間違っていないらしい天皇のワイングラスの持ち方。暴走族みたいな「建築家」、大久保清みたいな「建築家」
[第371回]
2015年4月9日の「毎日新聞」<朝刊>に天皇のパラオ訪問の記事と写真が掲載されていた。↓
今回、ここで話題とするのは、「ワイングラスの持ち方」である。
ワイングラスはどの部分を持つべきか。↓の図を見て考えたい。
↑ これは《ウィキペディア―ワイングラス》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9 に掲載の写真を印刷して私が書き込んだものです。
↑ 上の写真を見ると、天皇は(3)の部分を持っている。 こういう人は外国訪問の際に国際的なマナーに反することをしてしまって恥をかくことがないように宮内庁の役人が事前に説明をしていると思われるので、一通りまともな作法をとっていることが多いと思うのだが、私が書き込みをした図の(3)の部分を持つのが正しいか。
ワインとはどういう性質があるかを考えるため、キッチンスペシャリストハンドブック編集委員会 企画『キッチンスペシャリスト ハンドブック』(1988.5.日本住宅設備システム協会)より「ワインセラー」についての部分を引用する。
≪ セラーとは地下室や穴蔵という意味である。 光を避けて温度を一定に保つには深い地下空間が適していたためだが、家庭でつくる地下室程度では理想的なワインの貯蔵はむずかしく、本格的なものを望む場合は空調が必要になり、外国製品の一部には商品化されているものもある。 ワインの貯蔵条件は以下の六つである。
(1) 温度は12~14℃
(2) 湿度は75%前後
(3) 光線を避ける
(4) 振動がない
(5) くさいものと一緒にしない
(6) 必ず横にして寝かせる。 ≫
ワインは高温にすると質が低下する飲み物なので、手のひらの体温が伝わらないようにした方が良いという点があるようだ。 また、手の感覚としても、湯のみ茶碗などは、冬の寒い時期に、手のひらで持つことで、手のひらも温まるのがここちよいということがあるが、「頭寒足熱」といって夏の暑い時期においても足の裏と手のひらは温かい方がここちよく健康にもよいはずであり、ワイングラスなど比較的冷たいものを入れたグラスのボウルの部分を手のひらで持つと、手のひらの感覚としてもここちよいものではないので、その点から考えると、ボウルの部分は持たない方が良いことになる。
そうなると、↑の私が書き込みをした図の、(1)、(2)、(3)のいずれかということになるが、このいずれが適切な持ち方なのか、ということになる。 乱暴な考え方をするなら、呑み助が自宅で飲む場合は自分が好きなように持って好きなように飲めばよいということになるが、ワインというものの性質から考えるなら、ボウルは持たない方が良いはずだ。
(1)の部分を持つと、手のひらの温度はボウルの中のワインに伝わらないだろうけれども、安定が悪くて持ちにくいと思うのだ。 しかし、インターネットで検索したりすると、この(1)の部分を持っている人の写真がけっこう出ている。 ひとつには、どういうシチュエーションで持っているかということもあるらしく、「きき酒会」のような場で、「わたしはこれを飲んでいます」と示すためであれば、(1)を持った方が人に見せるには適しているようだ。
私は、(2)を持つものだと思ってきた。 ボウルとステム(脚)のどちらを持つべきかというと、ワイングラスは手のひらの体温がワインに伝わりにくいように、かつ、ワインの冷たさで手のひらに不快感が出ないようにということでこういう形状をしているのであって、そうでなければ、こんな割れやすい、かさばった、収納しにくい格好をする必要はないのであり、こういう形状のグラスを使用しておきながら、ボウルを持つアホはないのであるから、それを考えると(2)を持つものだと思ったのだ。
ワイングラスと似た「ボウル+ステム(脚)」という形状のグラスに、シャンペングラス、カクテルグラス、ブランデーグラス、ゴブレットといったものがある。どう違うかというと、『キッチンスペシャリスト ハンドブック』には、
≪ ワイングラスには赤ワイン用、白ワイン用、兼用タイプとあるが、赤ワイン用はやや大きめである。
ゴブレットはワイングラスより大きめで、水などを飲むのに適している。
タンブラーは台付きでなく、日常最もよく使われるグラスである。
ロックグラスは口の大きいどっしりしたもので、オールドファッショングラスとも呼ばれる。
そのほかにシャンペングラス、ブランデーグラス、カクテルグラスなどがある。 ≫
と出ている。 タンブラーとロックグラスは、ワイングラスのような「ボウル+ステム(脚)」の形状ではなく、「普通のガラスのコップ」のような形状である。
1988年1月、ナポリのピザ屋に入った時、水をこういう「ボウル+ステム(脚)」の形状のグラスに入れて出されたので、え? 水をワイングラスで飲むの? と思ったのだが、ワイングラスではなくゴブレットというものだったようだ。百貨店のワイングラスなどの売り場に行って見ても、「ワイン、及び、水用」と書かれたものもあり、ワインと水なら水の方が多く飲むのが普通なので、ゴブレットの方がワイングラスよりもひと回り大きいのですが、水なみにワインを飲むおっさんだっているでしょうから、中間くらいの容量のものが「ワイン、及び、水用」だったりするのでしょう。
ナポリのピザ屋で出されたゴブレットに入った水がおいしく思ったのです。それで、日本に帰ってから、ゴブレット、もしくは大き目のワイングラスを購入して、ミネラルウォーターを入れて飲んでみると「普通のガラスのコップ」に入れて飲むよりおいしいのです。手のひらの温度が伝わらないのでミネラルウォーターの温度が上がらないということもあるかもしれないが、「普通のガラスのコップ」だと手のひらにミネラルウォ―アターの冷たさが伝わって気持ちよくないので早めに飲むことになるのではないか、それに対し、ゴブレットに入れてステム(脚)の部分を持って飲むと手のひらの気持ちの悪さというものがないので、それで自分が飲みたいペースで飲むことができるということがあるのではないかと思います。
それ以来、「大き目のワイングラス」にミネラルウォーターを入れて、(2)の部分を持って飲んできたのですが、インターネットで「政府要人」というような人がワインを飲んでいる場面の写真を見ると、(2)の部分を持っている人と、(3)の部分を持っている人があるのです。 (3)の部分を持つ人というのは、親指と人差し指で輪を作ってボウルの最下部を乗せるようにして小指・薬指などでステム(脚)を握るわけです。 (2)の部分を持つ場合は、5本の指全体でステム(脚)を握ります。 ↑の写真の天皇の持ち方は(3)です。
雁屋 哲の『美味しんぼ』で、山岡とか海原雄山とかワインの専門家とか「食」に詳しいとされる登場人物がどういう持ち方をしているか見てみると、(2)の部分を持っている場合と、(3)の部分を持っている場合の両方がありました。
↑ (2)のステム(脚)の部分を持つ持ち方。 (海原雄山・山岡士郎・「ワイン評論家」上杉)
〔↑ の2つの絵は、[第185回]《『美味しんぼ』に学ぶ ワイングラス・ゴブレットの持ち方vs「建築家」式持ち方。及、20代の貧乏な生活 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201306article_2.html でも引用させていただきました。〕
↑ 最初の写真の天皇のワイングラスの持ち方と同じ(3)を持つ持ち方。 (山岡)
もしも、手の温度がボウルとボウルの中のワインに伝わらないようにということなら、(2)の方が(3)よりも良いと思われますが、しかし、一方で、(2)の持ち方だと、指でステム(脚)の部分を掴んで持つわけですから、長時間持つには疲れると思うのです。 それに対し、(3)の部分を持つ方法だと、小指・薬指でステムを掴んでいるとはいえ、親指と人差し指の輪の上にボウルを載たり指の間にステムを挟んだりしているので、ある程度以上の時間、持つにはこちらの方が疲れないのではないでしょうか。 又、ワインは高温を嫌うといっても、貯蔵する場合には高温を避けた方がよいでしょうけれども、すでにワイングラスに注がれたワインを自分が飲む場合に、ボウルをわしづかみにして手のひらの体温をボウルとボウルの中のワインに伝える必要はありませんが、(3)の持ち方をして、親指と人差し指の輪の部分がボウルにふれたという程度なら、急激に質が低下するとまではいかないのではないか、と考えることができるかもしれません。
結論としては、ワイングラス、及び、ゴブレットなど「ボウル+ステム(脚)」の形状のグラスの持ち方としては、「(2)もしくは(3)のいずれか」ということで良さそうな感じです。
ユニーク(unique)というのかエクセントリック(eccentric)というのかが「建築家」流。 2010年12月に千葉市中央区鵜の森町 の新華ハウジング(有)〔建設業〕・ジャムズグローバルスクエア(株)〔不明業〕の忘年会で、「建築家のつくる家」「一級建築士」と名刺に入れたN村設計事務所のおっさんが、ワイングラスの↑の図でいうところの、(1)の部分を手のひらでわしづかみにしてワインを飲んだので、びっくりしたことがありました。 あ~んまり、そんなワインの飲み方する人ないと思うけれどもなあ~あ・・・・・と。 今は昔、清原一博が西武ライオンズにいた時だったか巨人にいた時だったか、ラジオの野球中継を聞いていたところ、後方に上がったファーストフライを追って落球した時があり、その際、前を向いて、右足左足をバックして取ろうとして落としたのを見て、「解説者の豊田さん」が、「自動車バックをしましたねえ~え。あ~んまり、あんなフライの追い方する人ないと思うんだけどねえ~え」と言ったのを覚えていますが、そんな感じ。 ワイングラスの持ち方として(2)を持つ人と(3)を持つ人はおり、「きき酒会」とかでなくてもそういう場で(1)を持っている人の写真を見ることがあることから、ワイングラスは(1)を持つのがマナーなのかと思い、(1)を持つ人というのはいるのですが、(4)をわしづかみにするおっさんて、「あ~んまり、そんなことする人、ないと思うんですけどねえ~え・・・・」と思いました。 (4)をわしづかみにするのだったら、何もワイングラスに入れることはないわけです。「普通のガラスのコップ」で十分なんです。 「普通のガラスのコップ」の方が割れにくいし収納しやすいんです。ワイングラスに入れて出してもらった以上、(2)か(3)のどちらかを持つべきはずなんです。 それが、「ごんたくれの10代か20代くらいのガキども」がやるなら、「こら、こら、こら、ワイングラスはそんな持ち方をするもんじゃない」と教えてあげてもいいわけですが、「建築家のつくる家」「いっきゅうけんちくしい~い!」とかいうおっさんが堂々とやるもんですから、まあ、「自称 建築家」てやつはこんなもんんかな、と思いました。
住宅を扱う建築屋にとっては、食器というのは建築の一部分のはずなんです。 だから、グラスについても理解しておくべきなんです。 だから、他の職業の人がワイングラスの(4)をグワッとわしづかみにするのと、住宅建築業に従事する人間がやるのとでは意味が違うんですわ。 住宅の建築屋は食器についても理解しておくべきで、どのような食器があって、それはどのように収納するべきかといったことを理解しておくというのは仕事のうちなんです。 ところが、「建築家」というのはやることがユニークというのか、エクセントリックというのか・・・、なんだか、普通じゃないわ。 ワイングラスを(2)か(3)を持つならどちらが良いというものでもないらしく、(1)を持ったとしても、日本ではそういう持ち方をするべきだと思っている人もいるようですがそれは正しくないようですよ、という範囲であるが、(4)をグワッ!とわしづかみして平気な顔で飲む・・・・・て、まともじゃないような気がするんですけどお~お・・・・、とこちらが思っても、それでも、「いっきゅうけんちくしい~い!」「建築家!」と言えば、「いっきゅうけんちくしい~い!」「建築家!」のやることは正しいのだ! とでも言いたいのかもしれません。そんな“建築家独善主義”みたいな態度がその「わしづかみ」に出ています。
N村設計事務所のおっさん は、服装・格好が「大久保清みたい!」なところがある。 大久保清というと、大阪万博(1970年)の頃にすでに小学校の高学年だった私くらいの年代の人間には、名前を聞いただけである程度わかるが、「最近の若いもんは」わからんかもしれないので、わからん人は、たとえば、《ウィキペディア―大久保清》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E6%B8%85 でも見てくれ。 そのウィキペディアを引用すると、≪ベレー帽を被ってルパシカを着てスポーツカーに乗りながら、画家を自称し「絵のモデルになってくれませんか?」と約1000人以上の女性に声を掛けていた。ロシアの血を引く甘いマスクと巧みな話術・物腰柔らかな態度から、150人ほどの女性が車に乗り込みうち10数人と肉体関係を持った。≫というのだ。 N村設計事務所のおっさん、それにそっくり。 ベレー帽ではないが、なんか、ちょっと変わった帽子を日差しが強いわけでもないのにかぶり、「暴走族みたいや」と言いたくなる羽根突きの真っ赤なスポーツカーに乗り、「建築家」「いっきゅうけんちくしい~い」を自称していたわけだ。 まさしく、「大久保清みたいや!」。
「建築家」とか「いっきゅうけんちくしい~い」と言えば、人は「言うことをきく」という認識・思想・観念、あるいは、ちょっと変わった格好をして「建築家」を名のったり、「画家」を名のったりすれば、「人は言うことをきく」という観念というのは、それは、戦後、戦中のナチスドイツの人間を研究したところから出てきたT=W=アドルノ他『権威主義的パーソナリティー』(青木書店)で、心理学者・社会学者のアドルノらが、ファシズム人格≒権威主義的パーソナリティー≒サドマゾ人格 と呼んだものである。 「人間的に未成熟」と言えば未成熟と評価できるかもしれない。 本当に意義のあることをしようという人間なら、格好にこだわって自分の実力と異なったように人に自分を見せることよりも、自分があるべきものになろう、あるべきものになって自分が残したい実績を残そうと努力するはずであり、「大久保清みたいや」というような態度をとっているということ自体、「たいしたやっちゃない!」ことを示している。
「建築家のつくる家」というN村設計事務所のおっさんの名刺に載っていたコピー自体が、三井ホーム(株)http://www.mitsuihome.co.jp/ のパクリでしかない。 国道14号の南側(海側)にある幕張の総合住宅展示場にある三井ホームのの展示場に、「建築家とインテリアコーディネーターがつくる家」と書かれた横断幕がかかているのを見たのは2011年か2012年のことだったと思う。 アホくさ。 そんなもんを「売り」にしとるんかいな、三井ホームは、と思った。 「インテリアコーディネーターがつくる」という方は、1996年に二次試験に通って1997年に私がインテリアコーディネーターに登録した頃は、インテリアコーディネーターは業界団体であるインテリア産業協会が実施していたが、試験に国家資格して登録すると通産省認定の国家資格となったが、その後、小泉行政改革で民間資格に「格下げ」されてしまった。 私が最初にインテリアコーディネーターの試験を受けた1993年の時点ではすでに国家資格となっていたが、それより前にさかのぼると、インテリアコーディネーターというのは、どうも、三井ホーム(株)が社内資格として初めてものだったらしい。 だから、もともとが三井ホームの資格であったインテリアコーディネーターという職種の女性が「色合わせ」「仕様うちあわせ」を三井ホームでは担当していたのに対し、他の住宅メーカーでは三井ホームの社内資格を他社が関知する必要はないのでそんな資格は持ってない人間が担当していた。 そのインテリアコーディネーターが通産省認定の国家資格として認められるようになり、三井ホーム(株)の従業員でない人間でもその資格を取得する人が増えてきたが、三井ホーム(株)以外の住宅メーカーでは、もともとが三井ホームというひとつの会社の内部の資格だったようなものの取得にはそれほど積極的ではなく、「色合わせ」「仕様打ち合わせ」の担当はインテリアコーディネーターの資格をもっている人間である場合もあればそうでない人間である場合もあった。 だから、その頃においては、「インテリアコーディネーターがつくる」という三井ホームのコピーは「売り」になるといえばなった・・・・が、今では民間資格とはいえ住宅業界内では認知されているインテリアコーディネーターの資格は三井ホーム(株)以外の会社でも取得している人間が「色合わせ」「仕様打ち合わせ」を担当している場合が多く、もはや、インテリアコーディネーターの資格を持っている人間が担当していますぅ~う・・というのは「売り」にならなくなってきた。 1990年代初め、(株)一条工務店では、継手・仕口といった部分の加工を機械プレカットでおこなっていますというのを「売り」にしていたが、その頃は、在来木造においては、機械プレカットで加工して建てている会社と手加工の会社があったので「売り」になったが、今ではハウスメーカー・工務店・個人大工を通じて在来木造の継手・仕口の加工は機械プレカットが普通になったので、もはや、機械プレカットで建てていますぅ~うというのは「売り」にはならない。 それと同様に、インテリアコーディネーターの資格をもっている人間が「色合わせ」「仕様打ち合わせ」を担当していますというのは、今現在は「売り」にならない、にもかかわらず、三井ホーム(株)は今だに言うとるらしい、というのは「あんまり、賢うないな・・」て感じがする。 「建築家のつくる」の方はどうかというと、1970年頃から1990年頃までの小堀住研(株)では「小堀ならではのデザイン」を「売り」にしていて、そして、「小堀ならではのデザイン」の家を設計することができる設計担当者が小堀住研にはいます、他の住宅建築会社とは違います、というのを「売り」にしていた・・・のに対し、三井ホーム(株)では設計は自社に設計担当を持たず、設計事務所に外注しており、それを、三井ホーム(株)には設計担当者がおらん! と言わずに、設計事務所に設計を依頼しているということについて、外注の設計事務所のことを「建築家」と呼び、そして、「建築家のつくる家」と称してきたわけです。 自社に設計担当者を持たずに設計事務所に頼んだ方がいいか自社に設計担当者を持った方がいいかというと、どちらのやり方にせよ、良いものができれば良いのですが、「設計事務所」のおっさんに設計を外注しているということをもったいつけた言い方をするとそうなった、ということなのです。
それで。 「建築家のつくる家」と言われると、ちょっと前まで生きていた人なら、丹下健三・黒川紀章、今も生きている人なら槇文彦・磯崎新・安藤忠雄といった人が担当して自分の家の設計をしてくれるのかな・・・と思いませんか。 ところが、そうじゃないんです。 三井ホーム(株)http://www.mitsuihome.co.jp/ の「建築家」というのは、要するに、「そのへんの設計事務所のおっさん」なんです。 一例をあげさせていただきますと、↑に述べてきたワイングラスをグワッ! と「何すんねん」て感じで(4)の部分をわしづかみに掴んで飲むN村設計事務所のおっさん、暴走族みたいな真っ赤なスポーツカーに乗って「大久保清みたい」な格好して大久保清が「画家」を名のるように「建築家」名乗るおっさんなんかがそれだったのです。 安藤忠雄が三井ホーム(株)の設計やってるのじゃないですから。 安藤忠雄の設計の家が住みやすいかどうか、というようなことは別にいたしまして・・・。 三井ホーム(株)の設計やってるのは、「暴走族にたいなスポーツカーに乗った大久保清みたいな格好したそのへんの設計事務所のおっさん」ですからね。
で、その三井ホーム(株)http://www.mitsuihome.co.jp/ の「建築家とインテリアコーディネーターのつくる家」というコピーをぱくって、インテリアコーディネーターはいないし自分もインテリアコーディネーターの資格はもっていないものだから、その部分は削除して、「建築家のつくる家」と。 自分の名刺に入れるコピーくらい、自分自身で考えたらどうかという気もするのですが、三井ホーム(株)がやっていることを真似れば受けるだろう、という発想。 そのあたりも、T=W=アドルノらが言うところの「権威主義的パーソナリティー」≒ファシズム的性格≒サドマゾ人格 が出ています。
日本の国には、なじかは知らねど、「髭のばすと、建築家!」とか思ってるやつがいるんですよ(変なの)。 設計事務所業界には、野村克也さんのような人はおらんのでしょうか、ねえ。 野村克也が江本孟紀に長髪や髭はいかんと言うので、江本が「野球っちゅうもんは、監督がおっしゃるように、頭でやるもんでっしゃろ。 髪の毛でやるもんと違いまっしゃろ。 だから、髪の毛がどうかなんて、どうでもええのとちゃいまっか」と言ったところ、野村が「エモ。髪の毛を伸ばすと頭にまわる血液が髪の毛の方に行って頭が悪うなるらしいで」とか言い出したので、江本は笑ったが、監督がそこまでいやがるなら、もういいわと思って短くした、とどこかで書いていたのを読んだ。 会社員で特に営業の仕事などしていると、茶髪・長髪・髭はいかんというのが基本であるが、野球選手などは営業職の会社員などに比べると許容される仕事かと思うが、野村は野球選手でもいかんという認識でいたようだ。 実際、茶髪・長髪・髭の選手はよっぽど成績を残しているならまだしも、そうでなければ、その分、評価が下がる。 清原のように日焼けサロンで不自然に肌を焼き、入墨まで入れたのでは、もう、監督やコーチに頼むチームはないだろう。 アホなやつやな、という気がする。
1980年代後半、私が小堀住研(株)に入社した時、新卒新入社員研修では、「茶髪・長髪・髭はいかん」と野村克也さんみたいに言われましたし、乗るクルマは、外車はだめ、オープンカーはだめ、ツードアのクルマはだめ、真っ赤とかの派手な色はだめ、羽付きのクルマはだめ、スポーツカーはだめ!と言われ、そういうクルマの場合は、会社から任意保険の加入とガソリン代の支給はできません、と言われた。 2年目に私がクルマを購入する際もそういうことも考えたし、入社して2年目、どれだけ売れるかまだわからないところがあったので、燃費の良いクルマにしようと考えて、いすずのジェミニ、トヨタのカローラ、日産のサニーを検討したが、同じ営業所の人が言うには、「ジェミニはしょせん、いすずのクルマだから。お客さんの家の近くにとめた時に、ジェミニだと、『いすず のクルマに乗ってきやがった』と思われる可能性もある」と言われ、トヨタのカローラにした。 そういうことを考えてクルマは購入した。
それに対して、N村設計事務所のおっさんは、「暴走族みたいや」という真っ赤な羽根突きのスポーツカーに乗っている、というのはどういう魂胆か・・・。 「暴走族みたい」な真っ赤な羽根突きのスポーツカーに乗ってると「建築家」だと言いたいのだろうか。
で、「大久保清みたいや」という格好・服装をすると、「建築家」なのだろうか。 なんか、変なの・・・・。
「建築家」「設計事務所」と別に、もうひとつ、変なのが、「髭はやすと、ラーメン屋」みたいなラーメン屋が最近ふえてきたことだ。 ラーメン屋と髭は何か関係あるのだろうか・・・・。
ラーメン屋というのは、一昔前というのか、1980年代においては、特別の仕事ではなく、寿司屋というと、「回ってる寿司屋」の方は普通の人間が食べに行く所だが、「回ってない寿司屋」の場合は、なぜか、「頑固が売り」、「オヤジが威張ってる」、「カネ払う客の側がへこへこする」という変な店という印象で、何もカネ払ってそんな店に入らんでもええがな・・て感じがした。 又、日本料理屋・料亭となると、「ここは、特別にえらいえらい人間だけしか入ってはならん店なんやぞ。 おまえなんかが、入って食事しようとしても、『出て行ってちょうだい』と言ってつまみだされるぞお~お」という店なんだろうという印象があった。 そんな店なんか、頼まれても入りたくねえや、「和洋中華の店」「定食屋」「大衆中華」とかいう店の「半チャンラーメン」の方がよっぽどおいしいわ・・・て感じ。 そういう印象があったのに対し、ラーメン屋というのは、寿司屋・日本料理屋とは逆に庶民の店というイメージのするものだった。 ところが、最近、「ラーメンの名店」とかいうのが出てきて、ひとつには、『ラーメン発見伝』『ラーメン才遊記』に責任があるのだが、「ラーメン屋のおっさん」が、かつての、「回ってない寿司屋」「日本料理屋」みたいに威張りだした。 さらに、「行列店」とか言って、客を待たせるだけでなく、椅子も用意せずに立って行列させるということを自慢にするラーメン屋が続出してきた。 これはおかしいのではないかと思う。まがりなりにも、自分の店で食事をしようとして来てくれた人に、待たせるというのは、「申し訳ない」と思うのが普通で、ましてや、それでも待ってくれる人に椅子も用意せずに立って行列させる、というのを自慢にするというのは、それは本末転倒じゃないか・・・と思っていたら、『ラーメン発見伝』でも、福岡のラーメン屋のオヤジが、東京でラーメン屋を始めた息子が、閉店時間までまだ時間があるのにスープがなくなったと、長く行列して待ってくれた人を食べさせずに帰らせているのを見て、激怒したという話が出ていた・・・ということは、せっかく自分の店に食べに来てくれた人を待たせる、さらに、椅子も用意せずに立って行列させる、ということを自慢にするというのは、それがラーメン屋と考えるのは間違いで、せっかく自分の店に食べに来てくれた人を待たせる、待ってくれる人に椅子も用意できずに立って行列させる、さらには、せっかく待ってくれた人にスープ切れだとして食べてもらうこともできずに帰ってもらうというのは、飲食店として大変申し訳ないことだと考えるべきだ、と考える人もいるようだ。
それと同様に、「髭はやせば、ラーメン屋」というのも、どうも、最近、そういうラーメン屋が増えてきたが、別にそういうものと決まっているわけでもないのだろう。 ・・・しかし、「髭はやせば、ラーメン屋」みたいなラーメン屋が現実に最近多いような気がする。
「なぜ、『設計事務所のおっさん』と『ラーメン屋のおっさん』は、髭をはやしたがるのか?」 ・・・
別の見方をすると、
「なぜ、『設計事務所のおっさん』は、ラーメン屋みたいな格好をしたがるのか?」
さらに言うと、
「なぜ、設計事務所のおっさんは、『大久保清みたい』な格好をしたがるのか?」
「なぜ、設計事務所のおっさんは、『暴走族みたい』なクルマに乗りたがるのか?」
「バカでも入れる私立大学の建築学科」とか建築専門学校とかを卒業して、設計事務所なるものを始めたおっさんというのは、「芸術家」ぶりたい人間が多い! ということか・・・・。
「カッコから入るタイプ」 が多いということか。 それで、「暴走族みたい」なクルマに乗り、「大久保清みたい」な服を着たり、「ラーメン屋みたい」に髭をのばしたり・・・といったことをするのか・・・・・。
しかし、だ。 ↓の庄司薫と本多勝一の文章を読んでみてはいかがだろうか。↓
≪ ・・・おかしな言い方だけれどぼくは、たとえばベートーベンが穴のあいた靴をはいて髪をふり乱して歩いていたり、晩年のプルーストが薄汚れたヨレヨレのカラーで晩餐に出てきたり、マルクスがチョッキのボタンをいつもかけ忘れてたり、毛沢東がサエない綿帽子をかぶっていたり、ゲバラがお風呂に入らず汗くさい野戦服でいたりするなんていうのを、猛烈にカッコいいと思っちゃうようなところがある。 でも問題は、というか、ぼくにとっての弱みは、(まあ当たり前のことだけれど)彼らがカッコいいのは、彼らが実際にどういうなりふりをしたかではないということ、つまり彼らがそうなったのは言うなれば必然的な結果というか、彼らがその力を使いつくすためのほんとうの大事なことを別にしっかりと手いっぱいに抱えていたことによる、という点にあるのは言うまでもないわけだ。 つまり逆に考えれば、そういう「なりふり」をどうでもいいこととしてしかもそれを公然とひとまえでやって「善良な市民」をオドカス(?)以上は、それに見合うような大事ななにかをしっかりと見つけてやりとげなくちゃいけないのじゃあるまいか、なんて殊勝にも思い始めてしまう。 そしてこういうのは、一旦思いついたらもうだめみたいなところがあるわけなんだ、つまり「第九」を書いている最中のベートーベンでもないのに髪ふり乱してこぶしをふりあげて一見大芸術家風に(?)歩いたり、ほんとうに革命やっているゲバラでもないのにお風呂にも入らず汗くさい野戦服で闊歩したりするのは、気恥ずかしいというかなんというか。 とにかくもういけなくなる。 ・・・・≫
(庄司薫『白鳥の歌なんか聞こえない』1971.2.中央公論社刊。 1973.8.10.中公文庫)
※ マルセル=プルースト はフランスの作家。 1871年7月10日 - 1922年11月18日。
《ウィキペディア―マルセル・プルースト》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88
≪ 金子(健太郎)という不運な冒険者は、私が訪ねたとき、三畳ほどの狭い部屋に間借りしていた。周囲に航海術やプランクトンの本などがたくさんならび机には顕微鏡も置いたある。 もちろん彼は頭がおかしくなかったが、冒険家づらでもない。堀江(健一)がそうであるように、ごく普通の顔である。 映画やマンガに出てくるような「冒険家らしい顔」をした者には、あんがい真の冒険はできないことが多い。 金子は、横断計画を6~7年間練っていたという。・・・・≫
(本多勝一『冒険と日本人―冒険的な現象に対する日本人の社会的反応について』〔本多勝一『冒険と日本人』1983.2.25.集英社文庫 所収〕〔初出は、1965年3月記 今西錦司教授還暦記念論文集第三巻『人間』中央公論社〕 )
※金子健太郎・・・1962年、25歳の時、ドラム缶と角材で作ったイカダで九十九里浜の片貝港から太平洋横断に出発するが、海岸から30キロほど沖で海上保安庁の巡視船に「出入国管理令違反」としてつかまり銚子港に曳航される。 後、1974年、37歳の時、再度、ドラム缶のイカダで太平洋横断を目指すが、途中、腎臓結石を発病し、漁船に救助されて帰国し、非難を受ける。本多勝一『冒険と日本人―冒険的な現象に対する日本人の社会的反応について』は、1962年の挑戦の3年後、2回目の挑戦の9年前の文章ということになる。
本多勝一が、「冒険家ヅラ」した人間には、むしろ、真の冒険はできないことが多く、堀江健一も金子健太郎も「冒険家ヅラ」なんかしていない、「普通の顔」をしていると述べていたように、建築に携わる人間も、「暴走族みたいや」、「大久保清みたいや」、「ラーメン屋みたいや」という格好をすると、良い建築ができるというものではないはずだ。
もっと言うならば。 金子健太郎さんは≪ 資金をたくわえるため、フロや散髪や服装への出費さえ極度にきりつめたので、周囲からかなりの変人とみられた。 研究のためのヒマが比較的あって、収入ができるだけ多い仕事をさがした結果、便所の汲み取りが最適だったから、三鷹清掃という会社につとめた。 ゴム手袋を買う金が惜しいので、素手で汲み取り作業をした。そうしたあいだに、ドラムカンの浮力や、海水による腐食進行速度を調べたりして、ドラムカンのいかだに自信をもった。≫(本多勝一『冒険と日本人』)という。(本多勝一『冒険と日本人』(集英社文庫)のまえがきには「・・・無謀な冒険を決行することによって 日本的社会でのエスタブリッシュメント(体制)から指弾された すべての分野での青年たちに 捧げる」と書かれている。) 金子健太郎さんにとって「冒険家みたい」な格好なんかどうでも良いことだったようだ。
普通の人間なら、ワイングラスの(2)か(3)の部分を持つのに、(4)の部分をグワッ! とわしづかみにすれば「建築家」かというと・・・・、そういうものではないだろう。 「暴走族みたい」なクルマ、「大久保清みたい」「ラーメン屋みたい」な格好に力を入れる「建築家ヅラ」することに熱心な者には、むしろ、真の建築はできない・・・・くらいかもしれない。
というよりも、「カッコから入るタイプ」の「建築家」は、ワイングラスの(4)の部分をグワッ! と持つのかもしれないが、建築屋なら、ワインというものは、高温を嫌うものであり、ワイングラスは手のひらの温度がワインに伝わらないように、また、ワインの冷たさが手のひらに伝わらないように、「ボウル+ステム(脚)」という形状をしている以上、その形状を生かした飲みかたをするのが、建築屋の飲みかたである・・と私は思うのだ。
そのあたりの考え方の違いが、建築屋と「建築家」の違いなのかもしれない。 ・・・実際、「建築家」て、なんか、変わってるよなあ・・・・・・・。
私が建築の仕事を依頼する側なら、ワイングラスを(2)か(3)の部分を持ってワインや水を飲む人間と、(4)をグワッ! とわしづかみにして飲む人間なら、他の条件が同じなら、(2)か(3)を持つ人間の方がに頼みたいと思う・・・・。 「建築家のつくる家」⇒「ワイングラスの(4)の部分をグワッ! とわしづかみにするおっさんがつくる家」 がいいという印象は受けない。
もう一度、最初の天皇の東南アジア諸国訪問の記事の写真を見ていただきたい。天皇はワイングラスの(3)の部分を持っている。 もし、天皇が(4)の部分をグワッ! とわしづかみにして持っていたら「建築家」みたい、「画家」みたいで素敵♪ なんて思うか?
そうではあるまい。やはりワイングラスは(2)か(3)の部分を持つべきであろう。そうであるから天皇は(3)の部分を持っている。
やっぱり、ワイングラスの(4)の部分をグワッ! と持つのが「建築家」「一級建築士」とか思ってるやつて認識がずれとる・・と思う。 「暴走族みたい」なクルマに乗って「大久保清みたい」「ラーメン屋みたい」な格好すれば「建築家」という認識も「ずれとる」し。
フリーダムアーキテクツデザイン(株)http://www.freedom.co.jp/ で入社1年未満にもかかわらず特に有能でもないのに社長の親戚か何かなのか「副統括」とかいう役職につかせてもらっていた I 塚は(この会社の「統括」「副統括」とかいう役職自体、もともと「たいしたことない」が)、「髪ももみあげも髭ももじゃもじゃ」で「すりきれた汚らしいジーパン」で、「寝間着みたい」な格好で会社に出勤して他の従業員から顰蹙を買い、その格好で社外の人間と会っていたのだが、その「もじゃもじゃ」は手入れもしていないからで、それから考えると意図的に「暴走族みたい」「大久保清みたい」「ラーメン屋みたい」な格好をしているN村設計事務所の自称「建築家」「一級建築士」の方が、「まだまとも」かもしれないが、なんかレベルの低い話という気もする・・。
(2015.11.27.)
[追記] 2015年12月上旬、東京、四谷のレストランで食事をしたところ、ランチセットの飲み物としてリンゴジュースをゴブレットに入れたものをウエイトレスのおばさんが持ってきてくれたのだが、お盆からテーブルに移す際に、ゴブレットのボウルの下半分を持って移したので、ありぁりぁ・・と思った(さすがに(4)は持たなかったが)。 ゴブレットのボウルの下半分を持ったとしても、ごく短時間のことであり、それでリンゴジュースの品質が急激に低下することもないだろうが、それでもゴブレットに入れてきた以上は、ウェイター・ウェイトレスがテーブルに置く場合は(2)を持ってほしかった。建築でもダムやトンネルの建築に携わる者ならともかく、住宅の建築に携わる者ならワイングラスのどの部分を持つべきかという配慮はあるべきではないか。(12.11.)
1980年代後半、小堀住研に入社した年、お客様の前でコーヒーとかお茶を飲む際の飲みかたからして住宅建築業の営業はマナー・作法を心得ておくべきで、住宅建築業の従業員はそういうところからきっちりとするべきだと教えられた。革靴は靴ベラを使って履き、かかとを踏んでスリッパのように履くなどは論外、お客様宅に訪問して框を上がる時は、上がってから向き直って自分で自分の靴をそろえてから入ると教えられ、こういったマナー・基本動作を徹底することで工務店の営業とかミサワホームあたりの程度の低い営業と差をつけると教えられた。これらはどれだけ徹底するかの違いはあっても会社によって異なるものではなくどこでも共通するものと思ったのだが、その後、一条工務店に入ると、一条オリジナル営業から「革靴はブランドものを買ってかかとを踏んでスリッパみたいに履くものだ。そういう履き方をすればおまえみたいに靴ベラなんて必要ないんだ。お客様宅で框をあがってから自分の靴をそろえるなんてそんなおかしな営業があるか。靴はその家の奥さんがそろえるもんだ。自分で靴をそろえるのはプレハブの営業がやることだ。レベルの高い木造の営業は奥さんにそろえさせるもんだ。今後はよく気をつけろ」と怒られた。「一条流木造の革靴の履き方」「木造の框の上がり方」と同様、(4)をグワッとわしづかみにするのが「建築家のワイングラスの持ち方」とN村は思っているのでしょうか。・・「木造とミサワホームの革靴の履き方」「一条流木造の框の上がり方」も「建築家のワイングラスの持ち方」も、やっぱり違うように私は思うが。
(12.14.)
料理漫画でなくても↓
↑ モンキーパンチ原作・岡田鯛 画『警部銭形 A Hard Day's Night編』(2015.双葉社) ↑神奈川県警 真琴晴子。
しろうとでも(4)をグワッと持つ人間なんてあんまりないと思うがなあ~あ・・・。
(12.31.)
2015年4月9日の「毎日新聞」<朝刊>に天皇のパラオ訪問の記事と写真が掲載されていた。↓
今回、ここで話題とするのは、「ワイングラスの持ち方」である。
ワイングラスはどの部分を持つべきか。↓の図を見て考えたい。
↑ これは《ウィキペディア―ワイングラス》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9 に掲載の写真を印刷して私が書き込んだものです。
↑ 上の写真を見ると、天皇は(3)の部分を持っている。 こういう人は外国訪問の際に国際的なマナーに反することをしてしまって恥をかくことがないように宮内庁の役人が事前に説明をしていると思われるので、一通りまともな作法をとっていることが多いと思うのだが、私が書き込みをした図の(3)の部分を持つのが正しいか。
ワインとはどういう性質があるかを考えるため、キッチンスペシャリストハンドブック編集委員会 企画『キッチンスペシャリスト ハンドブック』(1988.5.日本住宅設備システム協会)より「ワインセラー」についての部分を引用する。
≪ セラーとは地下室や穴蔵という意味である。 光を避けて温度を一定に保つには深い地下空間が適していたためだが、家庭でつくる地下室程度では理想的なワインの貯蔵はむずかしく、本格的なものを望む場合は空調が必要になり、外国製品の一部には商品化されているものもある。 ワインの貯蔵条件は以下の六つである。
(1) 温度は12~14℃
(2) 湿度は75%前後
(3) 光線を避ける
(4) 振動がない
(5) くさいものと一緒にしない
(6) 必ず横にして寝かせる。 ≫
ワインは高温にすると質が低下する飲み物なので、手のひらの体温が伝わらないようにした方が良いという点があるようだ。 また、手の感覚としても、湯のみ茶碗などは、冬の寒い時期に、手のひらで持つことで、手のひらも温まるのがここちよいということがあるが、「頭寒足熱」といって夏の暑い時期においても足の裏と手のひらは温かい方がここちよく健康にもよいはずであり、ワイングラスなど比較的冷たいものを入れたグラスのボウルの部分を手のひらで持つと、手のひらの感覚としてもここちよいものではないので、その点から考えると、ボウルの部分は持たない方が良いことになる。
そうなると、↑の私が書き込みをした図の、(1)、(2)、(3)のいずれかということになるが、このいずれが適切な持ち方なのか、ということになる。 乱暴な考え方をするなら、呑み助が自宅で飲む場合は自分が好きなように持って好きなように飲めばよいということになるが、ワインというものの性質から考えるなら、ボウルは持たない方が良いはずだ。
(1)の部分を持つと、手のひらの温度はボウルの中のワインに伝わらないだろうけれども、安定が悪くて持ちにくいと思うのだ。 しかし、インターネットで検索したりすると、この(1)の部分を持っている人の写真がけっこう出ている。 ひとつには、どういうシチュエーションで持っているかということもあるらしく、「きき酒会」のような場で、「わたしはこれを飲んでいます」と示すためであれば、(1)を持った方が人に見せるには適しているようだ。
私は、(2)を持つものだと思ってきた。 ボウルとステム(脚)のどちらを持つべきかというと、ワイングラスは手のひらの体温がワインに伝わりにくいように、かつ、ワインの冷たさで手のひらに不快感が出ないようにということでこういう形状をしているのであって、そうでなければ、こんな割れやすい、かさばった、収納しにくい格好をする必要はないのであり、こういう形状のグラスを使用しておきながら、ボウルを持つアホはないのであるから、それを考えると(2)を持つものだと思ったのだ。
ワイングラスと似た「ボウル+ステム(脚)」という形状のグラスに、シャンペングラス、カクテルグラス、ブランデーグラス、ゴブレットといったものがある。どう違うかというと、『キッチンスペシャリスト ハンドブック』には、
≪ ワイングラスには赤ワイン用、白ワイン用、兼用タイプとあるが、赤ワイン用はやや大きめである。
ゴブレットはワイングラスより大きめで、水などを飲むのに適している。
タンブラーは台付きでなく、日常最もよく使われるグラスである。
ロックグラスは口の大きいどっしりしたもので、オールドファッショングラスとも呼ばれる。
そのほかにシャンペングラス、ブランデーグラス、カクテルグラスなどがある。 ≫
と出ている。 タンブラーとロックグラスは、ワイングラスのような「ボウル+ステム(脚)」の形状ではなく、「普通のガラスのコップ」のような形状である。
1988年1月、ナポリのピザ屋に入った時、水をこういう「ボウル+ステム(脚)」の形状のグラスに入れて出されたので、え? 水をワイングラスで飲むの? と思ったのだが、ワイングラスではなくゴブレットというものだったようだ。百貨店のワイングラスなどの売り場に行って見ても、「ワイン、及び、水用」と書かれたものもあり、ワインと水なら水の方が多く飲むのが普通なので、ゴブレットの方がワイングラスよりもひと回り大きいのですが、水なみにワインを飲むおっさんだっているでしょうから、中間くらいの容量のものが「ワイン、及び、水用」だったりするのでしょう。
ナポリのピザ屋で出されたゴブレットに入った水がおいしく思ったのです。それで、日本に帰ってから、ゴブレット、もしくは大き目のワイングラスを購入して、ミネラルウォーターを入れて飲んでみると「普通のガラスのコップ」に入れて飲むよりおいしいのです。手のひらの温度が伝わらないのでミネラルウォーターの温度が上がらないということもあるかもしれないが、「普通のガラスのコップ」だと手のひらにミネラルウォ―アターの冷たさが伝わって気持ちよくないので早めに飲むことになるのではないか、それに対し、ゴブレットに入れてステム(脚)の部分を持って飲むと手のひらの気持ちの悪さというものがないので、それで自分が飲みたいペースで飲むことができるということがあるのではないかと思います。
それ以来、「大き目のワイングラス」にミネラルウォーターを入れて、(2)の部分を持って飲んできたのですが、インターネットで「政府要人」というような人がワインを飲んでいる場面の写真を見ると、(2)の部分を持っている人と、(3)の部分を持っている人があるのです。 (3)の部分を持つ人というのは、親指と人差し指で輪を作ってボウルの最下部を乗せるようにして小指・薬指などでステム(脚)を握るわけです。 (2)の部分を持つ場合は、5本の指全体でステム(脚)を握ります。 ↑の写真の天皇の持ち方は(3)です。
雁屋 哲の『美味しんぼ』で、山岡とか海原雄山とかワインの専門家とか「食」に詳しいとされる登場人物がどういう持ち方をしているか見てみると、(2)の部分を持っている場合と、(3)の部分を持っている場合の両方がありました。
↑ (2)のステム(脚)の部分を持つ持ち方。 (海原雄山・山岡士郎・「ワイン評論家」上杉)
〔↑ の2つの絵は、[第185回]《『美味しんぼ』に学ぶ ワイングラス・ゴブレットの持ち方vs「建築家」式持ち方。及、20代の貧乏な生活 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201306article_2.html でも引用させていただきました。〕
↑ 最初の写真の天皇のワイングラスの持ち方と同じ(3)を持つ持ち方。 (山岡)
もしも、手の温度がボウルとボウルの中のワインに伝わらないようにということなら、(2)の方が(3)よりも良いと思われますが、しかし、一方で、(2)の持ち方だと、指でステム(脚)の部分を掴んで持つわけですから、長時間持つには疲れると思うのです。 それに対し、(3)の部分を持つ方法だと、小指・薬指でステムを掴んでいるとはいえ、親指と人差し指の輪の上にボウルを載たり指の間にステムを挟んだりしているので、ある程度以上の時間、持つにはこちらの方が疲れないのではないでしょうか。 又、ワインは高温を嫌うといっても、貯蔵する場合には高温を避けた方がよいでしょうけれども、すでにワイングラスに注がれたワインを自分が飲む場合に、ボウルをわしづかみにして手のひらの体温をボウルとボウルの中のワインに伝える必要はありませんが、(3)の持ち方をして、親指と人差し指の輪の部分がボウルにふれたという程度なら、急激に質が低下するとまではいかないのではないか、と考えることができるかもしれません。
結論としては、ワイングラス、及び、ゴブレットなど「ボウル+ステム(脚)」の形状のグラスの持ち方としては、「(2)もしくは(3)のいずれか」ということで良さそうな感じです。
ユニーク(unique)というのかエクセントリック(eccentric)というのかが「建築家」流。 2010年12月に千葉市中央区鵜の森町 の新華ハウジング(有)〔建設業〕・ジャムズグローバルスクエア(株)〔不明業〕の忘年会で、「建築家のつくる家」「一級建築士」と名刺に入れたN村設計事務所のおっさんが、ワイングラスの↑の図でいうところの、(1)の部分を手のひらでわしづかみにしてワインを飲んだので、びっくりしたことがありました。 あ~んまり、そんなワインの飲み方する人ないと思うけれどもなあ~あ・・・・・と。 今は昔、清原一博が西武ライオンズにいた時だったか巨人にいた時だったか、ラジオの野球中継を聞いていたところ、後方に上がったファーストフライを追って落球した時があり、その際、前を向いて、右足左足をバックして取ろうとして落としたのを見て、「解説者の豊田さん」が、「自動車バックをしましたねえ~え。あ~んまり、あんなフライの追い方する人ないと思うんだけどねえ~え」と言ったのを覚えていますが、そんな感じ。 ワイングラスの持ち方として(2)を持つ人と(3)を持つ人はおり、「きき酒会」とかでなくてもそういう場で(1)を持っている人の写真を見ることがあることから、ワイングラスは(1)を持つのがマナーなのかと思い、(1)を持つ人というのはいるのですが、(4)をわしづかみにするおっさんて、「あ~んまり、そんなことする人、ないと思うんですけどねえ~え・・・・」と思いました。 (4)をわしづかみにするのだったら、何もワイングラスに入れることはないわけです。「普通のガラスのコップ」で十分なんです。 「普通のガラスのコップ」の方が割れにくいし収納しやすいんです。ワイングラスに入れて出してもらった以上、(2)か(3)のどちらかを持つべきはずなんです。 それが、「ごんたくれの10代か20代くらいのガキども」がやるなら、「こら、こら、こら、ワイングラスはそんな持ち方をするもんじゃない」と教えてあげてもいいわけですが、「建築家のつくる家」「いっきゅうけんちくしい~い!」とかいうおっさんが堂々とやるもんですから、まあ、「自称 建築家」てやつはこんなもんんかな、と思いました。
住宅を扱う建築屋にとっては、食器というのは建築の一部分のはずなんです。 だから、グラスについても理解しておくべきなんです。 だから、他の職業の人がワイングラスの(4)をグワッとわしづかみにするのと、住宅建築業に従事する人間がやるのとでは意味が違うんですわ。 住宅の建築屋は食器についても理解しておくべきで、どのような食器があって、それはどのように収納するべきかといったことを理解しておくというのは仕事のうちなんです。 ところが、「建築家」というのはやることがユニークというのか、エクセントリックというのか・・・、なんだか、普通じゃないわ。 ワイングラスを(2)か(3)を持つならどちらが良いというものでもないらしく、(1)を持ったとしても、日本ではそういう持ち方をするべきだと思っている人もいるようですがそれは正しくないようですよ、という範囲であるが、(4)をグワッ!とわしづかみして平気な顔で飲む・・・・・て、まともじゃないような気がするんですけどお~お・・・・、とこちらが思っても、それでも、「いっきゅうけんちくしい~い!」「建築家!」と言えば、「いっきゅうけんちくしい~い!」「建築家!」のやることは正しいのだ! とでも言いたいのかもしれません。そんな“建築家独善主義”みたいな態度がその「わしづかみ」に出ています。
N村設計事務所のおっさん は、服装・格好が「大久保清みたい!」なところがある。 大久保清というと、大阪万博(1970年)の頃にすでに小学校の高学年だった私くらいの年代の人間には、名前を聞いただけである程度わかるが、「最近の若いもんは」わからんかもしれないので、わからん人は、たとえば、《ウィキペディア―大久保清》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E6%B8%85 でも見てくれ。 そのウィキペディアを引用すると、≪ベレー帽を被ってルパシカを着てスポーツカーに乗りながら、画家を自称し「絵のモデルになってくれませんか?」と約1000人以上の女性に声を掛けていた。ロシアの血を引く甘いマスクと巧みな話術・物腰柔らかな態度から、150人ほどの女性が車に乗り込みうち10数人と肉体関係を持った。≫というのだ。 N村設計事務所のおっさん、それにそっくり。 ベレー帽ではないが、なんか、ちょっと変わった帽子を日差しが強いわけでもないのにかぶり、「暴走族みたいや」と言いたくなる羽根突きの真っ赤なスポーツカーに乗り、「建築家」「いっきゅうけんちくしい~い」を自称していたわけだ。 まさしく、「大久保清みたいや!」。
「建築家」とか「いっきゅうけんちくしい~い」と言えば、人は「言うことをきく」という認識・思想・観念、あるいは、ちょっと変わった格好をして「建築家」を名のったり、「画家」を名のったりすれば、「人は言うことをきく」という観念というのは、それは、戦後、戦中のナチスドイツの人間を研究したところから出てきたT=W=アドルノ他『権威主義的パーソナリティー』(青木書店)で、心理学者・社会学者のアドルノらが、ファシズム人格≒権威主義的パーソナリティー≒サドマゾ人格 と呼んだものである。 「人間的に未成熟」と言えば未成熟と評価できるかもしれない。 本当に意義のあることをしようという人間なら、格好にこだわって自分の実力と異なったように人に自分を見せることよりも、自分があるべきものになろう、あるべきものになって自分が残したい実績を残そうと努力するはずであり、「大久保清みたいや」というような態度をとっているということ自体、「たいしたやっちゃない!」ことを示している。
「建築家のつくる家」というN村設計事務所のおっさんの名刺に載っていたコピー自体が、三井ホーム(株)http://www.mitsuihome.co.jp/ のパクリでしかない。 国道14号の南側(海側)にある幕張の総合住宅展示場にある三井ホームのの展示場に、「建築家とインテリアコーディネーターがつくる家」と書かれた横断幕がかかているのを見たのは2011年か2012年のことだったと思う。 アホくさ。 そんなもんを「売り」にしとるんかいな、三井ホームは、と思った。 「インテリアコーディネーターがつくる」という方は、1996年に二次試験に通って1997年に私がインテリアコーディネーターに登録した頃は、インテリアコーディネーターは業界団体であるインテリア産業協会が実施していたが、試験に国家資格して登録すると通産省認定の国家資格となったが、その後、小泉行政改革で民間資格に「格下げ」されてしまった。 私が最初にインテリアコーディネーターの試験を受けた1993年の時点ではすでに国家資格となっていたが、それより前にさかのぼると、インテリアコーディネーターというのは、どうも、三井ホーム(株)が社内資格として初めてものだったらしい。 だから、もともとが三井ホームの資格であったインテリアコーディネーターという職種の女性が「色合わせ」「仕様うちあわせ」を三井ホームでは担当していたのに対し、他の住宅メーカーでは三井ホームの社内資格を他社が関知する必要はないのでそんな資格は持ってない人間が担当していた。 そのインテリアコーディネーターが通産省認定の国家資格として認められるようになり、三井ホーム(株)の従業員でない人間でもその資格を取得する人が増えてきたが、三井ホーム(株)以外の住宅メーカーでは、もともとが三井ホームというひとつの会社の内部の資格だったようなものの取得にはそれほど積極的ではなく、「色合わせ」「仕様打ち合わせ」の担当はインテリアコーディネーターの資格をもっている人間である場合もあればそうでない人間である場合もあった。 だから、その頃においては、「インテリアコーディネーターがつくる」という三井ホームのコピーは「売り」になるといえばなった・・・・が、今では民間資格とはいえ住宅業界内では認知されているインテリアコーディネーターの資格は三井ホーム(株)以外の会社でも取得している人間が「色合わせ」「仕様打ち合わせ」を担当している場合が多く、もはや、インテリアコーディネーターの資格を持っている人間が担当していますぅ~う・・というのは「売り」にならなくなってきた。 1990年代初め、(株)一条工務店では、継手・仕口といった部分の加工を機械プレカットでおこなっていますというのを「売り」にしていたが、その頃は、在来木造においては、機械プレカットで加工して建てている会社と手加工の会社があったので「売り」になったが、今ではハウスメーカー・工務店・個人大工を通じて在来木造の継手・仕口の加工は機械プレカットが普通になったので、もはや、機械プレカットで建てていますぅ~うというのは「売り」にはならない。 それと同様に、インテリアコーディネーターの資格をもっている人間が「色合わせ」「仕様打ち合わせ」を担当していますというのは、今現在は「売り」にならない、にもかかわらず、三井ホーム(株)は今だに言うとるらしい、というのは「あんまり、賢うないな・・」て感じがする。 「建築家のつくる」の方はどうかというと、1970年頃から1990年頃までの小堀住研(株)では「小堀ならではのデザイン」を「売り」にしていて、そして、「小堀ならではのデザイン」の家を設計することができる設計担当者が小堀住研にはいます、他の住宅建築会社とは違います、というのを「売り」にしていた・・・のに対し、三井ホーム(株)では設計は自社に設計担当を持たず、設計事務所に外注しており、それを、三井ホーム(株)には設計担当者がおらん! と言わずに、設計事務所に設計を依頼しているということについて、外注の設計事務所のことを「建築家」と呼び、そして、「建築家のつくる家」と称してきたわけです。 自社に設計担当者を持たずに設計事務所に頼んだ方がいいか自社に設計担当者を持った方がいいかというと、どちらのやり方にせよ、良いものができれば良いのですが、「設計事務所」のおっさんに設計を外注しているということをもったいつけた言い方をするとそうなった、ということなのです。
それで。 「建築家のつくる家」と言われると、ちょっと前まで生きていた人なら、丹下健三・黒川紀章、今も生きている人なら槇文彦・磯崎新・安藤忠雄といった人が担当して自分の家の設計をしてくれるのかな・・・と思いませんか。 ところが、そうじゃないんです。 三井ホーム(株)http://www.mitsuihome.co.jp/ の「建築家」というのは、要するに、「そのへんの設計事務所のおっさん」なんです。 一例をあげさせていただきますと、↑に述べてきたワイングラスをグワッ! と「何すんねん」て感じで(4)の部分をわしづかみに掴んで飲むN村設計事務所のおっさん、暴走族みたいな真っ赤なスポーツカーに乗って「大久保清みたい」な格好して大久保清が「画家」を名のるように「建築家」名乗るおっさんなんかがそれだったのです。 安藤忠雄が三井ホーム(株)の設計やってるのじゃないですから。 安藤忠雄の設計の家が住みやすいかどうか、というようなことは別にいたしまして・・・。 三井ホーム(株)の設計やってるのは、「暴走族にたいなスポーツカーに乗った大久保清みたいな格好したそのへんの設計事務所のおっさん」ですからね。
で、その三井ホーム(株)http://www.mitsuihome.co.jp/ の「建築家とインテリアコーディネーターのつくる家」というコピーをぱくって、インテリアコーディネーターはいないし自分もインテリアコーディネーターの資格はもっていないものだから、その部分は削除して、「建築家のつくる家」と。 自分の名刺に入れるコピーくらい、自分自身で考えたらどうかという気もするのですが、三井ホーム(株)がやっていることを真似れば受けるだろう、という発想。 そのあたりも、T=W=アドルノらが言うところの「権威主義的パーソナリティー」≒ファシズム的性格≒サドマゾ人格 が出ています。
日本の国には、なじかは知らねど、「髭のばすと、建築家!」とか思ってるやつがいるんですよ(変なの)。 設計事務所業界には、野村克也さんのような人はおらんのでしょうか、ねえ。 野村克也が江本孟紀に長髪や髭はいかんと言うので、江本が「野球っちゅうもんは、監督がおっしゃるように、頭でやるもんでっしゃろ。 髪の毛でやるもんと違いまっしゃろ。 だから、髪の毛がどうかなんて、どうでもええのとちゃいまっか」と言ったところ、野村が「エモ。髪の毛を伸ばすと頭にまわる血液が髪の毛の方に行って頭が悪うなるらしいで」とか言い出したので、江本は笑ったが、監督がそこまでいやがるなら、もういいわと思って短くした、とどこかで書いていたのを読んだ。 会社員で特に営業の仕事などしていると、茶髪・長髪・髭はいかんというのが基本であるが、野球選手などは営業職の会社員などに比べると許容される仕事かと思うが、野村は野球選手でもいかんという認識でいたようだ。 実際、茶髪・長髪・髭の選手はよっぽど成績を残しているならまだしも、そうでなければ、その分、評価が下がる。 清原のように日焼けサロンで不自然に肌を焼き、入墨まで入れたのでは、もう、監督やコーチに頼むチームはないだろう。 アホなやつやな、という気がする。
1980年代後半、私が小堀住研(株)に入社した時、新卒新入社員研修では、「茶髪・長髪・髭はいかん」と野村克也さんみたいに言われましたし、乗るクルマは、外車はだめ、オープンカーはだめ、ツードアのクルマはだめ、真っ赤とかの派手な色はだめ、羽付きのクルマはだめ、スポーツカーはだめ!と言われ、そういうクルマの場合は、会社から任意保険の加入とガソリン代の支給はできません、と言われた。 2年目に私がクルマを購入する際もそういうことも考えたし、入社して2年目、どれだけ売れるかまだわからないところがあったので、燃費の良いクルマにしようと考えて、いすずのジェミニ、トヨタのカローラ、日産のサニーを検討したが、同じ営業所の人が言うには、「ジェミニはしょせん、いすずのクルマだから。お客さんの家の近くにとめた時に、ジェミニだと、『いすず のクルマに乗ってきやがった』と思われる可能性もある」と言われ、トヨタのカローラにした。 そういうことを考えてクルマは購入した。
それに対して、N村設計事務所のおっさんは、「暴走族みたいや」という真っ赤な羽根突きのスポーツカーに乗っている、というのはどういう魂胆か・・・。 「暴走族みたい」な真っ赤な羽根突きのスポーツカーに乗ってると「建築家」だと言いたいのだろうか。
で、「大久保清みたいや」という格好・服装をすると、「建築家」なのだろうか。 なんか、変なの・・・・。
「建築家」「設計事務所」と別に、もうひとつ、変なのが、「髭はやすと、ラーメン屋」みたいなラーメン屋が最近ふえてきたことだ。 ラーメン屋と髭は何か関係あるのだろうか・・・・。
ラーメン屋というのは、一昔前というのか、1980年代においては、特別の仕事ではなく、寿司屋というと、「回ってる寿司屋」の方は普通の人間が食べに行く所だが、「回ってない寿司屋」の場合は、なぜか、「頑固が売り」、「オヤジが威張ってる」、「カネ払う客の側がへこへこする」という変な店という印象で、何もカネ払ってそんな店に入らんでもええがな・・て感じがした。 又、日本料理屋・料亭となると、「ここは、特別にえらいえらい人間だけしか入ってはならん店なんやぞ。 おまえなんかが、入って食事しようとしても、『出て行ってちょうだい』と言ってつまみだされるぞお~お」という店なんだろうという印象があった。 そんな店なんか、頼まれても入りたくねえや、「和洋中華の店」「定食屋」「大衆中華」とかいう店の「半チャンラーメン」の方がよっぽどおいしいわ・・・て感じ。 そういう印象があったのに対し、ラーメン屋というのは、寿司屋・日本料理屋とは逆に庶民の店というイメージのするものだった。 ところが、最近、「ラーメンの名店」とかいうのが出てきて、ひとつには、『ラーメン発見伝』『ラーメン才遊記』に責任があるのだが、「ラーメン屋のおっさん」が、かつての、「回ってない寿司屋」「日本料理屋」みたいに威張りだした。 さらに、「行列店」とか言って、客を待たせるだけでなく、椅子も用意せずに立って行列させるということを自慢にするラーメン屋が続出してきた。 これはおかしいのではないかと思う。まがりなりにも、自分の店で食事をしようとして来てくれた人に、待たせるというのは、「申し訳ない」と思うのが普通で、ましてや、それでも待ってくれる人に椅子も用意せずに立って行列させる、というのを自慢にするというのは、それは本末転倒じゃないか・・・と思っていたら、『ラーメン発見伝』でも、福岡のラーメン屋のオヤジが、東京でラーメン屋を始めた息子が、閉店時間までまだ時間があるのにスープがなくなったと、長く行列して待ってくれた人を食べさせずに帰らせているのを見て、激怒したという話が出ていた・・・ということは、せっかく自分の店に食べに来てくれた人を待たせる、さらに、椅子も用意せずに立って行列させる、ということを自慢にするというのは、それがラーメン屋と考えるのは間違いで、せっかく自分の店に食べに来てくれた人を待たせる、待ってくれる人に椅子も用意できずに立って行列させる、さらには、せっかく待ってくれた人にスープ切れだとして食べてもらうこともできずに帰ってもらうというのは、飲食店として大変申し訳ないことだと考えるべきだ、と考える人もいるようだ。
それと同様に、「髭はやせば、ラーメン屋」というのも、どうも、最近、そういうラーメン屋が増えてきたが、別にそういうものと決まっているわけでもないのだろう。 ・・・しかし、「髭はやせば、ラーメン屋」みたいなラーメン屋が現実に最近多いような気がする。
「なぜ、『設計事務所のおっさん』と『ラーメン屋のおっさん』は、髭をはやしたがるのか?」 ・・・
別の見方をすると、
「なぜ、『設計事務所のおっさん』は、ラーメン屋みたいな格好をしたがるのか?」
さらに言うと、
「なぜ、設計事務所のおっさんは、『大久保清みたい』な格好をしたがるのか?」
「なぜ、設計事務所のおっさんは、『暴走族みたい』なクルマに乗りたがるのか?」
「バカでも入れる私立大学の建築学科」とか建築専門学校とかを卒業して、設計事務所なるものを始めたおっさんというのは、「芸術家」ぶりたい人間が多い! ということか・・・・。
「カッコから入るタイプ」 が多いということか。 それで、「暴走族みたい」なクルマに乗り、「大久保清みたい」な服を着たり、「ラーメン屋みたい」に髭をのばしたり・・・といったことをするのか・・・・・。
しかし、だ。 ↓の庄司薫と本多勝一の文章を読んでみてはいかがだろうか。↓
≪ ・・・おかしな言い方だけれどぼくは、たとえばベートーベンが穴のあいた靴をはいて髪をふり乱して歩いていたり、晩年のプルーストが薄汚れたヨレヨレのカラーで晩餐に出てきたり、マルクスがチョッキのボタンをいつもかけ忘れてたり、毛沢東がサエない綿帽子をかぶっていたり、ゲバラがお風呂に入らず汗くさい野戦服でいたりするなんていうのを、猛烈にカッコいいと思っちゃうようなところがある。 でも問題は、というか、ぼくにとっての弱みは、(まあ当たり前のことだけれど)彼らがカッコいいのは、彼らが実際にどういうなりふりをしたかではないということ、つまり彼らがそうなったのは言うなれば必然的な結果というか、彼らがその力を使いつくすためのほんとうの大事なことを別にしっかりと手いっぱいに抱えていたことによる、という点にあるのは言うまでもないわけだ。 つまり逆に考えれば、そういう「なりふり」をどうでもいいこととしてしかもそれを公然とひとまえでやって「善良な市民」をオドカス(?)以上は、それに見合うような大事ななにかをしっかりと見つけてやりとげなくちゃいけないのじゃあるまいか、なんて殊勝にも思い始めてしまう。 そしてこういうのは、一旦思いついたらもうだめみたいなところがあるわけなんだ、つまり「第九」を書いている最中のベートーベンでもないのに髪ふり乱してこぶしをふりあげて一見大芸術家風に(?)歩いたり、ほんとうに革命やっているゲバラでもないのにお風呂にも入らず汗くさい野戦服で闊歩したりするのは、気恥ずかしいというかなんというか。 とにかくもういけなくなる。 ・・・・≫
(庄司薫『白鳥の歌なんか聞こえない』1971.2.中央公論社刊。 1973.8.10.中公文庫)
※ マルセル=プルースト はフランスの作家。 1871年7月10日 - 1922年11月18日。
《ウィキペディア―マルセル・プルースト》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88
≪ 金子(健太郎)という不運な冒険者は、私が訪ねたとき、三畳ほどの狭い部屋に間借りしていた。周囲に航海術やプランクトンの本などがたくさんならび机には顕微鏡も置いたある。 もちろん彼は頭がおかしくなかったが、冒険家づらでもない。堀江(健一)がそうであるように、ごく普通の顔である。 映画やマンガに出てくるような「冒険家らしい顔」をした者には、あんがい真の冒険はできないことが多い。 金子は、横断計画を6~7年間練っていたという。・・・・≫
(本多勝一『冒険と日本人―冒険的な現象に対する日本人の社会的反応について』〔本多勝一『冒険と日本人』1983.2.25.集英社文庫 所収〕〔初出は、1965年3月記 今西錦司教授還暦記念論文集第三巻『人間』中央公論社〕 )
※金子健太郎・・・1962年、25歳の時、ドラム缶と角材で作ったイカダで九十九里浜の片貝港から太平洋横断に出発するが、海岸から30キロほど沖で海上保安庁の巡視船に「出入国管理令違反」としてつかまり銚子港に曳航される。 後、1974年、37歳の時、再度、ドラム缶のイカダで太平洋横断を目指すが、途中、腎臓結石を発病し、漁船に救助されて帰国し、非難を受ける。本多勝一『冒険と日本人―冒険的な現象に対する日本人の社会的反応について』は、1962年の挑戦の3年後、2回目の挑戦の9年前の文章ということになる。
本多勝一が、「冒険家ヅラ」した人間には、むしろ、真の冒険はできないことが多く、堀江健一も金子健太郎も「冒険家ヅラ」なんかしていない、「普通の顔」をしていると述べていたように、建築に携わる人間も、「暴走族みたいや」、「大久保清みたいや」、「ラーメン屋みたいや」という格好をすると、良い建築ができるというものではないはずだ。
もっと言うならば。 金子健太郎さんは≪ 資金をたくわえるため、フロや散髪や服装への出費さえ極度にきりつめたので、周囲からかなりの変人とみられた。 研究のためのヒマが比較的あって、収入ができるだけ多い仕事をさがした結果、便所の汲み取りが最適だったから、三鷹清掃という会社につとめた。 ゴム手袋を買う金が惜しいので、素手で汲み取り作業をした。そうしたあいだに、ドラムカンの浮力や、海水による腐食進行速度を調べたりして、ドラムカンのいかだに自信をもった。≫(本多勝一『冒険と日本人』)という。(本多勝一『冒険と日本人』(集英社文庫)のまえがきには「・・・無謀な冒険を決行することによって 日本的社会でのエスタブリッシュメント(体制)から指弾された すべての分野での青年たちに 捧げる」と書かれている。) 金子健太郎さんにとって「冒険家みたい」な格好なんかどうでも良いことだったようだ。
普通の人間なら、ワイングラスの(2)か(3)の部分を持つのに、(4)の部分をグワッ! とわしづかみにすれば「建築家」かというと・・・・、そういうものではないだろう。 「暴走族みたい」なクルマ、「大久保清みたい」「ラーメン屋みたい」な格好に力を入れる「建築家ヅラ」することに熱心な者には、むしろ、真の建築はできない・・・・くらいかもしれない。
というよりも、「カッコから入るタイプ」の「建築家」は、ワイングラスの(4)の部分をグワッ! と持つのかもしれないが、建築屋なら、ワインというものは、高温を嫌うものであり、ワイングラスは手のひらの温度がワインに伝わらないように、また、ワインの冷たさが手のひらに伝わらないように、「ボウル+ステム(脚)」という形状をしている以上、その形状を生かした飲みかたをするのが、建築屋の飲みかたである・・と私は思うのだ。
そのあたりの考え方の違いが、建築屋と「建築家」の違いなのかもしれない。 ・・・実際、「建築家」て、なんか、変わってるよなあ・・・・・・・。
私が建築の仕事を依頼する側なら、ワイングラスを(2)か(3)の部分を持ってワインや水を飲む人間と、(4)をグワッ! とわしづかみにして飲む人間なら、他の条件が同じなら、(2)か(3)を持つ人間の方がに頼みたいと思う・・・・。 「建築家のつくる家」⇒「ワイングラスの(4)の部分をグワッ! とわしづかみにするおっさんがつくる家」 がいいという印象は受けない。
もう一度、最初の天皇の東南アジア諸国訪問の記事の写真を見ていただきたい。天皇はワイングラスの(3)の部分を持っている。 もし、天皇が(4)の部分をグワッ! とわしづかみにして持っていたら「建築家」みたい、「画家」みたいで素敵♪ なんて思うか?
そうではあるまい。やはりワイングラスは(2)か(3)の部分を持つべきであろう。そうであるから天皇は(3)の部分を持っている。
やっぱり、ワイングラスの(4)の部分をグワッ! と持つのが「建築家」「一級建築士」とか思ってるやつて認識がずれとる・・と思う。 「暴走族みたい」なクルマに乗って「大久保清みたい」「ラーメン屋みたい」な格好すれば「建築家」という認識も「ずれとる」し。
フリーダムアーキテクツデザイン(株)http://www.freedom.co.jp/ で入社1年未満にもかかわらず特に有能でもないのに社長の親戚か何かなのか「副統括」とかいう役職につかせてもらっていた I 塚は(この会社の「統括」「副統括」とかいう役職自体、もともと「たいしたことない」が)、「髪ももみあげも髭ももじゃもじゃ」で「すりきれた汚らしいジーパン」で、「寝間着みたい」な格好で会社に出勤して他の従業員から顰蹙を買い、その格好で社外の人間と会っていたのだが、その「もじゃもじゃ」は手入れもしていないからで、それから考えると意図的に「暴走族みたい」「大久保清みたい」「ラーメン屋みたい」な格好をしているN村設計事務所の自称「建築家」「一級建築士」の方が、「まだまとも」かもしれないが、なんかレベルの低い話という気もする・・。
(2015.11.27.)
[追記] 2015年12月上旬、東京、四谷のレストランで食事をしたところ、ランチセットの飲み物としてリンゴジュースをゴブレットに入れたものをウエイトレスのおばさんが持ってきてくれたのだが、お盆からテーブルに移す際に、ゴブレットのボウルの下半分を持って移したので、ありぁりぁ・・と思った(さすがに(4)は持たなかったが)。 ゴブレットのボウルの下半分を持ったとしても、ごく短時間のことであり、それでリンゴジュースの品質が急激に低下することもないだろうが、それでもゴブレットに入れてきた以上は、ウェイター・ウェイトレスがテーブルに置く場合は(2)を持ってほしかった。建築でもダムやトンネルの建築に携わる者ならともかく、住宅の建築に携わる者ならワイングラスのどの部分を持つべきかという配慮はあるべきではないか。(12.11.)
1980年代後半、小堀住研に入社した年、お客様の前でコーヒーとかお茶を飲む際の飲みかたからして住宅建築業の営業はマナー・作法を心得ておくべきで、住宅建築業の従業員はそういうところからきっちりとするべきだと教えられた。革靴は靴ベラを使って履き、かかとを踏んでスリッパのように履くなどは論外、お客様宅に訪問して框を上がる時は、上がってから向き直って自分で自分の靴をそろえてから入ると教えられ、こういったマナー・基本動作を徹底することで工務店の営業とかミサワホームあたりの程度の低い営業と差をつけると教えられた。これらはどれだけ徹底するかの違いはあっても会社によって異なるものではなくどこでも共通するものと思ったのだが、その後、一条工務店に入ると、一条オリジナル営業から「革靴はブランドものを買ってかかとを踏んでスリッパみたいに履くものだ。そういう履き方をすればおまえみたいに靴ベラなんて必要ないんだ。お客様宅で框をあがってから自分の靴をそろえるなんてそんなおかしな営業があるか。靴はその家の奥さんがそろえるもんだ。自分で靴をそろえるのはプレハブの営業がやることだ。レベルの高い木造の営業は奥さんにそろえさせるもんだ。今後はよく気をつけろ」と怒られた。「一条流木造の革靴の履き方」「木造の框の上がり方」と同様、(4)をグワッとわしづかみにするのが「建築家のワイングラスの持ち方」とN村は思っているのでしょうか。・・「木造とミサワホームの革靴の履き方」「一条流木造の框の上がり方」も「建築家のワイングラスの持ち方」も、やっぱり違うように私は思うが。
(12.14.)
料理漫画でなくても↓
↑ モンキーパンチ原作・岡田鯛 画『警部銭形 A Hard Day's Night編』(2015.双葉社) ↑神奈川県警 真琴晴子。
しろうとでも(4)をグワッと持つ人間なんてあんまりないと思うがなあ~あ・・・。
(12.31.)
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