白幡天神社(千葉県市川市)参拝の2―露伴・荷風の碑、ちっぽけな「日本人」、スロープと車椅子・松葉杖

[第364回]冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り(28)‐2
   さて。 源氏の白旗を掲げた場所ということで設けられた白幡神社 の祭神に タケウチノスクネ さんが選ばれ、そこに菅原道真(≒天神)さんが加わったわけですが、市川市の菅野というのは、もとは「高級住宅地」だったらしく、「文人」が住んだ場所でもあったらしいのです。 今は必ずしもそうでもないし(というと、気分を害される方もあるかもしれないけれども、そう金持ちばっかり住んでるわけでもないと思います)、外環道なんてのが菅野を通るというので反対もあったようだけれども、どうも通りそうです。

【2】幸田露伴の碑 と 永井荷風の碑
   白幡天神社にも、「文人」に関する碑があります。 ↓
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↑ 幸田露伴文学之碑
(↑ クリックすると大きくなります。 ぜひ、クリックして見てください。)
↑の写真の側は神社の外を向いた側で、たぶん、碑としては「裏側」だと思うのです。 しかし、それなら、「表側」は何と書いてあるかというと、「幸田露伴文学之碑」と書いてあるだけなので、それなら、「裏側」とはいえ、いろいろ書いてある方を掲載した方がいいと思って、こちらを選びました。
≪ 幸田露伴は小説「五重塔」「運命」等の作品で有名な作家である。・・・ ≫と書かれていますが、白幡天神社に「五重塔」があるわけではなく、市川市と船橋市の境目付近の市川市にある中山法華経寺の五重塔のことでもなく、この五重塔は東京都台東区のJR日暮里駅の西のあたりにある天王寺の五重塔のことで、天王寺は今もありますが、天王寺の五重塔は、関東大震災にも耐え太平洋戦争の空襲も免れて戦後まで存在したものの、戦後、放火による心中により焼失して、今は「五重塔跡」として場所はわかるものの、塔は今はない。
※≪・・・1947年(昭和22年)7月30日、戦後移り住んだ千葉県市川市において、満80歳で没。・・・≫(《ウィキペディア―幸田露伴》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%94%B0%E9%9C%B2%E4%BC%B4

   そして、
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↑ 永井荷風の碑
(↑ クリックすると大きくなるので、ぜひ大きくして見てください。)
≪ 松しげる 
  生垣つづき 花かをる
  菅野はげにも
  うつくしき里

白幡天神祠畔の休茶屋にて
牛乳を飲む 帰途り緑陰の
垣根道を歩みつつ ユーゴーの
詩集を読む
砂道平らにして 人来たらず
唯鳥語の欣々たるを聞くのみ
  「断腸亭日乗」  ≫

これは表面で、裏面にもいろいろと書かれているのですが、こちらは表面の方がいいと思うので、表面を掲載させていただきます。 
  幸田露伴の『五重塔』は高校生の時に読みましたが、永井荷風の『断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)』は、まだ読んだことがありません。 《ウィキペディア―断腸亭日乗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AD%E8%85%B8%E4%BA%AD%E6%97%A5%E4%B9%97  によると、永井荷風の日記で死の前日まで書いたというものだそうです。 
  幸田露伴は市川市のこの白幡神社の近くに住んだそうで、永井荷風は市川市菅野に住んで白幡神社へ足を運ぶことがあったらしい。 もっとも、私らは、荷風さんみたいに悠然とユーゴ―の詩を読んでいる時間はありませんけれども・・・・。 幸田露伴にしても、永井荷風にしても、晩年にこのあたりに住みついたらしく、そういう土地柄だったのでしょうか。 もっとも、永井荷風の碑に書かれている文章と現在のこの付近とではかなり違いがあります。 「人来たらず」などということはありませんし、砂道ではなくアスファルト舗装された道路で、牛乳を出す休茶屋はありません。

≪ ・・・大正6年(1917)から死の前日(1959)まで書き続けられた『断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)』は、戦前戦後の社会・風俗を活写した日記文学の傑作として知られている。・・・
  東京を空襲で焼け出され疎開していた荷風が市川に移ったのは昭和21年(1946)1月16日のこと。菅野(市川市)の知人大島一雄宅、フランス文学者小西茂也宅などで過ごした後、昭和23年(1948年)には京成八幡駅近くに家を新築し、一人暮らしの気まま自炊生活を送っている。
  市川移転直後の『断腸亭日乗』には「近巷空地林園多くして静かなり」とその環境の良さを褒め、別の日には「世を逃れて隠住むには適せし地なるが如し」と印象を語っている。・・・≫
(山本博文 監修 春日一夫・岸祐二・中丸満・吉田沙吾・渡邊大門 執筆『あなたの知らない千葉県の歴史』2012.7.20.洋泉社)
  今でも、市川市の北部には梨園はあるが、京成の八幡の駅から白幡天神社にかけては、永井荷風が述べている状況とは相当違う。 そもそも、≪世を逃れて隠住むには適せし地なるが如し≫などと言ってくださっているが、私ら、それより東京から遠い駅で駅から京成八幡から白幡天神社までよりずっと遠い距離の場所から東京都内まで通ってるんだよね・・・。

※ ≪1879年 12月3日 - 東京市小石川区金富町45番地(現文京区春日二丁目)に内務省衛生局事務取扱の永井久一郎(尾張国(現愛知県出身)、号禾原・来青閣主人)、恒(つね)の長男として生まれた。母恒は儒者鷲津毅堂の二女。 ・・・
1946年 1月 - 千葉県市川市菅野258番地(現菅野三丁目)の杵屋五叟の転居先に寄寓。
1947年 1月 - 市川市菅野の小西茂也方に寄寓。
1948年 12月 - 市川市菅野1124番地(現東菅野二丁目)に瓦葺18坪の家を買い入れ、移転。・・・
1957年 3月 - 市川市八幡町四丁目1224番地(現八幡三丁目)に転居。
1959年 4月30日 - 死去。死因は胃潰瘍の吐血による窒息死(『荷風外傳』)。≫
(《ウィキペディア―永井荷風》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E8%8D%B7%E9%A2%A8 )
※ 《市川の文化人 永井荷風 (市川市)》http://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/1551000004.html

【3】 ご神木の碑
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↑「ご神木由来」
≪ ・・・・この黒松の巨木は樹齢およそ三百年といわれ・・・・
・・・・市川市文化財審議会において市天然記念物に指定が決まり公示を二週間余り後に待つばかりの昭和五十四年三月十一日おりからの風速二十五メートルの北西の強風によって地上およそ八メートルのところから折れたものである。
  現在植えられているご神木は昭和五十四年十一月七日に石井㐂作氏によって奉納されたものである。
      昭和五十五年十月
        宮司 鈴木義信 ≫
と出ています。


【4】 「国威宣揚」の碑 と 哀れでちっぽけな「日本人」
   参道脇には、↓のような碑もあります。
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↑ 「国威宣揚」と書かれています。 戦中の軍国主義の時代のような文句の碑を今も建てているのかという感じがしますが、いつ、建てられたものか、裏面を見て見ますと、「昭和十七年十二月」と書かれています。 昭和17年は西暦にしますと1942年。 満州事変が1931年。 日中戦争開始の盧溝橋事件が1937年。 太平洋戦争開始の真珠湾攻撃が1941年12月で、ポツダム宣言受諾により「敗戦」だか「終戦」だか(実際は両方ですが)が、1945年8月ですから、昭和17年(1942年)12月といえば、まさに戦中も戦中です。
  その時代、「国威宣揚」という文句の石碑が建てられ、敗戦に向かったのです。 その時代に20代はじめであった私の父は、その時代の影響を強く受けたようで、よく、私に「とってちってたあ~あ!」とか「てってこっこてっててってらったらったらったらあ~あ♪」とか言っていました。 その時代、「お国のために」と言っていたのを、戦後、どうしたか。 「お国のために」をやめて、もっと「自分自身のために」生きればよさそうなのですが、「・・・のために」から脱皮できないかわいそうな人は、「お国のために」のかわりに「会社のために」と言い続けたのでした。
   そして、「世界に冠たるドイツ」についていけば大丈夫という信仰が崩れた時、もっと独立自尊の精神をもって、みずから自分自身で歩む努力をするようになれば良いと思うのですが、「英雄ヒットラー総統」を信じて「世界に冠たるナチスドイツ」についていけば大丈夫という信仰が崩れた時、その信仰を持って生きてきた人は、かわりに「アメリカ合衆国」に付き従うようになったようです。
≪ ・・・池田蔵相(池田勇人)は、50年5月22日、東京から京都への汽車中で、「日本はアメリカの妾みたいなものだから、だんなのごきげんをとるのは当然だ」と放言した。 ・・・・・≫
(井上 清『現代日本女性史』1962.5.21. 三一新書)
かつて、「世界に冠たるナチスドイツ」「英雄ヒットラー総統」について行けば大丈夫と信じて、ちっとも大丈夫じゃなかったわけです。 それがわかったら、もう誰かどこかを信じてついていくのではなく、もっと独立自尊の精神をもって、みずから考えて判断して進むことを考えればと思うのですが、第二次世界大戦でドイツが敗れた後、「とってちってたあ~あ」「てってこっこてっててってらったらったらったらあ~あ♪」という教育を受けてきた人は、今度はアメリカ合衆国さんに付き従う道を選んだのです。 なんとも・・。

≪ あなたがた、創造する人々よ、この「・・・・・のために」を忘れよ。 あなたがたの徳が欲することは、まさしく、あなたがたがどんなことをも「・・・・のために」や「・・・・のゆえに」や「・・・・・の理由で」などでしないことだ。 こういういつわりの多い、小さい言葉にたいしては、あなたがたの耳をのりづけにしてふさぐべきである。 ・・・≫
(フリードリヒ=ニーチェ『ツァラトゥストラ(はこう語った)』手塚富雄訳 〔手塚富雄責任編集『世界の名著 ニーチェ』1978.5.20. 中公バックス 所収〕
  「お国のために」と戦中に教育されたかわいそうな人たちは、戦後、その思想を捨てて自分自身のために生きればよさそうなものだったのですが、「お国のために」生きることしかできない、「お国のために」生きているという幻覚のもとでしか生きることのできない人は、戦後、「お国のために」が弱まった時代においては、代わりに「会社のために、とってちってたあ~あ♪」というのを出してきたのです。 「日本的ワーカホリック」「日本的エコノミックアニマル」が。 


【5】 本殿の千木(ちぎ)。 男の神様。
   神社の場合、拝殿は見えても本殿は見せてもらえないという場合がありますが、白幡天神社の場合、本殿の右手(東側)に境内末社があり、末社の側から本殿の側面がいくらか見えます。 その屋根の部分を見ますと↓
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↑ どうも、このあたりが気になるのは建築屋の職業病かもしれませんが、
≪ 堅魚木(かつおぎ)というのは棟の上にあって、棟と直角になるように載せる部材です。 御上神社の本殿の棟には三本の堅魚木が載っています。 また、千木(ちぎ)というのは棟の両端に左右から交差するように載せた部材です。
  この千木(ちぎ)の上のほうの先端断面が地面と垂直になっていたら、その神社が祀っているのは男の神様、地面と水平になっていたら女の神様と言われています。
  また、男の神様の千木は、側面に穴が開けられてあるとも言われます。 さらに、堅魚木についても同じようなことが言われていて、奇数なら男の神様、偶数なら女の神様ということです。御上神社の本殿の堅魚木は三本、千木の先端は地面と垂直になっていますから、男の神様を祀っているということになります。
  しかし、他の神社はどうかと言うと、堅魚木の偶数奇数の先端の切り方で、男の神様か女の神様か必ず見分けがつくということもないようなので、お話の種というぐらいに思っておいたほうがいいかもしれません。 ≫
松浦昭次『宮大工と歩く千年の古寺―ここだけは見ておきたい古建築の美と技』2007.9.5. 祥伝社 黄金文庫)
   ↑の写真を見ると、千木の先端は地面と垂直になっており、又、側面に穴が開いています。 タケウチノスクネにせよ、菅原道真にせよ、男性ですから、本殿の屋根の千木が男の神様の仕様になっていてよいわけですね。 堅魚木が何本あるかは残念ながら見えません。


【6】 階段とスロープ、エレベーターとエスカレーター。 足を骨折した場合、車いすと松葉づえの場合。高齢者の場合について。
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↑ 西側から(白幡天神公園側からの)入口には、階段とともにスロープが設置されています。(このあたりに気づくというのは、やはり、建築屋の職業病でしょうか。) スロープがあるのは親切でいいと思いますが、しかし、これは、基本的には車いすを押してくれる人がいた場合のことで、自分で車いすの横の輪を回して進む場合に利用するのは簡単ではありません。
   スロープは誰にとってでも楽で助かるかというと、実はそうでもなく人によって違いがあるのです。 実は昨年、2014年9月に右足を骨折いたしまして、しばらく、松葉づえ生活をいたしました。 最初に整形外科に診察を受けに行った時、道路を隔てた向かいに薬局があるというので、車いすを貸してもらい、自分で横の輪を回転させて行きました。 薬局の前には、さすがに薬局だけあってスロープが設けられていました。 しかし、です。 歩いて通る際の感覚では、相当に緩やかに思えるスロープだったのですが、車いすを自分で横の輪を回して登ろうとしますと・・・・・、どうなったと思いますか?  ・・・後ろにひっくり返ったのです。 別に背もたれにもたれて体重を後ろにかけていたというわけでもありません。普通に座っていたのですが、上りのスロープでは、人に押してもらうのではなく、自分で車いすを横の輪を回して進もうとすると、相当緩やかなスロープでも後ろにひっくり返ってしまうのです。 ↑のスロープも、車いすの場合、人に後ろから押してもらう場合は大丈夫だと思いますが、自分自身で車いすの横の輪を回して前に進もうとするならば、後ろにひっくり返る可能性があると思います。 自分自身で車いすの横の輪を回して前に進もうとした時に後ろにひっくり帰らないスロープの勾配ということになると、これは相当に緩やかなものを設けないとだめではないでしょうか。 そうなると、設けることができるスペースがない所が多くなってくる可能性が小さくありません。
   スロープは車いすを使用する人だけのためというわけではありません。 在来木造の I 社に在籍した時、お父さんが植木の剪定をされていて落下してしまい、頭を打ったことから、その後、足が2センチ程度しか上がらなくなってしまったという方がおられました。 こういう場合に難しいのは、完全に身障者用の住宅を作ってしまうと、健常者にとっては住みにくい家になってしまう可能性もあるという点です。 それで、玄関だけは片方に階段を設け、その横に「行って帰って」のスロープを設けました。 ↑の写真のスロープより勾配は大きかったはずですが、車いすを使用するわけではなく、まったく足が動かないわけではないので、建築の本に出ていた好ましい勾配より大きめの勾配、↑のスロープくらいの勾配で作りましたが使っていただくことはできたようです。
   建築の本にスロープの勾配は何分の1以下でと出ている数値はあまり絶対視しない方がいいと思います。その数値通りで計画するとものすごい面積を必要としたり、又、車椅子を自分で動かすか人に押してもらうか、階段1段分の高さに足が上がらないが自分で歩けるかによって求められる勾配も変わります。
   足を骨折した者にとって、車いすではなく松葉づえを使用する場合はどうかと言いますと、私の場合、2段や3段くらいなら上がれましたし降りることもできましたから、↑の程度なら階段でも特に困ることはありませんでした。 それに対して、電車で座れない時に、揺れる電車の中で松葉づえで立っていることができるかというと、かなり不安があります。松葉づえを両手に持った上でつり革をつかむというのも難しいですし。 松葉づえで電車に乗っている人を見かけることがありますが、相当に松葉づえに慣れている人か、もしくは相当なおってきていて松葉づえは「念のため」の段階に入った人かならいいと思いますが、私の場合は怖くて松葉づえで電車に立って乗ることはできませんでした。整形外科の医者からもそれはやめた方がいいと言われましたし。
   エレベーターとエスカレーターは役に立つかという問題があります。 足を骨折して松葉づえを使用している者にとって、エレベーターは助かります。 それに対し、エスカレーターはだめです。 昨年の怪我は工事現場での労災でしたので、労働基準監督署に行って話をする必要があり、その場合の労基署は自分が住んでいる場所の労基署ではなく、使用者である会社の管轄の労基署なので、そこまで行く必要があり、病院に行くためのタクシー代は出るケースもありますが、労基署に行くためのタクシー代は労災保険では出ませんので、始発の駅から乗って、労基署に比較的近い駅でエレベーターのある駅で降りて、そこからタクシーに乗って行くようにしました。 私は痛風になったことが何度かあるのですが、通風が出たのは今まですべて左足の親指です。左足の親指が不自由でも、オートマチック車の自家用車はアクセルもブレーキも右足で踏みますから運転できます。 ところが、右足を骨折してしまうと、アクセルとブレーキを左足で踏むことはできませんから自分でクルマを運転することができません。 タクシーを利用するしかなくなります。 そして、少しくらいなら階段は松葉づえで登れますが、揺れる電車で立っていることができるかどうかわからないので、始発で電車が出る駅から乗って座っていけるようにしました。 降りる駅はエレベーターの設置されている駅で降りたいと思い、JR東日本に電話をして尋ねたのですが、電話で答えてくれた人は、親切のつもりで、エレベーターのありなしとエスカレーターのありなしを答えてくれたのですが、エスカレーターはあってもだめです。 相当に松葉づえに慣れた人なら別かもしれませんが、エスカレーターは乗る時と降りる時が無事にできるかどうかわからないので使えないのです。 又、足の先端を石膏で固めたので靴を履くことができず、靴下の外側にビニル袋を巻いて外出しましたが、エスカレーターの乗る時、降りる時に、そのビニル袋がどこかに挟まれてしまうことはないかという不安もあり、私の場合、エスカレーターなら、普通の階段をゆっくりと松葉杖で上がり降りする方がまだ良いくらいでした。
  昨年の足のケガのおかげで、まさに「怪我の功名」として、車いすと松葉づえを使用した場合のことを勉強させてもらうことができました。
  高齢者の場合はどうかといいますと、私の母を見ていると、何年か前は大義がらずに登っていた階段を登ることができなくなり、駅などでも最初は登りのエスカレーターを欲しがりました。 次に、上りは登れても、下りの階段が怖いと言って、上りよりも下りのエスカレーターを欲しがるようになりました。 駅などでは上りのエスカレーターはあっても下りのエスカレーターはない場合が多いのですが、歩き始めた子供と一緒で、上りは登れても下りが怖いという状態になるようです。 エレベーターとエスカレーターはどちらがいいかというと、最初はエスカレーターの方がいいと言いました。なぜなら、エレベーターは中で操作ができなくなる可能性があり、とじこめられた時にどうするか不安があるからです。 それに対してエスカレーターはとじこめられることはないので、エスカレーターの方がいいと言っていたのです。 ところが、それからさらに年齢を行くと、今度はエスカレーターに乗る時と降りる時が難しいのです。そうなると、エスカレーターよりもエレベーターの方が私が一緒に乗る限りは良いことになります。 さらに、片方はエスカレーターの手すりをもって、もう片方には私が乗って手をささえてあげないと片方だけのささえでは倒れてしまうのですが、最近のエスカレーターは「右側をあけてお乗りください」という理不尽な習慣がついてしまって、2人が横に並んで乗ることが困難で、だからといって、年よりを1人だけで乗せることはできないし、1人だけで乗せてしまっては降ろすことができないのです。
   エスカレーターに片側にだけ乗って、東京では右側、関西では左側を開けて立ち、空いた側を歩くという習慣は体が不自由な高齢者を家族に持つ者としてはやめてほしいですね。 東京では右側を空けて、関西では左側を空けてというのも困るのです。 母は脳梗塞と脳卒中をやったことがあるため、体の左右が同じだけ動くわけではなく、右ではできるが左ではできない、左ではできるが右ではできないというものもあるのです。
   まず、静止して乗る場合と片方を歩く場合であれば必要される幅が異なるはずで、現在のエスカレーターは2人が静止して乗る場合の幅で作られていながら、片方を歩いています。 インテリアコーディネーターの学科試験を受ける時に学習していて気づいたのです。 日本のエスカレーターの幅は2人が静止して乗る幅で作られているにもかかわらず、1人が静止して乗って、片方を1人が歩いているという不自然な状態であることに。 あれは、やめてほしいと思います。
  又、エスカレーターは、多少、安全側に余裕をもって作られているでしょうけれども、基本的には静止して乗るものという前提で作られていませんか? それを片側を歩くと、安全側の余裕が小さくなるということはありませんか。 片側に静止して乗って、片側を歩くという習慣はやめるべきだと思います。

   私が右足を骨折するに至った工事現場は、埼玉県朝霞市の(株)大京のマンションの建設現場で施工会社は川口土木建築工業(株)http://www.kawado.co.jp/ という埼玉県川口市のいいかげんな会社で、川口土木建築工業(株)に怪我を悪化させられたのは三菱地所レジデンス(株)の東京都墨田区のマンションの工事現場で、この会社の対応は極めて不誠実なものでした。 どういう対応であったのかは、他の方にも参考になると思うので、このブログでも、いずれ、きっちりと述べるつもりです。

☆ 次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html 、白幡天神社 の 境内末社などについて他を述べます。 ご覧くださいませ。

☆ 白幡天神社参拝は3部作
1.社殿、祭神についての考察 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.幸田露伴・永井荷風の碑、本殿の千木、スロープ他 〔今回〕
3.境内末社、ちっぽけな日本的七五三、「すいません」と言わない女は「営業力ある」か? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html

   (2015.11.02.)

☆ 冤罪を晴らす神様・菅原道真・怨念を晴らす全国お百度参り シリーズ
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)1~3 〔今回〕
意富比神社 末社 天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社 天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市(白井市河原子の)天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
千葉神社 摂社 千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html

東京都 
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html

神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html  
永谷天満宮(横浜市港南区) http://shinkhousinght.at.webry.info/201309/article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html

岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 http://shinkahousinght.at.webry.info/201309/article_7.htm
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
村山天神(高山市国府町)
1上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
2村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
3村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
4あじめ峡、他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
桜山八幡宮 摂社 天満神社 http://shikahousinght.at.webry.info/201510/article_7.html

京都府
北野天満宮(京都市上京区)
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html

大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
露の天神社(お初天神)(大阪市北区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_5.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html
綱敷天神社 御旅社(大阪市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_11.html
池田市天神1丁目・2丁目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_10.html

熊本県
山崎菅原神社(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_6.html
船場天満宮(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_7.html
手取天満宮(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_8.html 


五重塔 (岩波文庫)
岩波書店
幸田 露伴

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≪ ・・・嵐の風のそよと吹けば丹誠凝らせし彼(あの)塔も倒れやせむと疑わるとは、ええ腹の立つ、泣きたいような、それほど我(おれ)は腑の無い奴か、自己(おのれ)が為(し)たる仕事が恥辱(はぢ)を受けてものめのめ面(つら)押(おし)拭ふて自己(おのれ)は生きて居るやうな男と我(おれ)は見らるるか、仮令ば(たとえば)彼(あの)塔倒れた時生きて居やうか生きたからうか、ゑゝ口惜しい、腹の立つ、・・・・≫
幸田露伴『五重塔』岩波文庫 ↑)
たしかに、天王寺の五重塔は関東大震災にも倒壊することはなかったが、もっとも、大阪の四天王寺の五重塔が室戸台風の時に倒壊した点について、坂本巧『木造建築を見直す』(2000.5.19.岩波新書)では、五重塔というのは、「行ったり来たり」の地震の揺れにはけっこう強いのに対し、一方向的に継続的に力が加わる台風の力に対しては強いとは言えないのではないか、といった指摘もされている。
  幸田露伴の『五重塔』は「職人気質を描いた小説」とは言われるが、工事管理の仕事をしている人間と話をすると、そんな職人ばかりなら苦労しないよ・・・みたいなことを言う者もいるし、実際のところ、一方で、「大工さま」だ、「職人さま」だという態度をとるかと思うと、責任を問われる時になると「職人なんて、牛や馬みたいなもんだから」などと言って逃げるずるい人も中にいます。その職種についている人間だからどうというのではなく、人それぞれではないか。  「女性だからといって男性と差別されるのはおかしい」と主張しながら、責任を問われる時になると、「女」に逃げ込むずるい女性もいる。 建築業界においては、男性の従業員は、職種は職人でなくても従業員である以上、建築現場で他の者が重い物を苦労して運んでおれば、そこにいる限り自分も何なりとやるものだと考えるものだが、「男性がやるものでしょ」と大きな顔をして部屋中に入って座ってコーヒー飲む女もいる。〔東海住宅(株)で店長になっていたOさんはそれだった。〕職種が何かにかかわらず、他のものが大変な思いで物を運んでいたりすれば、お客さんではなく従業員ならそこにいる限り何なとやるものだと認識している人間と部屋中入って座ってコーヒー飲む女が同じ扱いなら、むしろ、不公平ではないのかとも思うのだが。

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