旧荒井家主屋と旧高木家長屋門[狛江市立古民家園](狛江市)[上]旧荒井家主屋―日本全国民家の旅(1)
[第346回]日本全国民家の旅(1)
このブログでも、今まで、「民家」「古民家」と言われる住宅を何軒か取りあげてきましたが、日本全国民家の旅シリーズとして、この回から番号を(1)から振って進めたいと思います。
「古民家の旅」ではなく「民家の旅」としたのは、そもそも、「古民家」と「民家」をどこで分けるかという問題があって、「古民家」の「古」を「古い」「古くさい」という意味ではなく「古典的」「クラシック」という意味としたとしても、それでも、今もその建物と同様の建物に住んでいる方は何人もおられるわけで、そういう家を「古典的」と呼んだとして、「現代的」な建物で設計者が相当に工夫を凝らし知恵を働かせたものは、作成された日が浅いから「古典的」ではないのかということになってしまう。
もし、「古」を「古典的」ではあるが「前時代的」「時代遅れ」という意味で使うなら、最近、今までになかった造り方で作られたようなものは、「前時代的」ではないのか、「時代遅れ」ではないのかというと、どちらが「前時代的」「時代遅れ」かわからないようなケースもあるように思うのです。 今は昔、慶應義塾大学の大学生であった時、文学部の学生の某さんが小此木啓吾の少人数の講義だか研究会だかに参加し、そこで、彼が長く評価してきたロナルド=レインについて話したところ、慶應義塾大学医学部助教授の小此木啓吾さんは、「レインは時代遅れです」とおっしゃったそうなのです。そう言われて某さんは相当ショックを受けたと話したので、某さん以上にロナルド=レインを高く評価し、小此木啓吾はむしろ害があると思っていた私は、某さんに「小此木啓吾はもっと時代遅れです」と言ってあげたことがありました。 それから何年か経ち、小此木啓吾が他界し、さらに何年か経ちました。ロナルド=レインの『家族の政治学』『狂気と家族』などの著作は、家族のあり方を考える上での古典として今も存在していますが、小此木啓吾の「モラトリアム人間」だの「ピーターパンシンドローム」だの「ウェンディジレンマ」だの「青い鳥症候群」だのといったその時代の権力・体制にこびる著作、「『精神医学的』レッテル」はすたれ忘れ去られようとしています。〔10代・20代の時期に、社会の在り方や人間の在り方について真剣に考えるような者を「モラトリアム人間」だと罵り、「見る前に飛べ」と「お国のために」「会社のために」とってちってたあ~あ! と滅私奉公させようという小此木「モラトリアム人間」論は、おのれのことを棚にあげてひとに「とってちってたあ~あ」と言いたいオヤジ、及び若オヤジにもてはやされましたが、その後、「フリーター」といって最終学校卒業後も一定の職業につかずにアルバイト生活をする者がいた方が、企業にとって都合がいいということになると、「医学」だと称しての体制側の理論創出者 小此木啓吾は「モラトリアム人間」論はひっこめざるをえなくなった・・・みたいなところでしょう。〕 そんなものだと思うのです。〔 ひとつには、精神分析学は、ヨーロッパにおいて、「精神異常者」とされた人を抑圧し社会から封じ込めるという性質の体制精神医学に対する反逆児として生まれた(フロイト、フロム、ライヒなど)が、その精神分析学が大西洋を渡ってアメリカ合衆国に行くと飼いならされて体制側抑圧側精神医学に属するものに変化した。小此木啓吾の「精神分析学」はアメリカ系の飼いならされた「精神分析学」であり、フロイト、フロム、ライヒらの精神分析学とは似て非なるものであり、やはり、家族を中心とする人間関係に精神疾患の原因を見出し、それをときほぐすことで解決を求めるレイン・クーパーら、及び、トマス=サズらの「反精神医学派」もまた体制精神医学に対する反逆児としての性格があり、慶應の内部進学で慶應的体制精神医学の小此木啓吾からすれば、“精神医学ムラ”の反逆児を「時代遅れです」という表現でやっつけてやりたかった、ということではないかと思われます。 (⇒森山公男『現代精神医学解体の論理』岩崎学術出版社 他参照)〕 今現在、「古い」と言われているものと「新しい」と言われているものは、30年後において、どちらが「時代遅れ」と評価されるかというと、今、「新しい」と言われているものの方が「時代遅れ」と評価されている可能性もあるのではないでしょうか。
J=P=サルトル『実存主義とは何か』(伊吹武彦訳他。1996年増補新装初版。人文書院)所収の海老坂 武「1945年の実存主義」で、海老坂氏が≪ かの国で下火になったというだけで「サルトルは乗り越えられた」と説くのは知的怠惰以外のなにものでもないだろう。 もちろんサルトルにしても実存主義にしても不滅ではなく、二十一世紀になれば消えていく可能性がないわけではない。 そしてそれは、「われわれは、われわれと同時代の人間のために書く。 われわれは未来の眼でわれわれの世界を見ようとはしない」( 〈 レ・タン・モデルヌ 〉創刊の辞) と宣言したサルトルの光栄とするところかもしれない。 しかし、私自身は「サルトルは乗り越えられた」という常套句を耳にするたびに、自分の内部にこんな声が湧きあがってくるのを抑えることができないのである。「あなたはサルトルの何を、どう読んだのか。あなたはもしかしたら、文字をたどっただけで何も読んでいなかったのではないか。」 ・・・≫と述べている。 哲学・文学の分野だけでなく、建築においても、「時代遅れ」とか「前時代的」とある人たちが思っているものが、実はそうでもなく、「現代的」と思っているものの方が本来は「時代遅れ」である場合もあるように思うのだ。
それで、今回、東京都狛江市元和泉2-15-5 の 狛江市立古民家園 を訪ねました。
※ 狛江市立古民家園(むいから民家園)については、
⇒ 狛江市HP むいから民家園(狛江市立古民家園)施設案内 http://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/11,3317,102,239,html
狛江市古民家園に行くには、小田急の「狛江(こまえ)」駅北口から小田急バス・こまバス北回りに乗り、「児童公園前」下車。バス停の目の前です。 こまバスの「こま」は「狛江(こまえ)」の「こま」のようです。 児童公園というのは、バス停の目の前に「田中橋児童公園」という公園があるからのようですが、なんで、「古民家園前」とか 「むいから古民家園前」とかでなく、児童公園前なのだろうと思いますが、「児童公園前」です。 こまバス北回りルートは逆方向には走っていないので、帰りは こまバスでない小田急バスに乗るか、そうでなければ駅まで歩くかです。 歩いてもそれほどはないと思います。
↑の写真の入口を入ってすぐ右にあるのが、旧荒井家住宅主屋 で、入って左に見えるのが、旧高木家長屋門 で、いずれも、狛江市指定文化財 に指定されています。
【1】 旧 荒井家住宅主屋
↑ 旧 荒井家住宅主屋 正面
≪ 名称 荒井家住宅主屋 一棟
指定年月日 平成3年(1991年)11月12日
旧所在地 狛江市元和泉一丁目23番2号
構造および形式 木造、寄棟造、角屋付、茅葺、桁行7間、梁間3間
概要
荒井家は泉龍寺の表門の突き当りにあったところから、屋号を大門先(だいもんさき)と言い、江戸時代の後期には、村方医師として、医師、農業が家業でした。 昭和2年(1927年)の小田急線開通の際に屋敷内を線路が通るため、東向きの主屋を曳き家して、南向きにしました。 さらに平成4年(1992年)に小田急小田原線連続立体交差事業および複々線化事業のために解体保存され、平成14年(2002年)にこの古民家園に保存移築されたものです。
建築当初は直屋(すごや)で、桁行7間、梁間3間、三ツ間取り広間型の間取りでしたが、江戸時代末頃に広間の後方部を1間半拡張して角屋(つのや)とし、整形四ツ間取りに改修しました。 明治時代以降には、チャノマを間仕切ってナカベヤや小部屋を造ったり、内便所をつけています。
今回の復元は角屋の時期としました。 土間境やザシキ、デイ境の柱を切って差鴨居を入れたり、ザシキに京呂組の梁組が使われていることなどに特徴がみられます。
復元工事期間 平成12年(2000年)12月15日~平成14年(2002年)3月15日
工事関係者
事業者 狛江市
主屋復元工事 安藤建設株式会社
管理施設・消化施設棟新築工事 五幸建設株式会社
電気設備工事 株式会社田島電興社
機械設備工事 株式会社絹山工業所
防災設備工事 八洲防災設備株式会社
植栽工事 株式会社小谷野造園
機械警備工事 綜合警備保障株式会社 ≫
(現地での説明書き)
かつてあった元和泉1丁目23番2号 とはどこかというと、小田急線の「狛江」と「和泉多摩川」の中間付近のようです。↓
↑ 土間の上の部分で、梁の架構が見えます。 梁には曲がった気を使用していますが、柱はまっすぐな木を使用しています。
昔から、桧(ひのき)・杉(すぎ)・ヒバといった木が柱にはよく使われてきましたが、桧は、<1>圧縮・引っ張り・曲げ・せん断の4つの力にいずれにも強く、中でも圧縮に強いので、上から押さえつける力が加わる柱に向いている、<2>ヒバとともにヒノキチオールという物質を含んでいてシロアリに強いので1階では特に下部が腐りやシロアリに対策が必要な柱には良い、<3>真壁で使用した場合、見た目が良い、<4>かすかに良い香りがする、といった長所があると言われ、杉も、<1>まっすぐに伸びる木なので「まっすぐ」の「スグ」から「スギ」という名前になったのではないかという説もあるように、まっすぐに伸びる木なので柱に向いている。<2>虫害にも比較的強い、と言われてきました。柱は上から下に力が加わるのでまっすぐな木である必要があり、曲がっていては曲がっている所で折れてしまいます。 それに対し、梁(はり)の場合は、曲がっている木であっても、上に凸となるように入れれば、アーチ橋と同じ原理で、上から力が加わった時、もとに戻ろうとする力が働き、むしろ、曲がった木の方が梁には良いようなところもあります。但し、平屋の1階、もしくは最上階であればよいのですが、上に部屋がある場合、床を貼ろうとした時にはまっすぐな角材の梁の方が床を貼るにはやりやすく、また、最近では機械プレカットが普通になってきたので、曲がったもので1本1本形状が異なるものというのは機械プレカットをしにくく、プレカットしたものを組み立てるのが仕事でノミを使えない「大工」が多くなってきた今日では曲がった梁は使いにくい、といったこともあるようです。
いずれにせよ、力学的には、柱は上から下への荷重を受けるものなのでまっすぐな木であることが必要で、梁は上から下への力が加わった際に、上の凸に曲がったものはかえってそれが荷重を受ける際に都合がよかったりする、ということが言えるわけで、機械プレカットなどといったものがない時代においては、「柱はまっすぐな木、梁は曲がった木」が使用されることが多かったわけです。「はなの舞」「花の舞」「炎」は「高山風」らしいのですが、高山であろうが東京であろうがこれは一緒です。
ところが、2005年のことですが、「はなの舞」「花の舞」「炎」などの居酒屋をチェーン展開するチムニー株式会社http://www.chimney.co.jp/ の建設部にいた時、同社の「はなの舞」の店舗で、梁として使用していた野物(丸太梁)の古材を縦にして取り付けている店がありました。「はなの舞」「花の舞」「炎」などは「古民家風」のしつらえですが、鉄骨造や鉄筋コンクリート造の建物の1室、1フロアーを借りて、その内装として「古民家風」のしつらえにしているのであって、木造の民家のしつらえであっても、その「木造」はあくまでインテリアとしてのものであって構造として建物をささえているものではありません。 しかし、そうであっても、古材を買ってきてインテリアとして入れる場合、柱として使用していた古材は柱として、梁として使用していた古材は梁として入れるべきで、梁として使用していたのが明白にわかる木を縦にして柱のように設置しているのは奇妙な感じがしました。それで、同社で「デザイナー」として内装の設計をしていた「(おじさん+おにいさん)÷2」に「普通、あんな感じで曲がった木を縦に柱のように使ったりはしないですよね」と言ったのです。日常会話の中で言ったのですが、あれは奇妙で、「はなの舞」「花の舞」「炎」は何考えてんだと見られると思い、私の何倍もの給料とってる「1000万円超プレイヤー」の「デザイナー」なら当然のことながら、そのあたりは私と同じ認識を持ち、違和感を覚えているだろうと思って言ったのです。同じ会社で一緒に仕事をする者として、今後はそういった点は改めていくようにしようと思って。 すると、「1000万超プレイヤー」の「デザイナー」が何と言ったかというと、「曲がっているのがいいんですよお~お」と・・・・・。 はあ~~あ??? 「アホか、こいつ」と思いました。 なお、「古民家風」のしつらえをしている店が、どこでも、仕口の加工が残る梁として過去に使っていた古材を縦にして柱のように入れるという変なことをしているかというと、そうでもありません。私が住んでいるの近くの「丸八食堂」というラーメン屋では、柱に使っていた古材は柱に、梁に使っていた古材は梁に使用して「古民家風」の内装のしつらえを作っています。「はなの舞」くらいです。梁に使っていた野物(丸太梁)を縦にして柱のように入れて、「 曲がっているのがいいんですよお~お」とか「1000万円超プレイヤー」がアホなことを言っているのは。
彼は、私が慶應義塾日吉新図書館について、「有名建築家」槇文彦の設計というわりに、あまり使いやすいと思えなかったし、他の無名の人の建物と比べて良いと思うところもなく、先に「有名建築家」「一流建築家」と言われる人が決められて、「有名建築家」の建物は良い、「有名建築家」の設計した建物が「名建築」と評価されてしまう現代建築の評価のされ方はおかしいのではないかというつもりで、慶應日吉新図書館の名を私が口にした時も、「慶應日吉新図書館」という言葉をきくと同時に「ああ、槇文彦の慶應日吉図書館ですねえ」とパブロフの犬みたいに反応した。なんか、おかしくないか・・・・。 そういう人がチムニー(株)では「1000万円超プレイヤー」で、私はその人の何分の一しか給料は払ってもらえなかったのです。 ・・・「1000万円超プレイヤー」の「デザイナー」て面白い発想するね♪・・・・・。 私はこの会社からよっぽどなめられていたのですね。
※槇文彦設計「慶應日吉新図書館」について⇒[第293回]《図書館の建築。 槇文彦「慶應義塾大学 日吉(新)図書館」を考える。 私が好きだった入新井図書館。他。 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_17.html 参照
↑ この写真で見られる曲がった材なんか、現代のハウスメーカーの建物なんかではなかなか見られませんから、「古民家風」の居酒屋なんかでこういった材をインテリアとして使えば、なかなか趣があるかもしれませんが、あくまで、横にして使うのであって、梁桁材として使用されていた古材を縦にして柱のように入れたとしても、それはかえって変です。チムニー(株)の「デザイナー」「1000万円プレイヤー」はわからんようですけれども。人間て、いっぱい給料とってるやつ て安月給の人間と違ってわからんのでしょうかね・・・・。
↑ 神棚 は、押入などの上の天袋に設けた方がいいのか、天袋ではなく別に設けた方がいいのか、天袋の手前に設けた方がいいのか、天袋の手前3分の2くらいにプラスしてその手前に棚を設置した方がいいのか。 神棚を仏壇の上に設けるのはいいか悪いか。 仏壇の真上ではなく横上の位置に設ける場合は、右上が良いのかどうか。 これらは、その地域によって考え方にずいぶんと違いがあるようですが、武蔵国の狛江市の旧 荒井家ではこのような神棚になっています。
さて。 床の間 の作りは大変、気になるところです。
(↑ 写真はクリックすると大きくなるので大きくして見てください。)
↑ 床の間 の 床柱 と 落とし掛け、長押 は、その合わさるところで、どちらを優先して前になるようにするべきでしょうか。 この問題に気づいたのは、1994年のこと、(株)一条工務店の 福島県いわき市の営業所に勤務して、契約客から「一条の展示場の床柱の入れ方はおかしい」と言われた時からです。 「浜松流」では床の間の隣が押入れである場合だけでなく、隣が「棚(一条では通常、違い棚)」である場合でも「棚」の上まで長押を回して施工しており、その長押が床柱とぶつかる所では長押の方を優先して床柱の前に出していたのです。 しかし、福島県いわき市では、床柱は下から上まで見せる施工をするのです。 ところが、一条工務店の住宅展示場の床の間は、長押の方が床柱より前に来ていたのです。 私は住宅雑誌に掲載されている和室の写真などを調べまくったのですが、床柱の方を下から上まで見せる施工のものと長押の方が床柱より前に来ているものと両方があり、長押の方が前まで来ている床の間の写真の方が住宅雑誌に掲載されているものでは多かった。どうも、これは、地方によって違うようで、いわき市及び福島県浜通りは床柱の方を前にするようで、茨城県北部から東北地方では床柱を見せる施工の地域が多いようでした。 東京から西では長押の方を前にすることが多いらしく、最近では「東京方式」が全国に広がっていく傾向があり、東京に本社があるハウスメーカーのものは長押が前に来ている施工が多いようです。
東京から西は落とし掛けの方が前に来る施工なのかと思っていたら、岐阜県の高山市の民家を見ると、どの家で見ても、床柱の方が下から上まで見える施工になっていたので、飛騨地方では床柱の方を見せる施工で、東京から西でも、どこでも長押の方が前というわけではないらしいと知ったのですが、高山の民家の床の間と棚をよく見ると、棚の部分の上には長押は回っておらず、棚の部分にも床の間と同じように「落とし掛け」が施工されており、「棚」の部分の「落とし掛け」は床の間の落とし掛けと同じように床柱の手前で止めていたのです。 床の間と「棚」の両方に落とし掛けが施工されていて、床の間の落とし掛けは床柱の手前で止めて、「棚」の方の落とし掛けは床柱の前まで持ってきたのでは、それは変です。
※ 高山の民家で床柱の方が下から上まで見える施工になっているものは、
[第285回]《松本家住宅・宮地家住宅。仏壇・神棚への配慮。がさつな人間は「営業できる」か―高山シリーズ第2回(8) 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_9.html 旧松本家住宅・旧宮地家住宅
[第289回]《「飛騨民族考古館」3。及、「できます」と言って契約して「適当に建ててしまえ」営業は良いか? 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_13.html 飛騨民族考古館(旧藤井家→坂本家)
私はいわき市に赴任して最初の頃の契約者から指摘してもらったおかげで、それ以降、床柱と長押はどちらを前にして施工した方が良いか、プランの打ち合わせの時に必ず確認するようにしました。そのため、私が担当したお宅は床柱と長押の位置関係は、お施主様の思われるように(床柱の方が下から上まで見えるように)施工されましたが、この点に気づいていない営業担当の家では、工事が始まってからお施主様が見て「こんなおかしな床柱の入れ方ねえべえ~え」と苦情を言われることがあったようです。
(↑ ごめん。 どんなにしても、この写真だけ、なぜか、左に90度傾いたものでしかアップロードできない。申し訳ないけれども、右に90度回転したものを想定して考えてください。 他の写真は縦にしたものでもアップロードできるのだけれども、なぜか、この写真だけ回転したものをアップロードしても横向きになってしまう。 もし、その理由と対策がわかる人がいたら、どうか教えてください。 )
↑ 私は、旧荒井家の床の間を現地で見て、なるほど、と思ったのです。 武蔵国の狛江の荒井家では、床柱は長押の方が床柱の前に来ています。
もっとも、帰ってこの写真をよく見ると、床の間の右手は引き違い戸になっていて出入り口で「棚」ではありません。
[第285回]《松本家住宅・宮地家住宅。仏壇・神棚への配慮。がさつな人間は「営業できる」か―高山シリーズ第2回(8) 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_9.html 、 [第289回]《「飛騨民族考古館」3。及、「できます」と言って契約して「適当に建ててしまえ」営業は良いか? 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_13.html で公開した旧松本家住宅の床の間、旧宮地家住宅、飛騨民族考古館(旧藤井家→坂本家)の床の間の写真と見比べてください。旧宮地家・旧松本家・飛騨民族考古館の床の間では、右側からの長押(なげし)は床柱の手前で止まっています。 旧荒井家の床の間は、床の間の落とし掛けは床柱の手前で止まっていて、「東京方式」と言うべきなのかどうかわかりませんが、右手の出入り口部分からの長押(なげし)の方は床柱の前まで来ていました。
それで。 昔からの農家の建物では、南に縁側があって、北は塞がれている場合が多いのではないでしょうか。 一条工務店の栃木県佐野市の営業所にいた時、足利市のある見込客が、自分の家を「あんた、こんな家見たことないだろ」と自慢されたことがあったのです。 戦前に、じいさんが一生懸命頑張って建てた家で、戦前の作りで、柱・梁その他、太い木を使って立派に作ったつもりで、ど~んなもんじゃ~い!てつもりだったらしいのですが、見込客ですから正面から逆らいはしませんが、申し訳ないけど、いわき市に勤務していた時に、もっともっと太い木を使ったもっともっと立派な家を何軒も私は見てきているし、そして、何軒もそういう家を建て替えてきました。 だから、正直なところ、なんだよ、こんなの、自慢してんのかよお・・て印象でした。 見てきた家も建て替えてきた家も人さまの家であって自分の家じゃないですけどね。 もともと、都市圏の生まれの人間で、大学を卒業して最初に勤めた住宅会社 小堀住研は都市部中心の会社(全国展開していたし、旭化成などは都市圏が大部分であったのに対し、小堀住研は都市部に限らず全国まんべんなく施工していると同社の研修では言われ、実際、旭化成に比べれば都市部だけに偏ってはいなかったようですが、、一条工務店と比較してみると、「地方」得意の一条工務店から考えれば、小堀住研は建物も考え方も都市部中心ですね・・。)で、農家の建物の建て替えなんかやると思わなかったのですが、その後、「地方」中心の一条工務店なんて会社に勤めたおかげで、今は兼業農家で農業もやっていても会社員での収入もあるという方であっても、住んでいる家自体は「農家」の建物という方のお相手をして、そういう家を見せてもらい、そういう家を建て替えてきました。 おかげで、ずいぶんと勉強させていただきました。
農家の建物というのは、南側に部屋が並んでいて、北は塞がれているのが一般的ではないかと思っていたのです。 しかし、↓
↑ 南面で、
↑ 北面です。
旧 荒井家住宅の場合、南面に縁側(ヌレエン)があるだけでなく、北面にも縁側(ヌレエン)があるのです。 この家では北面にも縁側を設置しているのだ・・・・と思ったのですが、↑に引用した、現地での解説文を見ると、旧荒井家は、元建っていた場所で、一度、小田急が開通する際に曳家をして、東向きであったものを南向きに変えたということがあったわけです。 その際に南と北に縁側があるようになったが、元は東と西に縁側のある家だった、ということではないでしょうか。
狛江市立古民家園 には、旧荒井家主屋 とともに、旧高木家長屋門 がありますが、ブログの字数制限があるため、旧高木家長屋門 は次回 に掲載させていただきたいと思います。 どうぞご覧くださいませ。
[第347回][下]
【2】旧高木家長屋門
【3】調布駅前の公衆便所?
【4】「東西線に乗るなら、東京駅から大手町駅までタクシーに乗ればいいらあ」ておっしゃる方がた。遠州人はすごい♪
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201509article_2.html もぜひご覧くださいませ。
(2015.9.13.)
このブログでも、今まで、「民家」「古民家」と言われる住宅を何軒か取りあげてきましたが、日本全国民家の旅シリーズとして、この回から番号を(1)から振って進めたいと思います。
「古民家の旅」ではなく「民家の旅」としたのは、そもそも、「古民家」と「民家」をどこで分けるかという問題があって、「古民家」の「古」を「古い」「古くさい」という意味ではなく「古典的」「クラシック」という意味としたとしても、それでも、今もその建物と同様の建物に住んでいる方は何人もおられるわけで、そういう家を「古典的」と呼んだとして、「現代的」な建物で設計者が相当に工夫を凝らし知恵を働かせたものは、作成された日が浅いから「古典的」ではないのかということになってしまう。
もし、「古」を「古典的」ではあるが「前時代的」「時代遅れ」という意味で使うなら、最近、今までになかった造り方で作られたようなものは、「前時代的」ではないのか、「時代遅れ」ではないのかというと、どちらが「前時代的」「時代遅れ」かわからないようなケースもあるように思うのです。 今は昔、慶應義塾大学の大学生であった時、文学部の学生の某さんが小此木啓吾の少人数の講義だか研究会だかに参加し、そこで、彼が長く評価してきたロナルド=レインについて話したところ、慶應義塾大学医学部助教授の小此木啓吾さんは、「レインは時代遅れです」とおっしゃったそうなのです。そう言われて某さんは相当ショックを受けたと話したので、某さん以上にロナルド=レインを高く評価し、小此木啓吾はむしろ害があると思っていた私は、某さんに「小此木啓吾はもっと時代遅れです」と言ってあげたことがありました。 それから何年か経ち、小此木啓吾が他界し、さらに何年か経ちました。ロナルド=レインの『家族の政治学』『狂気と家族』などの著作は、家族のあり方を考える上での古典として今も存在していますが、小此木啓吾の「モラトリアム人間」だの「ピーターパンシンドローム」だの「ウェンディジレンマ」だの「青い鳥症候群」だのといったその時代の権力・体制にこびる著作、「『精神医学的』レッテル」はすたれ忘れ去られようとしています。〔10代・20代の時期に、社会の在り方や人間の在り方について真剣に考えるような者を「モラトリアム人間」だと罵り、「見る前に飛べ」と「お国のために」「会社のために」とってちってたあ~あ! と滅私奉公させようという小此木「モラトリアム人間」論は、おのれのことを棚にあげてひとに「とってちってたあ~あ」と言いたいオヤジ、及び若オヤジにもてはやされましたが、その後、「フリーター」といって最終学校卒業後も一定の職業につかずにアルバイト生活をする者がいた方が、企業にとって都合がいいということになると、「医学」だと称しての体制側の理論創出者 小此木啓吾は「モラトリアム人間」論はひっこめざるをえなくなった・・・みたいなところでしょう。〕 そんなものだと思うのです。〔 ひとつには、精神分析学は、ヨーロッパにおいて、「精神異常者」とされた人を抑圧し社会から封じ込めるという性質の体制精神医学に対する反逆児として生まれた(フロイト、フロム、ライヒなど)が、その精神分析学が大西洋を渡ってアメリカ合衆国に行くと飼いならされて体制側抑圧側精神医学に属するものに変化した。小此木啓吾の「精神分析学」はアメリカ系の飼いならされた「精神分析学」であり、フロイト、フロム、ライヒらの精神分析学とは似て非なるものであり、やはり、家族を中心とする人間関係に精神疾患の原因を見出し、それをときほぐすことで解決を求めるレイン・クーパーら、及び、トマス=サズらの「反精神医学派」もまた体制精神医学に対する反逆児としての性格があり、慶應の内部進学で慶應的体制精神医学の小此木啓吾からすれば、“精神医学ムラ”の反逆児を「時代遅れです」という表現でやっつけてやりたかった、ということではないかと思われます。 (⇒森山公男『現代精神医学解体の論理』岩崎学術出版社 他参照)〕 今現在、「古い」と言われているものと「新しい」と言われているものは、30年後において、どちらが「時代遅れ」と評価されるかというと、今、「新しい」と言われているものの方が「時代遅れ」と評価されている可能性もあるのではないでしょうか。
J=P=サルトル『実存主義とは何か』(伊吹武彦訳他。1996年増補新装初版。人文書院)所収の海老坂 武「1945年の実存主義」で、海老坂氏が≪ かの国で下火になったというだけで「サルトルは乗り越えられた」と説くのは知的怠惰以外のなにものでもないだろう。 もちろんサルトルにしても実存主義にしても不滅ではなく、二十一世紀になれば消えていく可能性がないわけではない。 そしてそれは、「われわれは、われわれと同時代の人間のために書く。 われわれは未来の眼でわれわれの世界を見ようとはしない」( 〈 レ・タン・モデルヌ 〉創刊の辞) と宣言したサルトルの光栄とするところかもしれない。 しかし、私自身は「サルトルは乗り越えられた」という常套句を耳にするたびに、自分の内部にこんな声が湧きあがってくるのを抑えることができないのである。「あなたはサルトルの何を、どう読んだのか。あなたはもしかしたら、文字をたどっただけで何も読んでいなかったのではないか。」 ・・・≫と述べている。 哲学・文学の分野だけでなく、建築においても、「時代遅れ」とか「前時代的」とある人たちが思っているものが、実はそうでもなく、「現代的」と思っているものの方が本来は「時代遅れ」である場合もあるように思うのだ。
それで、今回、東京都狛江市元和泉2-15-5 の 狛江市立古民家園 を訪ねました。
※ 狛江市立古民家園(むいから民家園)については、
⇒ 狛江市HP むいから民家園(狛江市立古民家園)施設案内 http://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/11,3317,102,239,html
狛江市古民家園に行くには、小田急の「狛江(こまえ)」駅北口から小田急バス・こまバス北回りに乗り、「児童公園前」下車。バス停の目の前です。 こまバスの「こま」は「狛江(こまえ)」の「こま」のようです。 児童公園というのは、バス停の目の前に「田中橋児童公園」という公園があるからのようですが、なんで、「古民家園前」とか 「むいから古民家園前」とかでなく、児童公園前なのだろうと思いますが、「児童公園前」です。 こまバス北回りルートは逆方向には走っていないので、帰りは こまバスでない小田急バスに乗るか、そうでなければ駅まで歩くかです。 歩いてもそれほどはないと思います。
↑の写真の入口を入ってすぐ右にあるのが、旧荒井家住宅主屋 で、入って左に見えるのが、旧高木家長屋門 で、いずれも、狛江市指定文化財 に指定されています。
【1】 旧 荒井家住宅主屋
↑ 旧 荒井家住宅主屋 正面
≪ 名称 荒井家住宅主屋 一棟
指定年月日 平成3年(1991年)11月12日
旧所在地 狛江市元和泉一丁目23番2号
構造および形式 木造、寄棟造、角屋付、茅葺、桁行7間、梁間3間
概要
荒井家は泉龍寺の表門の突き当りにあったところから、屋号を大門先(だいもんさき)と言い、江戸時代の後期には、村方医師として、医師、農業が家業でした。 昭和2年(1927年)の小田急線開通の際に屋敷内を線路が通るため、東向きの主屋を曳き家して、南向きにしました。 さらに平成4年(1992年)に小田急小田原線連続立体交差事業および複々線化事業のために解体保存され、平成14年(2002年)にこの古民家園に保存移築されたものです。
建築当初は直屋(すごや)で、桁行7間、梁間3間、三ツ間取り広間型の間取りでしたが、江戸時代末頃に広間の後方部を1間半拡張して角屋(つのや)とし、整形四ツ間取りに改修しました。 明治時代以降には、チャノマを間仕切ってナカベヤや小部屋を造ったり、内便所をつけています。
今回の復元は角屋の時期としました。 土間境やザシキ、デイ境の柱を切って差鴨居を入れたり、ザシキに京呂組の梁組が使われていることなどに特徴がみられます。
復元工事期間 平成12年(2000年)12月15日~平成14年(2002年)3月15日
工事関係者
事業者 狛江市
主屋復元工事 安藤建設株式会社
管理施設・消化施設棟新築工事 五幸建設株式会社
電気設備工事 株式会社田島電興社
機械設備工事 株式会社絹山工業所
防災設備工事 八洲防災設備株式会社
植栽工事 株式会社小谷野造園
機械警備工事 綜合警備保障株式会社 ≫
(現地での説明書き)
かつてあった元和泉1丁目23番2号 とはどこかというと、小田急線の「狛江」と「和泉多摩川」の中間付近のようです。↓
↑ 土間の上の部分で、梁の架構が見えます。 梁には曲がった気を使用していますが、柱はまっすぐな木を使用しています。
昔から、桧(ひのき)・杉(すぎ)・ヒバといった木が柱にはよく使われてきましたが、桧は、<1>圧縮・引っ張り・曲げ・せん断の4つの力にいずれにも強く、中でも圧縮に強いので、上から押さえつける力が加わる柱に向いている、<2>ヒバとともにヒノキチオールという物質を含んでいてシロアリに強いので1階では特に下部が腐りやシロアリに対策が必要な柱には良い、<3>真壁で使用した場合、見た目が良い、<4>かすかに良い香りがする、といった長所があると言われ、杉も、<1>まっすぐに伸びる木なので「まっすぐ」の「スグ」から「スギ」という名前になったのではないかという説もあるように、まっすぐに伸びる木なので柱に向いている。<2>虫害にも比較的強い、と言われてきました。柱は上から下に力が加わるのでまっすぐな木である必要があり、曲がっていては曲がっている所で折れてしまいます。 それに対し、梁(はり)の場合は、曲がっている木であっても、上に凸となるように入れれば、アーチ橋と同じ原理で、上から力が加わった時、もとに戻ろうとする力が働き、むしろ、曲がった木の方が梁には良いようなところもあります。但し、平屋の1階、もしくは最上階であればよいのですが、上に部屋がある場合、床を貼ろうとした時にはまっすぐな角材の梁の方が床を貼るにはやりやすく、また、最近では機械プレカットが普通になってきたので、曲がったもので1本1本形状が異なるものというのは機械プレカットをしにくく、プレカットしたものを組み立てるのが仕事でノミを使えない「大工」が多くなってきた今日では曲がった梁は使いにくい、といったこともあるようです。
いずれにせよ、力学的には、柱は上から下への荷重を受けるものなのでまっすぐな木であることが必要で、梁は上から下への力が加わった際に、上の凸に曲がったものはかえってそれが荷重を受ける際に都合がよかったりする、ということが言えるわけで、機械プレカットなどといったものがない時代においては、「柱はまっすぐな木、梁は曲がった木」が使用されることが多かったわけです。「はなの舞」「花の舞」「炎」は「高山風」らしいのですが、高山であろうが東京であろうがこれは一緒です。
ところが、2005年のことですが、「はなの舞」「花の舞」「炎」などの居酒屋をチェーン展開するチムニー株式会社http://www.chimney.co.jp/ の建設部にいた時、同社の「はなの舞」の店舗で、梁として使用していた野物(丸太梁)の古材を縦にして取り付けている店がありました。「はなの舞」「花の舞」「炎」などは「古民家風」のしつらえですが、鉄骨造や鉄筋コンクリート造の建物の1室、1フロアーを借りて、その内装として「古民家風」のしつらえにしているのであって、木造の民家のしつらえであっても、その「木造」はあくまでインテリアとしてのものであって構造として建物をささえているものではありません。 しかし、そうであっても、古材を買ってきてインテリアとして入れる場合、柱として使用していた古材は柱として、梁として使用していた古材は梁として入れるべきで、梁として使用していたのが明白にわかる木を縦にして柱のように設置しているのは奇妙な感じがしました。それで、同社で「デザイナー」として内装の設計をしていた「(おじさん+おにいさん)÷2」に「普通、あんな感じで曲がった木を縦に柱のように使ったりはしないですよね」と言ったのです。日常会話の中で言ったのですが、あれは奇妙で、「はなの舞」「花の舞」「炎」は何考えてんだと見られると思い、私の何倍もの給料とってる「1000万円超プレイヤー」の「デザイナー」なら当然のことながら、そのあたりは私と同じ認識を持ち、違和感を覚えているだろうと思って言ったのです。同じ会社で一緒に仕事をする者として、今後はそういった点は改めていくようにしようと思って。 すると、「1000万超プレイヤー」の「デザイナー」が何と言ったかというと、「曲がっているのがいいんですよお~お」と・・・・・。 はあ~~あ??? 「アホか、こいつ」と思いました。 なお、「古民家風」のしつらえをしている店が、どこでも、仕口の加工が残る梁として過去に使っていた古材を縦にして柱のように入れるという変なことをしているかというと、そうでもありません。私が住んでいるの近くの「丸八食堂」というラーメン屋では、柱に使っていた古材は柱に、梁に使っていた古材は梁に使用して「古民家風」の内装のしつらえを作っています。「はなの舞」くらいです。梁に使っていた野物(丸太梁)を縦にして柱のように入れて、「 曲がっているのがいいんですよお~お」とか「1000万円超プレイヤー」がアホなことを言っているのは。
彼は、私が慶應義塾日吉新図書館について、「有名建築家」槇文彦の設計というわりに、あまり使いやすいと思えなかったし、他の無名の人の建物と比べて良いと思うところもなく、先に「有名建築家」「一流建築家」と言われる人が決められて、「有名建築家」の建物は良い、「有名建築家」の設計した建物が「名建築」と評価されてしまう現代建築の評価のされ方はおかしいのではないかというつもりで、慶應日吉新図書館の名を私が口にした時も、「慶應日吉新図書館」という言葉をきくと同時に「ああ、槇文彦の慶應日吉図書館ですねえ」とパブロフの犬みたいに反応した。なんか、おかしくないか・・・・。 そういう人がチムニー(株)では「1000万円超プレイヤー」で、私はその人の何分の一しか給料は払ってもらえなかったのです。 ・・・「1000万円超プレイヤー」の「デザイナー」て面白い発想するね♪・・・・・。 私はこの会社からよっぽどなめられていたのですね。
※槇文彦設計「慶應日吉新図書館」について⇒[第293回]《図書館の建築。 槇文彦「慶應義塾大学 日吉(新)図書館」を考える。 私が好きだった入新井図書館。他。 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_17.html 参照
↑ この写真で見られる曲がった材なんか、現代のハウスメーカーの建物なんかではなかなか見られませんから、「古民家風」の居酒屋なんかでこういった材をインテリアとして使えば、なかなか趣があるかもしれませんが、あくまで、横にして使うのであって、梁桁材として使用されていた古材を縦にして柱のように入れたとしても、それはかえって変です。チムニー(株)の「デザイナー」「1000万円プレイヤー」はわからんようですけれども。人間て、いっぱい給料とってるやつ て安月給の人間と違ってわからんのでしょうかね・・・・。
↑ 神棚 は、押入などの上の天袋に設けた方がいいのか、天袋ではなく別に設けた方がいいのか、天袋の手前に設けた方がいいのか、天袋の手前3分の2くらいにプラスしてその手前に棚を設置した方がいいのか。 神棚を仏壇の上に設けるのはいいか悪いか。 仏壇の真上ではなく横上の位置に設ける場合は、右上が良いのかどうか。 これらは、その地域によって考え方にずいぶんと違いがあるようですが、武蔵国の狛江市の旧 荒井家ではこのような神棚になっています。
さて。 床の間 の作りは大変、気になるところです。
(↑ 写真はクリックすると大きくなるので大きくして見てください。)
↑ 床の間 の 床柱 と 落とし掛け、長押 は、その合わさるところで、どちらを優先して前になるようにするべきでしょうか。 この問題に気づいたのは、1994年のこと、(株)一条工務店の 福島県いわき市の営業所に勤務して、契約客から「一条の展示場の床柱の入れ方はおかしい」と言われた時からです。 「浜松流」では床の間の隣が押入れである場合だけでなく、隣が「棚(一条では通常、違い棚)」である場合でも「棚」の上まで長押を回して施工しており、その長押が床柱とぶつかる所では長押の方を優先して床柱の前に出していたのです。 しかし、福島県いわき市では、床柱は下から上まで見せる施工をするのです。 ところが、一条工務店の住宅展示場の床の間は、長押の方が床柱より前に来ていたのです。 私は住宅雑誌に掲載されている和室の写真などを調べまくったのですが、床柱の方を下から上まで見せる施工のものと長押の方が床柱より前に来ているものと両方があり、長押の方が前まで来ている床の間の写真の方が住宅雑誌に掲載されているものでは多かった。どうも、これは、地方によって違うようで、いわき市及び福島県浜通りは床柱の方を前にするようで、茨城県北部から東北地方では床柱を見せる施工の地域が多いようでした。 東京から西では長押の方を前にすることが多いらしく、最近では「東京方式」が全国に広がっていく傾向があり、東京に本社があるハウスメーカーのものは長押が前に来ている施工が多いようです。
東京から西は落とし掛けの方が前に来る施工なのかと思っていたら、岐阜県の高山市の民家を見ると、どの家で見ても、床柱の方が下から上まで見える施工になっていたので、飛騨地方では床柱の方を見せる施工で、東京から西でも、どこでも長押の方が前というわけではないらしいと知ったのですが、高山の民家の床の間と棚をよく見ると、棚の部分の上には長押は回っておらず、棚の部分にも床の間と同じように「落とし掛け」が施工されており、「棚」の部分の「落とし掛け」は床の間の落とし掛けと同じように床柱の手前で止めていたのです。 床の間と「棚」の両方に落とし掛けが施工されていて、床の間の落とし掛けは床柱の手前で止めて、「棚」の方の落とし掛けは床柱の前まで持ってきたのでは、それは変です。
※ 高山の民家で床柱の方が下から上まで見える施工になっているものは、
[第285回]《松本家住宅・宮地家住宅。仏壇・神棚への配慮。がさつな人間は「営業できる」か―高山シリーズ第2回(8) 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_9.html 旧松本家住宅・旧宮地家住宅
[第289回]《「飛騨民族考古館」3。及、「できます」と言って契約して「適当に建ててしまえ」営業は良いか? 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_13.html 飛騨民族考古館(旧藤井家→坂本家)
私はいわき市に赴任して最初の頃の契約者から指摘してもらったおかげで、それ以降、床柱と長押はどちらを前にして施工した方が良いか、プランの打ち合わせの時に必ず確認するようにしました。そのため、私が担当したお宅は床柱と長押の位置関係は、お施主様の思われるように(床柱の方が下から上まで見えるように)施工されましたが、この点に気づいていない営業担当の家では、工事が始まってからお施主様が見て「こんなおかしな床柱の入れ方ねえべえ~え」と苦情を言われることがあったようです。
(↑ ごめん。 どんなにしても、この写真だけ、なぜか、左に90度傾いたものでしかアップロードできない。申し訳ないけれども、右に90度回転したものを想定して考えてください。 他の写真は縦にしたものでもアップロードできるのだけれども、なぜか、この写真だけ回転したものをアップロードしても横向きになってしまう。 もし、その理由と対策がわかる人がいたら、どうか教えてください。 )
↑ 私は、旧荒井家の床の間を現地で見て、なるほど、と思ったのです。 武蔵国の狛江の荒井家では、床柱は長押の方が床柱の前に来ています。
もっとも、帰ってこの写真をよく見ると、床の間の右手は引き違い戸になっていて出入り口で「棚」ではありません。
[第285回]《松本家住宅・宮地家住宅。仏壇・神棚への配慮。がさつな人間は「営業できる」か―高山シリーズ第2回(8) 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_9.html 、 [第289回]《「飛騨民族考古館」3。及、「できます」と言って契約して「適当に建ててしまえ」営業は良いか? 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_13.html で公開した旧松本家住宅の床の間、旧宮地家住宅、飛騨民族考古館(旧藤井家→坂本家)の床の間の写真と見比べてください。旧宮地家・旧松本家・飛騨民族考古館の床の間では、右側からの長押(なげし)は床柱の手前で止まっています。 旧荒井家の床の間は、床の間の落とし掛けは床柱の手前で止まっていて、「東京方式」と言うべきなのかどうかわかりませんが、右手の出入り口部分からの長押(なげし)の方は床柱の前まで来ていました。
それで。 昔からの農家の建物では、南に縁側があって、北は塞がれている場合が多いのではないでしょうか。 一条工務店の栃木県佐野市の営業所にいた時、足利市のある見込客が、自分の家を「あんた、こんな家見たことないだろ」と自慢されたことがあったのです。 戦前に、じいさんが一生懸命頑張って建てた家で、戦前の作りで、柱・梁その他、太い木を使って立派に作ったつもりで、ど~んなもんじゃ~い!てつもりだったらしいのですが、見込客ですから正面から逆らいはしませんが、申し訳ないけど、いわき市に勤務していた時に、もっともっと太い木を使ったもっともっと立派な家を何軒も私は見てきているし、そして、何軒もそういう家を建て替えてきました。 だから、正直なところ、なんだよ、こんなの、自慢してんのかよお・・て印象でした。 見てきた家も建て替えてきた家も人さまの家であって自分の家じゃないですけどね。 もともと、都市圏の生まれの人間で、大学を卒業して最初に勤めた住宅会社 小堀住研は都市部中心の会社(全国展開していたし、旭化成などは都市圏が大部分であったのに対し、小堀住研は都市部に限らず全国まんべんなく施工していると同社の研修では言われ、実際、旭化成に比べれば都市部だけに偏ってはいなかったようですが、、一条工務店と比較してみると、「地方」得意の一条工務店から考えれば、小堀住研は建物も考え方も都市部中心ですね・・。)で、農家の建物の建て替えなんかやると思わなかったのですが、その後、「地方」中心の一条工務店なんて会社に勤めたおかげで、今は兼業農家で農業もやっていても会社員での収入もあるという方であっても、住んでいる家自体は「農家」の建物という方のお相手をして、そういう家を見せてもらい、そういう家を建て替えてきました。 おかげで、ずいぶんと勉強させていただきました。
農家の建物というのは、南側に部屋が並んでいて、北は塞がれているのが一般的ではないかと思っていたのです。 しかし、↓
↑ 南面で、
↑ 北面です。
旧 荒井家住宅の場合、南面に縁側(ヌレエン)があるだけでなく、北面にも縁側(ヌレエン)があるのです。 この家では北面にも縁側を設置しているのだ・・・・と思ったのですが、↑に引用した、現地での解説文を見ると、旧荒井家は、元建っていた場所で、一度、小田急が開通する際に曳家をして、東向きであったものを南向きに変えたということがあったわけです。 その際に南と北に縁側があるようになったが、元は東と西に縁側のある家だった、ということではないでしょうか。
狛江市立古民家園 には、旧荒井家主屋 とともに、旧高木家長屋門 がありますが、ブログの字数制限があるため、旧高木家長屋門 は次回 に掲載させていただきたいと思います。 どうぞご覧くださいませ。
[第347回][下]
【2】旧高木家長屋門
【3】調布駅前の公衆便所?
【4】「東西線に乗るなら、東京駅から大手町駅までタクシーに乗ればいいらあ」ておっしゃる方がた。遠州人はすごい♪
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201509article_2.html もぜひご覧くださいませ。
(2015.9.13.)
この記事へのコメント
株式会社アーネストワン、つまり飯田グループの建物は嫌われています。
口コミや評判も調べれば分かるかも知れませんが不評ですしアフターフォローもありません。
株式会社アーネストワンの工事は工期を短縮する為なのか乱暴ですし雑ですし違法工事が多いです。
実際に、建て終わると見えないからって、あちこち傷らだけです。
しかも自分の会社から出して来た「工事内容を」を守る事がありません。
・位置指定道路なのに道路使用許可証が要らないと
●関東第1ブロック ブロック長 藤﨑亘 TEL:080-6502-3426 E-MAIL:w-fujisaki20100@arnest1.co.jpと
●本店 工事1課 戸建事業部 課長 小松﨑正人 E-MAIL:komatsuzaki10100@arnest1.co.jp
が言って来たが法律も知らない愚かさが窺えます。
・位置指定道路は住民の承諾書がないと工事車両を入れられないが取得していない。
・位置指定道路は住民の承諾書を取り付けた後に道路使用許可証も取得しないと工事出来ないが守る事はない。
・道路使用許可証も取らない事に苦情が入ると警察署を騙して無理やり取得する。
・道路使用許可証を取得しても許可条件を守らない株式会社アーネストワンには意味がありません。
坂本剛章警部補交通規制係長や尾下警察官は許可条件を守らない実態を把握して、
次の更新からは住民全員の承諾書を書面で貰わない限り許可証を出さないと約束してくれる。
約束してくれても株式会社アーネストワンは口だけなので善処されず道路使用許可証の更新を違法に続ける。
違法に駐車して工事を続ける為、危険だし交通妨害を生じさせている。
・許可条件は9時から17時なので工事も許可条件に合わせるべきだが守られる事はありません。
まだ薄暗い朝の6時から大型トラックを入れてガタガタと作業していて不審者のような行動をとる。
・道路にはこの工事業者が使用したビスが散乱して住民の車のタイヤをパンクさせる。
・職人が材料を投げたり、乱暴な掃除をしたり、資材を養生なしで切断したりして粉塵を舞わせて300万円も掛かってる住民の車を汚す。
・住民達の共有財産を乱暴な工事で傷付けておいて直さない。
・建物自体、傷付いたり割れている所があるが目隠して仕上がると見えない所は誤魔化す。
・職人が違法に他人の土地に侵入して作業している。
・職人が作業の際に音楽を大音量で掛けて作業していて、近隣住民は頭痛が生じている。
・近隣には小さい子供さんもいるし、通学路でもあり小中学生、通勤時間帯は避ける話を株式会社アーネストワンがしていたが守られる事はありません。
・宅配がないと生活が出来ない人もいるが株式会社アーネストワンの工事車両の違法駐車の為に宅配業者が入って来れない。
・骨折していて手術後でもあり、振動や騒音が痛みとして増してしまう人もいる点や、家族を偶然にも工事前後で亡くしてしまったばかりで悲痛な人や
音に敏感で耐えられないけどその所に居ないと生活が出来ない障害を持っている人がいる等々の状況にも関わらず配慮せず上記の違法な工事をする。
●本社 三多摩ブロック 生産事業統括部 工事長 田嶋康二 TEL:080-6551-7765 E-MAIL:k-tajima03400@arnest1.co.jp E-MAIL:taji-ko.3ezweb.ne.jp
は、言って全く反省もせず管理もせず口だけは「きちんと管理します」と言いつつも職人だけの目茶苦茶な工事が続けられ何も改善されません。
電話しましょうかと
●本店 工事課 生産事業統括部 部長 古谷規剛 TEL:080-6667-9342 E-MAIL:n-furuya67500@arnest1.co.jp E-MAIL:furu-nori.3@ezweb.ne.jp
は、言うだけで、善処しないから電話をもらった所で話しにならない。
名前だけの現場監督で管理しないから上記の問題が生じているが
●本店 工事課 生産事業統括部 副所長 山田真紀 TEL:080-5908-3867 E-MAIL:m-yamada49110@arnest1.co.jp E-MAIL:yama-maki.3@ezweb.ne.jp
は、法律も建築のイロハも分からないから、何が問題なのかも考えず対応が後手後手で先に進まない。
事故になる事が分かっていながら車を動かして轢き逃げ事故、つまり未必の故意の傷害事件を
●本店 工事課 生産事業統括部 今井千秋 TEL:080-9345-5185 E-MAIL:c-imai@arnest1.co.jp E-MAIL:ima-chia.3@ezweb.ne.jp
は、起こして且つ反省もせず謝罪もせず対応が不誠実である事から、悪質な轢き逃げとして取扱いされている。
株式会社アーネストワンは毎日、警察沙汰を起こしており実際に警察対応が頻繁に行われている。