綱敷天神社 御旅社(大阪市北区茶屋町) 参拝。―冤罪を晴らす神さま・怨念を晴らすお百度参り(19)

[第263回]冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り(19)
    阪急「梅田」駅から阪急の線路の東側を北に歩きかけると東側に見える神社が 「綱敷天神社 御旅社」である。↓ たしか、すぐ西の阪急の高架下には「阪急 古書の街」http://www.hankyu-kosho.com/ があったと思う。
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社殿には「菅原道眞公」と額がかかっているので↑、天神社でも、菅原道真と関係のない天神社もあるが、ここは間違いなく菅原道真と関係のある天神社でしょう。 HPhttp://www.tunashiki.com/を見ても、「御旅社の御祭神」として「菅原道眞公」とのみでています。 露の天神社(お初天神)http://www.tuyutenjin.com/about.html では、祭神は少彦名大神が筆頭で5名というのか5柱というのかの神さまがあげられており、菅原道真は最後の5番目に書かれており、道真を祀る神社ではあっても、菅原道真は必ずしも中心的な位置づけではないように思えますが、綱敷天神社御旅社の場合は、はっきりと菅原道真が祭神の神社のようです。
写真はクリックすると大きくなり、さらに「+」マークをあててクリックするとその部分が拡大しますから、ぜひ大きくして見てください。 鳥居の額には「綱敷天神社 御旅社」と出ています。 「御旅所」ではなく「御旅社」です。

   最近、長距離夜行バスが、大阪市北区豊崎のかつてはカトリック北野教会であったのがいくつかのカトリック教会が合同し建替えられてカトリック大阪梅田教会となったところの南側、ピアスタワーの南東の駐車場に発着することがあり、JR「大阪」・阪急「梅田」・阪神「梅田」・地下鉄「梅田」「東梅田」「西梅田」とその夜行バス乗降所である駐車場との間を行き来する際に、この神社の前を通行することになる。 私は、昔、「大学生」の時に、この近所でアルバイトで勤務したことがあり、この前を通り、阪急の「梅田」の駅のそばのこんなところに神社があるんだと思って見たことがあったが何の神社かもわからなかったが、それがこの「綱敷天満宮 御旅社」だった。








住所は同社HPによれば大阪市北区茶屋町12-5 で、阪急「梅田」駅の北東すぐです。

   『わかりやすい天神信仰 学問の神さま』(1994. 鎌倉新書)の「全国・天満宮めぐり」には、大阪府の天神社としては大阪天満宮・道明寺天満宮・服部天神宮とともに綱敷天神社が掲載されており、、
≪◆弘仁13年(822)、この地に行幸して一宿を過ごされた嵯峨天皇を偲んで、左大臣・源融公が承和10年(843)創建。御諱(いなみ)を取って“神野太神宮”と称した。その後、菅公が筑紫に流され給うとき、淀の川尻、すなわちこの北野に船を着けられて、社庭の梅樹を賞美されたことから、代々“梅塚”と呼び伝えている。・・・
  ◆綱敷天神と称するのは、船の綱を円座として御休息されたことに由来する。伝来する綱の長さは一丈八尺、太さ二寸七分で、薄茶色を呈している。・・・・ ≫
と出ているが、↑の写真、阪急「梅田」駅のすぐ東にあるのは、その「御旅社」である。
   綱敷天神社のホームページhttp://www.tunashiki.com/ を見ると、「御旅社サイト」http://www.tunashiki.com/ 、「歯神社サイト」http://www.hagamisan.com/ があり、大阪市北区神山町の「御本社」と、↑の写真の大阪市北区茶屋町12-5 の「御旅社」、それに歯の神さまの大阪市北区角田町の末社 歯神社の3箇所に分かれているらしい。 「御本社」のある神山町とはどういう所かというと、↓








日本キリスト教団扇町教会のすぐ南、一粒社ヴォーリズ設計事務所が設計した日本キリスト教団東梅田教会のすぐ北、太融寺のすぐ北東、北野病院の南西、扇町公園の西側である。
   3年ほど前、一粒社ヴォーリズ設計事務所が設計したという東梅田教会を見に行こうと思って行き、周囲を歩いてみたときに、へ~え、こんなところに天満宮があるんだと思って立ち寄ったことがありました。 それが、綱敷天満宮の「御本社」でした。
    

    大阪から福岡までの間には、綱敷天神という天神社がいくつかある。 『わかりやすい天神信仰 学問の神さま』〔1994.12.20. (株)鎌倉新書〕の「全国・天満宮めぐり」と「主要天満宮名簿」の両方に、大阪市北区神山町の綱敷天神社・兵庫県神戸市須磨区天神町の綱敷天満宮・愛媛県今治市桜井 の綱敷天満神社の3社が掲載されている。  《ウィキペディア―天満宮》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE の「主な天満宮」には、大阪市北区神山の綱敷天満宮・神戸市須磨区の綱敷天満宮・愛媛県今治市の綱敷天満神社の3社のほかに、神戸市東灘区の綱敷天満神社・福岡市博多区の綱敷天満宮・福岡県筑上郡筑上町の綱敷天満宮がでている。

    竹内秀雄『天満宮』(1968.3.9.第1版。 1996.5.1.新装版 吉川弘文館 日本歴史叢書)には、
≪  菅神のあらぶる神としての性格は綱敷(つなしき)天神・柘榴(ざくろ)天神・水鏡天神などの形象として発現した。
    綱敷天神  菅公が流謫(りゅうたく)の途上、上陸地に休憩する所もなく浜辺に帆綱を円座の形として仮の座としたという説話を画いた綱敷天神像が発生し憤怒の相を表現している。 これは愛媛県今治市桜井町桜井の綱敷天満神社福岡県筑上郡椎田町高塚の綱敷神社の所伝にも見えている。また『国花万葉集』には須磨村の縄巻天神を挙げている。外に博多の綱敷天神がある。
   菅神は威厳いやちこな荒ぶる神の性格も有している。延喜以降の天変地異、日蔵の『冥途記』に描写せられた天神の様相から生じたものである。・・・・
   松平家の綱敷天神は毎年正月十一日連歌を興行したという(『天神ノ古事巻物』)。
   また京都府葛野郡七条村字西七条字東野 ・大阪府北区北野字神山 ・ 兵庫県兵庫郡御影町大字石屋字八色岡など綱敷天神の名で呼ばれているものがある(『北野誌』)。
   大阪市東町の古跡は梅を賞した所であり、愛媛県今治市桜井町桜井は菅公がその地で楫(かじ)をもって自像をつくり、のち神体として社を建てたものといい、福岡市下土居町にあるのは菅公上陸の博多にあったものを慶長年間に移したものという。 ・・・≫とでている。

   もっとも、三田誠広『菅原道真 見果てぬ夢』(2013.2.18.河出書房新社) には、
≪ 九州への旅は瀬戸内海航路を辿るのが通例だが、罪人の扱いなので粗末な馬車で陸路を辿った。千五百里の道程(みちのり)である。食事もほとんど与えられず、大宰府に着いた時には痩せ細っていた。≫
と書かれている。
   京都から福岡までの間には、菅原道真が大宰府に流される際に立ち寄った、というお話がある神社等が相当あるようだが、それらの話がすべてそのまま本当だとすると、菅原道真というのは、罪人扱いであった割りに、ずいぶんといろいろな所に立ち寄ったことになり、実際は、どれが本当の話でどれが後から作られた話なのかよくわからないし、陸路を通ったのか瀬戸内海を船で行ったのかもわからないようだ。綱敷天神という天神社はいくつもあるが、柘榴天神の話は創作であろうし、水鏡天神の話も実際にあったことかどうかわからないことを考えると、綱敷天神の話も実際にどうであったのかはよくわからない。

   「大阪市北区の綱敷天神社」(綱敷天神社という名称の神社が複数あるので、ここではこう表記します)のホームページhttp://www.tunashiki.com/ の《綱敷天神社 御旅社サイト 御旅社の歴史》 を見ると、
≪「御旅社」といいますのは、神様の別荘のようなもので、大阪市北区神山町に御鎮座されます綱敷天神社御本社の神様が夏の渡御祭の際に、地元梅田の町が平穏であるかどうかご覧になられ、その時にお休みになられる為のお社が御旅社です。この御旅社は元々御本社の南にあり、古くには「梅塚天神」とも称され、菅原道眞公がご覧になられた紅梅がありましたが、明治の初年頃にこの梅田・茶屋町の氏神さまとしてお迎えしたいと土地の寄進があり、現在の地に鎮座致しました。故に臨時で設けられる普通の御旅所とは異なり、常に御祭神が鎮座まします御旅所という事で、当神社では正式には「御旅社」と申します。≫ と出ています。

   階段を登って社殿の前まで行くと、右手に手水舎があり、左手には牛の像がいます。↓
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   それだけではない。 社殿の右手には社務所というべきか授与所というべきかもあります。↓
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北野天満宮の「御旅所」〔[第159回]《北野天満宮へ行くはずが妙心寺。北野天満宮御旅所・元七保天満宮・天神御旅商店街と丸太町通―北野天満宮1 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html 参照〕でも、授与所らしきものは見かけませんでした。 ここは「御旅社」というので、「御旅所」の別表記だと思い、御旅所であれば、社務所とか授与所とかはあっても本社にあるもので、御旅所にはないだろう・・と思い込んでいたのですが、大阪市北区の綱敷天神社の御旅社にはあるのです。↑  正面から見て鳥居や社殿の右側(南側)の建物は隣りのビルだと思ったのですが、そうではなく、綱敷神社御旅社の社務所というのか授与所というのかなどが入るビルだったようです。
   御朱印もいただけそうな雰囲気だと思いませんか。 御用の方はこちらをお押しくださいと書かれた呼びりんが置いてあり、上の最初の写真を見ていただくとわかると思いますが、道路との間には、ガラガラッと横に引いて開閉する門扉というのかがあって、それが開けられているので、神社は一般世間より幾分早寝早起きであることから考えても、少々、朝早いといえども、その神社が門扉を開けて迎え入れているのですから、押させていただいてもいいのかな・・とも思いましたが、そうはいっても、午前7時ちょうどくらいに呼びだすのは、そこに「お押しください」と書かれていたとしても、やはり申し訳ないと思い、それは控えました。


   社殿の左側、牛の像の西側に、摂社 玉姫稲荷神社があります。 ↓
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綱敷天神社のHPを見ると、祭神は≪玉姫稲荷大神(宇迦御魂大神)≫となっており、≪縁結びの様、商売繁盛≫と書かれています。
  村上重良『日本の宗教』(1981.3.20. 岩波ジュニア新書) には、
≪  稲荷は、奈良時代にはじまる京都の伏見稲荷の祭神ウカノミタマノカミと仏教の吒枳尼天(ダキニテン)〔「ダ」は環境依存文字。 口へんにモ〕が習合した神で、江戸時代をつうじて、もっともひろく信仰された現世利益神でした。 伏見の稲荷神社は、もともと渡来民の秦氏の氏神でしたが、近くにあった田の神の社をとりいれて、イネの穀霊に由来するウカノミタマノカミを祭神としました。 平安時代に、稲荷神社は真言宗と結びつき、密教では、稲荷と荼枳尼天を同じ神としました。 荼枳尼天は、インドの神で、神秘的な自在の力をもち、半年前に人の死を知り、その心臓をとり出して食うとされ、のち仏教の守護神となりました。平安後期には、稲荷の本体はキツネと信じられるようになり、やがて稲荷信仰の普及とともに、キツネは稲荷の神使とされました。 室町時代には商工業の発展とともに、都市で福徳の神として稲荷がさかんに祀られました。稲荷は正一位という最高の神階をもつとされ、江戸時代には、町々に赤い鳥居と社殿をそなえ、「正一位稲荷大明神」の幟を立てた稲荷の社が、おびただしくつくられました。≫と出ています。
  戸部民夫『日本の神様がわかる本』(2005.1.5. PHP研究所)には、
≪  ウカノミタマ神は、平常は稲荷神として大活躍し、「お稲荷さん」といえば誰でも知っている。・・・
   『古事記』では、スサノオ尊(のみこと)とオオイチヒメ命(のみこと)の間に生まれた子とされているが、・・・。・・『日本書紀』では、イザナギ命(のみこと)とイザナミ命(のみこと)の国生み・神生みの神話のなかに、大八島をつくったあと、飢えを感じてウカノミタマ神を生んだとあり、食物との関係が明らかに示されている。≫
≪  ウカノミタマ神がどうして稲荷神なの?と疑問を感じる人も多いだろう。
    まず、どちらも稲霊(いなたま)(穀霊)であるところが共通している。ただ、稲荷神にはもともと地域開発、殖産興業の守護神的な性格があったと考えられる。≫
≪  やがて稲荷神は、仏教と習合し、さまざまな民間信仰を巻き込みながら、日本の民俗宗教のなかにおける代表的な霊威神の位置を獲得することになる。・・・
    かくして稲荷信仰は急速に広がり、それにともなって稲荷神の性格も、本来の農耕神から商工業をはじめとする諸産業の神へと拡大していったのである。≫
とある。
   ウカノミタマノカミとは、『古事記』ではどう書かれているかというと、
≪  故(かれ)、(須佐之男命[スサノオノミコト]が)その櫛名田比賣(くしなだひめ)をもちて、隠所(くみど)に起こして、生める神の名は、八島士奴美(やしまじぬみの)神と謂ふ。 また大山津見の神の女(むすめ)、名は神大市比賣(かむおほいちひめ)を娶して生める子は、大年神。次に宇迦之御魂(うかのみたまの)神。 ≫
と、『古事記』(倉野憲司校注 1963.1.16.岩波文庫)にあり、倉野憲司の注には「大年神」は≪年穀を掌る神≫、「宇迦之御魂(うかのみたまの)神」は≪食物の御魂の神。書紀には食稲魂とある。≫と書かれている。
   「稲荷」と『古事記』のスサノオノミコトの子だという「ウカノミタマノカミ」と仏教の「荼枳尼天(ダキニテン)」とが結びつき、もともと、農業の神だったのが、商工業の神となっていったというものらしい。

   しかし、その結びつきかたは、それぞれの神社により異なるように思える。 この綱敷天神社御旅社の摂社 玉姫稲荷神社は、外見も女性の神を思わせるもので、神社の名称も「玉姫」。 HPにも≪縁結びの神様、商売繁盛 ≫とあり、多数派の「お稲荷さん」とは少々、趣が違います。 玉姫殿という結婚式場もありますが、「商売繁盛」より「縁結びの神様」が先に書かれているように、「縁結び」関係の女性の神さまか? という印象があります。 HPの《境内のご案内》には≪女性守護、縁結びの神さまです。≫と出ています。

   「玉姫」という地名で思い浮かぶのが、『あしたのジョー』に出てくる「玉姫公園」。 矢吹丈が丹下段平と出会う場で、「おい、若いの。おめえ、なかなかいいバネしてるなあ。ボクシングしねえか。俺がコーチしてやる。俺がコーチすりぁ、おめえならチャンピオンになれる。」と。 地図を見ると、東京都台東区に玉姫公園は実在し、玉姫稲荷神社もあります。







※⇒《YouTube―ジョーの子守唄.mp4 》http://www.youtube.com/watch?v=1v0DkrnILrg

  「天神と稲荷は仲が悪い」という話がある。竹内秀雄『天満宮』(1968.3.9. 吉川弘文館 日本歴史叢書)には、
≪ 室町時代に三十番神像が描かれ出し、その七日の結番は天満天神に当たっていた。
三十番神とは、鎌倉時代から一ヵ月三十日の間、毎日交替して朝家を守り、一方では法華経を守護すると信ぜられたわが国著名の三十番神で、これは両部神道で説くところで、初め天台宗、のちに日蓮宗で信仰せられた。
  『渓嵐拾葉集』によると、北野天神が雷電となって内裏に乱入し障碍をなそうとしたとき、公卿のせん議があって今日は三十番神は何神が当たっているかといっていると、そのとき稲荷大明神が雲に乗って来現し天神と神威を争って障碍がなかったので、北野と稲荷は仲が悪く、北野参詣の日には稲荷に参詣しないということが記されている。
  『戴恩記』にも、菅丞相が百千の雷となり、朝廷を恨み本院時平公を殺し、昼夜雨風やまず、雷鳴のため御殿も裂けるばかりであったとき、天皇は今日の番神は如何なる神かと貞信公(藤原師輔の父、忠平)に問われると、太刀の柄頭に白狐の現じたのを見て、稲荷大明神の御番と答えると、程なく雷も鳴り止み雨も晴れてしまったという。 ・・・≫
と出ている。
   しかし、大阪市北区茶屋町 の綱敷天神社御旅社では、主祭神の社殿と玉姫稲荷神社とが同居しており、しかも、向い合わせに位置している。 ここではけっこう仲はいいみたい・・というよりも、稲荷は稲荷でも玉姫稲荷は、多数派の「お稲荷さん」とは幾分系統が違うのではないだろうか。
   住宅を建てるにおいて、神棚と仏壇の位置関係について、諸説あるみたいで、地域によって認識の違いもあるらしい。 神棚が仏壇の上にあるのはいいという地域とよくないという地域があるらしく、又、上でも右上はいいが左上はよくないとかいう説などあるようだ。 向きとしては、仏壇は、一般に、南向きか東向きで、人が北か西に向って拝むのがいいと言われるが、その向きでなければ設けられないという事情があるなら、それなら設けない方がいいのかというと、そうではないとされる。 神棚も南向き、そうでなければ東向きで、北向きや西向きには設けない場合が多い。 神社や寺もそうなっている場合が多いが、茨城県鹿島市の鹿島神宮などは、西から鳥居をくぐって入り、右手に社殿があって、社殿は北を向いている。 大阪市住吉区の住吉大社は西から(海側から)入り、西から東に社殿は並んでおり、人は東に向って拝むようになっている。 大阪市天王寺区の四天王寺は、西と南に主要な門があり、南から北に伽藍は並んでいるが、本堂の四天王は、今は南を向いているが、かつては西を向いていたという。 鎌倉市の建長寺は、西から東に入るようになっており、法堂も人は西から東に拝むようになっており、仏像は西を向いている。 神社・寺の向きはそれぞれの由緒にもよるし、また、建長寺などは立地からそうなったものだろう。 この綱敷天神社御旅社の本殿も東に向いていて、人は東側の道から階段を登って入る。 だから、住宅でも、神棚と仏壇の向きは、あまりにも固執しなくてもいいのではないかとも思うが、たとえ、施主がよくても、北向きの神棚や仏壇を作ると、「なんだべ、これは」と親戚のおじさんから怒られるとか、そういうこともあるらしい。 住宅において、神棚と仏壇は隣りにあるのはよいが向かい合わせは絶対にいけない、という説はかなり有力であるが、大阪市北区茶屋町 の綱敷天神社御旅社では、菅原道真を祀る本殿と摂社 玉姫稲荷神社は向かい合わせの位置に存在している。 都会の街中、梅田の駅のすぐそばで、敷地があまり広くないという現実的な問題もあるだろうけれども、ここでは、天神さんと玉姫稲荷さんはいつも向かい合わせでいるくらい仲はいいようだ。真正面ではなく斜め向かいではあるけれども。
[  住宅建築業の会社に勤めると、時々、「住宅に関しての知識なんて、営業にぜんぜん関係ない」などと言う人と出くわすことがある。 もし、「知識と営業成績とは正比例の関係にあるわけではない」という意味で言うのなら、私もそう思う。しかし、そういったことを言う人の多くは、単に、自分が学ぼうという姿勢がないことを居直っているだけでしかない。 ↑で述べた仏壇・神棚の場所・向きなどについての知識がない人間に、十分に住宅の仕事ができるだろうか。 私は、20年以上かけて、実際のお施主様と接しながらこういったことを学んできたのだ。そういうもののない人が同じだけのことができるとは思えない。
   千葉市中央区鵜の森町 の新華ハウジング有限会社(建設業)で「工事責任者」を自称しながら、まったく工事に責任を持っていなかったU草A二が、「ぼく、営業やったことないですけど、営業できますから」と何度も何度も大きな顔をして口にしていたので、あつかましいふてぶてしい無神経な男だなあとあきれた。 ↑の程度、仏壇・神棚の場所・向きについての知識があったとする。 さて、あまりにも、場所にこだわるお施主様がおられたとして、「実際の神社だって北向きの神社ありますから、北向きに神棚作ったって大丈夫ですよ」と言っていいと思いますか。 鹿島神宮の社殿は北を向いていたはずです。 しかし、家を建てる時に、「だから、いいじゃないですか」と気安く言われると、施主は気分を害するのです。私は実際に何社かの神社、いくつかの寺を見てきて、神社の社殿、お寺のお堂がどちらを向いているか見てきた上で、その上で、実際の見込客、実際の契約客に話してみて、その経験から、こういう話し方はしない方がいい、こういうことは言っても通じないといったものを感じ取り、そこからどういう話し方ならしていいかということを学んできたのです。「やったことない」人間がどうやって学ぶのでしょう。 又、書物で学習し、神社や寺に行って見学するなどもするとともに、建替えのお施主さまの家にあがらせてもらって今までの家の仏壇や神棚を見せてもらう経験などを経て学んできたのだ。 「やったことない」人間がどうやって学ぶのでしょう。何より、その軽さは客から嫌われると思います。 「やったことない」ことを「やったことないですけど、ぼくできますから」という発言はその仕事をやってきた人間に失礼です。 契約客・見込客でも自分が営業の仕事をしてきた人なら、そういう口をきく人間、たとえ、お客様の前でそのセリフを言わなくてもそういう態度の人間というのは、こんなやつに頼まない方がいいな、と思われる可能性があるでしょう。 私ならそんな人間には頼みたくないですね。そんな人間に頼むというのは反社会的だと思います。]


   阪急電鉄は、かつては、国鉄の高架の下をくぐって南側に梅田駅があったが、1970年の大阪万博の前ころだったろうか、国鉄(現・JR)の北の今の場所に梅田駅を移した。 その際、阪急三番街という地下街ができた。「三番街」というのは、適当にゴロがいい言葉を選んだのかと思っていたのだが、綱敷天神社のHPhttp://www.tunashiki.com/ で、《茶屋町の御案内》を見ると、≪この茶屋町は元々は三番村と呼ばれた地域で、江戸時代には大阪有数の行楽地として有名でした。昔は当神社裏手の通り(旧西国街道、または旧池田街道)に軽く休息する為のお茶屋が三軒あり、そこから茶屋町と呼ばれるようになったようです。 ≫と出ています。 かつて、「三番村」と呼ばれた場所から「三番街」としたということなら、昔からの地名を尊重する態度は高く評価したいと思います。
   女性の守護という玉姫稲荷神社は、もしかすると、そのあたりの茶屋で働いていた女性の守り神だったのでしょうか。

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↑ 綱敷天神社御旅社の背面、東側です。 社が階段を登った上にあり、その下は駐車場になっていたのですね。 東京都中央区の水天宮もたしかそのようになっていたように思います。賛否あるかもしれないけれども、都心部での神社としての、窮余の作かもしれません。 
   この清涼飲料水の自動販売機はどうでしょうか。 “神社色”にラッピングされているようですが、神社色は神社色でもこの「神社色」は天神社の神社色とは異なるような気がするのですが、どうでしょう。 又、基本原則として、清涼飲料水の自販機といったものは、神社の社殿より目立つ色合いを使うべきではないと思うのですが、この自動販売機の色合いは相当目立つと思いませんか。 この場所なら、神社の背面でもあるし、「神社色」よりも、むしろ、周囲に同化する隠密色の方がよいようにも思います。 どうでしょう。

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↑ 左の方、もし、そうならいいのですがねえ・・・・。

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↑ 西側、綱敷天神社御旅社と阪急電車の間の道から見た HEP FIVE の観覧車。 
昔は、この観覧車はもっとよく見えたはずで、周囲に背の高い建物が建ったということか。 インターネットで見ると、HEP FIVE (http://www.hepfive.jp/ )と出ているが、HEP FIVE ではなく、阪急ファイブと言っていたように思うのだが。

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↑ 綱敷天神社御旅社 の少し北にあった。 ビルの名前は何だったか、忘れてしまった。 久しぶりにこのあたりを歩くと、昔なかったか気づかなかった建築に気づく。

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↑ 綱敷天神社御旅社の裏側(東側)から見た「HOTEL HANKYU INTERNATIONAL (ホテル 阪急 インターナショナル)」  左奥は ピアスタワー。

  (2014.5.20.)

☆ 冤罪を晴らす神様・菅原道真・怨念を晴らす全国お百度参り シリーズは、
 千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
意富比神社 末社 天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
白井市(白井市河原子の)天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
千葉神社 摂社 千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html

 東京都 
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html

  神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html  
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html

 岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html

京都府
北野天満宮(京都市上京区)
 1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
 2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
  3  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
  4  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
  5  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html

大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
露の天神社(お初天神)(大阪市北区)
 上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_5.html
 下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html
池田市天神1丁目・2丁目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_10.html
もご覧くださいませ。 


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