山崎菅原神社(熊本市中央区)と熊本城―冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り(20)

[第270回]冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らす全国お百度参り(20)
[1]   くまもん の里、熊本県の県庁所在地 熊本市の山崎菅原神社に行きました。 私見では、「ゆるキャラ」では、今現在、有名なのは、ふなっしー(千葉県船橋市)と 彦にゃん(滋賀県彦根市) と くまもん(熊本県)の3体が全国的知名度で いい勝負 ではないかと思うのだが、熊本県、熊本市には、くまもん 以外に有名人はいないのか、有名施設はないのか、というとそうでもないと思うのだ。
※くまもん ⇒《YouTube- 「くまモンもん」(MV) ※英語歌詞字幕付き "Kumamonmon" with English superimpose 》http://www.youtube.com/watch?v=GwmeKHXYqzI (←うしろのねーちゃんのガリ股が気になるが・・)
   しかし、今回、熊本に行って疑問に思うところもあった。熊本は江戸時代は長く、細川藩であったのだが、その割に、熊本、及び、熊本城 では、細川家よりも、加藤清正の方が存在感がある。な~んでだ?
   山梨県に行くと、「なんでもかんでも武田信玄」みたいなところがあって、「ほうとう は武田信玄が作った」と山梨県人は言うのだが、実際には、たぶん、作ったのはどこかの料理人か「家庭の主婦」じゃないかと思う。 「甲府五山を武田信玄が作った」というが、それだって実際に作ったのは「大工さん」だと思うし、「その費用を出した」といっても、山梨県民・長野県民からふんだくったカネであって自分で「夜討ち朝駆け」「24時間働けますか、ぼくらのリゲイン」(⇒《YouTube―いいなCM 第一三共ヘルスケア リゲイン24 「リゲイン・・》http://www.youtube.com/watch?v=kMFYRqrODrg )とか言って働いてかせいだカネじゃないはずで、山梨県人に怒られるかもしれんが、愛知県民・岐阜県民のカネで焼き打ちしまくった織田信長よりはいいかもしれん・・という程度じゃないのかという気もするが、山梨県を代表するお土産お菓子は?→信玄もち♪ と、山梨県では甲府駅前にでかいツラして座ってるように、何かと、武田信玄が登場する。
   千葉県なんかはそういうのがいないのだ。千葉県の殿様というと、里見八犬伝の里見さんあたりが有名かもしれんが、有名なのは里見さんよりもワンちゃんの方だし、大多喜城の“家康の猛将 本多平八郎忠勝”といったって、猛将だといっても三方が原の戦いでは武田軍に完敗してるし、しょせんは陪臣で、天下の徳川相手に獅子奮迅した真田幸村とか石田三成なんかと比べると、悪く言って申し訳ないけれども、しょせんは権力者のワン公だろうがという感じがしないでもない。
   栃木県に行くと、足利市は、北朝の現天皇家は足利尊氏のおかげで天皇になることができたはずであって楠木正成のおかげで天皇になれたのではないはずなのに、戦前戦中は、足利は朝敵だなどと言われてしまって肩身が狭かったようだが、今は足利市に足利尊氏の像があるが、甲府駅前の武田信玄に比べると小さくて、しょせん山梨県長野県ローカルの武将の武田信玄が山梨県全域のヒーローであるのに対して、室町幕府創設者で征夷大将軍で歴史の試験必出人名なのに、足利尊氏は今も栃木県全域ではなくあくまで足利市限定である。隣りの佐野市に行くと英雄 俵藤太 藤原秀郷の城があったということで、「秀郷祭り」というのが夏におこなわれるが、なぜ「英雄」かというとムカデ退治をやったかららしいが、ムカデ退治をやったのは滋賀県の瀬田川の橋でであって佐野でじゃないし、平将門という「反逆者」を討ち取った・・ということで、結局、「権力のイヌ」みたいな扱いでイマイチ人気薄だし、今は佐野市の一部分になった田沼町は「田沼意次ゆかりの地」と言って、かつては悪役だったが最近の歴史では改革者・良心的政治家として見直されてきている田沼意次の「ゆかりの地」というが江戸時代の田沼意次の領地はここではなく静岡県の方だったように思うし、「良心的政治家」であったとしても、しょせん、徳川家の老中で小藩の藩主でしかない、ということで、栃木県は「世界遺産 日光」に比べると武将はいずれも小粒の扱いて感じがする。
   「コミック乱ツインズ」(リイド社)に連載されている 愛知県人の漫画家 いとう耐 氏の『歴史漫画はじめました』で、いとう耐 氏が「考えてみると、名古屋って、徳川に冷たいよね」と語っていたが、言われてみると、そうかもしれない。「天下布武の織田信長の出身地」、「太閤豊臣秀吉の出身地」、とは言っても、徳川御三家筆頭尾張家の名古屋でもあり、信長の主たる城は清州城で、金のしゃちほこ の名古屋城は徳川の城なのに、その割に、「徳川御三家尾張家の名古屋」とはあまり言わない、というのは、実は、徳川家は、もしも、西から倒幕勢力が江戸を目指して攻めてくることがあった時を考えて名古屋に御三家の尾張徳川家を配置したはずが、御三家の尾張家は、幕末、佐幕と倒幕の争いの最中、どうも倒幕側の方が有利そうだと判断して御三家のくせに倒幕側に加担し、そして、江戸の町では、倒幕軍がやってくるというので、薩摩の島津か長州の毛利かがやってくるのかと思いきや、やって来た倒幕軍はなんと尾張徳川家だった・・・・ということがあって、どうも、尾張徳川家は名古屋にとって、「ちょっと恥ずかしい」存在なので、この際、スル―して「織田信長の出身地」「太閤 豊臣秀吉の出身地」の方をせっせと言っているのではないのか? と いとう耐 氏が述べていたが、そうかもしれない。
   熊本の細川家は、特に「恥ずかしい存在」ではないはずだが、どうも、加藤清正の方が存在感があるようで、山梨県の武田信玄に準ずるくらい存在感がある。今や、くまもん と加藤清正 が熊本の「有名人」で、左門豊作なんか、どっか行っちゃった。
   ひとつには、細川家の有名人というと、足利・織田・豊臣・徳川と支配者が変わっても生き残ったしたたかな男・細川藤孝(幽斎)とその息子で明智光秀の娘であるガラシア夫人を溺愛したという細川忠興の2人と、その2人より前、応仁の乱を山名宗全とともに戦ったとされる管領 細川勝元の3人だと思うのだが、細川藤孝と細川忠興の2人は細川家が熊本の領主になるより前の細川家の当主で、細川勝元はさらに前の時代で熊本と関係ないだけでなく細川家であっても細川藤孝・忠興とは筋が違うらしい。細川忠興の息子の細川忠利が、加藤清正の息子・加藤忠広が出羽 荘内、山形県に1万石程度の小大名にされて配置換えで追い出された後に、小倉から移されて肥後1国の領主になったということで、熊本城の鉄筋コンクリート像で復元された「外観復元天守」の展示館の説明では「名君であった」らしいが、残念ながら、細川勝元・細川藤孝などより全国的知名度では劣る。加藤清正よりも全国的知名度はずっと劣る。 仙台→伊達政宗、甲府→武田信玄、加賀→前田利家、という発想に比べ、熊本は細川家だったよなあ~あ・・・・と思っても、細川家の誰が熊本の初代藩主だろ、細川藤孝は丹後田辺城(舞鶴)の城主で関ヶ原の戦いの時に、西軍に攻められて落城したし、細川忠興は加藤清正などと同年代だからそれより後だろうし・・・・と考えると、全国的有名人がいない。 (もしかして、江戸時代以降の細川家で最も全国的に有名なのは、細川護煕さんじゃないか?) 
   加藤清正は、「賤ケ岳七本槍」の1人と言われてももともと「賤ケ岳七本槍」というのは秀吉の尾張系の縁者をデビューさせるためにそう言って売りだしたものだとも言われるし、朝鮮出兵の時に「虎退治」をやったとか言われるけれども、たぶん、韓国からすれば「侵略者」だろうし、関ヶ原の戦いでは「どっちかというと東軍」で見ているうちに豊臣の敗北に結果として加担したみたいになっているし、家康よりはずっと若いのに大阪の陣の前に死んでしまうし、死因だって梅毒と違うかとか言われたり、『あずみ』では天海から指示されたあずみにあっさり暗殺されたことになっているし、「築城の名人」とか言われるが、「甲府五山を作った」のは武田信玄ではなく「大工さん」じゃないかというのと同じく、「熊本城を作った」のももしかして加藤清正ではなく「大工さん」と違うのか? とも思えるし、そう思って落ち着いて考えると、知名度が高い割に、そんなにものすごいことやったのか、という気がしないでもないが、熊本城の「外観復元天守」の展示館では「名君であった」と出ていて、それによれば、地元での評判はいい方の領主であったらしい。≪清正の肥後入国で注目されるのは、自己の居城築城よりも、河川改修を優先させていたことである。城下を流れる坪井川の河道つけかえを行い、また、水源涵養林、防風林などの植栽を着手し、干拓地の造成なども行っている。 肥後には、北から菊池川・白川・緑川などが有明海に流れ込んでいたが、いずれも洪水被害をもたらす暴れ川だったのである。清正は熊本城築城に全力を投入するのではなく、むしろ、それら河川の堤防工事に力を入れていた。本格的な熊本城築城は、むしろ、関ヶ原合戦後であった。≫(小和田哲男「熊本城の歴史1 加藤清正 熊本城を築く」 [平井 聖 監修『よみがえる 熊本城』2008.4.18. 碧水社 所収] ) ≪名城熊本城を築き、城下町熊本を造りあげただけでなく、それまで洪水の被害が甚大だった菊池川・白川・緑川に「清正堤」を設け、水害が激減し、さらに川尻湊を使っての南蛮貿易にも乗り出し、外貨を稼いでいた・・≫(小和田 哲男「熊本城の歴史ニ 細川家 肥後を治める」[平井 聖 監修『よみがえる 熊本城』2008.4.18. 碧水社 所収] )というあたりを見ると、殿様は殿様でも、「よいではないか」「あ~れ~え」とか言ってバカ殿やっていたのではなく、行政力を発揮した政治家であったらしい。豊臣政権では石田三成ら近江系の豊臣恩顧大名が文治派・行政官で、加藤清正・福島正則ら尾張系は武断派というのか武闘派というのか、刀や槍をふりまわすのは得意だが行政は苦手の“体育会系”の運動バカ のようなイメージが広まっているが、実際には、“文治派”石田三成の軍は関ヶ原の戦いでは相当奮戦したらしいし、逆に、“体育会系”みたいに言われる加藤清正は熊本では行政の手腕も評価は高かったらしい。
   熊本城内には「加藤神社」(http://www.kato-jinja.or.jp/ )があるが細川神社はない、熊本城の前に加藤清正の像があるが細川だれそれの像はない。 ≪一説には、熊本入城の日、忠利一行は最前列に清正の画像を押したてていたといわれている。「われわれは、清正公を尊敬している」と、肥後の人びとに示そうとしたものであろう。また、熊本城に入る前に清正の菩提寺本妙寺を訪れ、その門前で衣冠束帯(公卿や武士の正装)のまま座り、「あなた様の城をお預かりします」といったという。≫(小和田 哲男「熊本城の歴史ニ 細川家 肥後を治める」」[平井 聖 監修『よみがえる 熊本城』2008.4.18. 碧水社 所収] )という話は実際にあったことかあくまでお話なのかわからないが、細川忠利が熊本入りする際、加藤清正を尊重し、それが江戸時代を通じて残ったのでしょうか。 細川さんは熊本城は加藤さんに譲歩しているようだが、細川家は細川家で、水前寺成趣園(http://www.suizenji.or.jp/ )の中に明治になってから建てられたという出水(いずみ)神社(http://www.suizenji.or.jp/izumi/01.html )があり、ここに細川家歴代領主が祀られ、また、水前寺公園内に熊本での細川家領主第1代の細川忠利の像がその祖父で足利家の幕臣として足利義昭を織田信長と結びつけ、足利義昭が織田信長と争うようになると織田に属して生き抜き、親交のあった明智光秀が信長を倒すと光秀は持たないと見て光秀に加担せず、秀吉が他界すると次は家康と見て息子・忠興を関ヶ原では東軍に参加させるとともに、丹後田辺城で西軍に囲まれた時には天皇から古今和歌集の理解者であるからという名目で西軍に助命を求める働きかけをしてもらって生き延びたという「したたかな男」・細川藤孝の像と並んで立っている。


[2] 山崎菅原神社(熊本市中央区桜町1-18)
   それで、地図を見ると、熊本には天神・天満・菅原系の神社がけっこう多い。 天神・天満・菅原神社は多くても「北野」神社は地図を見てもあまりないのは、地理的に大宰府に近いことから、「勧請」する際に、京都からよりも近場の大宰府から「勧請」することが多かったからではないだろうか。
   熊本城の周りにも、いくつかあるが、そのひとつが、山崎菅原神社(熊本市中央区桜町1-18)である。↓
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   「最寄駅」といえば、熊本市電の「花畑町」で、熊本の市電は廃線直前の大阪の市電みたいに路線をクルマに占拠されて動けないなどということはなく、交通手段として十分使える交通機関で、東京や大阪の地下鉄みたいにいちいち階段を上り下りしなくても乗れるので便利である・・が、道路の真中にある「プラットホーム」が少々狭いのですぐ脇をクルマが通るため、乗り降りにはそれほど余裕はない。 JR「熊本」駅から駅の東側の市電の「熊本駅前」駅から乗ると、「花畑町」までそれほどかからない。料金は後払いで150円。
   山崎菅原神社のホームページの「交通案内」を見ると、バスだと「熊本交通センター」が近いと出ている。 「熊本交通センター」からは、あそ熊本空港へもバスが出ていて便利である。








   熊本へは、東京からは、JR「東京」駅の南の鍛冶橋駐車場などから夜行バスの「福岡」行きを複数社が出しているが熊本行きはないようだ。 東京を夜8時15分に出て、福岡に着くのは翌日午前11時過ぎ。 博多駅から新幹線に乗ると40分ほど。博多駅から熊本までのバスもあるが、2時間ほどかかるので、博多駅から熊本までもバスに乗ると、前日の夜にバスに乗ったのに、熊本に着くのは午後になり、バスにばっかり乗っているみたいになる。小倉で降りて新幹線に乗れば時間を短縮できるが、金額も「飛行機に乗った場合の半分」と変わらなくなる。 基本的には「飛行機代の半分の額を何千円かは下回る」というのが夜行バスに乗る意義だと考えるとこれはできない。 東京(羽田)と あそ熊本空港との間の飛行機の便はけっこう本数はあるがけっこう高い。 大阪からは熊本までの夜行バスも出ている。新幹線も東京からの「のぞみ」は博多どまりだが、新大阪からは熊本まで直通の電車「さくら」「みずほ」が走っている。 
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↑ 「拝殿」の後ろに「弊殿」(「石の間」)があり、その後ろに「本殿」が設けられているが、「弊殿」(「石の間」)は、屋根のある「弊殿」があって、その後ろに「本殿」との間に屋根のない部分が設けられている。 地域によって天神社の社殿の構成に共通項があるのか、この後、訪問した、手取天満宮(http://www16.plala.or.jp/tetorijinja/ )もその構成だった。
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↑ 小さめだが、牛の像もいる。
※山崎菅原神社のHPは⇒http://yamasaki-tenjin.com/
「授与品」(http://yamasaki-tenjin.com/04jyuyo.html)に出ている≪漫画家のかわのいちろう先生が原画を描いており、菅原道真公からの力強いメッセージが伝わってくるデザイン≫という「合格祈願絵馬」(http://yamasaki-tenjin.com/jyuyohin/entry-378.html )は、どうも、真面目さがないように思え、私はあまりいい印象を受けない。

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↑ 東隣の建物は「市民会館 崇城大学ホール」(熊本市民会館)
左端に小さく見える鳥居が山崎菅原神社。
  崇城大学(http://www.sojo-u.ac.jp/ )は私立大学だったと思ったのだが、公立の学校と市民会館が同居するならともかく、私立大学と同居とはどういうことか? と思ったら、熊本市のHP 「市民会館 崇城大学ホール」(熊本市民会館)(http://www.city.kumamoto.jp/hpkiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=751 )によると、「愛称の命名権」を学校法人君が淵学園 が年間1000万円で買ったのであって、施設としては熊本市の市民会館、ということらしい。 「クリネックススタジアム 宮城」みたいなものか。しかし、この「愛称」は「熊本市のホール」ではなく「崇城大学のホール」みたいな感じがしてややこしい。
  茨城県つくば市の「世界的建築家」 磯崎 新 設計の「つくばセンタービル」の「ノバホール」を見て、「納骨堂みたい」と思ったのだが、音楽ホールというものはその施設の性質上、「納骨堂みたい」になりやすい面もあるとは思ったのだが、同時に、「納骨堂みたい」なデザインにならないようにするのが「建築家」のデザインセンスと違うんかい? とも思ったし、前川國男設計の東京文化会館は「納骨堂みたい」ではないとも思った・・・のだが、熊本市の「市民会館 崇城大学ホール」(熊本市民会館)は「納骨堂みたい」にはなっていない、と現地で見た時は思ったのだが、あらためて写真を見ると、やっぱり、「納骨堂みたい」と言えなくもないか・・・?

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↑ 背後に、坪井川が流れる。なかなか美しい。 川沿いは「坪井川沿い緑地」として歩道になっている。

   山崎菅原神社は、祭神は菅原道真。
≪ ・・・・一説には延久2年(1070)3月のある夜、菊池肥後守則降公(菊池氏の初代)の霊夢に菅原道眞公が現れ、託宣によって筑前国大宰府安楽寺天満宮(現在の大宰府天満宮)より肥後國詫磨郡白川のほとり南領森本に勧請されたとあります。 菅原山天満宮と号された当社は、社殿を建立されて崇敬厚く奉斎されました。やがて山崎村近辺の田畑を寄進され、その地に遷座されました。 江戸時代の地図には現在の鎮座地よりやや西(現在の桜橋南岸付近)に鎮座されていたことが記されています。
   当社は肥後熊本藩初代藩主細川忠利公の尊崇も厚く、社頭の額並びに神前の松が寄進され、外塀も修復されました。安永8年(1779)には六代藩主細川重賢公により再興されました。・・・・
   当社は明治に入り社号を菅原神社と称するようになりました。明治10年(1877)の西南戦争に際し、残念ながら社殿はことごとく焼失してしまいました。 その後、熊本鎮台開設の際に境内地を収容され、明治12年(1879)に山崎新道に遷座されました。 この頃より氏子崇敬者から山崎菅原神社又は山崎天神と称されるようになりました。 更に明治25年(1892)には山崎町新市街に、大正4年(1915)には現在の鎮座地である天神町(現在の桜町の一部)に遷座されました。
   現在の社殿は明治43年(1910)に造営され、昭和16年(1941)に拝殿が増築されました。 昭和20年(1945)の熊本大空襲では奇蹟的に焼失を免れ、現在にその姿を残しています。≫
と、現地の説明看板に出ています。

  そういえば、熊本県といえば、加藤清正と細川家だけではなく、鎌倉幕府消滅の際に倒幕側につき、南北朝の争乱の時に南朝側についた「建武中興十五社」のひとつ菊池神社(http://菊池.net/ )が創設された菊池氏の地元でもあるはずですが、熊本城付近にいると、加藤さんがなにより存在感があって加藤さんに譲歩した感じで細川さんがおられ、菊池さんは、あまり存在感がないのですが、菊池神社があるのも熊本市ではなく熊本市の北東の菊池市であり、肥後國とはいえ、熊本市が地元ではないからということもあるかもしれません。 豊臣秀吉からは、肥後國の半分を加藤清正、半分を小西行長の領地とされたが、熊本城を加藤清正が築いたあたりから考えても、熊本市付近は小西行長の領地ではなく加藤清正の方の領地であったらしく、加藤清正は熊本県が地元であるだけでなく熊本市が地元という点があるので、それで、熊本市では小西さんよりも加藤さんの方がなにかと表に出ている・・としても、それにしても、思った以上に加藤さんの存在感がある町だな、と思いました。

  ≪昭和16年(1941)に拝殿が増築されました。≫とあるように、「石の間造り」の社殿というのは、最初から拝殿・弊殿・本殿の三部構成の「石の間造り」であったわけではなく、後から拝殿が加えられたり、本殿が加えられたりして結果として「石の間造り」になった社殿があるようですね。


[3] 熊本城
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  ↑ 熊本城 大天守  
但し、1960年(昭和35年)8月に鉄筋コンクリート造で完成した「外観復元天守」。↑↓
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  「コミック乱ツインズ」(リイド社)に連載されている いとう 耐『歴史漫画はじめました。』の 2014年7月号掲載のものに、「新たに造られた城」の分類がわかりやすく説明されている。
「復元天守」・・史実と同じ位置に同じ外観・構造で木造再建された天守。
「外観復元天守」・・外観のみ ほぼ史実どおりに再建された天守。
「復興天守」・・位置・大きさは史実に沿うが、外観は異なる天守。
「模擬天守」・・位置も大きさも史実とは異なる天守。
 と分かれるらしい。 この分類で言えば、熊本城の大天守・小天守は「外観復元天守」となるでしょうか。

  いとう耐 氏は『歴史漫画はじめました。』(「コミック乱ツインズ」2014.7月号 リイド社)で≪「現存12天守」の覚え方≫を述べている。これはわかりやすい。
国宝が4つ。 姫路城、彦根城、犬山城、松本城。
四国に4つ。 高知城、宇和島城、松山城、丸亀城。
  うち、愛媛県に2つ。 宇和島城、松山城。
東北唯一。 弘前城。
「松」がつく城4つ。 松本城、松山城、松江城、備中松山城。
「丸」がつく城2つ。 丸亀城、丸岡城。
  国宝に指定されている建造物がある城としては、天守ではないが、他に、二条城がある。

  天守の前に、「本丸御殿」が、多くは熊本県産木材の九州産木材を中心とした国産木材により木造で復元されている。2008年(平成20)に復元されたらしい。
  その下の地下通路↓
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  熊本城は国宝に指定されている建造物はないものの重要文化財に指定されている建造物はいくつもあるが、大天守は西南の役の時に焼失したそうで、現在のものは、1960年に鉄筋コンクリート造で復元されたもの。 重要文化財に指定されている昔からの建物では、
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  ↑ 大天守から見た 宇土櫓。 重要文化財。
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  ↑ 平櫓(右手前から、田子櫓・七間櫓・十四間櫓・四間櫓・源の進櫓) 重要文化財。
などがある。

  宇土櫓は≪この廓に屋敷を構えていた加藤平左衛門は、慶長5年(1600)の宇土城落城の後、加藤家に引き取られた元小西家の南條玄宅や建部兵庫頭など宇土侍衆の面倒を見ていたことが知られている。
 このようなことを考慮すると、平左衛門丸周辺の「宇土」なる名称は、元小西家侍衆の取り締まりや管理をする宇土関係の役所があったことに由来するものと考えられる。・・≫(平井 聖 監修『よみがえる 熊本城』2008.4.18.碧水社 「櫓・門・石垣」「今も残る宇土櫓」) そうです。

※ 熊本城のHPは http://www.manyou-kumamoto.jp/castle/

  冤罪を晴らす神さま 熊本シリーズは、この後、
船場菅原神社(熊本市中央区新町)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_7.html 、
手取天満宮(熊本市中央区上通町) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_8.html
に向います。そちらもご覧くださいませ。
     (2014.6.29.)

☆ 冤罪を晴らす神様・菅原道真・怨念を晴らす全国お百度参り シリーズは、
 千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
意富比神社 末社 天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
白井市(白井市河原子の)天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
千葉神社 摂社 千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html

 東京都 
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html

  神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html  
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html

 岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html

京都府
北野天満宮(京都市上京区)
 1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
 2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
  3  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
  4  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
  5  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html

大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
露の天神社(お初天神)(大阪市北区)
 上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_5.html
 下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html
綱敷天神社 御旅社(大阪市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_11.html
池田市天神1丁目・2丁目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_10.html




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