住宅屋必見!切妻 正面平入り 神明造の拝殿・廣田神社(西宮市)―阪神タイガースの里(1)
[第274回]
兵庫県西宮市 の 廣田神社 と 西宮神社 に行きました。 どちらが有名かというと、市の名称にもなっていることと、祭神が庶民的な「えべっさん」である点で、西宮神社の方が有名ですが、西宮神社は≪廣田神社の別宮(べつぐう)として南宮社が現在地にあり、その境内に、えびす神を祭神とする戎社が祀られていた。・・≫(『古社名刹巡拝の旅34 西国街道と武庫川 西宮神社 廣田神社 清荒神清澄寺 中山寺』(2010年1月12日号。2009.12.22.発行 集英社)というので、この記述からいけば、廣田神社の方が先に存在したのか?と思えます。
今回は、廣田神社(ひろた じんじゃ) です。
まず、第一に、拝殿 正面の写真を見ていただきましょう。↓
↑ 相当、迫力があります。 伊勢神宮と同じ、「神明造(しんめいづくり)」。
≪ 伊勢神宮の第58回式年遷宮の用材を譲り受け、1956年(昭和31年)からの造営で改築・整備された。 伊勢神宮の社殿と同様の神明(しんめい)造りで、切妻(きりづま)・平入りの素木(しらき)造り。 屋根の棟の上に7本の鰹木(かつおぎ)を載せる。≫(『古社名刹巡拝の旅 西国街道と武庫川』(集英社)「廣田神社」)
≪ 堅魚木(かつおぎ)というのは棟の上にあって、棟と直角になるように載せる部材です。 御上神社の本殿の棟には三本の堅魚木が載っています。 また、千木(ちぎ)というのは棟の両端に左右から交差するように載せた部材です。
この千木の上のほうの先端断面が地面と垂直になっていたら、その神社が祀っている神様は男の神様、地面と水平になっていたら女の神様とも言われています。
また、男の神様の千木は、側面に穴が開けてあるとも言われます。 さらに、堅魚木についても同じようなことが言われていて、奇数なら男の神様、偶数なら女の神様ということです。御上神社の本殿の堅魚木は三本、千木の先端は地面と垂直になっていますから、男の神様を祀っているということになります。
しかし、他の神社はどうかと言うと、堅魚木の偶数奇数や千木の先端の切り方で、男の神様か女の神様か必ず見分けがつくということもないようで、お話の種というぐらいに思っておいたほうがいいかもしれません。≫
(松浦 昭次(まつうら しょうじ)『宮大工と歩く 千年の古寺―ここだけは見ておきたい古建築の美と技』(2000.2.1. 祥伝社黄金文庫 「湖東三山と山寺を歩く」)
※御上神社HPは⇒http://www.mikami-jinja.jp/
アマテラスオオミカミ という女の神様だけあって、千木は地面と水平になっていますが、堅魚木は女の神様であるけれども奇数の7本です。↑ アマテラスオオミカミという『古事記』に登場する神の中でもメインの神様を祀るだけに、堅魚木の本数も7本と御上神社の3本などより多めなのかもしれません。
和風外観の家では、棟の一番上の のし瓦の段数が多いほど格があると言われ、地方の農家では、「うちは○段だ」「うちは◇段だ」と自慢したりしたようですが、段数が多ければ地震で揺れた時にその分だけ崩れやすいわけです。 福島県浜通り地方で建替えさせていただいた時、御施主様から、子供の頃、「うちは○段だ」「うちは◇段だ」という話を親戚から聞いて、「だから、何なの?」と言って、えらい怒られた、という経験談を聞かせてもらったことがあります。 人がせっかく自慢にしている家を、「だから、何なの?」とは、そこでは言うべきではなかったのかもしれませんが、子供の正直な気持だったと思います。 あまりにも段数が多いと、結局、それは機能上、何か役に立つわけではなく、地震で揺れた時に崩れやすいことになるので、ほどほどにした方がいいでしょう。 最近では、外見では何段かの のし瓦の形状になっていて、実は一体になったひとつの瓦という製品も出てきているようです。
祭神は、「天照大御神之荒御魂」と 廣田神社HPの「御由緒」http://www.hirotahonsya.or.jp/yuisyo.html に出ています・・・が、単に、「アマテラスオオミカミ」ではなく、「アマテラスオオミカミ の 荒御魂(あらみたま)」となっているのですが、「荒御魂」とは何ぞや? というと、《ウィキペディア―荒魂・和魂》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E9%AD%82%E3%83%BB%E5%92%8C%E9%AD%82 によると、
≪ 荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま(にぎたま)、にきみたま(にぎみたま))とは、神道における概念で、神の霊魂が持つ2つの側面のことである。 荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。 荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもある。・・・≫ ということらしい。
伊勢神宮の内宮の場合、祭神は、「天照大御神」(《伊勢神宮 HP 「内宮」》http://www.isejingu.or.jp/naiku.html )となっているのに対し、廣田神社は、その「荒御魂」というこの違いは何だろう。
で、その考察の前に、廣田神社の場所を示します。↓


私は、今回、阪急今津線の「甲東園」から歩いて行き、神戸線の「夙川」まで歩いて帰りましたが、最寄駅というなら、阪急甲陽園線の「苦楽園口」が最も近く、その次が「甲東園」か「門戸厄神」ではないかと思いますが、いずれもあまり近くはありません。 すぐ東に、「広田神社前」という阪急バスのバス停があるので、早く行きたい人はバスに乗った方がいいでしょう。
↑『古社名刹巡拝の旅 西国街道と武庫川』(集英社)掲載の地図を見ると、「馬場先大鳥居」と出ている鳥居がこれでしょうか。 南から入るのが本来の参道かと思いつつ、「甲東園」駅から歩いていった為、北から南下して東側に出た為、とりあえず、東側に行ってみると、そこにこの大きな鳥居がありました。 そして、↓
↑ 「注連縄(しめなわ)鳥居」がある。 鳥居にもいろいろな型があるようですが、ここの鳥居は、注連縄(しめなわ)によるものです。 私は、これはここで初めて見ました。
南の方には「広田山荘」という施設があり、南からも入れますが、今現在は東側が参道のようになっています。
「馬場先大鳥居」にしても、けっこう立派なものですが、新しそうです。 この「参道」は比較的最近に作られたものではないかという感じがします。
最初に掲載した写真の社殿は「拝殿」です。 本殿ではありません。 本殿は、≪祝詞殿の奥に本殿が見える。廣田神社の本殿は、伊勢神宮の式年遷宮に際し、荒祭宮(あらまつりのみや)の旧社殿を譲り受け、1963年(昭和38)に移築整備を終えた。≫と『古社名刹巡拝の旅 西国街道と武庫川』(集英社)には出ているのですが、拝殿と翌廊に遮られて、あまりよく見えません。
≪ ・・神社の建物を見る時、気をつけてほしいところがもうひとつあります。
神社によっては、本殿が拝殿の後ろに隠れていて、その上、まわりを石垣などで囲まれているため、本殿の姿がよく見えないことも少なくないということです。
しかし、そんな時は無理に見ようとしないでください。 本殿は最も神聖な場所なのです。国宝や重要文化財になっているような建物なら、近くに説明が提示してあるはずですから、それを読めばある程度のことはわかるはずです。
むしろ、本殿がよく見えないことも含めて、神社の全体の姿を確かめるようにしたほうがいいでしょう。神社にはお寺とはまた違った雰囲気があります。その違いをよく味わったほうがいいと思います。≫
と、松浦 昭次『宮大工と歩く千年の古寺』(2007.祥伝社 黄金文庫)には出ています。 ≪神社の全体の姿を確かめるようにしたほうがいい≫というのは、そうかもしれません。 でも、見える部分を見て悪いこともないと思うので、見える部分は見せていただこう、と思って見たのが↓
↑ 拝殿から見た 手前が祭舎(さいしゃ) ・奥の横に長い建物が祝詞殿(のりとでん) その後ろに本殿があるはず。
祝詞殿の右側に見えるのは、第一・第二脇殿。 第一脇殿には住吉三所大神、第二脇殿には八幡三所大神を祀る、という。
↑ 南西側から見た 祝詞殿 と 祭舎。 祝詞殿の左にあるのが、第三・第四脇殿。
第三脇殿には諏訪建御名方富大神、第四脇殿には高皇産霊大神を祀る、という。
この後ろに本殿がある、と言われても、まったく見えない以上、あるのかないのかわからない。 ≪本殿がよく見えないことも含めて、神社の全体の姿を確かめるようにしたほうがいいでしょう。≫と言われれば、たしかに、そうかいなあとも思えますが、一方、ほとんど教義というものがない神社ではなんらかの形で「もったいつける」ことをやってカリスマ性を持とうとしなければその存在を保てない、ということだろうか、とも思えます。
「えべっさん」(恵比寿神)を祀る 西宮神社 に阪神タイガースが、毎年、祈願に行っているのが知られているが、そのわりにたいして優勝しない・・・が、これは決して西宮神社の神さま・「えべっさん」が悪いのではない、という。
≪ 西宮神社(兵庫県西宮市)といえば、門前から本殿まで猛ダッシュでトップを競う新年恒例の「福男」競争と阪神タイガースが開幕前に優勝祈願をする神社として知られている。 だが、タイガースが強くなりきれないのは、この優勝祈願のせいもあろう。じつは勝利の願掛けをするには、この神社はふさわしくない。 なぜなら、西宮神社は古くから恵比寿信仰の大社、商売繁盛の神さまだからである。
しかしそう考えると、たとえタイガースが弱くても甲子園はいつも虎ファンでぎっしり、経営的には安泰というこの幸せな球団は、西宮神社のご利益にあやかっているとしか思えない。 西宮神社の神さまは、優勝祈願という専門外の願掛けをされても、ちゃんと自らの本分を果たしていることになる。
ことほどさように商売の神さまは律義だが、・・・・≫
(『これだけは知っておきたい 神社入門』2007.7.27.洋泉社MOOK 「こんなときはどの神社に?神さまご利益ガイド」)
↑ この話、なるほどなあ~あ・・・という気がしないでもない。 私が小学生であった1960年代後半、巨人が1位で阪神が2位という年が多かった。 そして、その頃、阪神はもしかして「2位ねらい」ではないのか? と言われたりした。 「優勝なんかしよったら、選手にいっぱい給料払わないかんし、うるそうてかなわん。 2位くらいが一番ええんや。」とか、阪神の経営者は思っとるのとちがうんか~い?!? という話で、なんか、ありそう・・・・て感じがしないでもなかった。 いつであったか、オマリーが「阪神ファンは一番やあ~あ」と言ったことがあったが、実際のところ、巨人ファンは毎年優勝しないと怒りよるのに対して、阪神ファンは20年に1回優勝すれば、あとはBクラスであろうがCクラスであろうがおかまいなしに応援してくれるのだから、たしかに、ええファンや。 たしかに、「阪神ファンはいちばんやあ~あ」・・・て、もしかして、阪神の経営者は本気で思っとるてことないか・・・・・???

↑西宮神社
しかし、阪神タイガースは商売繁盛の神さま「えべっさん」を祀る西宮神社にだけ祈願に行っているわけではない。 商売繁盛の神さま「えべっさん」を祀る西宮神社に参拝するとともに、「アマテラスオオミカミ の 荒魂」を祀る廣田神社にも祈願に行っているらしい。
≪ 平安時代、廣田神社は皇室・貴族から尊崇が篤く、武庫地方第一の大社としての地位を確立する。・・・
平安時代後期になると、京都の西に鎮座する廣田神社は、北の山麓に鎮座する本宮や、海浜に面した南の浜南宮ほか周辺の摂社・末社を含め、総称して「西宮」と呼ばれた。当時、貴族たちの廣田神社への参拝は、「西宮参拝」「西宮下向」として記録に残されており、「西宮」の地名の発祥とされている。
廣田の神は和歌の神としても崇敬され、平安末期には「西宮歌合(うたあわせ)」や「南宮歌合」など、社頭での歌合がたびたび行われた。貴族たちは、廣田神社の神に和歌を捧げ、官位昇進を祈願したのである。
また、武家からの信仰も篤く、源頼朝から社領の寄進を受けて、平氏追討の戦勝祈願を行っている。戦国時代以降は豊臣・徳川家によって社殿が復興された。 現代では阪神タイガースのシーズン開幕前の必勝祈願が有名である。・・・≫
(『古社名刹巡拝の旅 西国街道と武庫川』(集英社)「廣田神社」)
だから、お客さんさえいっぱい来てくれたら、優勝みたいなもんせんでもええんや・・・と思っているわけではないようだ。 「荒魂」という闘う神さまに祈願するとともに、「えべっさん」という「もうかりまっか」の神さんにも祈願するという、勝つことと儲かることの両方を願うという資本主義社会における企業としていかにももっともな祈願をしているといえる・・かもしれない・・・が、しかし、やっぱり、商売繁盛の神さんの方が優勢のような感じがしないでもない・・・。
↑クリックすると大きくなるので大きくして見てください。一番上の樽に、阪神タイガースの意匠が書かれています。
《YouTube―六甲おろし 唄:立川清登 》http://www.youtube.com/watch?v=yV814_p2fxE&list=RDyV814_p2fxE#t=4
「西宮」という言葉は、「えべっさん」を祀る神社として、大阪市浪速区の今宮戎神社とともに有力な西宮神社を、今宮戎神社より西に神社がある「えべっさん」として「西宮」か? と当初思ったが、そうではなく、京都から見て西にある宮で「西宮」らしい。
広田山公園・広田の森の中に廣田神社はありますが、どこまでが神社かははっきりしません。広田山公園を南に出て西にしばらく進むと、広田山公園と野坂昭如の『火垂るの墓』の場所であるニテコ池との中間付近に、摂社・塞神社 があります。↓

さらに西に進むと、ニテコ池 にぶつかります。ニテコ池の北西側に、摂社・名次神社 があります。↓
↑≪ お賽銭を入れた際に振動センサーが誤作動を起こす場合がございます。 何卒、ご容赦願います。≫と書いてあるのですが、賽銭入れて、それで賽銭泥棒と間違えられたのではたまりまへんなあ。神さん、しっかりしてやあ、頼むでえ・・・・。

野坂昭如『火垂るの墓』の舞台でもある 西宮市満池谷 ニテコ池↓
ニテコ池は水源地の池であるため、「魚釣・水泳禁止 西宮市水道局」という札が出ていましたが、それにもかかわらず、魚釣りをしている人がありました。 いかがなものかと思いますね。 もっとも、やはり、水源池として利用されている福島県の猪苗代湖には湖水浴場が周囲に何か所かあり、私もその1か所で水に入ったことがありますし、琵琶湖だって水源として利用されているわけではあるのですが、ニテコ池とは規模が違うし、ニテコ池はそこからまさに取水しているのではないでしょうか。25年程前、芦屋市の奥池に行った時には、奥池で魚釣りなんかやっている人は誰もなかった。 そもそも、魚釣りのできる川や池は何もここしかないのではないのですから、わざわざ水源池になっている池でやらなくても他にやる所があるのではないのかと思いますね。
水道水として利用されている猪苗代湖の湖水浴場に行った時、水道に利用されている湖に入っていいのかなとも思ったのですが、福島第一原発の事故による放射性物質の拡散は、それどころではなくなってしまったようです。 会津の方はそれほど被害は大きくなさそうですが、なんとも困ったことになってしまいました。
ニテコ池の北東に、阪神淡路大震災の際に、亡くなった西宮市民の方と西宮市で亡くなった方を追悼する「阪神・淡路大震災犠牲者追悼の碑」がたつ公園があります。
さて、西宮神社の祭神が「えべっさん」というのはわかりましたが、廣田神社の祭神「アマテラスオオミカミ の 荒魂」とは、どういうものでしょう。 というより、この神社はどういう存在のものだったのでしょうか。
≪ 廣田神社の創建について、『日本書紀』には次のように記される。神宮皇后摂政1年、神宮皇后が新羅から帰国したとき、仲哀天皇の先后大仲姫(おおなかつひめ)が生んだ皇子 忍熊王(おしくまおう)が謀反を企てた。忍熊王の軍勢を避けて皇后は難波へ向かったが、途中で船が回り始め、少しも前に進まなくなった。
やむなく務庫(武庫)(むこの)水門(みなと)に戻って占うと、「わが荒御魂(あらみたま)は皇居に近づかず。御心、広田国(現在の芦屋市・西宮市・尼崎市西部)に居らむとす」との天照大御神の神託があった。そこで皇后が天照大御神の荒御魂を広田国に祀らせたところ、船が進み、乱を鎮定することができたという。≫
(『古社名刹巡拝の旅 西国街道と武庫川』集英社) という『日本書紀』の話をそのまま信ずるアホはまさかおらんでしょう。 そもそも、神宮皇后というのは実在した人物ではないし、神宮皇后の三韓征伐などというお話も史実にありませんから。
≪ 当初の鎮座地は甲山(かぶとやま)の山麓ともいわれ、その後、数度の移転を繰り返したという。 江戸時代には神社の東を流れる御手洗川(みたらしがわ)の河畔にあったが、その地が再三にわたり水害に見舞われたので、1728年(享保13)に現在地に遷座した。≫(『古社名刹巡拝の旅 西国街道と武庫川』)という話の方は、少なくとも、後半はありそうです。
しかし、地形から考えて、この場所に最初から「何か」があった。 もしくは、本拠が≪甲山の山麓≫にあったとしても、その出先機関がこの場所にあった可能性もあるのではないかという気もするのです。
まず、この場所を少し北から見た写真を出しましょう。↓
この場所は、南より高くなっているとともに北側よりも少し高くなっている場所なのです。 そして、西宮神社の社務所の奥にある展示館に出ていましたが、かつては、この広田神社の南は湾になっていて大阪湾から船で入ることができた。かつ、西宮神社がある付近は西側から岬のように出ていて、西宮神社の付近は昔から陸地であったらしい。 西宮神社は「えべっさん」を祀る神社として有名であるけれども、社殿は「三連春日造り」で、第一殿で恵比寿神を祀るとともに、第二殿で天照、大国主、第三殿で須佐之男を祀っている。かつ、西宮神社の境内には境内摂社として南宮神社があり、これは、もともと、廣田神社の摂社で、その南宮神社の境内に「えべっさん」を祀る神社ができたという話がある。さらに、南宮神社は北を向いている。 これは何を意味するか。
廣田神社の祭神は、単に、「天照」ではなく、その「荒魂」である。 まず、『古事記』『日本書紀』にある話は、基本的には「お話」であって史実ではないが、史実に即してまったくその通りではないとしてもそのようなことがあったというものと、創作であってそのようなものは最初からないものとがある。 『古事記』は、「上つ巻」では「神」の話、「中つ巻」では主として実在していない天皇の話、「下つ巻」では、そこに述べられている通りではないとしても実在した可能性が高い天皇の話が出ている。 神宮皇后と仲哀天皇は「中つ巻」の終わりに登場するが、神宮皇后の息子だとされている応神天皇から後の天皇は実在した可能性が高いと言われている。 それより前の「天皇」では景行天皇は実在した可能性がないとは言いきれないらしいが、その子として『古事記』に登場するヤマトタケルや、さらにその後に登場する神宮皇后の話は、「お話」「小説」として考えるとおもしろいかもしれないが、歴史としては『古事記』の中でも論外の話である。
しかし、史実ではないお話としても、それがまったくなかったことなのか、その時代にあったことではないとしても、何かそこで述べられている内容にどこか似ていることがいつの時代かにあったのか、というと、どの部分かに似たところがあることがあった場合も可能性としてはないとは言えない。
それで。 神宮皇后の三韓征伐などという史実はなく、神宮皇后という人物は実在していないが、「磐井の反乱」として述べられるような大和朝廷に対する対抗勢力が九州で戦を起こし、それに対して大和朝廷が出兵したが苦戦して引き上げてきたところ、今度は、大和朝廷内部の対抗勢力が大和から河内・和泉地域を支配して、九州へ出兵した勢力の復帰を拒否し、大和へ戻ることができなくなった、という話はいつの時代かはさておき、実際にあった可能性はありうる。 摂津国のこの武庫のあたり、今の廣田神社があるあたりから甲山のあたりに拠点を築いて、大和朝廷の対抗勢力と対峙した。 廣田神社の前は湾になっていたので、そこに船を停泊させ、この湾の部分を守るために、岬になっていた所に出先の砦を築いた。それが、西宮神社の前身の南宮神社だった。 だから、南宮神社は廣田神社と向き合うようになっていて、互いに向き合った湾の部分を守った。
「荒魂」という闘いの神であるのは、『古事記』『日本書紀』では忍熊王と表わされる大和朝廷の対抗勢力を倒し、大和朝廷の支配者として復帰しようという意志からで、「天照大御神の荒魂」と名のるのは自分たちの方が大和朝廷の正統の統治者・後継者だという意思表示からではないか。
商売繁盛の神さま「えべっさん」とか学問の神さま「菅原道真=天神さん」とかは今の時代においても受け入れられやすいが、「アマテラスオオミカミ」というのは、『古事記』『日本書紀』ではメインの神であっても、メインの神であるだけに、「何でも屋」になってしまい、何のご利益を求めるか明確でないために、今の時代においては受け入れられにくいが、もともと、大和朝廷の対抗勢力を打倒して政権復帰を目指す人たちが、対抗勢力を打ち倒そうとしたということで「荒魂」、自らの方が大和朝廷の正統であると主張するところから「アマテラス」であったとすれば、理屈が通りそうだ。
廣田神社の社殿は、拝殿は1956年に伊勢神宮の式年遷宮の用材を譲り受けて造営・整備されたといい、本殿は1963年に伊勢神宮の荒祭宮(あらまつりのみや)の旧社殿を譲り受けて移築整備したという。 東から入る参道は新しく作られた様子である。 この場所にはけっこう古くから存在したとしても、今の状態で古くから存在したわけではなさそうだ。 かつては、ここは、大和朝廷の対抗勢力に対峙するための砦・城だったのではないか。 その砦・城が甲山の山麓とこの広田の森とにあり、広田の森にあった砦・城の出先の砦が今の西宮神社の場所にあった南宮神社だったのではないか。 そこで、戦勝を祈願することもあり、祈願するのは天照の荒魂だったのではないか。
西宮神社には、その後、海辺だということもあり、海からやってきたり海に流したり海に去ったりする「えべっさん」が入り、「えべっさん」が商売繁盛の神さまとなって主役になったが、廣田の砦の出先の砦であったという歴史から、今では「えべっさん」の方が主役になった西宮神社の「三連春日造り」の社殿には「えべっさん」とともに、アマテラスとスサノオが入居している・・・という可能性がありうるように思うのだが、どうだろう。
こう考えると、辻褄があるようにも思うのだが。
神社関係者には『古事記』『日本書紀』の記述のうちの、歴史上正しいとは言えない部分を頑固に史実であるかのように言い張りたい人もいるようだ。 しかし。 キリスト教でも、歴史的イエスと宗教的イエスに異なる部分があったとしても、だからといってキリスト教の価値がなくなるわけでもない。 イエスが起こした「奇蹟」と言われるものが実際はそうではなかったとしても、だから、キリスト教に価値がなくなるわけでもない。 同様に、神社の「由緒」として語られているものが実際の歴史から考えて適切でなかったとしても、それで神社の価値がなくなるわけでもないと思うのだ。 だから、『古事記』『日本書紀』は歴史ではないが、歴史を考えるための史料のひとつとして採用することはできるものであり、『古事記』『日本書紀』の記述で歴史上適切とはいえないものを頑固に守ろうとする必要はないと思う。
※ 神宮皇后の三韓征伐 と史実との違い については、たとえば、
井上光貞『日本の歴史 1 神話から歴史へ』(1973.10.10. 中公文庫) 参照。
廣田神社の社務所に、「教育勅語」の解説だったかが「御自由にお持ちください」という感じで置かれていたが、「教育勅語」は神社とは特に関係はない。 「教育勅語」は「明治天皇が臣下に下した」ということで設けられたものであるので、皇室の祖先だというお話があるアマテラスを祀る神社は関係がないわけではないという考えかもしれないが、「教育勅語」は明治に明治天皇の取り巻きが作成したものであって、もとより実在していないアマテラスオオミカミが作成したのではない。 明治天皇の父である孝明天皇は、倒幕を望んでいなかった為、尊王攘夷派によって暗殺されたのではないか、尊攘派の言いなりにならない35歳の孝明天皇を暗殺してまだ14歳の少年であった明治天皇を即位させたのではないかという説もあるようで、そういう人たちが作成したものである。
最初の拝殿の写真をもう一度、見ていただきたい。 住宅において、「切妻 平入り正面玄関 はいかん」という話がある。 「いかん」と言われても、別に法律で禁止されているわけでもないが、そういう話がある。 住宅建築業に従事する人間なら知っておくべき話であるが、知らない人もいるだろう。
なぜ、いかんかというと、「神明造り」の伊勢神宮と同じだからだというのだ。 お伊勢さんと一緒ならいいじゃないか、けっこうなことじゃないかと思う人もいるかもしれない。 なんだ、そんな昔ばなしをと思う人もいるかもしれない。 伊勢神宮と一緒は畏れ多いとか言うのは、右翼のおっさんか何かと違うのかと思う人もいるかもしれない。 実際には、法律で禁止されているわけでもないので、御施主さんがやりたいというならやって悪いことはないのだろうけれども、建築屋の方は知っておくべきだ。
伊勢神宮の柱を参考に南面の中央に大きな柱を建てて作られた江戸東京建物園(http://tatemonoen.jp/ )にある前川國男自邸も、切妻・大屋根の家だが、柱が建っているのは南の妻面で、入口は北西の妻面である。
それで、なぜ、いかんかというと、理由づけがはっきりされているわけではないと思う。 ≪伊勢の神宮の皇大神宮(内宮)・豊受大神宮(外宮)両宮の正殿(本殿)の様式は、他社においてこれと完全に同じくするのを懼れ憚って採用していないため、特別に唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)と呼ぶ。≫(《ウィキペディア―神明造》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%98%8E%E9%80%A0 )、≪伊勢神宮正殿の様式は他への使用を禁じられているため唯一神明造と称される。≫(《神社建築》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%BB%BA%E7%AF%89 )という話は、神社において、伊勢神宮正殿の様式で他の神社で採用するなと伊勢神宮が言っているということだろうけれども、戦前はともかく、今現在は、各神社は伊勢神宮の配下であるわけでもないはずで、何でも伊勢神宮の命令に従わないといけないことはないはずなのだが、今でも戦前の流れの影響を受けているのでしょう。 それも、伊勢神宮正殿と同じ様式を神社において採用する場合の話で、単に切妻で平入りの建物が神明造であるわけでもなく、千木も堅魚木もない単に「切妻・平入り正面中央玄関」の建物を一般の人間が建てるのをいかんとまでは伊勢神宮も言っていないはずです。
在来木造の一条工務店に在籍した時、1993年に千葉県松戸市で、母屋の前に2階建で小規模な別棟の建築をしていただいた方の打ち合わせをおこなっていた時、母屋の方が主役で、母屋が入母屋でできているので、別棟は寄棟か切妻かでということになったが、その時、御主人が「切妻の平入りはいかん」と言われたことがあった。
住宅建築業の会社では、寄棟と切妻では同じ価格だが入母屋は少々高く設置している会社が多いのではないかと思うが、寄棟と切妻では、屋根の形状としては切妻の方が簡単、単純な構造であり、建築屋としては費用はかからないはずなのだ。 だから、複雑な屋根の入母屋の母屋の方を主役として、別棟は、目立ちすぎない自己主張を強くしすぎない形状・外観にしようとすれば、寄棟の屋根と切妻の屋根では切妻の方が簡単な屋根なので、入母屋の母屋を「食ってしまわない」外観にしようとすれば切妻の方が良さそうに思えないこともないのだが、「切妻の平入り中央玄関はいかん」という点を採用するなら切妻の方が計画を建てにくいことになる。
私は、その頃はまだ住宅屋としてはベテランの方ではなく、その頃からこの「切妻 平入り 正面玄関はいかん」という話を知ったが、その頃の私の意識としては、何もそこまで伊勢神宮を尊重しなくても・・というのが正直な気持だった。
住宅屋の仕事をする人は、できるだけ早く、この廣田神社の社殿を見に行った方がいいと思う。特に、関西在住者は、伊勢神宮まで行くより廣田神社の方が行きやすいから、行って見てみるべきだと思う。
切妻屋根は屋根形状としてはもっともシンプルではあるが、シンプルな屋根形状も徹底し、かつ、これだけの規模になれば、相当に迫力がある。 シンプルだから粗末というわけでもないし、シンプルだから格が低いという印象も受けない。
そして、伊勢神宮を特別扱いしてどうこうということではなく、神社ではなく住宅において、自分は人間であって「神さま」でない者にとって、神社と同じ作りの建物に住むというのは、あんまり居心地の良いものではないと思うのだ。 それで、上賀茂神社・下鴨神社のような「流れ造り」の屋根形状の建物を住宅に作ろうとする人はあまりないと思う。 「日吉造り」もそう。 拝殿・弊殿・本殿からなる「石の間造り」で住宅を建てようとする人もないだろう。 しかし、「神明造り」だけは、千木や堅魚木は載せないとしても、切妻で平(ヒラ)面の中央に玄関を持ってくるということはありうることなのだ。 伊勢神宮がどうこうというのではなく、他の造り、大社造り・住吉造り・春日造り・八幡造り・日吉造り・流れ造り・石の間造り(権現造)といった構成は住宅では意識して避けなくてもそういう構成の建物になることはあまりないのだが、「切妻 平入り 正面中央玄関」というのは、可能性としてありうることなのだ。 だから、神社の社殿と同じ構成の家は建てない方がいいという考え方からすれば、「切妻 平入り、正面中央玄関はいかん」という話が出てくるのだ、と思う。 そして、これを理解するには、頭で考えるよりも、「切妻 平入り 正面中央玄関」で出来ている「神明造」の社殿を実際に自分の眼で見るのがいいと思う。 私はもっと早くに、この廣田神社に行くべきだったと思った。
↑最初の写真のイメージが頭にあれば、別に皇室の祖先だという設定のアマテラスオオミカミを祀る伊勢神宮だからということではなく、人の住む住居を「神さま」の社殿と同じ構成にはしない方がいいのではないか、という考え方は理解できると思うのだ。 「切妻 平入り 正面中央玄関はいかん」という話について、よくわからなかった方、↑の最初の写真を見て、もう一度、考えてみてください。 最終的にどうするかはさておき、神社と同じ構成は避けた方がいいという考えた方はそうおかしなものではないと思うし、それは特に右翼の人の思想とかいうものでもないと思います。
この「切妻屋根の平入り正面中央玄関はいかん」という話は、雪国ではあまり出てこないようです。たとえば、南道路で南北に長い長方形の土地で北よりに家を建て南に玄関を設けて南側には庭と駐車スペースを設けるとします。 寄棟屋根にすると、雪が積もった時、屋根の雪は四方に落ちます。 1mと10cm程度空けても、軒の長さが外壁から75cm出てその外に樋がついたりすると、隣地との距離はわずかで、寄棟屋根では雪は隣地に落ちます。 切妻屋根にして、南の道路側が「平(ひら)」面になるようにすれば、東西の隣地側は「妻(つま)」面で雪はそれほど落ちませんから、広めに空ける必要があるのは北側のみとなります。だから、積雪地では、切妻の屋根にする方がけっこう多いようです。そして、南側の平(ひら)面の中央に玄関を設けることがいかんと言う人は少ない。 雪の大変さを考えると積雪の方が伊勢神宮どうこうの話より重いのです。「切妻で平側の中央玄関」が神明造というわけでもありませんし。
私が勤めた千葉市中央区鵜の森町 の 新華ハウジング有限会社(建設業)・ビルダーズジャパン株式会社(不動産業)・ジャムズグローバルスクエア株式会社(不明業)で「工事責任者」を自称しながら工事管理なんかちっともやっていなかったU草Aニ(男。30代なかば。2010~2011年当時。)が、「ぼく、営業やったことないですけど、営業できますから」とあつかましい文句を何度も何度も大きな声で口にしていて、このブタ、いったい何のつもりだろうかと思ったのだが、私は、実際に営業の仕事を約20年やってこういうことを徐々に学んできたのであり、それだけの期間を通じて御施主様からも話を聞かせてもらってきたのである。「やったことない」人間に実感として理解できるとはとうてい考えられない。 実際に、そういう問題に該当するお宅を自分が担当して対応する経験、神社に行ってみて、≪神社の全体の姿を確かめる≫、全体の雰囲気を味わう学習をする努力、そういう蓄積のない者に蓄積のある者と同等のことができるとは考えられない。 そもそも、「やったことない」人間がやりもせずに「できますから」などと口にするのはやったことある人間に失礼でもあるが、そういう無神経な人間は、「切妻 平入り 正面中央玄関はいかん」といった感覚にも無神経ではないかと思う。 神社と同じ構成にしてはいけないなどという法律はない。建築基準法にそのような規定はない。 だからいいかというとそういうものでもないと思うのだ。 無神経な人間は一般に無頓着な場合が多い。 最初の↑の写真を見て、できれば実際にそこに行って、≪神社の全体の姿を確かめる≫、全体の雰囲気を味わう、という作業をやろうという人間は、「やったことないですけどできますから」などという無神経な文句は簡単には口に出さないものだと思う。
西宮神社については、この後、別稿で、述べたいと思います。
(2014.7.12.)
兵庫県西宮市 の 廣田神社 と 西宮神社 に行きました。 どちらが有名かというと、市の名称にもなっていることと、祭神が庶民的な「えべっさん」である点で、西宮神社の方が有名ですが、西宮神社は≪廣田神社の別宮(べつぐう)として南宮社が現在地にあり、その境内に、えびす神を祭神とする戎社が祀られていた。・・≫(『古社名刹巡拝の旅34 西国街道と武庫川 西宮神社 廣田神社 清荒神清澄寺 中山寺』(2010年1月12日号。2009.12.22.発行 集英社)というので、この記述からいけば、廣田神社の方が先に存在したのか?と思えます。
今回は、廣田神社(ひろた じんじゃ) です。
まず、第一に、拝殿 正面の写真を見ていただきましょう。↓
↑ 相当、迫力があります。 伊勢神宮と同じ、「神明造(しんめいづくり)」。
≪ 伊勢神宮の第58回式年遷宮の用材を譲り受け、1956年(昭和31年)からの造営で改築・整備された。 伊勢神宮の社殿と同様の神明(しんめい)造りで、切妻(きりづま)・平入りの素木(しらき)造り。 屋根の棟の上に7本の鰹木(かつおぎ)を載せる。≫(『古社名刹巡拝の旅 西国街道と武庫川』(集英社)「廣田神社」)
≪ 堅魚木(かつおぎ)というのは棟の上にあって、棟と直角になるように載せる部材です。 御上神社の本殿の棟には三本の堅魚木が載っています。 また、千木(ちぎ)というのは棟の両端に左右から交差するように載せた部材です。
この千木の上のほうの先端断面が地面と垂直になっていたら、その神社が祀っている神様は男の神様、地面と水平になっていたら女の神様とも言われています。
また、男の神様の千木は、側面に穴が開けてあるとも言われます。 さらに、堅魚木についても同じようなことが言われていて、奇数なら男の神様、偶数なら女の神様ということです。御上神社の本殿の堅魚木は三本、千木の先端は地面と垂直になっていますから、男の神様を祀っているということになります。
しかし、他の神社はどうかと言うと、堅魚木の偶数奇数や千木の先端の切り方で、男の神様か女の神様か必ず見分けがつくということもないようで、お話の種というぐらいに思っておいたほうがいいかもしれません。≫
(松浦 昭次(まつうら しょうじ)『宮大工と歩く 千年の古寺―ここだけは見ておきたい古建築の美と技』(2000.2.1. 祥伝社黄金文庫 「湖東三山と山寺を歩く」)
※御上神社HPは⇒http://www.mikami-jinja.jp/
アマテラスオオミカミ という女の神様だけあって、千木は地面と水平になっていますが、堅魚木は女の神様であるけれども奇数の7本です。↑ アマテラスオオミカミという『古事記』に登場する神の中でもメインの神様を祀るだけに、堅魚木の本数も7本と御上神社の3本などより多めなのかもしれません。
和風外観の家では、棟の一番上の のし瓦の段数が多いほど格があると言われ、地方の農家では、「うちは○段だ」「うちは◇段だ」と自慢したりしたようですが、段数が多ければ地震で揺れた時にその分だけ崩れやすいわけです。 福島県浜通り地方で建替えさせていただいた時、御施主様から、子供の頃、「うちは○段だ」「うちは◇段だ」という話を親戚から聞いて、「だから、何なの?」と言って、えらい怒られた、という経験談を聞かせてもらったことがあります。 人がせっかく自慢にしている家を、「だから、何なの?」とは、そこでは言うべきではなかったのかもしれませんが、子供の正直な気持だったと思います。 あまりにも段数が多いと、結局、それは機能上、何か役に立つわけではなく、地震で揺れた時に崩れやすいことになるので、ほどほどにした方がいいでしょう。 最近では、外見では何段かの のし瓦の形状になっていて、実は一体になったひとつの瓦という製品も出てきているようです。
祭神は、「天照大御神之荒御魂」と 廣田神社HPの「御由緒」http://www.hirotahonsya.or.jp/yuisyo.html に出ています・・・が、単に、「アマテラスオオミカミ」ではなく、「アマテラスオオミカミ の 荒御魂(あらみたま)」となっているのですが、「荒御魂」とは何ぞや? というと、《ウィキペディア―荒魂・和魂》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E9%AD%82%E3%83%BB%E5%92%8C%E9%AD%82 によると、
≪ 荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま(にぎたま)、にきみたま(にぎみたま))とは、神道における概念で、神の霊魂が持つ2つの側面のことである。 荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。 荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもある。・・・≫ ということらしい。
伊勢神宮の内宮の場合、祭神は、「天照大御神」(《伊勢神宮 HP 「内宮」》http://www.isejingu.or.jp/naiku.html )となっているのに対し、廣田神社は、その「荒御魂」というこの違いは何だろう。
で、その考察の前に、廣田神社の場所を示します。↓
私は、今回、阪急今津線の「甲東園」から歩いて行き、神戸線の「夙川」まで歩いて帰りましたが、最寄駅というなら、阪急甲陽園線の「苦楽園口」が最も近く、その次が「甲東園」か「門戸厄神」ではないかと思いますが、いずれもあまり近くはありません。 すぐ東に、「広田神社前」という阪急バスのバス停があるので、早く行きたい人はバスに乗った方がいいでしょう。
↑『古社名刹巡拝の旅 西国街道と武庫川』(集英社)掲載の地図を見ると、「馬場先大鳥居」と出ている鳥居がこれでしょうか。 南から入るのが本来の参道かと思いつつ、「甲東園」駅から歩いていった為、北から南下して東側に出た為、とりあえず、東側に行ってみると、そこにこの大きな鳥居がありました。 そして、↓
↑ 「注連縄(しめなわ)鳥居」がある。 鳥居にもいろいろな型があるようですが、ここの鳥居は、注連縄(しめなわ)によるものです。 私は、これはここで初めて見ました。
南の方には「広田山荘」という施設があり、南からも入れますが、今現在は東側が参道のようになっています。
「馬場先大鳥居」にしても、けっこう立派なものですが、新しそうです。 この「参道」は比較的最近に作られたものではないかという感じがします。
最初に掲載した写真の社殿は「拝殿」です。 本殿ではありません。 本殿は、≪祝詞殿の奥に本殿が見える。廣田神社の本殿は、伊勢神宮の式年遷宮に際し、荒祭宮(あらまつりのみや)の旧社殿を譲り受け、1963年(昭和38)に移築整備を終えた。≫と『古社名刹巡拝の旅 西国街道と武庫川』(集英社)には出ているのですが、拝殿と翌廊に遮られて、あまりよく見えません。
≪ ・・神社の建物を見る時、気をつけてほしいところがもうひとつあります。
神社によっては、本殿が拝殿の後ろに隠れていて、その上、まわりを石垣などで囲まれているため、本殿の姿がよく見えないことも少なくないということです。
しかし、そんな時は無理に見ようとしないでください。 本殿は最も神聖な場所なのです。国宝や重要文化財になっているような建物なら、近くに説明が提示してあるはずですから、それを読めばある程度のことはわかるはずです。
むしろ、本殿がよく見えないことも含めて、神社の全体の姿を確かめるようにしたほうがいいでしょう。神社にはお寺とはまた違った雰囲気があります。その違いをよく味わったほうがいいと思います。≫
と、松浦 昭次『宮大工と歩く千年の古寺』(2007.祥伝社 黄金文庫)には出ています。 ≪神社の全体の姿を確かめるようにしたほうがいい≫というのは、そうかもしれません。 でも、見える部分を見て悪いこともないと思うので、見える部分は見せていただこう、と思って見たのが↓
↑ 拝殿から見た 手前が祭舎(さいしゃ) ・奥の横に長い建物が祝詞殿(のりとでん) その後ろに本殿があるはず。
祝詞殿の右側に見えるのは、第一・第二脇殿。 第一脇殿には住吉三所大神、第二脇殿には八幡三所大神を祀る、という。
↑ 南西側から見た 祝詞殿 と 祭舎。 祝詞殿の左にあるのが、第三・第四脇殿。
第三脇殿には諏訪建御名方富大神、第四脇殿には高皇産霊大神を祀る、という。
この後ろに本殿がある、と言われても、まったく見えない以上、あるのかないのかわからない。 ≪本殿がよく見えないことも含めて、神社の全体の姿を確かめるようにしたほうがいいでしょう。≫と言われれば、たしかに、そうかいなあとも思えますが、一方、ほとんど教義というものがない神社ではなんらかの形で「もったいつける」ことをやってカリスマ性を持とうとしなければその存在を保てない、ということだろうか、とも思えます。
「えべっさん」(恵比寿神)を祀る 西宮神社 に阪神タイガースが、毎年、祈願に行っているのが知られているが、そのわりにたいして優勝しない・・・が、これは決して西宮神社の神さま・「えべっさん」が悪いのではない、という。
≪ 西宮神社(兵庫県西宮市)といえば、門前から本殿まで猛ダッシュでトップを競う新年恒例の「福男」競争と阪神タイガースが開幕前に優勝祈願をする神社として知られている。 だが、タイガースが強くなりきれないのは、この優勝祈願のせいもあろう。じつは勝利の願掛けをするには、この神社はふさわしくない。 なぜなら、西宮神社は古くから恵比寿信仰の大社、商売繁盛の神さまだからである。
しかしそう考えると、たとえタイガースが弱くても甲子園はいつも虎ファンでぎっしり、経営的には安泰というこの幸せな球団は、西宮神社のご利益にあやかっているとしか思えない。 西宮神社の神さまは、優勝祈願という専門外の願掛けをされても、ちゃんと自らの本分を果たしていることになる。
ことほどさように商売の神さまは律義だが、・・・・≫
(『これだけは知っておきたい 神社入門』2007.7.27.洋泉社MOOK 「こんなときはどの神社に?神さまご利益ガイド」)
↑ この話、なるほどなあ~あ・・・という気がしないでもない。 私が小学生であった1960年代後半、巨人が1位で阪神が2位という年が多かった。 そして、その頃、阪神はもしかして「2位ねらい」ではないのか? と言われたりした。 「優勝なんかしよったら、選手にいっぱい給料払わないかんし、うるそうてかなわん。 2位くらいが一番ええんや。」とか、阪神の経営者は思っとるのとちがうんか~い?!? という話で、なんか、ありそう・・・・て感じがしないでもなかった。 いつであったか、オマリーが「阪神ファンは一番やあ~あ」と言ったことがあったが、実際のところ、巨人ファンは毎年優勝しないと怒りよるのに対して、阪神ファンは20年に1回優勝すれば、あとはBクラスであろうがCクラスであろうがおかまいなしに応援してくれるのだから、たしかに、ええファンや。 たしかに、「阪神ファンはいちばんやあ~あ」・・・て、もしかして、阪神の経営者は本気で思っとるてことないか・・・・・???
↑西宮神社
しかし、阪神タイガースは商売繁盛の神さま「えべっさん」を祀る西宮神社にだけ祈願に行っているわけではない。 商売繁盛の神さま「えべっさん」を祀る西宮神社に参拝するとともに、「アマテラスオオミカミ の 荒魂」を祀る廣田神社にも祈願に行っているらしい。
≪ 平安時代、廣田神社は皇室・貴族から尊崇が篤く、武庫地方第一の大社としての地位を確立する。・・・
平安時代後期になると、京都の西に鎮座する廣田神社は、北の山麓に鎮座する本宮や、海浜に面した南の浜南宮ほか周辺の摂社・末社を含め、総称して「西宮」と呼ばれた。当時、貴族たちの廣田神社への参拝は、「西宮参拝」「西宮下向」として記録に残されており、「西宮」の地名の発祥とされている。
廣田の神は和歌の神としても崇敬され、平安末期には「西宮歌合(うたあわせ)」や「南宮歌合」など、社頭での歌合がたびたび行われた。貴族たちは、廣田神社の神に和歌を捧げ、官位昇進を祈願したのである。
また、武家からの信仰も篤く、源頼朝から社領の寄進を受けて、平氏追討の戦勝祈願を行っている。戦国時代以降は豊臣・徳川家によって社殿が復興された。 現代では阪神タイガースのシーズン開幕前の必勝祈願が有名である。・・・≫
(『古社名刹巡拝の旅 西国街道と武庫川』(集英社)「廣田神社」)
だから、お客さんさえいっぱい来てくれたら、優勝みたいなもんせんでもええんや・・・と思っているわけではないようだ。 「荒魂」という闘う神さまに祈願するとともに、「えべっさん」という「もうかりまっか」の神さんにも祈願するという、勝つことと儲かることの両方を願うという資本主義社会における企業としていかにももっともな祈願をしているといえる・・かもしれない・・・が、しかし、やっぱり、商売繁盛の神さんの方が優勢のような感じがしないでもない・・・。
↑クリックすると大きくなるので大きくして見てください。一番上の樽に、阪神タイガースの意匠が書かれています。
《YouTube―六甲おろし 唄:立川清登 》http://www.youtube.com/watch?v=yV814_p2fxE&list=RDyV814_p2fxE#t=4
「西宮」という言葉は、「えべっさん」を祀る神社として、大阪市浪速区の今宮戎神社とともに有力な西宮神社を、今宮戎神社より西に神社がある「えべっさん」として「西宮」か? と当初思ったが、そうではなく、京都から見て西にある宮で「西宮」らしい。
広田山公園・広田の森の中に廣田神社はありますが、どこまでが神社かははっきりしません。広田山公園を南に出て西にしばらく進むと、広田山公園と野坂昭如の『火垂るの墓』の場所であるニテコ池との中間付近に、摂社・塞神社 があります。↓
さらに西に進むと、ニテコ池 にぶつかります。ニテコ池の北西側に、摂社・名次神社 があります。↓
↑≪ お賽銭を入れた際に振動センサーが誤作動を起こす場合がございます。 何卒、ご容赦願います。≫と書いてあるのですが、賽銭入れて、それで賽銭泥棒と間違えられたのではたまりまへんなあ。神さん、しっかりしてやあ、頼むでえ・・・・。
野坂昭如『火垂るの墓』の舞台でもある 西宮市満池谷 ニテコ池↓
ニテコ池は水源地の池であるため、「魚釣・水泳禁止 西宮市水道局」という札が出ていましたが、それにもかかわらず、魚釣りをしている人がありました。 いかがなものかと思いますね。 もっとも、やはり、水源池として利用されている福島県の猪苗代湖には湖水浴場が周囲に何か所かあり、私もその1か所で水に入ったことがありますし、琵琶湖だって水源として利用されているわけではあるのですが、ニテコ池とは規模が違うし、ニテコ池はそこからまさに取水しているのではないでしょうか。25年程前、芦屋市の奥池に行った時には、奥池で魚釣りなんかやっている人は誰もなかった。 そもそも、魚釣りのできる川や池は何もここしかないのではないのですから、わざわざ水源池になっている池でやらなくても他にやる所があるのではないのかと思いますね。
水道水として利用されている猪苗代湖の湖水浴場に行った時、水道に利用されている湖に入っていいのかなとも思ったのですが、福島第一原発の事故による放射性物質の拡散は、それどころではなくなってしまったようです。 会津の方はそれほど被害は大きくなさそうですが、なんとも困ったことになってしまいました。
ニテコ池の北東に、阪神淡路大震災の際に、亡くなった西宮市民の方と西宮市で亡くなった方を追悼する「阪神・淡路大震災犠牲者追悼の碑」がたつ公園があります。
さて、西宮神社の祭神が「えべっさん」というのはわかりましたが、廣田神社の祭神「アマテラスオオミカミ の 荒魂」とは、どういうものでしょう。 というより、この神社はどういう存在のものだったのでしょうか。
≪ 廣田神社の創建について、『日本書紀』には次のように記される。神宮皇后摂政1年、神宮皇后が新羅から帰国したとき、仲哀天皇の先后大仲姫(おおなかつひめ)が生んだ皇子 忍熊王(おしくまおう)が謀反を企てた。忍熊王の軍勢を避けて皇后は難波へ向かったが、途中で船が回り始め、少しも前に進まなくなった。
やむなく務庫(武庫)(むこの)水門(みなと)に戻って占うと、「わが荒御魂(あらみたま)は皇居に近づかず。御心、広田国(現在の芦屋市・西宮市・尼崎市西部)に居らむとす」との天照大御神の神託があった。そこで皇后が天照大御神の荒御魂を広田国に祀らせたところ、船が進み、乱を鎮定することができたという。≫
(『古社名刹巡拝の旅 西国街道と武庫川』集英社) という『日本書紀』の話をそのまま信ずるアホはまさかおらんでしょう。 そもそも、神宮皇后というのは実在した人物ではないし、神宮皇后の三韓征伐などというお話も史実にありませんから。
≪ 当初の鎮座地は甲山(かぶとやま)の山麓ともいわれ、その後、数度の移転を繰り返したという。 江戸時代には神社の東を流れる御手洗川(みたらしがわ)の河畔にあったが、その地が再三にわたり水害に見舞われたので、1728年(享保13)に現在地に遷座した。≫(『古社名刹巡拝の旅 西国街道と武庫川』)という話の方は、少なくとも、後半はありそうです。
しかし、地形から考えて、この場所に最初から「何か」があった。 もしくは、本拠が≪甲山の山麓≫にあったとしても、その出先機関がこの場所にあった可能性もあるのではないかという気もするのです。
まず、この場所を少し北から見た写真を出しましょう。↓
この場所は、南より高くなっているとともに北側よりも少し高くなっている場所なのです。 そして、西宮神社の社務所の奥にある展示館に出ていましたが、かつては、この広田神社の南は湾になっていて大阪湾から船で入ることができた。かつ、西宮神社がある付近は西側から岬のように出ていて、西宮神社の付近は昔から陸地であったらしい。 西宮神社は「えべっさん」を祀る神社として有名であるけれども、社殿は「三連春日造り」で、第一殿で恵比寿神を祀るとともに、第二殿で天照、大国主、第三殿で須佐之男を祀っている。かつ、西宮神社の境内には境内摂社として南宮神社があり、これは、もともと、廣田神社の摂社で、その南宮神社の境内に「えべっさん」を祀る神社ができたという話がある。さらに、南宮神社は北を向いている。 これは何を意味するか。
廣田神社の祭神は、単に、「天照」ではなく、その「荒魂」である。 まず、『古事記』『日本書紀』にある話は、基本的には「お話」であって史実ではないが、史実に即してまったくその通りではないとしてもそのようなことがあったというものと、創作であってそのようなものは最初からないものとがある。 『古事記』は、「上つ巻」では「神」の話、「中つ巻」では主として実在していない天皇の話、「下つ巻」では、そこに述べられている通りではないとしても実在した可能性が高い天皇の話が出ている。 神宮皇后と仲哀天皇は「中つ巻」の終わりに登場するが、神宮皇后の息子だとされている応神天皇から後の天皇は実在した可能性が高いと言われている。 それより前の「天皇」では景行天皇は実在した可能性がないとは言いきれないらしいが、その子として『古事記』に登場するヤマトタケルや、さらにその後に登場する神宮皇后の話は、「お話」「小説」として考えるとおもしろいかもしれないが、歴史としては『古事記』の中でも論外の話である。
しかし、史実ではないお話としても、それがまったくなかったことなのか、その時代にあったことではないとしても、何かそこで述べられている内容にどこか似ていることがいつの時代かにあったのか、というと、どの部分かに似たところがあることがあった場合も可能性としてはないとは言えない。
それで。 神宮皇后の三韓征伐などという史実はなく、神宮皇后という人物は実在していないが、「磐井の反乱」として述べられるような大和朝廷に対する対抗勢力が九州で戦を起こし、それに対して大和朝廷が出兵したが苦戦して引き上げてきたところ、今度は、大和朝廷内部の対抗勢力が大和から河内・和泉地域を支配して、九州へ出兵した勢力の復帰を拒否し、大和へ戻ることができなくなった、という話はいつの時代かはさておき、実際にあった可能性はありうる。 摂津国のこの武庫のあたり、今の廣田神社があるあたりから甲山のあたりに拠点を築いて、大和朝廷の対抗勢力と対峙した。 廣田神社の前は湾になっていたので、そこに船を停泊させ、この湾の部分を守るために、岬になっていた所に出先の砦を築いた。それが、西宮神社の前身の南宮神社だった。 だから、南宮神社は廣田神社と向き合うようになっていて、互いに向き合った湾の部分を守った。
「荒魂」という闘いの神であるのは、『古事記』『日本書紀』では忍熊王と表わされる大和朝廷の対抗勢力を倒し、大和朝廷の支配者として復帰しようという意志からで、「天照大御神の荒魂」と名のるのは自分たちの方が大和朝廷の正統の統治者・後継者だという意思表示からではないか。
商売繁盛の神さま「えべっさん」とか学問の神さま「菅原道真=天神さん」とかは今の時代においても受け入れられやすいが、「アマテラスオオミカミ」というのは、『古事記』『日本書紀』ではメインの神であっても、メインの神であるだけに、「何でも屋」になってしまい、何のご利益を求めるか明確でないために、今の時代においては受け入れられにくいが、もともと、大和朝廷の対抗勢力を打倒して政権復帰を目指す人たちが、対抗勢力を打ち倒そうとしたということで「荒魂」、自らの方が大和朝廷の正統であると主張するところから「アマテラス」であったとすれば、理屈が通りそうだ。
廣田神社の社殿は、拝殿は1956年に伊勢神宮の式年遷宮の用材を譲り受けて造営・整備されたといい、本殿は1963年に伊勢神宮の荒祭宮(あらまつりのみや)の旧社殿を譲り受けて移築整備したという。 東から入る参道は新しく作られた様子である。 この場所にはけっこう古くから存在したとしても、今の状態で古くから存在したわけではなさそうだ。 かつては、ここは、大和朝廷の対抗勢力に対峙するための砦・城だったのではないか。 その砦・城が甲山の山麓とこの広田の森とにあり、広田の森にあった砦・城の出先の砦が今の西宮神社の場所にあった南宮神社だったのではないか。 そこで、戦勝を祈願することもあり、祈願するのは天照の荒魂だったのではないか。
西宮神社には、その後、海辺だということもあり、海からやってきたり海に流したり海に去ったりする「えべっさん」が入り、「えべっさん」が商売繁盛の神さまとなって主役になったが、廣田の砦の出先の砦であったという歴史から、今では「えべっさん」の方が主役になった西宮神社の「三連春日造り」の社殿には「えべっさん」とともに、アマテラスとスサノオが入居している・・・という可能性がありうるように思うのだが、どうだろう。
こう考えると、辻褄があるようにも思うのだが。
神社関係者には『古事記』『日本書紀』の記述のうちの、歴史上正しいとは言えない部分を頑固に史実であるかのように言い張りたい人もいるようだ。 しかし。 キリスト教でも、歴史的イエスと宗教的イエスに異なる部分があったとしても、だからといってキリスト教の価値がなくなるわけでもない。 イエスが起こした「奇蹟」と言われるものが実際はそうではなかったとしても、だから、キリスト教に価値がなくなるわけでもない。 同様に、神社の「由緒」として語られているものが実際の歴史から考えて適切でなかったとしても、それで神社の価値がなくなるわけでもないと思うのだ。 だから、『古事記』『日本書紀』は歴史ではないが、歴史を考えるための史料のひとつとして採用することはできるものであり、『古事記』『日本書紀』の記述で歴史上適切とはいえないものを頑固に守ろうとする必要はないと思う。
※ 神宮皇后の三韓征伐 と史実との違い については、たとえば、
井上光貞『日本の歴史 1 神話から歴史へ』(1973.10.10. 中公文庫) 参照。
廣田神社の社務所に、「教育勅語」の解説だったかが「御自由にお持ちください」という感じで置かれていたが、「教育勅語」は神社とは特に関係はない。 「教育勅語」は「明治天皇が臣下に下した」ということで設けられたものであるので、皇室の祖先だというお話があるアマテラスを祀る神社は関係がないわけではないという考えかもしれないが、「教育勅語」は明治に明治天皇の取り巻きが作成したものであって、もとより実在していないアマテラスオオミカミが作成したのではない。 明治天皇の父である孝明天皇は、倒幕を望んでいなかった為、尊王攘夷派によって暗殺されたのではないか、尊攘派の言いなりにならない35歳の孝明天皇を暗殺してまだ14歳の少年であった明治天皇を即位させたのではないかという説もあるようで、そういう人たちが作成したものである。
最初の拝殿の写真をもう一度、見ていただきたい。 住宅において、「切妻 平入り正面玄関 はいかん」という話がある。 「いかん」と言われても、別に法律で禁止されているわけでもないが、そういう話がある。 住宅建築業に従事する人間なら知っておくべき話であるが、知らない人もいるだろう。
なぜ、いかんかというと、「神明造り」の伊勢神宮と同じだからだというのだ。 お伊勢さんと一緒ならいいじゃないか、けっこうなことじゃないかと思う人もいるかもしれない。 なんだ、そんな昔ばなしをと思う人もいるかもしれない。 伊勢神宮と一緒は畏れ多いとか言うのは、右翼のおっさんか何かと違うのかと思う人もいるかもしれない。 実際には、法律で禁止されているわけでもないので、御施主さんがやりたいというならやって悪いことはないのだろうけれども、建築屋の方は知っておくべきだ。
伊勢神宮の柱を参考に南面の中央に大きな柱を建てて作られた江戸東京建物園(http://tatemonoen.jp/ )にある前川國男自邸も、切妻・大屋根の家だが、柱が建っているのは南の妻面で、入口は北西の妻面である。
それで、なぜ、いかんかというと、理由づけがはっきりされているわけではないと思う。 ≪伊勢の神宮の皇大神宮(内宮)・豊受大神宮(外宮)両宮の正殿(本殿)の様式は、他社においてこれと完全に同じくするのを懼れ憚って採用していないため、特別に唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)と呼ぶ。≫(《ウィキペディア―神明造》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%98%8E%E9%80%A0 )、≪伊勢神宮正殿の様式は他への使用を禁じられているため唯一神明造と称される。≫(《神社建築》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%BB%BA%E7%AF%89 )という話は、神社において、伊勢神宮正殿の様式で他の神社で採用するなと伊勢神宮が言っているということだろうけれども、戦前はともかく、今現在は、各神社は伊勢神宮の配下であるわけでもないはずで、何でも伊勢神宮の命令に従わないといけないことはないはずなのだが、今でも戦前の流れの影響を受けているのでしょう。 それも、伊勢神宮正殿と同じ様式を神社において採用する場合の話で、単に切妻で平入りの建物が神明造であるわけでもなく、千木も堅魚木もない単に「切妻・平入り正面中央玄関」の建物を一般の人間が建てるのをいかんとまでは伊勢神宮も言っていないはずです。
在来木造の一条工務店に在籍した時、1993年に千葉県松戸市で、母屋の前に2階建で小規模な別棟の建築をしていただいた方の打ち合わせをおこなっていた時、母屋の方が主役で、母屋が入母屋でできているので、別棟は寄棟か切妻かでということになったが、その時、御主人が「切妻の平入りはいかん」と言われたことがあった。
住宅建築業の会社では、寄棟と切妻では同じ価格だが入母屋は少々高く設置している会社が多いのではないかと思うが、寄棟と切妻では、屋根の形状としては切妻の方が簡単、単純な構造であり、建築屋としては費用はかからないはずなのだ。 だから、複雑な屋根の入母屋の母屋の方を主役として、別棟は、目立ちすぎない自己主張を強くしすぎない形状・外観にしようとすれば、寄棟の屋根と切妻の屋根では切妻の方が簡単な屋根なので、入母屋の母屋を「食ってしまわない」外観にしようとすれば切妻の方が良さそうに思えないこともないのだが、「切妻の平入り中央玄関はいかん」という点を採用するなら切妻の方が計画を建てにくいことになる。
私は、その頃はまだ住宅屋としてはベテランの方ではなく、その頃からこの「切妻 平入り 正面玄関はいかん」という話を知ったが、その頃の私の意識としては、何もそこまで伊勢神宮を尊重しなくても・・というのが正直な気持だった。
住宅屋の仕事をする人は、できるだけ早く、この廣田神社の社殿を見に行った方がいいと思う。特に、関西在住者は、伊勢神宮まで行くより廣田神社の方が行きやすいから、行って見てみるべきだと思う。
切妻屋根は屋根形状としてはもっともシンプルではあるが、シンプルな屋根形状も徹底し、かつ、これだけの規模になれば、相当に迫力がある。 シンプルだから粗末というわけでもないし、シンプルだから格が低いという印象も受けない。
そして、伊勢神宮を特別扱いしてどうこうということではなく、神社ではなく住宅において、自分は人間であって「神さま」でない者にとって、神社と同じ作りの建物に住むというのは、あんまり居心地の良いものではないと思うのだ。 それで、上賀茂神社・下鴨神社のような「流れ造り」の屋根形状の建物を住宅に作ろうとする人はあまりないと思う。 「日吉造り」もそう。 拝殿・弊殿・本殿からなる「石の間造り」で住宅を建てようとする人もないだろう。 しかし、「神明造り」だけは、千木や堅魚木は載せないとしても、切妻で平(ヒラ)面の中央に玄関を持ってくるということはありうることなのだ。 伊勢神宮がどうこうというのではなく、他の造り、大社造り・住吉造り・春日造り・八幡造り・日吉造り・流れ造り・石の間造り(権現造)といった構成は住宅では意識して避けなくてもそういう構成の建物になることはあまりないのだが、「切妻 平入り 正面中央玄関」というのは、可能性としてありうることなのだ。 だから、神社の社殿と同じ構成の家は建てない方がいいという考え方からすれば、「切妻 平入り、正面中央玄関はいかん」という話が出てくるのだ、と思う。 そして、これを理解するには、頭で考えるよりも、「切妻 平入り 正面中央玄関」で出来ている「神明造」の社殿を実際に自分の眼で見るのがいいと思う。 私はもっと早くに、この廣田神社に行くべきだったと思った。
↑最初の写真のイメージが頭にあれば、別に皇室の祖先だという設定のアマテラスオオミカミを祀る伊勢神宮だからということではなく、人の住む住居を「神さま」の社殿と同じ構成にはしない方がいいのではないか、という考え方は理解できると思うのだ。 「切妻 平入り 正面中央玄関はいかん」という話について、よくわからなかった方、↑の最初の写真を見て、もう一度、考えてみてください。 最終的にどうするかはさておき、神社と同じ構成は避けた方がいいという考えた方はそうおかしなものではないと思うし、それは特に右翼の人の思想とかいうものでもないと思います。
この「切妻屋根の平入り正面中央玄関はいかん」という話は、雪国ではあまり出てこないようです。たとえば、南道路で南北に長い長方形の土地で北よりに家を建て南に玄関を設けて南側には庭と駐車スペースを設けるとします。 寄棟屋根にすると、雪が積もった時、屋根の雪は四方に落ちます。 1mと10cm程度空けても、軒の長さが外壁から75cm出てその外に樋がついたりすると、隣地との距離はわずかで、寄棟屋根では雪は隣地に落ちます。 切妻屋根にして、南の道路側が「平(ひら)」面になるようにすれば、東西の隣地側は「妻(つま)」面で雪はそれほど落ちませんから、広めに空ける必要があるのは北側のみとなります。だから、積雪地では、切妻の屋根にする方がけっこう多いようです。そして、南側の平(ひら)面の中央に玄関を設けることがいかんと言う人は少ない。 雪の大変さを考えると積雪の方が伊勢神宮どうこうの話より重いのです。「切妻で平側の中央玄関」が神明造というわけでもありませんし。
私が勤めた千葉市中央区鵜の森町 の 新華ハウジング有限会社(建設業)・ビルダーズジャパン株式会社(不動産業)・ジャムズグローバルスクエア株式会社(不明業)で「工事責任者」を自称しながら工事管理なんかちっともやっていなかったU草Aニ(男。30代なかば。2010~2011年当時。)が、「ぼく、営業やったことないですけど、営業できますから」とあつかましい文句を何度も何度も大きな声で口にしていて、このブタ、いったい何のつもりだろうかと思ったのだが、私は、実際に営業の仕事を約20年やってこういうことを徐々に学んできたのであり、それだけの期間を通じて御施主様からも話を聞かせてもらってきたのである。「やったことない」人間に実感として理解できるとはとうてい考えられない。 実際に、そういう問題に該当するお宅を自分が担当して対応する経験、神社に行ってみて、≪神社の全体の姿を確かめる≫、全体の雰囲気を味わう学習をする努力、そういう蓄積のない者に蓄積のある者と同等のことができるとは考えられない。 そもそも、「やったことない」人間がやりもせずに「できますから」などと口にするのはやったことある人間に失礼でもあるが、そういう無神経な人間は、「切妻 平入り 正面中央玄関はいかん」といった感覚にも無神経ではないかと思う。 神社と同じ構成にしてはいけないなどという法律はない。建築基準法にそのような規定はない。 だからいいかというとそういうものでもないと思うのだ。 無神経な人間は一般に無頓着な場合が多い。 最初の↑の写真を見て、できれば実際にそこに行って、≪神社の全体の姿を確かめる≫、全体の雰囲気を味わう、という作業をやろうという人間は、「やったことないですけどできますから」などという無神経な文句は簡単には口に出さないものだと思う。
西宮神社については、この後、別稿で、述べたいと思います。
(2014.7.12.)
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