賀茂別雷神社[上賀茂神社]参拝7.檜皮葺(ひわだぶき)とは・社家町・大田神社・北大路魯山人生誕地 他
[第259回]
【1】 細殿の西のにある授与所の西(楼門に向って左手)に、岸田工業(株)というところが奉納したという「檜皮葺」屋根の模型が展示されており、模型だけに近づいて見ることができ、よくわかりました。 ↓
↑ 「檜皮葺(檜皮葺)」の模型
「檜皮葺」というからには、桧の皮なのだろう・・・と思うのですが、一方で、通常、木造の家屋でも、屋根は木ではなく、瓦だったり、彩色スレート(化粧スレート)だったり、金属系の屋根材では、最近ではガルバリウム鋼板などというものが使われたりしますし、その下には、野地合板の上にアスファルトルーフィングというものを貼って防水をはかったりするもので、皮というからには桧の木でも外側の部分でしょうけれども、それでも、桧という木を屋根に使って、雨に濡れてすぐに痛んでしまうのではないかとか、雨漏れにつながらないかとか考えがちです。・・・考えませんか? ひとつには、藁ぶきとか茅葺といった屋根の場合、植物であっても、相当に分厚く重ねて屋根材とするので、雨に濡れた時には相当の重量になるけれども、断熱性はいいし、雨が室内にまで至ることはないだろう・・という感じがするのですが、桧の皮となると、単に、皮を1枚貼るのか・・・みたいな印象を受けてしまい、そんなので大丈夫なのか? もしかして、最近の「檜皮葺」は、下にアスファルトシングルか彩色スレートの屋根材、もしくは金属系の屋根材を施工してその上に桧の皮をそれらを接合できる接着剤でぺったんこと貼って「檜皮葺」と称しているとか、そんなことないか?とか不謹慎なこと考えたり・・・するの、私だけでしょうか・・・・・・。
↑ 実際には、これだけの桧の木の皮を貼り重ねるようです。 なるほど、これだけ貼れば、雨漏れも起こさないだろうし、十分、屋根材としての機能を果たすはなあ・・・・と思いました。
↑ ≪檜皮葺道具 檜皮(ひわだ) 一束(ひとまる) 檜皮葺屋根の材料となる檜皮は、採取後一束(30kg)として保管される。 屋根を1平方メートル葺く為には、これが二束(60kg)必要とされる。≫
(↑ 写真はクリックすると大きくなります。)
【2】 上賀茂神社の向かいの店で飲んだ、冷やし甘酒450円は、ガラスのコップに甘酒と氷が入り、ストローで飲むと、なかなかおいしかった、さすが、上賀茂神社の門前の店で出す甘酒だけのことはある。 京都の名水と付近の米を使った京都の造り酒屋の製造の甘酒なんだろう・・・と思ったのだ。 しかし、帰りに、瓶入りの甘酒が持ち帰り用として販売されていたので、「これ、今、出してもらったものと同じものですか」と尋ねてみたところ、「それは暖かい甘酒の方です」と言うので、「冷たい甘酒と暖かい甘酒は甘酒が違うのですか」と尋ねると、「冷たいのは缶入りなんです」という答え。 で、うちのおばあさんにも飲ませてあげたいと思って、「それは持ち帰り用はないのですか」と尋ねると、「ここで出している値段と同じ値段をいただくことになりますが、それでよろしいですか」と言って、見せてもらったのは、○○乳業と某大手メーカーの名前が入ったスーパーでも売ってる缶入りの「甘酒」だった。 京都の名水と京都の米を使った地元の造り酒屋の甘酒か・・・・と思い込んで、さすが、おいしいなあ・・・・と思って飲んだ私がばかだったのか・・・というと、もともと、神社の前の店なんて、そんなものかもしれないが、大手メーカーの自動販売機でも売っているような缶入り甘酒でも、ガラスのコップに氷を入れてストローをつけて、神社の門前で、テーブルと椅子があって出してもらえば、参拝に少々疲れた者としては一服とともに、喉をうるおし、いいもの飲んだ・・という気持になるのであり、せめて、大手メーカーではなく地元の会社でなくても造り酒屋が造った「米、米麹 100%」のものを出してほしいという気もするが、そうであっても、もともとはどうってことないものをおいしく出すというのは、ちょっとした才覚であり、評価していいものと思うのだが、「これですけど」と言って見せてくれたのは親切心からかもしれないが、それは「言わぬが花」で見せるべきものではなかったと思う。
【3】 明神川、 社家町(しゃけまち)、 西村家庭園(錦織[にしごり]家旧宅 庭園)
上賀茂神社(賀茂 別雷 神社)の本殿・拝殿・楼門などがある区域の西側を南に流れる「御手洗川」(「みたらし」と読む。 「おてあらい」ではない。)と東側を南に流れる「御物忌川」が手水舎の後ろあたりで合流し、「ならの小川」と名前を変え、禰宜橋・橋殿(舞殿)・祝橋の下を流れ、岩本社の付近で2つに分かれて、一方は東に進んで賀茂山口神社(沢田社)の拝殿と本殿の間を流れ、もう一方は、渉渓園の西を南下して、上賀茂神社の外に出る。 その「ならの小川」は、地図を見ると、上賀茂神社の南側の東西の道をくぐった後、東西に流れが別れるようだ。 上賀茂神社の南側の道を東に行くと、≪上賀茂神社に仕える神官の住居を中心に、彼らを支えた農民がともにつくった集落≫(『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』(集英社)所収、「巡拝の達人2 上賀茂神社を支えた人々の住まい 社家町(しゃけまち)をゆく」) だという「社家町(しゃけまち)」と言われる地域がある。 その社家町を東西に流れる川は、賀茂川に向って流れるのかと思っていたら、そうではなく、東に向って流れている。 この川を「明神川(みょうじんかわ)と呼ぶらしい。 この社家町は≪1988年(昭和63)に、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。≫という。「伝統的建造物群保存地区」は、《文化庁 重要伝統的建造物群保存地区一覧》http://www.bunka.go.jp/bunkazai/shoukai/juudenken_ichiran.html を見ると、函館市本町末広町・千葉県香取市佐原・岐阜県高山市三町・高山市下二之町大新町・岐阜県白川村萩町、郡上(ぐじょう)市郡上八幡北町 など、全国で106箇所が指定を受けているらしい。
通りの南側に、「西村家庭園」↓があり、見学可能らしいが、見学時間は午後4時30分までということで、訪問時、ちょうど4時30分だったので、今回は前を通るだけで終わった。

↑ 「西村家庭園」 ≪上賀茂神社の社家であた錦織家の旧宅の庭園であり、明神川から水を導入し再び川に戻すというこの地域の社家庭園特有の水利用形式をとっている。・・・≫と、京都市が設置の説明看板がでている。
↑ 明神川はこの道の南側を東に向って流れている。 ↑の写真では、右側が北、左側(川側)が南。
≪ 道わきを流れる川と岸辺に立ち上がる漆喰の土塀、その上には手入れの行き届いた庭木。ところどころに石橋が架かり、その奥に格式を感じさせる玄関が見える。≫(『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 』「社家町をゆく」)
昔、祖父母が兵庫県尼崎市の伊丹市との境目付近に住んでいて、その近所に、「社家町」ではないけれども、家と道路の間に↑の明神川くらいの大きさの川が流れているという所があった。 それを見て、いいなあ~あ、と子供のころ思ったことがあった。
20代後半、千葉県の柏市と流山市の境目付近の流山市(最寄駅はJR常磐線「南柏」)でアパートを借りて住んだのだが、そのアパートの前を、やはり、↑の明神川くらいの大きさの川がながれていた。 不動産屋の物件案内書にも「小川のせせらぎを聞きながら、あなたも住みませんか」みたいな文句が書いてあったような気がする。 移り住んで、夜、寝ようとすると、かすかにその川の流れが聞こえ、ここちよい思いがしたが、しばらく住んでいると、そんなもんかと思うようになって、それほど気にならなくなった。 ところが、その「川」の上部を覆う計画を市がたてていると聞き、せっかくなのにい~い・・・と思ったのだが、アパートの大家さんは「このドブをなくすのは、我々この地域の住人の長年の願いなんですよ。 このドブゥ~ウ!」と言うので、人それぞれ、感じ方は違うんだなあと思ったということがありました。 流山市西松ヶ丘1丁目のその場所には、今はその「小川」はありません。上を覆い、道の一部分となり、かつての「小川」は道の下を通り、道路がその分、広くなっています。 どちらが良かったのか、感じ方は人それぞれでしょう。
祖父母が住んでいた尼崎市塚口町の家の近所の「小川」は今もあるはずです。 家を建て変える場合、出入口を設けるには、「小川」の存在は工事に手間がかかるかもしれませんが、住宅街で、そこに「小川」があるという前提で建てられた家にとっては、その「小川」は自宅の敷地内ではなくても、住宅の一部分のような性格を持っているのではないかと思います。
↑ 「藤木社(ふじのきのやしろ)」 と 明神川
≪ 川(水)の守護神・瀬織津比売命(せおりつひめのみこと)を祭神とする上賀茂神社の末社・藤木社(ふじきのやしろ)だ。 葵祭の日には神輿(みこし)の渡御がある。 流れはここで直角に曲がり、またすぐ東へと向きを変える。≫(『古社名刹の旅3 賀茂川の道』「社家町をゆく」 )
【4】 大田神社・杜若群生・福徳神社・北大路魯山人 生誕地
↑ 「大田神社」
上賀茂神社製作『京都歩くマップ―上賀茂・北山―』には、≪天地悠久の幸せを授ける神様 芸能・芸事・寿命長久の神様 良き老後を守る神様≫と出ている。
京都商工会議所 編『改訂版 京都 観光文化検定 公式ガイドブック (第8版)』(2007.10.8.淡交社)には、
≪祭神は天鈿女命(あめのうづめのみこと)。 創祀年代は不詳。 五穀豊穣を願ってこの地の地主神を祀ったのが始めという。 のちに上賀茂神社の境内摂社となり、 上賀茂八摂社の一つに数えられる。 寛永5年(1628年)には本殿と割拝殿が造替された。・・≫と出ている。 もとから、上賀茂神社の摂社であったのではなく、地主神を祀る別の神社であったのが、上賀茂神社の優勢のもと、「長い物には巻かれろ、札束には切られろよお~お」と思った・・・かどうかはわからないが、摂社となったらしい。
『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』(2004.淡交社)所収の所 勲(ところ いさお)「賀茂大社と祭礼の来歴」に「賀茂大社の摂末社」があげられているが、「上社の摂社」として境内6社・境外2社のうち、境外2社の1社として大田神社が出ている。 そこには≪大田神社=恩多社(天鈿女命[あめのうずめのみこと])≫と出ている。「恩多」にふりがなはうたれていない。当て字のような字であるが、「オンタ」と読むのだろうか。 もとは、「オンタ」の「タ」は田植えの「田」、水田の「田」だろうか。 田を守る農業守護の御神様で、御田だろうか。 「三田」という地名が東京の港区と兵庫県三田市にあるが、東京都港区の方は「ミタ」で兵庫県は「サンダ」である。東京の「三田(ミタ)」は本来「御田」だったという話がある。 「御田」が東京都港区では「ミタ」になりそれに「三田」という字があてられたのに対し、京都市北区では「御田」が「恩多」になって、さらに「大田」になったのだろうか。 東京都港区三田(ミタ)は、「御田」が「ミタ」になったのに対し、京都市北区のこの神社は「田神社」に敬称としての接頭語の「御」がついて「御(おん) 田神社」となり、その「御」が「恩」に変わり「田」が「多」に変わった、もしくは縁起の良い字・喜ばしい字を使用しようとして意図的に「恩が多い」という「恩多」という字に変えたのか。 関ヶ原の戦いに西軍として参戦し八丈島に流された宇喜多(うきた)秀家の一族かと思われる家臣に「浮田(うきた)」という名字が見られる。 おそらく、もともとは「浮く田んぼ」で「浮田」だったのを大名になって格をつけるため、ハクをつけるために「喜びが多い」という「宇喜多」という字に変えたのではないか。 福島県に「喜多方(きたかた)」市があるが千葉県市川市には「北方(きたかた)」という地名がある。 福島県の喜多方は、おそらく、会津地方の城下町であった会津若松の北方(ほっぽう)にあるということで「北方(きたかた)」だったのではないか。それを「喜びが多い方」という字に変えたのではないか。 京都市のこの神社は、田んぼの神様ということで「田神社」だったのに、敬称の接頭辞の「御」をつけて「御 田神社」となり、それが「御田 神社」と「御」と「田」の結びつきが強くなり、そして、「御田」を「恩が多い」という喜ばしい字、縁起の良い字に変えて「恩多神社」、さらにそのうち、音も発音しにくい「オンタ」が発音しやすい「オオタ」に変わり、難しい覚えにくい「恩多」という字よりもありきたりだが覚えやすい書きやすい「大田」という字に変わった・・・、という、そんなところかな・・・? これは証拠があるわけでもなんでもないけれども、可能性としてあり得そうに思えます。
アメノウズメノミコトというのは、アマテラスオオミカミが天の岩屋に隠れた時に、その前で裸踊りをして、それを見た神々が笑い転げ、アマテラスオオミカミが何事かと思って岩屋の入口付近まできてそれをのぞき見て、アメノタジカラオノミコトという力持ちがアマテラスオオミカミの手をつかんで引っ張りだした、という、裸踊りをした神様・・・・というと不謹慎だという人もあるかもしれないけれども、そういう神様である。
≪ ・・天手刀男神(あめのたじからおのかみ)が、天の岩屋の入口のわきに隠れて、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、天の香山のヒカゲノカズラをたすきがけにかけ、同じくツルマサキを頭にかぶり、同じく笹の葉を手に持って、天照大御神のお隠れになった天の岩屋の前に桶を伏せ、その桶の上で、桶を踏みつけて踊り狂い、神がかりのようになって、乳房をかき出し、裳の紐を垂れて、女陰を出した。
そこで、高天の原はどっと揺らぎ、すべての神さまは、アハハハ・・・・と笑った。そこで、天照大御神は、不思議にお思いになって、天の岩屋の戸を少しお開きになって、内側から、「わたしが隠れましたので、高天の原は自然に暗くなり、葦原中国(あしはらのなかつくに)もみんなまっ暗になったと思っていますのに、どうして、天宇受売は楽しんで踊り、多くの神さまは大声をあげて笑っているのか」とおっしゃった。
そこで、天宇受売は、「あなた以上の尊い神がいらっしゃいますので、われわれはみな喜んで踊り、笑っているのです」と申し上げた。
天宇受売がそういっている間に、天児屋命と布刀玉命はあの鏡をさし出し、天照大御神にお見せしたところ、天照大御神の姿がその鏡に映った。天照大御神はいよいよ不思議に思って、ちょっと出て、のぞかれたところ、岩戸のそばに隠れて立っていた天手力男命が天照大御神の手をとって引き出し、すぐに布刀玉命が注連縄を天照大御神の後ろに引き渡し、そして、「これから内へは、もう帰ることはできません」と申し上げた。 ・・≫
(梅原 猛 現代語訳『古事記 増補新版』2012.7.24.学研M文庫)
アメノウズメノミコト は、裸踊り係をさせられたり、後に、猿女君(サルメノキミ)を名のらされたり、『古事記』の神の中では、どうも、あまり高い扱いを受けていないが、大田神社の場合は、もともとは、地主神を祀っていた神社であって、アメノウズメ は後から付加されたものだろう。
もともとは『古事記』『日本書紀』に登場する神と特につながりがあるわけでもない神社に『古事記』『日本書紀』に登場する神を結びつけるという「神神習合」みたいなことが、明治以来、明治維新政府によってなされてきました。 大田神社でアメノウズメノミコトが祭神とされているのもその類かと思うのですが、そうであったとしても、なぜ、アメノウズメなのでしょう。 東京都文京区春日 にある北野神社(⇒[第169回]《北野神社(文京区)訪問―梅が美しい「牛天神」―冤罪を晴らす神さま 菅原道真・怨念を晴らすお百度参り6 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html 、「牛天神 北野神社」HP「境内のご案内」http://www.ushitenjin.jp/keidai/index.html )の境内に摂社「太田神社」があり、その祭神もアメノウズメノミコトで、それを考えると、「オオタ」「オオタ神社」とアメノウズメとは結びつく何かがあるのだろうか、とも思いましたが、京都市北区のこの「オオタ神社」は「大田」(大きい田)であるのに対し、東京都文京区春日 の北野神社の境内の摂社の「オオタ神社」は「太田」(太い田。 太田道灌 の太田)でした。 東京都文京区春日の北野神社は江戸城の「北の」位置にあり、摂社の太田神社も太田道灌から名づけられた可能性も考えられますので、この2社から「オオタ」とアメノウズメとが結びつくと考察するのは早計かもしれませんが、東京都文京区春日の北野神社の摂社の太田神社にせよ、この大田神社にせよ、漢字よりも音が重要であって、「オオタ」の音に後から字をあてたのであれば、「大田神社」も「太田神社」も社名に共通点があることになり、いずれもアメノウズメを祀っているとなると、「オオタ」とアメノウズメとのつながりが何かあるのか、という可能性を考えたくなります。
上の方の写真、手前左手に少しだけ見えている小さい社は、「福徳神社」で、上賀茂神社製作『京都歩くマップ―上賀茂・北山―』には≪幸福を与える神様≫と出ている。
↑ 大田神社 境内 で、杜若(かきつばた)の群生 が 国の天然記念物 に指定されたというが、4月後半においては、↑の状態。 《ウィキペディア―カキツバタ》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%90%E3%82%BF を見ると、≪カキツバタは湿地に群生し、5月から6月にかけて紫色の花を付ける。≫と出ている。

↑ 「北大路魯山人 生誕地」の碑
大田神社の南西側の向かいに、「北大路魯山人 生誕地」の碑と説明看板が立っている。 雁屋哲 作・花咲アキラ 画『美味しんぼ』に、しばしば、名前が登場する食通にして陶芸家、また、『美味しんぼ』の主要登場人物のひとりで「美食倶楽部」主宰の食通にして陶芸家・芸術家・海原雄山のモデルと言われる 北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん)(1883―1959)は、この地の生まれらしい。
《ウィキペディア―北大路魯山人》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%A4%A7%E8%B7%AF%E9%AD%AF%E5%B1%B1%E4%BA%BA によると、上賀茂神社の社家・北大路家の次男として生まれたらしい。
次回、 深泥池 から 地下鉄「北山」駅まで行きます。
☆ 《賀茂別雷神社[上賀茂神社]参拝》9部作、
1.楼門・透廊・棚尾社・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_1.html
2.ルーテル賀茂川教会・賀茂川・御土居・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_2.html
3.斎王桜・外弊殿・神馬舎・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_3.html
4.細殿・橋殿・片岡橋・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_4.html
5.弊殿・「特別拝観」・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_5.html
6.奈良神社・北神饌所・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_6.html
8.深泥池・京都コンサートホール、摂社の構成・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_8.html
9.流造と切妻、不動産業の神「迦毛の大神」・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_9.htmll
もご覧くださいませ。
(2014.5.5.)
【1】 細殿の西のにある授与所の西(楼門に向って左手)に、岸田工業(株)というところが奉納したという「檜皮葺」屋根の模型が展示されており、模型だけに近づいて見ることができ、よくわかりました。 ↓
↑ 「檜皮葺(檜皮葺)」の模型
「檜皮葺」というからには、桧の皮なのだろう・・・と思うのですが、一方で、通常、木造の家屋でも、屋根は木ではなく、瓦だったり、彩色スレート(化粧スレート)だったり、金属系の屋根材では、最近ではガルバリウム鋼板などというものが使われたりしますし、その下には、野地合板の上にアスファルトルーフィングというものを貼って防水をはかったりするもので、皮というからには桧の木でも外側の部分でしょうけれども、それでも、桧という木を屋根に使って、雨に濡れてすぐに痛んでしまうのではないかとか、雨漏れにつながらないかとか考えがちです。・・・考えませんか? ひとつには、藁ぶきとか茅葺といった屋根の場合、植物であっても、相当に分厚く重ねて屋根材とするので、雨に濡れた時には相当の重量になるけれども、断熱性はいいし、雨が室内にまで至ることはないだろう・・という感じがするのですが、桧の皮となると、単に、皮を1枚貼るのか・・・みたいな印象を受けてしまい、そんなので大丈夫なのか? もしかして、最近の「檜皮葺」は、下にアスファルトシングルか彩色スレートの屋根材、もしくは金属系の屋根材を施工してその上に桧の皮をそれらを接合できる接着剤でぺったんこと貼って「檜皮葺」と称しているとか、そんなことないか?とか不謹慎なこと考えたり・・・するの、私だけでしょうか・・・・・・。
↑ 実際には、これだけの桧の木の皮を貼り重ねるようです。 なるほど、これだけ貼れば、雨漏れも起こさないだろうし、十分、屋根材としての機能を果たすはなあ・・・・と思いました。
↑ ≪檜皮葺道具 檜皮(ひわだ) 一束(ひとまる) 檜皮葺屋根の材料となる檜皮は、採取後一束(30kg)として保管される。 屋根を1平方メートル葺く為には、これが二束(60kg)必要とされる。≫
(↑ 写真はクリックすると大きくなります。)
【2】 上賀茂神社の向かいの店で飲んだ、冷やし甘酒450円は、ガラスのコップに甘酒と氷が入り、ストローで飲むと、なかなかおいしかった、さすが、上賀茂神社の門前の店で出す甘酒だけのことはある。 京都の名水と付近の米を使った京都の造り酒屋の製造の甘酒なんだろう・・・と思ったのだ。 しかし、帰りに、瓶入りの甘酒が持ち帰り用として販売されていたので、「これ、今、出してもらったものと同じものですか」と尋ねてみたところ、「それは暖かい甘酒の方です」と言うので、「冷たい甘酒と暖かい甘酒は甘酒が違うのですか」と尋ねると、「冷たいのは缶入りなんです」という答え。 で、うちのおばあさんにも飲ませてあげたいと思って、「それは持ち帰り用はないのですか」と尋ねると、「ここで出している値段と同じ値段をいただくことになりますが、それでよろしいですか」と言って、見せてもらったのは、○○乳業と某大手メーカーの名前が入ったスーパーでも売ってる缶入りの「甘酒」だった。 京都の名水と京都の米を使った地元の造り酒屋の甘酒か・・・・と思い込んで、さすが、おいしいなあ・・・・と思って飲んだ私がばかだったのか・・・というと、もともと、神社の前の店なんて、そんなものかもしれないが、大手メーカーの自動販売機でも売っているような缶入り甘酒でも、ガラスのコップに氷を入れてストローをつけて、神社の門前で、テーブルと椅子があって出してもらえば、参拝に少々疲れた者としては一服とともに、喉をうるおし、いいもの飲んだ・・という気持になるのであり、せめて、大手メーカーではなく地元の会社でなくても造り酒屋が造った「米、米麹 100%」のものを出してほしいという気もするが、そうであっても、もともとはどうってことないものをおいしく出すというのは、ちょっとした才覚であり、評価していいものと思うのだが、「これですけど」と言って見せてくれたのは親切心からかもしれないが、それは「言わぬが花」で見せるべきものではなかったと思う。
【3】 明神川、 社家町(しゃけまち)、 西村家庭園(錦織[にしごり]家旧宅 庭園)
上賀茂神社(賀茂 別雷 神社)の本殿・拝殿・楼門などがある区域の西側を南に流れる「御手洗川」(「みたらし」と読む。 「おてあらい」ではない。)と東側を南に流れる「御物忌川」が手水舎の後ろあたりで合流し、「ならの小川」と名前を変え、禰宜橋・橋殿(舞殿)・祝橋の下を流れ、岩本社の付近で2つに分かれて、一方は東に進んで賀茂山口神社(沢田社)の拝殿と本殿の間を流れ、もう一方は、渉渓園の西を南下して、上賀茂神社の外に出る。 その「ならの小川」は、地図を見ると、上賀茂神社の南側の東西の道をくぐった後、東西に流れが別れるようだ。 上賀茂神社の南側の道を東に行くと、≪上賀茂神社に仕える神官の住居を中心に、彼らを支えた農民がともにつくった集落≫(『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 下鴨神社 上賀茂神社』(集英社)所収、「巡拝の達人2 上賀茂神社を支えた人々の住まい 社家町(しゃけまち)をゆく」) だという「社家町(しゃけまち)」と言われる地域がある。 その社家町を東西に流れる川は、賀茂川に向って流れるのかと思っていたら、そうではなく、東に向って流れている。 この川を「明神川(みょうじんかわ)と呼ぶらしい。 この社家町は≪1988年(昭和63)に、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。≫という。「伝統的建造物群保存地区」は、《文化庁 重要伝統的建造物群保存地区一覧》http://www.bunka.go.jp/bunkazai/shoukai/juudenken_ichiran.html を見ると、函館市本町末広町・千葉県香取市佐原・岐阜県高山市三町・高山市下二之町大新町・岐阜県白川村萩町、郡上(ぐじょう)市郡上八幡北町 など、全国で106箇所が指定を受けているらしい。
通りの南側に、「西村家庭園」↓があり、見学可能らしいが、見学時間は午後4時30分までということで、訪問時、ちょうど4時30分だったので、今回は前を通るだけで終わった。
↑ 「西村家庭園」 ≪上賀茂神社の社家であた錦織家の旧宅の庭園であり、明神川から水を導入し再び川に戻すというこの地域の社家庭園特有の水利用形式をとっている。・・・≫と、京都市が設置の説明看板がでている。
↑ 明神川はこの道の南側を東に向って流れている。 ↑の写真では、右側が北、左側(川側)が南。
≪ 道わきを流れる川と岸辺に立ち上がる漆喰の土塀、その上には手入れの行き届いた庭木。ところどころに石橋が架かり、その奥に格式を感じさせる玄関が見える。≫(『古社名刹巡拝の旅3 賀茂川の道 』「社家町をゆく」)
昔、祖父母が兵庫県尼崎市の伊丹市との境目付近に住んでいて、その近所に、「社家町」ではないけれども、家と道路の間に↑の明神川くらいの大きさの川が流れているという所があった。 それを見て、いいなあ~あ、と子供のころ思ったことがあった。
20代後半、千葉県の柏市と流山市の境目付近の流山市(最寄駅はJR常磐線「南柏」)でアパートを借りて住んだのだが、そのアパートの前を、やはり、↑の明神川くらいの大きさの川がながれていた。 不動産屋の物件案内書にも「小川のせせらぎを聞きながら、あなたも住みませんか」みたいな文句が書いてあったような気がする。 移り住んで、夜、寝ようとすると、かすかにその川の流れが聞こえ、ここちよい思いがしたが、しばらく住んでいると、そんなもんかと思うようになって、それほど気にならなくなった。 ところが、その「川」の上部を覆う計画を市がたてていると聞き、せっかくなのにい~い・・・と思ったのだが、アパートの大家さんは「このドブをなくすのは、我々この地域の住人の長年の願いなんですよ。 このドブゥ~ウ!」と言うので、人それぞれ、感じ方は違うんだなあと思ったということがありました。 流山市西松ヶ丘1丁目のその場所には、今はその「小川」はありません。上を覆い、道の一部分となり、かつての「小川」は道の下を通り、道路がその分、広くなっています。 どちらが良かったのか、感じ方は人それぞれでしょう。
祖父母が住んでいた尼崎市塚口町の家の近所の「小川」は今もあるはずです。 家を建て変える場合、出入口を設けるには、「小川」の存在は工事に手間がかかるかもしれませんが、住宅街で、そこに「小川」があるという前提で建てられた家にとっては、その「小川」は自宅の敷地内ではなくても、住宅の一部分のような性格を持っているのではないかと思います。
↑ 「藤木社(ふじのきのやしろ)」 と 明神川
≪ 川(水)の守護神・瀬織津比売命(せおりつひめのみこと)を祭神とする上賀茂神社の末社・藤木社(ふじきのやしろ)だ。 葵祭の日には神輿(みこし)の渡御がある。 流れはここで直角に曲がり、またすぐ東へと向きを変える。≫(『古社名刹の旅3 賀茂川の道』「社家町をゆく」 )
【4】 大田神社・杜若群生・福徳神社・北大路魯山人 生誕地
↑ 「大田神社」
上賀茂神社製作『京都歩くマップ―上賀茂・北山―』には、≪天地悠久の幸せを授ける神様 芸能・芸事・寿命長久の神様 良き老後を守る神様≫と出ている。
京都商工会議所 編『改訂版 京都 観光文化検定 公式ガイドブック (第8版)』(2007.10.8.淡交社)には、
≪祭神は天鈿女命(あめのうづめのみこと)。 創祀年代は不詳。 五穀豊穣を願ってこの地の地主神を祀ったのが始めという。 のちに上賀茂神社の境内摂社となり、 上賀茂八摂社の一つに数えられる。 寛永5年(1628年)には本殿と割拝殿が造替された。・・≫と出ている。 もとから、上賀茂神社の摂社であったのではなく、地主神を祀る別の神社であったのが、上賀茂神社の優勢のもと、「長い物には巻かれろ、札束には切られろよお~お」と思った・・・かどうかはわからないが、摂社となったらしい。
『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社 下鴨神社』(2004.淡交社)所収の所 勲(ところ いさお)「賀茂大社と祭礼の来歴」に「賀茂大社の摂末社」があげられているが、「上社の摂社」として境内6社・境外2社のうち、境外2社の1社として大田神社が出ている。 そこには≪大田神社=恩多社(天鈿女命[あめのうずめのみこと])≫と出ている。「恩多」にふりがなはうたれていない。当て字のような字であるが、「オンタ」と読むのだろうか。 もとは、「オンタ」の「タ」は田植えの「田」、水田の「田」だろうか。 田を守る農業守護の御神様で、御田だろうか。 「三田」という地名が東京の港区と兵庫県三田市にあるが、東京都港区の方は「ミタ」で兵庫県は「サンダ」である。東京の「三田(ミタ)」は本来「御田」だったという話がある。 「御田」が東京都港区では「ミタ」になりそれに「三田」という字があてられたのに対し、京都市北区では「御田」が「恩多」になって、さらに「大田」になったのだろうか。 東京都港区三田(ミタ)は、「御田」が「ミタ」になったのに対し、京都市北区のこの神社は「田神社」に敬称としての接頭語の「御」がついて「御(おん) 田神社」となり、その「御」が「恩」に変わり「田」が「多」に変わった、もしくは縁起の良い字・喜ばしい字を使用しようとして意図的に「恩が多い」という「恩多」という字に変えたのか。 関ヶ原の戦いに西軍として参戦し八丈島に流された宇喜多(うきた)秀家の一族かと思われる家臣に「浮田(うきた)」という名字が見られる。 おそらく、もともとは「浮く田んぼ」で「浮田」だったのを大名になって格をつけるため、ハクをつけるために「喜びが多い」という「宇喜多」という字に変えたのではないか。 福島県に「喜多方(きたかた)」市があるが千葉県市川市には「北方(きたかた)」という地名がある。 福島県の喜多方は、おそらく、会津地方の城下町であった会津若松の北方(ほっぽう)にあるということで「北方(きたかた)」だったのではないか。それを「喜びが多い方」という字に変えたのではないか。 京都市のこの神社は、田んぼの神様ということで「田神社」だったのに、敬称の接頭辞の「御」をつけて「御 田神社」となり、それが「御田 神社」と「御」と「田」の結びつきが強くなり、そして、「御田」を「恩が多い」という喜ばしい字、縁起の良い字に変えて「恩多神社」、さらにそのうち、音も発音しにくい「オンタ」が発音しやすい「オオタ」に変わり、難しい覚えにくい「恩多」という字よりもありきたりだが覚えやすい書きやすい「大田」という字に変わった・・・、という、そんなところかな・・・? これは証拠があるわけでもなんでもないけれども、可能性としてあり得そうに思えます。
アメノウズメノミコトというのは、アマテラスオオミカミが天の岩屋に隠れた時に、その前で裸踊りをして、それを見た神々が笑い転げ、アマテラスオオミカミが何事かと思って岩屋の入口付近まできてそれをのぞき見て、アメノタジカラオノミコトという力持ちがアマテラスオオミカミの手をつかんで引っ張りだした、という、裸踊りをした神様・・・・というと不謹慎だという人もあるかもしれないけれども、そういう神様である。
≪ ・・天手刀男神(あめのたじからおのかみ)が、天の岩屋の入口のわきに隠れて、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、天の香山のヒカゲノカズラをたすきがけにかけ、同じくツルマサキを頭にかぶり、同じく笹の葉を手に持って、天照大御神のお隠れになった天の岩屋の前に桶を伏せ、その桶の上で、桶を踏みつけて踊り狂い、神がかりのようになって、乳房をかき出し、裳の紐を垂れて、女陰を出した。
そこで、高天の原はどっと揺らぎ、すべての神さまは、アハハハ・・・・と笑った。そこで、天照大御神は、不思議にお思いになって、天の岩屋の戸を少しお開きになって、内側から、「わたしが隠れましたので、高天の原は自然に暗くなり、葦原中国(あしはらのなかつくに)もみんなまっ暗になったと思っていますのに、どうして、天宇受売は楽しんで踊り、多くの神さまは大声をあげて笑っているのか」とおっしゃった。
そこで、天宇受売は、「あなた以上の尊い神がいらっしゃいますので、われわれはみな喜んで踊り、笑っているのです」と申し上げた。
天宇受売がそういっている間に、天児屋命と布刀玉命はあの鏡をさし出し、天照大御神にお見せしたところ、天照大御神の姿がその鏡に映った。天照大御神はいよいよ不思議に思って、ちょっと出て、のぞかれたところ、岩戸のそばに隠れて立っていた天手力男命が天照大御神の手をとって引き出し、すぐに布刀玉命が注連縄を天照大御神の後ろに引き渡し、そして、「これから内へは、もう帰ることはできません」と申し上げた。 ・・≫
(梅原 猛 現代語訳『古事記 増補新版』2012.7.24.学研M文庫)
アメノウズメノミコト は、裸踊り係をさせられたり、後に、猿女君(サルメノキミ)を名のらされたり、『古事記』の神の中では、どうも、あまり高い扱いを受けていないが、大田神社の場合は、もともとは、地主神を祀っていた神社であって、アメノウズメ は後から付加されたものだろう。
もともとは『古事記』『日本書紀』に登場する神と特につながりがあるわけでもない神社に『古事記』『日本書紀』に登場する神を結びつけるという「神神習合」みたいなことが、明治以来、明治維新政府によってなされてきました。 大田神社でアメノウズメノミコトが祭神とされているのもその類かと思うのですが、そうであったとしても、なぜ、アメノウズメなのでしょう。 東京都文京区春日 にある北野神社(⇒[第169回]《北野神社(文京区)訪問―梅が美しい「牛天神」―冤罪を晴らす神さま 菅原道真・怨念を晴らすお百度参り6 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html 、「牛天神 北野神社」HP「境内のご案内」http://www.ushitenjin.jp/keidai/index.html )の境内に摂社「太田神社」があり、その祭神もアメノウズメノミコトで、それを考えると、「オオタ」「オオタ神社」とアメノウズメとは結びつく何かがあるのだろうか、とも思いましたが、京都市北区のこの「オオタ神社」は「大田」(大きい田)であるのに対し、東京都文京区春日 の北野神社の境内の摂社の「オオタ神社」は「太田」(太い田。 太田道灌 の太田)でした。 東京都文京区春日の北野神社は江戸城の「北の」位置にあり、摂社の太田神社も太田道灌から名づけられた可能性も考えられますので、この2社から「オオタ」とアメノウズメとが結びつくと考察するのは早計かもしれませんが、東京都文京区春日の北野神社の摂社の太田神社にせよ、この大田神社にせよ、漢字よりも音が重要であって、「オオタ」の音に後から字をあてたのであれば、「大田神社」も「太田神社」も社名に共通点があることになり、いずれもアメノウズメを祀っているとなると、「オオタ」とアメノウズメとのつながりが何かあるのか、という可能性を考えたくなります。
上の方の写真、手前左手に少しだけ見えている小さい社は、「福徳神社」で、上賀茂神社製作『京都歩くマップ―上賀茂・北山―』には≪幸福を与える神様≫と出ている。
↑ 大田神社 境内 で、杜若(かきつばた)の群生 が 国の天然記念物 に指定されたというが、4月後半においては、↑の状態。 《ウィキペディア―カキツバタ》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%90%E3%82%BF を見ると、≪カキツバタは湿地に群生し、5月から6月にかけて紫色の花を付ける。≫と出ている。
↑ 「北大路魯山人 生誕地」の碑
大田神社の南西側の向かいに、「北大路魯山人 生誕地」の碑と説明看板が立っている。 雁屋哲 作・花咲アキラ 画『美味しんぼ』に、しばしば、名前が登場する食通にして陶芸家、また、『美味しんぼ』の主要登場人物のひとりで「美食倶楽部」主宰の食通にして陶芸家・芸術家・海原雄山のモデルと言われる 北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん)(1883―1959)は、この地の生まれらしい。
《ウィキペディア―北大路魯山人》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%A4%A7%E8%B7%AF%E9%AD%AF%E5%B1%B1%E4%BA%BA によると、上賀茂神社の社家・北大路家の次男として生まれたらしい。
次回、 深泥池 から 地下鉄「北山」駅まで行きます。
☆ 《賀茂別雷神社[上賀茂神社]参拝》9部作、
1.楼門・透廊・棚尾社・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_1.html
2.ルーテル賀茂川教会・賀茂川・御土居・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_2.html
3.斎王桜・外弊殿・神馬舎・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_3.html
4.細殿・橋殿・片岡橋・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_4.html
5.弊殿・「特別拝観」・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_5.html
6.奈良神社・北神饌所・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_6.html
8.深泥池・京都コンサートホール、摂社の構成・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_8.html
9.流造と切妻、不動産業の神「迦毛の大神」・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_9.htmll
もご覧くださいませ。
(2014.5.5.)
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