営業やって覚えたクルマの停め方・運転しかた。「営業やったことないですけど営業できます」てありうるか?

[第264回]営業と会社の話(60)
【1】  千葉県八千代市に本社がある建築もやっているが売買の不動産業が中心のT住宅で、私が在籍後半に○見川店の店長をやっていたT中は、賃貸マンションでチラシ配りをやっていた時に「ヤクザが来ている」と110番通報されたことがあると自分で話していたように、ヤクザかと思われるような風貌・外見の男で、やはり、人相が悪く眼つきが悪い現・社長で当時は常務であったO澤と2人で、「おまえ、ヤクザだろうが」とふざけて言いあいしていたことがあったが、その発言は冗談としてのものであろうが、実際、そういう風貌で、服装もそういう服装をする人間であり、そして、嘘つきでつくづく信頼できない男だった。
    しかし、不動産業に長い勤務経験を持つだけあって、そこから学んだものもあるようだった。私は住宅建築業は長いが、不動産業はそれほど経験はなく、隣接業界とはいっても異なるものは多く、営業のやり方にも共通するものもあって、建築業の会社の営業として不動産業の会社のベテランの営業と接して、「この人はなかなか・・」と思ったものを取り入れさせてもらったものもあるけれども、住宅でも建設業の営業と不動産業の営業とでは違いがあり、経験して初めて知るものもあった。

   ある時、T中が私の担当の見込客宅に同行するというので、私のクルマの助手席に彼を乗せて行った時のこと。 日没後の時間帯であったが、クルマをどこに停めるかという問題で、少々、離れた所にしか停められる所はないと私は判断していたのだが、彼は「月極め駐車場があるだろ」と言いだしたのだ。 「月極め駐車場に停めるわけにはいきませんでしょう」と私は言ったのだが、彼が「いいから、行ってみろよ」と言うので、このおっさんは、月極め駐車場に勝手に停めさせようというのかあ? と思っていくと・・・・。
   月極め駐車場にもいろいろある。 鉄骨で立体に骨組みを作って2階建にしてあるもの、舗装してはっきりと白線が引いて区画別けされているもの、分譲地でまだ建物を建てて住まない人が、自分が住むまでの間、地面は土のままで月極め駐車場として貸しているもの、などさまざまである。 そして、更地の住宅用地を自分が住むまでの間、地面は土のままで月極め駐車場として貸しているという土地には、道路との間にある程度の高低差がある土地もあれば、ほとんど高低差がない土地もある。 道路との間にU字溝があって、U字溝の上にクルマのタイヤを寄せると溝に落ちてしまうものもあれば、道路との間にU字溝などはない土地もあり、U字溝があっても普通乗用車くらいなら乗っても大丈夫なふたが設置されているU字溝もある。
   T中が月極め駐車場があったはずだと言って行った場所の月極め駐車場は、住宅用地で所有者が建物を建てて住むまでの間、地面は土のままで月極め駐車場として貸している所で、道路との間に高低差はたいしてなく、道路との間に溝になったU字溝などもなかった。 それでも、月極め駐車場として貸している所に借りているわけでもない者がクルマを停めるわけにはいかないのだが、「月極駐車場 契約者以外の駐車はお断りいたします。 連絡先 TEL○○○‐◇◇◇◇ ▽▽」とか書いた看板が立っているわけです。道路に近い場所に。 但し、その看板は、道路との境界線上に立っているわけではなく、道路との境界線より少し敷地に入った場所に立っているのです。道路に向けて立てている看板ですから、看板の外側、道路側にはクルマを1台停める余地はなく、当然のことながら、その部分は誰にも貸していないのです。 そこに3分の1くらいクルマを乗りこんで、3分の2は道路にはみだして停める、という方法を彼は言ったのです。 その部分は月極めで借りている人はないし、1日中、停めっぱなしにしたのでは、所有者は抗議するかもしれないけれども、たかだか、長くても2時間か3時間のことで、そして、昼間なら人目につきますが、日が暮れた後の時間帯なら目立たないのです。 そういう手があったか、とも思い、長年、その仕事をしてきただけあるなとも思いました。
   千葉市中央区鵜の森町 の 新華ハウジング(有)[建設業]・ビルダーズジャパン(株)[不動産業]・ジャムズグローバルスクエア(株)[不明業]で「工事責任者」を自称していたものの工事に責任ある態度をとっていなかったU草A二(男。30代なかば。当時。)が、「ぼく、営業やったことないですけど、営業できますから」と大きな顔をして何度も何度もあつかましく口にしていたので、なんで、そんなものできるんだ? と言っている意味が理解できなかった。 T住宅のT中にしても、そのクルマの停め方は、停めるところがないと苦労しながら、何か方法がないかと考えて、いつか思いついたものか、もしくは、先輩社員がやっているのを見て取り入れたものだと思う。私も、T中から教えてもらうまで、その方法には気づかなかった。「やったことない」人間がわかるわけがない。なぜ、できるんだ。 いったい、「やったことないですけど、営業できますから」というどあつかましい理屈はいったいどこからでてくるんだ。 なんとも、理解不可能なことを口にする男だった。


【2】  千葉市中央区鵜の森町 の新華ハウジング(有)[建設業]にいたSさんのクルマに乗せてもらった時、この人は、住宅関連の営業の仕事の経験者だと言っているけれども、お客さんを乗せて案内するという経験はあまりない人かな・・と思った。  なぜ、思ったかというと、私が、住宅建設業の会社で、お客様を自分のクルマに乗せて、建築中現場に連れていって案内したり、不動産業の会社で、売りに出ている土地を見に連れていったりということを相当にやってきた経験者であるからだ。 私のブレーキの踏み方とSさんのブレーキの踏み方には相当に違いがあることに気づいた。 Sさんのブレーキの踏み方は強いのだ。
    飛行機に乗って、その飛行機が着地する時に、車輪が空港の滑走路に着地した時、乗客のほとんど全員が、パチパチパチと拍手する・・というのを自分が乗った飛行機で経験した人ありますか。 私はあるのです。 英国航空(ブリティッシュエアウェイズ)で、イタリアのナポリのカポディキーノ空港からイギリスのロンドンのガトウィック空港まで乗った時、飛行機の車輪がドンと滑走路に着くと同時に、乗客ほぼ全員がパチパチパチと拍手するので、「え? なに、これ?」と思ったのですが、日本ではあまりそれをやる人はないと思いますが、外国ではやる国があるらしいのです。海外旅行雑誌で、中央アジアの方でこの体験をした人が、びっくりしたと書いていたのを読んだことがあったが、ヨーロッパでもあったのだ。
   それで、何回か飛行機に乗ると、滑走路に着地する時、ドンと多少の衝撃とともに着地する場合と、それほど衝撃なく静かに着地する場合とあることに気づいたのです。 ドンと衝撃とともに着地すると、「大丈夫か?」と少々不安になるのですが、かつての職場の同僚であった飛行機好きのおじさんは、ドンと多少衝撃があって着地する方が、むしろ、安全なんだと言うのです。 そのおじさんは単なる「飛行機好き」「乗り物好き」のおじさんであって、専門家というほどの人でもないので、その通りであると信じ切っていいのかどうかはわかりませんが、そういうこともありうるのかもしれません。
   「飛行機好き」「乗り物好き」のおじさんの説によれば、ドンという衝撃とともに着地する飛行機がほとんど衝撃なく着地する飛行機より危険であるとは限らないようで、同様に、Sさんが相当強くブレーキを踏んだとしても、事故が起こったわけではなく、ブレーキの踏みが強いというのは、即座に危険な運転だというわけでもないでしょう。 又、本当に、人が横から飛び出してきたとか、人でなくても犬でも猫でも飛び出してきたという時に、急ブレーキを踏むのはいたしかたないと思います。 しかし、S井さんの場合、そうでない場合でも、ブレーキの踏みが強いのです。 私の踏み方に比べれば、相当に。

   私は20代の前半でクルマの運転免許を取得したけれども、実際に乗用車の運転を始めたのは30過ぎてからだった。 これは、自動車学校に通いだした人間がよく言うことだが、自動車学校で初めて自分が運転席に座った出した30キロというのは、ものすごく速い気がして怖かった。 免許を取った後、しばらくペーパードライバーで、ペーパードライバーの講習に自動車学校に何回か通った後、自分で運転を始めたが、最初は運転するだけでせいっぱいだった。本格的に運転を始めた年、客宅に行ってどうしようかということなんか、運転中に考える余裕なんかなかった。 ある程度して、自分ひとりが乗って、それほど混雑しない道で70キロから80キロくらいのスピードで走る分には苦労しなくなったが、次に、人を、特に、お客様を乗せて運転する際には事情が違うことを知った。 初めて、お客様を乗せて案内した時、自分がひとりで乗っている時と、クルマの重さというのかがずいぶんと違うし、自分ひとりで乗っている時は、自分さえよければいいのが、そうはいかないし、運転している人間というのは、クルマが次にどういう動きをするというのがわかっているのに対して、運転者でない乗員はそうではない、ということで、本当に気を使った。 営業として契約をいただくためにはどうすればいいかという問題と、無事にクルマを運転するという作業と2つの課題があった。 そのうち、クルマの運転にも慣れ、人を乗せて運転することも特に苦労しなくなったし、成功するかどうかはともかく、運転しながらお客様と住宅についての話をしたり世間話をしたりもできるようになった。  そして、自分ひとりで乗って運転している時でも、特に飛び出しがあって事故を防ぐというような場面でなければ、ブレーキは乗員ができるだけ衝撃を受けないような踏み方をしている自分に気づいた。 私が運転するクルマに乗って I 工務店の建築現場を見に行ってくれたお客様、T住宅で売り物件を見に行ってくれたお客様は、契約してくださった人も契約してもらえなかった人も、結果として、私が人を乗せて運転する時に静かに衝撃を与えないで運転できるための練習をさせてくれたのだ。 S井さんは、その運転を見る限り、そういう経験がそれほどない人のように見受けられた。
   千葉市中央区鵜の森町 の 新華ハウジング(有)[建設業]・ビルダーズジャパン(株)[不動産業]・ジャムズグローバルスクエア(株)[不明業]で自称「工事責任者」で工事に責任をとろうという姿勢のないU草A二(男。30代なかば。当時。)が、「ぼく、営業やったことないですけど、営業できますから。」と大きな顔をして何度も何度も口にしていたのだが、経験のない人間にできるだろうか。 小堀住研でも一条工務店でも、「営業の人間は、タクシーのドライバーの次くらいによくクルマを運転する」と従業員の間で言っていた。 両社とも、ガソリン代は会社で出してくれていて、私はガソリン代を会社の規定を上回るほどの大型の燃費の悪いクルマに乗ったことはなかったので、燃料代をほとんど気にせずに乗ることができた。 ほとんど、毎日、毎日、クルマを運転したが、それでクルマの運転が上手になったかというと、なったといえばなったが、ならなかったといえばならなかった。 どういうことかというと、初めてクルマを運転した時に比べれば、間違いなく上手になったと思う。しかし、たとえば、一条工務店の工場に来ていた運送屋のドライバーでトレーラーを運転していたおにいちゃんなどは、私が帰ろうとする時に、私のクルマの前にトレーラーを停めていたので、そういうクルマを動かすのは大変だろうから、積み込みが終わるまで待とうと私がすると、「すぐ、動かします」と言って、私が「いいですよ、待ちますよ」と言っても、「大丈夫です」と言って、私なら乗用車でもぶつけるのではないかと思えるような狭い場所しか空いていないところで、じゅずつなぎというのかヘビみたいというのかのトレーラーを、バックで見事に動かしてくれたりしたことがあった。 まさしく、手を叩いて拍手したいくらいの職人芸だったが、当人は当たり前のことみたいな顔をしていた。うまいなあ~あ・・・と感心したが、やっぱり、クルマを運転すること自体を仕事としている人というのは、クルマを運転することは多くても営業が仕事であってクルマの運転自体が仕事ではない人間と違って、クルマの運転に対してプロ意識があるからなのか、見事な運転をする人が多い。 そういう人には、若い人もいて、運転を始めたのは私より後だろうという感じの人も少なくないが、仕事で運転はするが運転自体が仕事ではないと思って運転している人間と運転自体を仕事にしている人との違いなのかどうかわからないが、そういう人を見ると、私なんか、うまいとはとても言えないわなあと思う。 まあ、そうはいうけれども、初めて運転した頃に比べればうまくなったのはたしかであるし、特に、お客様を乗せて運転するというのは、経験のない人とは大きな違いがあると思う。 営業の経験者で私よりよい対応・よい運転のできる人はいるだろうけれども、経験のない人と経験のある人間との違いは大きいと思う。
   千葉県と茨城県で手広く住宅建設業をおこなっている某社の「積算」の職種に応募して不採用にされたことがあり、その際、面接で、「履歴書を見ると、この人、なんで、営業やらないのかな、という感じがする」と会ってくれた人から言われたのだが、その時、面接で会ってくれた私より少し若いくらいの人が「営業の経験のある人とない人で差が出るのは当然のことですから」と言ったのだが、その点について、私もそう思う。
   千葉市中央区鵜の森町 の 新華ハウジング(有)[建設業]・ビルダーズジャパン(株)[不動産業]・ジャムズグローバルスクエア(株)[不明業]で「工事責任者」を自称していたU草A二(30代なかば。当時。男。)が「ぼく、営業やったことないですけど、営業できますから」と何度も何度も口にしていたのだが、なぜ、できるんだ?

   単純なところで、クルマの運転にしても、自分ひとりで乗るのと人を乗せて運転するのとでは相当差があるし、人を乗せて運転するのでも家族や友人を乗せる場合とお客様を乗せて運転する場合では同じではない。 自分がクルマを運転しない人を助手席に乗せて運転すると、「○○さん、あそこ、きれいな花が咲いてますよ」とか、「あそこの家、私、あんな家、好きなんだけど」とか言われることがある。 そう言われても、助手席にいる人はそちらを見ることができても、運転中の人間はクルマの運転のために前後周囲を見なければならないので、隣りの人が見ている景色を見ることができない場合がしばしばある。そういう時に、無視するのも悪いけれども、だからそちらに眼を向けたのでは事故を起こす危険がある。そういう時、どうしたものか。 エアコンを入れたものかどうかも考えるし、中に、エアコンを入れろだの止めろだのと言う人がいて、タクシーでもハイヤーでもないので、そこまで当たり前みたいに要求されると、そういう話はきかないほうがいいかとも思うが、しかし、そういうところで客と喧嘩しても面白くない。又、見込客や契約客にも中にはあつかましい人がいて、こちらの仕事として案内しているものと関係のないところに、「○○に行って」とか言い出す人もいる。 すべて、終わった後、「◇◇さん、申し訳ないんだけど、▽▽まで、送ってもらえないでしょうか。」と頼まれるのなら、特に急ぎの用事がなく、それほど遠い場所でなければ、「いいですよ」と送ってもいいのだけれども、こちらはタクシーではないので、あつかましくも「○○行って」とか言われた場合には、たとえ、時間はあっても、むしろ、そういうものは断った方がいい場合もある・・・が、契約客だったり、見込客だったりした場合、断るにしてもどういう断り方をしたものか、思案のしどころである。 「やったことない」人ができるか? 「やったことない」人はそういう時にどういう対応をしたのだろう。 私は実際にそういうものを経験して、そして、少しずつ、営業能力を蓄えてきたのだ。 経験のある人で私より優秀な人はいるだろうけれども、「やったことない」人間に「ぼく、できますから」と大きな顔をして言われても、「ああ、そうですか」とでも言うしかないだろう。
   U草は若い頃にクルマを暴走して大事故を起こしたことがあるということで、運転ができないのかしないのかで、新華ハウジング・ビルダーズジャパン・ジャムズグローバルスクエアにおいて、クルマの運転をしなかった。そういう人が、なぜ、「営業できる」のか?  まず、営業の仕事に応募しようとすると、住宅建設業の営業にしても、不動産業の営業にしても、職安の求人票でも見ると、「資格」という欄に「普通自動車免許」と書いてあるはずなのだ。 20代の人なら、「今は持っていませんが、早急に取りますから、ぜひ、御社の仕事をやりたいのでお願いします」と言えば、考えてもらえる可能性はあるかもしれないが、基本的には免許のない人が採用されるのは難しいはずだ。 採用されたとして、他の従業員がクルマで動いている仕事をするのに、クルマを使えない人間は大きなハンデがある。 私は、小堀住研に入社した1年目は電車・バスで営業をしたし、不動産業の会社から転職できた人に聞くと、不動産業の会社では、クルマは会社で用意するが1人1台ではなく2人に1台で、もうひとりが使っている時には電車・バスで動いたという人もいた。 そういう経験者なら多少はできるかもしれないが、他の人間がクルマで動いて仕事をしているものを自分は電車・バスで仕事をするというのは、相当のファイトがいる。 「やったことない」人間に「できます」などと軽々しく口にしてもらいたくないものだ。
   小堀住研では新卒入社の人間は入社1年目は電車・バスで仕事をすると会社から指示をしていた。だから、新卒入社1年目の私は、普段は電車・バスで動いたが、クルマがなければ仕事にならない時は、営業課長が課長のクルマに乗せてくれたし、課長が都合がつかない時は、同じ営業所の課長以外の人が乗せてくれた。 新卒入社で入った人は自分も過去にそうしてもらってきているということもあって、自分より後から入った人間にも、親切に乗せてくれたし、中途入社で入っている人もそういう会社なので、新卒入社の人間には親切に乗せてくれた。 しかし、U草のように、新卒入社1年目でもなく、そして、将来にわたって、乗せてもらうことはあっても、自分の方が乗せてあげるということはないという人間に、当たり前のように「乗せてください」と言われた時、1回、2回ならいいとしても、毎度、毎度、それをされた時に、他の営業がいつまでもそれを認めてくれるだろうか? (小堀住研でも、東京支店の目黒区自由が丘展示場にいた時に営業課長になっていたT橋K一郎は、その時、年齢も30代のなかばを過ぎ、課長でありながら運転免許をもっておらず、その為、クルマが必要な時は同じ営業所のヒラの営業に乗せてもらっていたが、それは不自然で、口に出して言わなくても、ヒラの営業担当が契約をとれば課長の成績にもなるのに対し課長が契約をとってもヒラの営業の成績にはならないのになぜ課長の仕事のためにクルマを使わないといけないのかとまわりの従業員は思っていた。又、運転経験がないT橋は営業社員の車両の安全運行に配慮する能力がなかった。) その前に、経営者は、新卒入社1年目の人間が一時的に負担をかけるのは将来に対する投資であるとして、新卒でもない20代でもない人間で一時的にではなく永遠に他の従業員に負担をかけることがわかっている人間をわざわざ雇う必要もないだろう。
   クルマの運転をしない者は、ブレーキの踏みが強いも弱いもないだろう。だから、運転しない者は「営業できます」ということになるかというと、そうではないと思う。


【3】  千葉県八千代市に本社がある建築もやっているが売買の不動産業が中心のT住宅で、私の在籍前半に○見川店の店長をやっていた女性O友さんと一緒に、チラシのポスティングをしにO友さんのクルマに乗って行った時、O友さんが「そこのセブンイレブンにクルマ停めて行きましょ」と言って、店の前に5台分しか駐車場がないコンビニの駐車場にクルマを停めたのにはびっくりした、という話を、[第192回]《クルマで移動する営業の心掛け、建築の住宅・不動産の住宅の営業の常識。 営業と言えない「女性営業」の話 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_2.html の〔3〕 で述べた。
   男にはできない行為だった。
「 泣く子もおばさんには勝てない 」
「 おばさん通れば道理ひっこむ 」
「 そこのけ、そこのけ、おばさん 通る 」
と、昔から言われてきたが、たしかに、泣く子もおばさんには勝てない。ましてや、男なんか勝てるわけない。
   かつて、中国の毛沢東主席は、
≪ すべての反動派はハリコの虎である。 反動派は、見かけは恐ろしいが、実力はたかが知れている。長い眼で見れば、真に強大な力を有するのは人民であって、反動派ではない。
<アメリカの記者アンナ・ルイズ・ストロングとの談話>  ≫
≪ 世界のあらゆる事物がすべて二面性をそなえている。(すなわち対立物の統一の法則)のとおなじように、帝国主義とすべての反動派も二面性をそなえている。かれらは本物の虎であると同時にハリコの虎でもある。・・・・本質的・長期的・戦略的に見るならば、帝国主義とすべての反動派はまさしくハリコの虎と見なさなければならない。・・・・
<中共中央政治局武昌会議における講話> 「アメリカの記者アンナ・ルイス・ストロングとの談話」解題の引用から」 ≫
≪ 強大さを誇るあらゆる反動派は、すべてハリコの虎にすぎない。なぜなら、かれらは人民から離れているからだ。ヒットラーはハリコの虎ではなかったろうか? 打倒されはしなかっただろうか? ツアーも中国の皇帝も日本帝国主義もみなハリコの虎である。かれらはみな打倒されたではないか。 アメリカ帝国主義はまだ打倒されていず、原子爆弾をもっているが、やはりハリコの虎にすぎず、やがて打倒される、とわたしは考えている。
<各国共産党・労働者党モスクワ会議における講話>≫
(『毛沢東語録』和田武司・市川宏訳 1966.12.10.河出書房新社 所収)
と語ったそうである。 しかし、ヒットラーもツアーも中国の皇帝も日本帝国主義もハリコの虎であったかもしれないが、唯一、 “ おばさん帝国主義 ”という帝国主義だけは永遠に不滅であり、天下無敵、怖いものなし、この帝国主義だけは恐ろしい本物の虎であって、原子爆弾も人民義勇軍もまったく歯が立たない。 福島第一原発の事故の後、山下なんとか いうどこかの教授が、「ニコニコしている人のところには放射能は来ません」などととんでもない「風評」を広めようとしたが、ニコニコしてようがプンプンしてようが関係なく放射性物質も放射線も来る。但し、おばさんには放射性物質も放射線も怖がって来ないのではないのか・・・・というと、それはないが、そうとでも思いたくなるくらい、おばさんは強い。 まったく、男なんか勝てるわけがない。

   それで。 私は、ある程度以上の台数を停められる駐車場がある大規模スーパーや大規模ホームセンターの駐車場に、(特に平日に)クルマを停めさせてもらって客宅に行ったことは何度もある。 しかし、店の前に5台分しか駐車スペースがないという個人商店がセブンイレブンと提携してやっているというコンビニの駐車場に、何も買わずに2時間以上も停めてそのまま行ってしまった、ということはしたことはない。 それは、私は「おばさん」ではないので、「おばさん」と同等の根性がない、ということもあるが、それだけではなく、営業の仕事をしてきた者として、この相手にこういう要求はしてよい、ここまで要求してはいけない、この相手にこのくらいさせてもらってもいいだろう、ここまでやってはいけない、ということを常に考えるようになったからだ。
   今となっては20年以上前のこと。 京都市の山科で、「下宿」に住んだことがあった。 「下宿」とはいっても、個人の家の1間に住ませてもらったというのではなく、「下宿」として建てられた建物で、個室があって部屋には鍵もかかるのだが、「アパート」との違いは、入口で靴を脱いであがり、あがっていった先に部屋があって廊下と部屋との間の戸に鍵がかかり、トイレなどは共用というものだった。 おもちゃ屋を営んでいたおばあさんが経営していたのだが、私は、その時、大学を卒業して新卒入社したばかりで、まだ、営業の経験もない時であったが、自営業をやってきたおばあさんに、「自営業をやってきたような方は、サラリーマンの奥さんと違って、女性でも商売のこととかおわかりになるのと違いますか」と話してみたところ、「いいえ、私なんかちっともだめですよ」と言われ、そして、「うちの人は、商売うまかったですけれどもね」と言って亡くなった御主人のことを話されたということがあった。 どこが商売がうまいかというと、相手にまけさせるのがうまかったというのだ。 但し、「まけさせるのがうまかった」というのは、とことん値引きさせるのがうまかったという意味ではない。そうではなく、「この人には、このくらい負けてもらってもいいだろう。」「これ以上は引かせてはいけない。あの人にもこのくらいは利益をとらせてあげないといけない」といったことをよく口にしたというのだ。 その話を聞いた時、私は、商売に慣れた人にはそういうことができるのかと思ったが、「このくらいは負けてもらってもいいだろう」とか「これ以上は引かせてはいけない」とかいう判断というのは、どうすればできるのだろうか、買い手の立場で売り手がどれだけの利益を想定しているのかわかるのだろうか、と思った。 しかし、それから20年以上経った今、私は、自分が買い手・依頼者の立場の時に、自宅のリフォームを頼んだりした時、リフォーム業者相手に、値引きの話もしたし、その際、これ以上は要求しても無理かな、とか、あの人にも利益をとらせてあげないと、とか考えている。 だから、営業の仕事をして、そういったことを考えてきたので、何でも分かるわけではないし、すべていつでも的確な判断をできるわけではないが、実際に、「この人には、このくらい負けてもらってもいいだろう」「これ以上は引かせてはいけない。あの人にもこのくらいは利益をとらせてあげないといけない」といった思考をしている。
  7年ほど前のことだ。 賃貸の不動産業のE社の八千代市の勝田台店にいた時のこと。 昼休みに近所のラーメン屋で食事をした後、細かいお金がなかったので、1万円札を出してお釣りをもらった時、数えると、お釣りの千円札が1枚多かった。 昔、私は、「回ってない寿司屋」というのが嫌いだった。 どこが嫌いかというと、『築地魚河岸三代目』という漫画で、寿司屋をのぞいた客が口にした文句、「寿司屋なんて、高いし、気取ってるし、オヤジはえらそうにしてるし、頑固を自慢にしてるし、まったくろくなもんじゃねえ」と。 私もそんな感じで思っていた。だから、私は「回っている寿司」は好きだが「回ってない寿司」は嫌いだった。 『築地魚河岸三代目』の登場人物で寿司屋の「とりで」さんが、「あんな言い方」と憤慨する魚辰三代目に、「いや、寿司屋のことを、あんな感じで思っておられる方は少なくないんです」と言う場面があったと思う。 それに対して、ラーメンというのは、かつては、庶民の料理で、「高くないし、気取ってもしかたがないし、別にオヤジはえらそうにしてないし、頑固を自慢にしたりしないし」というものだったが、最近のラーメン屋はそうでもなく、1食千円を超える店まで出てきたし、「名店」を気取ったり、「頑固を自慢に」したり、なんで、こいつ、まがりなりにも客に向ってこんなにえらそうにしているんだ、という店が少なくない。 かつての「寿司屋みたい」になってきたようなところがある。 それで、勝田台のその店は、別にえらそうにしていなかったし、頑固を自慢にもしていなかったし、客に行列して待たせることを自慢にするなどということもなかったし、感じ悪いということはなかったのだが、けっこうおいしかったけれども、値段は「1食千円近い」というくらいの店だった。  イタリアに行った時、バールで食事をするのに、座って食べるのと、座らないのとで同じ食べ物でも値段が違うというので違和感を覚えたのだが、日本に帰って日本の飲食店に入り、家族連れだと対面式のテーブルで背もたれのある席に案内し、子どもづれだと子供にどうでもいいような愛想をふりまくのに対して、1人で入ると、席がいっぱい空いていても「おひとり様、カウンターの席にどうぞ」と言って、背もたれのない丸椅子で隣りの席と密接しているような所に行かせて、対面式のテーブルに案内した子供連れには、ゆっくりと食事をさせて、食事後もゆっくりとくつろがせるのに対して、カウンターの背もたれのない丸椅子に座らせた者には、食べ終わるとすぐに出て行けという態度を取る店が多く、そういう店に行くと、たとえ、食事の内容が同じであっても、なんで、背もたれのある椅子に座らせてもらってゆっくりと食事をさせてもらって食後もくつろいで時間を過ごす者と、背もたれのない隣りと密接した丸椅子に座らされて、前の客がこぼしたものがそのまま残っているテーブルで食事させられて、食事が終わればさっさと出て行けという態度を取られる者とが同じ料金なんだ! と、「日本式」の方がよっぽど理不尽だと思うようになった。 ラーメン屋というのは、最近ではかつてと違って、安物料理ではなくなり、ジャンクフードではなくなってきたが、しかし、椅子のつくり、テーブルの作り、食事が終わればさっさと出てちょうだいという雰囲気など、そのあたりは低価格店のものであるにもかかわらず、金額だけ中高価格店並みになっており、そのあたりに納得いかないものを感じることがある。 勝田台の店も、店のつくり、テーブルや椅子は低価格店のものであったが、価格は千円近く(もう一品、サイドメニューを注文すると、千円を超すが、私のポリシーとして、ラーメンというものは高くても千円までのもので、サイドメニューを合わせて千円を超すようなラーメンはラーメンとして邪道である、と考えているので、ラーメンはサイドメニューを合わせても千円を超すようには注文しないことにしている。 千円を超す金額を取って背もたれのない丸椅子に座らせるバカがあるか! とも思っている)する店だった。 それで、話が遠回りしたが、約千円のラーメンを食べさせて一万円札を出した客にお釣りを千円余計に渡したのでは、店としてはただで食わせたのと同じになってしまう。 こういう時に、お釣りの千円札が1枚多いと、「ラッキー」と思ってそのままもらう人もいるようだが、私は、「1枚多いですよ」と言って返した。 これは、営業の仕事をしてきた者としての矜持である。
   相手が提示した金額が高いと思えば、もう少し安くできないの、と交渉するということはある。 しかし、妥当であろうと判断したなら、その金額は払う。 勝田台のそのラーメン屋はその金額が絶対に妥当かというと、椅子やテーブルが貧弱だという点が不服ではあるが、ラーメン自体は悪くなかった。だから、その店は代金をもらう資格はあると私は判断した。代金をもらう資格があると私が判断した店には、その代金を支払うべきである。ゆえに、店が間違えて渡した千円札をそのまま受け取るわけにはいかない。 逆に、代金を受け取る資格がないと思える店もあるが、だからといって代金を払わずに帰るわけにもいかないので、そのかわりに、代金を受け取る資格がないような店には、その後は行かないようにしている。 たとえ、営業経験のない人でも、こういう思考をする人はあるかもしれないけれども、営業経験のある人間の方が、こういった思考をきっちりと徹底してやるのではないかと思う。

   相当に多い台数を停めることができる駐車場を確保している大型スーパーや大型ホームセンターというのは、たいてい、日曜祭日の来場客数を想定して駐車台数を確保して駐車場を作っている。だから、そういう店の駐車場は、平日はすいている場合が多い。ポスティングは日曜祭日にやらなければならないことはない。そういう駐車場に停めさせてもらって、何時間かその近所に行かせてもらっても、その店は実質的に被害を受けることはない。 そして、私は、そうして停めさせてもらった店では、何かひとつ以上、買うようにしている。 又、大型スーパーや大型ホームセンターなら、早かれ遅かれ買う必要のあるものがある場合が多い。 そうしているので、特に駐車場が混んでいない平日に私がクルマを停めさせてもらっても、その店は実質的な被害を受けていないし、停めたということで何か買ってもらえているのだから、利益につながっている。
   それに対して、T住宅のO友さんがやっていることは、駐車場代の搾取、騙し取りであり、その1台を停めれば、もう駐車スペースがないというような時に停めているのであり、営業妨害である。 私が「え? あんな所に停めるんですか」と言っても、「当たり前でしょ。道に停めたんでは、駐車違反で罰金とられるじゃないのよお」とO友さんは言うのだった。 「当たり前」だろうか?
   「値引き交渉」という時に、「ともかく、安くしろ」というのが「値引き交渉」だと思っている人がいるが、そうではないと思う。 そういう「値引き交渉」をする人というのは「しろうと」だと思う。 営業の経験者なら、そうではなく、その商品、そのサービスならどのくらいの価格が妥当かと考え、相手の提示が妥当なものかどうかを考える。高めではないかと思えば、それを指摘して妥当と思える額にさせる。 高めでない場合でも、値引きの交渉をする時はあるが、その場合、「この人にも利益をとらせてあげないといけない」ということも考えて、「どのくらいまで引いてもらっていいか」ということを考えてやるのが、営業の経験者のやることだと思う。
   この基準から考えて、前に5台しか駐車スペースがないコンビニとはいっても個人経営の店で、その1台を停めると駐車できるスペースはゼロになるという状況の時に、「当たり前でしょ」と言って、何も買わずに2時間以上駐車するというのは、「営業のやることではない」と思うのだ。私は。 違うだろうか。
   大学を卒業する時、私はこういう思考がなかった。 営業の仕事を10年以上やって、こういう思考を見につけてきたのだ。 千葉市中央区鵜の森町 の 新華ハウジング(有)[建設業]・ビルダーズジャパン(株)[不動産業]・ジャムズグローバルスクエア(株)[不明業]の自称「工事責任者」のU草 A二(30代なかば。当時。男)が、「ぼく、営業やったことないですけど、営業できますから」と何度も何度も口にしていたのだが、私は営業の仕事をして経験を積んでこういった思考を見につけてきたんだが、U草は経験もなく身につけているというのだろうか。どうやって身につけたのだろうか。

   2011年7月、U草は私に「幕張の工事現場に行くので、クルマで乗せて行ってください」と言い、私は私の個人のクルマにU草を乗せて連れて行った。 U草は「高速道路、使って下さい」と高速道路の使用も要求した。たしかに、幕張の(株)新昭和の下請けで木工事をやっていたツーバイフォー工法の戸建て住宅の工事現場に立ち寄ったが、それは重要目的ではなく、主たる目的は社長の○○川 S二と一緒に海浜幕張で右翼団体の倫理研究所(=倫理法人会)の集会に勤務時間中に出席することだった。 私はその為にU草を私のクルマで高速道路を使って送らされたのだった。 なぜ、U草はそういうことをすることが許されるのだろうか。 要するに、彼は私をバカにしていたということか。バカにされていたのなら、それならこちらにも対応のしようがあるというものだ。
   社長の子分で会社名だけいくつもある新華ハウジング・ビルダーズジャパン・ジャムズグローバルスクエアにおいて、ビルダーズジャパン(株)で取締役になっていたU草が、クルマで乗せていってください、高速道路使ってください、と言って私にクルマで送らせた、その時のガソリン代、その時の高速道路代を、新華ハウジング・ビルダーズジャパン・ジャムズグローバルスクエアは私に支払わない。又、「フィットステーション千葉」を名のっていたのだが、「フィット」の本部である株式会社フィット(http://www.fit-group.jp/ )からも支払いはない。立ち寄った現場の元請会社・(株)新昭和(http://www.shinshowa.co.jp/)からも支払いはない。会社が払わないのなら、私の用事ではなくU草が倫理研究所(=倫理法人会)の集会に出るためのガソリン代・高速道路代なのだから、会社が出すのか出さないのかはU草と会社との間でのものでありU草は私にガソリン代と高速道路代を支払うべきであるが、今もって支払わない。それが「倫理」か? それが倫理研究所の「倫理」か? 鈴虫みたにリンリ、リンリと叫ぶばかりでやることはこういうことか。
   その人にはこのくらいはやってもらっていいだろう、これ以上はさせてはいけない、これ以上は引かせるべきではない・・・といった商売人、ビジネスマン、営業の思考があるならば、当然のことながら、U草が倫理研究所(=倫理法人会)の集会に行くためのガソリン代・高速道路代を私に出させていいものではない、という認識くらいはできるはずだ。U草は「ぼく、営業やったことないですけど、営業できますから」と会社で大きな声で大きな態度で何度も何度も口にしていたのだが、営業できているだろうか? これが「営業できる」人間の態度だろうか? これが「取締役」の態度か? 
   そんなリンリでマンマが食えるか? 
   食えないから倒産したのだろうけれども、そんな「営業できる」人間、あるか?
   在来木造の一条工務店で栃木県の佐野市にいた時のこと。 ある見込客から「このあたりは、繊維産業がさかんだった所なので、大阪の人とはけっこうつきあいがあった土地なんですけれども、大阪の人というのはえらいなあと思いますよ」と言われたことがあった。どこが「えらい」かというと、「大阪の人というのはね。 契約するまでは、買い手なら安くしてもらおうとするし、売り手なら値切られまいとするんですよ。 しかし、いったん、自分がその金額で契約したならば、買い手の場合は何が何でもその金額を払おうとするし、売り手の時には何が何でもその仕事をやろうとするんですよ」という話だった。(このあたりについて、[第70回]《大阪人の倫理と日本人の精神―約束したカネを払わない者は嘲笑の対象~営業と会社の話(16) 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201110article_2.html で述べた。) 新華ハウジングは私にガソリン代・高速道路代を出す約束であったが出さなかった。U草が倫理研究所(=倫理法人会)の集会に行くためのものであったのだから、会社が出さないならU草が私に払うべきものだが、U草は払わない。U草は会社のカネを相当の金額を横領してフィリピン人女性に貢いだことがあるということだが、フィリピーナに貢ぐ意志はあっても自分の用事で使ったガソリン代と高速道路代をたてかえた人間に払う意志はないらしい。そういう男なんだ。 そういう人間が倫理研究所(=倫理法人会)とやらに出入りして、リンリ リンリ と鈴虫みたいに鳴いているんだ。そんな「営業」あるか? そういうのを「営業できる」「営業できます」と言うか?
   私は、そういうのを「営業できる」とは言わないと思うし、そんな「営業」はないと思う。
     (2014.5.23.)



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