新大橋(東京都中央区~江東区)観察【上】黄色がはえる、歩道が広い。これも吊橋。
[第338回]隅田川の橋・新大橋。
前回まで4部作にて、隅田川にかかる清洲橋その他をとりあげました。 今回は、清洲橋の上流側にかかる新大橋をとりあげます。
↑ 中央区側(右岸、西側)の橋より少し南から見たもの。
↑ 新大橋は前4回でとりあげた清洲橋より隅田川の上流側、両国橋より下流側に、東京都中央区と江東区の間にかかっています。 新大橋を通る道路は「新大橋通り」と言い、江東区ではその下を都営地下鉄新宿線がとおり、南北の清澄通りとの交差点付近に「森下」、三ツ目通りとの交差点付近に「菊川」、四ツ目通りとの交差点付近に「住吉」、明治通りとの交差点付近に「西大島」、丸八通りとの交差点付近に「大島」、荒川の手前、西側で都営新宿線は地上に出てに「東大島」の駅があり、荒川を橋で渡った後は都営新宿線は新大橋通りと徐々に離れていきます。 隅田川の西、中央区側の都営新宿線の最初の駅は「浜町」ですが、都営新宿線は新大橋の東側(江東区側)(左岸)で新大橋通りと離れて隅田川の下をくぐり、中央区側では都営新宿線は新大橋通りの地下は走りません。
今は昔、1980年代の後半、都営新宿線「大島」駅のすぐ東に東電の変電所があるのですが、変電所内に東電の宿舎があって、その建物の建替工事の際に出入口での交通誘導警備の仕事に2か月程行ったことがあります。 その際、変電所の前の道、都営新宿線が地下を通っている道が「新大橋通り」だったのですが、新大橋ってどこにあるんだろうと思いましたが、ここにありました。


前4回でとりあげた清洲橋を通る通りは「清洲橋通り」で、江東区に入ってすぐの交差点の下に東京メトロ半蔵門線と都営大江戸線の「清澄白河」駅があり、そこからしばらく下を半蔵門線が通りますが、半蔵門線は途中から北上して「住吉」「錦糸町」の方に向かい、江東区内の清洲橋通りの東半分の下は地下鉄は通っていません。清洲橋通りは、江東区内では永代通りや新大橋通りと並行して東西に走っていますが、清洲橋で北西方向に曲がり、中央区内では南東から北西への道となって都営新宿線の「馬喰横山」駅付近で新宿線が下を通り、東神田交差点からは南北の通りとなって台東区に入り、都営大江戸線の「新御徒町」、東京メトロ銀座線の「稲荷町」の上を通り、東京メトロ日比谷線の「入谷」の上付近で昭和通りに合流します。 清洲橋より東では清洲橋通りは東西の通りですが、清洲橋より西になると南北の通りになります。 江東区で永代通りや新大橋通りと並行して東西に走っていた清洲橋通りが、中央区に入ると、新大橋通りと直交するので、江東区で働いた経験があって江東区の通りの名が頭にある者からすると、中央区での清洲橋通りと新大橋通りの関係は面食らいます。
清洲橋より下流にかかる永代橋を通る通りは 「永代通り」で、永代通りの下を東京メトロ東西線が通っており、江東区側に「門前仲町」「東陽町」「木場」「南砂町」といった駅があり、南砂町の東で地上にでて、都営新宿線と同様に荒川は橋で超えます。
新大橋通りの下は、江東区側では都営新宿線が走っていますが、中央区に入ると新大橋通りは都営新宿線とは別れ、水天宮の北を通って(現在は水天宮は建て替え中で、明治座の南付近に仮宮ができていますが)、「茅場町」「八丁堀」「築地」と進み、下を東京メトロ日比谷線が通ります。 築地本願寺の前の道が新大橋通りで、朝日新聞東京本社のあたりで曲がり、浜離宮の横、汐先橋付近で終わりのようです。 江東区内では東西の通りであった清洲橋通りと新大橋通りですが、隅田川を渡って中央区に入ると、清洲橋通りは北西から北に進み、逆に新大橋通りは南西に進みます。
↑の新大橋ですが、清洲橋・永代橋は重要文化財に指定されているのに対し、新大橋はそういう指定はありませんが(永代橋が1926年、清洲橋が1928年竣工〔倉方俊輔・斉藤理『東京建築ガイドマップ 明治 大正昭和 1968-1979』2007.2.20.エクスナレッジ〕と戦前からのものであるのに対し、新大橋は1977年竣工と比較的新しいようです)、なかなかかっこいいですね。 首都高速道路が隅田川の右岸(西側)を南北に走っており、新大橋のすぐ北に両国ジャンクションがあって、東北方面に行く向島線と小松川線といって錦糸町から千葉方面に行く線が分かれますが、北に行く時は両国ジャンクションを間違いなく行きたい方に進むことでせいいっぱい、南に行く時も合流を滞りなく入り、さらにこの後の箱崎ジャンクションで行きたい方に行くことに頭がいっぱいだし、南向きは少々下り坂で、下に川は見えるものの、川の風景なんか運転中は楽しむ余裕はなく、むしろ、も~しも落~ちちゃったらどう~しよ・・・
とか思うと不安の気持の方が大きい。 幸いなことに今まで川に落ちたことはないので今も生きていますが、ここの首都高をクルマで南向きに走る時って、も~しも落~ちちゃったらどう~しよ・・・とか思うし、ここ走ってる時に大地震が来たら、たとえ、首都高がかつての阪神淡路大震災の時に阪神高速が倒壊したみたいに倒壊しなくっても上を走ってるクルマが振り落とされたとしたら、クルマごと隅田川にじゃぶ~ん!てなって・・・その時はどうしたらいいの? 「海ゆかば水漬く屍(かばね)」とか歌うの? ここ海じゃなくて川だけど。
で、首都高を走ってる時は、北行きの時は川なんか見えないが、南行きの時は「落~ちちゃったらどう~しよ」という不安の方が大きいけれども、思い出してみると、たしかに、この橋と川が見えていて、けっこうかっこいいけれども、あれ、どこの橋だろうと思ったことがある記憶が頭のはじっこにありました。 たしかに見えています。 新大橋でした。
↑ 今回、実際に、この新大橋を歩いて渡って見て、いいと思ったのは、この歩道部分の広さです。 最近、もとは人が通る道だった道路がクルマに占拠されてしまったり、また、「クルマは道、ひとは溝」て感じで、U字溝に蓋をしてそこが歩道だとし、本来の道は車道にしてしまっている道がけっこうあります。 1990年代の終わり、栃木県佐野市に転勤で行った時、不動産屋で検討したアパートの近所にバスはないのかと尋ねたところ、昔はバスがあったけれども、みんながクルマに乗るようになったためにバスはなくなっちゃった、と言われたことがあった。 佐野市に限らず、そういう市町村はけっこうあるのではないかと思う。 そして、昼間は道路がクルマに占領されてしまって、そうでなければ歩いて行くような所でもクルマで行くようになり、その結果、さらにクルマが増えてしまう・・という悪循環の市町村があるように思います。
2001年、パリに行って、凱旋門からルーブルに至るシャンゼリゼ大通りを歩いてみて気づいたのは、歩道の広さです。

日本の多くの道路の歩道のように車道が大部分ではじっこに歩道がついているのではない。 歩道のスペースが相当に広い、歩道部分の広さこそシャンゼリゼ大通りのすばらしさだと思います。 いいかげんな広さの歩道を作るから、あるいは、「人は溝の上を歩きなさい。道はクルマが通る所でしょ」みたいなエセ歩道を作るから人は歩かなくなってしまうのだと思うのです。
※《YouTube-♪パリの空の下 ダニエル・ビダル》https://www.youtube.com/watch?v=Ph8BwhEjD_I
《YouTube‐パリの屋根の下 》https://www.youtube.com/watch?v=0p5-J5KfzgI
大阪市の中之島付近で、土佐堀川・堂島川を超える橋で、クルマが通る橋と並行して人専用の橋が架けられていたのを見ました。 それも悪くないと思います(いつか、それもご紹介しましょう)。 しかし、歩行者専用橋があってもいいけれども、だからといって高速道路・自動車専用道でもないのに人は路側帯を歩きなさいみたいな、まるで路側帯みたいな「歩道」がついている橋があっていいかというと良くないと思うのです。 特に、橋はそうでない場所と違って一方が水です。 片や水、片やクルマがびゅんびゅん・・なんて橋は怖くって渡る気にならないですよね。 橋の歩道はある程度広くてこそ、歩いて渡ろうかなという気持ちになると思うのです。 クルマが走る側と逆側に商店が並んでいる場所の歩道とクルマと逆側は橋の下を水が流れているという橋では、片方は橋の下に水が流れているという場所の方が必要とされる歩道の幅は広いと考えるべきだと思います。(エスカレーターも、2人が静止して乗るのに必要な幅と一方が歩いて移動するという乗り方をする場合に必要とされる幅なら、一方が歩いて移動する場合に必要とされる幅の方が必要とされる幅は広いはずですが、2人が静止して乗るという前提の幅で作られているエスカレーターで、「お急ぎの方のために右側をお空けください」とかいうアナウンスを東京圏の鉄道は長くおこなってきたのです。) こういったことを考えた時、この新大橋の歩道は「歩いて渡ろうかという気持ちになれる広さ」があると思ったのです。
↑ 橋の途中には、こんなベンチもあります。
↑ 江東区側(左岸、東側)から見た新大橋。 この街灯は、今一つ、橋と景観がマッチしていないような気がしますが・・・。 写真はクリックすると大きくなるので大きくして見てください。 左に「新大橋」と書かれた札がついています。
清洲橋はいくつもの鉄の棒みたいなので吊っていましたが、それに対して、新大橋は真ん中に黄色の背の高い柱が2本建っていて、そこから長い棒が2本ずつでているだけなので、遠くから見ると、吊り橋ではないのかと思えてみたりもするのですが、
↑ こんなのがその2本の背の高い黄色の柱から出ていて橋の床の部分につながって吊っているので、やっぱり、吊り橋なんですね。 よく見ると、吊り橋は吊り橋でもいろいろな吊り橋があり、又、いろいろな吊り方があるものなんですね。 でも、清洲橋みたいに何本もで吊ってる場合は、補修の時には、1本ずつとりかえるとかできると思うのですが、この新大橋みたいに少ない本数で吊ってる橋って、補修の時、どうすんだろ、1本はずすと橋が川中にぼちゃ~ん! なんてことになったら、どうしよ・・・・・・。
↑ 新大橋から上流側を見たもの。 首都高速道路の両国ジャンクションが見えます。 クルマで走っている時は、運転中、その道路の下がどうなってるかなんて考える余裕がないのですが、こうなっていたのです。
歩道の縁石部分が橋の中央の背の高い黄色の柱に合わせて黄色の色に塗られています。 中央の柱が黄色に塗られているのは、デザイン上だけではなく錆止めの目的もあると思いますが、歩道の縁石の塗装についてはデザインだけが目的でしょう。 こういうものをどう考えるべきか。
リシャット=ムラギルディン『ロシア建築案内』(2002.11.20.TOTO出版)には、イルクーツクの建築のところに、≪ ソ連時代、少しでも主張をもった個性的な建物を設計した、建築家は共産党上層部からクレームが付けられていたが、そんな社会状況のなかでもパーヴロフは独創的な作品をつくり出した。 彼の建築の価値は、作品の建てられた時代のコンテクストのなかでのみ測ることができる。 ソ連の建築家の大半が“ 冬眠 ”していた時代、パーブロフは精力的に独自の形を追求し、画一的な建築用の構法と建材を用いながらも新たなるものを模索し続けていた。 ・・・・≫と出ている。 2000年にイルクーツクに行った時、宿泊したキーロフ広場の東のアンガラホテルの窓からキーロフ広場をへだてた向かいになんとも独創的なビルが建っていたが、

あれは何だろうと思ってみていたのだが、リシャット=ムラギルディン『ロシア建築案内』によると、V=パーブロフ設計の 「高足」のオフィスビル だったようだ。 使いやすいか否かはわからない。 ≪少しでも主張をもった個性的な建物を設計した、建築家は共産党上層部からクレームが付けられていた≫というのは、スターリンの時代なのかフルシチョフの方の時代なのか、どちらだったのでしょう。 ゴルバチョフがペレストロイカといってソ連社会主義体制内での「自由化」を計った時、「二人のチョフ」と言って、フルシチョフとゴルバチョフの2人が、それまでのスターリン・ブレジネフという批判も多い「ソ連社会帝国主義」「ソ連官僚制共産主義」を推し進めた(?)頑固派・強硬派の後を次いで書記長になり、ソ連社会主義体制内での「自由化」を計った書記長としてと新聞に書かれていたのを見たことがある。その点から考えると、寛容なのはフルシチョフの時代で強硬だったのはスターリンの時代だったのか・・・と思いがちではあるが、しかし、『ロシア建築案内』の別の箇所を見ると、≪ロシアの歴史を通じ、スターリンの時代はもっとも象徴性の強い建築モニュメントを残した。 国民を挙げて、「未来の殿堂」づくりに励んだ。 ・・・・≫といい、そして、逆に、その後のフルシチョフの時代になると、≪ 「国民の大半が貧相な家屋に住んでいるというのに、これ以上宮殿のような建築は建てる訳にはいかない。」というフルシチョフの発言はある種のスローガンとなり、当時数世帯が共同入居していた一般市民の居住環境の改善策として、世帯ごとにアパートを供給するという一代国家プロジェクトが展開し始めた。 経済性と機能性、そして飾り気のなさを美徳としたこの時代、設計公団や各種研究所は、経済効率の高いローコスト住居の設計や構造開発に熱心に取り組んだ。≫と書かれている。となると、むしろ、≪少しでも主張をもった個性的な建物を設計した、建築家≫が圧迫されたのはフルシチョフの方の時代ということになるのだろうか。
それで、だ。 ≪少しでも主張をもった個性的な建物≫とそれを設計した建築家が弾圧されるというのがいいとは思わない。 しかし、一方で、「世界に住む家がなく困っている人たちが今も存在するのに、構造と機能において必要がない装飾・意匠にあまりにも費用をかける建築 というのを肯定して良いのだろうか」という問題は、経済体制がどちらの経済体制を取るかにかかわらず、建築に携わる者は考えてみるべき問題ではないかとも思うのだ。 だいたいやねえ~え、清掃とメンテナンスに「普通の建物」の3倍の費用がかかるという東京都庁舎て、東京都民はそれを維持していくだけのカネをなんで払わにゃならんの??? て考えてみたことありますか? 構造と機能に関係のない装飾・意匠にカネをかける建物というのは、金持ちが自分で費用を出して建てる場合、企業が変わった建物だからということで人の注目を呼んでその結果として、「コストと利益を比較較量して」考えるとあけって利益は多くなった・・・という結果を目指してコストをかけるという場合なら良いとして、公共建築において都民の税金でカネかけて建てて都民の税金でメンテナンスや清掃の費用にも通常以上のカネかける、というのは、はたして、「世界の丹下」の建物であったとしても良いのだろうか、と疑問も感じるわけです。 今でも、次期東京オリンピックを目指して建てられるという国立競技場がカネがかかりすぎるのではないのかといった話題が出ています。
≪ イエスがベタニアで籟者シモンの家におられると、高価な香油の壺を持ってひとりの女が近より、食卓につかれた彼の頭に注ぎかけた。 弟子たちはそれを見ていきどおっていう、「このぜいたくは何のためか。 これは高く売れて貧しい人々に施せたのに」と。 ≫(『新約聖書 マタイ福音書』26章6節‐9節 前田護郎訳 〔責任編集 前田護郎『世界の名著 聖書』1978.9.10.中公バックス 所収〕 )
≪ 示して云く、故僧正(栄西)建仁寺におはせし時、独り貧人来りて云く、我が家(いへ)貧ふして絶煙数日におよぶ。 夫婦子息両三人餓死しなんとす。 慈悲を以て是を救ひ給へと云ふ。 其の時房中に都(すべ)て衣食(えじき)財物等無し。 思慮をめぐらすに計略(センカタ)つきぬ。 時に薬師の像を造らんとて光の料に打(うち)のべたる銅少分ありき。 是れを取て(とりて)自ら(みづから)打(うち)をり、束ねまるめて彼の貧客にあたへて云く、是を以て食物にかへて餓をふさぐべしと。 彼の俗よろこんで退出しぬ。 時に門弟子等難じて云く、正しく是れ仏像の光なり。 これを以て俗人に与ふ。 仏物己用(ぶつもつこよう)の罪如何ん。 僧正の云く、誠に然り。 但し仏意(ぶっち)を思ふに仏は身肉手足(しんにくしゅそく)を割きて衆生に施せり。 現に餓死すべき衆生には設ひ(たとひ)仏の全体を以て与ふるとも仏意(ぶっち)に合ふ(かなふ)べし。 亦云く、我れは此の罪に依て悪趣に堕すべくとも、只衆生の飢へを救ふべしと云云。 ・・・・・≫(懐奘 編『正法眼蔵随聞記』 和辻哲郎校訂 1929.第1刷。 1982.第45刷改版。 岩波文庫)
福島県東部中部で放射能汚染の被害にあっている地域に今も住んでいて移住できずにいる人がいるのに、その人たちが移住できるように宿舎を建てるのではなく、オリンピックという生活必需品ではないもののためにカネをかけるというのはどういうことか、という点もあるだろう。
それもあるけれども。 「構造と機能の上で必要がない部分に費用をかける建築」をどう考えるべきか。 今も住む家がなくて困っている人が世界にいる以上、構造と機能に必要がない部分に費用をかける建築はいかに「名建築家の作品」であれ害があると考えるべきではないのか。 しかし、そうなると、少しだけでも費用をかけることができればデザインの優れた建物にできるのにそれをしてはならないということか。 少しでも構造と機能以外の部分に費用をかけることは許されないのか。
こういった問題は、社会主義経済であるのか資本制経済であるのかにかかわらず、建築に携わる人間は考えずに通ることはできない問題ではないかと思う。 ↑の縁石の部分に黄色を塗装するというのも、構造と機能の上では必要ないものであろう。 しかし、これだけ塗るのにどれだけかかるかというと、橋全体の費用から考えるとそれほど大きな金額でもないのではないかと思うのだ。 「少しでも主張をもった個性的な建物を許さないというのが正しいのか」、「今、世界で住む家がなくて困っている人がいるのに、構造・機能と関係のない部分で費用をかける建物を認めるべきか」。 これはいずれが絶対に正しい・間違っているということではなく、「少しでも」というところを考えるべきではないだろうか。 もっとも、どこまでが「少し」かという問題もあるだろうけれども。
少しでも個性的な建物は許さないというのは正しいとは言い難いし、構造と機能に関係のない部分には少しでも費用をかけてはならないとまで言うのが正しいとは言えないであろうけれども、だからといって、今も世界には住む家もなく困っている人がいるという状況で構造と機能の上で必要のない部分にカネをかける建物というのを果てしなく認めて良いのかというと、そういうことではないとも思うのだ。
で、結論になっていないかもしれないけれども、「程度の問題」というのもあると思うのだ。 ↑の新大橋の歩道の縁石に黄色の塗装がなされているのは、この程度の費用ならかけるのを認めても良いかと思うのだが、どうだろう。 こっからこっちは歩道だよ、と橋を通行するクルマの運転者に注意喚起するという意味合いもあるので、機能がないというわけでもないし。
もしも、構造と機能の上で必要とされない装飾・意匠はまったくおこなってはならない、としてしまうのなら、絵画や彫刻といった美術作品は存在してはならないことになってしまう。それがいいかというとそうでもないように思う。 だから、「程度の問題」はあり、構造と機能に関係のない装飾にあまりにも費用をかける建築は経済学的に見て社会的に見て好ましいとは言えないが、構造と機能と関係のない装飾・意匠を少しでも取り入れてはならないとまですることもないのではないか。
「構造と機能に関係のない装飾にあまりにも費用をかける建築」を肯定したくないもうひとつ別の理由がある。 それは、目的とする機能を実現するために経済性も配慮した上で構造に問題のないものを作り上げる過程で美しさを実現するというのが建築の美しさであって、もし、構造と機能に関係のない部分の装飾に膨大な費用をかけて美しさを実現できたとしても、それは装飾の美しさであって建築の美しさではない、はずだからだ。
そうでしょ。 そう思いませんか?
(2015.7.27.)
千葉県から京葉道路を通って首都高速道路小松川線を西に進み、両国ジャンクションで北から来た首都高速道路向島線と合流してすぐの所で左下にこの黄色い支柱の新大橋が見えます。 この黄色い支柱の橋が何橋か知らなければそこがどのあたりかわからないのですが、新大橋だと知ってからは首都高速道路小松川線が向島線と合流してすぐの場所が新大橋のすぐ北の所なんだとわかるようになりました。高速道路および首都高速道路(運転免許を取り立ての頃は知らなかったのですが、首都高速道路は道路の分類上はあくまでも自動車専用道であって「高速道路」ではないらしい。あれ、首都「高速道路」という名前、よくないと思う。首都「高速道路」なんて名前をつけるから高速で走らなきゃならないみたいに思ってしまうのだと思う。首都「高速道路」というのは道路の分類上は「高速道路」ではないから高速で走らないといけないということはないのです。)を運転中、車外の景色なんか見ていたら事故を起こすから普通は見れませんが、千葉方面から西に来て両国ジャンクションで小松川線と向島線が合流してすぐの所は進行方向の左下に自然と目に入りますから、その橋の右側(西側)は中央区の浜町付近、JR総部快速線「馬喰町」・都営浅草線「東日本橋」・都営新宿線「馬喰横山」の3駅が三角形に組み合わさっている所の少し南で左側(東側)は地下を都営新宿線が走っていて東に行くと大島(おおじま)のあたりに行く新大橋通りの新大橋のすぐ北にいるんだな、とわかります。
(2025.4.20.)
☆ 新大橋 観察 は2部作。
[第339回]【下】新大橋と首都高、新大橋由来、他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_6.html
に続きます。 読んでね♪
☆ 新大橋観察は、前4回の清洲橋観察の続編の性質があります。 清洲橋観察も、
【1】なかなかかっこいい清洲橋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_1.html
【2】リベット接合、魅せる鉄骨梁 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_2.html
【3】ブスは耐久性があるかの考察・建築編 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_3.html
【4】隅田川遊覧船、首都高入口 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_4.html
も、ぜひ見てください。
前回まで4部作にて、隅田川にかかる清洲橋その他をとりあげました。 今回は、清洲橋の上流側にかかる新大橋をとりあげます。
↑ 中央区側(右岸、西側)の橋より少し南から見たもの。
↑ 新大橋は前4回でとりあげた清洲橋より隅田川の上流側、両国橋より下流側に、東京都中央区と江東区の間にかかっています。 新大橋を通る道路は「新大橋通り」と言い、江東区ではその下を都営地下鉄新宿線がとおり、南北の清澄通りとの交差点付近に「森下」、三ツ目通りとの交差点付近に「菊川」、四ツ目通りとの交差点付近に「住吉」、明治通りとの交差点付近に「西大島」、丸八通りとの交差点付近に「大島」、荒川の手前、西側で都営新宿線は地上に出てに「東大島」の駅があり、荒川を橋で渡った後は都営新宿線は新大橋通りと徐々に離れていきます。 隅田川の西、中央区側の都営新宿線の最初の駅は「浜町」ですが、都営新宿線は新大橋の東側(江東区側)(左岸)で新大橋通りと離れて隅田川の下をくぐり、中央区側では都営新宿線は新大橋通りの地下は走りません。
今は昔、1980年代の後半、都営新宿線「大島」駅のすぐ東に東電の変電所があるのですが、変電所内に東電の宿舎があって、その建物の建替工事の際に出入口での交通誘導警備の仕事に2か月程行ったことがあります。 その際、変電所の前の道、都営新宿線が地下を通っている道が「新大橋通り」だったのですが、新大橋ってどこにあるんだろうと思いましたが、ここにありました。
前4回でとりあげた清洲橋を通る通りは「清洲橋通り」で、江東区に入ってすぐの交差点の下に東京メトロ半蔵門線と都営大江戸線の「清澄白河」駅があり、そこからしばらく下を半蔵門線が通りますが、半蔵門線は途中から北上して「住吉」「錦糸町」の方に向かい、江東区内の清洲橋通りの東半分の下は地下鉄は通っていません。清洲橋通りは、江東区内では永代通りや新大橋通りと並行して東西に走っていますが、清洲橋で北西方向に曲がり、中央区内では南東から北西への道となって都営新宿線の「馬喰横山」駅付近で新宿線が下を通り、東神田交差点からは南北の通りとなって台東区に入り、都営大江戸線の「新御徒町」、東京メトロ銀座線の「稲荷町」の上を通り、東京メトロ日比谷線の「入谷」の上付近で昭和通りに合流します。 清洲橋より東では清洲橋通りは東西の通りですが、清洲橋より西になると南北の通りになります。 江東区で永代通りや新大橋通りと並行して東西に走っていた清洲橋通りが、中央区に入ると、新大橋通りと直交するので、江東区で働いた経験があって江東区の通りの名が頭にある者からすると、中央区での清洲橋通りと新大橋通りの関係は面食らいます。
清洲橋より下流にかかる永代橋を通る通りは 「永代通り」で、永代通りの下を東京メトロ東西線が通っており、江東区側に「門前仲町」「東陽町」「木場」「南砂町」といった駅があり、南砂町の東で地上にでて、都営新宿線と同様に荒川は橋で超えます。
新大橋通りの下は、江東区側では都営新宿線が走っていますが、中央区に入ると新大橋通りは都営新宿線とは別れ、水天宮の北を通って(現在は水天宮は建て替え中で、明治座の南付近に仮宮ができていますが)、「茅場町」「八丁堀」「築地」と進み、下を東京メトロ日比谷線が通ります。 築地本願寺の前の道が新大橋通りで、朝日新聞東京本社のあたりで曲がり、浜離宮の横、汐先橋付近で終わりのようです。 江東区内では東西の通りであった清洲橋通りと新大橋通りですが、隅田川を渡って中央区に入ると、清洲橋通りは北西から北に進み、逆に新大橋通りは南西に進みます。
↑の新大橋ですが、清洲橋・永代橋は重要文化財に指定されているのに対し、新大橋はそういう指定はありませんが(永代橋が1926年、清洲橋が1928年竣工〔倉方俊輔・斉藤理『東京建築ガイドマップ 明治 大正昭和 1968-1979』2007.2.20.エクスナレッジ〕と戦前からのものであるのに対し、新大橋は1977年竣工と比較的新しいようです)、なかなかかっこいいですね。 首都高速道路が隅田川の右岸(西側)を南北に走っており、新大橋のすぐ北に両国ジャンクションがあって、東北方面に行く向島線と小松川線といって錦糸町から千葉方面に行く線が分かれますが、北に行く時は両国ジャンクションを間違いなく行きたい方に進むことでせいいっぱい、南に行く時も合流を滞りなく入り、さらにこの後の箱崎ジャンクションで行きたい方に行くことに頭がいっぱいだし、南向きは少々下り坂で、下に川は見えるものの、川の風景なんか運転中は楽しむ余裕はなく、むしろ、も~しも落~ちちゃったらどう~しよ・・・

で、首都高を走ってる時は、北行きの時は川なんか見えないが、南行きの時は「落~ちちゃったらどう~しよ」という不安の方が大きいけれども、思い出してみると、たしかに、この橋と川が見えていて、けっこうかっこいいけれども、あれ、どこの橋だろうと思ったことがある記憶が頭のはじっこにありました。 たしかに見えています。 新大橋でした。
↑ 今回、実際に、この新大橋を歩いて渡って見て、いいと思ったのは、この歩道部分の広さです。 最近、もとは人が通る道だった道路がクルマに占拠されてしまったり、また、「クルマは道、ひとは溝」て感じで、U字溝に蓋をしてそこが歩道だとし、本来の道は車道にしてしまっている道がけっこうあります。 1990年代の終わり、栃木県佐野市に転勤で行った時、不動産屋で検討したアパートの近所にバスはないのかと尋ねたところ、昔はバスがあったけれども、みんながクルマに乗るようになったためにバスはなくなっちゃった、と言われたことがあった。 佐野市に限らず、そういう市町村はけっこうあるのではないかと思う。 そして、昼間は道路がクルマに占領されてしまって、そうでなければ歩いて行くような所でもクルマで行くようになり、その結果、さらにクルマが増えてしまう・・という悪循環の市町村があるように思います。
2001年、パリに行って、凱旋門からルーブルに至るシャンゼリゼ大通りを歩いてみて気づいたのは、歩道の広さです。
日本の多くの道路の歩道のように車道が大部分ではじっこに歩道がついているのではない。 歩道のスペースが相当に広い、歩道部分の広さこそシャンゼリゼ大通りのすばらしさだと思います。 いいかげんな広さの歩道を作るから、あるいは、「人は溝の上を歩きなさい。道はクルマが通る所でしょ」みたいなエセ歩道を作るから人は歩かなくなってしまうのだと思うのです。
※《YouTube-♪パリの空の下 ダニエル・ビダル》https://www.youtube.com/watch?v=Ph8BwhEjD_I
《YouTube‐パリの屋根の下 》https://www.youtube.com/watch?v=0p5-J5KfzgI
大阪市の中之島付近で、土佐堀川・堂島川を超える橋で、クルマが通る橋と並行して人専用の橋が架けられていたのを見ました。 それも悪くないと思います(いつか、それもご紹介しましょう)。 しかし、歩行者専用橋があってもいいけれども、だからといって高速道路・自動車専用道でもないのに人は路側帯を歩きなさいみたいな、まるで路側帯みたいな「歩道」がついている橋があっていいかというと良くないと思うのです。 特に、橋はそうでない場所と違って一方が水です。 片や水、片やクルマがびゅんびゅん・・なんて橋は怖くって渡る気にならないですよね。 橋の歩道はある程度広くてこそ、歩いて渡ろうかなという気持ちになると思うのです。 クルマが走る側と逆側に商店が並んでいる場所の歩道とクルマと逆側は橋の下を水が流れているという橋では、片方は橋の下に水が流れているという場所の方が必要とされる歩道の幅は広いと考えるべきだと思います。(エスカレーターも、2人が静止して乗るのに必要な幅と一方が歩いて移動するという乗り方をする場合に必要とされる幅なら、一方が歩いて移動する場合に必要とされる幅の方が必要とされる幅は広いはずですが、2人が静止して乗るという前提の幅で作られているエスカレーターで、「お急ぎの方のために右側をお空けください」とかいうアナウンスを東京圏の鉄道は長くおこなってきたのです。) こういったことを考えた時、この新大橋の歩道は「歩いて渡ろうかという気持ちになれる広さ」があると思ったのです。
↑ 橋の途中には、こんなベンチもあります。
↑ 江東区側(左岸、東側)から見た新大橋。 この街灯は、今一つ、橋と景観がマッチしていないような気がしますが・・・。 写真はクリックすると大きくなるので大きくして見てください。 左に「新大橋」と書かれた札がついています。
清洲橋はいくつもの鉄の棒みたいなので吊っていましたが、それに対して、新大橋は真ん中に黄色の背の高い柱が2本建っていて、そこから長い棒が2本ずつでているだけなので、遠くから見ると、吊り橋ではないのかと思えてみたりもするのですが、
↑ こんなのがその2本の背の高い黄色の柱から出ていて橋の床の部分につながって吊っているので、やっぱり、吊り橋なんですね。 よく見ると、吊り橋は吊り橋でもいろいろな吊り橋があり、又、いろいろな吊り方があるものなんですね。 でも、清洲橋みたいに何本もで吊ってる場合は、補修の時には、1本ずつとりかえるとかできると思うのですが、この新大橋みたいに少ない本数で吊ってる橋って、補修の時、どうすんだろ、1本はずすと橋が川中にぼちゃ~ん! なんてことになったら、どうしよ・・・・・・。
↑ 新大橋から上流側を見たもの。 首都高速道路の両国ジャンクションが見えます。 クルマで走っている時は、運転中、その道路の下がどうなってるかなんて考える余裕がないのですが、こうなっていたのです。
歩道の縁石部分が橋の中央の背の高い黄色の柱に合わせて黄色の色に塗られています。 中央の柱が黄色に塗られているのは、デザイン上だけではなく錆止めの目的もあると思いますが、歩道の縁石の塗装についてはデザインだけが目的でしょう。 こういうものをどう考えるべきか。
リシャット=ムラギルディン『ロシア建築案内』(2002.11.20.TOTO出版)には、イルクーツクの建築のところに、≪ ソ連時代、少しでも主張をもった個性的な建物を設計した、建築家は共産党上層部からクレームが付けられていたが、そんな社会状況のなかでもパーヴロフは独創的な作品をつくり出した。 彼の建築の価値は、作品の建てられた時代のコンテクストのなかでのみ測ることができる。 ソ連の建築家の大半が“ 冬眠 ”していた時代、パーブロフは精力的に独自の形を追求し、画一的な建築用の構法と建材を用いながらも新たなるものを模索し続けていた。 ・・・・≫と出ている。 2000年にイルクーツクに行った時、宿泊したキーロフ広場の東のアンガラホテルの窓からキーロフ広場をへだてた向かいになんとも独創的なビルが建っていたが、
あれは何だろうと思ってみていたのだが、リシャット=ムラギルディン『ロシア建築案内』によると、V=パーブロフ設計の 「高足」のオフィスビル だったようだ。 使いやすいか否かはわからない。 ≪少しでも主張をもった個性的な建物を設計した、建築家は共産党上層部からクレームが付けられていた≫というのは、スターリンの時代なのかフルシチョフの方の時代なのか、どちらだったのでしょう。 ゴルバチョフがペレストロイカといってソ連社会主義体制内での「自由化」を計った時、「二人のチョフ」と言って、フルシチョフとゴルバチョフの2人が、それまでのスターリン・ブレジネフという批判も多い「ソ連社会帝国主義」「ソ連官僚制共産主義」を推し進めた(?)頑固派・強硬派の後を次いで書記長になり、ソ連社会主義体制内での「自由化」を計った書記長としてと新聞に書かれていたのを見たことがある。その点から考えると、寛容なのはフルシチョフの時代で強硬だったのはスターリンの時代だったのか・・・と思いがちではあるが、しかし、『ロシア建築案内』の別の箇所を見ると、≪ロシアの歴史を通じ、スターリンの時代はもっとも象徴性の強い建築モニュメントを残した。 国民を挙げて、「未来の殿堂」づくりに励んだ。 ・・・・≫といい、そして、逆に、その後のフルシチョフの時代になると、≪ 「国民の大半が貧相な家屋に住んでいるというのに、これ以上宮殿のような建築は建てる訳にはいかない。」というフルシチョフの発言はある種のスローガンとなり、当時数世帯が共同入居していた一般市民の居住環境の改善策として、世帯ごとにアパートを供給するという一代国家プロジェクトが展開し始めた。 経済性と機能性、そして飾り気のなさを美徳としたこの時代、設計公団や各種研究所は、経済効率の高いローコスト住居の設計や構造開発に熱心に取り組んだ。≫と書かれている。となると、むしろ、≪少しでも主張をもった個性的な建物を設計した、建築家≫が圧迫されたのはフルシチョフの方の時代ということになるのだろうか。
それで、だ。 ≪少しでも主張をもった個性的な建物≫とそれを設計した建築家が弾圧されるというのがいいとは思わない。 しかし、一方で、「世界に住む家がなく困っている人たちが今も存在するのに、構造と機能において必要がない装飾・意匠にあまりにも費用をかける建築 というのを肯定して良いのだろうか」という問題は、経済体制がどちらの経済体制を取るかにかかわらず、建築に携わる者は考えてみるべき問題ではないかとも思うのだ。 だいたいやねえ~え、清掃とメンテナンスに「普通の建物」の3倍の費用がかかるという東京都庁舎て、東京都民はそれを維持していくだけのカネをなんで払わにゃならんの??? て考えてみたことありますか? 構造と機能に関係のない装飾・意匠にカネをかける建物というのは、金持ちが自分で費用を出して建てる場合、企業が変わった建物だからということで人の注目を呼んでその結果として、「コストと利益を比較較量して」考えるとあけって利益は多くなった・・・という結果を目指してコストをかけるという場合なら良いとして、公共建築において都民の税金でカネかけて建てて都民の税金でメンテナンスや清掃の費用にも通常以上のカネかける、というのは、はたして、「世界の丹下」の建物であったとしても良いのだろうか、と疑問も感じるわけです。 今でも、次期東京オリンピックを目指して建てられるという国立競技場がカネがかかりすぎるのではないのかといった話題が出ています。
≪ イエスがベタニアで籟者シモンの家におられると、高価な香油の壺を持ってひとりの女が近より、食卓につかれた彼の頭に注ぎかけた。 弟子たちはそれを見ていきどおっていう、「このぜいたくは何のためか。 これは高く売れて貧しい人々に施せたのに」と。 ≫(『新約聖書 マタイ福音書』26章6節‐9節 前田護郎訳 〔責任編集 前田護郎『世界の名著 聖書』1978.9.10.中公バックス 所収〕 )
≪ 示して云く、故僧正(栄西)建仁寺におはせし時、独り貧人来りて云く、我が家(いへ)貧ふして絶煙数日におよぶ。 夫婦子息両三人餓死しなんとす。 慈悲を以て是を救ひ給へと云ふ。 其の時房中に都(すべ)て衣食(えじき)財物等無し。 思慮をめぐらすに計略(センカタ)つきぬ。 時に薬師の像を造らんとて光の料に打(うち)のべたる銅少分ありき。 是れを取て(とりて)自ら(みづから)打(うち)をり、束ねまるめて彼の貧客にあたへて云く、是を以て食物にかへて餓をふさぐべしと。 彼の俗よろこんで退出しぬ。 時に門弟子等難じて云く、正しく是れ仏像の光なり。 これを以て俗人に与ふ。 仏物己用(ぶつもつこよう)の罪如何ん。 僧正の云く、誠に然り。 但し仏意(ぶっち)を思ふに仏は身肉手足(しんにくしゅそく)を割きて衆生に施せり。 現に餓死すべき衆生には設ひ(たとひ)仏の全体を以て与ふるとも仏意(ぶっち)に合ふ(かなふ)べし。 亦云く、我れは此の罪に依て悪趣に堕すべくとも、只衆生の飢へを救ふべしと云云。 ・・・・・≫(懐奘 編『正法眼蔵随聞記』 和辻哲郎校訂 1929.第1刷。 1982.第45刷改版。 岩波文庫)
福島県東部中部で放射能汚染の被害にあっている地域に今も住んでいて移住できずにいる人がいるのに、その人たちが移住できるように宿舎を建てるのではなく、オリンピックという生活必需品ではないもののためにカネをかけるというのはどういうことか、という点もあるだろう。
それもあるけれども。 「構造と機能の上で必要がない部分に費用をかける建築」をどう考えるべきか。 今も住む家がなくて困っている人が世界にいる以上、構造と機能に必要がない部分に費用をかける建築はいかに「名建築家の作品」であれ害があると考えるべきではないのか。 しかし、そうなると、少しだけでも費用をかけることができればデザインの優れた建物にできるのにそれをしてはならないということか。 少しでも構造と機能以外の部分に費用をかけることは許されないのか。
こういった問題は、社会主義経済であるのか資本制経済であるのかにかかわらず、建築に携わる人間は考えずに通ることはできない問題ではないかと思う。 ↑の縁石の部分に黄色を塗装するというのも、構造と機能の上では必要ないものであろう。 しかし、これだけ塗るのにどれだけかかるかというと、橋全体の費用から考えるとそれほど大きな金額でもないのではないかと思うのだ。 「少しでも主張をもった個性的な建物を許さないというのが正しいのか」、「今、世界で住む家がなくて困っている人がいるのに、構造・機能と関係のない部分で費用をかける建物を認めるべきか」。 これはいずれが絶対に正しい・間違っているということではなく、「少しでも」というところを考えるべきではないだろうか。 もっとも、どこまでが「少し」かという問題もあるだろうけれども。
少しでも個性的な建物は許さないというのは正しいとは言い難いし、構造と機能に関係のない部分には少しでも費用をかけてはならないとまで言うのが正しいとは言えないであろうけれども、だからといって、今も世界には住む家もなく困っている人がいるという状況で構造と機能の上で必要のない部分にカネをかける建物というのを果てしなく認めて良いのかというと、そういうことではないとも思うのだ。
で、結論になっていないかもしれないけれども、「程度の問題」というのもあると思うのだ。 ↑の新大橋の歩道の縁石に黄色の塗装がなされているのは、この程度の費用ならかけるのを認めても良いかと思うのだが、どうだろう。 こっからこっちは歩道だよ、と橋を通行するクルマの運転者に注意喚起するという意味合いもあるので、機能がないというわけでもないし。
もしも、構造と機能の上で必要とされない装飾・意匠はまったくおこなってはならない、としてしまうのなら、絵画や彫刻といった美術作品は存在してはならないことになってしまう。それがいいかというとそうでもないように思う。 だから、「程度の問題」はあり、構造と機能に関係のない装飾にあまりにも費用をかける建築は経済学的に見て社会的に見て好ましいとは言えないが、構造と機能と関係のない装飾・意匠を少しでも取り入れてはならないとまですることもないのではないか。
「構造と機能に関係のない装飾にあまりにも費用をかける建築」を肯定したくないもうひとつ別の理由がある。 それは、目的とする機能を実現するために経済性も配慮した上で構造に問題のないものを作り上げる過程で美しさを実現するというのが建築の美しさであって、もし、構造と機能に関係のない部分の装飾に膨大な費用をかけて美しさを実現できたとしても、それは装飾の美しさであって建築の美しさではない、はずだからだ。
そうでしょ。 そう思いませんか?
(2015.7.27.)
千葉県から京葉道路を通って首都高速道路小松川線を西に進み、両国ジャンクションで北から来た首都高速道路向島線と合流してすぐの所で左下にこの黄色い支柱の新大橋が見えます。 この黄色い支柱の橋が何橋か知らなければそこがどのあたりかわからないのですが、新大橋だと知ってからは首都高速道路小松川線が向島線と合流してすぐの場所が新大橋のすぐ北の所なんだとわかるようになりました。高速道路および首都高速道路(運転免許を取り立ての頃は知らなかったのですが、首都高速道路は道路の分類上はあくまでも自動車専用道であって「高速道路」ではないらしい。あれ、首都「高速道路」という名前、よくないと思う。首都「高速道路」なんて名前をつけるから高速で走らなきゃならないみたいに思ってしまうのだと思う。首都「高速道路」というのは道路の分類上は「高速道路」ではないから高速で走らないといけないということはないのです。)を運転中、車外の景色なんか見ていたら事故を起こすから普通は見れませんが、千葉方面から西に来て両国ジャンクションで小松川線と向島線が合流してすぐの所は進行方向の左下に自然と目に入りますから、その橋の右側(西側)は中央区の浜町付近、JR総部快速線「馬喰町」・都営浅草線「東日本橋」・都営新宿線「馬喰横山」の3駅が三角形に組み合わさっている所の少し南で左側(東側)は地下を都営新宿線が走っていて東に行くと大島(おおじま)のあたりに行く新大橋通りの新大橋のすぐ北にいるんだな、とわかります。
(2025.4.20.)
☆ 新大橋 観察 は2部作。
[第339回]【下】新大橋と首都高、新大橋由来、他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_6.html
に続きます。 読んでね♪
☆ 新大橋観察は、前4回の清洲橋観察の続編の性質があります。 清洲橋観察も、
【1】なかなかかっこいい清洲橋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_1.html
【2】リベット接合、魅せる鉄骨梁 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_2.html
【3】ブスは耐久性があるかの考察・建築編 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_3.html
【4】隅田川遊覧船、首都高入口 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201507article_4.html
も、ぜひ見てください。
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