綱敷天神社(大阪市北区)参拝【1】綱敷天神とは。祭神。「キタ」の由来、「喜多埜」と「北野」の由来。

[第405回]冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り(32)-1
   大阪市北区神山町 の 綱敷天神社 に参拝いたしました。
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   「綱敷天神」とは。 坂本太郎『菅原道真』(1962.第1版。 1990.新装版 吉川弘文館 人物叢書)には、≪ 天神は、別に「あら人神」ともとなえるが、それは『大鏡』に見えているから、古い別名である。 「あら人神」の本来の意義は「現人神」で、うつし世の人で神になったことを言うのであろうが、この場合は、とくに「荒人神」と考えられているようである。≫ ≪ 世に伝える天神像の一種に、綱敷(つなしき)天神 ・ 綱座(つなぎ)天神 などと称して、綱の上に座して憤怒の形相のすさまじいものがある。 西遷の途中、上陸地に休息の家もないので、帆綱を巻いて円座としたという伝説にもとづくものである。 天神は一つには、このような荒ぶる神として畏怖せられたのである。≫と書かれている。 
   『わかりやすい天神信仰 学問の神さま』(1994.12.20. (株)鎌倉新書)≪・・・ “ 荒人神 ” としての天神は、綱敷天神や綱座天神といわれる姿に描かれたり、造像されたりしております。 これは大宰府への船旅の途中、岸に上がって休息されようとしても円座がない。 そこで船のトモ綱を巻いて円座の代わりとしたという所伝によるものです。 綱を巻いた上に腰を据えて、カッと眼を見開いたところは、いかにも破邪の “ 荒人神 ” にふさわしい表現といえましょう。≫と出ています。
   『わかりやすい天神信仰 学問の神さま』には、「荒人神」として他に「柘榴(ざくろ)天神」が書かれています。≪ ・・・延暦寺の第十三世座主・法性房尊意が夏の夜、不意に妻戸を叩く音がしたので開けてみると、菅公の霊が現れ、わが身の憂愁を述べられた。 喉が乾いている様子なので柘榴をすすめたら、それを妻戸に吐きかける。 すると火焔になって妻戸が燃えついたので、酒(しゃ)水の印を結ぶとたちまち収まった。 その焼け損じの妻戸は、いまも本坊に残っている――という説話です。  その火焔を吐いているお姿が、柘榴天神というわけで、謡曲の『雷電』もこれを素材としています。 ≫として、「柘榴天神」と「綱敷天神」「綱座(つなぎ)天神」を「荒人神」「荒ぶる神」としての天神としてあげています。
   もっとも、「柘榴天神」や「綱敷天神」「綱座天神」より何よりも、≪延喜3年2月25日、菅公は大宰府の配所で亡くなったそうですが、お墓に埋葬しようとした、ちょうど同じ時刻、京では、雷鳴がとどろき大地が揺れ動くという “ 天災 ” が発生したといいます。 あたかも、この年は日蝕・月蝕や旱魃・洪水・疫病などが相次ぎ、その後もいろいろな妖しい出来事が連発しました。  そして、菅公の死後、わずか六年、菅公左遷の片棒をかついだ参議の藤原菅根(すがね)、つづいて張本人の藤原時平も後を追うかのようにして死去しました。 菅公を失脚させて、天下を掌握したのも束の間のことだったのです。  さらに延喜23年3月、皇太子・保明親王が21歳の若さで薨じられました。 親王の生母は、時平の妹(穏子)でしたから、 「世を挙げて云ふ、菅帥(かんそち)の霊魂宿念のなすところなり」(『日本紀略』) と、世人は菅公の怨霊のなせる業として恐れおののいたのでした。 こうなると、朝廷も捨ててはおかれず、この年四月、菅公を元の右大臣に復し、正二位を贈って、かつての左遷の詔書も破棄し、年号も「延長」と改めるなどして、ひたすら、菅公の怨霊を鎮めようとしました。 北野の天神社に勅使を遣わして祈願したのも、この頃のことです。  ところが、凶変は一向におさまろうとはしません。 新たに皇太子に立てた幼い慶頼(よしのり)王(母は時平の娘)が、延長2年(925)5歳でなくなりました。 そして、同8年6月、例の有名な清涼殿の落雷事変が起こったのです。 この6月は日照りがつづいたので、公卿たちが清涼殿に集まり、雨乞いの相談をしておりました。 すると、愛宕山に黒雲が湧き、雷鳴がしたかと思うと、雷が落ちて、まず大納言の藤原清貫が胸を裂かれて即死、右大臣佐の美努忠包(みぬただかね)は頭髪を焼いて志望、右中弁の平希世は顔を焼かれる・・・・といったように、5人が死傷。 このため、醍醐天皇は病気になって、同年の9月21日、朱雀天皇に譲位されましたが、一週間後に崩御なさっています。 こうした相次ぐ凶変に、菅公の怨霊に対する世人の恐怖は高まっていくばかりでした。 ・・・・≫(『わかりやすい天神信仰 学問の神さま』)という、こちらの方も「荒ぶる神」「荒人神」ととらえられるように思うのですが、『わかりやすい天神信仰 学問の神さま』では、こちらの方は「怨霊神」として「荒ぶる神」「荒人神」とは分けて述べています。

   「綱敷天神社」という名称の神社は、『わかりやすい天神信仰 学問の神さま』を見ると、
大阪市北区神山町の「綱敷天神社」、
神戸市須磨区天神 の「綱敷天満宮」、
愛媛県今治市桜井 の 綱敷天満神社 の3社が掲載されており、
《ウィキペディア―天満宮》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE には、
大阪市北区 の「綱敷天神社」、
神戸市須磨区の「綱敷天満宮」、
愛媛県今治市の「綱敷天満神社」、それに、
福岡県福岡市博多区綱場町 の「綱敷天満宮」、
福岡県筑上郡筑上町 の「綱敷天満宮」が掲載されています。
   京都の東山の高台寺の境内というのか前というのかに高台寺天満宮があって、綱敷天神より勧請したとされているようですが〔⇒[第269回]《怒りの綱敷天神を勧請した高台寺天満宮、マニ車と水かけ不動的牛?―紅葉の高台寺と高台寺天満宮参拝(4) 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html 〕、大阪府1、兵庫県1、愛媛県1、福岡県2 のどの綱敷天神から勧請したものか、 豊臣秀吉の正室 ねね が勧請したということですから、地理的に近いのは大阪市北区の綱敷天神社かという気もしますが、記載されたものを見つけることができません。

   さて、今回、訪問した綱敷天神社は、大阪市でも街中、JRの「大阪」駅、阪急・阪神の「梅田」、地下鉄御堂筋線「梅田」・地下鉄谷町線「東梅田」駅から東に進むとすぐの場所にあります。
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大阪市地下鉄谷町線「東梅田」か、阪急「梅田」が最も近いかと思っていて、今回も西の方から行ったのですが、改めて地図を見ると、大阪市地下鉄谷町線「中崎町」が最も近いようで、他に、東側では、大阪市地下鉄堺筋線「扇町」、JR大阪環状線「天満」駅からも近いようです。
   神社は、南から北、そうでなければ、東から西に入る神社が多いように思いますが、大阪市北区の綱敷天神社は、西から東に入ります。 社殿は西を向いていて、人が東を向いて参拝することになります。

   大阪市北区神山町の綱敷天神社(ややこしい言い方ですが、綱敷天神社・綱敷天満宮・綱敷天満神社は神戸市の須磨、愛媛県の今治、福岡市博多区、福岡県筑上郡筑上町 とわかっただけでも5社ありますので、区別するためには、こう表現するとして)、の場合、同神社のホームページの「御由緒」http://tunashiki.com/ を見ると、 ≪ ・・・・今から千二百年ほど昔の弘仁十三年(西暦822年)に、第五十二代天皇であらされた 嵯峨天皇(さがてんのう)が当地に御行幸あそばされ、現在の御本社の位置に仮の御殿を構え一宿された事に由来する神社です。  嵯峨天皇崩御の後に、皇子、源融(みなもとのとおる=光源氏のモデルとも伝えられる)公が、御追悼の為、承和十年(西暦843年)、嵯峨天皇をお祀りする社殿を当地に創建し、天皇の御名をとって「神野太神宮」と称されました。 ≫と出ており、これによると、最初から天神・天満・菅原・北野系の神社として建てられたのではないらしい。
   ≪ ・・・延喜元年(西暦901年)に、学問の神様として慕われる「天神さま」こと菅原道眞(すがわらのみちざね)公が、無実の罪により京都より太宰府までの左遷の際に、この地で今を盛りと咲いていた紅梅に目を留められ、それをご覧になるため船の艫綱(陸と船をつなぐ綱)を円く円座状に敷いてご覧になられ一時の休息を得られました。その由縁より、「綱敷(つなしき)」 の名が興りました。
  この時、菅原道眞公の従者、白太夫こと度会春彦の一族らをお側近くに召され、「この地に留まり、いつか戻るその日まで待つように」と御遺訓を残され、白江の姓を賜り、また自筆の御影とお座りになられた綱を与えられ、九州太宰府へと旅立たれました。
   白江氏は、御遺訓に従い、この地に留まり、紅梅の樹下に小祠を営み、号を梅塚天満宮と称し、道眞公の御霊をお祀りしました。この梅塚が「梅田」の名の由来となったとも云われています。
   正暦四年(西暦993年)、冤罪の晴れた菅原道眞公の神霊に対し、正一位を追贈された事により、当地にも改めて社殿を建立する事となり、神野太神宮と梅塚天満宮を合祀し、「北野(喜多埜=キタの)天神社」と称されるようになりました。 この「喜多埜」が「キタ」となり、現在の梅田周辺の繁華街を指す「キタ」の語源になったと伝えられています・・・・ ≫ と書かれています。

   同社HPhttp://tunashiki.com/ の「社殿と境内 ご本社本殿」には、
≪祭神 【お祀りされている御祭神】 ・嵯峨天皇 ・菅原道眞公 ≫
と出ています。 嵯峨天皇の方が先に出ているのは、天皇だからということもあるかもしれませんが、嵯峨天皇の方が古くから祀られているからということででしょうか。 但し、神社の「由緒」、お寺の「寺伝」といったものは、そのまま信用してよいか微妙なものもありますから、実際には、道真を祀る際に、このあたりに「仮の御殿」を持ったという嵯峨天皇を合祀したという可能性、もっと、後に2人を祭神として祀ることにしたという可能性も考えられないことはないし、道真がこの地に来た時にどうしたといった話は、実際のところ、ずいぶんとあちらこちらにあるわけで、罪人扱いでの移動であったのに、そんなにあちらこちらに立ち寄ってなんだかんだやれたのか? という疑問も出てくるわけで、それらの話がすべてフィクションとは限らないとしても、すべてそのまま本当とも言い切れないようにも思えます。

   もっとも、綱敷天神社は≪ (梅塚天満宮の)梅塚が「梅田」の名の由来になったとも云われています。≫とHPで述べてはいますが、世間一般では「梅田」の由来はそうではなく、浅井健爾(けんじ)『日本の地名がわかる事典』(1998.7.20. 日本実業出版社)では、≪ 高層ビルの林立する梅田が、かつては人も住めないような湿地帯だったと、どうして信じられようか。 その変貌ぶりにはただただ驚くばかりだ。 湿地帯が埋め立てられて田や畑になった。 そこから「埋田」と呼ばれるようになり、好字の「梅田」に転訛したのだといわれる。 ・・・大阪の埋立地が梅田なら、東京の埋立地にはどのような地名がつけられたのか。「埋め立てて土地を築く」という意味から、築地という地名がつけられた。 ・・・埋立地が築地なら、埋め立てて造られた人工島は築島ということになる。 東京築地の先にある人口島は、東京湾の月見の名所でもあることから「築」の字に「月」をかけて「月島」と命名された。・・・≫と書かれており、谷川彰英『大阪「駅名」の謎 ―日本のルーツが見えてくる―』( 2009.4.20. 祥伝社 黄金文庫)にも、≪ 大阪・神戸間の鉄道は明治7年(1874年)5月に開通している。・・・・  これは明治政府がつくった国営鉄道だから、駅名は「大阪駅」になっていた。 ところが、どの文献を見ても、大阪の人々は「梅田ステンショ」と呼んだと書いてある。 ・・・・ もともと、ここはすでに「梅田」と呼ばれていたところで、正確にいうと、西成郡第三区七番組曾根崎村字天童という地名であった。 この辺一帯ははかつて、「田んぼを埋めた」ところから、「埋め田」だったのだが、それを「梅田」という佳字に変えたに過ぎないのである。 政府は「大阪駅」と名乗らせたのだが、政府に反発する大阪の人々は「大阪駅」とは呼ばず、あえて「梅田ステンショ」と呼んだのである。・・・≫と出ている。 おそらく、実際はそちらではないか。

   又、≪ 「喜多埜」が「キタ」となり、現在の梅田周辺の繁華街を指す「キタ」の語源になった・・ ≫というのも、もしもそうならば、それなら、「ミナミ」はどうなのか? 「美奈見天満宮」なり「皆美八幡宮」なるものがあったわけでもない。 実際は、大阪の商業の中心地であった「船場」のすぐ北側が「キタ」で、「船場」のすぐ南側が「ミナミ」ということでしょう。 むしろ、「喜多埜」の方が、「喜び多い」という慶字をあてたもので、もとは、「北野」だったか「北の」だったか、もしくは、「荒野」が「幸谷」に変わったりするように、「飢餓野」が「北野」になってさらに「喜多野」「喜多埜」になったか、もしくは、「飢餓野」を「喜多野」「喜多埜」に変えて、いつしか、書きやすい覚えやすい一般的な「北野」になったか、ではないでしょうか。 「キタ」は北と南の北でしょう。 

   地名の話になりましたので、先に、境内摂社の喜多埜稲荷神社の写真を掲載させていただきます。↓ 嵯峨天皇と菅原道真を祀る本社の左手前(北西)にあります。
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   小川環樹・西田太一・赤塚忠 編『新字源』(1968.1.5. 角川書店)を見ると、「埜(の)」は「野」の古字で意味は同じらしく、≪もと、いなかや、ひいて、郊外の村里、のはらの意を表す。≫らしい。 
「喜多埜」「喜多野」とは、喜び多い野原、喜び多い郊外の里 となると、すばらしい名称ですが、おそらくこれは作為的に付けた字で、もとは別の字でしょう。 関ヶ原の戦いで西軍の副将として敗れた宇喜多秀家の「宇喜多」も、もともとは「浮田」のようで、川の支流の「枝川(えだがわ)」→「枝川(えがわ)」→「得川(えがわ)」→「得川(とくがわ)」→「徳川(とくがわ)」と、川の支流の小河川がいつのまにか格式ばった名前に変化したのかさせたのかと同様に、「安い馬」よりは「日馬富士」の方がいいだろうというのと同様、「浮く田んぼ」では大名の名字として箔がつかんということで慶字を使って「宇喜多」にしたのではないでしょうか。 千葉県市川市には「北方(きたかた)」「本北方(もときたかた)」という地名があり、福島県の会津地方には「喜多方市」がありますが、福島県の「喜多方(きたかた)」は市川市の「北方」と同じく、会津地方の城下町の会津若松の北の方の町だということで「北方」だったのが、ありきたりの字だからもっと格式ばった字にしようとして「喜び多い方」で「喜多方」に変えたのではないでしょうか。
   それで、「きたの」ですが、大阪市淀川区の「新北野」は、阪急「中津」駅の南西あたりの済生会中津病院のあたりにあった旧制 北野中学校(現 北野高校)が移って来て、学校の名前を十三(じゅうそう)中学校に変えたのでは大阪府立で13番目の旧制中学校の現・豊中高校と紛らわしいことなどから学校の名前をそのままにして、地名の方がそれまでの十三南之町1丁目から「新北野」に変わったらしいが〔《ウィキペディア―大阪府立北野高等学校》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E5%8C%97%E9%87%8E%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1 〕、それと同様に、京都の北野天満宮から菅原道真≒天神を勧請して神社を造営したことから「北野」としてという地名も中にはあるかもしれません。 又、お城や市街地の北の方にある神社が「北の神社」だったのが、いつしか「北野神社」になったケースもありそうに思います。 東京都文京区の北野天神社は、江戸城のちょうど北の方に位置しますから、「北の神社」だったのが「北野神社」になったという可能性もありそうな気が私は行ってみて思いました。〔⇒[第169回]《北野神社(文京区)訪問―梅が美しい「牛天神」―冤罪を晴らす神さま 菅原道真・怨念を晴らすお百度参り6 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html 〕 お城や市街地の「北の」位置にあったので「北の」、あるいは、お城や市街地の「北の野原」「北の方角の郊外」「北の方角の村里」で「北野」「北埜」というのがあったのではないかとも思えます。  しかし、気になるのは、日本の地名として、「西野」「東野」「南野」に比べて、「北野」は多くないでしょうか。「北の方の野原」という意味なら、「西野」「東野」「南野」という地名も「北野」と同程度にあって良さそうに思うのですが、「西野」「東野」「南野」という地名に比べて「北野」の地名は多いように思うのです。 京都の北野天満宮から菅原道真≒天神を勧請した神社にちなむ地名があってその分が多いと考えても、それでも、「西野」「東野」「南野」に比べて「北野」は多い。
   大阪市北区には、神山町の今回訪問した綱敷天神社と茶屋町に御旅社があって、綱敷天神社の南の方に大阪天満宮があり、地下鉄谷町線「東梅田」駅の東側に「お初天神」で有名な露の天神社があり、北区のすぐ西の福島区には福島天満宮があり、菅原道真≒天神に係る神社が多く、菅原道真が大宰府に移動する際にこの付近に立ち寄ったというのはありそうに思えます。 その福島天満宮ですが、谷川彰英『大阪「駅名」の謎 ―日本のルーツが見えてくる―』( 2009.4.20. 祥伝社 黄金文庫)には≪ (福島)駅から南に少し行ったところに福島天満宮がある。 ・・・・ 菅原道真は・・・延喜元年(901)藤原氏の讒言によって、大宰府に流されることになった。 そのとき、道真は途中、河内道明寺に叔母の覚寿尼を訪れ、その後、この浪華の地から船で瀬戸内海を通って大宰府まで行こうとしたそうである。 失意の道真をこの地の人々は歓待し、道真はいたく感じ入って次の歌を詠んだという。
  行く水の中の小島の梅咲かば  さぞ川浪も香に匂ふらむ
この歌を書いた紙を添えた松の小枝を地面に刺したところ、やがてその枝は大木になり、江戸の元禄時代頃まであったという。 ところで、お世話になったこの地の名前を尋ねたところ、「餓鬼島」という名前だといふことを聞き、それはあまりによくないということで「福島」という名前に変えようといったという。 これが「福島」の由来だというのが一般に流布している説である。≫と出ているのです。 「餓鬼島」を「福島」に変えたのが菅原道真かそれ以外の誰かなのか、山梨県では「ほうとう」を作ったのも武田信玄で山梨県では何でも武田信玄が作ったことになっているように(別に悪いとは言わんが)、有名人が変えたことにした方が話のネタになるし観光資源にもなりそうなので菅原道真が変えたことにしたのか、誰が変えたかわからないが「美しい字」「喜ばしい字」「おめでたい言葉」に変更して「餓鬼島」「飢餓島」が「福島」になったということは、可能性としては有り得るようにも思えます。 となると、「飢餓島」が「福島」になるならば、「飢餓野」が「喜多野」「喜多埜」になることもあり得そうな気もします。 「飢餓野」が「喜多野」「喜多埜」になって、それが喜ばしい字でも書きにくい覚えにくい字よりもありきたりだが書きやすい覚えやすい字の「北野」に変わった・・・ということなら、ありそうな感じもしますし、「北野」の地名が「西野」「南野」「東野」より多いのも、なるほど、それでかという気もしてきます。
   但し、谷川彰英『大阪「駅名」の謎 ―日本のルーツが見えてくる―』( 2009.4.20. 祥伝社 黄金文庫)には、≪この辺一帯は古来低湿地帯で多くの島が存在していた。 それは確かである。 そこで考えられるのは、この島は「フケ島」ではなかったか、ということだ。 「フケ」というのは漢字が導入される以前からあった言葉で、湿地帯を意味する言葉である。 この「フケ」は全国どこでもある地名で、ある場合は「浮気」、ある場合は「福気」と表記する。 例えば、この「福気」に「島」がついたら「福気島」となる。 それがやがて「福島」になったと見ることもできる。 もちろん菅原道真がこの地に留まったという事実はあったかもしれないが、それ以前からここは「福気島」であったかもしれない。 「餓鬼島」というのは後世、逆に考えついたフィクションであるとも思える。≫と書かれている。
   「福島」が「フケ島」から転訛したのか、「餓鬼島」「飢餓島」を「福島」に改めたのかはどちらもありえそうに思えますが、「飢餓野」、あるいは「汚い野」→「きた野」が「喜多野」「喜多埜」に変えられて、「喜多野」「喜多埜」がありきたりだが書きやすい覚えやすい字の「北野」となったということも、可能性としてはありそうにも思えます。 現在は阪急宝塚線の「曽根」駅の近くにある萩の寺(東光院)は、かつては淀川に近い中津のあたりにあって、死者が出ると遺体を河原に捨てていたが行基がそれを哀れに思って火葬した上で河原に生えていた萩をたむけたところから「萩の寺」という呼び名ができたという話があるように〔萩の寺HP 「由緒と歴史 奈良時代 行基菩薩による草創」http://www.haginotera.or.jp/outline/history_ep01.php〕、この付近の「湿地帯」では死者が出た時に遺体を河原に捨てて、そのあたりを忌み穢れた場所として、穢れ→汚れ→汚い野→きた野→北野 になった? ということも可能性としてはありえそうな気もします。可能性としては単に「北の方の野原」だった可能性もやはりありますけれども。 いずれにせよ、一番最初に「喜多野」「喜多埜」があったということはないでしょう。 人間は「飢餓」や「汚い」はよく覚えても、喜びはたとえ多くあってもそう長く覚えておれませんし、そんなに多く喜びあったらいいけれども、なかなかないしねえ~え・・・・。

   そういえば、1970年代後半、北野高校の漢文の教諭の「東大文学部卒」という自称「教養がにじみでてる」Fが、「『北野』というのは、『北の方のど田舎の原っぱ』という意味だ」と言ったことがありましたが、それだけとも限らないと思います。 もしも、そうなら「南の方のど田舎の原っぱ」「西の方のど田舎の原っぱ」「東の方のど田舎の原っぱ」という意味の「南野」「西野」「東野」という地名も「北野」とそう変わらないくらいあっても良さそうですが、「北野」に比べて、「南野」「西野」「東野」という地名は少ないのではないでしょうか。

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↑ 喜多埜稲荷神社の鳥居と社殿の間に、かつて、この付近にあったが今は埋め立てられてなくなった川にかかっていた橋が設置されている。 橋の名前が「萬載橋」というが、その由来も諸説あるらしい。

   「大阪」駅・「梅田」駅から綱敷天神社に至る商店街には、風俗営業関係の店もところどころにあります。 中学生や高校生くらいの時なら、風俗店があるような場所に行っていいのだろうかとか思ったかもしれませんが、この歳になりますと、「そういう店に行きたければ行けばいいし、行きたくなければ行かなければいいだけのこと」であって、別に行きたくないなら自分が行かなければいい・・と思うのですが、綱敷天神社の入り口の脇を見ますと、↓
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↑ という看板も出ています。 こういうのは、ちょっとねえ・・・・。
   (2016.4.9.)

※ 綱敷天神社(大阪市北区)HP http://tunashiki.com/
綱敷天神社(大阪市北区)HP 末社 歯神社 http://www.hagamisan.com/
綱敷天神社(大阪市北区)HP 御旅社  http://tunashiki.com/
《ウィキペディア―綱敷天神社》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B1%E6%95%B7%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE

 次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_7.html 、社殿と桜、堅魚木と千木に見る「男の神様」 について述べます。  

綱敷天神社(大阪市北区) 4部作。
1.綱敷天神とは。喜多埜稲荷神社。「北野」の由来。〔今回〕
2.社殿と桜。堅魚木と千木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_7.html
3.「戦災の狛犬」、筆塚。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_8.html
4.白龍社、歯神社。綱敷天神社の周囲https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_9.html 
 
綱敷天神社 御旅社(大阪市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_11.html


☆冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り 
大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
露の天神社(お初天神)(大阪市北区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_5.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html
綱敷天神社(大阪市北区)
1.綱敷天神とは。「北野」の由来。〔今回〕
2.社殿と桜。堅魚木と千木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_7.html
3.「戦災の狛犬」、筆塚。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_8.html
4.白龍社、歯神社。綱敷天神社の周囲https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_9.html  
綱敷天神社 御旅社(大阪市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_11.html
池田市天神1丁目・2丁目 http://shnkahousinght.at.webry.info/201405/article_10.html

千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
意富比神社 末社 天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社 天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市(白井市河原子の)天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
千葉神社 摂社 千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html

東京都 
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
湯島天神社(文京区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_10.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_11.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_12.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
根津美術館 庭園内 渡唐天神祠(「飛梅祠」)(港区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201603article_3.html 
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html

神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html   永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html

岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
村山天神(高山市国府町)
1上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
2村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
3村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
4あじめ峡、他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
桜山八幡宮 摂社天満神社(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html

京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
高台寺天満宮(京都市東山区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html

熊本県
山崎菅原神社(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_6.html
船場天満宮(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_7.html
手取天満宮(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_8.html  



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