 コムロなんか聞くヒマがあったら、ベートーヴェンでも聞けっ。≫と書かれているが私もそう思う。 それで、≪「大月シンフォニア」が、クラシック専門店「シンフォニア」として再開しました≫と書かれている。 《ドレミシュラン:CDショップ情報 》http://www.mvsica.sakura.ne.jp/ccd/shop.html#sinfonia によると≪クラシック専門店 シンフォニア 2. 06-345-2400 (fax 06-345-2401) ・・. 大阪市北区梅田1-11-4(大阪駅前第4ビル2階) ≫と出ている。 ということは完全になくなったわけではないんだ・・・。 あ~良かった。
気を取り直して建築探偵団の歌を歌いながら、お初天神に向おうではないか。
↑社殿。 横にまわって見ると、拝殿・弊殿・本殿の3部からなるのがわかります。
露天神社(つゆのてんじじゃ)でいただいた由緒書によると、≪現在の社殿は、旧社殿が昭和20年(1945年)6月に太平洋戦争で焼失したため、昭和32年(1957年)9月20日に造営竣工したものである。≫と書かれています。 ≪昭和52年(1977年)10月20日には菅公御神忌一千七十五年祭復興20周年記念事業として、境内各所の修復、透塀・玉垣の新設を、平成5年(1993年)には社務所・参集殿・正門・鳥居などを造営した。≫とあります。
≪社名のおこり≫として、2つ以上の説があるらしく、ひとつは、
≪ 菅公が当地で詠まれた御歌
「露と散る 涙に袖は朽ちにけり
都のことを思い出ずれば」に因る。(その他諸説あり)
昌泰4年(901年)2月、菅原道真公が筑紫へ左遷配流される途中、福島(大阪市福島区)に船泊まりされた折に、当社東方に伽藍を構える「大融寺」に船頭茂大夫の案内でご参詣の道すがら、当地で、右(上)の歌を詠ぜられた。 この故事にちなみ露 天神社と称すると、伝えられている。(『摂津名所図会』に記載の説) ≫
と由緒書に出ています。
※大融寺は
大融寺HP http://www.taiyuji.com/ 他参照。
↓ 御井社・祓戸社
↑ ≪ 社殿直下の御井は、往時、四天王寺の亀の井・清水寺の井・二つ井戸と共に「浪速七名井」の一つなりと称され、梅雨時期には清水が井戸端より湧出せし、という。
「露ノ井」として当社社名の由来の一つともいわれ、周辺地域を初め、社地前旧池田街道を行きかう人々の貴重な清水であった。
現在では地下鉄各線や高層ビル群の建設等により、地下水脈が分断され水位が著しく低下している。≫
と現地の説明書きに書かれている。
↑ 牛の像 もいます。
↑ 「お初 徳兵衛 の像」
≪ 元禄16年(1703年)4月7日、堂島新地天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」が当社「天神の森」で憤死する事件が起こった。 これを近松門左衛門が『曾根崎心中』として劇化、大評判になり当社にも参詣回向の老若男女が大勢押しかけた。以後、人々は当社を「お初天神」と通称するようになった。
広く民衆の涙を誘うこの作品は、その後も繰り返し上演され、今日でも回向とともに、恋の成就を願う多くの人々が参詣している。なお、昭和47年(1972年)7月には「曽根崎心中 お初 徳兵衛 ゆかりの地」と刻まれた石碑が設けられ、事後301年を経た平成16年(2004年)には、周辺を再整備し二人を偲ぶブロンズ像が建立された。≫と由緒書に書かれています。
《ウィキペディア―露天神社》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE には≪拝殿前の石柱には、大東亜戦争(太平洋戦争)で大阪駅方向から飛来したP-51による機銃掃射の跡が残されている。≫と書かれていますが、↓のことでしょうか。
由緒書には≪由緒≫として、
≪ 社伝によると、当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」旧跡の一社である。 曾根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。
創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の嘉祥3年(850年)にまで遡るこおができ、6世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。≫
と書かれています。 それによれば、菅原道真より前から露 天神社はここにあったことになります。
≪ なお、承徳元年(1097年)に描かれた「浪華の古図」には、当社の所在が記されている。
南北朝期には「曽根洲」も漸次拡大し、地続きの「曽根崎」になった。子の頃、北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契(河原左大臣源融公十一世渡辺二郎源省の末)や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移住し、田畑を拓き農事を始め、当社を鎮守の神とし曾根崎村を起こした。・・≫
と書かれている。
由緒書には≪御祭神≫として、
≪少彦名大神 すくなひこなのおおかみ・大己貴大神 おおなむちのおおかみ・天照皇大神 あまてらすすめおおかみ・豊受姫大神 とようけひめのおおかみ・菅原道真公 すがわらみちざねこう ≫と出ています。
このうち、≪天照皇大神 あまてらすすめおおかみ・豊受姫大神 とようけひめのおおかみ≫は明治維新以来、戦前・戦中の国家神道の影響で入れられたものの可能性が考えられ、本来の中心は「少彦名大神 すくなひこなのおおかみ」(と、その相棒的存在の大己貴大神 おおなむちのおおかみ)と「菅原道真公 すがわらみちざねこう」ではないでしょうか。
「・・・天神社」で「菅原道真公」が入るのはわかるのですが、露天神社の場合、「少彦名大神 すくなひこなのおおかみ」がかなり大きな位置づけがありそうです。
「少彦名大神 すくなひこなのおおかみ」は≪日本書紀には、医学・薬学の祖神にして病気平癒の神と記載されている≫神さまで、大阪市には、薬問屋の街である中央区道修町に、少彦名神社(http://www.sinnosan.jp/ )があります。
露 天神社(つゆのてんじんじゃ)の場合、≪このほか、一般にいわれる『恵比寿神・大国神』の恵比寿神とはこの神のことで、商売繁盛の神とも崇敬されている。≫というのですが、「恵比寿」「えべっさん」については『古事記』のどの神と結びつけられるかは神社によって異なるようです。
兵庫県西宮市の西宮神社(http://nishinomiya-ebisu.com/index.html )では、『古事記』に登場する「神」では≪伊邪那岐命(いざなぎのみこと)詔りたまひしく、「然らば吾(あれ)と汝(いまし)とこの天の御柱を往き廻り逢ひて、みとのまぐわひ爲む(せむ)。」とのりたまひき。かく期りて(ちぎりて)、すなはち「汝(いまし)は右より廻り逢へ、我(あれ)は左より廻り逢はむ。」と詔りたまひ、約り(ちぎり)竟(お)へて廻る時、伊邪那美の命、先に「あなにやし、えをとこを。」と言ひ、後に伊邪那岐の命、「あなにやし、えをとめを。」と言ひ、各(おのおの)言ひ竟(お)へし後、その妹(いも)に告げたまひしく、「女人(をんな)先に言へるは良からず。」とつげたまひき。然れどもくみどに興して生める子は、水蛭子(ひるこ)。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(う)てき。・・≫(『古事記』倉野憲司校注 1963.岩波文庫)とある≪水蛭子≫が結びつけられています。
大阪市の今宮戎神社(http://www.imamiya-ebisu.jp/ )では、《ウィキペディア―今宮戎神社》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%AE%AE%E6%88%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE に≪主祭神 ・・事代主命・・≫と出ており、『古事記』で≪大國主の神、また神屋楯比賣命(かむやたてひめのみこと)を娶して生める子は、事代主(ことしろぬしの)神。≫≪(大國主の神)ここに答へて白ししく、「僕(あ)は得白(まを)さじ。我が子、八重言代主(ことしろぬしの)神、これ白すべし。然るに鳥遊(とがり)をし、魚(な)取りて、御大(みほ)の前に往きて、未だ還り來(こ)ず。」とまをしき。 故ここに天の鳥船の神を遣はして、八重事代主神を徴(め)し來(き)て、問ひたまひし時に、その父の大神に語りて言ひしく、「恐(かしこ)し。この國は、天つ神の御子に立奉(たてまつ)らむ。」といひて、すなはちその船を踏み傾(かたぶ)けて、天(あま)の逆手を青柴垣に打ち成して、隠りき。≫とあり、國譲り神話の時、大國主の命の息子のうち、建御雷之男神(いkづちのをのかみ)と勝負して敗北する建御名方神(たけみなかたのかみ)と異なり、最初から譲歩する事代主神(ことしろぬしのかみ)が結びつけられ、又、島根県の美保神社(http://www.mihojinja.or.jp/ )でも事代主神と結びつけられているようです。
それが、この露 天神社では、少彦名の神と結びつけられるようなのです。 少彦名の神は、『古事記』では、≪故(かれ)、大國主の神、出雲の御大(みほ)の御前(みさき)に坐(ま)す時、波の穂より天(あめ)の羅摩船(かかみぶね)に乗りて、鵝の皮を内剥(うちはぎ)に剥ぎて衣服(きもの)にして、歸(よ)り來(く)る神ありき。ここにその名を問はせども答へず、また所従(みとも)の諸神(かみたち)に問はせども、皆「知らず。」と白しき。ここに谷蟆(たにくくま)白(まを)しつらく、「こは崩彦(くえびこ)ぞ必ず知りつらむ。」とまをしつれば、すなはち崩彦を召して問はす時に、「こは神産巣日(かみむすひの)神の御子、少名毘古那(すくなびこなの)神ぞ。」と答へ白しき。故(かれ)ここに神産巣日の御祖(みおやの)命に白し上げたまへば、答へ告(の)りたまひしく、「こは實(まこと)に我が子ぞ。子の中に、我が手俣(たなまた)より漏(く)きし子ぞ。故(かれ)、汝(いまし)葦原色許男(あしはらしこを)の命と兄弟(あにおとうと)となりて、その國を作り堅(かた)めよ。」とのりたまひき。 故、それより、大穴牟遲(おおなむぢ)と少名毘古那と、二柱の神相並ばして、この國を作り堅めたまひき。 然(さ)て後は、その少名毘古那の神は、常世(とこよ)國に度(わた)りましき。・・≫と書かれ、島根県の沖合から「羅摩船(かかみぶね)」に乗って登場し、大国主の神と協力してこの国を作り、そして去っていったとされる神です。
≪葦船(あしぶね)に入れて流し去(う)てき。≫という「水蛭子(ひるこ)」と≪羅摩船(かかみぶね)に乗りて、鵝の皮を内剥(うちはぎ)に剥ぎて衣服(きもの)にして、歸(よ)り來(く)る神ありき。≫と海からやってくる≪少名毘古那(すくなびこなの)神≫はつながりがありそうにも思えます。 この露(の)天神社が、かつては大阪湾の小島であった曽根洲にあったということから考えても、海に流したり海からやってきたりする神とつながりがあることは考えられそうです。 ≪「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたと・・≫と由緒書にあるのですが、住吉大社(http://www.sumiyoshitaisha.net/ )も海に関係のある神ですし、そのあたりのつながりが考えられそうです。
「恵比寿(戎)」「蛭子」「少彦名」という海に流したり海からやってきたりする神が、曽根洲という小島にできたという創立時の露の天神社と関係ありそうです。 境内の摂社というのか末社というのかに水天宮・金刀比羅宮がありますが(《露天神社 境内末社》http://www.tuyutenjin.com/matsu.html)、これも水つながり・海つながりの神さまです。 「露の井」という井戸を大事にしたというところあたりはどうなったのでしょう。井戸も水つながりと言えなくもないのですが、「つゆ」は「露」なのか「梅雨」なのか。 「梅雨」とすると、「天神社」も菅原道真ではなく、天候の神の可能性も出てきます。 天候の神としての露の天神社に、菅原道真が立ちよったことから、菅原道真も祭神に加わった・・ということでしょうか。 それとも、菅原道真が立ちよったといいう話は後の創作・付加であって、道真がこの近くを通ったかもしれないけれども、ここで歌を詠んでどうこうは後の時代の付加であって、「海とつながりがある神社」+「井戸の尊重」に「天候の神としての天神」が加わり、そこにさらに天神つながりで菅原道真が加えられた・・ということで、明治維新からの天皇・皇室崇拝思想・国家主義思想から伊勢神宮の天照皇大神・豊受姫大神が加えられ、戦後も取り除くことができずに今日に至っている、「お初」「徳兵衛」は神社の通称にはなっても神さま扱いまではされなかった・・ということでしょうか。
京都から福岡県の太宰府までの間には、ここで菅原道真が・・・・をしたというお話がある天神・天満・菅原系の神社がいくつもあります。 罪人扱いであったという菅原道真はそんなにあちらこちらに立ちよってなんたらかんたらできたでしょうか。 そう考えると、それらの話はすべてが創作というわけでもないとしても、義経伝説と同じくそれらの天神伝説もすべてが歴史上の事実とも言い難いと思えてきます。 この大阪市の梅田付近でも、天神・天満・菅原・北野系の神社としては、北区天神橋筋の大阪天満宮(http://www.tenjinsan.com/ )の他、北区神山町に綱敷天満宮(http://www.tunashiki.com/ )、福島区に福島天満宮(http://www.tenmangu.com/ )他、いくつもの神社があり、それぞれに道真に関するお話があります。 罪人扱いの道真がそんなにいろいろとエピソードを残す行為をできたかというと、疑問もでてきます。 今となっては、こうだろうか、そうだろうか・・と推測しかできませんが、露天神社の場合、「天神社」という名称になっていても、由緒書でも菅原道真は祭神の中で最後に書かれていて最初に少彦名が書かれているように、少彦名の方に優先的な位置づけがありそうにも思えます。
次回、露(の)天神社(お初天神)の【下】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html では、露(の)天神社の北側の出入り口、北門(裏門?)とこの周辺界隈について述べます。 ぜひご覧くださいませ。
※ 露(の)天神社については、
露の天神社 ホームページ http://www.tuyutenjin.com/
ウィキペディア 露天神社 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE 他参照。
(2014.3.9.)
☆ 冤罪を晴らす神様・菅原道真・怨念を晴らす全国お百度参り シリーズは、
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
意富比神社 末社 天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
白井市(白井市河原子の)天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
千葉神社 摂社 千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
東京都
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html
神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
≪日本では、以前から、訴訟を経験した人のほうがそうでない人よりも司法に対する評価がかなり低くなるといわれてきたが、・・≫↑
大阪市北区曽根崎の露 天神社(つゆのてんじんじゃ)(お初天神)に参拝してまいりました。 一般には「お初天神」の方が通りがいいのですが、なぜ、「お初天神」というかというと、近松門左衛門の『曽根崎心中』という作品のモデルである「お初」という女性と「徳兵衛」という男性がこの露の天神社の森で心中したそうで、そこから「お初天神」と言われるようになったということです。
場所は街中も街中。 最も近い駅は大阪市地下鉄谷町線「東梅田」駅で南東へすぐ。 JRなら「大阪」駅、阪急・阪神・地下鉄御堂筋線なら「梅田」駅が最寄です。 私は今回は「東梅田」から行きましたし、これまでに行ったときも、いずれも、「梅田」「東梅田」から行っていましたが、このブログを打ちこみながら地図を見ていると、南側の地下鉄御堂筋線・京阪本線「淀屋橋」、京阪中之島線「大江橋」からも遠くないことに気づきました。
↑ の写真が露 天神社(つゆのてんじんじゃ)(お初天神)の鳥居ですが、ここでは、この鳥居から露の天神社の中に入る前に、少々、南に行ってみたいと思います。
↓ 露の天神社のこの鳥居のすぐ南側のビルには、鳥居のちょうど南の部分に↓のように、参道のように「くりぬき」の歩行者用の通路が設けられているのです。
(↑ クリックすると大きくなるので、ぜひ大きくして見てください。「くりぬき」の向こうに「露の天神社」と横に書かれた幕のかかった露の天神社の鳥居が見えます。)
地図を見ると、これは「梅新第一生命ビル」ですが、全体は↓です。
↑ これも、ぜひクリックして大きくしてみてください。 歩道橋の向こう側に「くりぬき」があり、その向こうに露の天神社の鳥居が見えます。
この「くりぬき」は、ビルの建築主と建設会社がこの地域において存在感のある有名神社に配慮して自分の所の土地に建てるビルに通路を設けたものか、それとも、もともと道路・参道であった所の上にビルを造りたいと思ってこのようにしたものか、建築主の土地であるが、このような配慮をすることが義務付けられた法令があったのか、いずれだろうかと思ったのですが、《ウィキペディア―梅新第一生命ビルディング》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%96%B0%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0 を見ると、
≪ 露天神社(通称・お初天神)の参道を挟んで東西に分かれていた土地を敷地整序型土地区画整理事業の手法で参道を含めて一体化して建設された。≫と書かれています。
この「くりぬき」部分からビルに入れる入口が設けられています。 なかなか・・と思ったのですが、もしも、もともと道であった両側を合わせて建てるという場合でなく、あくまで自分の敷地に建てるという場合でも、このように造れば、鳥居の前の歩行者用通路は一般の人が通るようになり、ビルに人を呼びこむようになりますから、経営上も悪くないのではないかと思います。
で、こうなると、とりあえず、建築探偵団の歌を歌わないわけにはいきません。
⇒《YouTube―少年探偵団の歌 》http://www.youtube.com/watch?v=LmBouLSmUlw
《YouTube―少年探偵団(ひばり児童合唱団) 歌唱:亀太郎》http://www.youtube.com/watch?v=SNdkgi50p_o
しかし、この歩道橋は無粋ですね。 もうちょっとなんとかならんのかという気がします。 ナポリに行って海沿いの道を歩いた時、ナポリの海岸沿いの道のガードレールは深緑の色でできていましたが、それはナポリの海の色に合わせたものでした。 大阪人も、もうちょっとなんとか考えられないものかと思います。
⇒《YouTube―Luciano Pavarotti - 'O sole mio 》http://www.youtube.com/watch?v=d_mLFHLSULw
ウィキペディアによると、梅新第一生命ビルディングは2007年(平成19年)11月の竣工だそうです。 そういえば、私が高校生くらいの頃、今となっては40年近く前は、このあたりは↑な感じではなかったように記憶しています。
たしか、このあたりに、知る人ぞ知る 大月楽器店があったはずなのですが、どこへ行ったのでしょうか。 桜橋のササヤ書店( http://www.gakufu.net/ )が向いの大阪駅前第一ビルに入ったように、大月楽器店もこの梅新第一生命ビルか他のビルかの中に入ったのでしょうか・・・・と思って、インターネットで検索すると、《 大阪・梅田32番街 クラシックの殿堂「大月シンフォニア」永遠の響き 》http://sanmarie.me/essay-14 が見つかりました。 ≪10年以上前。 大阪はキタの梅田の阪急32番街の30階(確か・・)に「大月シンフォニア」というクラシック専門店があった。・・・・ガラス張りの見晴らしのいいフロアには、品のいいクラシックの名曲が流れ、レーベルや演奏家ごとに見映え良く整理された商品棚には、歴史的名盤から最新のアルバムまで、クラシックのCDやLD(当時、まだDVDは無かった)が所狭しと並べられ、クラシック・ファンが泣いて喜ぶ豊富な品揃えで知られていた。また店員さんのクラシック音楽に対する知識も並大抵ではなく・・・≫と書かれていて、そして、なんと、≪大阪・梅田に燦然と輝くクラシックの殿堂が、ある日突然、閉店となり、固く閉ざされたシャッターにお知らせの張り紙を見た時は、太陽がいきなり沈んだように茫然自失としたものだ。≫≪母体だった「大月楽器」さんという企業が倒産したのが原因なのだそうだが――。≫とある。 ええ~え



≪大阪の住民は、いったい何にお金を使っているのだ? その飲み代で、ワーグナーのLDを買おうという気はないのかっ。 コムロなんか聞くヒマがあったら、ベートーヴェンでも聞けっ。≫と書かれているが私もそう思う。 それで、≪「大月シンフォニア」が、クラシック専門店「シンフォニア」として再開しました≫と書かれている。 《ドレミシュラン:CDショップ情報 》http://www.mvsica.sakura.ne.jp/ccd/shop.html#sinfonia によると≪クラシック専門店 シンフォニア 2. 06-345-2400 (fax 06-345-2401) ・・. 大阪市北区梅田1-11-4(大阪駅前第4ビル2階) ≫と出ている。 ということは完全になくなったわけではないんだ・・・。 あ~良かった。
気を取り直して建築探偵団の歌を歌いながら、お初天神に向おうではないか。
↑社殿。 横にまわって見ると、拝殿・弊殿・本殿の3部からなるのがわかります。
露天神社(つゆのてんじじゃ)でいただいた由緒書によると、≪現在の社殿は、旧社殿が昭和20年(1945年)6月に太平洋戦争で焼失したため、昭和32年(1957年)9月20日に造営竣工したものである。≫と書かれています。 ≪昭和52年(1977年)10月20日には菅公御神忌一千七十五年祭復興20周年記念事業として、境内各所の修復、透塀・玉垣の新設を、平成5年(1993年)には社務所・参集殿・正門・鳥居などを造営した。≫とあります。
≪社名のおこり≫として、2つ以上の説があるらしく、ひとつは、
≪ 菅公が当地で詠まれた御歌
「露と散る 涙に袖は朽ちにけり
都のことを思い出ずれば」に因る。(その他諸説あり)
昌泰4年(901年)2月、菅原道真公が筑紫へ左遷配流される途中、福島(大阪市福島区)に船泊まりされた折に、当社東方に伽藍を構える「大融寺」に船頭茂大夫の案内でご参詣の道すがら、当地で、右(上)の歌を詠ぜられた。 この故事にちなみ露 天神社と称すると、伝えられている。(『摂津名所図会』に記載の説) ≫
と由緒書に出ています。
※大融寺は
大融寺HP http://www.taiyuji.com/ 他参照。
↓ 御井社・祓戸社
↑ ≪ 社殿直下の御井は、往時、四天王寺の亀の井・清水寺の井・二つ井戸と共に「浪速七名井」の一つなりと称され、梅雨時期には清水が井戸端より湧出せし、という。
「露ノ井」として当社社名の由来の一つともいわれ、周辺地域を初め、社地前旧池田街道を行きかう人々の貴重な清水であった。
現在では地下鉄各線や高層ビル群の建設等により、地下水脈が分断され水位が著しく低下している。≫
と現地の説明書きに書かれている。
↑ 牛の像 もいます。
↑ 「お初 徳兵衛 の像」
≪ 元禄16年(1703年)4月7日、堂島新地天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」が当社「天神の森」で憤死する事件が起こった。 これを近松門左衛門が『曾根崎心中』として劇化、大評判になり当社にも参詣回向の老若男女が大勢押しかけた。以後、人々は当社を「お初天神」と通称するようになった。
広く民衆の涙を誘うこの作品は、その後も繰り返し上演され、今日でも回向とともに、恋の成就を願う多くの人々が参詣している。なお、昭和47年(1972年)7月には「曽根崎心中 お初 徳兵衛 ゆかりの地」と刻まれた石碑が設けられ、事後301年を経た平成16年(2004年)には、周辺を再整備し二人を偲ぶブロンズ像が建立された。≫と由緒書に書かれています。
《ウィキペディア―露天神社》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE には≪拝殿前の石柱には、大東亜戦争(太平洋戦争)で大阪駅方向から飛来したP-51による機銃掃射の跡が残されている。≫と書かれていますが、↓のことでしょうか。
由緒書には≪由緒≫として、
≪ 社伝によると、当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」旧跡の一社である。 曾根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。
創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の嘉祥3年(850年)にまで遡るこおができ、6世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。≫
と書かれています。 それによれば、菅原道真より前から露 天神社はここにあったことになります。
≪ なお、承徳元年(1097年)に描かれた「浪華の古図」には、当社の所在が記されている。
南北朝期には「曽根洲」も漸次拡大し、地続きの「曽根崎」になった。子の頃、北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契(河原左大臣源融公十一世渡辺二郎源省の末)や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移住し、田畑を拓き農事を始め、当社を鎮守の神とし曾根崎村を起こした。・・≫
と書かれている。
由緒書には≪御祭神≫として、
≪少彦名大神 すくなひこなのおおかみ・大己貴大神 おおなむちのおおかみ・天照皇大神 あまてらすすめおおかみ・豊受姫大神 とようけひめのおおかみ・菅原道真公 すがわらみちざねこう ≫と出ています。
このうち、≪天照皇大神 あまてらすすめおおかみ・豊受姫大神 とようけひめのおおかみ≫は明治維新以来、戦前・戦中の国家神道の影響で入れられたものの可能性が考えられ、本来の中心は「少彦名大神 すくなひこなのおおかみ」(と、その相棒的存在の大己貴大神 おおなむちのおおかみ)と「菅原道真公 すがわらみちざねこう」ではないでしょうか。
「・・・天神社」で「菅原道真公」が入るのはわかるのですが、露天神社の場合、「少彦名大神 すくなひこなのおおかみ」がかなり大きな位置づけがありそうです。
「少彦名大神 すくなひこなのおおかみ」は≪日本書紀には、医学・薬学の祖神にして病気平癒の神と記載されている≫神さまで、大阪市には、薬問屋の街である中央区道修町に、少彦名神社(http://www.sinnosan.jp/ )があります。
露 天神社(つゆのてんじんじゃ)の場合、≪このほか、一般にいわれる『恵比寿神・大国神』の恵比寿神とはこの神のことで、商売繁盛の神とも崇敬されている。≫というのですが、「恵比寿」「えべっさん」については『古事記』のどの神と結びつけられるかは神社によって異なるようです。
兵庫県西宮市の西宮神社(http://nishinomiya-ebisu.com/index.html )では、『古事記』に登場する「神」では≪伊邪那岐命(いざなぎのみこと)詔りたまひしく、「然らば吾(あれ)と汝(いまし)とこの天の御柱を往き廻り逢ひて、みとのまぐわひ爲む(せむ)。」とのりたまひき。かく期りて(ちぎりて)、すなはち「汝(いまし)は右より廻り逢へ、我(あれ)は左より廻り逢はむ。」と詔りたまひ、約り(ちぎり)竟(お)へて廻る時、伊邪那美の命、先に「あなにやし、えをとこを。」と言ひ、後に伊邪那岐の命、「あなにやし、えをとめを。」と言ひ、各(おのおの)言ひ竟(お)へし後、その妹(いも)に告げたまひしく、「女人(をんな)先に言へるは良からず。」とつげたまひき。然れどもくみどに興して生める子は、水蛭子(ひるこ)。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(う)てき。・・≫(『古事記』倉野憲司校注 1963.岩波文庫)とある≪水蛭子≫が結びつけられています。
大阪市の今宮戎神社(http://www.imamiya-ebisu.jp/ )では、《ウィキペディア―今宮戎神社》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%AE%AE%E6%88%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE に≪主祭神 ・・事代主命・・≫と出ており、『古事記』で≪大國主の神、また神屋楯比賣命(かむやたてひめのみこと)を娶して生める子は、事代主(ことしろぬしの)神。≫≪(大國主の神)ここに答へて白ししく、「僕(あ)は得白(まを)さじ。我が子、八重言代主(ことしろぬしの)神、これ白すべし。然るに鳥遊(とがり)をし、魚(な)取りて、御大(みほ)の前に往きて、未だ還り來(こ)ず。」とまをしき。 故ここに天の鳥船の神を遣はして、八重事代主神を徴(め)し來(き)て、問ひたまひし時に、その父の大神に語りて言ひしく、「恐(かしこ)し。この國は、天つ神の御子に立奉(たてまつ)らむ。」といひて、すなはちその船を踏み傾(かたぶ)けて、天(あま)の逆手を青柴垣に打ち成して、隠りき。≫とあり、國譲り神話の時、大國主の命の息子のうち、建御雷之男神(いkづちのをのかみ)と勝負して敗北する建御名方神(たけみなかたのかみ)と異なり、最初から譲歩する事代主神(ことしろぬしのかみ)が結びつけられ、又、島根県の美保神社(http://www.mihojinja.or.jp/ )でも事代主神と結びつけられているようです。
それが、この露 天神社では、少彦名の神と結びつけられるようなのです。 少彦名の神は、『古事記』では、≪故(かれ)、大國主の神、出雲の御大(みほ)の御前(みさき)に坐(ま)す時、波の穂より天(あめ)の羅摩船(かかみぶね)に乗りて、鵝の皮を内剥(うちはぎ)に剥ぎて衣服(きもの)にして、歸(よ)り來(く)る神ありき。ここにその名を問はせども答へず、また所従(みとも)の諸神(かみたち)に問はせども、皆「知らず。」と白しき。ここに谷蟆(たにくくま)白(まを)しつらく、「こは崩彦(くえびこ)ぞ必ず知りつらむ。」とまをしつれば、すなはち崩彦を召して問はす時に、「こは神産巣日(かみむすひの)神の御子、少名毘古那(すくなびこなの)神ぞ。」と答へ白しき。故(かれ)ここに神産巣日の御祖(みおやの)命に白し上げたまへば、答へ告(の)りたまひしく、「こは實(まこと)に我が子ぞ。子の中に、我が手俣(たなまた)より漏(く)きし子ぞ。故(かれ)、汝(いまし)葦原色許男(あしはらしこを)の命と兄弟(あにおとうと)となりて、その國を作り堅(かた)めよ。」とのりたまひき。 故、それより、大穴牟遲(おおなむぢ)と少名毘古那と、二柱の神相並ばして、この國を作り堅めたまひき。 然(さ)て後は、その少名毘古那の神は、常世(とこよ)國に度(わた)りましき。・・≫と書かれ、島根県の沖合から「羅摩船(かかみぶね)」に乗って登場し、大国主の神と協力してこの国を作り、そして去っていったとされる神です。
≪葦船(あしぶね)に入れて流し去(う)てき。≫という「水蛭子(ひるこ)」と≪羅摩船(かかみぶね)に乗りて、鵝の皮を内剥(うちはぎ)に剥ぎて衣服(きもの)にして、歸(よ)り來(く)る神ありき。≫と海からやってくる≪少名毘古那(すくなびこなの)神≫はつながりがありそうにも思えます。 この露(の)天神社が、かつては大阪湾の小島であった曽根洲にあったということから考えても、海に流したり海からやってきたりする神とつながりがあることは考えられそうです。 ≪「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたと・・≫と由緒書にあるのですが、住吉大社(http://www.sumiyoshitaisha.net/ )も海に関係のある神ですし、そのあたりのつながりが考えられそうです。
「恵比寿(戎)」「蛭子」「少彦名」という海に流したり海からやってきたりする神が、曽根洲という小島にできたという創立時の露の天神社と関係ありそうです。 境内の摂社というのか末社というのかに水天宮・金刀比羅宮がありますが(《露天神社 境内末社》http://www.tuyutenjin.com/matsu.html)、これも水つながり・海つながりの神さまです。 「露の井」という井戸を大事にしたというところあたりはどうなったのでしょう。井戸も水つながりと言えなくもないのですが、「つゆ」は「露」なのか「梅雨」なのか。 「梅雨」とすると、「天神社」も菅原道真ではなく、天候の神の可能性も出てきます。 天候の神としての露の天神社に、菅原道真が立ちよったことから、菅原道真も祭神に加わった・・ということでしょうか。 それとも、菅原道真が立ちよったといいう話は後の創作・付加であって、道真がこの近くを通ったかもしれないけれども、ここで歌を詠んでどうこうは後の時代の付加であって、「海とつながりがある神社」+「井戸の尊重」に「天候の神としての天神」が加わり、そこにさらに天神つながりで菅原道真が加えられた・・ということで、明治維新からの天皇・皇室崇拝思想・国家主義思想から伊勢神宮の天照皇大神・豊受姫大神が加えられ、戦後も取り除くことができずに今日に至っている、「お初」「徳兵衛」は神社の通称にはなっても神さま扱いまではされなかった・・ということでしょうか。
京都から福岡県の太宰府までの間には、ここで菅原道真が・・・・をしたというお話がある天神・天満・菅原系の神社がいくつもあります。 罪人扱いであったという菅原道真はそんなにあちらこちらに立ちよってなんたらかんたらできたでしょうか。 そう考えると、それらの話はすべてが創作というわけでもないとしても、義経伝説と同じくそれらの天神伝説もすべてが歴史上の事実とも言い難いと思えてきます。 この大阪市の梅田付近でも、天神・天満・菅原・北野系の神社としては、北区天神橋筋の大阪天満宮(http://www.tenjinsan.com/ )の他、北区神山町に綱敷天満宮(http://www.tunashiki.com/ )、福島区に福島天満宮(http://www.tenmangu.com/ )他、いくつもの神社があり、それぞれに道真に関するお話があります。 罪人扱いの道真がそんなにいろいろとエピソードを残す行為をできたかというと、疑問もでてきます。 今となっては、こうだろうか、そうだろうか・・と推測しかできませんが、露天神社の場合、「天神社」という名称になっていても、由緒書でも菅原道真は祭神の中で最後に書かれていて最初に少彦名が書かれているように、少彦名の方に優先的な位置づけがありそうにも思えます。
次回、露(の)天神社(お初天神)の【下】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html では、露(の)天神社の北側の出入り口、北門(裏門?)とこの周辺界隈について述べます。 ぜひご覧くださいませ。
※ 露(の)天神社については、
露の天神社 ホームページ http://www.tuyutenjin.com/
ウィキペディア 露天神社 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE 他参照。
(2014.3.9.)
☆ 冤罪を晴らす神様・菅原道真・怨念を晴らす全国お百度参り シリーズは、
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
意富比神社 末社 天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
白井市(白井市河原子の)天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
千葉神社 摂社 千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
東京都
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html
神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
≪日本では、以前から、訴訟を経験した人のほうがそうでない人よりも司法に対する評価がかなり低くなるといわれてきたが、・・≫↑
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