賀茂別雷神社[上賀茂神社]参拝6.「みあれ桜」「渉渓園」。「奈良神社」「庁屋(北神饌所)」の珍風景
[第258回]
【1】 権殿の正面の位置の西局の縁側まで入らせてもらえる「特別拝観」は、なんだか、疲れてしまった。 重要文化財に建物が指定されている摂社はいくつもあるのだが、半分、もういいや、て気分になってしまった。変な神職の態度を見て、こいつらアホや、と思い、そう思って見ると、上賀茂神社がやっている祭事・神事も、その多くは「やっている当事者自身が意味がわかっていないことをばかばかしく繰り返しているだけ」で、自分が矛盾していることをやりながら、それをもったいつけることにあくせくして、宗教的価値を下げてしまっているのではないか、と思え、そういう毒気にふれて気分がうっとおしくなってしまった。
【2】 今回、この神社を訪問先にした理由のひとつが、この時期でも桜が「満開」ということからだった。 上賀茂神社には「授与所」にあたるものが、楼門を入った左側と細殿の楼門に向って左手との2か所ある。 社務所は細殿の楼門に向って左手にある授与所のさらに左手の「西の鳥居」を出た所にある。
『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 』の「上賀茂神社境内地図」では、その西の鳥居の外側の社務所の所に、「朱印」のマークが書かれていて、御朱印はそちらでお願いするように書かれているが、私は、楼門を入って左側の所で書いていただいた。
『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道』に、「馬みくじ」の写真が出ており、たしかに、授与所に「馬みくじ」があった。 上賀茂神社は、古くから、馬と関わりの深い神社であることから、木製の小さな馬がおみくじを口にくわえたものが授与所で販売されているようだ。
細殿の楼門に向って左手にある授与所のさらに左手に、「みあれ桜」がある。↓
↑ 「みあれ桜」
≪5月12日、神迎えの神事(御阿礼)の時 この下を神幸する≫と説明書きが書かれています。
もっとも、↑この写真の撮影は4月20日ですが、5月12日においては、この桜の花はどうなっているのでしょう。
【3】 「ならの小川」の「橋殿(舞殿)」の下流側の橋 「祝橋」を奥の側に渡った所と本殿・権殿の後ろの山の所を、『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 』の「境内地図」には「浄地」と書かれている。 本殿・権殿の後ろの山には行きようがないのだが、祝橋は「橋殿」と違って渡ることができるようになっている。 この奥に向って右手(東側)に「二葉姫稲荷神社」があると、『古社名刹の旅3 ・・』の境内地図には出ている。
私は、今回、奈良神社と北神饌所(庁屋)の南側から東側に行きそこから北に行って、賀茂山口神社(澤田社)と二葉稲荷神社の間くらいの場所から東に行き、二葉稲荷神社に行きました。 階段を上がりかける所に、「京都市街が一望できます」と書かれた看板があった。 どう一望できたかというと↓ である。
↑ 「二葉稲荷姫神社」 から見た京都市街
最初、この「境内地図」を見て、「二葉姫稲荷神社」の「二葉」とはどこからついた名称だろうと思ったのだが、上賀茂神社(賀茂別雷神社)の紋が、「二葉の葵」だそうで、そこからではないか。 上の方でけなした「特別拝観」の時の若いボーズ・・・じゃなくて神職が説明してくれた話によると、徳川家の「三つ葉葵」の紋は、上賀茂神社の紋が「二葉の葵」の紋なので、同じ「二葉の葵」では「おそれおおい」ということで三つ葉にしたもので、本来は、葵という植物には「三つ葉」はないというのだ。 《ウィキペディア―三つ葉葵》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%81%A4%E8%91%89%E8%91%B5 を見ると、たしかに、≪葵紋(あおいもん)はウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化したもので、フタバアオイの通常の葉の数は2枚である。3つの葉をもつフタバアオイは稀で、三つ葉葵は架空のものである。≫と出ている。
もっとも、上賀茂神社で説明をしてくれた若い神職は「おそれおおい」ということで、徳川家は「二葉の葵」ではなく、葉をひとつ増やして「三つ葉葵」としたと話したのですが、能坂利雄『家紋のルーツ』(1991.8.5. ワニ文庫)を読むと、家紋というのは、その家の分家だったり家臣だったり、あるいは、近所に住んでいた人だったりが、もともとあった家紋に手を加えて複雑化して自分の家の家紋にしたということはしばしばあったようで、又、もとからあった家紋を複雑にして後から作られた家紋がけっこうあり、複雑な家紋の方が威厳があるように見える場合もあるが、実際は、一般に、単純な家紋の場合に比べて複雑な家紋の方が後から作られた支流・分家である場合が多いという。 徳川家の場合、≪本家は三つ葉の葉に対し、尾張家は表葉二つ裏一つ、紀伊家は表葉一つ裏葉二つ、水戸家は三葉とも裏葉を用いた。≫(『家紋のルーツ』)というように、「おそれおおい」かどうかといったことよりも、区別するために、部分的に改変を加えるということはよくおこなわれてきたことで、「上賀茂神社と一緒ではおそれおおいということで、徳川家は二葉の葵ではなく三葉葵にされた」というのは「神社的解釈」であって、その決めつけかたはあまり正確とは言えないのではないだろうか。 鎌倉の建長寺の法堂(はっとう)の天井に龍の絵が書かれていて、建長寺の法堂(はっとう)の龍は5本指で、日本では龍の指は3本だと思われているけれども、もともとはそうではなく、中国で書かれていた龍は5本指で、それが朝鮮に伝わって、朝鮮では勢力のある中国に遠慮して指を1本減らして4本指の龍が書かれ、それがさらに日本に伝わって、日本ではさらに1本減らして3本指の龍が書かれるようになったのであり、龍はもともとは5本指であり、龍の指は3本ということではない、という説明が書かれていたように記憶している。龍の絵の龍の指の数の場合は本家の方が多いようだ。 徳川家の祖先・松平家が賀茂氏となんらかの関係があった可能性を示すものではあっても、「おそれおおいということで」かどうかはわからない。
【4】 祝橋を渡った奥側の場所を、『古社名刹巡拝の旅3 』の境内地図には「浄地」と書かれているように、実際、その場所に行ってみると、そんな感じがしないでもなかった。 だから、その付近は、みだりに歩いてはならないのかと思ったが、しかし、そこを通って、摂社(or 末社)の岩本神社の前、賀茂山口神社(澤田神社)の拝殿と本殿の間、二葉姫稲荷神社に行く経路にも現実になっており、通っている人はいる
二葉稲荷神社に登る階段の下を西に小川の北側を小川に沿って行くと、「賀茂山口神社(沢田社)」という摂社の本殿が山側(北側)にある。 橋殿(舞殿)の下流側にある祝橋の下流、岩本社の付近で、ならの小川は2つに分かれ、その一方、東に流れる方の流れが、賀茂山口神社(沢田社)の「拝殿」と「本殿」の間を流れている。 私は、最初、賀茂山口神社(澤田社)は本殿のみが社殿かと思って、ふと振り返ると小川を隔てた背後の建物が「拝殿」だった。 その「拝殿」の前に出ようとすると、「渉渓園」↓の中に入ることになる。
↑ 「渉渓園」
『古社名刹巡拝の旅3 』には≪ 渉渓園はならの小川東岸に1960年(昭和35年)に造営された庭園。≫と出ている。 ということは、昔むかしからあるものではなく、50年少々前に造られたものらしい。 自宅に戻ってから、同書の境内地図を見ると、渉渓園の入口の所に「通行不可」と書いてあったが、しかし、現地にはそのようなことは書かれていなかったので、通行してきたし、他の人も通行していた。 後から言われてもどうしようもない。この本が作成された時点では「通行不可」だったのかもしれない。
それで、だ。 不自然な印象を受けた所が2か所あった。 二葉姫稲荷神社に行くためには、祝橋を渡った上で、賀茂山口神社(沢田社)の拝殿と本殿の間を通っていくか、渉渓園の東側をぐるっとまわって行くことになる。 祝橋は通行可の橋であり、通行してよいはずであるが、渡った場所は「浄地」とされている場所で、そういう雰囲気があったと思うのだ。 そこを山沿いに東に進んで岩本社の前、賀茂山口神社(澤田社)の本殿と拝殿の間を通って二葉姫稲荷神社に行くことも現実にできるのだが、その「浄地」というのは、二葉姫稲荷神社へ行く経路としては不自然な感じがしたのだ。 そこが「浄地」であって、通路ではないのではないか、と思ったのだ。
もうひとつは、ある神社に行く参道というのか経路というのかが、他の神社の拝殿と本殿の間を通るなどということがあるだろうか。
賀茂山口神社(沢田社)は、上賀茂神社製作『京都歩くマップ―上賀茂・北山―』には≪稲作等豊作をもたらすとともに 子供の成長・合格祈願・交通安全・必勝を導く神様≫と書かれている。 その左手の小川が分流した付近の山手にある岩本神社は≪航海・交通安全の神様≫だそうだ。
≪稲作等豊作をもたらすとともに 子供の成長・合格祈願・交通安全・必勝を導く神様≫だという割には、他の神社に行くための経路が拝殿と本殿の間を横切るというのは、扱いが低くないか? また、この神社に参拝するには、この本の境内地図などを見ずに現地に行った人には本殿の前で拝む人が多いのではないかと思うが、神社というものは、摂社であろうが末社であろうが、基本的には拝殿の前で拝むものではないだろうか。 ところが、二葉稲荷神社への参道というのか経路というのかが、賀茂山口神社(沢田社)の拝殿と本殿の間を横切っていて、又、拝殿の前に出ようとすると、渉渓園の中に入らなければならないので、拝殿と本殿が分離したような感じになってしまっているのだ。
自宅に戻ってから、『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 』を再度、見て、そういうことか・・と思ったのは、この渉渓園という、ならの小川から水をひいてきて曲がった流れを作り、そこで、≪東西一流の歌人が平安時代の衣装で参加し、川に杯を流して到着するまでに和歌を詠む。≫という≪曲水宴≫という催しをするように作られた庭園は、たかだか、50年ほど前に作られたものであり、その前はなかったのだ。 だから、この庭園ができる前は、今はこの庭園となっている部分を通って、賀茂山口神社(沢田社)の拝殿の前まで行けたし、二葉姫稲荷神社にも賀茂山口神社(沢田社)の拝殿と本殿の間を横切らなくても今は渉渓園となっている場所を通って行くことができたのだ。 この庭園は、そういったそれまでの摂社の配置を無視して、無理矢理作ったような庭園であり、それを作ったために、一方で「浄地」と指定している場所を通路とし、ある神社の拝殿と本殿の間を横切って他の神社に進むようなことになってしまった、ということではないか。 どうも、この上賀茂神社には、そういう矛盾したものが多いような印象を受ける。
そもそも、この21世紀において、不労所得で食っておった平安時代の貴族の格好をわざわざして、≪川に杯を流して到着するまでに和歌を詠む。≫などという、「歌」の内容よりも、時間内にとにかく「歌」を作るという技巧にこだわった、あんまり健康的とはいえない、退廃的な行事をやらなければならない理由があるだろうか・・・という思考が上賀茂神社の運営者には欠落しているのではないか。 だから、摂社 賀茂山口神社(沢田社)の拝殿と本殿の間を横切って二葉姫稲荷神社に進むことになるような境内の作成をすることになるのだ。 私が進み方を間違えたのだろうか。 そうではないと思うし、他の人も同じように通っていた。 平安時代の貴族の格好をして≪川に杯を流して到着するまでに和歌を詠む≫というあまり生産的とも言えない、庶民的でない行事を復活させたりしているのを知ると、「葵祭り」というのも、すべてが絶対に悪いということではないとしても、なんだか、変なことやってるようにも思えてくる。
※上賀茂神社(賀茂別雷神社)の境内地図は、
⇒《上賀茂神社 HP》「境内案内」http://www.kamigamojinja.jp/guide/index.html
【5】 さらに、↓を見ていただきたい。
↑ 「奈良鳥居」(手前) 「奈良神社」 (重要文化財)〔左〕、 「庁屋」(北神饌所) (重要文化財)〔右〕
(↑↓ 写真はすべて、クリックすると大きくなります。↑↓)
手前右が「奈良鳥居」、左が「奈良神社」で、その右の長い建物が「庁屋」「北神饌所」という建物だそうで、奈良神社と庁屋(北神饌所)は重要文化財に指定されているそうです。
「奈良神社」とは、『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』所収の岡野弘彦「神々の物語」には≪また摂社の奈良神社は神々の食事のことをつかさどる神で、奈良刀自神(ならとじのかみ)を祭っている。 刀自というのは、家事をつかさどる一家の主婦役の女性のことで、古代にさかのぼればさかのぼるほどその力は大きく、一家の祭祀権や管理権をもっていた。そういう女性神を摂社に祭ることになった昔の人の心の周到さがおもしろい。・・≫と出ている。 上賀茂神社製作『京都歩くマップ―上賀茂・北山―』には≪飲食業・料理上達の神様≫と出ている。
↑ 庁屋(北神饌所) (重要文化財)
(↑ 写真はクリックすると大きくなります。)
「神饌」とは、《コトバンク 神饌》http://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E9%A5%8C には、≪神への供物として用いられる飲食物の総称。・・≫と出ている。
「神饌所」とは、《Weblio辞書 神饌所》http://www.weblio.jp/content/%E7%A5%9E%E9%A5%8C%E6%89%80 を見ると、 岡山県神社庁 による説明らしいのですが、≪神饌を調理し格納する所。 ≫と出ています。
この建物は、国の重要文化財に指定されている建物である。
ところで、「庁屋」「北神饌所」の写真をここで3枚掲載したが、上の2枚では、この重要文化財の建物の縁側に、女性が3人乗って、その前に、けっこう高そうなカメラを首に下げたおじいちゃんたちが何人も集まっているのですが、彼らは何をやっていると思いますか?
私は、今回、彼らの一団と、最初、「斎王桜」(《賀茂別雷神社参拝3.》 の2番目の写真を参照。)の所で出くわしたのです。 私が斎王桜の所を去って次の箇所に進もうかとしていた時に来たのです。 40前後くらいのおばさん というのか、そう言ってはかわいそうだからおねえさんが斎王桜の前に立って、それをけっこう高そうなカメラを持ったおじいさんが撮影しようとしていたので、家族づれで来て、結婚したのかしないうちに年齢がいってしまったのかの娘か、もしくは、嫁の写真を、写真好きのおじいちゃんが「斎王桜」と名称のついた花の咲いている桜の木の前で撮ってあげようとしているのか・・と思ったのです。 最初、そんな感じに見えたのです。 ところが、先導役みたいなおっさんがいて、「桜の前に美女を前にして撮るのもいい」とか言っているのが聞こえたので、え? “ 美女 ”か? あのおばさんが? というのが正直な感想だったのだが、そう言えば、その一団は、家族連れではなく、比較的高そうなカメラを首にさげたおじいさんが何人もいて、その女性は、「美女」かどうかはともかく、それほどギャラの高くないモデルさんだったようです。 おじいちゃんたちにとっては、アラフォーくらいの女性でも、「若い美女」に感じるということだったのかもしれません。 「美女と名所旧跡を一緒にあなたも写真を撮る」とかいうツアーか何かだったのじゃないでしょうか。 もともと、高齢者対象のもので、だから、用意された「美女」もおじいちゃんに合わせてアラフォーくらいの女性だった、ということか、それとも、そんなもの、参加するのはおじいちゃんしかいなかった、ということか、どちらかだったのでしょう。 なんか、あほくさいことやっとるな、とも思ったけれども、引退後のおじいちゃんが楽しみでやってるなら、まあ、いいんじゃないの・・・と思って、スル―しました。
ところが、本殿・権殿の参拝を終えて、奈良神社・庁屋(北神饌所)の所に来ると、その一団がそこにまたいたのです。 斎王桜のところでは、女性がひとり、斎王桜の前に立っているだけでしたが、今度は、女性が3人いて、その3人が、「庁屋(北神饌所)」の上に乗って、ポーズをとり、それをおじいちゃんたちが取り囲んでいたのです。 斎王桜の前で見た時には、あのおばちゃんが「美女」だとしてモデルできるんなら、俺だって「超美男」でモデルできんじゃないのかあ~あ? とか思ったのですが、さすがに、それを仕事にしている人だけあって、ポーズをとらせると、さりげなくそれなりの格好をとってみせるようです。
でもね。 1番に、ここって、そういうことをしていい場所なのでしょうか。 斎王桜の所では、斎王桜の周囲に来場者はそれより内側に入らないように囲いがあって、モデルのおばねーちゃんは、その囲いの外側に立っていたのです。 だから、まあ、好きにすればいいんじゃない・・と思ったのですが、この庁屋(北神饌所)では、一般参拝者は立ち入り不可の所に彼らは入っていたのです。 そして、「(建築家+建築屋)÷2」でインテリアコーディネーターで「神社建築研究家」で「宗教哲学者」の私でも立ち入らせてもらえない、触れることができない場所に上がり込んでいたのです。 「美女」の写真を撮影するために。
「神饌所」というのは、名称から考えて、神様に捧げる食物を用意する所か? と思ったのですが、神社にとっては、けっこう神聖な場所ではないのでしょうか。 すぐ前に≪神々の食事のことをつかさどる神≫である「奈良刀自神(ならとじのかみ)」を祀る「奈良神社」があるので、そのつながりの建物なのでしょうか。 『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』に掲載されている《賀茂社の宝物「御神宝」》の写真に上賀茂神社所蔵の≪鎌倉時代頃の境内図を室町時代になって写したものといわれている≫「賀茂別雷神社境内絵図」がありますが、それを見ると、鎌倉時代頃にも、社殿の主な配置は現在と大きく変わっていないようで、そして、奈良神社と庁屋(北神饌所)の周囲には、今は存在しない塀がめぐらされており、奈良神社と北神饌所 とは境内摂社ではあっても、他の摂社とは違って、かなり大きな存在感というのか、大きな位置をしめているように見受けられます。 伊勢神宮では、外宮の祭神はトヨウケヒメで、内宮の祭神であるアマテラスオオミカミの食事を担当する神だとされるようで、神の食事を担当する神というのが、伊勢神宮では、内宮の神と同格に近い扱いを受けているのですが、鎌倉時代頃の境内を室町時代に描いたという「賀茂別雷神社境内絵図」を見ると、上賀茂神社(賀茂別雷神社)でも、神々の食事をつかさどる神だという「奈良刀自神」を祀る「奈良神社」とそれに続く「北神饌所」とその周囲が、他の摂社よりも高い評価、大きな位置づけ、本殿・権殿に次ぐような立場にあるようで、他の多くの摂社よりも本殿から離れた位置にあるのは、摂社の中での立場が低いからではなく、いわば、伊勢神宮の外宮のような立場にあるように見受けられます。
建築物としては、「庁屋(北神饌所)」というのは、「奈良神社」とともに、国の重要文化財に指定されているもので、上賀茂神社自体は、「ユニセフ世界遺産」の「文化遺産」で「古都京都の文化財」として指定された17件のうちの1件なのです。 相当、大事に扱わないといけないもののはずなんです。
北神饌所の縁側にあがりこんで変なポーズとってるおばねーちゃんたちって、こういうこと、わかってあがりこんでいるでしょうか? わかってないのと違いますか? その一団、先導しているおっさんって、わかって案内していますか? わかってないのと違いますか?
2番目の問題。 なんで、神社の写真を撮るのに「美女」が必要なのですか? おじいちゃんたちにとっては、アラフォーくらいの女性が「若い女性」に見えるのでしょうけれども、なんで、神社の写真に「美女」が必要なのですか? それとも、「美女」の写真を撮りたかったのでしょうか? それなら、なぜ、神社の重要文化財に指定されている建物にあがりこんで撮らないといけないのですか? 他で撮ればいいのと違うのですか? そう思いませんか?
私がこのブログで公開した写真にも、「人」は入っていると思いますが、それは、参拝時・訪問時において、そこに参拝に来ていた普通の人です。 本来、そこにいない人を、わざとらしく用意したのではありません。 神社や寺を訪問した際に、写真を撮影する場合、そこには参拝者がいる方が自然であり、特に建物のこの部分を撮影したいという場合には、そこを撮影できるように、撮影に支障が出る位置に人がいる場合には、いなくなってから撮影するということをしますが、そうでなければ、特にアップで撮影するには御本人に断って撮るべきでしょうけれども、遠景の中に入る場合には、入っていただいていいと思って撮っています。 神社や寺の写真にはそういう人はいた方が自然、神社や寺の写真にはそういう人は写っていない方が不自然だと思うのです。
それに対して、この一団のおばねーちゃんのモデルさんは、普段はそこにいないような人をわざわざ連れてきているのです。 かつ、おばねーちゃんとはいえ、モデルを職業にしている人だけあって、ポーズをとったりするのがしろうとと違うのです。 しろうとと違うので、見ていると、「普通の人間」ならしないようなしぐさをとったりするのです。 そんな写真、何か意味あると思いますか?
『幸せになるためのイタリア語講座』というデンマークのデンマーク語での映画のDVDを見ていますと、この映画の女性の映画監督が、この映画を撮影する際に基本としたものがいくつかあげられていましたが、「その場所に、本来、存在しないような音楽を映画のために流すということはしない」というものがありました。
ヴィットリオ=デ=シーカ監督のイタリアの映画『自転車泥棒』では、仕事の道具である自転車を盗まれ、取り返そうとして、小さな息子とともに犯人を探し歩き、疲れて入った食堂で音楽師が演奏するのはエドアルド=二コラルディ作詞・E=A=マリオ作曲『黒い落とし子(TAMMURRIATA NERA)』(1944年)という実際にイタリアの食堂で演奏されそうな曲でした。 旧ソ連の映画『ジプシーは空に帰る』を撮影するために、その監督は、「ジプシー」(ロマ)の音楽を調べるために旧ソ連の「ジプシー」(ロマ)が住む地域を何カ月も歩きまわってその音楽を調べたと本で読みました。
※《ニコニコ動画―自転車泥棒4》http://www.nicovideo.jp/watch/sm19010401
『黒い落し子』が歌われるレストランの場面は↑の前3分の1くらいの所にあります。
※《ニコニコ動画―ジプシーは空に消える その1 字幕》http://www.nicovideo.jp/watch/sm8279337
『トムとジェリー』というアメリカ合衆国のアニメーションがあります。 それに「ナポリよいとこ」というトムとジェリーがナポリに行った時の設定の話がありますが、それを視聴していた私は感心したのです。 そこで、ナポリのネズミが、トムとジェリーに歌って聴かせる歌がナポリ民謡であるだけではなく、登場人物(登場動物?)が追いかけっこをする時のバックミュージックも「ダンツァ」というナポリ地方の音楽で、他にも「サンタルチア」がバックミュージックにかかったり、その土地の音楽をバックミュージックに使っているのです。
※「ダンツァ」については、
⇒《YouTube―Luciano Pavarotti - La Danza: Tarantella Napolitana 》http://www.youtube.com/watch?v=5FsKXrLMBt4
※『トムとジェリー』の「ナポリよいとこ」の話もインターネットにありました。
⇒《nicotter―トムとジェリー ナポリよいとこ 》http://nicotter.net/watch/sm17991524
『トムとジェリー』はさすがだなあ、と感心しました。 日本のテレビドラマなら、よく考えずにありきありの歌謡曲か何かをバックミュージックに流すでしょう。 日本のテレビ番組で、『世界の車窓から』という番組がありますが、それで、バイカル湖のほとりをシベリア鉄道で進む場面で、バックミュージックにかかったのは、『バイカル湖のほとり』ではなく、チャイコフスキーの音楽でした。 バイカル湖の付近はロシア連邦⇒ロシア連邦の音楽家⇒チャイコフスキー という短絡的な発想だったのでしょう。 『バイカル湖のほとり』『聖なる湖 大いなるバイカル』といったロシア民謡を期待した者としては、がっかりでした。 もっとも、『バイカル湖のほとり』『聖なる湖 大いなるバイカル』にしても、ロシア人としては、帝政ロシアの時代に、シルカ・ネルチンスクといったこれより東のシベリアの収容所に送られた政治犯の悲しい物語の歌であったとしても、この付近は、昔むかしからロシア人の居住地域であったわけではなく、アジア人の原住民からすれば、たとえ、シベリアの収容所に入れられた政治犯の悲しい物語の歌であったとしても、侵略者の歌であることに変わりはない・・・かもしれませんけれども。 そういうことはあったとしても、子ども向けのアニメーションであっても、ナポリを場所としての話ではバックミュージックもナポリ地方の音楽を流すようにして作られている『トムとジェリー』に対して、バイカル湖⇒ロシア連邦⇒チャイコフスキー という短絡的な発想の『世界の車窓から』にはがっかりしました。
※バイカル湖と「聖なる湖 大いなるバイカル」は
⇒「YouTube-The Holy Baikal - old russian song 」http://www.youtube.com/watch?v=mh89Dsm_4Dk
⇒「YouTube-Don Kosaken Chor - Baikal」http://www.youtube.com/watch?v=Rt-O0js0EW8&list=PLDB3F4EA4065A86F0&index=17
さて、『トムとジェリー』の「ナポリよいとこ」のバックミュージックの選び方とか、デンマーク映画『幸せになるためのイタリア語講座』で監督が実際にその場所にない音楽を映画のために意図的に入れるということはしないという方針をとったという点などを考えた上で、上賀茂神社の北神饌所(庁屋)で、普段、そこにそんな人があがりこまない縁側にあがりこんで、普段、そこで人はそのようなポーズをとらないようなポーズをとっていた女性の姿を考えてみてください。 余計だと思いませんか? その場所にその不自然な女性は余計な存在だと思いませんか? そんな写真撮影会を計画した人たちって、愚劣だと思いませんか?
ところで、上賀茂神社(賀茂別雷神社)の神職さんたちは、なにゆえ、彼らのこの不自然で神社にそぐわない「撮影会」を許可したのでしょうか。 「神社建築研究家」で「宗教哲学者」で「(建築家+建築屋)÷2」の私が、心を尽くし精神を尽くし、礼儀をつくした上で、西局の中庭側の縁側から見える範囲の写真を撮らせてもらうことは可能でしょうかと質問したのに、黙って撮影する人に怒るのならまだわかりますが、礼儀を尽くしてお尋ねしている者に対して、なんだ、その不謹慎な態度はあ!というような嫌悪感まるだしの無礼な対応をボースがしたくせに。 ・・・・もしかして、「山吹色の餅」か「山吹色の饅頭」でも神職に贈答すれば、「上州屋、ぬしもワルよのお。くっくっく。」「いやいや。お代官さまほどではおじゃりませぬ。いっしっし。」とかいうことになるのなら、それなら、その「山吹色の餅」だか「山吹色の毒まんじゅう」だかがどのくらいの額が必要か教えてくれれば、私のような貧乏人でも用意できる額なのか、麻生さんか鳩山さんでもないと用意できない額なのか判断するのに。 ちなみに、上の北神饌所(庁屋)の前にたむろしているおじいちゃんたちの一団の愚劣な写真撮影会を企画した団体のおっさんは、「山吹色の餅」だか「山吹色の毒まんじゅう」だかをいかほど進呈したのでしょう・・・・・・・ね。
【6】 「ならの小川」
↑ 「ならの小川」
『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』所収の岡野弘彦「神々の物語」には、≪・・下社に昔の相楽郡賀茂町の木津川のほとりの社地にちなんだ「泉川」があったように、この上社にも奈良の都をしのぶ「ならの小川」があるのも、昔の人の心のやさしさを思わせる。≫、 ≪ならの小川というのも、あるいはこの神〔摂社 奈良神社の祭神 奈良刀自神(ならとじのかみ)〕にちなんだ名であったかもしれない。 ≫と出ている。 「歌人」だという岡野弘彦氏も、賀茂社とゆかりがあるという賀茂氏が大和の国の葛城のあたりからこの山城の国の賀茂のあたりに移ってきたという説から、かつていた奈良県の「なら」から「ならの小川」という名前をつけたのか、それとも、「奈良刀自神」の「奈良」なのかわからずに書いているようだ。 もっとも、岡野弘彦氏に限らず、絶対にこうだとは、もはや、誰もわからないだろうけれども、わかっていないにしては、≪昔の人の心のやさしさを思わせる≫という感想は、少々、決めつけすぎのような印象を受ける。
☆ 《賀茂別雷神社参拝》9部作、
1.楼門・透廊・棚尾社・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_1.html
2.福音ルーテル賀茂川教会・賀茂川・御土居・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_2.html
3.斎王桜・外弊殿・神馬舎・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_3.html
4.細殿・橋殿・片岡橋・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_4.html
5.弊殿・「特別拝観」・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_5.html
7.檜皮葺・大田神社・魯山人生誕地・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_7.html
8.深泥池・京都コンサートホール、摂社の構成・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_8.html
9.流造と切妻、不動産業の神「迦毛の大神」・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_9.html
も、御覧下さいませ。
(2014.5.5.)
【1】 権殿の正面の位置の西局の縁側まで入らせてもらえる「特別拝観」は、なんだか、疲れてしまった。 重要文化財に建物が指定されている摂社はいくつもあるのだが、半分、もういいや、て気分になってしまった。変な神職の態度を見て、こいつらアホや、と思い、そう思って見ると、上賀茂神社がやっている祭事・神事も、その多くは「やっている当事者自身が意味がわかっていないことをばかばかしく繰り返しているだけ」で、自分が矛盾していることをやりながら、それをもったいつけることにあくせくして、宗教的価値を下げてしまっているのではないか、と思え、そういう毒気にふれて気分がうっとおしくなってしまった。
【2】 今回、この神社を訪問先にした理由のひとつが、この時期でも桜が「満開」ということからだった。 上賀茂神社には「授与所」にあたるものが、楼門を入った左側と細殿の楼門に向って左手との2か所ある。 社務所は細殿の楼門に向って左手にある授与所のさらに左手の「西の鳥居」を出た所にある。
『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 』の「上賀茂神社境内地図」では、その西の鳥居の外側の社務所の所に、「朱印」のマークが書かれていて、御朱印はそちらでお願いするように書かれているが、私は、楼門を入って左側の所で書いていただいた。
『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道』に、「馬みくじ」の写真が出ており、たしかに、授与所に「馬みくじ」があった。 上賀茂神社は、古くから、馬と関わりの深い神社であることから、木製の小さな馬がおみくじを口にくわえたものが授与所で販売されているようだ。
細殿の楼門に向って左手にある授与所のさらに左手に、「みあれ桜」がある。↓
↑ 「みあれ桜」
≪5月12日、神迎えの神事(御阿礼)の時 この下を神幸する≫と説明書きが書かれています。
もっとも、↑この写真の撮影は4月20日ですが、5月12日においては、この桜の花はどうなっているのでしょう。
【3】 「ならの小川」の「橋殿(舞殿)」の下流側の橋 「祝橋」を奥の側に渡った所と本殿・権殿の後ろの山の所を、『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 』の「境内地図」には「浄地」と書かれている。 本殿・権殿の後ろの山には行きようがないのだが、祝橋は「橋殿」と違って渡ることができるようになっている。 この奥に向って右手(東側)に「二葉姫稲荷神社」があると、『古社名刹の旅3 ・・』の境内地図には出ている。
私は、今回、奈良神社と北神饌所(庁屋)の南側から東側に行きそこから北に行って、賀茂山口神社(澤田社)と二葉稲荷神社の間くらいの場所から東に行き、二葉稲荷神社に行きました。 階段を上がりかける所に、「京都市街が一望できます」と書かれた看板があった。 どう一望できたかというと↓ である。
↑ 「二葉稲荷姫神社」 から見た京都市街
最初、この「境内地図」を見て、「二葉姫稲荷神社」の「二葉」とはどこからついた名称だろうと思ったのだが、上賀茂神社(賀茂別雷神社)の紋が、「二葉の葵」だそうで、そこからではないか。 上の方でけなした「特別拝観」の時の若いボーズ・・・じゃなくて神職が説明してくれた話によると、徳川家の「三つ葉葵」の紋は、上賀茂神社の紋が「二葉の葵」の紋なので、同じ「二葉の葵」では「おそれおおい」ということで三つ葉にしたもので、本来は、葵という植物には「三つ葉」はないというのだ。 《ウィキペディア―三つ葉葵》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%81%A4%E8%91%89%E8%91%B5 を見ると、たしかに、≪葵紋(あおいもん)はウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化したもので、フタバアオイの通常の葉の数は2枚である。3つの葉をもつフタバアオイは稀で、三つ葉葵は架空のものである。≫と出ている。
もっとも、上賀茂神社で説明をしてくれた若い神職は「おそれおおい」ということで、徳川家は「二葉の葵」ではなく、葉をひとつ増やして「三つ葉葵」としたと話したのですが、能坂利雄『家紋のルーツ』(1991.8.5. ワニ文庫)を読むと、家紋というのは、その家の分家だったり家臣だったり、あるいは、近所に住んでいた人だったりが、もともとあった家紋に手を加えて複雑化して自分の家の家紋にしたということはしばしばあったようで、又、もとからあった家紋を複雑にして後から作られた家紋がけっこうあり、複雑な家紋の方が威厳があるように見える場合もあるが、実際は、一般に、単純な家紋の場合に比べて複雑な家紋の方が後から作られた支流・分家である場合が多いという。 徳川家の場合、≪本家は三つ葉の葉に対し、尾張家は表葉二つ裏一つ、紀伊家は表葉一つ裏葉二つ、水戸家は三葉とも裏葉を用いた。≫(『家紋のルーツ』)というように、「おそれおおい」かどうかといったことよりも、区別するために、部分的に改変を加えるということはよくおこなわれてきたことで、「上賀茂神社と一緒ではおそれおおいということで、徳川家は二葉の葵ではなく三葉葵にされた」というのは「神社的解釈」であって、その決めつけかたはあまり正確とは言えないのではないだろうか。 鎌倉の建長寺の法堂(はっとう)の天井に龍の絵が書かれていて、建長寺の法堂(はっとう)の龍は5本指で、日本では龍の指は3本だと思われているけれども、もともとはそうではなく、中国で書かれていた龍は5本指で、それが朝鮮に伝わって、朝鮮では勢力のある中国に遠慮して指を1本減らして4本指の龍が書かれ、それがさらに日本に伝わって、日本ではさらに1本減らして3本指の龍が書かれるようになったのであり、龍はもともとは5本指であり、龍の指は3本ということではない、という説明が書かれていたように記憶している。龍の絵の龍の指の数の場合は本家の方が多いようだ。 徳川家の祖先・松平家が賀茂氏となんらかの関係があった可能性を示すものではあっても、「おそれおおいということで」かどうかはわからない。
【4】 祝橋を渡った奥側の場所を、『古社名刹巡拝の旅3 』の境内地図には「浄地」と書かれているように、実際、その場所に行ってみると、そんな感じがしないでもなかった。 だから、その付近は、みだりに歩いてはならないのかと思ったが、しかし、そこを通って、摂社(or 末社)の岩本神社の前、賀茂山口神社(澤田神社)の拝殿と本殿の間、二葉姫稲荷神社に行く経路にも現実になっており、通っている人はいる
二葉稲荷神社に登る階段の下を西に小川の北側を小川に沿って行くと、「賀茂山口神社(沢田社)」という摂社の本殿が山側(北側)にある。 橋殿(舞殿)の下流側にある祝橋の下流、岩本社の付近で、ならの小川は2つに分かれ、その一方、東に流れる方の流れが、賀茂山口神社(沢田社)の「拝殿」と「本殿」の間を流れている。 私は、最初、賀茂山口神社(澤田社)は本殿のみが社殿かと思って、ふと振り返ると小川を隔てた背後の建物が「拝殿」だった。 その「拝殿」の前に出ようとすると、「渉渓園」↓の中に入ることになる。
↑ 「渉渓園」
『古社名刹巡拝の旅3 』には≪ 渉渓園はならの小川東岸に1960年(昭和35年)に造営された庭園。≫と出ている。 ということは、昔むかしからあるものではなく、50年少々前に造られたものらしい。 自宅に戻ってから、同書の境内地図を見ると、渉渓園の入口の所に「通行不可」と書いてあったが、しかし、現地にはそのようなことは書かれていなかったので、通行してきたし、他の人も通行していた。 後から言われてもどうしようもない。この本が作成された時点では「通行不可」だったのかもしれない。
それで、だ。 不自然な印象を受けた所が2か所あった。 二葉姫稲荷神社に行くためには、祝橋を渡った上で、賀茂山口神社(沢田社)の拝殿と本殿の間を通っていくか、渉渓園の東側をぐるっとまわって行くことになる。 祝橋は通行可の橋であり、通行してよいはずであるが、渡った場所は「浄地」とされている場所で、そういう雰囲気があったと思うのだ。 そこを山沿いに東に進んで岩本社の前、賀茂山口神社(澤田社)の本殿と拝殿の間を通って二葉姫稲荷神社に行くことも現実にできるのだが、その「浄地」というのは、二葉姫稲荷神社へ行く経路としては不自然な感じがしたのだ。 そこが「浄地」であって、通路ではないのではないか、と思ったのだ。
もうひとつは、ある神社に行く参道というのか経路というのかが、他の神社の拝殿と本殿の間を通るなどということがあるだろうか。
賀茂山口神社(沢田社)は、上賀茂神社製作『京都歩くマップ―上賀茂・北山―』には≪稲作等豊作をもたらすとともに 子供の成長・合格祈願・交通安全・必勝を導く神様≫と書かれている。 その左手の小川が分流した付近の山手にある岩本神社は≪航海・交通安全の神様≫だそうだ。
≪稲作等豊作をもたらすとともに 子供の成長・合格祈願・交通安全・必勝を導く神様≫だという割には、他の神社に行くための経路が拝殿と本殿の間を横切るというのは、扱いが低くないか? また、この神社に参拝するには、この本の境内地図などを見ずに現地に行った人には本殿の前で拝む人が多いのではないかと思うが、神社というものは、摂社であろうが末社であろうが、基本的には拝殿の前で拝むものではないだろうか。 ところが、二葉稲荷神社への参道というのか経路というのかが、賀茂山口神社(沢田社)の拝殿と本殿の間を横切っていて、又、拝殿の前に出ようとすると、渉渓園の中に入らなければならないので、拝殿と本殿が分離したような感じになってしまっているのだ。
自宅に戻ってから、『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 』を再度、見て、そういうことか・・と思ったのは、この渉渓園という、ならの小川から水をひいてきて曲がった流れを作り、そこで、≪東西一流の歌人が平安時代の衣装で参加し、川に杯を流して到着するまでに和歌を詠む。≫という≪曲水宴≫という催しをするように作られた庭園は、たかだか、50年ほど前に作られたものであり、その前はなかったのだ。 だから、この庭園ができる前は、今はこの庭園となっている部分を通って、賀茂山口神社(沢田社)の拝殿の前まで行けたし、二葉姫稲荷神社にも賀茂山口神社(沢田社)の拝殿と本殿の間を横切らなくても今は渉渓園となっている場所を通って行くことができたのだ。 この庭園は、そういったそれまでの摂社の配置を無視して、無理矢理作ったような庭園であり、それを作ったために、一方で「浄地」と指定している場所を通路とし、ある神社の拝殿と本殿の間を横切って他の神社に進むようなことになってしまった、ということではないか。 どうも、この上賀茂神社には、そういう矛盾したものが多いような印象を受ける。
そもそも、この21世紀において、不労所得で食っておった平安時代の貴族の格好をわざわざして、≪川に杯を流して到着するまでに和歌を詠む。≫などという、「歌」の内容よりも、時間内にとにかく「歌」を作るという技巧にこだわった、あんまり健康的とはいえない、退廃的な行事をやらなければならない理由があるだろうか・・・という思考が上賀茂神社の運営者には欠落しているのではないか。 だから、摂社 賀茂山口神社(沢田社)の拝殿と本殿の間を横切って二葉姫稲荷神社に進むことになるような境内の作成をすることになるのだ。 私が進み方を間違えたのだろうか。 そうではないと思うし、他の人も同じように通っていた。 平安時代の貴族の格好をして≪川に杯を流して到着するまでに和歌を詠む≫というあまり生産的とも言えない、庶民的でない行事を復活させたりしているのを知ると、「葵祭り」というのも、すべてが絶対に悪いということではないとしても、なんだか、変なことやってるようにも思えてくる。
※上賀茂神社(賀茂別雷神社)の境内地図は、
⇒《上賀茂神社 HP》「境内案内」http://www.kamigamojinja.jp/guide/index.html
【5】 さらに、↓を見ていただきたい。
↑ 「奈良鳥居」(手前) 「奈良神社」 (重要文化財)〔左〕、 「庁屋」(北神饌所) (重要文化財)〔右〕
(↑↓ 写真はすべて、クリックすると大きくなります。↑↓)
手前右が「奈良鳥居」、左が「奈良神社」で、その右の長い建物が「庁屋」「北神饌所」という建物だそうで、奈良神社と庁屋(北神饌所)は重要文化財に指定されているそうです。
「奈良神社」とは、『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』所収の岡野弘彦「神々の物語」には≪また摂社の奈良神社は神々の食事のことをつかさどる神で、奈良刀自神(ならとじのかみ)を祭っている。 刀自というのは、家事をつかさどる一家の主婦役の女性のことで、古代にさかのぼればさかのぼるほどその力は大きく、一家の祭祀権や管理権をもっていた。そういう女性神を摂社に祭ることになった昔の人の心の周到さがおもしろい。・・≫と出ている。 上賀茂神社製作『京都歩くマップ―上賀茂・北山―』には≪飲食業・料理上達の神様≫と出ている。
↑ 庁屋(北神饌所) (重要文化財)
(↑ 写真はクリックすると大きくなります。)
「神饌」とは、《コトバンク 神饌》http://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E9%A5%8C には、≪神への供物として用いられる飲食物の総称。・・≫と出ている。
「神饌所」とは、《Weblio辞書 神饌所》http://www.weblio.jp/content/%E7%A5%9E%E9%A5%8C%E6%89%80 を見ると、 岡山県神社庁 による説明らしいのですが、≪神饌を調理し格納する所。 ≫と出ています。
この建物は、国の重要文化財に指定されている建物である。
ところで、「庁屋」「北神饌所」の写真をここで3枚掲載したが、上の2枚では、この重要文化財の建物の縁側に、女性が3人乗って、その前に、けっこう高そうなカメラを首に下げたおじいちゃんたちが何人も集まっているのですが、彼らは何をやっていると思いますか?
私は、今回、彼らの一団と、最初、「斎王桜」(《賀茂別雷神社参拝3.》 の2番目の写真を参照。)の所で出くわしたのです。 私が斎王桜の所を去って次の箇所に進もうかとしていた時に来たのです。 40前後くらいのおばさん というのか、そう言ってはかわいそうだからおねえさんが斎王桜の前に立って、それをけっこう高そうなカメラを持ったおじいさんが撮影しようとしていたので、家族づれで来て、結婚したのかしないうちに年齢がいってしまったのかの娘か、もしくは、嫁の写真を、写真好きのおじいちゃんが「斎王桜」と名称のついた花の咲いている桜の木の前で撮ってあげようとしているのか・・と思ったのです。 最初、そんな感じに見えたのです。 ところが、先導役みたいなおっさんがいて、「桜の前に美女を前にして撮るのもいい」とか言っているのが聞こえたので、え? “ 美女 ”か? あのおばさんが? というのが正直な感想だったのだが、そう言えば、その一団は、家族連れではなく、比較的高そうなカメラを首にさげたおじいさんが何人もいて、その女性は、「美女」かどうかはともかく、それほどギャラの高くないモデルさんだったようです。 おじいちゃんたちにとっては、アラフォーくらいの女性でも、「若い美女」に感じるということだったのかもしれません。 「美女と名所旧跡を一緒にあなたも写真を撮る」とかいうツアーか何かだったのじゃないでしょうか。 もともと、高齢者対象のもので、だから、用意された「美女」もおじいちゃんに合わせてアラフォーくらいの女性だった、ということか、それとも、そんなもの、参加するのはおじいちゃんしかいなかった、ということか、どちらかだったのでしょう。 なんか、あほくさいことやっとるな、とも思ったけれども、引退後のおじいちゃんが楽しみでやってるなら、まあ、いいんじゃないの・・・と思って、スル―しました。
ところが、本殿・権殿の参拝を終えて、奈良神社・庁屋(北神饌所)の所に来ると、その一団がそこにまたいたのです。 斎王桜のところでは、女性がひとり、斎王桜の前に立っているだけでしたが、今度は、女性が3人いて、その3人が、「庁屋(北神饌所)」の上に乗って、ポーズをとり、それをおじいちゃんたちが取り囲んでいたのです。 斎王桜の前で見た時には、あのおばちゃんが「美女」だとしてモデルできるんなら、俺だって「超美男」でモデルできんじゃないのかあ~あ? とか思ったのですが、さすがに、それを仕事にしている人だけあって、ポーズをとらせると、さりげなくそれなりの格好をとってみせるようです。
でもね。 1番に、ここって、そういうことをしていい場所なのでしょうか。 斎王桜の所では、斎王桜の周囲に来場者はそれより内側に入らないように囲いがあって、モデルのおばねーちゃんは、その囲いの外側に立っていたのです。 だから、まあ、好きにすればいいんじゃない・・と思ったのですが、この庁屋(北神饌所)では、一般参拝者は立ち入り不可の所に彼らは入っていたのです。 そして、「(建築家+建築屋)÷2」でインテリアコーディネーターで「神社建築研究家」で「宗教哲学者」の私でも立ち入らせてもらえない、触れることができない場所に上がり込んでいたのです。 「美女」の写真を撮影するために。
「神饌所」というのは、名称から考えて、神様に捧げる食物を用意する所か? と思ったのですが、神社にとっては、けっこう神聖な場所ではないのでしょうか。 すぐ前に≪神々の食事のことをつかさどる神≫である「奈良刀自神(ならとじのかみ)」を祀る「奈良神社」があるので、そのつながりの建物なのでしょうか。 『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』に掲載されている《賀茂社の宝物「御神宝」》の写真に上賀茂神社所蔵の≪鎌倉時代頃の境内図を室町時代になって写したものといわれている≫「賀茂別雷神社境内絵図」がありますが、それを見ると、鎌倉時代頃にも、社殿の主な配置は現在と大きく変わっていないようで、そして、奈良神社と庁屋(北神饌所)の周囲には、今は存在しない塀がめぐらされており、奈良神社と北神饌所 とは境内摂社ではあっても、他の摂社とは違って、かなり大きな存在感というのか、大きな位置をしめているように見受けられます。 伊勢神宮では、外宮の祭神はトヨウケヒメで、内宮の祭神であるアマテラスオオミカミの食事を担当する神だとされるようで、神の食事を担当する神というのが、伊勢神宮では、内宮の神と同格に近い扱いを受けているのですが、鎌倉時代頃の境内を室町時代に描いたという「賀茂別雷神社境内絵図」を見ると、上賀茂神社(賀茂別雷神社)でも、神々の食事をつかさどる神だという「奈良刀自神」を祀る「奈良神社」とそれに続く「北神饌所」とその周囲が、他の摂社よりも高い評価、大きな位置づけ、本殿・権殿に次ぐような立場にあるようで、他の多くの摂社よりも本殿から離れた位置にあるのは、摂社の中での立場が低いからではなく、いわば、伊勢神宮の外宮のような立場にあるように見受けられます。
建築物としては、「庁屋(北神饌所)」というのは、「奈良神社」とともに、国の重要文化財に指定されているもので、上賀茂神社自体は、「ユニセフ世界遺産」の「文化遺産」で「古都京都の文化財」として指定された17件のうちの1件なのです。 相当、大事に扱わないといけないもののはずなんです。
北神饌所の縁側にあがりこんで変なポーズとってるおばねーちゃんたちって、こういうこと、わかってあがりこんでいるでしょうか? わかってないのと違いますか? その一団、先導しているおっさんって、わかって案内していますか? わかってないのと違いますか?
2番目の問題。 なんで、神社の写真を撮るのに「美女」が必要なのですか? おじいちゃんたちにとっては、アラフォーくらいの女性が「若い女性」に見えるのでしょうけれども、なんで、神社の写真に「美女」が必要なのですか? それとも、「美女」の写真を撮りたかったのでしょうか? それなら、なぜ、神社の重要文化財に指定されている建物にあがりこんで撮らないといけないのですか? 他で撮ればいいのと違うのですか? そう思いませんか?
私がこのブログで公開した写真にも、「人」は入っていると思いますが、それは、参拝時・訪問時において、そこに参拝に来ていた普通の人です。 本来、そこにいない人を、わざとらしく用意したのではありません。 神社や寺を訪問した際に、写真を撮影する場合、そこには参拝者がいる方が自然であり、特に建物のこの部分を撮影したいという場合には、そこを撮影できるように、撮影に支障が出る位置に人がいる場合には、いなくなってから撮影するということをしますが、そうでなければ、特にアップで撮影するには御本人に断って撮るべきでしょうけれども、遠景の中に入る場合には、入っていただいていいと思って撮っています。 神社や寺の写真にはそういう人はいた方が自然、神社や寺の写真にはそういう人は写っていない方が不自然だと思うのです。
それに対して、この一団のおばねーちゃんのモデルさんは、普段はそこにいないような人をわざわざ連れてきているのです。 かつ、おばねーちゃんとはいえ、モデルを職業にしている人だけあって、ポーズをとったりするのがしろうとと違うのです。 しろうとと違うので、見ていると、「普通の人間」ならしないようなしぐさをとったりするのです。 そんな写真、何か意味あると思いますか?
『幸せになるためのイタリア語講座』というデンマークのデンマーク語での映画のDVDを見ていますと、この映画の女性の映画監督が、この映画を撮影する際に基本としたものがいくつかあげられていましたが、「その場所に、本来、存在しないような音楽を映画のために流すということはしない」というものがありました。
ヴィットリオ=デ=シーカ監督のイタリアの映画『自転車泥棒』では、仕事の道具である自転車を盗まれ、取り返そうとして、小さな息子とともに犯人を探し歩き、疲れて入った食堂で音楽師が演奏するのはエドアルド=二コラルディ作詞・E=A=マリオ作曲『黒い落とし子(TAMMURRIATA NERA)』(1944年)という実際にイタリアの食堂で演奏されそうな曲でした。 旧ソ連の映画『ジプシーは空に帰る』を撮影するために、その監督は、「ジプシー」(ロマ)の音楽を調べるために旧ソ連の「ジプシー」(ロマ)が住む地域を何カ月も歩きまわってその音楽を調べたと本で読みました。
※《ニコニコ動画―自転車泥棒4》http://www.nicovideo.jp/watch/sm19010401
『黒い落し子』が歌われるレストランの場面は↑の前3分の1くらいの所にあります。
※《ニコニコ動画―ジプシーは空に消える その1 字幕》http://www.nicovideo.jp/watch/sm8279337
『トムとジェリー』というアメリカ合衆国のアニメーションがあります。 それに「ナポリよいとこ」というトムとジェリーがナポリに行った時の設定の話がありますが、それを視聴していた私は感心したのです。 そこで、ナポリのネズミが、トムとジェリーに歌って聴かせる歌がナポリ民謡であるだけではなく、登場人物(登場動物?)が追いかけっこをする時のバックミュージックも「ダンツァ」というナポリ地方の音楽で、他にも「サンタルチア」がバックミュージックにかかったり、その土地の音楽をバックミュージックに使っているのです。
※「ダンツァ」については、
⇒《YouTube―Luciano Pavarotti - La Danza: Tarantella Napolitana 》http://www.youtube.com/watch?v=5FsKXrLMBt4
※『トムとジェリー』の「ナポリよいとこ」の話もインターネットにありました。
⇒《nicotter―トムとジェリー ナポリよいとこ 》http://nicotter.net/watch/sm17991524
『トムとジェリー』はさすがだなあ、と感心しました。 日本のテレビドラマなら、よく考えずにありきありの歌謡曲か何かをバックミュージックに流すでしょう。 日本のテレビ番組で、『世界の車窓から』という番組がありますが、それで、バイカル湖のほとりをシベリア鉄道で進む場面で、バックミュージックにかかったのは、『バイカル湖のほとり』ではなく、チャイコフスキーの音楽でした。 バイカル湖の付近はロシア連邦⇒ロシア連邦の音楽家⇒チャイコフスキー という短絡的な発想だったのでしょう。 『バイカル湖のほとり』『聖なる湖 大いなるバイカル』といったロシア民謡を期待した者としては、がっかりでした。 もっとも、『バイカル湖のほとり』『聖なる湖 大いなるバイカル』にしても、ロシア人としては、帝政ロシアの時代に、シルカ・ネルチンスクといったこれより東のシベリアの収容所に送られた政治犯の悲しい物語の歌であったとしても、この付近は、昔むかしからロシア人の居住地域であったわけではなく、アジア人の原住民からすれば、たとえ、シベリアの収容所に入れられた政治犯の悲しい物語の歌であったとしても、侵略者の歌であることに変わりはない・・・かもしれませんけれども。 そういうことはあったとしても、子ども向けのアニメーションであっても、ナポリを場所としての話ではバックミュージックもナポリ地方の音楽を流すようにして作られている『トムとジェリー』に対して、バイカル湖⇒ロシア連邦⇒チャイコフスキー という短絡的な発想の『世界の車窓から』にはがっかりしました。
※バイカル湖と「聖なる湖 大いなるバイカル」は
⇒「YouTube-The Holy Baikal - old russian song 」http://www.youtube.com/watch?v=mh89Dsm_4Dk
⇒「YouTube-Don Kosaken Chor - Baikal」http://www.youtube.com/watch?v=Rt-O0js0EW8&list=PLDB3F4EA4065A86F0&index=17
さて、『トムとジェリー』の「ナポリよいとこ」のバックミュージックの選び方とか、デンマーク映画『幸せになるためのイタリア語講座』で監督が実際にその場所にない音楽を映画のために意図的に入れるということはしないという方針をとったという点などを考えた上で、上賀茂神社の北神饌所(庁屋)で、普段、そこにそんな人があがりこまない縁側にあがりこんで、普段、そこで人はそのようなポーズをとらないようなポーズをとっていた女性の姿を考えてみてください。 余計だと思いませんか? その場所にその不自然な女性は余計な存在だと思いませんか? そんな写真撮影会を計画した人たちって、愚劣だと思いませんか?
ところで、上賀茂神社(賀茂別雷神社)の神職さんたちは、なにゆえ、彼らのこの不自然で神社にそぐわない「撮影会」を許可したのでしょうか。 「神社建築研究家」で「宗教哲学者」で「(建築家+建築屋)÷2」の私が、心を尽くし精神を尽くし、礼儀をつくした上で、西局の中庭側の縁側から見える範囲の写真を撮らせてもらうことは可能でしょうかと質問したのに、黙って撮影する人に怒るのならまだわかりますが、礼儀を尽くしてお尋ねしている者に対して、なんだ、その不謹慎な態度はあ!というような嫌悪感まるだしの無礼な対応をボースがしたくせに。 ・・・・もしかして、「山吹色の餅」か「山吹色の饅頭」でも神職に贈答すれば、「上州屋、ぬしもワルよのお。くっくっく。」「いやいや。お代官さまほどではおじゃりませぬ。いっしっし。」とかいうことになるのなら、それなら、その「山吹色の餅」だか「山吹色の毒まんじゅう」だかがどのくらいの額が必要か教えてくれれば、私のような貧乏人でも用意できる額なのか、麻生さんか鳩山さんでもないと用意できない額なのか判断するのに。 ちなみに、上の北神饌所(庁屋)の前にたむろしているおじいちゃんたちの一団の愚劣な写真撮影会を企画した団体のおっさんは、「山吹色の餅」だか「山吹色の毒まんじゅう」だかをいかほど進呈したのでしょう・・・・・・・ね。
【6】 「ならの小川」
↑ 「ならの小川」
『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』所収の岡野弘彦「神々の物語」には、≪・・下社に昔の相楽郡賀茂町の木津川のほとりの社地にちなんだ「泉川」があったように、この上社にも奈良の都をしのぶ「ならの小川」があるのも、昔の人の心のやさしさを思わせる。≫、 ≪ならの小川というのも、あるいはこの神〔摂社 奈良神社の祭神 奈良刀自神(ならとじのかみ)〕にちなんだ名であったかもしれない。 ≫と出ている。 「歌人」だという岡野弘彦氏も、賀茂社とゆかりがあるという賀茂氏が大和の国の葛城のあたりからこの山城の国の賀茂のあたりに移ってきたという説から、かつていた奈良県の「なら」から「ならの小川」という名前をつけたのか、それとも、「奈良刀自神」の「奈良」なのかわからずに書いているようだ。 もっとも、岡野弘彦氏に限らず、絶対にこうだとは、もはや、誰もわからないだろうけれども、わかっていないにしては、≪昔の人の心のやさしさを思わせる≫という感想は、少々、決めつけすぎのような印象を受ける。
☆ 《賀茂別雷神社参拝》9部作、
1.楼門・透廊・棚尾社・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_1.html
2.福音ルーテル賀茂川教会・賀茂川・御土居・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_2.html
3.斎王桜・外弊殿・神馬舎・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_3.html
4.細殿・橋殿・片岡橋・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_4.html
5.弊殿・「特別拝観」・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_5.html
7.檜皮葺・大田神社・魯山人生誕地・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_7.html
8.深泥池・京都コンサートホール、摂社の構成・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_8.html
9.流造と切妻、不動産業の神「迦毛の大神」・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_9.html
も、御覧下さいませ。
(2014.5.5.)
この記事へのコメント