賀茂別雷神社[上賀茂神社]参拝5.弊殿。及、本殿・権殿の「特別拝観」の感想、賀茂社のルーツを考察する

[第257回]
【1】   「楼門」をくぐって、その内側に入りますが、「楼門」「西局・中門・東局」「摂社 棚尾神社」「透廊(すいろう)」の写真は、《 賀茂別雷神社[上賀茂神社]参拝1.》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_1.html  で掲載・公開しましたので、1.をご覧くださいませ。
   楼門をくぐった右手にあるのが、「弊殿」です。↓
画像

↑ 「弊殿」 重要文化財。
   「石の間造り」の神社では、「拝殿」と「本殿」の間にある「石の間」を「弊殿」と言っていますが、「流造(ながれづくり)」の本殿・権殿ほか、「流造(ながれづくり)」の摂社があちらこちらにある賀茂別雷神社では、「弊殿」は本殿のすぐ前ではなく、意味合いも「石の間造り」の神社の「弊殿」とはどうも違うようです。
   私は、神社やお寺の写真を撮影する場合、そこには人がいる方が普通で、人が参拝している方が自然な姿であると考え、参拝者がいない時を見はからって撮るということはしていません。 しかし、この撮り方で撮った場合、もしかすると、知らないうちに、その写真のどこかに、国籍不明・年齢不詳・レスラーのような体型をしたひげそりのような眼をした男・・・とかいうのが写っている・・・・・などということも、ないとはいえないかもしれない・・・・けれども、決して、Gについて調べあげようなどとは毛頭考えてはおりませんので、どうぞよろしく・・・・・(へえこらへえこら)。


【2】   それで。 中門の前で、賽銭を入れて2礼2拍手1礼をして、どうじゃ、建築屋の経験者だけあって、ええ音するじゃろ、どんなもんじゃい! と参拝をすませた後、中門脇の西局に、「特別拝観」と称して、本殿・権殿に参拝ができると書かれているのを見ました。
   何ゆえに、賀茂別雷神社と賀茂御祖神社に訪問したいと考えたかというと、賀茂別雷神社はこの時期においても桜が「満開」と日本気象協会の《桜開花情報》http://www.tenki.jp/sakura/  に出ていたからということもあった。
   不動産業(宅地建物取引業)の会社のけしからん経営者を懲らしめる神様・アジスキタカヒコネノミコトは『古事記』に≪この大國主の神、胸形の奥津(おきつ)宮に坐(ま)す神、多紀理毘売(たぎりびめの)命を娶して生める子は阿遲鉏高日子根神(アジスキタカヒコネノカミ)(「スキ」は環境依存文字。「金」に「且」)。次に妹高比売(いもたかひめの)命。亦の名は下照比売(したてるひめの)命。 この阿遲鉏高日子根神(アジスキタカヒコネノカミ)は、今、迦毛大御神(かものおおみかみ)と謂ふぞ。≫(『古事記』倉野憲司 校注 1963.1.16. 岩波文庫)とある。その「迦毛大御神(かものおおみかみ)」とは賀茂別雷神社・賀茂御祖神社の祭神と関係あるのかどうなのだろう。 賀茂別雷神社・賀茂御祖神社という名称が最適な名称であるのかどうかもわからない。もしかすると、上賀茂神社・下鴨神社の名称の方が本来の名称で、いずれも「迦毛大御神(かものおおみかみ)」を祀っていた神社だった、「迦毛大御神(かものおおみかみ)」を祀っていた神社がこの地域に2つあったので、区別するために「上・・・神社」「下・・・神社」と言われるようになった、賀茂建角身命の娘の賀茂玉依姫の子の賀茂別雷命といった話はそれより後からできた話で本来はいずれも「迦毛大御神(かものおおみかみ)」を祀っている神社だった ・・・という可能性だってないとは言えないのではないか。そう考えるならば、「不動産業の会社のけしからん経営者を懲らしめる神さま」アジスキタカヒコネノミコト=「迦毛大御神(かものおおみかみ)」を祀る神社として、参拝していいことになる。
  しかし、それ以上に、上賀茂神社・下鴨神社ととらえるべきか、賀茂別雷神社・賀茂御祖神社ととらえるべきか、いずれに解釈して考えるのが妥当かははっきりとしないが、上賀茂神社の「本殿」・「権殿」、下鴨神社の「東本殿」・「西本殿」は、神社の社殿の造りとして、代表的な造りのひとつで、全国の神社では最も多いと言われる「流造(ながれづくり)」の代表的建築物であり、建築屋としては、ぜひとも見ておかねばならないもの、と思いながら、いつしか日月が経ってしまっていたというものだった。だから、せっかく、ここまで来たのだから、「流造(ながれづくり)」の代表的建築物である賀茂別雷神社(上賀茂神社)の本殿・権殿を見ずして帰れますかいな・・・と思い、お願いすることにしました。


    古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道』の「上賀茂神社 境内地図」で見ると、「本殿」・「権殿」の前の「透廊(すいろう)」の手前にある「中門」の東側の建物が「東局」、中門の西側の建物が「西局」で、西局の北西側の建物が「西供所」、『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』に掲載の上賀茂神社境内殿舎配置図では、「西局」の西寄りを「楽所」、東より(中門より)を「直会所」と表わし、「東局」を「御籍舎」と表わしており、「西局」と「西供所」、「直会所」と「楽所」と「「西供所」はつながっています。 「西供所」があるということは、「東供所」もあるのかというと、あるようですが、「西供所」が「西局」とつながっているのに対して、見える所まで入らせてもらえないのでよくわからないのですが、上の2つの境内図によると、「東供所」は本殿の東側にあって「東局」とはつながっていない別棟のようです。「中門」「西局」「西御供所」「東局」「東供所」はいずれも重要文化財に指定されている建物のようです。
   『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』所収の岡野弘彦「神々の物語」では、≪朱塗の楼門を入ると、白い石畳の庭があって、拝門へは急な石段を上る。拝門の前に立つと、御簾の奥に流造の本殿が見える。・・≫と書かれている。 岡野弘彦氏は、『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 』や『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』に掲載されている境内地図で「中門」と書かれている門を「拝門」とここで表記している。たしかに、この中門は、この門をくぐってこれより中に入り、本殿の前で拝むことができるという門ではなく、この位置で拝むように設定されているので、拝殿と呼ぶような建物ではなく門であるが、くぐって中に入るようになっておらず、賽銭箱もここに置いてあるので、「拝門」と呼ぶのは妥当な呼び方かもしれない。 もっとも、岡野氏は本殿が御簾の奥に見えると書いているが、私は実際にこの位置に立って参拝し、この位置で見たが、ほとんど見えなかった。(《賀茂別雷神社参拝1》 の4番目の写真をご参照ください。)

   「特別参拝」では、本殿・権殿を参拝できると中門の脇に書かれていたと思いますが、実際に、どこまで入らせてもらえるかというと、西局の直会所の一室で待ち、10人少々の「特別拝観」希望者が集まると、若い神職が来て「短いバットかすりこぎみたいな形状のやつ」を頭の前でさっさっさと振るお祓い(?)をして、首から「上賀茂神社 特別参拝」と書かれた白い紙の首輪をかけて、西局(直会所)の北側、権殿の正面の場所の西局の縁側の所まで行って、正面の「権殿」とその手前の摂社 「杉尾社」 西側の「西供所」とその内庭の部分と対面することができるというものでした。 「本殿」も見えることは見えますが、間に「透廊」があり、本殿の屋根は権殿の屋根の向こうに見えて、権殿の屋根は1ヵ月前に葺き替えが終わったばかりだということできれいであるのに対し、本殿の屋根はまだ葺き替えがなされていないということで、権殿の屋根ほどきれいではないととらえるか、そうではなく、本殿の屋根の方が歳月を経て風格があると考えるかといったところですが、本殿の壁面は透廊の向こうに見えることは見えるという状況です。 「お座りください」と言われて、西局の北側の縁側に腰掛けて、若い神職が、「式年遷宮」は伊勢神宮が有名ですが、賀茂別雷神社にも式年遷宮はあり、伊勢神宮と違って21年ごとにおこなっていますが、本殿と権殿は国宝に指定されている建物でもあり、建替えるわけにはいかないので、屋根の葺き替えとか修理を21年ごとにおこなうことで「式年遷宮」と言っています、といった話をしてくれる、というものでした。


【3】   それで、しばらくそこにいて、そして、その若い神職が、「よろしければ、そちらの方から本殿を参拝していってください」と言うので、すでに中門の前からお賽銭も入れた上で参拝してきたので、再度、あえて、中門よりも本殿から遠い場所で、かつ、中門と違って本殿の正面ではなく斜めの位置から拝まなくてもいいのではないのかと思ったものの、せっかく説明してくれた神職がそう言うのであるからと思って、言われる場所に行ってみると、そこに何があったと思いますか?  金属製の大きな賽銭箱・・・でした。 普通の賽銭箱と違って桟はなく丸見えで、サクラみたいに千円札が1枚入ってました。 はあ~あ、もう1回、賽銭払えということか・・・・。 しかし、こちらとしては、ここに入らせていただくために、すでに「特別拝観料」としてすでに500円納めており、かつ、お賽銭もすでに中門の所で「特別拝観料」と別に入れており、帰りに授与所で御朱印を書いていただくのに300円納めれば、合計で900円ほど納めることになるので、この神社には私の立場から考えて貧乏人の参拝者としてはそのくらい納めればいいだろうと考えていたところに、さらに、賽銭払えと請求されたようなものであり、「○万円ポッキリ」とか書いてる風俗店の看板を見て、あれってそのまま信頼していいのだろうかと思うことはあっても、まさか、神さんが入口では特別拝観料500円ですよと言って、中に入るとでっかい賽銭箱が用意して、さあ、そちらで・・と誘導される・・なんて、しかも、すでに賽銭払ったっちゅうのに、再度払えとは。 「もう、払ろたがな」「なんで、また払わないかんねん」、「神さん、あんた、私がさっき払ろたの見とらんかったんかい。そんなええかげんな神さんにカネ払えるか~い」て感じ。 料金二度取りだし、なんか、あつかましい神さんやなあ~あ、ほんまに、もう。 ええかげんにせえよお、て感じがしました。 (もしかして、参拝者をカモにするから賀茂社か?) 神社としては、なんだかんだいっても、神社を運営するのにお金がいるからそれなりに収入を得たいということもあるでしょうけれども、それならそれで、そこで、再度、賽銭を払っていってくださいと誘導するのではなく、最初から「特別拝観料」を500円ではなく700円とか800円に設定しておけばいいことです。 なんやねん、500円ちゅうからそうかいなあと思って入ったら、別料金請求するんかいな、せっしょうな神さんやなあ、ほんまにい・・・て感じ。 「高品質低価格」とかを売りにしている住宅建築会社のポスターに「坪○十万円」とか書いてあって、その金額でできるのかと思って実際に頼むと、別料金でオプションいっぱいつけないとおよそ住めない家だったり・・とか、そんな感じ。 汚い商売するやっちゃなあ、この神さんは。 そういう汚い商売やってると、しまいに、神さん、ばちあたるぞお! て、そんな感じでした。 その若い神職の誘導の仕方も、なんだかなという感じで、「ボーズ、ええかげんにせえよ」て感じもしないでもなかったけれども、よく考えるとそれは違った。 どう違ったかというと・・・・ボーズじゃなかった・・・・・。


【4】   それで。 せっかく、「特別」に中庭まで入らせていただいたのですから、「(建築家+建築屋)÷2」として、インテリアコーディネーターとして、また、「神社建築研究家」として、「宗教哲学者」として、神社建築の代表的な造りである「流造(ながれづくり)」の代表建築である本殿と権殿、特に、目の前に迫力ある姿で見える権殿の写真を撮ってかえらせていただきたいものだと思ったのです。 市販されている本で本殿・権殿の写真が掲載されているものはあります。 神社や寺に訪問した際には、まず、自分自身で体感することが大事で、写真を撮りまくるのに専念するのは愚かだと思います。 しかし、写真ばかり撮りまくるのは愚かですが、一方で、「写真家」と言われる人が撮影したとして販売されている「写真」というのは、自分が撮ってきた写真と見比べてみると、どこか修正がほどこされているのか、何か実際のものと違う場合が時としてあるのです。 だから、私は、特別の「写真家」でもないけれども、建築屋として、インテリアコーディネーターとして、「神社建築研究家」として、「宗教哲学者」として、できれば、1枚か2枚でいいから撮影させてほしかったのです。 それで、先の若い神職のおにいさんに、「写真は撮影させていただいてもかまいませんでしょうか」と尋ねたのです。 黙って撮って、困りますとか怒られてもよくないと思ったので。 ところが、「いやあ、特別に神聖な場ですから、写真はいけません」と、いかにも、不愉快だという顔をして手を横に振ったのです。彼は。  こちらは、黙って撮って、苦情を受けてはよくないと思うから、あらかじめお尋ねしているわけです。 それから、「神社建築研究家」というのは何かというと、「建築家」と一緒で「言ったもの勝ち」で特別に名のるのに国家資格があるわけでも何でもありません。 「建築家」ほどは胡散臭くないと思います。「建築家」というのは、ちょっとかわった帽子でもかぶって大久保清みたいな格好して赤いスポーツカーにでも乗ればヘボ図面しか書かない男でも「建築家」・・・みたいなそんなものですが、「神社建築研究家」は特別にものすごいものでもないし、国家資格があるわけでも何でもなく、自分で言ってるだけですが、実際に研究して見てまわり、学び思考しているのであり、いつしか、研究成果を発表して世に貢献する時もあるかもしれませんし、決して嘘ではありません。 「哲学者」とはいかなる者を言うのかというと、大学の「哲学」とか「倫理学」とかの教授先生を「哲学者」と言う場合もありますが、それは哲学を職業としている人のことで、哲学を職業としている大学の先生でも、人間としては哲学者の人もあれば、単に、哲学研究者の人もおられるでしょう。そして、「哲学する者」を哲学者と言うならば、大学の哲学科の先生でなくても「哲学者」はいることになります。 「経済学者」としては、巨人 経済学者とされる人では、アダム=スミスは倫理学の方からの人で、カール=マルクスは法学部の出身の弁護士だったわけで、それでも経済学者と認められているわけであり、それからすれば、「哲学者」も、哲学科の教授先生でなくても「哲学」する人として「哲学者」が存在していいはずなのです・・・が、「経済学者」の場合は、経済学部の大学院に行って助手から助教授・教授というコースを歩むのでない場合、『資本論』でも書かないと「経済学者」と認めてもらえないのに対し、「哲学者」は「建築家」と一緒で「言ったもの勝ち」であり、「哲学者」を名のられても、だからなんやねん、てところもあります。 でも、私の場合、もともと、若い頃に、哲学科に進んで宗教哲学の研究をやりたいと思った時もあったのです。 人生を生きていく上で、そういう方向に進むことができず、別の道に進むことになりましたが、職業としては「宗教哲学者」にはなれなかったけれども、人間としては、その意識を捨てたことはないのです。 だから、職業として「宗教哲学」の専門の大学の先生ではないけれども、意識としての「宗教哲学者」というのは嘘ではないのです。 だから、そういう者として、できれば撮影させていただきたいが、いけませんでしょうかということを私は言ったのです。 しかし、彼は、とんでもない、この罰当たりめが! という態度をとったのです。 さらに言いますと、ね。 その「特別に神聖な場」の内側に、なんで、賽銭箱だけはでっかいのが置いてあるのか、ということです。 変だと思いませんか? 「神職たりともみだりに立ち入ってはならない空間」に特別に入らせてもらうということでの「特別参拝」だというのであれば、その「特別の空間」に賽銭箱だけがどぅか~んと無粋な金属製のどでかいやつが置かれているというのは、おかしいと感じませんか?  少々、気分を害しました。 黙って撮って文句を言われたなら、黙って撮った方がよくないかもしれません。 しかし、いけませんでしょうか、と礼儀正しくお尋ねしている者に向って、その態度はないのでしょうか。 実際のところ、なんじゃ、このボーズは!・・・・・ ・・・・・・、とも思ったのですが・・・・・、ボーズじゃなかった・・・・・。
   『国宝の美23 厳島神社 日吉神社 北野天満宮』(2010.朝日新聞出版)に掲載の黒田龍二「日吉大社」をには、≪格式の高い古社は、本殿周りが回廊や塀で囲まれている場合が多い。これは参拝する人が特定の皇族や貴族などに限られていたためであろう。誰でも入れるような境内構成では困るのである。ところが、日吉大社ではどの本殿も開放的であらゆる参拝者を拒まない。これは平安時代から現在まで変わらず、・・≫と出ている。上賀茂神社の神職のボーズ・・じゃなかったは、「西局―中門―東局」より内側は「大変神聖な場ですから」建物で囲まれていると思い込んでいるようだったが、実際はそうではなく、皇族・貴族等でないとその中に入らせないようにしていた時代のなごりである可能性が低くない。 


【5】   それで、権殿の前から、権殿とその前の中庭、中庭の杉尾社、透廊、透廊の向こうに見える本殿を見て、「流造(ながれづくり)」の社殿は、「石の間造り」の社殿などに比べて、簡略で荘重さを出しにくいというようなことを言う人がありますが、この賀茂別雷神社で見る限り、そうでもない、少なくともこの神社はそうではないと思ったのです。 
   「石の間造り」の社殿の場合では、「特別に神聖な場所」としているのは本殿の内部であって、拝殿は一般の人間が参拝する場であり、「石の間」(弊殿)も本殿の内部のような「特別に神聖な場」とまではされていないわけです。上野東照宮でも、少し前までは、弊殿(石の間)の部分から内部に入って、拝殿と弊殿の内部を見学させていただくことができたのです。 それに対して、感じの悪い若いボーズ・・・じゃなかった神職が言うように、賀茂別雷神社の場合、本殿・権殿の内部が「特別に神聖な場」だとしているのではなく、西御供所‐西局‐中門‐東局で囲まれた建物の内側を、本殿・権殿・杉尾社を含めて「特別に神聖な場」としているので、その中庭の空間というのは、石の間造りの社殿における本殿の内部のような性質をもつとしているようなところが感じられ、かつ、建物も、「流造」の本殿・権殿だけで見るのではなく、中門・透廊・西局・西御供所・東局といった建物とその内側の中庭とその中庭にある摂社とを合わせて全体で見るべきものではないか、とも思えたのです。
    権殿は「3間舎 檜皮葺 流れ造り」で、中庭にある杉尾社は「1間社 檜皮葺 流れ造り」と、本殿・権殿は正面に柱が4本立って、柱の間が4間、杉尾社は正面に柱が2本立って柱の間が2間と、杉尾社は本殿・権殿のミニチュアのような感じで立っています。 上賀茂神社 製作『京都歩くマップ―上賀茂・北山―』には「お参りの仕方」として、手水舎で手と口を清め、片山御子神社にお参りした後、本殿にお参りして、その後、≪願い事のある摂社にお参りする≫と書かれているのですが、 西局の内側の中庭に建つ杉尾神社(重要文化財)は≪林業の神様≫と書かれ、又、本殿の前の「祝詞舎」の東あたりにあるらしい土師尾神社(重要文化財)は≪美術・工芸・陶器(土器)等ものづくりの神様≫と書かれており、さらに、本殿の北東側の後ろにあるらしい若宮神社(重要文化財)は≪災いから身を守って下さる神様≫だというのですが、「お参りの仕方」の指示に従って≪願い事がある摂社にお参り≫しようと思っても、これらの神社の前までは行くことができないのです。 いったい、どうしろっての? ≪願い事がある摂社にお参り≫しろというのか、するなというのか、どっちなんだよ・・・・て、きかれても困るかもしれないけれども、そんな感じです。

   それで。 ひとつの仮設ですが、もしかして、この賀茂別雷神社の本殿・権殿の内庭にある杉尾社とか土師尾社が≪・・・・の神様≫というのは後からつけたしたお話で、本殿に神さまがおられて、権殿は本殿の修理の時に神様に移っていただくためにあらかじめ設けられている・・といった話も後からの創作で、実は、この神社の社殿は、本殿と権殿はどちらが正でどちらが副ということもなく、本殿・権殿とその前の中庭と取り囲む建物と中庭とその中庭に横向きに建つ小さな建物の摂社との全体が社殿で、どれが何、というものでもないのではないか。下鴨神社は本殿と権殿ではなく、東本殿と西本殿と呼んでいるけれども、東本殿と西本殿にせよ、本殿と権殿にせよ、本来は、全体がその神社の社殿で、どちらが何で・・というものではなかった、ということはないか。
   さらに言うと、『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道』には≪本殿の北北西2㎞にある神山(こうやま)は本来のご神体で、その神に仕えたのが、阿礼乎止女(あれおとめ)と呼ばれる賀茂氏の未婚の女性だった。・・≫というのですが、賀茂別雷神社に行くと、どれが神山ですよという掲示があるわけでもなく、どうも、≪本来のご神体≫の神山が軽視されているというのか、存在感が低いというのか、扱いが薄いというのかという印象を受けます。 『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』所収の岡野弘彦『神々の物語』には≪上社の北方4キロほどの所に円錐形の美しいかたちの山があって神山(こうやま)とよばれ、古い祭祀遺跡が残っている。本来はここが祭神の最初に降臨した「み生まれ」の場所と考えられていて、葵祭の直前に新しい神霊を迎えるというのが「み生まれ神事」であるはずだが、いつのころからか、神山よりも神社に近い丸山の山中に「み生まれ所」を設けて祭りをするようになっている。 ≫と書かれている。 神山が『古社名刹巡拝の旅 ・・』では本殿の北北西2㎞で、『日本の古社 賀茂社 ・・』では北方4キロというのは、どっちやねんという気もするけれども、まあ、それはご愛嬌として、「本来のご神体」であったはずの神山が、いつしか、賀茂別雷神社とのつながりが、その「本来は」よりは希薄になってきているのではないか、という印象を受け、そして、「本来」でない別のものが重視されているのではないのか。 まったく縁もゆかりもないものが重視されているのではないとしても、「本来は」の神山よりも本殿・権殿から杉尾社を含めた中庭とその周囲が強度に神聖視されて(一方で、賽銭箱はきっちり設置しているのは、この際、特に問題としないとして)しまっているのではないのか。
    さらに。 上賀茂神社の社殿は、本殿に向ってすぐ左に本殿とまったく同じものが権殿だとして存在するのはなぜか。 下鴨神社の社殿も同じように、同じ社殿が2つ左右に並んでいるものの、玉依姫を祀るとする東本殿と賀茂建角身命を祀るとする西本殿だと説明されているけれども、実際にそうなのか。 下鴨神社で、賀茂建角身命とともに賀茂玉依姫を隣りに祀るのならば、上賀茂神社では、なにゆえ、玉依姫を本殿の隣りの社殿で祀らずに、片山御子神社という摂社で祭るのか。 権殿は「本殿が火災その他で被害にあった時に、神さまがおられる場所がなければなりませんから」設けられているというようなことを若い神職は説明していたが、その説明は相当に苦しい。 もしも、火災や地震・風水害があって本殿が損壊した時のことを考えるのであれば、予備の社殿は本殿のすぐ脇ではなく、いくらかなりとも離れた場所に設けておかないと、本殿が火災であれば隣りの権殿にも燃え移る可能性があるし、地震で本殿が損壊するようなら、すぐ隣りに同じ造りで設けたものも同様に損壊する可能性が小さくないと考えられる。 予備の社殿が必要だというなら、なにゆえ、下鴨神社は予備の社殿を用意して4つの社殿が造られなかったのか。 こう考えると、権殿は予備の社殿、スペアだという説明は、かなり苦しいと言わざるをえない。
    奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)(http://www.oomiwa.or.jp/ )はご神体は三輪山であって、拝殿はあっても本殿はないという。もしかして、上賀茂神社もそうなのではないのか。 ご神体は「本来のご神体」の神山(こうやま)で、本殿も権殿も、本来は「神様がおられる所」ではなかった、ということはないか。
    奈良県の飛鳥寺、今の飛鳥寺ではなく、創建時の飛鳥寺では、塔があって、その周囲をとりまくように3つの金堂が建っていたという。 その後、大阪市の四天王寺では、塔‐金堂‐講堂 と縦に並ぶようになり、奈良県の法隆寺では、金堂と塔が横に並び、その後ろに講堂が建つようになり、さらに後、薬師寺では、金堂の前の左右に東塔と西塔と2つの塔が建ち、徐々に中心が塔から金堂に移り、薬師寺では中心は金堂で塔は装飾的な性質のものとなっていった、と言われる。 日光東照宮では東照宮の前に塔があるし、上野東照宮でも、現在は「東京都の管理で、上野動物園の敷地内」に塔があるが、立地としては上野東照宮の前に塔があり、江戸時代においては、塔は仏教を離れて、神社の前の装飾的な存在にまでなっている。 さて、上賀茂神社で社殿が2つあるのは、1つはスペアだという説明はかなり苦しいとして、薬師寺の東塔と西塔に似ていないか。 薬師寺の東塔と西塔、それから、大神神社(おおみわじんじゃ)の拝殿とご神体の三輪山の関係を考えてみると、あくまでも、もしかすると、であるが、上賀茂神社の本殿と権殿は、薬師寺の東塔と西塔のように「本来のご神体」である神山の前面に2つ建てられた「本来のご神体」の露払いのような存在の建物だった、ということはないか。 それが、「本来のご神体」がその場所から少し離れていることもあって軽視されるようになるとともに、露払いのような存在の社殿2つの存在感が増し、そして、本殿とスペアだという言い訳も後から創作された・・・という可能性は、そうであるのかないのかわからないけれども、可能性としてはありそうな気もする。

    賀茂賀茂神社・下鴨神社という呼び方と賀茂別雷神社・賀茂御祖神社という呼び方は、いずれが本来的な名称だろうか。 「特別参拝」の際に、若い神職のおにいさんが、式年遷宮の話をする際に、「伊勢神宮は、正式な名称は『神宮』ですが」と話したのだが、「正式な名称」も正式でない名称も、本来はないはずなのだ。 伊勢神宮は国の機関でもなし、法律で名称が定められているわけでもなし。 普通は、何人もの人が呼ぶようになれば、その名称が定着して呼び名になる。 近所にある小さな祠の八幡社とか天神社とか稲荷社とかについて、他のものと区別するために、近所の人が地名を頭につけて「○○八幡神社」「◇◇天神社」と呼ぶと、いつしかそれが名称になる。 伊勢神宮も、多くの人びとが「伊勢神宮」と呼ぶからには伊勢神宮であるはずだ。 それを、単に、「神宮」と言われても、鹿島神宮なのか香取神宮なのか、船橋大神宮なのかわからないし、「正式」もへちまもない。 ただし、伊勢神宮の神職が、自分たちのところは他と違って特別なのだと主張したいのであれば、そして、神宮という呼称は伊勢神宮だけが名のるべきものなのだ、と主張したいということならば、それはそれでいいだろうけれども、だからといって、「正式」になったわけでもない。 我が家の庭に氏神様を設けて、その名称を「神宮」となづけたとすると、そして、日本全国にそうする人が100人現れれば、「神宮」は日本に100か所登場することになる。 そもそも、人が呼ばないような名称は、「E電」と一緒で、いつしか名称でもなくなる。 伊勢神宮は伊勢神宮でいいと思う。多くの人が「伊勢神宮」と呼んでいるのに、「正式には『神宮』です」とその神社の神職が主張するというのは、伊勢神宮というものが、神社の中でも民衆の神社ではない方の神社だということを意味するものだ。(法隆寺にしても、四天王寺にしても、東大寺にしても、「正式名称は、『寺』です」なんて、言いますか? 言わんでしょうが・・。)
   それで、賀茂社についてだが、ひとつの仮設であるが、もともとは、上賀茂神社と下鴨神社は別の神社で、それぞれ、別の場所で別個に存在したのではないか。 名称も、最初の時点では、村の八幡社とか稲荷社に特別に名称はないのと同じく、特に名称もなかったのではないか。 上賀茂神社が祀っていたのは「本来のご神体」だという神山(こうやま)で、 『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 』に≪大和を後にした古代豪族の賀茂氏は、南山城を経て、この地に移ったと伝わっている。水利や栽培の知恵を活用して開拓を始め、勢力を伸ばした。賀茂祭(葵祭)の原型は狩猟儀礼だという説があるが、土着の神観念も受け入れて、みずからの氏神を祀ったようだ。・・・≫と出ているが、葵祭の原型が狩猟儀礼で、「神山(こうやま)」が「本来のご神体」で「禁足地」とされてきた、ということは、狩猟を永続的に営むことができるように、神山には人は立ち入らず、神山に入った鳥獣はそこに立ち入ってまで捕獲しないという取り決めがなされ、それを神聖なものとして儀式をおこなってきた・・というものではないのか。 その「神山」を山から少し離れた場所で祀ったのが上賀茂神社であったのではないか。
    それに対して、下鴨神社は、賀茂川と高野川が合流する地点とその地形を神聖視したもの、ということはないか。 賀茂御祖(みおや)神社というのは、本来は、賀茂別雷大神の母親と祖父という意味ではなく、賀茂川と高野川が合流して鴨川として南下する場所の地形とその背後の森林と森林から流れ出す小川を女性の性器ととらえて、産みの親だとしたもの、ということはないか。 神奈川県横浜市のJR「横浜」駅の横須賀線でひとつ西側の駅は「保土ヶ谷(ほどがや)」というが、この「保土(ほど)」は、もともとは、女性の性器を表す「ホト」という言葉からきていて、この付近の山の形が女性の性器の形(どんな形やねん・・)をしていたことから名づけられたものだ、という説があるらしい。 この「保土ヶ谷」の名づけ方の発想から、賀茂川と高野川が合流して鴨川として南下する地点の地形とその合流部分の背後の森とその森から流れ出す小川を女性の性器ととらえて、万物の産みの親だとして、神聖視して祀るようになったのが、下鴨神社の今は摂社となっている河合神社だった・・・ということはないだろうか。 
    そして、上賀茂神社、下鴨神社とも、いずれも、賀茂の神様を祀る神社として定着し、その2つを区別するために、上社・下社という呼び方をする人もでてきた、のかもしれない。 
   上賀茂神社は、「本来のご神体」である神山(こうやま)を祀り、農業や狩猟の無事を願う神社として存続したので、それで、天神・風神・雷神を祀ることとなったのではないか。  「特別参拝」の時の若い神職のおにいさんは、「別雷(わけ いかづち)神社」という「別 雷」という言葉を、「『雷をも別けるパワーの神様』という意味です」と説明したが、そうだろうか。 
   『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』(淡渓社)所収の岡野弘彦「神々の物語」では岡野氏が大和岩雄氏の文章を引用しているが、そこに、
≪  現在は神霊の降臨の儀礼と、依代となった阿礼木(榊)神幸の儀式のみだが、賀茂別(若)雷命は御子(別・若)神なのだから、父神(火雷神 ほのいかづちのかみ)の降臨儀礼の次に神婚の儀式があったはずである。・・・・≫ とある。
大和岩雄氏は、「別(わけ)」という語を、「若い」と同義とし、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷神は、天神の息子、あるいは、火雷神(ほのいかづちのかみ)の息子であるということで、「若い雷神」「息子の方の雷神」という意味で、「別雷神(わけ いかづち のかみ)」という言葉を解釈しているようだ。 その解釈の方が、実際に近そうに思える。
   『古事記』で、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が黄泉の国に行った伊邪那美命(イザナミノミコト)を訪ねて行った際に、伊邪那美命(イザナミノミコト)がしばらく待ってくれと言っているのに、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が待ち切れずに覗き見たところ、伊邪那岐命(イザナギノミコト)の体に雷神が宿っていたという話がある。
≪  一つ火燭して入り見たまひし時、蛆たかれころろきて、頭(かしら)には大雷(おおいかづち)居り(おり)、胸には火雷(ほのいかづち) 居り、腹には黒(くろ)雷 居り、陰(ほと)には拆(さき)雷 居り、左の手には若(わか)雷 居り、右の手には土(つち)雷 居り、左の足には鳴(なり)雷 居り、右の足には伏(ふし)雷 居り、并(あは)せて八(や)はしらの雷(いかづち)神成り居りき。≫(『古事記』倉野憲司 校注 1963.1.16.岩波文庫)
   大和岩雄氏は、『古事記』で、雷(いかづち)を8つの名称をつけて呼んでいるように、上賀茂神社の祭神を「別雷(わけ いかづち)」として、若い雷神、息子の雷神としたようだ。
   戸部民夫『日本の神様がわかる本』(2005. PHP研究所)の「賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)」のところには、≪ 神名の雷は「神鳴り」を意味し、「別雷(わけいかづち)」とは若々しいエネルギーを備えた雷神ということになる。・・≫とある。
   しかし、私は、もうひとつ、別の意味にとらえる方法もありうるのではないかと考える。 日光の二荒山神社の中宮祀は、二荒山と中禅寺湖の間にある。中宮祀から参道というのか登山道というのかがあって、そこから昇ることができる。 それに対して、上賀茂神社は、「本来のご神体」だという神山(こうやま)は、上賀茂神社からそれほど遠くはないが、すぐ後ろにあるわけではなく、2㎞だか4㎞だか離れているのだ。 『古社名刹の旅3 賀茂川の道 』には神山(こうやま)は≪禁足地で、頂上に磐座(いわくら)がある。≫と出ており、『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』に所収の岡野弘彦「神々の物語」には≪上社(かみしゃ)の北方4キロほどの所に円錐形の美しいかたちの山があって神山(こうやま)とよばれ、古い祭祀遺跡がある。本来はここが祭神の最初に降臨した「み生まれ」の場所と考えられていて、葵祭の直前に新しい神霊を迎えるというのが「み生まれ神事」であるはずだが、いつのころか、神山よりも神社に近い丸山の山中に「み生まれ所」を設けて祭りをするようになっている。 ≫と書かれている。
   「本来のご神体」「本来の み生まれ所」が神山(こうやま)で、そこに磐座(いわくら)・祭祀遺跡があるというのだ。 そこが、本来の雷(いかづち)神社の場所だったのではないか。 その本来の場所から少し離れた生活の場所で祀るのが、雷神社の別の社で、「別 雷神社」だったのではないか。
   「雷をも別けるパワーの神さま」という言いまわしは、おそらく、「でまかせ」でしょう。
   上賀茂神社は、丸山の雷神社の別の社で、下鴨神社は川が合流する地点の地形とその場所の森を神聖視して設けられた河合神社がルーツで、いずれも、賀茂の神社であり、その地に定着した2つの神社を区別するために、川の上流の方にある神社を上社(かみしゃ)・上社よりも下流にある神社を下社(しもしゃ)と呼んだのではないか。
   そして、賀茂にある、もしくは、賀茂氏が深く関わっている上社・下社ということで、上カモ神社・下カモ神社と呼び、「カモ」には、「賀茂」「加茂」「加毛」「鴨」「迦毛」などの字をあてた。
   上社は、神山をご神体とする天神・雷神で、天神・雷神に農業の無事・豊作を祈るとともに、神山を聖なる山として、ここに入った鳥獣はそれ以上は追わないという取り決めをして、狩猟の継続を保全した。 下社は2つの川の合流点と合流点の森を女性の性器ととらえ、万物の産みの親であるとして神聖視した、ということではないか。
   下鴨神社を賀茂御祖神社と呼ぶのは、上賀茂神社(賀茂別雷神社)の祭神・賀茂別雷大神の母と祖父を祀るから御祖(みおや)神社というのは、もともとは別に創建された上社と下社が定着して交流ができたことから、後から作られた話ではないでしょうか。  一般に、親の神を祀る神社と子の神を祀る神社なら、山でも川でも、上の方に親を祀りませんか。 子の方、若い方が川なら下流、山ならふもとに祀られて、親の方、年配の方が川なら上流、山なら頂上に近い場所に祀られる方が一般的ではないでしょうか。 それが、賀茂社の場合、親の方が下流に祀られているというのは、もともとは、御祖神社は、別雷神(わけ いかづちのかみ)の親という意味ではなく、万物の産みの親という意味からだったから、ではないのか。
   だから、下鴨神社で、社殿が2つあって、上賀茂神社と違って、東本殿・西本殿と名づけて、建角身命(タケツヌミノミコト)と玉依姫を祀っているという話も後からつけられた話で、実際は、神山(こうやま)をご神体として、その露払いのような存在として全面に社殿が2つ設けられた上社の造りを習って造営した結果として、下社も2つの社殿を持つようになり、その理由づけとして、祖父と母とした、といったところか・・・・。

   もうひとつの仮説。『改訂版 京都 観光文化検定 公式ガイドブック (8版)』の「京都の歴史」には、≪この京都盆地が大きく変化をみせるのは五世紀に入ってからであった。この盆地には、多くの移住者が進出したのである。この移住者たちは、列島内の人々だけでなく、多くの渡来人が含まれていた。北域では賀茂氏・出雲氏・の列島内移住者、さらに渡来系の小野氏・秦氏・土師氏・八坂氏があり、南域には、やはり、渡来系の高麗(こま)(狛)氏などである。・・≫と書かれ、「古代士族の分布図」として地図が掲載されているが、この分布図では、賀茂氏の分布地域は上賀茂神社付近であり、下鴨神社付近は賀茂氏の分布地域とはされていない。 下鴨神社のすぐ西方、賀茂川の西側が出雲氏の分布地域とされている。 もしかして、賀茂氏が祀る「賀茂社」はもともと上賀茂神社だけで、下鴨神社はもともとは河合神社だったのではないか。 その賀茂社は、神山(こうやま)をご神体とし、神が宿る場所も神山であって本殿でもそのスペアの権殿でもなく、神は神山に宿っているので、今、本殿・権殿と呼んでいるものは、薬師寺の東塔・西塔が金堂の前に2つあるように、実質本殿の神山に向けた拝殿が2つあった、本殿ではないので2つあった、のではないか。 下社は賀茂社ではなく河合神社だったが、賀茂氏の勢力が下流に伸び、河合神社も賀茂社(上賀茂神社)の配下となり、そして、社殿も上賀茂神社の形式を踏襲するものとなり、その理由づけとして、祖父と母を祀っているうんぬんという話が創作された、もともと、その地の地主神を祀っていた神社が後から進出してきた神社の摂社となっているという神社はけっこうあるが、河合神社も後から進出してきた賀茂社下鴨支店の摂社となった先住神社だった・・・という可能性もありうるのではないか。

   念の為、お断りしておきますが、これは、あくまで、もしかすると、こういうことかもしれない、こういうことだったという可能性だってあるかもしれないということで、違うかもしれません。
   大阪市天王寺区の四天王寺に行った時、その地にあって、かつては、妊婦がその上を歩くとお産が楽になると言われて、多くの女性がその上を歩いていた石があり、そう信じられてきたけれども、考証を重ねて調査した結果、その石はかつてのお墓を覆う石として使われていたものだったらしいとわかり、それ以後は、その上を歩くということはしなくなった、という石が置かれていたのを見た。  『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』所収の岡野弘彦「神々の物語」には、上賀茂神社の橋本社について、≪・・この川の流れのそばに橋本社があって、古くは衣通(そとおり)姫を祭ると伝えていたが、いつのころからか藤原実方(さねかた)が祭神だとする伝えに変わった。 衣通(そとおり)姫は『万葉集』に歌の伝わっている女流歌人であり、実方も歌にまつわる伝説の多い風流才子で、・・・≫と書かれている。 上賀茂神社製作『京都歩くマップ―上賀茂・北山―』には、橋本社は≪和歌・芸能上達の神様であり女性に大きな力を下さる≫と書かれているが、御手洗(みたらし)川にかかる樟橋のたもとに設けられた社であり、本来は、橋が無事に長く利用できますように、川と橋の安全を祈る橋の神様だったのではないか。 四天王寺の石にしても、上賀茂神社の橋本社にしても、かつて、言われていたことと異なる説明がなされるようになることはあったわけです。 だから、今後も、今、説明されている内容が言われなくなって、別の説明がなされるようになる、ということはないとは言えないでしょう。
   今、解説されているお話をすべてつきつけると矛盾が生じるようなものもあるわけです。神社の社伝というのは、歴史ではなくお話ですから、辻褄が合わないものがあることは十分ありうることですが、どうも、上賀茂神社は辻褄が合わない話が多いような気がしました。 まあ、そういうものなのでしょうけれども、社殿の建物は見事でしたし、流造りの社殿は、近所でしばしば見かける社で見ると、簡略で荘厳さがないものが多いのですが、上賀茂神社の流れ造りは、大規模な本殿・権殿だけでなく、大きさは大きくない杉尾社とか棚尾社でも、さすが、重要文化財に指定されるだけあって、建築としてオーラを感じるものでした。

   6回では、境内の摂社や桜についてと、神域についての考え方について述べます。

  なお、当たり前みたいに何度も賽銭を要求する神さんに、「あれだけ 出すのに、どれだけ きついか きついか~あ」の歌を奉納
⇒《nicozon―ヤーレンソーラン北海道》http://www.nicozon.net/player.html?video_id=sm11119575&k=1402974927.0.1.53oxmknPIo6zKuhJhWkcuwMk9pI.aHR0cDovLzQ5LjIxMi4xNTkuMTgyL3JlZGlyZWN0L2luZGV4Lmh0bWw_dmlkZW9faWQ9c20xMTExOTU3NQ%3D%3D..


1.楼門・透廊・棚尾社・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_1.html
2.福音ルーテル賀茂川教会・賀茂川・御土居・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_2.html
3.斎王桜・外弊殿・神馬舎・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_3.html
4.細殿・橋殿・片岡橋・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_4.html

6.奈良神社・北神饌所・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_6.html

7.檜皮葺・大田神社・魯山人生誕地・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_7.html
8.深泥池・京都コンサートホール、摂社の構成・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_8.html
9.流造と切妻、不動産業の神「迦毛の大神」・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_9.html
もご覧くださいませ。
   (2014.5.5.) 

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