白幡天神社(千葉県市川市)参拝の1 社殿。竹内宿禰とは何者?竹内宿禰と菅原道真の合祀について「考察」

[第363回]冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り(28)-1
  千葉県市川市の京成本線「八幡」駅の北にある 白幡天神社 に参拝してきました。
【1】 白幡天神社
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  白幡天神社 の ホームページhttp://www.h4.dion.ne.jp/~sirahata/index1.htm を見ると、住所は、千葉県市川市菅野1-15-2 と出ています。 
  最寄駅は、京成本線「八幡(やわた)」、都営新宿線「本八幡(もとやわた)」、JR総武線「本八幡」で、京成「八幡」が最も近い。 住所は「菅野」で、京成本線に「菅野」という駅もあり、京成の駅では「菅野」と「八幡」の中間付近であるが、どちらかというと「八幡」の方が近いのではないか。


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↑ 拝殿・幣殿・本殿の3部構成の社殿です。

  白幡天神社のホームページの「白幡天神社について」http://www.h4.dion.ne.jp/~sirahata/index1.htm と現地の案内書きなどを見ると、
1180年(治承4年) 源頼朝が安房の国に旗上げの際、この地に源氏の白旗を掲げたと言われる。
1584年(天正12年) 社殿改築の記録
   太田道灌によって造営されたとも言われる。
   拝殿の社額は勝海舟の揮毫による。
(明治になって) 天神≒菅原道真 を合祀。 白幡神社から白幡天神社 となる。
1879年(明治12年)の社殿造営の板絵は柴田是真作で、市川市重要文化財。
1880年(明治13年) 現在の本殿を造営。
1961年(昭和36年) 現在の拝殿・幣殿を造営。

  祭神 竹内宿禰(タケウチノスクネ)
      菅原道真〔後に合祀〕

ということらしい。
    現地での表示には「白幡」と書かれていて、インターネットで検索すると、この神社のホームページには「しらはた」の「はた」の字が「八幡」の「幡」の字が使用されているのですが、「4トラベル 市川旅行クチコミガイド 白旗天神社」http://4travel.jp/domestic/area/kanto/chiba/matsudo/ichikawa/temple/11336189/ 、「YAHOO! ロコ 白旗天神社」http://loco.yahoo.co.jp/place/g-h6pT8Da7K6I/ など、源氏の白旗の「旗」を使用して記載しているものも見られます。
   白幡天神社の由緒として、源頼朝が旗上げの際に、この地に源氏の白旗を掲げたということから考えると、「旗」を使用した方が適しているような感じもするのですが、現地では「白幡天神社」と書かれています。
   もともと、八幡神は九州の鍛冶の神だったはずですが、いつしか、武家の神となった。なにゆえ、八幡神が武家の神になったのかというと、《ウィキペディア―八幡神》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E には、≪平将門は『将門記』では天慶2年(939年)に上野(こうずけ)の国庁で八幡大菩薩によって「新皇」の地位を保証されたとされている。このように八幡神は武家を王朝的秩序から解放し、天照大神とは異なる世界を創る大きな役割があったとされ、そのことが、武家が守護神として八幡神を奉ずる理由であった。≫と出ている。 鎌倉に鶴岡八幡宮があり、八幡神を源氏の守護神ともなった。 武家の神、源氏の守護神としての八幡神を祀るということでなら、「しらはた」の「はた」は「八幡」の「幡」で良さそうだが、しかし、白幡天神社の祭神は八幡神≒ホンダワケではなく、タケウチノスクネなのだ。

   竹内さんとはいったい誰なんだ? というと、『古事記』『日本書紀』に登場する人物で、ともかく実在した可能性が高いと考えられている最初の天皇である応神天皇の家臣で、応神天皇に息子の仁徳天皇が生まれた日と同じ日に息子が生まれ、それぞれの家の屋根に鳥がとまっていたことから、その鳥の名前を交換してお互いの息子の名前にした、という人らしい。(それだけというわけでもなく、他にも、いろいろな箇所で出てくるのだけれども・・)

   私は小学生の頃、1960年代前半、集英社から発行されていた和歌森太郎 監修 考証解説・カゴ直利 画『学習漫画 日本の歴史 (全18巻)』というシリーズを喜んで読んでいた。 小学校の図書室にも置いてあったような気がする。 しかし、今、見ると、特に古代については、「戦前型の天皇を中心とする人物中心の日本史」 である。 中学校から高校にかけて、歴史学というような歴史、「戦後民主主義」の教育の歴史を学んで、ふと、「なんで、俺は南北朝の争乱について、『南朝の味方』みたいな認識を持ってきたのだろう・・・・」と思ったことがあり、そのひとつの原因として、この『学習漫画 日本の歴史(全18巻)』というやつが、南朝側に近い人物が書いたと思われる『太平記』と南朝方の北畠親房が書いた『神皇正統記』を基にした「南朝方による歴史」を記述していたからだったことに気づいた。 もっとも、この『学習漫画 日本の歴史(全18巻)』(集英社)だけに原因があるわけでもない。 小学館から出ていた「小学1年生」「小学2年生」という月刊誌を読んでいたのだが、そこに楠木正成のゲリラ戦術の話とか源義経の鵯越えの話とか出ていて、楠木正成というのはすごい人間だったんだなあ~あ・・・と感心して読んだことにより、「南朝びいき」になってしまったのだ。
   源義経の鵯越えの作戦がはたして戦術として優れていたか否かは、けっこう議論の対象となり、作戦としてはあまり良い作戦ではなかったのではないかとも言われることがあるようだ。 そもそも、「鹿も四足、馬も四足」とか言って、鹿が降りることができる坂なら馬でも降りることができよう・・とか決めつけて駆け下りるとか、無茶苦茶やんけ! て感じもするのだ、落ち着いて考えてみると。 結果として成功したから良かったものの、成功しなかったなら、こういう源義経冒険主義につきあわされる部下も迷惑な話・・だったかもしれない。
   楠木正成は、なにゆえ、他の領主と違って、終始、天皇に従ったかというと、井上清『天皇制』(1953.1.10. 東大新書)には、次のように出ている。
≪ 楠正成は後醍醐天皇に忠義であった。なぜなら彼は皇室領の武士であり、後醍醐天皇は彼の主人であったから。それだけのことである。 当時天皇は後醍醐一人ではなかった。 光明天皇というものもあった。前々から皇室が二派にわかれて争っていた。さまざまのなり行きでその一派後醍醐派(大覚寺派)は足利氏と対立するようになり、そこで足利氏は持明院派の皇族を天皇にした。 南朝に仕えた正成が忠義なら北朝を立てた足利氏も皇室に忠義である。 どちらが本当に、またはより多く忠義かということはひま人の論議にまかせるが、どちらにしても愛国とは関係ない。 ・・・≫
(井上 清「古い愛国と新しい愛国」〔『われらの世界』1948.1.〕 〔井上清『天皇制』1953.1.10. 東大新書 所収〕)
   鎌倉時代末期、後醍醐天皇が支配していたのは河内から大和の一部分にかけての地域だけだった。 足利尊氏とか名和長年とかいった人は、それぞれが領主であったのに対し、楠正成は後醍醐天皇が領主である河内の武士だった。 だから、自分の領主に対して忠実であったのに対し、足利尊氏などは足利尊氏自身が領主であり後醍醐とは横の関係にあった。 だから、鎌倉幕府を倒すという点について大同団結したとしても、鎌倉幕府が倒れた後、それぞれの領主の連合政権が作られる際に、後醍醐の主導する南朝の方針に納得しない領主が多ければ、後醍醐は多くの領主の連合政権のリーダーとしての立場を失うことになる。 楠木正成はもともと後醍醐の部下だったから、足利尊氏のように横の関係にあった領主よりも後醍醐にいつまでも従ったが、連合政権のリーダーとして(足利尊氏+光明天皇)を選ぶか後醍醐を選ぶかという判断において、多くの領主は(足利尊氏+光明天皇)の方を選んだ。後醍醐が選ばれなかったということは、歴史の流れに逆行することをしようとして失敗した・・ということか。そもそも、多くの領主は忠義とかなんとかのために動いていたのではないはずだ。基本的には「一所懸命」であろう。自分の領地支配を守ることで、自分の領地支配を守るためには、どちらについた方が有利か。 それだけであろう。 楠木正成の場合は、もともとが河内地方の領主であった後醍醐の部下であったから、自分の領主に従った、ということであろう。 「ゲリラ戦が得意」とかお話としては魅力的なお話のある人物であるが、負け馬の領主に従って悲しい運命をたどった男ということになろう。

   もう少し、年齢がいって、小学校高学年から中学校にかけては、今度は、山岡宗八・司馬遼太郎・吉川英治などによる「必ずしも天皇を中心としない人物中心の日本史」としての「歴史小説」「時代小説」の影響を受けてしまった。 俺って、なにゆえ、関ケ原の戦いでは西軍びいきなのだろう・・と、ふと思ったことがある。 司馬遼太郎『関ケ原 (上・中・下)』(新潮社)の影響だった。 石田三成とその参謀・島左近を中心に描いたあの小説の影響だった。 『国盗り物語(1~4)』(新潮文庫)などにしても、司馬遼太郎はけっこう取材した上で書いているようだが、しょせんは、俗説をかきあつめて、不足の部分については創作して小説にしたものでしかない。 司馬遼太郎の『関ケ原(上・中・下)』によれば、石田三成と上杉景勝の家臣・直江兼継は、あらかじめ、打ち合わせをした上で、上杉が東で挙兵して、徳川家康が「上杉征伐」に東に向かった時に、石田三成が毛利輝元を大将、宇喜多秀家を副将に挙兵して東上した・・ということになっているが、実際に打ち合わせなんてしていたのか。 もしも、打ち合わせをしていたのなら、豊臣を別とすれば、1番の大大名である徳川家康に対抗するために、西軍は、せっかく、2番目の大大名である毛利輝元、3番目の大大名である上杉景勝という2位3位連合を結成していたのに、なぜ、2番目の毛利と3番目の上杉を西と東に分断するようなことをしたのか。関ケ原の戦いにおいては、石田・宇喜多・大谷・小西あたりしか実際に戦っていないにもかかわらず、西軍はけっこう善戦したのだから、毛利・上杉が徳川との決戦の場に戦隊を率いて参戦しておれば、どうなったかわからないのに、なぜ、西軍は関ケ原では4位以下連合で1位徳川と戦ったのか。渡邊大門『謎解き 東北の関ケ原』(2014.8.20.光文社新書)でも指摘されているが、結論として、打ち合わせなんてしていなかったのではないのか・・・と、落ち着いて考えてみると、司馬遼太郎の小説というものは、お話としてはけっこうおもしろいかもしれないが、歴史として考えると問題が多すぎる。
   最近、明智光秀の子孫だという明智憲三郎さんが『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)という本を出しているが、この方の推察の方が、小学校からの歴史の教科書などに書かれてきた本能寺の変とか山岡宗八や司馬遼太郎の小説で書かれる本能寺の変よりも現実味がある。 そもそも、明智光秀という人は、信長からも評価が高く、その時代においては判断力も優れた人であったらしいのに、その明智光秀が、信長と少々意見の食い違いががあったとか、年下の秀吉を大事にされたということでの妬みだとか、その程度ことでヤケクソみたいに本能寺の変をやるか? 実は、本能寺の変は、明智・徳川・長曾我部連合によるもので、もともとは、それに細川藤孝が加わっていたが、細川藤孝が裏切って羽柴秀吉についたことから、羽柴秀吉は、明智・徳川連合が織田信長・織田信忠を襲う計画を立てているのを知り、いつそれが実行されても即座に「中国大返し」ができるように、いつでも毛利と和睦できる状態で待っていた。 そして、明智光秀を羽柴秀吉が倒した後は、織田独裁政権を継承しようとする織田信孝・柴田勝家らに対し、信長の息子には一大名になってもらった上での織田の家臣による連合政権を主張する羽柴秀吉の方を多くの織田の家臣は支持した。ゆえに、秀吉は織田信孝や柴田勝家との勝負に勝った。 しかし、豊臣連合政権が豊臣独裁政権に移行しようとした時、柴田勝家との戦いにおいては秀吉についた旧織田の家臣は、もはや、豊臣につく理由はなくなった・・・・、という推測はかなり説得力がある。

   それで、かなり話が横道に行ってしまったが、竹内のスクネさん という方はどういう方かといっても、応神天皇とは、歴史上、ともかく実在した可能性が高いとされている最初の天皇なので、そんな昔むかしその昔の話はどこまで本当のことが伝わっているのかわからないし、『日本書紀』『古事記』の話なんてのは、お話としてはおもしろいお話もあるとしても、歴史としてはあまり信用できないものが多いので、実際にどうであったかというようなことはわからない。 竹内さんちのスクネさんは相当に長生きした人で、≪五朝の天子にお仕えされ、≫と白幡神社の現地での案内書きにも書かれているように、5人もの天皇に家臣として仕えたということは、別の見方をすると、「タケウチノスクネ」というのは、1人の人間ではなく、役職の名前か、もしくは、代々、子孫が同じ名前を継ぐことになっていて、初代タケウチノスクネ・二代目タケウチノスクネ・三代目タケウチノスクネ・・・・と何人かの話が「タケウチノスクネ」という名前で語られたか。 白土三平の漫画でも「猿飛佐助」というのは、対立する忍者が倒しても倒してもまた現れるというので、いったい何者なのだ・・というと、実は「猿飛の術を使う者がすべて『猿飛』である」ということだった、という話があるし、「分身の術」とかいうのも、実は双子だったり三つ子だったりとかいう話もあったりするが、竹内さんもそういう系統の可能性もありうるような気がする。

   それで。 かなり、問題の多いお話ではあるのだけれども、それを承知の上で、和歌森太郎 監修 考証解説・カゴ直利 作画『学習漫画 日本の歴史 1 国づくりの英雄 原始・大和時代』(1967.10.15.集英社)より引用する。(絵は引用のしようがないので、セリフのみ)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  応神天皇のころ――。
  きょう、皇子(みこ)が生まれました。
(タケウチノスクネ)「大王(おおきみ)さま おめでとうございます」
(応神天皇)「おお 大臣(おおおみ)のタケウチノスクネか」
(タケウチノスクネ)「わたしのところも けさ 男の子が生まれました」
「そのとき 家のやねに ミソサザイが とまっておりました」
「この御殿へくると 屋根にはミミズクがとまっておりました」
(応神天皇)「それは おもしろい その鳥の名をとりかえて
子どもに 名づけよう」
(タケウチノスクネ)「では わたしのほうは ズクノスクネ」
(応神天皇)「わたしの子は オオササギノミコとつけよう」
(タケウチノスクネ)「それは よい名です」
(応神天皇)「ふたりは いつまでも なかよく たすけあっていくだろう」
(ふたり)「はははは」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
というお話で、その応神天皇の方の子供・オオササギノミコが仁徳天皇になるわけです。
(実際にこの2人がこういう会話をしたかしていないか・・て、そんなもん今さらわかるわけないがな・・。)

   で・・・・・。 そのタケウチノスクネさんが、なぜ、白幡神社の祭神になっているか、ですが。
タケウチノスクネが仕えた応神天皇(ホンダワケ ノミコト)は後に八幡神と習合して、八幡神社の祭神となるわけです。 なにゆえ、ホンダワケが八幡神と習合したのか、よくわからないところもあるのですが、何か知らんが習合したわけです。 その八幡神と習合した応神天皇の家臣が竹内さんだったわけです。 だから、源氏の白旗を掲げた場所に設けた神社ということで、武神で源氏の守護神とされた八幡神に習合したホンダワケの家臣であった竹内さんが祭神にされた・・・ということで、なんだか、友だちの友だちは友だちだ、みたいなずいぶんと遠回りなつながりから、タケウチノスクネが祭神になったわけですが、おそらく、源氏の白旗を掲げた場所ということで聖地のように扱われたところに、『古事記』『日本書紀』に登場する誰かを祭神としようという計画が出て、竹内さんなんか妥当じゃないの? 下着泥棒とかもやってないみたいだし、野球賭博やった可能性だって低そうだし、いいんじゃない? て感じで選ばれた???
   しかし、それならそれで疑問も残ります。 源氏の白旗を掲げた所ということなら、そのものズバリ! 八幡神≒ホンダワケ=応神天皇 じゃだめなのか?  なにゆえ、応神天皇ではなくその家臣の竹内さんになったのか? という問題が出てくるわけです。

   市川市の最寄駅:京成「八幡」としては、葛飾八幡宮があります。 近くに他の八幡宮があるから、競合しないように、ホンダワケとは別の誰かを立てようか、誰がいい? 竹内さんは無難でいいんじゃない? てところから、竹内さんが祭神にされた???

   しかし、それならそれで、今度は、菅原さんは、なぜ、合祀されたのか? という問題が今度は出てきます。葛飾八幡宮がすぐ東にあるから、八幡社にしては競合するから、神社も平和共存してやっていくためには、それぞれ、別の特色を出した方がいい。栃木県南西部から群馬県南東部にかけての「両毛麺街道」にしても、佐野市はラーメン、館林市はうどんといった具合に、ラーメンの街・うどんの街・そばの街と「麺街道」でも市によって「売り」にするものを分けて平和共存を図っているように、葛飾八幡が八幡神で売るなら、こちらは別の神さんにした方がいいのじゃないか。 となると、天神さんなんていいのじゃないかい? この近所は菅原さんを専門に祀ってる神社は、西の方の今では東京都の亀戸天神くらいしか大手はないから、とかいうことで天神さんになった?
   でも、葛飾八幡宮の東側に葛飾天神もあるのです。 葛飾八幡の摂社ということになってはいますが、長屋住まいの神さま ではなく、ルームシェアの神さまでもない。 摂社とはいえ、けっこう大きな一戸建てに住んでる神さまです。 〔⇒[第154回]≪飾八幡宮・葛飾天満宮(市川市)訪問~冤罪を晴らす神様・怨念を晴らす神様・菅原道真・第2回  ≫https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html  〕

   でもね。 世の中には「大人の事情」てのもあるわけですよ。 葛飾天神は、神さんの方はけっこう大きな一戸建てに住んでおられる神さんでも、そこを管理している社務所はどこかというと、葛飾八幡の社務所が管理しているわけです。 となると、葛飾八幡の神職としては、本業は八幡さんで、天神さんは副業なんですね。
   となると、葛飾八幡のすぐ西にある白幡神社としては、天神さんを本業とすれば、けっこう「商売繁盛で笹もってこ~い♪」て感じでうまくいくんじゃないか・・て感じもするわけです。 一方、昔から、源氏の白旗を掲げた由緒ある場所ということで続けてきた神社として、菅原さんに来てもらったからといって、源氏の白旗の方のお話の方に簡単に「出て行ってちょうだい」なんて、薄情なこと言うわけにはいかないじゃないですか。 そうでしょ。 となると、「源氏の白旗」の方は、本田さんではなく本田さんの部下の竹内さんに担当してもらうことにして、竹内さんと菅原さんに同居していただくことにしようと。 それで、どちらを上に表記するかというと、ここは先輩を立てて竹内さんの方を上に書いて、菅原さんはここは大人になってもらって竹内さんの後に表記することにさせてもらおうと。 しかし、現実には竹内さんは本田さんの部下で、本田さんを主として祀ってる神社はすぐ東にあることだから、神社商売をする上では、菅原さんに頑張ってもらって、受験の神さまとして、ろくに勉強せんかったくせしやがって、人並みに学校行きたいぬかしやがるバカ息子・バカ娘が模擬試験の判定で「人事をつくして天命を待て」とか出されても、それでもどこか行きたい言いやがる時に、「困ったときの神頼み」として担当してもらおう、と。「困ったときの神頼み」と。 こんなことなら、もっと勉強しておけばよかった、とか言っても、もう遅い。 せめてできることとしては、天神社・天満宮でお守り買って持っていくくらい。 それでも不安・・・となれば、合格鉛筆とか、合格消しゴムとか・・、合格腹巻・・・はないか・・。 ともかく、受験を神徳とすれば、けっこう需要はあるだろうし、ついでに恋の神さまということにしておけば、それもけっこうバカ女がわんさと押しかけてもうかるんとちゃいまっか・・・てところで、神徳に恋愛成就なんてのまで加わった。 なんで、恋愛成就の神さまなんだというと、菅原道真は美男であった・・・・と言われた・・かもしれん・・ということにしておけばいいんでねえの?
・・・・・ということでこうなりました、のかどうか知らんで。 本当の話だと思って読んでくださった方、ごめんね。 もしかして、こんなこともないとは言えない・・・ということで、違うかもしれないし、一部分はあたっているが一部分は違うかもしれん。 あくまで、そういう可能性だってないとは言えない、くらいのお話。 〔 けっこう、おもしろかったでしょ (^◇^)  だめ?〕

   もうひとつ、明治維新政府の「政策」として、国民の精神を「教化」するために、全国に主要分野の神社をまんべんなく配置しようとして、この地域には八幡神は葛飾八幡があるから、白幡神社には天神を担当させようとして、「政策」として菅原道真が「合祀」された・・という可能性もないとは言えないような気もします。これについては、「白幡天神社参拝の3」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html の【7】境内末社 のところで述べました。 「白幡天神社参拝の2」「・・の3」もぜひご覧くださいますようお願いいたします。

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↑ 11月初め、菊の季節。 拝殿の前と社務所の前に菊が飾られています。 

☆ この続きを次回、[第264回]「白幡天神社(千葉県市川市)参拝の2」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html で述べます。ぜひ、続きを見てください。

※白幡天神社参拝は3部作。
1.社殿、祭神についての考察 〔今回〕
2.幸田露伴・永井荷風の碑、本殿の千木、スロープ他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.境内末社、ちっぽけな日本的七五三、「すいません」と言わない女は「営業力ある」か? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html

   (2015.11.1.)
   
☆ 冤罪を晴らす神様・菅原道真・怨念を晴らす全国お百度参り シリーズ
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
意富比神社 末社 天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社 天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市(白井市河原子の)天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
千葉神社 摂社 千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html

東京都 
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html

神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html  
永谷天満宮(横浜市港南区) http://shinkhousinght.at.webry.info/201309/article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html

岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 http://shinkahousinght.at.webry.info/201309/article_7.htm
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
村山天神(高山市国府町)
1上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
2村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
3村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
4あじめ峡、他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
桜山八幡宮 摂社 天満神社 http://shikahousinght.at.webry.info/201510/article_7.html

京都府
北野天満宮(京都市上京区)
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html

大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
露の天神社(お初天神)(大阪市北区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_5.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html
綱敷天神社 御旅社(大阪市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_11.html
池田市天神1丁目・2丁目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_10.html

熊本県
山崎菅原神社(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_6.html
船場天満宮(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_7.html
手取天満宮(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_8.html 



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