サルバトーレフェラガモのネクタイとロットリング―知らない男を住宅屋の営業と言うか?【上】ネクタイ

[第265回]営業と会社の話(61)-1
【1】  私は、若い頃、「ブランド物」の服だのなんだのというのは、子供で着ているのはちょっとおかしな家庭の人間だと思っていたし、大学生の頃は、大学生でそういうものを着るのは「身分不相応」で、男であれ女であれ、学生が着るものではないし、そんなものは「水商売」「風俗営業」の女か女をたぶらかすことを趣味にしている慶應の内部進学の悪いやつが身につけるものだろう、くらいに思っていた。 自分自身、経済学上の正確な定義ではなく意識としてのもの感覚的な概念であるが、「ブルジョア」か「プロレタリア」かというと「プロレタリア」に属する人間であった。普段の生活でも、「大学生」の時、父の勤め先の工場にアルバイトに行った時、父の部下であった人から、「あんたなんか、東京で下宿してるのなら、月10万円以上の所に住んどるんやろう。」などと言われたことがあり、「そんな所に住んでるわけないでしょう。」と言うと、「じゃあ、いくらくらいするんや」と言うので、「私のアパートの家賃は月1万2千円です」と言うと、「嘘 言うな!今どき、そんな家賃のアパートあるわけないだろう。うちの息子、京都の同志社行っとるんだけど、京都でも、月6万円やぞ。『風呂つきの所でないといやじゃい』言いよるからそれで6万円になったんや。 あんたなんか、もっといいところに住んどるんやろ。ましてや、東京やからもっとするはずや。最低でも10万円以上の所に住んでるはずや。」と言われ、「違いますよ。そんな所、住めるわけないでしょう。」と言ったのだが、30年程前、実際、川崎市幸区のアパートは畳敷きの6帖に1畳分の押入れと板張り1帖の炊事場があってトイレは共用で、風呂と洗濯は近所の銭湯とコインランドリー使用で、家賃は月1万2千円の所に住んでいた。同じ高校から同じ大学に行った男がいて、仕送りをしてもらっている額を聞いて、その男から「よくそんな額で生活できるなあ」と言われたことがあったが、父は、毎日、電話してきて「ぜいたく、しておらんやろうなあ。ぜいたくしてはいかんぞ」と言い、食事は、朝はメロンパン80円と牛乳80円、昼は大学の生協食堂でカレーライス140円、夜は宿舎の食堂でカレーライス300円で、計600円、たまには、夜はカレーライスではなく「定食」500円としてその日は1日あたり計800円でなんとかやっていた。共用の風呂で何か皮膚病をうつされてしまったことがあり、慶應の医療センターに行くと、女医さんが、近くの皮膚科を教えてくれた上で、「あんた、ひとり暮らしして、ちゃんと食べるもの食べてるの」と言うので、「はい。朝はメロンパンと牛乳で、昼は生協食堂のカレーライスで、夜はカレーライス」と言うと、「だめでしょ。もっと、きっちりと食べないと。そんなことしてるからこういうものになるのよ」と言われ、「皮膚の問題だから食事は関係ないと思います」と言ったが「そうじゃないの。皮膚は直接は関係なくても、そんないいかげんな食事してるようなことだから、こうなるの」と言われたことがあった。それを話すと、父から、「もうちょっと、安くできんのか」と言われたので、それで、昼は水道の水を飲んで食事なしにしたり、朝はパンを半分にしたりパンと牛乳ではなくパンと水道の水にしたりとかやってみたことがあったが、結局、我慢できず食べてしまった。 そういう生活をしていたので、だから、慶應の内部進学の人間や「あたまが内部進学」の人間でブランドものの服や靴を着ている人間などは、私から見れば、別人種というのか、実際のところ、「敵」だった。同じ宿舎の人間で、東大法学部の4年生の男が、私が食べるものがなくて自動販売機の脇にでも小銭でも落ちてないかと思って歩いていた時、日吉で一番高いレストランから出てきたのを目撃した。あいつらとは私は「人種が違う」のだ。 夏休み・冬休み・春休みとなると最初から最後までアルバイトだった。少人数の従業で、夏休みの後、助教授から「夏休みに何をしていたか」ときかれて、「保養所で住み込みの『雑務』のアルバイトをやってました」と言うと、「きみ、保養所の下男なんて、そんなことやってたら、勉強できんだろう」と言われたことがあった。実際、そうだった。夏休みに、阪急の駅で、同じ高校から大阪大学の法学部に行った男と会い、「どこ、行ってきた~ん?」ときかれて、「工場のアルバイトに」と言うと、「へ~え、そんなもん、やってんの~ん」と言われた。彼にどこに行ってきたのかときくと、阪大の図書館に行って法律の勉強してきたということだった。彼が5年間かかって司法試験に合格して新聞の合格者欄に氏名が載った時、父はその新聞を送ってきて、「◇◇くんの爪の垢を飲みなさい」と言ってきたが、実際、彼の爪の垢を飲みたかった。彼の爪の垢でも飲めば、彼のような生活をさせてもらえるなら、垢でもしょんべんでも飲んでみせたかった。「ぜいたくは敵だ」「うちてしやまん」「木口小平は死んでもラッパを話しませんでした~あ」とか言われて、「アルバイトぉ、アルバイトぉ」とさせられてきた人間と、週2回の家庭教師以外はアルバイトなんぞ何一つせず、冷房の入った部屋で法律の本を読んでいた人間とで差がでても当たり前だ。私も彼のような生活したかった。だから、「うちてしやまん」「ぜいたくは敵だ」と言われ、「アルバイト、アルバイト、アルバイトぉ」とさせられて、生協食堂の140円のカレーライス食ってた者から見れば、私が汗だらけになって肉体労働をしていた時に冷房の入った部屋で法律の本を読んでいたやつとか、食費がなくて1週間ほど食べずにいた時に、日吉で一番高いレストランから出てきたやつとかは、その当人は私に悪いことをしたつもりはないだろうけれども、こちらからすれば、「敵」に見えた。 ブランドものの服を得意がって着る慶應の内部進学の人間も同様である。「そんなのださいよお」とか言いあっている内部進学の男というのは、「ほしがりません。勝つまでは」とか言われて、「アルバイトぉ、アルバイトぉ」とさせられ、3食たべることができない日もある者からすれば、つきあいたくない人種だった。 ロシア民謡に「ДУБИНУШКА(ドゥビヌーィカ) 」という歌があり、日本では「仕事の歌」という題名で知られている。この歌の歌詞は、本来のロシア語の歌詞と日本でダークダックスなどが歌って来た歌の歌詞とは内容が異なる。 その頃の私の意識に合わせてバックミュージックを決めるなら、ロシア語の方の「ドゥビヌーシカ」がふさわしい。
⇒《YouTube-Дубинушка(ドゥビヌーシカ) России. Фёдор Шаляпин(フョードル=リャリアピン).wmv 》http://www.youtube.com/watch?v=__uAO0-PlsQ
日本語の歌詞がインターネットにも出ていた
⇒《YouTube-仕事の歌 ДУБИНУШКА》http://www.utagoekissa.com/shigotonouta.html
日本語の歌の方の歌詞に≪イギリス人は利巧(りこう)だから 水や火などを使う ロシア人は歌をうたい 自らなぐさめる ≫という部分があるが、ロシア語の歌の歌詞にはそういう部分はない。日本語の歌で創作されたものらしいが、私が1週間何も食べずにいた時に、高いレストランから出てきた男、私が汗だらけで肉体労働のアルバイトをしていた時に冷房の入った部屋で法律の本を読んでいた男、というのは、≪歌を歌い 自らなぐさめる≫者から見た≪悧巧だから 水や火などを使う≫者のような者に見えた。
    ジェットコースターのペンキ塗装の手伝いの仕事をアルバイトでやったことがある。ジェットコースターの脇に金属の網目になった歩行通路はあるが、低い手摺が片側にあるだけである。そこを丸太を2~3本肩にかついで一番高いところまで持って行ったが、本当に怖かった。落ちたら命を失くす可能性もあったと思う。とび職はその網目の通路を歩くだけではなく、そこから下に吊るして丸太の足場を組み、アルバイトでないペンキ職人はその足場に乗ってペンキ塗装をおこなうのだ。 聞いた話だが、前年、一番高いあたりから落下した人があったそうな。命は失くさなかったと聞いたが、怪我しなかったということはありえない。 デザインばかりこったメンテナンスや清掃の際にどうするかなどまったく考えない建築をつくって芸術家きどりの「世界的建築家」というのは、おそらく、私がジェットコースターの一番高い所まで丸太をかついで運んでいた時に、冷暖房のきいた部屋で建築のお勉強をしていたような人だろう。自分自身はジェットコースターの一番高い所まで丸太をかついで運んだ経験もなく、死ぬまでそういう経験なんかすることのない人だろう。そういう人が、ちょっと変わった服を着て変わった帽子をかぶり、女優を妻にしたりして「建築家」を名のっているのだろう。
   「Дубинушка(ドゥビヌーシカ)」のロシア語の歌詞には、
≪ 私はこの歌を仕事仲間たちが歌うのを聞いていた。
   丸太を垂木にあげながら歌うのを
   と突然丸太が崩れ仲間たちは歌をやめた
   二人の元気な若者が下敷きになったのだ

   木材を積んだ船を曳くときも鉄を鍛えるときも
   シベリアの鉱山で鉱石を掘るときも
   胸の苦しみと痛みと共に我等は一つの歌を歌う
   その歌であの樫の棒を偲ぶのだ ・・≫
(伊東一郎訳。「歌詞対訳」 [岸本 力 編『ロシア民謡集 モスクワ郊外の夕べ』2003.11.20.全音楽譜出版社 所収])
真っ赤なスポーツカーに乗ってかわった帽子かぶったりすれば「建築家」とか思っているようなヤカラは、ジェットコースターの一番高い所まで丸太をかついで登ったりはしないだろう。なにしろ、「建築家」の「先生」なのだから。五流大学の建築学科を卒業したということで自分は「設計士さま」だと思っているような一条工務店の第一設計部の人間、建築現場に行ってもシャープペンシルより重い物は絶対に持たないような人間も、やはり、ジェットコースターの一番高い所になど天地がひっくり返っても登らないだろう。「設計士さま」なのだから。ジェットコースターの一番高い所はともかく、工事現場で玄翁で釘を打とうとして誤って自分で自分の左手の親指を打つ経験くらいしてみても悪くないようにも思うのだが、「設計」という職種の人間はやらない。新卒入社したその日から「設計士さま」という「エライ人」なのだから。


   こういった人生を送ってきたので、私は、「ブランドもの」の服だのなんだのは嫌いだった。 ≪歌を歌い 自らなぐさめる≫者から見た≪悧巧だから 水や火などを使う≫者の服に思えた。 しかし、今はそうとも思っていない。 理由は、まず、「ブランドもの」というのは、本来はそういうものではないらしいのだ。
   20年近く前、ミラノのマルペンサ空港から成田行きのアリタリア航空に乗ろうとして免税店をのぞいた時、そこに、緑色の地にカタカナで「ヴェルサーチ」と書かれただけの布が売られていた。スカーフらしい。 単なる無地の布にカタカナで「ヴェルサーチ」と書けば、値段が倍以上になるという不思議、魔術。 なんじゃ、これは、と思いませんか?  日本人はよっぽど、馬鹿にされているのではないのか。 今は昔、コジローという漫画家が、プロ野球などスポーツを題材にした4コマ漫画を描いた本をだしていて、たしか、巨人に入団直後の桑田が登場し、「野球選手っていいですよお」と言い、どこがいいかというと、「なにしろ、普通の野球のボールにマジックで『巨人軍 だれそれ』と書くだけで値段が倍以上になるんですからねえ」と言う話があった。 実際に桑田が言ったのではなく、そういう4コマをコジローが書いていたのだが。 マルペンサ空港の免税店にあった「ヴェルサーチ」なんて、それと変わらないではないか。
   しかし、それは、本来の「ブランド」とははずれているはずだ。 本来の「ブランド」は、刀剣などで「銘」が入ったもののようなもので、製作者が自分の作品だと責任を持ち、その作品・商品の片隅に自分の名前を入れるというもののはずなのだ。 「ヴェルサーチ」と大きく書けばそれでいいというのは本来の「ブランド」ではないはずなのだ。 「無銘」のものでもいいものはあるとしても、製作者として「銘」を入れるのは、製作者としてこれは精一杯の努力をして作成したもので悪くないものだという自信があるというもので、「ブランド」もそういうものであるはずなのだ。
   だから、その結果として、「ブランドもの」でないものでもいいものはあるとしても、「ブランド」の服とか靴とかは、製作者として、デザインにも自信があるというもので、服なら縫製がきっちりとしたもので、長く使えるものである場合が多い。 又、上代を高く設定できるということは、下代も高くすることができる、それだけ費用をかけたものを造ることができる、ということでもある。 [「上代」「下代」については、たとえば、《教えてgoo!-「下代」と「上代」という用語についてお教え下さい。》http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2083869.html 参照。] だから、「ブランド」でないものよりも、耐久性のある長く使えるものである場合が多い。

   それで、「大学生」の時は、工場労働者であったりペンキ塗装職人の手伝いだったり保養所の下男であったりして「プロレタリア」「労働者」「労務者」だったのだが、卒業後、住宅屋に勤めて「営業」の仕事をするようになった。そうなると、服装も考えないといけないことになった。 さて、「ブランド」ものを着るべきなのか、そうではないのか。
   小堀住研に入社した時の新卒社員研修で、合宿研修の時に、研修担当の課長K崎が、「営業ですから、服装には気を使ってください」と言い、それについては、そうかと思ったのだが、それに続いて、「『私がしているこのネクタイ、どうってことないように見えるかもしれませんが、うちのが買ってきたもので、三宅イッセ― なんですよ』・・・・・と言うと、よく聞こえるでしょう。いい感じするでしょう、そう言うと。」と言ったので、それについては、研修を担当している講師役の人の言うことだから、そうなのだろうか、とも思いながらも、やっぱり、それは違うのではないかと思ったのだ。
   どう違うと思ったかというと、その少し前、国鉄が「分割民営化」された後、JRの常磐線の駅で駅員の服装を見て、「しゃれたネクタイをしている」と思い、国鉄が国営である方がいいか民営の方がいいかというのは、簡単にすべての面で絶対にどちらがいいとは言えないとは思うが、ともかくも「民間企業」になったことから、駅員の姿勢として「接客業」だとして服装にも気を使うようにしましょうとなったのか、と思ったのだ。 ところが、次の駅で降りてみると、次の駅の駅員も前の駅の駅員と同じネクタイをしているのだ。 あれ? と思ったのだ。 これでは、むしろ、逆ではないのか、と思ったのだ。 ネクタイというものは、良くても悪くても、自分でこれがいいかと選んでつけるべきものではないか。 それを、いくらセンスのいいものでも、これをつけなさいと使用者が決めてつけさせた、というのは、ちょっと考え方を間違えているのではないのか、と思ったのだ。
   小堀住研の課長Kは体型・風貌は少々やぼったい感じ(一緒に研修を担当していた別の課長の言葉によれば「肥満体」)であったが、それはそれとして、営業として服装に気をつけようとしているというのはもっともなことだとは思ったのだが、『私がしているこのネクタイ、どうってことないように見えるかもしれませんが、うちのが買ってきたもので、三宅イッセ― なんですよ』と言われて、いいと思うか、いい印象を受けるかというと、私なら受けない。 ネクタイというものは、高いものであれ安いものであれ、基本的には自分で選んで自分でつけるべきものだと思うのだ。 ネクタイを嫁はんに選ばせているというのは、むしろ、「やぼった系」「おやじ系」という印象を受ける。ましてや、それを「よく聞こえるでしょう。いい感じするでしょう、そう言うと。」などと言う点は、「オヤジ」「おっさん」て感じがして、「いい感じ」はしない。 もちろん、もらいものとして人からもらう場合もあるかもしれないが、基本的には自分で選んで自分でつけるということを普段している人間の場合は、たとえ、もらい物でも、自分が選んだものと同様に着こなすことができるのに対して、日常的に人に買ってもらってつけている者は、もらい物はそのままもらい物、自分らしいものではないものになる。

≪ ・・よくネクタイを贈るでしょう。 原則的にはネクタイというものは、締める当人が自分で選ぶべきものなんだ。 自分の締めるネクタイを他人任せにしてるような男じゃ駄目ですよ。
    だから、ネクタイを贈る場合は、その人のスーツを知ってなきゃ贈れないんだよ。どういうスーツを持っているか、どういうスーツを好んで着るかというようなことまでね。服装とかおしゃれというのは、結局、バランスが大事でしょう。いくら高価なエルメスだの何だの舶来のネクタイをもらったって、それに合うスーツがなかったらどうにもならない。
   だけど、そういうネクタイをもらって全然うれしくないかというと、そんなことはない。それはその人の気持ちがわかるから、やっぱりうれしいわけです。贈ってもらうことはうれしいわけだからね。・・・・一所懸命選んでくれたんだなあということが通じれば、それはそれでいいと思う。・・≫
(池波 正太郎『新編 男の作法』2011.10.20. サンマーク文庫)
   数年前、ある住宅建築業の会社で営業職のリーダー格の職種(募集時の正確な職種名は忘れたが)に応募して不採用にされたことがあり、その際、間に入ってくれた人材紹介会社の人が、私に「○○さんの営業は時代遅れと違いますか」と言ったのだ。不採用の理由は何か考えて、彼は原因のひとつとしてそう思ったというのだが、しかし、労をとってくれた人には悪いが、それは違うと思う。「20年、営業やった人間の営業は20年前の営業で、2年しか経験のない人間の営業は最近の営業、最新の営業」かというと、それは違うと思うのだ。もしも、そう思って不採用にされたのであるなら、不採用にされたとしても千葉県に本社があるその会社は惜しい会社ではない。このネクタイの話にしても、20年以上前に、小堀住研の新卒社員研修で聞いて、服装に気を使うべきだというのはもっともだが、三宅イッセ―のネクタイなら嫁はんが選んできたものでもいいだろうという発想は違うのではないのか、たとえ、値段の安い「無銘」のものでも自分でこれがいいと思って選んだものの方がいいのではないか、「ブランド」のものの方がいいものがあると自分が思って自分があるブランドのものを選んだのならいいが、嫁はんがえらんだものをそのままつけているような男の場合、三宅イッセ―であろうが何であろうがいいとは言えないのではないかと思い、そう思いながら営業の仕事をしてきたところ、私が思ってきたことを書いた本に出会ったのだ。だから、このネクタイの話にしても、出発点は20年前でも「『20年前』の過去形の営業」ではなく、「『20年前から今現在に至る』現在進行形の営業」なのだ。

   それで。 住宅屋の男性の営業は、「女性の感覚を軽視してはならない」とよく言われるのだが、男性よりも女性の方が男性の服装をよく見ているように思うのだ。 今となっては15年以上前、一条工務店で成績優秀営業所の営業に海外旅行に行かせるという「キャンペーン」があって付近の営業所の営業と一緒にハワイに行ったことがあり、その際、免税店で、サルバトーレ=フェラガモのネクタイを買って来たのだが、それを締めてある契約客の所に行った時、奥さまから、「○○さん、そのネクタイ、どうしたの」と言われた。 ハワイの免税店で買って来たサルバトーレ=フェラガモのネクタイであることを話すと、「そうでしょ。やっぱり、違うもの」と言われた。実際、サルバトーレ=フェラガモのデザインは「違う」。 
   ところが、一条工務店の同僚の男性にこの話をしても、理解しない人間がほとんどである。サルバトーレ=フェラガモのネクタイもほとんどの人間が気づかないのだ。 そのあたり、視覚の能力は男性も女性も一緒だと思うのだが、男性の服装について気づくかどうかという点では一般に女性の方が敏感のようなのだ。
   小堀住研で千葉支店から東京支店に転勤になった時、千葉支店の人たちから贈り物としてネクタイをもらったのだが、千葉支店に電話をした時、電話に出た事務の女性にそのお礼を言うと、「私がそごうに行って選んだのよ。○○さん、茶系のスーツ着ていたでしょ。 あれに緑系のネクタイが合うと思ってそれにしたの。」と言ってもらった。 彼女は見ていたのだ。多くの男が、他の男がどんな服を着ているかなんか気にしていないところを。だから、男性は、他の男の服装なんて気にしていないという男性のその感覚で女性も見ていると思ってはいけないのだ。女性は男性が見ていないものを見ていて、男性が気にしていないものに気づいている場合があるのだ。

   住宅屋の営業は背広を着るべきなのか作業服を着るべきなのか、という問題がある。小堀住研の営業は背広上下を着ていたのだが、一条工務店の 福島県いわき市では、背広を着ている人間なんか誰もなかった。その地域の人間が、普段、背広なんか着ていないし、背広上下を着て訪問すると、東京者が何を売りつけにきたか・・みたいに見られることが多く、だから、わざわざ、そういう警戒されるような服を着ることはないという判断から、という場合と、もともと背広なんか着たことないという人もいただろう。 いわき市の総合住宅展示場では、一条工務店の営業は、ほとんどの人間が、上はくすんだ草色の作業服で下はビジネスズボンという服装をしていた時期があり、総合住宅展示場の管理事務所の女性から、「それ、一条さんの制服なんですか」と言われたこともあったが、制服ではない。 その服装がその地域では住宅屋の服装として適していると考えて多くの人間がその服装になったのだ。
  それで、その際だが、作業服を着ると、背広の場合と違って、ネクタイの見える部分が小さいのだ。そこで、私は考えた。 見える部分が小さいなら、派手めのものにすれば、結果として、見える部分が大きい場合と同程度の印象になるのではないか、と。 それで、派手めのネクタイを買って着用した。

   又、ネクタイをしている時に食事をする場合、麺類はできるだけ避けてきた。 なぜかというと、うどん・そば・ラーメンといった麺類は、食べる時に、どうしても、つゆが前にはねてしまい、ネクタイを汚すからだ。 栃木県佐野市は「ラーメンの町」として売り出しているのだが、市として売り出そうとしているだけに「町じゅう、ラーメン屋だらけ」の町で、たまに行く人にはいいのだがそこに住んで食事をしようとすると飲食店に占めるラーメン屋の割合が大きすぎてラーメン以外のものを食べたい時に不便である。「両毛線麺街道」と言って、館林はうどんを売りにし、足利・栃木なども麺類の店が多い。一条工務店で、私が佐野市の展示場に赴任した時、在籍年数が私の半分くらいで最初から佐野で入社したKが、「佐野はラーメン屋が多くて他と違って食事するのに困らない町だから」と言ったので、この人はあんまりいい格好していない人なんだなと思った。きっちりとしたネクタイをしておれば、そういうネクタイをしている時には、ラーメンは食べたくないはずなのだ。食事用のエプロンを持ってラーメン屋に入ることもしていないはずだ。実際、彼はあんまりぱっとしたネクタイはしていなかった。
  それで、佐野市に3年半ほど住んで、ラーメンを食べざるをえない生活をして、麺類・汁ものの食べ方が、だいぶ上手くなったのだが、それでも、やっぱり、ネクタイをしてラーメン・うどん・そばを食べるとネクタイに汁を飛ばしてしまうことがある。 クリーニング店には「ネクタイ」というメニューはあるが、あまりきれいにならないという説もある。
  ある低価格帯中心の住宅屋の営業をやっていた人で、ネクタイは消耗品だから高いネクタイはしないという人があった。背広とかはある程度いいものを着ることもあるが、ネクタイはブランドものでなくてもきれいなものはあるからそういうものを選んで、汚れたら捨てるようにしている、というのだ。それもひとつの考え方だろう。
  しかし、よく見れば、やはり、ブランドものにはノンブランドのネクタイにないすぐれたデザインのものがあるので、汚れる可能性のある作業をする時はネクタイは着用しないで、汁ものの食事をせざるをえなくなった時は食事前にはずすか首の前に紙エプロンなりをつけるかするようにして着用したい場合がある。
 汚せば捨てて惜しくないようなネクタイをするというのは、建築現場に行くと靴が汚れるからと言って革靴もどきのクラリーノを履くようなものではないのか、クラリーノはよく出来ているようでやはり革靴とは別物で、きっちりと革靴を履いて革靴で入るべきでない場所には靴を履き替えるべきであるのと同じく、ネクタイはある程度以上の金額のブランドもののネクタイをしてこそネクタイをしたことにならないか、といった考え方もある。
 きっちりとしたブランドのネクタイでなくていいという認識は、それだけ「おっさん化」「オヤジ化」を示しているのではないかという見方もあるかもしれない。
 これが正解というものはないと思うが、そのあたりを自分で考えて、自分なりの対応を身につけた人が営業の経験者であると思う。

   一度でも「自分で選んだ」「ブランドものの」ネクタイを締めた経験がある者が、あえて、ネクタイは消耗品だからと判断して、ブランドものでない比較的低価格のものの中から良さそうなものを選んで着用するというのはひとつの考え方だと思うが、生まれてからブランドもののネクタイなど締めたことがない、という営業は、営業としては精神面が低い営業だと思う。 一度は、サルバトーレ=フェラガモのネクタイを締めてみるべきだし、サルバトーレ=フェラガモの良さを知るべきだと思う。 それがわからない者には家を建てるにしても、ブサイクな家しかできないと思う。

   さらに。 スタンドカラーシャツというシャツがある。 ワイシャツのひとつのタイプであるが、襟(カラー)が立っている(スタンド)ところから「スタンドカラー」というのであるが、別名を「建築家シャツ」とか「文化人シャツ」と言う。 「建築家」と称する人間がよく着ているシャツであり、「文化人」ぶりたい胡散くさそうなやつが着るシャツという意味である。 これはネクタイはしないもので、そのかわりにシャツの全面に装飾が多い。あえて、ネクタイをしたい場合は蝶ネクタイをするものらしい。 建築の仕事をする人間はこういうシャツを着るべきだという説があるのだが、私は、最初、そんなきざったらしいもの着れるか、と思ったし、実際、このシャツを着ている人には「きざったらしい」という印象を周囲に与えている人がいるのだが、ためしに、買って着てみたところ、鏡で見て、私の場合はそうならないと自信を持ったので、その後、着数を増やし、日常的に着ることにした。 なぜ、私の場合、「きざったらしい」とか「かっこつけてる」という印象にならないかというと、今まで、実際に、建築現場で柱を運んだりもしてきた人間であり、夜遅くまででも、なんとかして契約してもらえないものかと思って苦労して努力して営業してきた人間であるからだ。だから、「設計士さま」しかやっていない人間みたいにはならないのだ。
   それで、このシャツは、これを着れば「建築家」になったみたいに思うという否定的な意味で「建築家シャツ」と言われるが、否定的な意味ではなく、肯定的な意味で「建築家シャツ」でもある。図面を書くような場合、ネクタイをネクタイピンなしで締めていると多かれ少なかれ前にぶら下がってくる。 ネクタイピンをしても、図面を書くような場合には、ネクタイが体の前にあるよりもない方が仕事はしやすい。 だから、図面を書く仕事をする者にはネクタイはしないという前提のこのスタンドカラーシャツは向いているのだ。手書きではなくCADで製図する場合も、基本的には同様である。
   又、地盤調査をおこなう際、スウェーデン式サウンディング試験という先が矢じりのようになった鉄の棒を地面に突き立てて重しを載せて回転させ、何mもくりこませるのに何回転要したかで地盤の強度を見る調査では、昔は人力で回していたというが、今は、機械で回すが、その際など、ネクタイをしていたのでは、もしも、ネクタイが機械に挟まれるようなことがあれば、首まで引っ張り込まれることになり危険である。 作業服を着てネクタイは作業服の内側に入れておけばよさそうであるが、夏場、作業服を脱ぐことがあれば、ネクタイは外に出ることになる。 回転するタイプの機械は、スウェーデン式サウンディング試験の機械に限らず、建築現場には他にもある可能性はある。 だから、回転するタイプの機械と接する可能性がある建築屋・建築家にとっては、ネクタイはしないという前提のスタンドカラーシャツは向いている。
   それで、私は夏場はスタンドカラーシャツを着用することが多くなった。 冬場にスタンドカラーシャツを着て悪いことはないようだが、背広を着ると、やはり、通常のネクタイを締めないと合わないし、蝶ネクタイまでは気が進まないのでやったことはない。

   千葉市中央区鵜の森町 の 新華ハウジング有限会社[建設業]・ビルダーズジャパン株式会社[不動産業]・ジャムズグローバルスクエア株式会社[不明業]で社長○○川の子分で「工事責任者」を自称していたわりに工事に責任ある態度をとっていなかったU草A二(30代なかば。当時。男。)が、「ぼく、営業やったことないですけど、営業できますから」とあつかましい文句を大きな声で何度も何度も口にしていたので、あつかましい失礼なことを言う男だとあきれていた。 私は、↑に述べたようなことを営業の仕事をしながら20年以上かけて少しずつ習得してきたのだ。 そもそも、普段、ネクタイもせず、てぬぐいを頭に巻いている男が、何をぬかすか、というところである。 ネクタイというものは、しようと思えばいつでも即座にできるものではない。 それまでから締めた経験がないと、さあ、締めようと思っても、適切なものを締めることはできないものだ。 
≪ 身だしなみをととのえるということは、鏡を見て、本当に他人の眼でもって自分の顔だの躰だのを観察して、ああ、自分はこういう顔なんだ、こういう躰なんだ、これだったら何がいいんだということを客観的に判断できるようになることが、やはりおしゃれの真髄なんだ。≫
≪ ・・そういうことは何も訓練なしでただやってるだけじゃ駄目でね。やっぱり映画を観るとか、小説を読むとか、いろんなものを若いうちに摂取していれば、自然にそういう感覚というのは芽生えてくるわけですよ。≫
(池波 正太郎『新編 男の作法』2011.10.20. サンマーク文庫)
   ネクタイ締める訓練をしていない人間、ワイシャツをどういうものを着るか、といったことを考えて服装を決める訓練をしていない男に、「ぼく、営業やったことないですけど営業できますから」と言われても、「ああ、そうですか」と言うしかない。 男性の服装について、男性より女性の方が気づく度合いがはるかに高いという点も、私は営業の仕事を10年を超えてやって気づいたのだ。 「やったことない」人にわかるとは思えない。

   この際、もう一回、言っておこうか。

「ぼく、営業やったことないですけど営業できますから」 ⇒
   「ああ、そうですか」
   

☆ サルバトーレ=フェラガモのネクタイ と ロットリング社のシャープペンシル―知らない男を住宅屋の営業と言うか? という題名で、この2項目を述べようと思ったが、ブログの字数制限もあり、2回に分けて公開することにします。 【下】https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_2.html で 「ロットリング社のシャープペンシル」について述べます。ご覧下さいませ。

   (2014.6.7.)

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↑ 私は、この本を見ながら、ミラノとロンドン・パリのインテリアショップを何軒か訪ねたが、日本の店が場所を移動することがあるのと同じく、移転してその場所にない店もあった。 

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