賀茂別雷神社〔上賀茂神社〕参拝1.楼門・棚尾社・中門・西局・東局・透廊。由緒と祭神。不動産業の神?
[第253回]
【1】 昔、京都の鴨川と高野川が合流する所の脇の道を観光バスで通り、窓から見て、ちょうど、Yの字に合流している様子が特別の場所のような印象を受けた。 その合流している場所の奥に、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)〔下鴨神社 しもがもじんじゃ〕(京都市左京区下鴨泉川町)がある。 一度、あの合流している場所に行ってみたいと何十年も思ってきた。

ヤフー地図で見ると、この合流点より上流、北西の川が「賀茂川」、大原の方から流れてきて鞍馬や貴船から流れてくる川と合流してくる北東の川が「高野川」、合流して南に流れる川は「かもがわ」でも「鴨川」と表記するらしい。 その鴨川は京都市の南部で桂川と合流し、桂川は京都府と大阪府の境目付近で宇治川・木津川と合流して淀川になる。
賀茂別雷神社(かも わけ いかづち じんじゃ)〔上賀茂神社 かみがもじんじゃ〕(京都市北区上賀茂本山)は、この合流点から賀茂川に沿って北西方向に行くとある。

賀茂御祖先神社(かも みおや じんじゃ)を下鴨神社(しもがもじんじゃ)と俗に言い、賀茂別雷神社(かも わけ いかづち じんじゃ)を上賀茂神社(かみがもじんじゃ)というので、どうも、ワンセットのように感じがちだが、この2つの神社について書かれたものを読み、地図を見ているうちに、はたして、ワンセットで考えるのが適切なのだろうか、と思うようになった。 もしかして、なんらかのつながりはあったとしても、基本的には別の神社ととらえて考えた方が適切ということはないのだろうか、と思いだしたのだ。
まず、祭神は、
賀茂別雷神社(上賀茂神社)・・・・ 賀茂別雷大神(かも わけ いかづち のおおかみ)
賀茂御祖神社(下鴨神社) ・・・・ 賀茂建角身命(かも たけつぬみ のみこと)
賀茂玉依媛命(かもの たまよりひめ のみこと)
となっており、賀茂分雷神社(上賀茂神社)の祭神・賀茂分雷大神(かも わけ いかづち のおおかみ)の母と母方の祖父が賀茂御祖神社(下賀茂神社)の祭神だとされている。 「特別拝観」で入らせていただいた際に説明してくれた若い神職のおにいさんは、賀茂分雷大神(かも わけ いかづち のおおかみ)とは「雷をも別けるパワーの神さま」という意味だと説明したが、それはどうだろうか。 他の説もあるようであり、その点については後に述べる。
【2】 「玉依姫」「玉依媛」(たまよりひめ)は『古事記』に登場する。
≪ ・・・・綿津見神(わたつみのかみ)の娘の豊玉毗売(とよたまびめ)〔「び」は環境依存文字。 へんが「田」、つくりが「比」〕は、自分で火遠理命(ほおりのみこと)のところにいらっしゃって、「わたしはすでに身籠っているのです。いまがちょうどお産の月です。天つ神(あまつかみ)の子を海で産んではいけないと思って、綿津見神(わたつみのかみ)の宮からここに参ったわけです」とおっしゃった。
そこで、さっそく、海辺の渚(なぎさ)に、鵜の羽を葺草(かや)のように使って、産屋(うぶや)を建てた。しかし、まだ産屋が完成していないのに、お腹がふくれてどうにもならなくなった。
それで仕方なく、未完成の産屋に入られて産もうとなされるときに、夫の火遠理命(ほおりのみこと)に、「一般に、他国の人は、子どもを産むときは、元の国の形に戻って産むものです。だから、わたしも、いまは元の形に戻って、子を産もうと思いますので、どうか、わたしを見ないでください」とおっしゃった。
それを聞いて、火遠理命(ほおりのみこと)は、不思議なことをいうものだと思われて、その子どもをお産みになろうとするときに、そうっとのぞき見をすると、わが妻はまことに大きな鮫となって、腹這いになって、這い回っておられた。火遠理命は、それを見て、驚き恐れて、逃げ退かれた。そこで、豊玉毗売(とよたまびめ)〔「び」は環境依存文字。 「田」に「比」。〕は、夫が、わが言葉に反して、その鮫の姿をのぞき見したことを知って、はなはだ恥ずかしいことだと考えられた。
産んだばかりのその子を置き去りにして、「わたしは、つねに、海の路を通って、あなたのところに通って来たと思っていましたのに、このように、あなたは、わたしの形をのぞいて見てしまった。恥ずかしくって、もうお目にかかれません」とおっしゃって、豊玉毗売(「び」は環境依存文字。「田」に「比」)は、綿津見の国に行く坂を塞いで、帰ってしまわれた。
このようなわけで、そのとき豊玉毗売(「び」は環境依存文字。「田」に「比」)がお産みになった子を、天津日高日子波限建鵜葺不合命(あまつ ひこひこ なぎさ たけ うがや ふきあえず のみこと)というのである。
そのように、豊玉毗売(「び」は環境依存文字。「田」に「比」)は、夫が彼女の産む姿を見たのを恨んで、綿津見神(わたつみのかみ)の国に帰ってしまわれたが、夫恋しの心に耐えず、その子を養っていた縁で、その妹の玉依毗売(たまよりびめ)〔「び」は環境依存文字。へんは「田」、つくりは「比」〕を夫のところおにお遣わしになり、玉依毗売(「び」は環境依存文字。「田」に「比」)につぎのような歌を託した。
赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装ひし 貴くありけり
〔赤い玉は、それを貫いている緒さえ光って見えるほど美しいが、白玉のようなあなたのお姿は、まことに、いとも尊いものでした〕
・・・・・(略)・・・・
この天津日高日子波限建鵜葺不合命(あまつ ひこひこ なぎさ たけ うがや ふきあえず のみこと)が、叔母の玉依毗売(たまよりびめ)(「び」は環境依存文字。「田」に「比」)を妻にして、お産みになったのが、五瀬命(いつせのみこと)、つぎの子が稲氷命(いなひのみこと) 、つぎの子が御毛沼命(みけぬのみこと)、つぎの子が若御毛沼命(わかみけぬのみこと)である。
この若御毛沼命(わかみけぬのみこと)は、またの名を豊御毛沼命(とよみけぬのみこと)といい、もう一つの名を神倭伊波礼毗古命(かむやまと いわれびこ のみこと)(「び」は環境依存文字。へんが「田」、つくりが「比」)というのである。
さて、御毛沼命(みけぬのみこと)は、波の上を踏んで、常世の国にお渡りになり、稲氷命(いなひのみこと)は、妣(はは)の国である海原に行ってしまわれた。≫
(梅原 猛〔現代語訳〕『古事記 増補新版』2012.7.24.学研M文庫)
「玉依媛」「玉依姫」(たまよりひめ)を祭神として祀る神社は、千葉県長生郡一宮町一宮 の 玉前神社(http://www.tamasaki.org/home.htm)他、全国にあるが、≪各地に同じ「玉依」の名をもつ女神が祀られていることから、「タマヨリヒメ」とは、「神霊の依りつく乙女(神に仕える巫女)」のことをさす普通名詞である、と解釈したのは民俗学者の柳田国男である。つまり、コノハナサクヤヒメ命(のみこと)のような固有名詞ではなく、古代の神祭りにおいて重要な役割を果たした乙女の機能を象徴する一般的な呼称であるということだ。 さらに「タマヨリ」の女性は、神婚による処女懐胎で神の子を宿したり、選ばれて神の妻となったり、女性の生殖力が強く反映されている。そういう巫女的霊能力のある女性を総称して「タマヨリヒメ」と呼んでいるのである。≫(戸部 民夫『日本の神様がわかる本』2005.1.5.PHP研究所)ということだ。
【3】 『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』(2009.5.19.集英社)の「上賀茂神社(賀茂別雷神社)」には≪上賀茂神社も下鴨神社同様に、その創建年代を特定することは難しいが、社伝によると、神武天皇の時代に賀茂別雷大神(かも わけ いかづち の おおかみ)が神山(こうやま)に降臨したことにはじまる。 本殿の北北西2㎞にある神山(こうやま)は本来のご神体で、その神に仕えたのが阿礼乎止女(あれおとめ)と呼ばれる賀茂氏の未婚の女性だった。・・・・≫と書かれている。≪その創建年代を特定することは難しい≫のはそうであろうけれども、だからといって≪神武天皇の時代に≫などと言われてしまったのでは、もとより神武天皇というのは実在していないのであるからさらにわからなくなってしまう。要するに「昔、むかし、いつの頃と言いようもないくらいの昔の話」ということであろう。
≪ 『山城国風土記』逸文によると、玉依比売命(たまよりひめのみこと)は瀬見の小川(賀茂川)で丹塗り矢を拾うと、ほどなくして身ごもり、御子を産んだ。 その御子が成人すると、玉依比売の父である賀茂建角命(かも たけ つぬみ のみこと)は大きな建物を建てた。そして、その戸を閉め切って、大量の酒を甕に満たし、神々を集めて七日七夜宴会を続けた。その後、孫の御子を呼び、「お前の父と思う人に酒を飲ませなさい」と告げる。 すると御子は杯を持って、天に向ってまつりごとをおこない、屋根を破って天に昇っていった。そこで賀茂建角命は、御子の名を賀茂別雷大神と名づけた。同書では、丹塗り矢となり玉依比売を身ごもらせた御子の父神を、乙訓(おとくに)の郡(こおり)の社(やしろ)にいる火雷神(ほのいかづちのかみ)としているが、『秦氏本系帳』では松尾大社の祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)としている。≫
『日本の神社』(2014.5.18.宝島社)には≪・・約1300年前の第40代天武天皇の御代には現在地にすでに社殿が造営され、以来、京都の守護神として皇室をはじめ、貴族からの崇敬が篤かった≫とあるから、平安京ができるより前からある神社のようだ。
【4】 賀茂別雷神社では、楼門の中、中門の前までは、特に拝観料など納めなくても誰でも入らせてもらえるが、中門の内側に透廊(すいろう)があり、その向こうの右側の本殿と左側の権殿(ごんでん)は、中門の手前からは見えないようになっている。 中門とその西側の西局、東側の東局より内側には、通常はみだりに立ち入るところではないらしいが、現在、「特別拝観」ということで、500円を納めることで、西局から権殿の正面にあたる内側まで入らせてもらうことができる。 今回、その「特別拝観」をさせていただいたのであるが、西局の一室で神職を待ち、お祓いのようなこと(?)をしていただいた上で、西局の内側の権殿(ごんでん)の正面にあたる場所まで入らせていただくことができた。
↑ 賀茂別雷神社 「楼門」 重要文化財。 江戸時代前半の建築と言われる。
↑ 賀茂別雷神社 「西局」「中門」「東局」 重要文化財。 江戸時代前半の建築と言われる。
写真はクリックすると大きくなるので、ぜひ、クリックして見てください。 中門の右手前に、小さな「流れ造り(ながれづくり)」の社殿がありますが、これは、棚尾神社(重要文化財)で、賀茂別雷神社でいただいた 上賀茂神社 製作『京都歩くマップ―上賀茂・北山―』「賀茂別雷神社 境内案内図」によると、≪玄関守護・家を守る神様≫だそうです。
↑ 摂社 棚尾神社 重要文化財。 江戸時代前半の建築と言われる。
「1間社 流れ造り」 正面に柱が2本あり、その間が1間で、屋根の形状が「流れ造り」。
本殿と権殿(ごんでん)は、「特別拝観」では、権殿の正面の位置から見せていただくことができますが、「たいへん神聖な場所ですから」ということで、写真撮影は不可ということでした。 本殿・権殿は「3間社 流れ造り」で、正面に柱が4本あり、柱の間が3つ、3間で、屋根の形状が「流れ造り」で、「檜皮葺(ひわだぶき)」。 「檜皮葺」とは、桧(ひのき)の木の皮を重ねた屋根材のことです。 本殿・権殿の写真の撮影は不可ということでしたが、本殿・権殿を縮小したような社殿、ミニチュアのような摂社がいくつかあります。 中門前のこの棚尾神社も、本殿・権殿のミニチュアのような感じの社です。
日光東照宮が「石の間造り」(⇒「権現造り」)で造られたのは、北野天満宮のような 拝殿・石の間(弊殿)・本殿の3部構成の石の間造りが、豪勢で権力者の威信を見せる建物とするには適しているからで、地方の小規模な神社に「流れ造り」が多いのは、流れ造りは比較的簡単にできるからだという説があるようですが、賀茂別雷神社で本殿・権殿を見ると、「流れ造り」は、北野天満宮などの「石の間造り」と比較しても簡素でも簡略でもありません。 そして、本殿・権殿を見ると、本殿・権殿は規模も大きく2つ並んでいるからそう思うのか・・という気もしないでもないのですが、権殿の前の杉尾神社や、そして、この中門の前の棚尾神社を見ると、そうではなく、規模が大きい小さいの問題ではなく、大きさは小さくても、十分に迫力のある建物であることが実感されます。
↑ 賀茂別雷神社 中門から見た「透廊(すいろう)」 重要文化財。 江戸時代前半の建築と言われる。
【5】 その「特別拝観」の際、西局の部屋に、祭神についての系譜が壁に貼られていたが、下鴨神社の祭神の一柱である賀茂建角身命(かも たけつぬみ のみこと) の 娘 である下鴨神社のもう一柱の祭神 賀茂玉依媛命(かもの たまよりひめ のみこと) と 天神 との息子が、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神とされる 賀茂分雷大神(かも わけ いかづち のおおかみ)だというのです。 この場合の天神は、天の神、雷神ともいうべき天神で、菅原道真とは関係ない。
賀茂別雷神社の祭神の賀茂分雷大神(かも わけ いかづち のおおかみ)の母は、単に「玉依媛(たまよりひめ)」ではなく「賀茂玉依媛命(かもの たまよりひめ のみこと)」とされており、「玉依媛(たまよりひめ)」でも賀茂の「玉依媛(たまよりひめ)」とされているのです。
『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』(2009.5.19.集英社)に書かれている≪社伝によると、神武天皇の時代に賀茂別雷大神(かも わけ いかづち の おおかみ)が神山(こうやま)に降臨したことにはじまる。≫という「社伝」によれば、賀茂の「玉依媛(たまよりひめ)」の息子だという賀茂別雷大神(かも わけ いかづち の おおかみ)は、『古事記』に登場する「玉依媛(たまよりひめ)」の息子である神倭伊波礼毗古命(かむやまと いわれびこ のみこと)〔「び」は環境依存文字。「田」に「比」〕の時代に神山(こうやま)に降臨したことになる。 神倭伊波礼毗古命(かむやまと いわれびこ のみこと)〔「び」は環境依存文字。「田」に「比」〕が神武天皇だとされているので、もしも、賀茂別雷神社の祭神の賀茂別雷大神(かも わけ いかづち の おおかみ)の母の賀茂の「玉依媛」が神武天皇の母の「玉依媛」と同一人物だとすると、「玉依媛」のある息子・神武天皇の全盛期に別の息子である賀茂別雷大神(かも わけ いかづち の おおかみ)が神山(こうやま)に降臨された、神武天皇の全盛期にその母親の玉依媛は丹塗り矢から懐妊して子供を産んだ・・・という話になり、少々、話が整合しづらくなります。 やはり、柳田国男の説だという≪「タマヨリヒメ」とは、「神霊の依りつく乙女(神に仕える巫女)」のことをさす普通名詞である≫という考え方を採用し、賀茂の「玉依媛」と『古事記』に登場して神武天皇の母親となる「玉依媛」は別人(別柱)とした方がすっきりします。
≪ (賀茂御祖神社[下鴨神社]の)西本殿には賀茂建角身命(かも たけ つぬみ のみこと)が、東本殿には玉依媛命(たまよりひめのみこと)が祀られる。「猛き(たけき)神」の意味をもつ賀茂建角身命は、『山城国風土記』逸文によると、日向国(宮崎県)の高千穂の峰に天降った神。 神武東征の際、八咫烏(やたがらす)(3本足の烏)に化身して、熊野から大和に向う神武東征の先導役を務めた。しばらく大和の葛木(葛城)山にいたが、南山城、ついで賀茂川をさかのぼって「久我の北の山基(やまもと)(上賀茂神社の西方といわれる)」に居を定めたという。
そこで丹波国から伊可古夜日女(いかこやひめ)を妻に迎え、玉依日子命(たまよりひこのみこと)と玉依媛命をもうけた。 玉依日子命は、賀茂神社に奉斎する賀茂県主(あがたぬし)となり、玉依媛命は上賀茂神社に祀られる賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を産んだ。 下鴨神社の正式名称である賀茂御祖(みおや)神社の「御祖」は、上社祭神の「祖父と母」を祀る社という意味である。
古代豪族の賀茂氏には、大和と山城に本拠を置く2氏があった。 両氏の関係は定かではないが、大和の賀茂氏が山城に移ったとの説もある。 同じ大和から山城に移った賀茂建角身命の話は、農耕の技術をもった賀茂氏の移住を物語るといわれる。賀茂氏は、祖先神と土着の自然神とを統合して祀ったと考えられる。≫
(『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』2009.5.19.集英社 「下鴨神社(賀茂御祖神社)」 )
神武天皇(神倭伊波礼毗古命[かむやまと いわれびこ のみこと。 「び」は環境依存文字。「田」に「比」])の「東征」の際に、玉依媛の父である賀茂建角身命(かも たけ つぬみの みこと)が先導し、その後に、賀茂建角身命(かも たけ つぬみの みこと)が山城国に住んで丹波から妻を迎えて生まれた子が神武天皇の母の玉依媛・・・というのでは、辻褄が合わないことになるので、やはり、賀茂建角身命(かも たけ つぬみの みこと)の娘で賀茂別雷大神(かも わけ いかづち のおおかみ)の母である玉依媛と 神武天皇の母である玉依媛は、玉依媛は玉依媛でも別人(別神)と考えないと話が通らないことになります。
【6】 ≪古代豪族の賀茂氏には、大和と山城に本拠を置く2氏があった。 両氏の関係は定かではないが、大和の賀茂氏が山城に移ったとの説もある。≫(『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』2009.5.19.集英社)という話ですが、奈良県御所市には、高鴨神社(http://www5.kcn.ne.jp/~takakamo/ )があります。
網干 善教 他執筆・奈良商工会議所 編『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック[改訂版] 奈良大和路の歴史と文化』(2007.9.20. 奈良商工会議所)の「高鴨神社」のところには、
≪ ・・・金剛・葛城の山麓は古代の大豪族、鴨族の発祥の地で、当社はその鴨族が守護神として斎き祀った社である。 その末流は全国に分布し、その地で鴨族の神を祀った。 賀茂(加茂、賀毛)は郡名だけでも、安芸・播磨・美濃・三河・佐渡の国々に見られ、郷村名に至ってはさらに多い。 また京都の上賀茂神社をはじめ、全国に分布している多数の鴨社も、すべてこの地に源を発するもので、当社は全国の鴨神社の総社である。 ・・・≫と出ており、高鴨神社の祭神は≪阿治須岐詫彦根命(あじすきたかひこねのみこと)、 味鉏速雄命(あじすきはやおのみこと [「すき」は環境依存文字。 へんは「金」、つくりは「且」]、 多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、下照比売命(したてるひめのみこと)、 天稚彦命(あめわかひこのみこと)≫と出ています。
戸部民夫『日本の神さまがわかる本』(PHP研究所)の「阿遲鉏高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)(「すき」は環境依存文字。へんは「金」、つくりは「且」)」のところには、
≪アジスキタカヒコネ命は、別名 迦毛大神(かものおおかみ)と呼ばれる。 その本拠は、大和国(奈良県)の葛城(現在の高鴨神社のあるところ)といわれる。 『続日本紀』に、葛城山に狩猟に出かけた雄略天皇の前に老漁師に化身して現れ、獲物を取り合ったという話がある。その神は、葛城山の神で、土地の豪族・鴨氏の祀る高鴨神(カモ大神)だという。 ≫と出ている。
『古事記』『日本書紀』に登場する神を習合させるのは、明治維新政権以来のこじつけである場合が少なくありませんが、アジスキタカヒコネノミコトを「迦毛大神(かものおおかみ)」という話については『古事記』にその話が出ています。
≪ ・・・こうしてまた、大国主神(おおくにぬしのかみ)が宗像(むなかた)の奥津宮にいらっしゃる多紀理毗売命(たぎりびめのみこと)(「び」は環境依存文字。「田」に「比」)を妻としてお生みになった子は、阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)(「鉏」は環境依存文字。「金」に「且」)、つぎに妹の高比売命(たかひめのみこと)、この妹の神のまたの名は下光比売命(したてるひめのみこと)という。
この兄の神の阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)は、いまは鴨大御神(かものおおみかみ)といっている。 また大国主神が、神屋楯比売命(かみやたてひめのみこと)を妻としてお生みになった子は、事代主神(ことしろぬしのかみ)である。・・・≫(梅原 猛〔現代語訳〕『古事記 増補新版』2012.7.24.学研M文庫)
アジスキタカヒコネノミコト は『古事記』では出生の系譜ともう1か所登場する。
≪ さて、天若日子(あめのわかひこ)の妻の下照比売(したてるひめ)の泣く声が、風とともに高天の原まで届いた。そこで、高天の原にいる天若日子の父の天津国玉神(あまつくにたまのかみ)と天若日子の妻子たちが聞いて、地上に降って来て、泣き悲しんだ。
さっそく、そこを殯屋(もがりや)として、河の雁を死者に食事をささげる役のものとし、鷺を殯屋(もがりや)の掃除をするものとし、翡翠(かわせみ)を食事をつくるものとし、雀を米をつく女とし、雉を泣き女として、八日八晩の間、連日、にぎやかに遊んで、死者の霊を迎えようとした。
このときに、阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)がやって来て、天若日子(あめのわかひこ)の喪を弔った。
そのとき、高天の原からやって来た天若日子の父と妻とは、泣きはらしながら、「わたしの子は死なないでここにいた。 わたしの夫は死なずにここにいらっしゃった」といって、手足に取りすがって、喜び、泣いた。 その父や妻が見誤ったのは、二柱の神が似ていたからで、見誤ったのも無理はない。
ところが、阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)は、たいへん怒って、「わたしは親しい友人だったので弔いに来た。 それなのに、わたしを汚い死人と間違えるなど、とんでもない」とおっしゃって、大きな剣を抜き、殯屋(もがりや)を切り伏せ、足で蹴とばしてしまわれた。
この蹴とばされた殯屋(もがりや)は、美濃の国の相川にある喪山となった。 お持ちになっていた剣は大量(おおはかり)といい、また神度(かむど)の剣といった。 ・・・≫
下照比売(したてるひめ)は天若日子(あめのわかひこ)の妻であったとともに、大国主命と多紀理媛命との娘で阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)の妹であったはずで、いくら2人が似ていたとしても、夫と兄を間違えるというのはいかがなものかとも思えますし、天若日子(あめのわかひこ)の父の天津国玉神(あまつくにたまのかみ)も、たとえ似ていたとしても、息子と息子の嫁の兄とを間違えるというのはどんなものかという感じがしますが、たとえ、死者と間違えられたとしても、だからといって、≪殯屋(もがりや)を切り伏せ、足で蹴とばしてしまわれた≫とは、大の大人が・・というより、まがりなりにも神様がそこまでするか? という気もしますが、『古事記』に登場する「神さま」というのは、神さんにしては大人げなかったりする神様がけっこう登場します。
『古事記』にアジスキタカヒコネノミコトが「迦毛大神(かものおおかみ)」だという記述があることから、奈良県御所市の高鴨神社では、アジスキタカヒコネノミコトを祭神としているようですが、 『古事記』に登場するアジスキタカヒコネノミコトだという「迦毛大神(かものおおかみ)」は、京都の賀茂別雷神社、賀茂御祖神社の祭神とはどういう関係なのか。 関係はあるのかないのか、どうなのでしょう。
奈良県御所市の高鴨神社でアジスキタカヒコネノミコトを祭神としているのに対して、京都市の賀茂別雷神社(上賀茂神社)・賀茂御祖神社(下鴨神社)ではアジスキタカヒコネノミコトについて述べたものは見当たりません。 なぜ、出て来ないかというと、アジスキタカヒコネノミコトというのは、『古事記』では、神武天皇(神倭伊波礼毗古命(かむやまと いわれびこ のみこと)〔「び」は環境依存文字。「田」に「比」〕よりもずっと前の時期に登場する神であり、神武天皇(神倭伊波礼毗古命(かむやまと いわれびこ のみこと)〔「び」は環境依存文字。「田」に「比」〕よりずっと前の時代の神であるアジスキタカヒコネが「迦毛大神(かものおおかみ)」で、その「迦毛大神(かものおおかみ)」が賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神の賀茂別雷大神だいうことになったり、あるいは、賀茂別雷大神の祖父である賀茂建角身命だということになったりすると、賀茂建角身命が八咫烏(やたがらす)となって神武天皇の「東征」を先導したとか、神武天皇の時代に賀茂別雷神社(上賀茂神社)の北西方向にある神山(こうやま)に降ったという賀茂別雷大神は神武天皇の母の子、神武天皇の兄弟ということになっているのに、一方で、神武天皇よりもずっと前の時代の神であるアジスキタカヒコネだとなってしまうと、話に整合性がなくなってしまう。 それで、京都の方の賀茂別雷神社(上賀茂神社)・賀茂御祖神社(下鴨神社)では『古事記』の≪この兄の神の阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)[「スキ」は環境依存文字。「金」に「且」]は、いまは鴨大御神(かものおおみかみ)といっている。≫についてはふれないようにしている・・ということでしょう。 「黙ってよなあ~あ」って。
※「黙ってよな~あ」を知らない方は、
⇒《YouTube-春日三球・照代の漫才「乗り物アラカルト」 》http://www.youtube.com/watch?v=yRrZaEbgYIA
まあ、もともと、神社の「社伝」というものは、あくまでもお話であって、歴史ではないし、『古事記』も『日本書紀』も、歴史を検討する上での参考資料となることはあっても歴史ではないので、話が合わない部分があっても、「けしからん神さんやなあ」と怒ることもないでしょう。
戸部民夫『日本の神さまがわかる本』には、
≪ アジスキタカヒコネ命は、オオクニヌシ命(のみこと)の子で母は宗像(むなかた)三神の一人、タギリヒメ命(のみこと)である。 基本的な性格は稲穂の神であるが、雷神(水神)的な要素も秘めていて、神社では主に農業の守護神として祀られ、不動産業の神という特徴的な機能もある。 ≫
≪ アジスキタカヒコネ命の神徳は、農業守護を中心に、不動産業守護、家内安全、商売繁盛、縁結びなどのほか、文筆業の守護神(土佐神社)としての信仰もある。 ≫とある。
≪ 名前のスキは、農具の鋤からの連想で、昔は鋤も田の神を祀る呪具であった。≫という。
人間には、時として、万人の神ではなく、自分たちだけの神を欲しがる傾向があり、仏閣を多く建てた聖徳太子が大工職人の神とされるのに対し、「スキ」が土を耕すものというところから、土に関係する不動産業の神としてアジスキタカヒコネノミコトにお呼びがかかったということでしょうか。
『日本の神さまがわかる本』では、アジスキタカヒコネノミコトを祀る神社として、奈良県御所市の高鴨神社のほか、栃木県日光市の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)・福島県東白川郡棚倉町の都々古別神社・大阪市東成区 の比売許曾(ひめこそ)神社・愛媛県宇和島市 の宇和津彦神社・高知市一宮の土佐神社があげられています。
日光市の二荒山神社には、東照宮の西隣りにある本社と中禅寺湖の北側の湖畔にある中宮祠と山の上にある奥の宮があり、私は東照宮の隣りと中宮祠に訪問したことがありますが、いずれも、「不動産業の神」というのは二荒山神社ではあまり主張しているようには見えませんでした。
アジスキタカヒコネノミコトが不動産業の神さまであるならば、当然のことながら、不動産業の会社の従業員の神さまであり、不動産業の会社のけしからん経営者を懲らしめる神でもあるはずです。 そこはそれ、何と言っても神様ですから、けしからん経営者を守る存在ではないはずなのです。 そのあたりが裁判所とか労基署とは違います。 それで、日光は福島第一原発の事故で放射線量が高くなってしまったようなので、福島県の棚倉の神社とともに、少なくともここしばらくは東京以西の住人がわざわざ行くところではなくなったとして、
不動産業のけしからん経営者を懲らしめる神・アジスキタカヒコネノミコトを祀る神社としては、
奈良県御所市鴨神 高鴨神社 http://www5.kcn.ne.jp/~takakamo/
大阪市東成区東小橋南之町 比売許曾(ひめこそ)神社 (東成区HP http://www.city.osaka.lg.jp/higashinari/page/0000000438.html )
愛媛県宇和島市野川 宇和津神社 (るるぶ http://www.rurubu.com/sight/detail.aspx?BookID=A4504660 )
高知県高知市一宮 土佐神社 http://www.tosajinja.i-tosa.com/
ということになるでしょうか。
賀茂別雷神社は、同社でいただいた由緒書には、「御神徳」は
≪厄除・方除・八方除・災難除
必勝・電気の守護 ≫
『古社名刹巡拝の旅 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』には、
≪神山に天降る神で、もともとは豊作をもたらす農耕神の雷神。 現在は八方除け、厄除け、落雷除け、電器産業の守護神として信仰を集める≫とあり、不動産業守護は出ていない。
やはり、≪アジスキタカヒコネ命は、別名 迦毛大神(かものおおかみ)と呼ばれる。≫という『古事記』の記述からくるアジスキタカヒコネとのつながりにはふれたくない以上、スキは土を耕すもので、土は不動産業のつながるところから不動産業の守護・・という神徳は主張しずらいのでしょう。 あえて、問題のある分野に守備範囲を広げなくても、十分「客層」はあることですし・・・、なんて言ったら怒られるか・・?
【7】 賀茂別雷神社(上賀茂神社)へは、JR「京都」駅や阪急「四条河原町」駅から市バスで「上賀茂神社前」までの便があるようですが、私は「神社、寺への参拝・巡礼は、行った時だけが参拝・巡礼ではなく、自宅を出てから自宅に戻って来るまでが参拝・巡礼である」という認識で、「まったく歩けないという状態にならない限り、できるだけ、目の前までバスで行くということはせず、最寄の電車の駅から歩く」というのを原則とし、今回は、京都市地下鉄(http://www.city.kyoto.jp/kotsu/tikadia/tikatime.htm)烏丸線の「北大路」駅から歩いて行き、帰りは京都市地下鉄の「北山」駅から帰りました。
〔 京都市の地下鉄の駅は、阪急「烏丸」駅と交差している駅の駅名が「四条」。 他にも、「五条」「九条」「十条」と、五条通りにあっても、五条通りはそこだけではなく、京阪に前から「五条」という駅があってもおかまいなし、近鉄京都線に「十条」という駅があってもおかまいなし。京阪は「清水五条」に駅名を変更したが、普通、後から名前をつける方が考慮するものと違うかという気もします。 「京都」駅はJR「京都」駅のある場所だから「京都」駅なのでしょうけれども、阪急からすれば四条河原町が阪急の京都駅でしょうし、京阪からすれば京阪「三条」が京都駅でしょう。 もう少し、考えた駅名の付け方はできないものかという気がします。 特に、阪急「烏丸」・地下鉄「四条」は、互いに「四条烏丸」にするとかできないものかと思います。〕
賀茂御祖神社(下鴨神社)も行きたかったのですが、「1日1社の原則」とともに、上賀茂神社・下鴨神社と表記してワンセットで考えるべきか、そうではなく、基本的には別の神社として考えるべきかという問題で、今回は、とりあえず、何らかの関わりはあるとしても別の神社であるという前提で、賀茂別雷神社のみ訪問いたしました。
先に、楼門、棚尾神社、東局・西局・中門、透廊(すいろう)の写真を出しましたが、次回は、京都市地下鉄「北大路」駅から賀茂別雷神社への歩みを報告いたします。
【8】 賀茂別雷神社(上賀茂神社)の本殿と権殿は、「特別参拝」をさせていただくと肉眼で見ることはできますが写真撮影は不可だそうなので、撮影した写真はないため、ここのブログに掲載はできませんが、本殿と権殿の写真を見たい方は、
三好和義・岡野弘彦ほか『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社・下鴨神社』2004.4.11.淡交社)の26~31頁、
『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』(2009.5.19.集英社)の32~33頁、
『国宝の美22 出雲大社 賀茂別雷神社 賀茂御祖神社 春日大社』(2010.1.24.朝日新聞出版)18~19頁
に本殿と権殿の写真の掲載があります。
☆ 《 賀茂別雷神社(上賀茂神社)参拝 》は9回に分けて公開させていただくことになりました。 ぜひ、2~8回もご覧くださいませ。
2.福音ルーテル賀茂川教会・賀茂川・御土居・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_2.html
3.斎王桜・外弊殿・神馬舎・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_3.html
4.細殿・橋殿・片岡橋・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_4.html
5.弊殿・「特別拝観」・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_5.html
6.奈良神社・北神饌所・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_6.html
7.檜皮葺・大田神社・魯山人生誕地・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_7.html
8.深泥池・京都コンサートホール、摂社の構成・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_8.html
9.流造と切妻、不動産業の神「迦毛の大神」・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_9.html
(2014.5.5.)
【1】 昔、京都の鴨川と高野川が合流する所の脇の道を観光バスで通り、窓から見て、ちょうど、Yの字に合流している様子が特別の場所のような印象を受けた。 その合流している場所の奥に、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)〔下鴨神社 しもがもじんじゃ〕(京都市左京区下鴨泉川町)がある。 一度、あの合流している場所に行ってみたいと何十年も思ってきた。
ヤフー地図で見ると、この合流点より上流、北西の川が「賀茂川」、大原の方から流れてきて鞍馬や貴船から流れてくる川と合流してくる北東の川が「高野川」、合流して南に流れる川は「かもがわ」でも「鴨川」と表記するらしい。 その鴨川は京都市の南部で桂川と合流し、桂川は京都府と大阪府の境目付近で宇治川・木津川と合流して淀川になる。
賀茂別雷神社(かも わけ いかづち じんじゃ)〔上賀茂神社 かみがもじんじゃ〕(京都市北区上賀茂本山)は、この合流点から賀茂川に沿って北西方向に行くとある。
賀茂御祖先神社(かも みおや じんじゃ)を下鴨神社(しもがもじんじゃ)と俗に言い、賀茂別雷神社(かも わけ いかづち じんじゃ)を上賀茂神社(かみがもじんじゃ)というので、どうも、ワンセットのように感じがちだが、この2つの神社について書かれたものを読み、地図を見ているうちに、はたして、ワンセットで考えるのが適切なのだろうか、と思うようになった。 もしかして、なんらかのつながりはあったとしても、基本的には別の神社ととらえて考えた方が適切ということはないのだろうか、と思いだしたのだ。
まず、祭神は、
賀茂別雷神社(上賀茂神社)・・・・ 賀茂別雷大神(かも わけ いかづち のおおかみ)
賀茂御祖神社(下鴨神社) ・・・・ 賀茂建角身命(かも たけつぬみ のみこと)
賀茂玉依媛命(かもの たまよりひめ のみこと)
となっており、賀茂分雷神社(上賀茂神社)の祭神・賀茂分雷大神(かも わけ いかづち のおおかみ)の母と母方の祖父が賀茂御祖神社(下賀茂神社)の祭神だとされている。 「特別拝観」で入らせていただいた際に説明してくれた若い神職のおにいさんは、賀茂分雷大神(かも わけ いかづち のおおかみ)とは「雷をも別けるパワーの神さま」という意味だと説明したが、それはどうだろうか。 他の説もあるようであり、その点については後に述べる。
【2】 「玉依姫」「玉依媛」(たまよりひめ)は『古事記』に登場する。
≪ ・・・・綿津見神(わたつみのかみ)の娘の豊玉毗売(とよたまびめ)〔「び」は環境依存文字。 へんが「田」、つくりが「比」〕は、自分で火遠理命(ほおりのみこと)のところにいらっしゃって、「わたしはすでに身籠っているのです。いまがちょうどお産の月です。天つ神(あまつかみ)の子を海で産んではいけないと思って、綿津見神(わたつみのかみ)の宮からここに参ったわけです」とおっしゃった。
そこで、さっそく、海辺の渚(なぎさ)に、鵜の羽を葺草(かや)のように使って、産屋(うぶや)を建てた。しかし、まだ産屋が完成していないのに、お腹がふくれてどうにもならなくなった。
それで仕方なく、未完成の産屋に入られて産もうとなされるときに、夫の火遠理命(ほおりのみこと)に、「一般に、他国の人は、子どもを産むときは、元の国の形に戻って産むものです。だから、わたしも、いまは元の形に戻って、子を産もうと思いますので、どうか、わたしを見ないでください」とおっしゃった。
それを聞いて、火遠理命(ほおりのみこと)は、不思議なことをいうものだと思われて、その子どもをお産みになろうとするときに、そうっとのぞき見をすると、わが妻はまことに大きな鮫となって、腹這いになって、這い回っておられた。火遠理命は、それを見て、驚き恐れて、逃げ退かれた。そこで、豊玉毗売(とよたまびめ)〔「び」は環境依存文字。 「田」に「比」。〕は、夫が、わが言葉に反して、その鮫の姿をのぞき見したことを知って、はなはだ恥ずかしいことだと考えられた。
産んだばかりのその子を置き去りにして、「わたしは、つねに、海の路を通って、あなたのところに通って来たと思っていましたのに、このように、あなたは、わたしの形をのぞいて見てしまった。恥ずかしくって、もうお目にかかれません」とおっしゃって、豊玉毗売(「び」は環境依存文字。「田」に「比」)は、綿津見の国に行く坂を塞いで、帰ってしまわれた。
このようなわけで、そのとき豊玉毗売(「び」は環境依存文字。「田」に「比」)がお産みになった子を、天津日高日子波限建鵜葺不合命(あまつ ひこひこ なぎさ たけ うがや ふきあえず のみこと)というのである。
そのように、豊玉毗売(「び」は環境依存文字。「田」に「比」)は、夫が彼女の産む姿を見たのを恨んで、綿津見神(わたつみのかみ)の国に帰ってしまわれたが、夫恋しの心に耐えず、その子を養っていた縁で、その妹の玉依毗売(たまよりびめ)〔「び」は環境依存文字。へんは「田」、つくりは「比」〕を夫のところおにお遣わしになり、玉依毗売(「び」は環境依存文字。「田」に「比」)につぎのような歌を託した。
赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装ひし 貴くありけり
〔赤い玉は、それを貫いている緒さえ光って見えるほど美しいが、白玉のようなあなたのお姿は、まことに、いとも尊いものでした〕
・・・・・(略)・・・・
この天津日高日子波限建鵜葺不合命(あまつ ひこひこ なぎさ たけ うがや ふきあえず のみこと)が、叔母の玉依毗売(たまよりびめ)(「び」は環境依存文字。「田」に「比」)を妻にして、お産みになったのが、五瀬命(いつせのみこと)、つぎの子が稲氷命(いなひのみこと) 、つぎの子が御毛沼命(みけぬのみこと)、つぎの子が若御毛沼命(わかみけぬのみこと)である。
この若御毛沼命(わかみけぬのみこと)は、またの名を豊御毛沼命(とよみけぬのみこと)といい、もう一つの名を神倭伊波礼毗古命(かむやまと いわれびこ のみこと)(「び」は環境依存文字。へんが「田」、つくりが「比」)というのである。
さて、御毛沼命(みけぬのみこと)は、波の上を踏んで、常世の国にお渡りになり、稲氷命(いなひのみこと)は、妣(はは)の国である海原に行ってしまわれた。≫
(梅原 猛〔現代語訳〕『古事記 増補新版』2012.7.24.学研M文庫)
「玉依媛」「玉依姫」(たまよりひめ)を祭神として祀る神社は、千葉県長生郡一宮町一宮 の 玉前神社(http://www.tamasaki.org/home.htm)他、全国にあるが、≪各地に同じ「玉依」の名をもつ女神が祀られていることから、「タマヨリヒメ」とは、「神霊の依りつく乙女(神に仕える巫女)」のことをさす普通名詞である、と解釈したのは民俗学者の柳田国男である。つまり、コノハナサクヤヒメ命(のみこと)のような固有名詞ではなく、古代の神祭りにおいて重要な役割を果たした乙女の機能を象徴する一般的な呼称であるということだ。 さらに「タマヨリ」の女性は、神婚による処女懐胎で神の子を宿したり、選ばれて神の妻となったり、女性の生殖力が強く反映されている。そういう巫女的霊能力のある女性を総称して「タマヨリヒメ」と呼んでいるのである。≫(戸部 民夫『日本の神様がわかる本』2005.1.5.PHP研究所)ということだ。
【3】 『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』(2009.5.19.集英社)の「上賀茂神社(賀茂別雷神社)」には≪上賀茂神社も下鴨神社同様に、その創建年代を特定することは難しいが、社伝によると、神武天皇の時代に賀茂別雷大神(かも わけ いかづち の おおかみ)が神山(こうやま)に降臨したことにはじまる。 本殿の北北西2㎞にある神山(こうやま)は本来のご神体で、その神に仕えたのが阿礼乎止女(あれおとめ)と呼ばれる賀茂氏の未婚の女性だった。・・・・≫と書かれている。≪その創建年代を特定することは難しい≫のはそうであろうけれども、だからといって≪神武天皇の時代に≫などと言われてしまったのでは、もとより神武天皇というのは実在していないのであるからさらにわからなくなってしまう。要するに「昔、むかし、いつの頃と言いようもないくらいの昔の話」ということであろう。
≪ 『山城国風土記』逸文によると、玉依比売命(たまよりひめのみこと)は瀬見の小川(賀茂川)で丹塗り矢を拾うと、ほどなくして身ごもり、御子を産んだ。 その御子が成人すると、玉依比売の父である賀茂建角命(かも たけ つぬみ のみこと)は大きな建物を建てた。そして、その戸を閉め切って、大量の酒を甕に満たし、神々を集めて七日七夜宴会を続けた。その後、孫の御子を呼び、「お前の父と思う人に酒を飲ませなさい」と告げる。 すると御子は杯を持って、天に向ってまつりごとをおこない、屋根を破って天に昇っていった。そこで賀茂建角命は、御子の名を賀茂別雷大神と名づけた。同書では、丹塗り矢となり玉依比売を身ごもらせた御子の父神を、乙訓(おとくに)の郡(こおり)の社(やしろ)にいる火雷神(ほのいかづちのかみ)としているが、『秦氏本系帳』では松尾大社の祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)としている。≫
『日本の神社』(2014.5.18.宝島社)には≪・・約1300年前の第40代天武天皇の御代には現在地にすでに社殿が造営され、以来、京都の守護神として皇室をはじめ、貴族からの崇敬が篤かった≫とあるから、平安京ができるより前からある神社のようだ。
【4】 賀茂別雷神社では、楼門の中、中門の前までは、特に拝観料など納めなくても誰でも入らせてもらえるが、中門の内側に透廊(すいろう)があり、その向こうの右側の本殿と左側の権殿(ごんでん)は、中門の手前からは見えないようになっている。 中門とその西側の西局、東側の東局より内側には、通常はみだりに立ち入るところではないらしいが、現在、「特別拝観」ということで、500円を納めることで、西局から権殿の正面にあたる内側まで入らせてもらうことができる。 今回、その「特別拝観」をさせていただいたのであるが、西局の一室で神職を待ち、お祓いのようなこと(?)をしていただいた上で、西局の内側の権殿(ごんでん)の正面にあたる場所まで入らせていただくことができた。
↑ 賀茂別雷神社 「楼門」 重要文化財。 江戸時代前半の建築と言われる。
↑ 賀茂別雷神社 「西局」「中門」「東局」 重要文化財。 江戸時代前半の建築と言われる。
写真はクリックすると大きくなるので、ぜひ、クリックして見てください。 中門の右手前に、小さな「流れ造り(ながれづくり)」の社殿がありますが、これは、棚尾神社(重要文化財)で、賀茂別雷神社でいただいた 上賀茂神社 製作『京都歩くマップ―上賀茂・北山―』「賀茂別雷神社 境内案内図」によると、≪玄関守護・家を守る神様≫だそうです。
↑ 摂社 棚尾神社 重要文化財。 江戸時代前半の建築と言われる。
「1間社 流れ造り」 正面に柱が2本あり、その間が1間で、屋根の形状が「流れ造り」。
本殿と権殿(ごんでん)は、「特別拝観」では、権殿の正面の位置から見せていただくことができますが、「たいへん神聖な場所ですから」ということで、写真撮影は不可ということでした。 本殿・権殿は「3間社 流れ造り」で、正面に柱が4本あり、柱の間が3つ、3間で、屋根の形状が「流れ造り」で、「檜皮葺(ひわだぶき)」。 「檜皮葺」とは、桧(ひのき)の木の皮を重ねた屋根材のことです。 本殿・権殿の写真の撮影は不可ということでしたが、本殿・権殿を縮小したような社殿、ミニチュアのような摂社がいくつかあります。 中門前のこの棚尾神社も、本殿・権殿のミニチュアのような感じの社です。
日光東照宮が「石の間造り」(⇒「権現造り」)で造られたのは、北野天満宮のような 拝殿・石の間(弊殿)・本殿の3部構成の石の間造りが、豪勢で権力者の威信を見せる建物とするには適しているからで、地方の小規模な神社に「流れ造り」が多いのは、流れ造りは比較的簡単にできるからだという説があるようですが、賀茂別雷神社で本殿・権殿を見ると、「流れ造り」は、北野天満宮などの「石の間造り」と比較しても簡素でも簡略でもありません。 そして、本殿・権殿を見ると、本殿・権殿は規模も大きく2つ並んでいるからそう思うのか・・という気もしないでもないのですが、権殿の前の杉尾神社や、そして、この中門の前の棚尾神社を見ると、そうではなく、規模が大きい小さいの問題ではなく、大きさは小さくても、十分に迫力のある建物であることが実感されます。
↑ 賀茂別雷神社 中門から見た「透廊(すいろう)」 重要文化財。 江戸時代前半の建築と言われる。
【5】 その「特別拝観」の際、西局の部屋に、祭神についての系譜が壁に貼られていたが、下鴨神社の祭神の一柱である賀茂建角身命(かも たけつぬみ のみこと) の 娘 である下鴨神社のもう一柱の祭神 賀茂玉依媛命(かもの たまよりひめ のみこと) と 天神 との息子が、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神とされる 賀茂分雷大神(かも わけ いかづち のおおかみ)だというのです。 この場合の天神は、天の神、雷神ともいうべき天神で、菅原道真とは関係ない。
賀茂別雷神社の祭神の賀茂分雷大神(かも わけ いかづち のおおかみ)の母は、単に「玉依媛(たまよりひめ)」ではなく「賀茂玉依媛命(かもの たまよりひめ のみこと)」とされており、「玉依媛(たまよりひめ)」でも賀茂の「玉依媛(たまよりひめ)」とされているのです。
『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』(2009.5.19.集英社)に書かれている≪社伝によると、神武天皇の時代に賀茂別雷大神(かも わけ いかづち の おおかみ)が神山(こうやま)に降臨したことにはじまる。≫という「社伝」によれば、賀茂の「玉依媛(たまよりひめ)」の息子だという賀茂別雷大神(かも わけ いかづち の おおかみ)は、『古事記』に登場する「玉依媛(たまよりひめ)」の息子である神倭伊波礼毗古命(かむやまと いわれびこ のみこと)〔「び」は環境依存文字。「田」に「比」〕の時代に神山(こうやま)に降臨したことになる。 神倭伊波礼毗古命(かむやまと いわれびこ のみこと)〔「び」は環境依存文字。「田」に「比」〕が神武天皇だとされているので、もしも、賀茂別雷神社の祭神の賀茂別雷大神(かも わけ いかづち の おおかみ)の母の賀茂の「玉依媛」が神武天皇の母の「玉依媛」と同一人物だとすると、「玉依媛」のある息子・神武天皇の全盛期に別の息子である賀茂別雷大神(かも わけ いかづち の おおかみ)が神山(こうやま)に降臨された、神武天皇の全盛期にその母親の玉依媛は丹塗り矢から懐妊して子供を産んだ・・・という話になり、少々、話が整合しづらくなります。 やはり、柳田国男の説だという≪「タマヨリヒメ」とは、「神霊の依りつく乙女(神に仕える巫女)」のことをさす普通名詞である≫という考え方を採用し、賀茂の「玉依媛」と『古事記』に登場して神武天皇の母親となる「玉依媛」は別人(別柱)とした方がすっきりします。
≪ (賀茂御祖神社[下鴨神社]の)西本殿には賀茂建角身命(かも たけ つぬみ のみこと)が、東本殿には玉依媛命(たまよりひめのみこと)が祀られる。「猛き(たけき)神」の意味をもつ賀茂建角身命は、『山城国風土記』逸文によると、日向国(宮崎県)の高千穂の峰に天降った神。 神武東征の際、八咫烏(やたがらす)(3本足の烏)に化身して、熊野から大和に向う神武東征の先導役を務めた。しばらく大和の葛木(葛城)山にいたが、南山城、ついで賀茂川をさかのぼって「久我の北の山基(やまもと)(上賀茂神社の西方といわれる)」に居を定めたという。
そこで丹波国から伊可古夜日女(いかこやひめ)を妻に迎え、玉依日子命(たまよりひこのみこと)と玉依媛命をもうけた。 玉依日子命は、賀茂神社に奉斎する賀茂県主(あがたぬし)となり、玉依媛命は上賀茂神社に祀られる賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を産んだ。 下鴨神社の正式名称である賀茂御祖(みおや)神社の「御祖」は、上社祭神の「祖父と母」を祀る社という意味である。
古代豪族の賀茂氏には、大和と山城に本拠を置く2氏があった。 両氏の関係は定かではないが、大和の賀茂氏が山城に移ったとの説もある。 同じ大和から山城に移った賀茂建角身命の話は、農耕の技術をもった賀茂氏の移住を物語るといわれる。賀茂氏は、祖先神と土着の自然神とを統合して祀ったと考えられる。≫
(『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』2009.5.19.集英社 「下鴨神社(賀茂御祖神社)」 )
神武天皇(神倭伊波礼毗古命[かむやまと いわれびこ のみこと。 「び」は環境依存文字。「田」に「比」])の「東征」の際に、玉依媛の父である賀茂建角身命(かも たけ つぬみの みこと)が先導し、その後に、賀茂建角身命(かも たけ つぬみの みこと)が山城国に住んで丹波から妻を迎えて生まれた子が神武天皇の母の玉依媛・・・というのでは、辻褄が合わないことになるので、やはり、賀茂建角身命(かも たけ つぬみの みこと)の娘で賀茂別雷大神(かも わけ いかづち のおおかみ)の母である玉依媛と 神武天皇の母である玉依媛は、玉依媛は玉依媛でも別人(別神)と考えないと話が通らないことになります。
【6】 ≪古代豪族の賀茂氏には、大和と山城に本拠を置く2氏があった。 両氏の関係は定かではないが、大和の賀茂氏が山城に移ったとの説もある。≫(『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』2009.5.19.集英社)という話ですが、奈良県御所市には、高鴨神社(http://www5.kcn.ne.jp/~takakamo/ )があります。
網干 善教 他執筆・奈良商工会議所 編『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック[改訂版] 奈良大和路の歴史と文化』(2007.9.20. 奈良商工会議所)の「高鴨神社」のところには、
≪ ・・・金剛・葛城の山麓は古代の大豪族、鴨族の発祥の地で、当社はその鴨族が守護神として斎き祀った社である。 その末流は全国に分布し、その地で鴨族の神を祀った。 賀茂(加茂、賀毛)は郡名だけでも、安芸・播磨・美濃・三河・佐渡の国々に見られ、郷村名に至ってはさらに多い。 また京都の上賀茂神社をはじめ、全国に分布している多数の鴨社も、すべてこの地に源を発するもので、当社は全国の鴨神社の総社である。 ・・・≫と出ており、高鴨神社の祭神は≪阿治須岐詫彦根命(あじすきたかひこねのみこと)、 味鉏速雄命(あじすきはやおのみこと [「すき」は環境依存文字。 へんは「金」、つくりは「且」]、 多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、下照比売命(したてるひめのみこと)、 天稚彦命(あめわかひこのみこと)≫と出ています。
戸部民夫『日本の神さまがわかる本』(PHP研究所)の「阿遲鉏高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)(「すき」は環境依存文字。へんは「金」、つくりは「且」)」のところには、
≪アジスキタカヒコネ命は、別名 迦毛大神(かものおおかみ)と呼ばれる。 その本拠は、大和国(奈良県)の葛城(現在の高鴨神社のあるところ)といわれる。 『続日本紀』に、葛城山に狩猟に出かけた雄略天皇の前に老漁師に化身して現れ、獲物を取り合ったという話がある。その神は、葛城山の神で、土地の豪族・鴨氏の祀る高鴨神(カモ大神)だという。 ≫と出ている。
『古事記』『日本書紀』に登場する神を習合させるのは、明治維新政権以来のこじつけである場合が少なくありませんが、アジスキタカヒコネノミコトを「迦毛大神(かものおおかみ)」という話については『古事記』にその話が出ています。
≪ ・・・こうしてまた、大国主神(おおくにぬしのかみ)が宗像(むなかた)の奥津宮にいらっしゃる多紀理毗売命(たぎりびめのみこと)(「び」は環境依存文字。「田」に「比」)を妻としてお生みになった子は、阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)(「鉏」は環境依存文字。「金」に「且」)、つぎに妹の高比売命(たかひめのみこと)、この妹の神のまたの名は下光比売命(したてるひめのみこと)という。
この兄の神の阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)は、いまは鴨大御神(かものおおみかみ)といっている。 また大国主神が、神屋楯比売命(かみやたてひめのみこと)を妻としてお生みになった子は、事代主神(ことしろぬしのかみ)である。・・・≫(梅原 猛〔現代語訳〕『古事記 増補新版』2012.7.24.学研M文庫)
アジスキタカヒコネノミコト は『古事記』では出生の系譜ともう1か所登場する。
≪ さて、天若日子(あめのわかひこ)の妻の下照比売(したてるひめ)の泣く声が、風とともに高天の原まで届いた。そこで、高天の原にいる天若日子の父の天津国玉神(あまつくにたまのかみ)と天若日子の妻子たちが聞いて、地上に降って来て、泣き悲しんだ。
さっそく、そこを殯屋(もがりや)として、河の雁を死者に食事をささげる役のものとし、鷺を殯屋(もがりや)の掃除をするものとし、翡翠(かわせみ)を食事をつくるものとし、雀を米をつく女とし、雉を泣き女として、八日八晩の間、連日、にぎやかに遊んで、死者の霊を迎えようとした。
このときに、阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)がやって来て、天若日子(あめのわかひこ)の喪を弔った。
そのとき、高天の原からやって来た天若日子の父と妻とは、泣きはらしながら、「わたしの子は死なないでここにいた。 わたしの夫は死なずにここにいらっしゃった」といって、手足に取りすがって、喜び、泣いた。 その父や妻が見誤ったのは、二柱の神が似ていたからで、見誤ったのも無理はない。
ところが、阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)は、たいへん怒って、「わたしは親しい友人だったので弔いに来た。 それなのに、わたしを汚い死人と間違えるなど、とんでもない」とおっしゃって、大きな剣を抜き、殯屋(もがりや)を切り伏せ、足で蹴とばしてしまわれた。
この蹴とばされた殯屋(もがりや)は、美濃の国の相川にある喪山となった。 お持ちになっていた剣は大量(おおはかり)といい、また神度(かむど)の剣といった。 ・・・≫
下照比売(したてるひめ)は天若日子(あめのわかひこ)の妻であったとともに、大国主命と多紀理媛命との娘で阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)の妹であったはずで、いくら2人が似ていたとしても、夫と兄を間違えるというのはいかがなものかとも思えますし、天若日子(あめのわかひこ)の父の天津国玉神(あまつくにたまのかみ)も、たとえ似ていたとしても、息子と息子の嫁の兄とを間違えるというのはどんなものかという感じがしますが、たとえ、死者と間違えられたとしても、だからといって、≪殯屋(もがりや)を切り伏せ、足で蹴とばしてしまわれた≫とは、大の大人が・・というより、まがりなりにも神様がそこまでするか? という気もしますが、『古事記』に登場する「神さま」というのは、神さんにしては大人げなかったりする神様がけっこう登場します。
『古事記』にアジスキタカヒコネノミコトが「迦毛大神(かものおおかみ)」だという記述があることから、奈良県御所市の高鴨神社では、アジスキタカヒコネノミコトを祭神としているようですが、 『古事記』に登場するアジスキタカヒコネノミコトだという「迦毛大神(かものおおかみ)」は、京都の賀茂別雷神社、賀茂御祖神社の祭神とはどういう関係なのか。 関係はあるのかないのか、どうなのでしょう。
奈良県御所市の高鴨神社でアジスキタカヒコネノミコトを祭神としているのに対して、京都市の賀茂別雷神社(上賀茂神社)・賀茂御祖神社(下鴨神社)ではアジスキタカヒコネノミコトについて述べたものは見当たりません。 なぜ、出て来ないかというと、アジスキタカヒコネノミコトというのは、『古事記』では、神武天皇(神倭伊波礼毗古命(かむやまと いわれびこ のみこと)〔「び」は環境依存文字。「田」に「比」〕よりもずっと前の時期に登場する神であり、神武天皇(神倭伊波礼毗古命(かむやまと いわれびこ のみこと)〔「び」は環境依存文字。「田」に「比」〕よりずっと前の時代の神であるアジスキタカヒコネが「迦毛大神(かものおおかみ)」で、その「迦毛大神(かものおおかみ)」が賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神の賀茂別雷大神だいうことになったり、あるいは、賀茂別雷大神の祖父である賀茂建角身命だということになったりすると、賀茂建角身命が八咫烏(やたがらす)となって神武天皇の「東征」を先導したとか、神武天皇の時代に賀茂別雷神社(上賀茂神社)の北西方向にある神山(こうやま)に降ったという賀茂別雷大神は神武天皇の母の子、神武天皇の兄弟ということになっているのに、一方で、神武天皇よりもずっと前の時代の神であるアジスキタカヒコネだとなってしまうと、話に整合性がなくなってしまう。 それで、京都の方の賀茂別雷神社(上賀茂神社)・賀茂御祖神社(下鴨神社)では『古事記』の≪この兄の神の阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)[「スキ」は環境依存文字。「金」に「且」]は、いまは鴨大御神(かものおおみかみ)といっている。≫についてはふれないようにしている・・ということでしょう。 「黙ってよなあ~あ」って。
※「黙ってよな~あ」を知らない方は、
⇒《YouTube-春日三球・照代の漫才「乗り物アラカルト」 》http://www.youtube.com/watch?v=yRrZaEbgYIA
まあ、もともと、神社の「社伝」というものは、あくまでもお話であって、歴史ではないし、『古事記』も『日本書紀』も、歴史を検討する上での参考資料となることはあっても歴史ではないので、話が合わない部分があっても、「けしからん神さんやなあ」と怒ることもないでしょう。
戸部民夫『日本の神さまがわかる本』には、
≪ アジスキタカヒコネ命は、オオクニヌシ命(のみこと)の子で母は宗像(むなかた)三神の一人、タギリヒメ命(のみこと)である。 基本的な性格は稲穂の神であるが、雷神(水神)的な要素も秘めていて、神社では主に農業の守護神として祀られ、不動産業の神という特徴的な機能もある。 ≫
≪ アジスキタカヒコネ命の神徳は、農業守護を中心に、不動産業守護、家内安全、商売繁盛、縁結びなどのほか、文筆業の守護神(土佐神社)としての信仰もある。 ≫とある。
≪ 名前のスキは、農具の鋤からの連想で、昔は鋤も田の神を祀る呪具であった。≫という。
人間には、時として、万人の神ではなく、自分たちだけの神を欲しがる傾向があり、仏閣を多く建てた聖徳太子が大工職人の神とされるのに対し、「スキ」が土を耕すものというところから、土に関係する不動産業の神としてアジスキタカヒコネノミコトにお呼びがかかったということでしょうか。
『日本の神さまがわかる本』では、アジスキタカヒコネノミコトを祀る神社として、奈良県御所市の高鴨神社のほか、栃木県日光市の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)・福島県東白川郡棚倉町の都々古別神社・大阪市東成区 の比売許曾(ひめこそ)神社・愛媛県宇和島市 の宇和津彦神社・高知市一宮の土佐神社があげられています。
日光市の二荒山神社には、東照宮の西隣りにある本社と中禅寺湖の北側の湖畔にある中宮祠と山の上にある奥の宮があり、私は東照宮の隣りと中宮祠に訪問したことがありますが、いずれも、「不動産業の神」というのは二荒山神社ではあまり主張しているようには見えませんでした。
アジスキタカヒコネノミコトが不動産業の神さまであるならば、当然のことながら、不動産業の会社の従業員の神さまであり、不動産業の会社のけしからん経営者を懲らしめる神でもあるはずです。 そこはそれ、何と言っても神様ですから、けしからん経営者を守る存在ではないはずなのです。 そのあたりが裁判所とか労基署とは違います。 それで、日光は福島第一原発の事故で放射線量が高くなってしまったようなので、福島県の棚倉の神社とともに、少なくともここしばらくは東京以西の住人がわざわざ行くところではなくなったとして、
不動産業のけしからん経営者を懲らしめる神・アジスキタカヒコネノミコトを祀る神社としては、
奈良県御所市鴨神 高鴨神社 http://www5.kcn.ne.jp/~takakamo/
大阪市東成区東小橋南之町 比売許曾(ひめこそ)神社 (東成区HP http://www.city.osaka.lg.jp/higashinari/page/0000000438.html )
愛媛県宇和島市野川 宇和津神社 (るるぶ http://www.rurubu.com/sight/detail.aspx?BookID=A4504660 )
高知県高知市一宮 土佐神社 http://www.tosajinja.i-tosa.com/
ということになるでしょうか。
賀茂別雷神社は、同社でいただいた由緒書には、「御神徳」は
≪厄除・方除・八方除・災難除
必勝・電気の守護 ≫
『古社名刹巡拝の旅 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』には、
≪神山に天降る神で、もともとは豊作をもたらす農耕神の雷神。 現在は八方除け、厄除け、落雷除け、電器産業の守護神として信仰を集める≫とあり、不動産業守護は出ていない。
やはり、≪アジスキタカヒコネ命は、別名 迦毛大神(かものおおかみ)と呼ばれる。≫という『古事記』の記述からくるアジスキタカヒコネとのつながりにはふれたくない以上、スキは土を耕すもので、土は不動産業のつながるところから不動産業の守護・・という神徳は主張しずらいのでしょう。 あえて、問題のある分野に守備範囲を広げなくても、十分「客層」はあることですし・・・、なんて言ったら怒られるか・・?
【7】 賀茂別雷神社(上賀茂神社)へは、JR「京都」駅や阪急「四条河原町」駅から市バスで「上賀茂神社前」までの便があるようですが、私は「神社、寺への参拝・巡礼は、行った時だけが参拝・巡礼ではなく、自宅を出てから自宅に戻って来るまでが参拝・巡礼である」という認識で、「まったく歩けないという状態にならない限り、できるだけ、目の前までバスで行くということはせず、最寄の電車の駅から歩く」というのを原則とし、今回は、京都市地下鉄(http://www.city.kyoto.jp/kotsu/tikadia/tikatime.htm)烏丸線の「北大路」駅から歩いて行き、帰りは京都市地下鉄の「北山」駅から帰りました。
〔 京都市の地下鉄の駅は、阪急「烏丸」駅と交差している駅の駅名が「四条」。 他にも、「五条」「九条」「十条」と、五条通りにあっても、五条通りはそこだけではなく、京阪に前から「五条」という駅があってもおかまいなし、近鉄京都線に「十条」という駅があってもおかまいなし。京阪は「清水五条」に駅名を変更したが、普通、後から名前をつける方が考慮するものと違うかという気もします。 「京都」駅はJR「京都」駅のある場所だから「京都」駅なのでしょうけれども、阪急からすれば四条河原町が阪急の京都駅でしょうし、京阪からすれば京阪「三条」が京都駅でしょう。 もう少し、考えた駅名の付け方はできないものかという気がします。 特に、阪急「烏丸」・地下鉄「四条」は、互いに「四条烏丸」にするとかできないものかと思います。〕
賀茂御祖神社(下鴨神社)も行きたかったのですが、「1日1社の原則」とともに、上賀茂神社・下鴨神社と表記してワンセットで考えるべきか、そうではなく、基本的には別の神社として考えるべきかという問題で、今回は、とりあえず、何らかの関わりはあるとしても別の神社であるという前提で、賀茂別雷神社のみ訪問いたしました。
先に、楼門、棚尾神社、東局・西局・中門、透廊(すいろう)の写真を出しましたが、次回は、京都市地下鉄「北大路」駅から賀茂別雷神社への歩みを報告いたします。
【8】 賀茂別雷神社(上賀茂神社)の本殿と権殿は、「特別参拝」をさせていただくと肉眼で見ることはできますが写真撮影は不可だそうなので、撮影した写真はないため、ここのブログに掲載はできませんが、本殿と権殿の写真を見たい方は、
三好和義・岡野弘彦ほか『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社・下鴨神社』2004.4.11.淡交社)の26~31頁、
『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』(2009.5.19.集英社)の32~33頁、
『国宝の美22 出雲大社 賀茂別雷神社 賀茂御祖神社 春日大社』(2010.1.24.朝日新聞出版)18~19頁
に本殿と権殿の写真の掲載があります。
☆ 《 賀茂別雷神社(上賀茂神社)参拝 》は9回に分けて公開させていただくことになりました。 ぜひ、2~8回もご覧くださいませ。
2.福音ルーテル賀茂川教会・賀茂川・御土居・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_2.html
3.斎王桜・外弊殿・神馬舎・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_3.html
4.細殿・橋殿・片岡橋・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_4.html
5.弊殿・「特別拝観」・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_5.html
6.奈良神社・北神饌所・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_6.html
7.檜皮葺・大田神社・魯山人生誕地・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_7.html
8.深泥池・京都コンサートホール、摂社の構成・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_8.html
9.流造と切妻、不動産業の神「迦毛の大神」・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_9.html
(2014.5.5.)
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