清洲橋(東京都中央区~江東区)観察―【1】なかなかカッコしい清洲橋。吊り橋にもいろいろ
[第334回]
日本における鉄骨造の起源にして吊り構造の起源ともいうべきものらしい清洲橋〔1928年(昭和3年)[関東大震災(1923年。大正12年)の5年後、満州事変(1931年。昭和6年)の3年前]竣工〕に行ってきました。↓
↑ 中央区側(右岸)から見たもの。
【1】 隅田川と橋
今は昔。 1970年代前半、中学生だった時、姉が東京の人間と結婚するということで東京で結婚式をあげるのに出席するため、初めて東京に来て、少し時間があったので、東京でどこか行きたい所があるかと言われて行ったのが、浅草から浜離宮の脇までの隅田川下りの船だった。船べりから隅田川とその両側を、ただ、見ているだけだったが、けっこうおもしろかった。 海と違って波はおだやかで、たいして揺れもしなかったが、今はずいぶんと近代的な観光船が走っているが、その当時はそんなものではなく、「普通の船」で、も~しもひっくりかえったら、どう~しよ、とかも思ったがひっくり返らなかった。 最初に乗った場所は浅草で、最後に降りたのは浜離宮の脇のあたり、最寄駅としては国鉄(今はJR)の浜松町のあたりだというのはわかっているのだが、途中は隅田川を通ってきたのはわかっているが、個々の場所がどこなのかはわからずに乗っていた。 橋はいくつもくぐったのだが、それほど特別な橋があったような記憶はなかった。
しかし、建築の仕事をし、建築の勉強をすると、隅田川の橋というのは、なかなかのものらしい。 どうしてなかなかかというと、
(1)今でこそ、東京都と千葉県の境目は江戸川であるが、昔は、江戸川区とか江東区・墨田区といったあたりは下総の国で、武蔵の国と下総の国を分けていたのは江戸川ではなく隅田川だったらしい。
JR総武線では、浅草橋と錦糸町の間に、相撲の街・両国があるが、「両国」とは、下総の国と武蔵の国の境であることから「両国」らしく、この下総の国と武蔵の国を分ける川が隅田川。 今は、隅田川の左岸・墨田区に「両国」という地名があり、右岸の中央区の側には住居表示として両国という地名はないが、「中央区東日本橋○丁目」は、かつて、「日本橋◇◇町」と言っていた地域がいくつか合わさって「東日本橋○丁目」になったもので、そのかつての地名のひとつには「日本橋両国町」というものがあったらしく、「両国」は隅田川の東側(左岸)にだけあったのではなく、隅田川の両側に「両国」という地名の場所があったらしい。
〔↑ 都営浅草線「東日本橋」駅の上あたりの道路(「清杉通り」)にある案内表示看板。 ↑写真はクリックすると大きくなります。大きくして見てください。 「両国橋」は墨田区両国 と 中央区日本橋両国(現在は、中央区東日本橋二丁目 ですが)との間にかかっていたようです。〕
また、
(2)今は、隅田川の東に荒川があり、その東に中川があって、さらにその東に江戸川があり、東京湾に注ぐいくつもの川のひとつのような面があるが、「荒川」というのは、もともと、埼玉県の秩父山系から流れ出す川の上流が「荒川」で下流が「隅田川」だったのが、隅田川の氾濫による被害を解消しようとしてのバイパスとして「荒川放水路」が建設され、いつしか、「荒川放水路」のことも「荒川」と呼ぶようになったのであって、かつては、秩父地方にある「荒川」は昔からあるが、東京都を流れている「荒川」はなかったらしく、隅田川は今以上に存在感があったようだ。
「は~るのぉ~、うら~ら~のぉ~♪ す~み~だ~が~わ~♪」という歌もあって、だから、隅田川下りの船に乗りたいと思ったのではないかとも思うのだが、そんなうららかな景色ではなかったが、けっこうおもしろかった。 〔滝 廉太郎の「は~るのぉ~、うら~ら~のぉ~♪ 」という歌は、「隅田川」という題名かと思っていたら、題名は「花」といったらしい。 ⇒《世界の民謡・童謡―花 瀧 廉太郎》http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/hana.htm 〕
『鬼平犯科帳』にも、たしか、花火だったかで大変な人出の時に、両国橋だったかが落ちて何人もが亡くなったという話が出ていたが、この武蔵の国と下総の国の間を流れる隅田川に安全・強固な橋をかけるというのは長年の課題だったようだ。 JR総武線も、最初は市川―千葉 間で開通し、後に西側は本所(錦糸町)まで伸びて、さらに両国まで伸びたらしいが、両国駅の北西あたりの建物を見ると、ターミナル駅のような作りになっているし、国技館側に櫛形ホームがあって、かつては両国始発の電車が出ていた。 けっこうこの川を超えるのは大変だったようだ。
ついでに、江戸時代もののテレビドラマで、「大川に死体があがったぜ」とか言って、死体があがる川の名前はたいてい「大川」だという説があり、「大川」という名前は適当につけているのだろうと思っている人がいるらしく、実は私も昔はそう思っていたのだが、「大川」とは隅田川のことのはずで、「適当につけた」のでもないようだ。
【2】 吊り構造 の 清洲橋
江口 敏彦著・山口 廣監修『東京の近代建築―建築構造入門』(1990.11.25. 理工学社)を見ると、
≪ 東京タワーには、装飾というものが一切ありません。 鉄の骨組みによって構成されるその形態は、構造体自身がつくり出す「釣合い」の美しさ、すなわち「構造美」によって特徴づけられます。
むき出しの骨組みによる構造美は、隅田川に架けられた橋にも見ることができます。 力強い「永代橋」や優美な「清洲橋」は、装飾性が排除されていますが、その美しさは私たちの心を打ちます。
そのような一切装飾のない、また外皮(外壁)を伴わない橋や塔などの建造物のなかに、鉄骨構造の起源をみることができるのです。
1779年、産業革命によって製鉄業の中心となったイギリスのコールブルックデールで、鉄製の橋が架けられました。 このアーチ形の橋が世界最初の構造材としての鉄の使用例です。 広い川幅に橋を架け渡すには、大スパンの構造体が必要になりますが、それには、木材より強度の大きい鉄のほうが適していることは明らかです。 鉄は盛んに橋梁(きょうりょう)の建造に用いられるようになりました。
・・・・≫
(江口 敏彦著・山口 廣監修『東京の近代建築・建築構造入門』1990.11.25. 理工学社 「第三章 鉄骨構造の建築」)
≪ 吊り構造は、土木の分野で用いられていたのです。 それも相当古く、人類の歩みとともに発展してきたと考えられます。
・・・・
吊り橋は、おもに東洋で発達したのですが、16世紀になると、ヨーロッパでもつくられるようになりました。 もともとヨーロッパでは、橋にもアーチが用いられていたのですが、一度この吊り構造の技術が導入されると、積極的に吊り橋が架けられるようになったのは、経済的に早く橋を架けることが必要であったアメリカでした。
産業革命のころになると、植物性の繊維でつくったケーブルに替わって、鉄のチェーン ケーブルが用いられ、さらに19世紀になると、ワイヤー ケーブルが開発されたのでした。
19世紀後半には、スパン480メートルをこえるブルックリン橋が、1930年代には、何とスパン1000メートルをこえるジョージ ワシントン橋が、アメリカにおいて建設されたのでした。 そして、現在では、スパン1500メートルにもとどく勢いで、吊り橋の技術は発展し続けているのです。 わが国においても、前述の清洲橋のような吊り橋や、もっと大規模な若戸大橋、関門橋や本州四国連絡橋のような吊り橋を見ることができます。 ≫
(江口 敏彦著・山口 廣監修『東京の近代建築・建築構造入門』1990.11.25. 理工学社 「第五章 現代建築と構造技術」)
日本における鉄骨造の建築の起源として、隅田川にかかる永代橋と清洲橋、日本における吊り構造の建築の起源として、清洲橋があげられています。 吊り構造の建築としては、この後、国立屋内総合競技場主体育館・国立屋内総合競技場小体育館が建てられたことが同書には出ています。
《ウィキペディア―丹下健三》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E4%B8%8B%E5%81%A5%E4%B8%89 を見ると、≪1964年(昭和39年)の東京カテドラル聖マリア大聖堂と 東京オリンピック国立屋内総合競技場(正式名称:国立代々木屋内総合競技場)において、自身の建築歴の頂点を極めることになる。両作品ともに、当時の最先端の構造技術を咀嚼しながらも独自の発展を見せ、東京カテドラル聖マリア大聖堂ではHPシェル構造を用い、国立屋内総合競技場では吊り構造を用いて、構造と形態を高度な次元で融合させながら、なおかつ至高性をも表現することに成功したモダンデザインの傑作である。≫と出ています。 もっとも、≪構造と形態を高度な次元で融合させ≫るのはけっこうなことですし、その時代における最先端の技術を試行するのは技術の進歩に貢献する行為ではあるのでしょうけれども、しかし、竣工時から雨漏れがしたり、「建築家」の好みの押しつけで利用者の使い勝手を考えない、宗教施設としての精神性よりも建築技術と「建築家」の好みの意匠の方を優先した東京カテドラル聖マリア大聖堂のあり方はいかがなものかとも思いますし、国立代々木屋内総合競技場も、最近ではかなり弱ってきたようで、どうも、「世界の丹下」の建物は、新技術の導入には積極的でその点に評価はできても、耐久性の点で問題がないとは言えないものが多い印象があります。
その日本における鉄骨造の起源にして吊り構造の起源ともいうべきものらしい清洲橋〔1928年(昭和3年)[満州事変(1931年)の3年前]竣工〕に行ってきましたが、右岸(中央区側)から見たのが↑最初の写真です。
『東京の近代建築・建築構造入門』には、横から撮影した白黒の写真が出ています。 橋の場合、どこか1面となると、横から見える面が選ばれることになるのでしょう。 しかし、その場所に行くと、白鳥でもアヒルでも亀でもない者としては、川の中央部から見ようと思うと、隣の橋から見るか、川を運航する船から見るかしかないのですが、ちょうど妥当な橋が隣にあるかどうかという問題がありますし、船があったとしても運航する船は止まってくれません。 そういうこともあるのですが、行ってみると、そういう問題とは別に、橋は川の側からだけで見るものではなく、通行する側からも見るものではないかとも思えてきます。↑ 橋は川を通る船からも見えるけれども、上を通る人やクルマの乗員からも見えるものですし。 清洲橋通り・新大橋通り・永代橋通り・葛西橋通りといった名称の道路が江東区・墨田区・中央区あたりにあって、前々から清洲橋という名称は聞いてきたのですが・・・・、かっこええやないかあ~あ♪ て思いました。 そう思いませんか? ↑
斜め横から見ても↓
↑ 中央区側(右岸)の上流側(北側)から見たもの。
↑ なかなか、かっこええやないの・・。 ね♪

最寄駅というと、右岸(中央区側)では都営新宿線の「浜町」か東京メトロ半蔵門線の「水天宮前」、左岸(江東区側)では東京メトロ半蔵門線・都営大江戸線の「清澄白河」ということになるでしょうか。
↑ 右岸(中央区側)の橋名表示板のあたりからは、東京スカイツリー が見え、
↑ 左岸(江東区側)の橋名表示板のあたりからは、ひとつ上流の 新大橋 が見えます。新大橋もなかなかかっこいい。(写真は、すべて、クリックすると大きくなります。)
(スカイツリーと新大橋は清澄橋の中央付近からも見えます。)
↑左岸(江東区側)から見たものですが、「吊り構造」の橋だというのですが、↑など見ると、「アーチ」の要素もありそうです・・・・・が、
↑ これとか、
↑ これとか見ると、やっぱり、吊ってますから、「吊り構造」なのでしょう。
「吊り橋」というと、私がこれまでに渡ったり見たりした「吊り橋」としては、1960年代、大阪府柏原市の近鉄南大阪線「道明寺」駅から東の方に進むと、 かつて玉手山公園があったのですが、その途中で石川を渡る吊り橋があり、子供の頃、玉手山公園に連れて行ってもらった際に通ったことがありました。

(↑ たぶん、これだと思うのですが・・・。 もし、違ったら、ごめん。 何十年も前のことなので、今もその頃と同じ橋が架かっているかどうかはわかりません。)
1970年代では、高校生の時に、兵庫県西脇市のJR加古川線「西脇市」駅(私が行った頃は国鉄で「野村」駅と言っていました。)から東に行ったあたりにあった 加古川にかかる吊り橋を渡ったことあります。

(↑ これも、たぶん、これだと思うのですが・・・、やはり、もし、違ったら、ごめん。 高校生の時というと、昨日か一昨日のことのような気がするのですが、もはや、何十年も前のことになってしまったので、今もその頃と同じ橋が架かっているかどうかはわかりません。)
それに、1990年代においては、福島県双葉郡の浪江町だったかの山中にあった吊り橋のたもとまで行ったことがあり、石川にかかっていた橋と 加古川にかかっていた橋は人だけが通る橋で、浪江町の山中にあった橋は人だけだったか普通乗用車くらいは通れたか記憶がはっきりしませんが、ワイヤーで吊ったいかにも「吊り橋」という感じのもので、渡る際にけっこう揺れて、落ちるわけではないけれどもけっこうスリルがある橋でした。 そういった「吊り橋」から考えると、本州四国連絡橋なんて、電車や自動車を通す大型の橋を「吊り橋」でなんて、そんなものできるのか、こわそ~って感じがしますが、清洲橋は「吊り構造」とはいえ、なかなか頑丈です。 あんまり揺れないし、大型のクルマがひっきりなしに通っています。 「吊り構造」の橋にもいろいろあるみたいです。
まず、道明寺駅の東で石川に架かっていた吊り橋や西脇市で旧・野村駅(現・西脇市駅)の南東で加古川に架かっていた吊り橋は、ワイヤーというのか、「針金の太いようなやつ」(もしくは「金属製のロープみたいなやつ」)で吊っていたのです。 それに対して、清洲橋は、↑の写真など見ると、確かに吊ってはいるのですが、「針金の太いようなやつ」で吊っているのではなく、鉄骨で吊っています。 そのあたりにまず違いがあるように思えます。
さらに言いますと。 鹿取茂雄『封印された日本の秘境 特別編集版』(2012.6.20.彩図社)では、「凍結した吊り橋の連続攻撃 五家荘〔ごかのしょう〕(熊本県八代市)には、熊本県八代市の樅木(もみぎ、もみのき)地区にある「あやとり橋」「しゃくなげ橋」の2本の吊り橋、「樅木吊橋」が出ています。
≪ 寒風すさぶ中、2人であやとり橋に近寄る。 うっ・・・・・予想以上に高い。
そして、床板には隙間があり、板の上に積もった雪が凍結している。 ・・・
吊り橋の床板に隙間があるとはいえ、観光地なのだから安全は保証されているはずだ。揺れたって、下が見えたって、とにかく安全なのだ。 そう自分に言い聞かせて、ズカズカと吊り橋の真ん中を歩いていく。
なるべく下を見ないように歩いていると、床板が凍っていて、勢いよく転びそうになった。とっさにワイヤーにしがみついたので転ばなかったが、心臓が止まりそうになった。 身体的なダメージはゼロだったが、精神的なダメージははかり知れない。・・・・・
しゃくなげ橋のほうが日当たりが悪く、さらに激しく凍結していた。なかなか安心させてくれない観光地だ。
あやとり橋に比べると、ずいぶんと低いように見えるのだが、それでも20メートルの高さがある。 高さが半分になっても、高いものは高い。体感的な怖さはあまり変わらないものだなと思いながら、凍結した吊り橋を渡った。 ・・・≫
「ダム湖に沈む予定の秘境 深沢峡(岐阜県加茂郡)」には、木曽川にかかる五月橋が出ている。
≪ 現在かかっている橋は2代目となる五月橋で、ダムの建設にともないかけ直された。・・・・・
五月橋は、これまで歩いてきた獣道に対して、あまりにも立派すぎる鉄骨造りの吊り橋だ。 ただし、立派なのは鉄骨だけで、床板はグレーチング敷き、側溝のフタなどによく使われている、金網状のあれだ。 つまり、足元から木曽川がシースルーで丸見えなのだ。
水面までの高さは結構なもので、ここは通行禁止区間だけに安全はまったく保証されていない。 グレーチングを踏むと、踏む場所によってグレーチングがたわんで沈み込む。 ・・・・
悠々とした流れに見えるこの木曽川だが、水面下40メートルもの渓谷が沈んでいる、橋の真下には大きな赤い岩があり、身投げした多くの人の血で赤く染まったのだと、地元では語られていたという。・・・≫
と出ている。 五家荘の「あやとり橋」「しゃくなげ橋」、深沢峡の五月橋と清澄橋では、吊り橋は吊り橋でも、 ずいぶんと違いがあるものだ。
倉方俊輔・斉藤 理(ただし) 監修・執筆『東京建築ガイドマップ 明治 大正 昭和 1868-1979』(2007.2.20.エクスナレッジ ムック)によると、
清洲橋(きよすばし)は、竣工年:1928年。 設計者名:復興局。 所在:中央区日本橋中洲~江東区清澄1。
≪ 下流の永代橋が「帝都の門」として水面を区画した中で、優美な曲線を描く吊り橋。 近づけば部材の接合部がダイナミックだ。 震災復興の目玉プロジェクトとして、隅田川に架かる橋の中でも最大の予算が投下された。≫ と出ている。 『東京建築ガイドマップ 明治 大正 昭和 1868-1979』には、隅田川に架かる橋では、他に、清洲橋と同じ1928年竣工の永代橋が出ている。
東京建築探偵団『建築探偵術入門 東京・横浜の西洋館230を追跡する』(1986.9.25. 文春文庫ビジュアル版)には、永代橋の近くの食糧ビル(東京廻米問屋市場)(1927。 渡辺虎一・渡辺事務所。 江東区佐賀1-8-13)と相生橋の近くの東京商船大学旧天体観測所(1903年。 三橋四郎。 江東区越中島2)が出ているが、副題が「東京・横浜の西洋館」となっていて、西洋「館」をとりあげる方針の本だからか、橋はどれも出ていません。
≪参考≫
《ウィキペディア―清洲橋》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B4%B2%E6%A9%8B
「清洲橋」は、深川区清住町の「清」と日本橋区中洲町の「洲」を合わせて「清洲」だったらしい。 江東区側に地下鉄の「清澄白河」駅があり、なぜ、橋の名は清澄橋ではなく、清洲橋かと思ったが、合成して名づけられた橋名だったようだ。
≪ 当時世界最美の橋と呼ばれたドイツのケルン市にあったヒンデンブルグ橋の大吊り橋をモデルにしている(その橋は第二次世界大戦で破壊された後、別の橋が再建された為、現在は吊り橋ではない)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を使用して、鋼材の断面を小さくする努力がなされた。もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所でもある。≫
《東京都公園協会 橋をめぐる隅田川―水上散策》https://www.tokyo-park.or.jp/special/mizube/
清洲橋と永代橋、それに勝鬨橋の3つが国の重要文化財に指定されたらしい。
(2015.7.22.)
☆ 「清澄橋 観察」は、4部構成です。
1. 今回。
[次] 2. リベット、色彩、魅せる鉄骨梁 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_2.html
3. ブスは耐久性があるか・建築篇 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_3.html
4. 隅田川遊覧船、新大橋、両国橋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_4.html
☆ 続編「新大橋 観察」2部作
上 黄色がはえる、歩道が広い新大橋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_5.html
下 新大橋と首都高、新大橋由来 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_6.html
日本における鉄骨造の起源にして吊り構造の起源ともいうべきものらしい清洲橋〔1928年(昭和3年)[関東大震災(1923年。大正12年)の5年後、満州事変(1931年。昭和6年)の3年前]竣工〕に行ってきました。↓
↑ 中央区側(右岸)から見たもの。
【1】 隅田川と橋
今は昔。 1970年代前半、中学生だった時、姉が東京の人間と結婚するということで東京で結婚式をあげるのに出席するため、初めて東京に来て、少し時間があったので、東京でどこか行きたい所があるかと言われて行ったのが、浅草から浜離宮の脇までの隅田川下りの船だった。船べりから隅田川とその両側を、ただ、見ているだけだったが、けっこうおもしろかった。 海と違って波はおだやかで、たいして揺れもしなかったが、今はずいぶんと近代的な観光船が走っているが、その当時はそんなものではなく、「普通の船」で、も~しもひっくりかえったら、どう~しよ、とかも思ったがひっくり返らなかった。 最初に乗った場所は浅草で、最後に降りたのは浜離宮の脇のあたり、最寄駅としては国鉄(今はJR)の浜松町のあたりだというのはわかっているのだが、途中は隅田川を通ってきたのはわかっているが、個々の場所がどこなのかはわからずに乗っていた。 橋はいくつもくぐったのだが、それほど特別な橋があったような記憶はなかった。
しかし、建築の仕事をし、建築の勉強をすると、隅田川の橋というのは、なかなかのものらしい。 どうしてなかなかかというと、
(1)今でこそ、東京都と千葉県の境目は江戸川であるが、昔は、江戸川区とか江東区・墨田区といったあたりは下総の国で、武蔵の国と下総の国を分けていたのは江戸川ではなく隅田川だったらしい。
JR総武線では、浅草橋と錦糸町の間に、相撲の街・両国があるが、「両国」とは、下総の国と武蔵の国の境であることから「両国」らしく、この下総の国と武蔵の国を分ける川が隅田川。 今は、隅田川の左岸・墨田区に「両国」という地名があり、右岸の中央区の側には住居表示として両国という地名はないが、「中央区東日本橋○丁目」は、かつて、「日本橋◇◇町」と言っていた地域がいくつか合わさって「東日本橋○丁目」になったもので、そのかつての地名のひとつには「日本橋両国町」というものがあったらしく、「両国」は隅田川の東側(左岸)にだけあったのではなく、隅田川の両側に「両国」という地名の場所があったらしい。
〔↑ 都営浅草線「東日本橋」駅の上あたりの道路(「清杉通り」)にある案内表示看板。 ↑写真はクリックすると大きくなります。大きくして見てください。 「両国橋」は墨田区両国 と 中央区日本橋両国(現在は、中央区東日本橋二丁目 ですが)との間にかかっていたようです。〕
また、
(2)今は、隅田川の東に荒川があり、その東に中川があって、さらにその東に江戸川があり、東京湾に注ぐいくつもの川のひとつのような面があるが、「荒川」というのは、もともと、埼玉県の秩父山系から流れ出す川の上流が「荒川」で下流が「隅田川」だったのが、隅田川の氾濫による被害を解消しようとしてのバイパスとして「荒川放水路」が建設され、いつしか、「荒川放水路」のことも「荒川」と呼ぶようになったのであって、かつては、秩父地方にある「荒川」は昔からあるが、東京都を流れている「荒川」はなかったらしく、隅田川は今以上に存在感があったようだ。
「は~るのぉ~、うら~ら~のぉ~♪ す~み~だ~が~わ~♪」という歌もあって、だから、隅田川下りの船に乗りたいと思ったのではないかとも思うのだが、そんなうららかな景色ではなかったが、けっこうおもしろかった。 〔滝 廉太郎の「は~るのぉ~、うら~ら~のぉ~♪ 」という歌は、「隅田川」という題名かと思っていたら、題名は「花」といったらしい。 ⇒《世界の民謡・童謡―花 瀧 廉太郎》http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/hana.htm 〕
『鬼平犯科帳』にも、たしか、花火だったかで大変な人出の時に、両国橋だったかが落ちて何人もが亡くなったという話が出ていたが、この武蔵の国と下総の国の間を流れる隅田川に安全・強固な橋をかけるというのは長年の課題だったようだ。 JR総武線も、最初は市川―千葉 間で開通し、後に西側は本所(錦糸町)まで伸びて、さらに両国まで伸びたらしいが、両国駅の北西あたりの建物を見ると、ターミナル駅のような作りになっているし、国技館側に櫛形ホームがあって、かつては両国始発の電車が出ていた。 けっこうこの川を超えるのは大変だったようだ。
ついでに、江戸時代もののテレビドラマで、「大川に死体があがったぜ」とか言って、死体があがる川の名前はたいてい「大川」だという説があり、「大川」という名前は適当につけているのだろうと思っている人がいるらしく、実は私も昔はそう思っていたのだが、「大川」とは隅田川のことのはずで、「適当につけた」のでもないようだ。
【2】 吊り構造 の 清洲橋
江口 敏彦著・山口 廣監修『東京の近代建築―建築構造入門』(1990.11.25. 理工学社)を見ると、
≪ 東京タワーには、装飾というものが一切ありません。 鉄の骨組みによって構成されるその形態は、構造体自身がつくり出す「釣合い」の美しさ、すなわち「構造美」によって特徴づけられます。
むき出しの骨組みによる構造美は、隅田川に架けられた橋にも見ることができます。 力強い「永代橋」や優美な「清洲橋」は、装飾性が排除されていますが、その美しさは私たちの心を打ちます。
そのような一切装飾のない、また外皮(外壁)を伴わない橋や塔などの建造物のなかに、鉄骨構造の起源をみることができるのです。
1779年、産業革命によって製鉄業の中心となったイギリスのコールブルックデールで、鉄製の橋が架けられました。 このアーチ形の橋が世界最初の構造材としての鉄の使用例です。 広い川幅に橋を架け渡すには、大スパンの構造体が必要になりますが、それには、木材より強度の大きい鉄のほうが適していることは明らかです。 鉄は盛んに橋梁(きょうりょう)の建造に用いられるようになりました。
・・・・≫
(江口 敏彦著・山口 廣監修『東京の近代建築・建築構造入門』1990.11.25. 理工学社 「第三章 鉄骨構造の建築」)
≪ 吊り構造は、土木の分野で用いられていたのです。 それも相当古く、人類の歩みとともに発展してきたと考えられます。
・・・・
吊り橋は、おもに東洋で発達したのですが、16世紀になると、ヨーロッパでもつくられるようになりました。 もともとヨーロッパでは、橋にもアーチが用いられていたのですが、一度この吊り構造の技術が導入されると、積極的に吊り橋が架けられるようになったのは、経済的に早く橋を架けることが必要であったアメリカでした。
産業革命のころになると、植物性の繊維でつくったケーブルに替わって、鉄のチェーン ケーブルが用いられ、さらに19世紀になると、ワイヤー ケーブルが開発されたのでした。
19世紀後半には、スパン480メートルをこえるブルックリン橋が、1930年代には、何とスパン1000メートルをこえるジョージ ワシントン橋が、アメリカにおいて建設されたのでした。 そして、現在では、スパン1500メートルにもとどく勢いで、吊り橋の技術は発展し続けているのです。 わが国においても、前述の清洲橋のような吊り橋や、もっと大規模な若戸大橋、関門橋や本州四国連絡橋のような吊り橋を見ることができます。 ≫
(江口 敏彦著・山口 廣監修『東京の近代建築・建築構造入門』1990.11.25. 理工学社 「第五章 現代建築と構造技術」)
日本における鉄骨造の建築の起源として、隅田川にかかる永代橋と清洲橋、日本における吊り構造の建築の起源として、清洲橋があげられています。 吊り構造の建築としては、この後、国立屋内総合競技場主体育館・国立屋内総合競技場小体育館が建てられたことが同書には出ています。
《ウィキペディア―丹下健三》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E4%B8%8B%E5%81%A5%E4%B8%89 を見ると、≪1964年(昭和39年)の東京カテドラル聖マリア大聖堂と 東京オリンピック国立屋内総合競技場(正式名称:国立代々木屋内総合競技場)において、自身の建築歴の頂点を極めることになる。両作品ともに、当時の最先端の構造技術を咀嚼しながらも独自の発展を見せ、東京カテドラル聖マリア大聖堂ではHPシェル構造を用い、国立屋内総合競技場では吊り構造を用いて、構造と形態を高度な次元で融合させながら、なおかつ至高性をも表現することに成功したモダンデザインの傑作である。≫と出ています。 もっとも、≪構造と形態を高度な次元で融合させ≫るのはけっこうなことですし、その時代における最先端の技術を試行するのは技術の進歩に貢献する行為ではあるのでしょうけれども、しかし、竣工時から雨漏れがしたり、「建築家」の好みの押しつけで利用者の使い勝手を考えない、宗教施設としての精神性よりも建築技術と「建築家」の好みの意匠の方を優先した東京カテドラル聖マリア大聖堂のあり方はいかがなものかとも思いますし、国立代々木屋内総合競技場も、最近ではかなり弱ってきたようで、どうも、「世界の丹下」の建物は、新技術の導入には積極的でその点に評価はできても、耐久性の点で問題がないとは言えないものが多い印象があります。
その日本における鉄骨造の起源にして吊り構造の起源ともいうべきものらしい清洲橋〔1928年(昭和3年)[満州事変(1931年)の3年前]竣工〕に行ってきましたが、右岸(中央区側)から見たのが↑最初の写真です。
『東京の近代建築・建築構造入門』には、横から撮影した白黒の写真が出ています。 橋の場合、どこか1面となると、横から見える面が選ばれることになるのでしょう。 しかし、その場所に行くと、白鳥でもアヒルでも亀でもない者としては、川の中央部から見ようと思うと、隣の橋から見るか、川を運航する船から見るかしかないのですが、ちょうど妥当な橋が隣にあるかどうかという問題がありますし、船があったとしても運航する船は止まってくれません。 そういうこともあるのですが、行ってみると、そういう問題とは別に、橋は川の側からだけで見るものではなく、通行する側からも見るものではないかとも思えてきます。↑ 橋は川を通る船からも見えるけれども、上を通る人やクルマの乗員からも見えるものですし。 清洲橋通り・新大橋通り・永代橋通り・葛西橋通りといった名称の道路が江東区・墨田区・中央区あたりにあって、前々から清洲橋という名称は聞いてきたのですが・・・・、かっこええやないかあ~あ♪ て思いました。 そう思いませんか? ↑
斜め横から見ても↓
↑ 中央区側(右岸)の上流側(北側)から見たもの。
↑ なかなか、かっこええやないの・・。 ね♪
最寄駅というと、右岸(中央区側)では都営新宿線の「浜町」か東京メトロ半蔵門線の「水天宮前」、左岸(江東区側)では東京メトロ半蔵門線・都営大江戸線の「清澄白河」ということになるでしょうか。
↑ 右岸(中央区側)の橋名表示板のあたりからは、東京スカイツリー が見え、
↑ 左岸(江東区側)の橋名表示板のあたりからは、ひとつ上流の 新大橋 が見えます。新大橋もなかなかかっこいい。(写真は、すべて、クリックすると大きくなります。)
(スカイツリーと新大橋は清澄橋の中央付近からも見えます。)
↑左岸(江東区側)から見たものですが、「吊り構造」の橋だというのですが、↑など見ると、「アーチ」の要素もありそうです・・・・・が、
↑ これとか、
↑ これとか見ると、やっぱり、吊ってますから、「吊り構造」なのでしょう。
「吊り橋」というと、私がこれまでに渡ったり見たりした「吊り橋」としては、1960年代、大阪府柏原市の近鉄南大阪線「道明寺」駅から東の方に進むと、 かつて玉手山公園があったのですが、その途中で石川を渡る吊り橋があり、子供の頃、玉手山公園に連れて行ってもらった際に通ったことがありました。
(↑ たぶん、これだと思うのですが・・・。 もし、違ったら、ごめん。 何十年も前のことなので、今もその頃と同じ橋が架かっているかどうかはわかりません。)
1970年代では、高校生の時に、兵庫県西脇市のJR加古川線「西脇市」駅(私が行った頃は国鉄で「野村」駅と言っていました。)から東に行ったあたりにあった 加古川にかかる吊り橋を渡ったことあります。
(↑ これも、たぶん、これだと思うのですが・・・、やはり、もし、違ったら、ごめん。 高校生の時というと、昨日か一昨日のことのような気がするのですが、もはや、何十年も前のことになってしまったので、今もその頃と同じ橋が架かっているかどうかはわかりません。)
それに、1990年代においては、福島県双葉郡の浪江町だったかの山中にあった吊り橋のたもとまで行ったことがあり、石川にかかっていた橋と 加古川にかかっていた橋は人だけが通る橋で、浪江町の山中にあった橋は人だけだったか普通乗用車くらいは通れたか記憶がはっきりしませんが、ワイヤーで吊ったいかにも「吊り橋」という感じのもので、渡る際にけっこう揺れて、落ちるわけではないけれどもけっこうスリルがある橋でした。 そういった「吊り橋」から考えると、本州四国連絡橋なんて、電車や自動車を通す大型の橋を「吊り橋」でなんて、そんなものできるのか、こわそ~って感じがしますが、清洲橋は「吊り構造」とはいえ、なかなか頑丈です。 あんまり揺れないし、大型のクルマがひっきりなしに通っています。 「吊り構造」の橋にもいろいろあるみたいです。
まず、道明寺駅の東で石川に架かっていた吊り橋や西脇市で旧・野村駅(現・西脇市駅)の南東で加古川に架かっていた吊り橋は、ワイヤーというのか、「針金の太いようなやつ」(もしくは「金属製のロープみたいなやつ」)で吊っていたのです。 それに対して、清洲橋は、↑の写真など見ると、確かに吊ってはいるのですが、「針金の太いようなやつ」で吊っているのではなく、鉄骨で吊っています。 そのあたりにまず違いがあるように思えます。
さらに言いますと。 鹿取茂雄『封印された日本の秘境 特別編集版』(2012.6.20.彩図社)では、「凍結した吊り橋の連続攻撃 五家荘〔ごかのしょう〕(熊本県八代市)には、熊本県八代市の樅木(もみぎ、もみのき)地区にある「あやとり橋」「しゃくなげ橋」の2本の吊り橋、「樅木吊橋」が出ています。
≪ 寒風すさぶ中、2人であやとり橋に近寄る。 うっ・・・・・予想以上に高い。
そして、床板には隙間があり、板の上に積もった雪が凍結している。 ・・・
吊り橋の床板に隙間があるとはいえ、観光地なのだから安全は保証されているはずだ。揺れたって、下が見えたって、とにかく安全なのだ。 そう自分に言い聞かせて、ズカズカと吊り橋の真ん中を歩いていく。
なるべく下を見ないように歩いていると、床板が凍っていて、勢いよく転びそうになった。とっさにワイヤーにしがみついたので転ばなかったが、心臓が止まりそうになった。 身体的なダメージはゼロだったが、精神的なダメージははかり知れない。・・・・・
しゃくなげ橋のほうが日当たりが悪く、さらに激しく凍結していた。なかなか安心させてくれない観光地だ。
あやとり橋に比べると、ずいぶんと低いように見えるのだが、それでも20メートルの高さがある。 高さが半分になっても、高いものは高い。体感的な怖さはあまり変わらないものだなと思いながら、凍結した吊り橋を渡った。 ・・・≫
「ダム湖に沈む予定の秘境 深沢峡(岐阜県加茂郡)」には、木曽川にかかる五月橋が出ている。
≪ 現在かかっている橋は2代目となる五月橋で、ダムの建設にともないかけ直された。・・・・・
五月橋は、これまで歩いてきた獣道に対して、あまりにも立派すぎる鉄骨造りの吊り橋だ。 ただし、立派なのは鉄骨だけで、床板はグレーチング敷き、側溝のフタなどによく使われている、金網状のあれだ。 つまり、足元から木曽川がシースルーで丸見えなのだ。
水面までの高さは結構なもので、ここは通行禁止区間だけに安全はまったく保証されていない。 グレーチングを踏むと、踏む場所によってグレーチングがたわんで沈み込む。 ・・・・
悠々とした流れに見えるこの木曽川だが、水面下40メートルもの渓谷が沈んでいる、橋の真下には大きな赤い岩があり、身投げした多くの人の血で赤く染まったのだと、地元では語られていたという。・・・≫
と出ている。 五家荘の「あやとり橋」「しゃくなげ橋」、深沢峡の五月橋と清澄橋では、吊り橋は吊り橋でも、 ずいぶんと違いがあるものだ。
倉方俊輔・斉藤 理(ただし) 監修・執筆『東京建築ガイドマップ 明治 大正 昭和 1868-1979』(2007.2.20.エクスナレッジ ムック)によると、
清洲橋(きよすばし)は、竣工年:1928年。 設計者名:復興局。 所在:中央区日本橋中洲~江東区清澄1。
≪ 下流の永代橋が「帝都の門」として水面を区画した中で、優美な曲線を描く吊り橋。 近づけば部材の接合部がダイナミックだ。 震災復興の目玉プロジェクトとして、隅田川に架かる橋の中でも最大の予算が投下された。≫ と出ている。 『東京建築ガイドマップ 明治 大正 昭和 1868-1979』には、隅田川に架かる橋では、他に、清洲橋と同じ1928年竣工の永代橋が出ている。
東京建築探偵団『建築探偵術入門 東京・横浜の西洋館230を追跡する』(1986.9.25. 文春文庫ビジュアル版)には、永代橋の近くの食糧ビル(東京廻米問屋市場)(1927。 渡辺虎一・渡辺事務所。 江東区佐賀1-8-13)と相生橋の近くの東京商船大学旧天体観測所(1903年。 三橋四郎。 江東区越中島2)が出ているが、副題が「東京・横浜の西洋館」となっていて、西洋「館」をとりあげる方針の本だからか、橋はどれも出ていません。
≪参考≫
《ウィキペディア―清洲橋》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B4%B2%E6%A9%8B
「清洲橋」は、深川区清住町の「清」と日本橋区中洲町の「洲」を合わせて「清洲」だったらしい。 江東区側に地下鉄の「清澄白河」駅があり、なぜ、橋の名は清澄橋ではなく、清洲橋かと思ったが、合成して名づけられた橋名だったようだ。
≪ 当時世界最美の橋と呼ばれたドイツのケルン市にあったヒンデンブルグ橋の大吊り橋をモデルにしている(その橋は第二次世界大戦で破壊された後、別の橋が再建された為、現在は吊り橋ではない)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を使用して、鋼材の断面を小さくする努力がなされた。もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所でもある。≫
《東京都公園協会 橋をめぐる隅田川―水上散策》https://www.tokyo-park.or.jp/special/mizube/
清洲橋と永代橋、それに勝鬨橋の3つが国の重要文化財に指定されたらしい。
(2015.7.22.)
☆ 「清澄橋 観察」は、4部構成です。
1. 今回。
[次] 2. リベット、色彩、魅せる鉄骨梁 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_2.html
3. ブスは耐久性があるか・建築篇 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_3.html
4. 隅田川遊覧船、新大橋、両国橋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_4.html
☆ 続編「新大橋 観察」2部作
上 黄色がはえる、歩道が広い新大橋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_5.html
下 新大橋と首都高、新大橋由来 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_6.html
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