賀茂別雷神社[上賀茂神社]3 斎王桜・風流桜・外弊殿・神馬舎。賀茂別雷神社とルルドの俗から聖への移行
[第255回]
【1】 賀茂別雷神社参拝の第3回、いよいよ、御薗橋を渡って、賀茂別雷神社に進みます。
まず、見えてくるのが、「賀茂大社」碑 ↓ です。

賀茂別雷神社(上賀茂神社)境内の地図は、
⇒《上賀茂神社 境内案内》http://www.kamigamojinja.jp/guide/index.html
「国宝」「重要文化財」の場合、建築の場合、個々の建物が指定されるのに対し、「ユネスコ世界遺産」は、個々の建物が指定されるのではなく、又、指定された名称の地域全体というわけでもないようです。
森谷 尅久 他執筆・京都商工会議所 編『改訂版 京都 観光文化検定 公式テキストブック 8版』(2007.10.8. 淡交社)の「京都の観光」「2 京都の観光資源」には、≪ 平安建都1200年記念の年にあたる平成6年(1994年)、「古都京都の文化財」として、京都文化圏(京都市・宇治市・大津市)の中から17件の社寺・城が世界遺産(文化遺産)として登録された。 ≫とあり、その17件とは、
北区
賀茂別雷神社(通称 上賀茂神社)
鹿苑寺(通称 金閣寺)
左京区
賀茂御祖神社(通称 下鴨神社)
慈照寺(通称 銀閣寺)
右京区
仁和寺
高山寺
天龍寺
龍安寺
東山区
清水寺
中京区
二条城
下京区
本願寺(通称 西本願寺)
西京区
西芳寺
南区
教王護国寺(通称 東寺)
伏見区
醍醐寺
宇治市
平等院
宇治上神社
大津市
延暦寺
と出ている。
もっとも、こうやって見ると、なるほど、東寺なんかは選ばれてもっともだわなあとか思ったりもしますが、一方で、西本願寺が入って東本願寺が入らないのはなぜだろうか・・とか、なぜ、広隆寺は入ってないのかとか、なぜ、北野天満宮は入ってないのかとか、あるいは、「恋に疲れた女がひとり♪」の栂尾高山寺が入っているのはよしとしてなんで大原三千院は入らないの? とか、「恋に疲れた女がひとり♪」の栂尾高山寺は入っていて、嵐山の天龍寺は入っていて、それでいて嵐山にあって「恋に疲れた女がひとり♪」の嵐山 大覚寺が入らないのはなぜ? とか、ブルーノ=タウトさんが酷評した日光東照宮が「日光の社寺」として世界遺産に入っていてなんでブルーノ=タウトさんが賞賛した桂離宮は入らないの? とか、「なんでやねん」というのを言いだすと議論は白熱するかもしれないけれども、いつになっても結論はたぶんでないと思うので、「よくわからんけど、仮にそうなったみたいや」ということですますしかないかもしれません。
※「恋に疲れた女がひとり♪」を知らない方は、
⇒《YouTube-女ひとり by デューク・エイセス.avi 》http://www.youtube.com/watch?v=ZMFllRWuxfE7
「きょうと~、おおはらさんぜんい~ん♪ 恋につかれた女がひとり・・」のデューク=エイセスの『女ひとり』の歌を知らない人なんてないと思っていたのですが、少し前に20代の人と話をしていると、話が通じなかったので、歳を感じてしまいました。 今、聴くと、デューク=エイセスというのはあんまりうまくないようにも思いますが、でも、いい歌なので、知らない人が増えているというのは、なんか悲しいですね。 この歌の影響で大原に行きたいという女性が増えたようですが、「恋につかれた女」でなくても、男にとっても、また、恋に疲れたのでなくても、大原はいいところです。
ちなみに、『筑波山麓男性合唱団』↓も知らない人が増えているのでしょうか・・・。なんか、寂しい思いがします。『おさななじみ』にでてくる、「しょうがっこう~の運動会、き~みはいっとう、ぼくはびり、泣きたい気持でゴールイン、そのままうちまでかけたぁ~け♪」というあたりは、むしろ、ある程度、人生を生きてきてからの方が、その気持がわかるところがあるかもしれません。
《YouTube- 筑波山麓合唱団 》http://www.youtube.com/watch?v=PPLWS9bWSG0
《YouTube-デューク・エイセス おさななじみ 2013 》http://www.youtube.com/watch?v=74g93yTzvuo
『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』(2009.5.19. 集英社)の「下鴨神社 境内地図」を見ると、賀茂御祖神社(下鴨神社)には、「世界文化遺産」碑 と 「史跡賀茂御祖神社境内」碑 が並んで立っているようです。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)にあるのは、「賀茂大社」という石碑で、「世界文化遺産」の碑ではありませんが、賀茂別雷神社もユネスコ世界文化遺産の「古都京都の文化財」の17件のうちの1件です。
「大社」とはなんぞや、と気になりますが、『これだけは知っておきたい神社入門』(2007.7.27. 洋泉社)の《「神社」「大社」「神宮」の違いは?》には、
≪ 神社の名称の最後につく「神社」や「大社」という称号を社号という。これには「神宮(じんぐう)」「大神宮」「宮(ぐう)」「大社」「神社」「社」の六種類がある。「明神」「権現」といった社号もかつては用いられていたが、神仏習合的な言葉なので現在では通称として用いられているだけである。
これらの社号は適当につけられているわけではなく、その神社の権威や歴史、祭神の性質などに基づいていることが多い。たとえば、「神宮」であるが、正式には「神宮」と呼べるのは伊勢神宮だけである。・・・・・
では、ほかの神社は「神宮号」を僭称しているのかといえば、けっしてそんなことはない。石上神宮(いそのかみじんぐう)は・・・『日本書紀』においても「神宮」と記されている。『日本書紀』でも「神宮」と記されているが、なぜか平安時代になると「石上神社」と呼ばれるようになってしまった。
鹿島神宮と香取神宮の呼称も古い。・・・・
どのような基準で「神宮」という称号がつけられたのか判然としないが、皇室とゆかりの深い由緒ある神社にだけ許されたものであるらしい。熱田神宮・宇佐神宮・気比(けひ)神宮などが古く、・・・・
「宮」も格式は高い。あまり数は多くないが、香椎(かしい)宮・筥崎(はこざき)宮・天満宮・東照宮などがある。これも特別の由緒を認められた神社にのみ許されたものである。
「大神宮」は伊勢神宮の出張期間ともいうべき東京大神宮の社号であり、特例というべきだろう。住吉大社が「大神宮」を称していた記録があるが、一般的ではなかった。
「大社」は地域の信仰の中核をなした大神社で、出雲大社(古くは杵築大社〔きつきのおおやしろ〕といった)・春日大社・松尾(まつのお)大社・日吉大社・熊野大社・多賀大社・諏訪大社などがある。 ≫
とでている。 まあ、要するに、そんじょそこらの神社とは違いまっせ、たいそうな神社でっせ、ここは・・ということ・・かな・・。
『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』(2004.淡交社)所収の所 勲(ところ いさお)「賀茂大社と祭礼の来歴」には、≪ここに“ 賀茂大社 ”というのは、京都の洛北にある賀茂別雷神社(上賀茂神社=上社)と賀茂御祖神社(下鴨神社=下社)の併称にほかならない。 類似の例は、そもそも伊勢の神宮が皇大神宮(こうたいじんぐう)(内宮)と豊受大神宮(とようけだいじんぐう)(外宮)から成っており、けっして珍しいことではない。 また、大社というのは、全国に数多くある賀茂社・鴨社の本宗(ほんそう)(いわば本家)を意味する。・・≫と出ている。 どうも、奈良県御所市の高鴨神社は上賀茂神社も含めて賀茂社・鴨社の総本家は高鴨神社だと主張しているのに対して、京都の上賀茂神社では自分の所が賀茂社の本家だと主張したいように見受けられる。 かつて、京都の東寺と高野山とで、いずれもがこちらが真言宗の本山で向こうは末寺だと主張したとかいう話があるが、そんなもんか・・・・? (かつて、ウィリアム=メレル=ヴォーリズの近江兄弟社はメンソレータムを販売していて、私も子供の頃、よく使ったものだが、そのうち、近江兄弟社はメンソレータムの販売をやめ、メンソレータムはロート製薬が販売するようになった。 さらに、近江兄弟社はメンタームという似た商品を販売するようになった。 今、薬屋に行くと、メンソレータムとメンタームは並んで置かれていることが多いが、いったい、どっちが本家なんだ、という気になるが、そんなもんか?・・・・・なんて言ったら怒られるか・・?)
所 勲 氏は、賀茂社の上社・下社と伊勢神宮の内宮・外宮の関係を同様のもののように述べているが、それは違うように思う。 この点については後に述べる。 『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』(2004.淡交社)は参考になる記事が多いが、しかし、そこで述べている著者には、卑俗で正確さが疑わしい話を追認するようなチョーチン的な記述が多いように思う。
なお、この↑の写真を撮る時、右に写っているバスの運転手さん、私が撮り終わるまで発進を待ってくれたみたいです。 どうも、ありがとう。
【2】 「斎王桜」と「御所桜」
「賀茂大社」碑を過ぎて、一の鳥居をくぐり、すぐ右に見えてくるのが、「斎王(さいおう)桜」↓
↑ ≪当神社にご奉仕された斎王が愛でられた桜≫と説明書きがある。[撮影は4月20日です。]
5月15日の葵祭(あおいまつり)では、現在では京都市民の女性から選ばれた斎王代(さいおうだい)が輿にのって御所から賀茂御祖神社(下鴨神社)まで進み、賀茂御祖神社では輿から降りて歩んで社殿に進むそうで、『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』(集英社)の「特集 葵祭」には
≪華やかな行列が繰り出されたのは、9世紀の嵯峨天皇の皇女・有智子(うちこ)内親王が、賀茂の神に仕える斎院〔さいいん〕(斎王〔さいおう〕)となってからだ。 斎院の制はその後400年続くが、未婚の皇女または女王が、占いで吉凶をみる卜定(ぼくじょう)で選ばれた。賀茂祭は勅祭となり、斎王が賀茂社に向う行列は、皇后などが外出する行啓に準じる厳かなものであった。 ・・・≫ ≪ 斎王代が中心とした女人列が加わったのは、1956年(昭和31)。 斎王代(さいおうだい)は斎王の代役を意味し、民間から選ばれる。・・・・ ≫と出ている。
その奥に「御所桜」が植わっているがこちらはすでに葉桜になっていた。↓
日本気象協会の《桜の開花情報》http://www.tenki.jp/sakura/ では、4月中旬において、関東地方では「満開」の所はすでになくなっていたのに対し、関西では、京都の醍醐寺、上賀茂神社(賀茂別雷神社)、大阪府箕面市の勝尾寺などが「満開」で残っていた。 勝尾寺(http://www.katsuo-ji-temple.or.jp/ )は、大阪府でも北の山手にあって、大阪市内よりも幾分気温が低めと言われる箕面市でも、住宅地になっている地域より北の山をひとつ越えた谷あいにあるので、大阪府でも気温が低めの場所だからで、京都市は盆地で、盆地というのは一般に夏は暑くて冬は寒い傾向があり、この時期は寒めの方の傾向がでていて、かつ、上賀茂神社のあたりは「北山」と言われる地域で、京都でも気温が低めの地域であるため、だから、賀茂川沿いの「半木(なからぎ)の道」の桜の花も咲いていたし、御薗橋の西あたりの「御土居」のところとかその周囲でも桜の花が咲いている所があり、そして、この「斎王桜」も少し葉が見え始めているとはいえ咲いている・・・のかな・・・と思ったのです。 ところが、その隣りに植わっている「御所桜」の方は、完全に「葉桜」なのです。 これは、どういうことだろうか・・・・。
説明書きを見ると、いずれも「枝垂れ桜」なのですが、それでも、桜の種類が違うのでしょうか。それとも、「斎王桜」の方は、長く花が咲いているように何か工夫というのか細工というのかをしているのでしょうか・・。
【3】 「外弊殿(御所屋)」
「御所桜」の奥にあるのが↓
↑ 「外弊殿(御所屋)」 重要文化財
その奥に、「風流桜」↓
↑ ≪葵祭の時、「風流傘・花傘」がこの桜を目印に並べられる≫と説明書きがある。
【4】 賀茂別雷神社(かも わけ いかづち じんじゃ)(上賀茂神社)でいただいた由緒書きの「神話」のところには、
≪ 賀茂神話によると、太古の昔山城国(現在の京都)に移り住んだ賀茂一族の姫・賀茂玉依比売命(かもたまよりひめのみこと)が川で身を清めていると、上流より天降りし丹塗り矢が流れて来た。その矢を持ち帰った賀茂玉依比売が床に祀り休まれたところ、御神霊の力を享け御子を授かった。
御子が元服したとき、祖父である一族の長・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が多くの神々を招き祝宴を催し、その席で「汝の父と思う神に盃を捧げよ」と申され、盃を渡したところ、御子は「我が父は天津神なり」と答えられ、雷鳴と共に、そのまま天に昇られたと記されており、再び会いたいと乞い願っていた賀茂玉依比売の夢枕にある夜、御子が顕れ「吾れに逢はんとには、馬に鈴を掛けて走らせ、葵楓(あおいかつら)の蘰(かづら)を造り、厳しく飾りて吾を待たば来む」との神託があり、その言葉に従い神迎えの祭をしたところ天より神として御降臨されたと伝わる。≫
と書かれている。 もちろん、あくまで「神話」であるが、このあたりの神話が葵とつながりがあり、そして、こういうお話がある神社だけあって、馬とのつながりが大きく、一の鳥居を入って右に「斎王桜」「御所桜」が植わっている所の左側は乗馬のコースのようになっていて、「馬出の桜」「鞭打ちの桜」、さらに「勝負の楓」が植わっている。
『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』(集英社)によると、5月5日には「競馬会(くらべうまえ)神事」がおこなわるそうで、≪宮中武徳殿の5月5日の節会に行われていた競馬会が、1093年(寛治7)に上賀茂神社へうつされたことに始まるという神事。≫だそうだ。 ≪上賀茂神社は乗馬発祥の地とされ、競馬の守護神として信仰されるなど、馬との関係は深い。≫らしい。 訪問時にも、ここを馬に乗って走っている人がいたが、「競馬会(くらべうまえ)神事」では≪機種を乗尻(のりじり)というが、賀茂県主(あがたぬし)同族会のメンバーに限定されており、神職も騎乗することはできない。≫ということは、そこで馬に乗っていた人たちも「賀茂県主同族会のメンバー」の人たちだったのだろうか。
もっとも、江戸時代以前においては、日本の馬は↑のような西洋馬ではなくもっと小ぶりな体型の馬であったはずで、上賀茂神社は「古式にのっとり」「平安の昔からの伝統」とかをおこなっているふりをしているものの、実際にはその時代にここに写っているような西洋馬は日本にいなかったはずで、このような馬での競馬(くらべうま)は、比較的、最近、始めた行事でしょう。
司馬遼太郎の『国盗り物語 第三巻(織田信長 前編)』(1971.新潮文庫)には、
≪ ・・(斎藤義竜が)六尺五寸、三十貫の巨体で馬にのると、あぶみから足をはずせば、足が地につくほどであった。
家中は蔭では、
「六尺五寸様」
と、よんでいた。口のわるい武儀郡(むぎのこおり)あたりの出身の連中は、
「六尺五寸様が御馬にまたがられると、足が六本におなりにあそばす」
と、いった。跨りながら、長い脚で地を漕いでゆく、という意味である。この当時の馬は三百数十年後に輸入された西洋馬からくらべると、ひどく小さい驢馬のやや大きい程度でしかなかった。 ・・・≫ という文章がある。
《YouTube-西遊記 エンディング》http://www.youtube.com/watch?v=9XsdE6-mwXs の画面を見ると、中央アジアが舞台であるそこに映っている馬は、現在の日本の競馬などに登場する西洋馬ではなく、もっと小ぶりのアジアの馬である。
司馬遼太郎やテレビドラマ『西遊記』の作成者はそのあたりを理解していたのに対し、上賀茂神社の神職・運営者は理解せず、間違った認識のもとでの行事をおこなっているようです。
(ゴダイゴの「ガンダーラ」「モンキーマジック」の歌で知られるテレビドラマ『西遊記』のエンディングを見ると、小型のアジアの馬が登場しているが、『国盗り物語』を読むと司馬遼太郎は斎藤道三・斎藤義竜の時代の馬は現代の西洋馬ではなくもっと小型のアジアの馬だと認識しているにもかかわらず、NHKの大河ドラマの『国盗り物語』に登場する馬は西洋馬だったのは、小型のアジアの馬を用意するのが難しかったからというよりもNHKの大河ドラマの作者にそのあたりを考える頭がなかったという方でしょう。
※NHK『国盗り物語』は⇒《YouTube-国盗り物語のテーマ 》http://www.youtube.com/watch?v=CgbVhpXdIAM
NHKの大河ドラマを喜んでいるおっさんというのは、実際と違う話を喜んでいるのです。 )
その奥に「神馬舎」↓がある。 私が子供の頃、今となっては45年ほど前、大阪市天王寺区の四天王寺に行った時、馬がいて、母に、「なんで、馬がいるの」ときいたものの、母も「なんで?」ときかれても的確に答えることはできなかったということがあった。 最近、四天王寺に行っても、馬の像はあるが、実際の生きた動物の馬はいない。 実際の所、寺社も馬を飼って世話をするのは大変なのだろう。 しかし、賀茂別雷神社では、馬と関わりの深い神社だけあって、今も、「神馬舎」には本物の白馬がいるのだ。 ↓
『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』(集英社)の「上賀茂神社 祭りと神事」に、「1月7日 白馬奏覧神事」があり、
≪ 天皇が庭に曳き出された白馬を見て、群臣に褒美の馳走をふるまった「白馬(あおうま)の節会(せちえ)」が元になった神事。 この日に白馬を見ると年中の邪気を遠ざけることができるという、中国の故事による。 日本では当初は青馬で、のちに白馬に変わった。
神も白馬をご覧になると喜ぶという趣旨で行われているもので、・・・・≫と出ている。 だから、この神馬舎にいる馬は白馬なのだろうか。
もっとも、最近の馬は、一般に、江戸時代の終わりから明治にかけて入ってきた西洋馬で、かつての、賀茂別雷神社の祭神が馬に何をどうして・・と夢枕で語ったというお話の馬は、西洋馬よりもひとまわり小さい馬のはずで、今の西洋馬とは違うはずであるけれども・・。
【5】 そして、とうとう、二の鳥居に来ました。↓ いよいよ、二の鳥居から中に入ります。
賀茂別雷神社は、
一の鳥居から内側、
二の鳥居から内側、
楼門から内側、 そして、
「西局‐中門‐東局」より内側
と徐々に「神聖度」とでもいうのでしょうか、いかにも神社の「神域」といった雰囲気が増していきます。 住宅でも門から玄関へのアプローチをうまくとることで「唐突感」を持たせず、宅内へ至る意識を高める工夫をしますが、賀茂別雷神社はそれが見事になされています。
フランスのピレネー州のカトリックの聖地・ルールドゥに行った時、最初、バスでルールドゥの市街に入った時、いかにも観光地ですよという感じの俗っぽさを感じて、なんか、いや~な感じがしたのですが、バスを降りてホテルに寄った後、ルールドゥの聖地に立ち入ると、そこはホテルやレストラン・土産物屋などの街とは別世界。まさしく、祈りの場。 マリア像の前に跪く人があり、ゴルゴタの丘にイエスが十字架をかつぎながら昇ったという場面、「ゴルゴタの丘」を模した山では、わざわざ、靴を脱いではだしになって山を登る人があり、至るところで礼拝がおこなわれており、そして、夜になると聖歌を歌いながら蝋燭を持ってねり歩く行列が毎夜おこなわれる。 聖域から外が俗っぽいのは、むしろ、聖域が極めて神聖であるからこそ、その外界の宿泊したり食事をとったりする場所は必要以上に神聖さを出さない環境になっていると思えました。
ルールドゥにせよ、賀茂別雷神社にせよ、外から内に入るに従い神聖さが変わる造りは、意図的に造られたものなのか、年月とともに自然にそうなっていったものなのか。 両方の要素があるのか。 いずれにせよ、見事なものと思います。
[掲載写真の撮影日は4月20日です。ブログ公開日においては桜の花はもう散っているでしょうけれども、来年以降も、同日くらいまでは、このくらいの花を見れそうです。]
次回、いよいよ、「二の鳥居」から中に入ります。 ぜひご覧くださいませ。
☆ 賀茂別雷神社[上賀茂神社]参拝 は9部作になりました。
1.楼門・透廊・棚尾社・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_1.html
2.福音ルーテル賀茂川教会・賀茂川・御土居・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_2.html
4.細殿・橋殿・片岡橋・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_4.html
5.弊殿・「特別拝観」・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_5.html
6.奈良神社・北神饌所・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_6.html
7.檜皮葺・大田神社・魯山人生誕地・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_7.html
8.深泥池・京都コンサートホール、摂社の構成・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_8.html
9.流造と切妻、不動産業の神「迦毛の大神」・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_9.html
もご覧くださいませ。
(2014.5.5.)
【1】 賀茂別雷神社参拝の第3回、いよいよ、御薗橋を渡って、賀茂別雷神社に進みます。
まず、見えてくるのが、「賀茂大社」碑 ↓ です。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)境内の地図は、
⇒《上賀茂神社 境内案内》http://www.kamigamojinja.jp/guide/index.html
「国宝」「重要文化財」の場合、建築の場合、個々の建物が指定されるのに対し、「ユネスコ世界遺産」は、個々の建物が指定されるのではなく、又、指定された名称の地域全体というわけでもないようです。
森谷 尅久 他執筆・京都商工会議所 編『改訂版 京都 観光文化検定 公式テキストブック 8版』(2007.10.8. 淡交社)の「京都の観光」「2 京都の観光資源」には、≪ 平安建都1200年記念の年にあたる平成6年(1994年)、「古都京都の文化財」として、京都文化圏(京都市・宇治市・大津市)の中から17件の社寺・城が世界遺産(文化遺産)として登録された。 ≫とあり、その17件とは、
北区
賀茂別雷神社(通称 上賀茂神社)
鹿苑寺(通称 金閣寺)
左京区
賀茂御祖神社(通称 下鴨神社)
慈照寺(通称 銀閣寺)
右京区
仁和寺
高山寺
天龍寺
龍安寺
東山区
清水寺
中京区
二条城
下京区
本願寺(通称 西本願寺)
西京区
西芳寺
南区
教王護国寺(通称 東寺)
伏見区
醍醐寺
宇治市
平等院
宇治上神社
大津市
延暦寺
と出ている。
もっとも、こうやって見ると、なるほど、東寺なんかは選ばれてもっともだわなあとか思ったりもしますが、一方で、西本願寺が入って東本願寺が入らないのはなぜだろうか・・とか、なぜ、広隆寺は入ってないのかとか、なぜ、北野天満宮は入ってないのかとか、あるいは、「恋に疲れた女がひとり♪」の栂尾高山寺が入っているのはよしとしてなんで大原三千院は入らないの? とか、「恋に疲れた女がひとり♪」の栂尾高山寺は入っていて、嵐山の天龍寺は入っていて、それでいて嵐山にあって「恋に疲れた女がひとり♪」の嵐山 大覚寺が入らないのはなぜ? とか、ブルーノ=タウトさんが酷評した日光東照宮が「日光の社寺」として世界遺産に入っていてなんでブルーノ=タウトさんが賞賛した桂離宮は入らないの? とか、「なんでやねん」というのを言いだすと議論は白熱するかもしれないけれども、いつになっても結論はたぶんでないと思うので、「よくわからんけど、仮にそうなったみたいや」ということですますしかないかもしれません。
※「恋に疲れた女がひとり♪」を知らない方は、
⇒《YouTube-女ひとり by デューク・エイセス.avi 》http://www.youtube.com/watch?v=ZMFllRWuxfE7
「きょうと~、おおはらさんぜんい~ん♪ 恋につかれた女がひとり・・」のデューク=エイセスの『女ひとり』の歌を知らない人なんてないと思っていたのですが、少し前に20代の人と話をしていると、話が通じなかったので、歳を感じてしまいました。 今、聴くと、デューク=エイセスというのはあんまりうまくないようにも思いますが、でも、いい歌なので、知らない人が増えているというのは、なんか悲しいですね。 この歌の影響で大原に行きたいという女性が増えたようですが、「恋につかれた女」でなくても、男にとっても、また、恋に疲れたのでなくても、大原はいいところです。
ちなみに、『筑波山麓男性合唱団』↓も知らない人が増えているのでしょうか・・・。なんか、寂しい思いがします。『おさななじみ』にでてくる、「しょうがっこう~の運動会、き~みはいっとう、ぼくはびり、泣きたい気持でゴールイン、そのままうちまでかけたぁ~け♪」というあたりは、むしろ、ある程度、人生を生きてきてからの方が、その気持がわかるところがあるかもしれません。
《YouTube- 筑波山麓合唱団 》http://www.youtube.com/watch?v=PPLWS9bWSG0
《YouTube-デューク・エイセス おさななじみ 2013 》http://www.youtube.com/watch?v=74g93yTzvuo
『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』(2009.5.19. 集英社)の「下鴨神社 境内地図」を見ると、賀茂御祖神社(下鴨神社)には、「世界文化遺産」碑 と 「史跡賀茂御祖神社境内」碑 が並んで立っているようです。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)にあるのは、「賀茂大社」という石碑で、「世界文化遺産」の碑ではありませんが、賀茂別雷神社もユネスコ世界文化遺産の「古都京都の文化財」の17件のうちの1件です。
「大社」とはなんぞや、と気になりますが、『これだけは知っておきたい神社入門』(2007.7.27. 洋泉社)の《「神社」「大社」「神宮」の違いは?》には、
≪ 神社の名称の最後につく「神社」や「大社」という称号を社号という。これには「神宮(じんぐう)」「大神宮」「宮(ぐう)」「大社」「神社」「社」の六種類がある。「明神」「権現」といった社号もかつては用いられていたが、神仏習合的な言葉なので現在では通称として用いられているだけである。
これらの社号は適当につけられているわけではなく、その神社の権威や歴史、祭神の性質などに基づいていることが多い。たとえば、「神宮」であるが、正式には「神宮」と呼べるのは伊勢神宮だけである。・・・・・
では、ほかの神社は「神宮号」を僭称しているのかといえば、けっしてそんなことはない。石上神宮(いそのかみじんぐう)は・・・『日本書紀』においても「神宮」と記されている。『日本書紀』でも「神宮」と記されているが、なぜか平安時代になると「石上神社」と呼ばれるようになってしまった。
鹿島神宮と香取神宮の呼称も古い。・・・・
どのような基準で「神宮」という称号がつけられたのか判然としないが、皇室とゆかりの深い由緒ある神社にだけ許されたものであるらしい。熱田神宮・宇佐神宮・気比(けひ)神宮などが古く、・・・・
「宮」も格式は高い。あまり数は多くないが、香椎(かしい)宮・筥崎(はこざき)宮・天満宮・東照宮などがある。これも特別の由緒を認められた神社にのみ許されたものである。
「大神宮」は伊勢神宮の出張期間ともいうべき東京大神宮の社号であり、特例というべきだろう。住吉大社が「大神宮」を称していた記録があるが、一般的ではなかった。
「大社」は地域の信仰の中核をなした大神社で、出雲大社(古くは杵築大社〔きつきのおおやしろ〕といった)・春日大社・松尾(まつのお)大社・日吉大社・熊野大社・多賀大社・諏訪大社などがある。 ≫
とでている。 まあ、要するに、そんじょそこらの神社とは違いまっせ、たいそうな神社でっせ、ここは・・ということ・・かな・・。
『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』(2004.淡交社)所収の所 勲(ところ いさお)「賀茂大社と祭礼の来歴」には、≪ここに“ 賀茂大社 ”というのは、京都の洛北にある賀茂別雷神社(上賀茂神社=上社)と賀茂御祖神社(下鴨神社=下社)の併称にほかならない。 類似の例は、そもそも伊勢の神宮が皇大神宮(こうたいじんぐう)(内宮)と豊受大神宮(とようけだいじんぐう)(外宮)から成っており、けっして珍しいことではない。 また、大社というのは、全国に数多くある賀茂社・鴨社の本宗(ほんそう)(いわば本家)を意味する。・・≫と出ている。 どうも、奈良県御所市の高鴨神社は上賀茂神社も含めて賀茂社・鴨社の総本家は高鴨神社だと主張しているのに対して、京都の上賀茂神社では自分の所が賀茂社の本家だと主張したいように見受けられる。 かつて、京都の東寺と高野山とで、いずれもがこちらが真言宗の本山で向こうは末寺だと主張したとかいう話があるが、そんなもんか・・・・? (かつて、ウィリアム=メレル=ヴォーリズの近江兄弟社はメンソレータムを販売していて、私も子供の頃、よく使ったものだが、そのうち、近江兄弟社はメンソレータムの販売をやめ、メンソレータムはロート製薬が販売するようになった。 さらに、近江兄弟社はメンタームという似た商品を販売するようになった。 今、薬屋に行くと、メンソレータムとメンタームは並んで置かれていることが多いが、いったい、どっちが本家なんだ、という気になるが、そんなもんか?・・・・・なんて言ったら怒られるか・・?)
所 勲 氏は、賀茂社の上社・下社と伊勢神宮の内宮・外宮の関係を同様のもののように述べているが、それは違うように思う。 この点については後に述べる。 『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』(2004.淡交社)は参考になる記事が多いが、しかし、そこで述べている著者には、卑俗で正確さが疑わしい話を追認するようなチョーチン的な記述が多いように思う。
なお、この↑の写真を撮る時、右に写っているバスの運転手さん、私が撮り終わるまで発進を待ってくれたみたいです。 どうも、ありがとう。
【2】 「斎王桜」と「御所桜」
「賀茂大社」碑を過ぎて、一の鳥居をくぐり、すぐ右に見えてくるのが、「斎王(さいおう)桜」↓
↑ ≪当神社にご奉仕された斎王が愛でられた桜≫と説明書きがある。[撮影は4月20日です。]
5月15日の葵祭(あおいまつり)では、現在では京都市民の女性から選ばれた斎王代(さいおうだい)が輿にのって御所から賀茂御祖神社(下鴨神社)まで進み、賀茂御祖神社では輿から降りて歩んで社殿に進むそうで、『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』(集英社)の「特集 葵祭」には
≪華やかな行列が繰り出されたのは、9世紀の嵯峨天皇の皇女・有智子(うちこ)内親王が、賀茂の神に仕える斎院〔さいいん〕(斎王〔さいおう〕)となってからだ。 斎院の制はその後400年続くが、未婚の皇女または女王が、占いで吉凶をみる卜定(ぼくじょう)で選ばれた。賀茂祭は勅祭となり、斎王が賀茂社に向う行列は、皇后などが外出する行啓に準じる厳かなものであった。 ・・・≫ ≪ 斎王代が中心とした女人列が加わったのは、1956年(昭和31)。 斎王代(さいおうだい)は斎王の代役を意味し、民間から選ばれる。・・・・ ≫と出ている。
その奥に「御所桜」が植わっているがこちらはすでに葉桜になっていた。↓
日本気象協会の《桜の開花情報》http://www.tenki.jp/sakura/ では、4月中旬において、関東地方では「満開」の所はすでになくなっていたのに対し、関西では、京都の醍醐寺、上賀茂神社(賀茂別雷神社)、大阪府箕面市の勝尾寺などが「満開」で残っていた。 勝尾寺(http://www.katsuo-ji-temple.or.jp/ )は、大阪府でも北の山手にあって、大阪市内よりも幾分気温が低めと言われる箕面市でも、住宅地になっている地域より北の山をひとつ越えた谷あいにあるので、大阪府でも気温が低めの場所だからで、京都市は盆地で、盆地というのは一般に夏は暑くて冬は寒い傾向があり、この時期は寒めの方の傾向がでていて、かつ、上賀茂神社のあたりは「北山」と言われる地域で、京都でも気温が低めの地域であるため、だから、賀茂川沿いの「半木(なからぎ)の道」の桜の花も咲いていたし、御薗橋の西あたりの「御土居」のところとかその周囲でも桜の花が咲いている所があり、そして、この「斎王桜」も少し葉が見え始めているとはいえ咲いている・・・のかな・・・と思ったのです。 ところが、その隣りに植わっている「御所桜」の方は、完全に「葉桜」なのです。 これは、どういうことだろうか・・・・。
説明書きを見ると、いずれも「枝垂れ桜」なのですが、それでも、桜の種類が違うのでしょうか。それとも、「斎王桜」の方は、長く花が咲いているように何か工夫というのか細工というのかをしているのでしょうか・・。
【3】 「外弊殿(御所屋)」
「御所桜」の奥にあるのが↓
↑ 「外弊殿(御所屋)」 重要文化財
その奥に、「風流桜」↓
↑ ≪葵祭の時、「風流傘・花傘」がこの桜を目印に並べられる≫と説明書きがある。
【4】 賀茂別雷神社(かも わけ いかづち じんじゃ)(上賀茂神社)でいただいた由緒書きの「神話」のところには、
≪ 賀茂神話によると、太古の昔山城国(現在の京都)に移り住んだ賀茂一族の姫・賀茂玉依比売命(かもたまよりひめのみこと)が川で身を清めていると、上流より天降りし丹塗り矢が流れて来た。その矢を持ち帰った賀茂玉依比売が床に祀り休まれたところ、御神霊の力を享け御子を授かった。
御子が元服したとき、祖父である一族の長・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が多くの神々を招き祝宴を催し、その席で「汝の父と思う神に盃を捧げよ」と申され、盃を渡したところ、御子は「我が父は天津神なり」と答えられ、雷鳴と共に、そのまま天に昇られたと記されており、再び会いたいと乞い願っていた賀茂玉依比売の夢枕にある夜、御子が顕れ「吾れに逢はんとには、馬に鈴を掛けて走らせ、葵楓(あおいかつら)の蘰(かづら)を造り、厳しく飾りて吾を待たば来む」との神託があり、その言葉に従い神迎えの祭をしたところ天より神として御降臨されたと伝わる。≫
と書かれている。 もちろん、あくまで「神話」であるが、このあたりの神話が葵とつながりがあり、そして、こういうお話がある神社だけあって、馬とのつながりが大きく、一の鳥居を入って右に「斎王桜」「御所桜」が植わっている所の左側は乗馬のコースのようになっていて、「馬出の桜」「鞭打ちの桜」、さらに「勝負の楓」が植わっている。
『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』(集英社)によると、5月5日には「競馬会(くらべうまえ)神事」がおこなわるそうで、≪宮中武徳殿の5月5日の節会に行われていた競馬会が、1093年(寛治7)に上賀茂神社へうつされたことに始まるという神事。≫だそうだ。 ≪上賀茂神社は乗馬発祥の地とされ、競馬の守護神として信仰されるなど、馬との関係は深い。≫らしい。 訪問時にも、ここを馬に乗って走っている人がいたが、「競馬会(くらべうまえ)神事」では≪機種を乗尻(のりじり)というが、賀茂県主(あがたぬし)同族会のメンバーに限定されており、神職も騎乗することはできない。≫ということは、そこで馬に乗っていた人たちも「賀茂県主同族会のメンバー」の人たちだったのだろうか。
もっとも、江戸時代以前においては、日本の馬は↑のような西洋馬ではなくもっと小ぶりな体型の馬であったはずで、上賀茂神社は「古式にのっとり」「平安の昔からの伝統」とかをおこなっているふりをしているものの、実際にはその時代にここに写っているような西洋馬は日本にいなかったはずで、このような馬での競馬(くらべうま)は、比較的、最近、始めた行事でしょう。
司馬遼太郎の『国盗り物語 第三巻(織田信長 前編)』(1971.新潮文庫)には、
≪ ・・(斎藤義竜が)六尺五寸、三十貫の巨体で馬にのると、あぶみから足をはずせば、足が地につくほどであった。
家中は蔭では、
「六尺五寸様」
と、よんでいた。口のわるい武儀郡(むぎのこおり)あたりの出身の連中は、
「六尺五寸様が御馬にまたがられると、足が六本におなりにあそばす」
と、いった。跨りながら、長い脚で地を漕いでゆく、という意味である。この当時の馬は三百数十年後に輸入された西洋馬からくらべると、ひどく小さい驢馬のやや大きい程度でしかなかった。 ・・・≫ という文章がある。
《YouTube-西遊記 エンディング》http://www.youtube.com/watch?v=9XsdE6-mwXs の画面を見ると、中央アジアが舞台であるそこに映っている馬は、現在の日本の競馬などに登場する西洋馬ではなく、もっと小ぶりのアジアの馬である。
司馬遼太郎やテレビドラマ『西遊記』の作成者はそのあたりを理解していたのに対し、上賀茂神社の神職・運営者は理解せず、間違った認識のもとでの行事をおこなっているようです。
(ゴダイゴの「ガンダーラ」「モンキーマジック」の歌で知られるテレビドラマ『西遊記』のエンディングを見ると、小型のアジアの馬が登場しているが、『国盗り物語』を読むと司馬遼太郎は斎藤道三・斎藤義竜の時代の馬は現代の西洋馬ではなくもっと小型のアジアの馬だと認識しているにもかかわらず、NHKの大河ドラマの『国盗り物語』に登場する馬は西洋馬だったのは、小型のアジアの馬を用意するのが難しかったからというよりもNHKの大河ドラマの作者にそのあたりを考える頭がなかったという方でしょう。
※NHK『国盗り物語』は⇒《YouTube-国盗り物語のテーマ 》http://www.youtube.com/watch?v=CgbVhpXdIAM
NHKの大河ドラマを喜んでいるおっさんというのは、実際と違う話を喜んでいるのです。 )
その奥に「神馬舎」↓がある。 私が子供の頃、今となっては45年ほど前、大阪市天王寺区の四天王寺に行った時、馬がいて、母に、「なんで、馬がいるの」ときいたものの、母も「なんで?」ときかれても的確に答えることはできなかったということがあった。 最近、四天王寺に行っても、馬の像はあるが、実際の生きた動物の馬はいない。 実際の所、寺社も馬を飼って世話をするのは大変なのだろう。 しかし、賀茂別雷神社では、馬と関わりの深い神社だけあって、今も、「神馬舎」には本物の白馬がいるのだ。 ↓
『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』(集英社)の「上賀茂神社 祭りと神事」に、「1月7日 白馬奏覧神事」があり、
≪ 天皇が庭に曳き出された白馬を見て、群臣に褒美の馳走をふるまった「白馬(あおうま)の節会(せちえ)」が元になった神事。 この日に白馬を見ると年中の邪気を遠ざけることができるという、中国の故事による。 日本では当初は青馬で、のちに白馬に変わった。
神も白馬をご覧になると喜ぶという趣旨で行われているもので、・・・・≫と出ている。 だから、この神馬舎にいる馬は白馬なのだろうか。
もっとも、最近の馬は、一般に、江戸時代の終わりから明治にかけて入ってきた西洋馬で、かつての、賀茂別雷神社の祭神が馬に何をどうして・・と夢枕で語ったというお話の馬は、西洋馬よりもひとまわり小さい馬のはずで、今の西洋馬とは違うはずであるけれども・・。
【5】 そして、とうとう、二の鳥居に来ました。↓ いよいよ、二の鳥居から中に入ります。
賀茂別雷神社は、
一の鳥居から内側、
二の鳥居から内側、
楼門から内側、 そして、
「西局‐中門‐東局」より内側
と徐々に「神聖度」とでもいうのでしょうか、いかにも神社の「神域」といった雰囲気が増していきます。 住宅でも門から玄関へのアプローチをうまくとることで「唐突感」を持たせず、宅内へ至る意識を高める工夫をしますが、賀茂別雷神社はそれが見事になされています。
フランスのピレネー州のカトリックの聖地・ルールドゥに行った時、最初、バスでルールドゥの市街に入った時、いかにも観光地ですよという感じの俗っぽさを感じて、なんか、いや~な感じがしたのですが、バスを降りてホテルに寄った後、ルールドゥの聖地に立ち入ると、そこはホテルやレストラン・土産物屋などの街とは別世界。まさしく、祈りの場。 マリア像の前に跪く人があり、ゴルゴタの丘にイエスが十字架をかつぎながら昇ったという場面、「ゴルゴタの丘」を模した山では、わざわざ、靴を脱いではだしになって山を登る人があり、至るところで礼拝がおこなわれており、そして、夜になると聖歌を歌いながら蝋燭を持ってねり歩く行列が毎夜おこなわれる。 聖域から外が俗っぽいのは、むしろ、聖域が極めて神聖であるからこそ、その外界の宿泊したり食事をとったりする場所は必要以上に神聖さを出さない環境になっていると思えました。
ルールドゥにせよ、賀茂別雷神社にせよ、外から内に入るに従い神聖さが変わる造りは、意図的に造られたものなのか、年月とともに自然にそうなっていったものなのか。 両方の要素があるのか。 いずれにせよ、見事なものと思います。
[掲載写真の撮影日は4月20日です。ブログ公開日においては桜の花はもう散っているでしょうけれども、来年以降も、同日くらいまでは、このくらいの花を見れそうです。]
次回、いよいよ、「二の鳥居」から中に入ります。 ぜひご覧くださいませ。
☆ 賀茂別雷神社[上賀茂神社]参拝 は9部作になりました。
1.楼門・透廊・棚尾社・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_1.html
2.福音ルーテル賀茂川教会・賀茂川・御土居・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_2.html
4.細殿・橋殿・片岡橋・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_4.html
5.弊殿・「特別拝観」・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_5.html
6.奈良神社・北神饌所・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_6.html
7.檜皮葺・大田神社・魯山人生誕地・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_7.html
8.深泥池・京都コンサートホール、摂社の構成・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_8.html
9.流造と切妻、不動産業の神「迦毛の大神」・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_9.html
もご覧くださいませ。
(2014.5.5.)
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