曼殊院、及び、曼殊院天満宮(京都市上京区) 参拝

[第439回]冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り(35)
   京都市左京区一乗寺 にある 曼殊院門跡 と 曼殊院天満宮 に参拝してきました。
【1】 曼殊院門跡
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↑ 西側にある階段の上のこの門は、「勅使門」で一般の人間は通れません。
   紫の布がかかっていたので勅使門かと思ったら、やはり、そうでした。 イタリア映画『ロッコとその兄弟』(日本訳では『若者のすべて』)で、ボクサーになったロッコの兄が紫色のトランクスを着用していると、他のボクサーが「女かチャンピオンの色だ」と述べる場面がありました。 紫をという色についての捉え方は、イタリアと日本で共通したところがあるようです。

   一般の人間の拝観入口はこちら。↓
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↑ 「北通用門」
   しかし、ここがあくまでも「通用門」だとすると、正門はどこなのだろうか? 「通用門」を入ると正面に庫裏の入口があります。↓
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↑ 「庫裏」
   曼殊院 というのは、お寺なのか神社なのかというと、疑う余地なく「お寺」なのですが、実際に行ってみると、なんか、お寺というよりも、どなたかの住居みたいというのか、金堂があって講堂があって塔があってという感じではないのです。 
   又、勅使門は「エライ人」の入口として、「エライ人でない人」は北通用門から入ることになるわけですが、しかし、西から坂を登って行って北から入るというのは、たしかに、現在の戸建住宅でもそうなのですが、南側に庭をとることを考えると北に入口を設けた方がよいところもあるのではありますが、なんか、お寺としては一般的ではないような印象を受けます。

  森谷尅久他執筆・京都商工会議所編『改訂版 京都 観光文化検定 公式テキストブック』(2007. 8版 淡交社)・ブルーガイドニッポン編集部『ブルーガイドニッポン 今日から土地の人 京都 いつのころからむかし色』(1996.4.10.実業之日本社)、それに、曼殊院で購入した曼殊院門跡発行『曼殊院門跡 4版』(2008年)によると、
曼殊院とは、
天台宗。
本尊は阿弥陀如来。
延暦年間(782~806)に最澄が比叡山に一堂を建立したことに始まる。
その後、円仁が継いだ後、各所に移転されたが、1656年(明暦2)、良尚法親王(桂離宮を造営した八条宮 智仁親王の子)の時に現在地へ移転した。
竹内(たけのうち)門跡 ともいわれる。
文明年間(1469~87)に慈運(伏見宮貞常法親王の子)が入寺して以後、門跡寺院となった。
「天台宗五箇室門跡」の1つ。他の4つは、三千院(左京区大原来迎院町)・妙法院(東山区妙法院前園町)・青蓮院(東山区粟田口三条坊町)・毘沙門堂(山科区)。 三千院・妙法院・青蓮院の3つで「三門跡」とも言うらしい。
「庫裏」「大書院(本堂)」「小書院」「八窓茶室」などの建物がある。
「小書院」付属している「八窓軒」「無窓の席」という重要文化財に指定されている2つの茶室がある。
「八窓軒」は、7つの側窓と1つの天窓の8つの窓があり、仏教の八相(はっそう)成道を表現したものと言われている。古田織部や小堀遠州の好みを取り入れたものと言われる。
国宝に指定されている「黄不動」の通称で言われる「不動明王像」がある。
「大書院」の前に、小堀遠州による枯山水庭園が広がる。
狩野探幽の襖絵がある。
西側の弁天池の中島に曼殊院天満宮弁財天があり、天満宮は曼殊の現存する最古の建物で、室町時代末期の建築と考えられている。
≪ 天暦年間(947~957)天台宗で最初に阿闍梨号を受けた是算国師のとき比叡山西塔北渓に移り、これを「東尾坊」と号した。この国師が菅原家の出生であったところから、北野天満宮が造営されると初代別当職(長官、管理者)に補され、以後明治維新まで北野別当職を歴任する事となる。寺では是算国師を曼殊院初代としている。≫(曼殊院門跡発行『曼殊院』) というように、北野天満宮とつながりが深いらしい。

  「庫裏」があって、不動明王の絵がかけられていたりするのですが、何か、お寺というよりどなたかの住居という感じがあります。
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↑ 「小堀遠州の手による枯山水庭園」と『ブルーガイドニッポン 京都』には出ているのですが、「枯山水」とは岩と小石だけで作られる庭を言うべきか、それとも、池や小川がなければ樹木があっても「枯山水」と言うべきか。 曼殊院門跡発行『曼殊院』には、≪庭園は遠州好みの枯山水であり、庭の奥には滝石が配置されている。≫と出ている。 樹木もけっこう美しい庭であり、ここでは、池や小川がなければ「枯山水」としているのでしょう。









   曼殊院は屋内は写真撮影不可で、特に、円山応挙の筆なのかどうかわからないが、応挙の絵のような幽霊の絵の掛軸があり、「写真を撮影して持ち帰られると、その方に祟りがでるおそれがあります」だったか書かれていたのだが、それは、屋内での写真撮影を控えてもらうためのものかと思っていたら、曼殊院門跡発行『曼殊院門跡 (4版)』にも、その写真は掲載されていないので、実際にそういう言い伝えがあるのでしょう。


【2】 曼殊院天満宮 と弁財天、及び、弁天茶屋
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↑ 弁天池と天満宮を南側から見たもの。
   曼殊院の西側に、弁天池と弁財天・天満宮があります。
   ↑の写真の鳥居を見ると、「天満宮」と額が出ています。
   しかし、鳥居をくぐって進んだ正面にあるのは、↓
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↑  弁財天で、その右手(北側、曼殊院側)に天満宮があります。↓
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池の中島に社があるというのは、弁財天によくある作り方で、鳥居の額を見ると「天満宮」の方が主のように見えますが、池の中島に社がある作り方や、池の名称が「弁天池」、鳥居をくぐった正面にあるのが弁財天で、弁財天と天満宮では弁財天の方が社が大きい、という点を考えると弁財天の方が主なのかという感じがします。
どちらが本社でどちらが摂社なのか。 『ブルーガイドニッポン 京都』(実業之日本社)に掲載の地図では「曼殊院天満宮」と書かれていますが。
≪ 勅使門への参道の西側に弁天池がある。 周辺には多種の植物が群生し、紅葉の色づきは特に美しい。
   池畔には、天満宮と弁天堂が南に面して建っている。天満宮には菅原道真公が、弁天堂には弁才天が祀られている。 天満宮は、現存する曼殊院最古の建物で、室町時代末期の建立と考えられる。 ≫と曼殊院門跡発行『曼殊院門跡 4版』には書かれています。 この弁天池と弁才天・天満宮は、単に曼殊院の道を隔てた向かいにあるだけでなく、今も曼殊院が管理しているそうです。
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↑ 天満宮の方について、説明書きがでていますが、風雨に傷んで読めません。
   その場所の雰囲気から勝手に推測すると、もとからこの地にあったのは弁才天の方で、曼殊院が北野天満宮とつながりが深いところから、摂社として隣に天満宮を設けたが、摂社としてであっても曼殊院としては天満宮の方がよりつながりが深いので同格くらいの扱いにしてきたけれども、だからといって、それより前から存在する弁才天を粗末にすることはせず、ともに祀ってきた、というものでしょうか・・・。 違うかな・・。
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↑ (左)弁才天 (右)天満宮
弁天堂の方が大きく、鳥居をくぐって橋を渡った正面にあるのが弁天堂でその右隣に天満宮があるということは、やはり、弁天堂の方がもともとは主だったということでしょうか。

   弁財天と天満宮の南側に、「弁天茶屋」があります。↓
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食堂と喫茶の店です。

   曼殊院からその北にある修学院離宮にかけてとその周辺は、「歴史的風土特別保存地区」に指定されているようです。

   もともとは健脚だったのですが、2014年に、埼玉県川口市の川口土木建築工業(株)http://www.kawado.co.jp/ という不良企業の工事現場で右足を骨折させられ、治りかけの時にさらにアクロバットのような姿勢で作業をさせられたことから右足が曲がってしまったようで、歩きにくくなってしまいました。 真面目に努力してきたのに、不良企業のおかげでえらい目に合わされます。
   渡る世間は、ブラック企業だらけ!
です。

   曼殊院 と 曼殊院天満宮 は、最寄駅は叡山電鉄の「修学院」になります。 修学院離宮も「修学院」駅のすぐそばではなく、15分ほど歩きますが、曼殊院もある程度歩く必要があります。 少し坂はありますが、歴史的風土特別保存地区に指定されている地域とその隣接地域ですから、歩くのに苦痛はありません・・・・が、不良企業で足を怪我させられた者にとっては、本当ならもっと歩きやすいのにと、安い給料しか受け取っていないのにと実感して情けない思いがします。

※ 曼殊院門跡 HP http://www.manshuinmonzeki.jp/
《ウィキペディア―曼殊院》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BC%E6%AE%8A%E9%99%A2
京都市 京都観光Navi 曼殊院門跡 https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000219
曼殊院門跡 弁天茶屋 HP http://www.bentenchaya.com/
ぐるなび 曼殊院門跡 弁天茶屋 http://r.gnavi.co.jp/jugv9c4j0000/

   (2016.8.14.)

  この稿を公開後、何人かの方が曼殊院天満宮についてとりあげておられるのが見つかりました。
《曼殊院天満宮》http://kaiyu.omiki.com/mansyuin/mansyuin.html
   こちらには、「由緒」として、≪ 萬治3年、裏山天満宮を遷座し、弁天堂とともに鎮守堂とした。弁天堂は叡山無動辨財天の前立で、比叡山までの体力がない者は曼殊院前の弁天堂を拝して帰宅したと云われる。 ≫と書かれています。
《京都もよう 曼殊院天満宮 新緑と青もみじ 京都洛北の鮮やかな緑 》http://kyotomoyou.jp/manshuintenmangu-20140504
  あんなお地蔵さん、あったかな・・・・。 人それぞれ、気づくものは違うようです。
《「曼殊院天満宮、コイとカメのバトル」》http://www.zekkeikana.com/kyoto/sakyoku/manshuin/tenmangu31.html
  たしか、南側から入る方の鳥居に「天満宮」と書かれていたような気がしたのですが、撮ってきた写真を見ると明確ではありません。他の方のブログに掲載の写真を見ても、書かれている文字がはっきりと読めません。
《京都 曼殊院と詩仙堂を歩く》http://4travel.jp/travelogue/11000496
   こちらで掲載されている写真に見られる天満宮の右手(東側)の花などは私が行った時には咲いていなかったものです。樹木や草花がある所は、異なる季節に行くと見え方も違うものですから、できれば、季節を変えて2回、3回と行くのがよいのでしょうけれども、なかなか、そう何回も行けないことが多い。今、インターネットのおかげで、他の季節に行かれた方が撮られた写真を見ることができるので、それで他の季節の状況を知ることができます。
  (2016.8.18.)

☆冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り 
京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
高台寺天満宮(京都市東山区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html
曼殊院天満宮(京都市上京区) 〔今回〕

大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
露の天神社(お初天神)(大阪市北区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_5.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html
綱敷天神社(大阪市北区)
1.綱敷天神とは。「北野」の由来。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_6.html
2.社殿と桜。堅魚木と千木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_7.html
3.「戦災の狛犬」、筆塚 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_8.html
4.白龍社、歯神社。綱敷天神社の周囲https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_9.html  
綱敷天神社 御旅社(大阪市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_11.html
池田市天神1丁目・2丁目 http://shnkahousinght.at.webry.info/201405/article_10.html

千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
市川市北方町4丁目の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_2.html
意富比神社 末社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市河原子の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
子守神社 摂社天神社(千葉市花見川区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201605article_3.html
千葉神社 摂社千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html 

東京都 
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
湯島天神社(文京区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_10.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_11.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_12.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
根津美術館 庭園内 渡唐天神祠(「飛梅祠」)(港区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201603article_3.html 
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html

神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html

岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
村山天神(高山市国府町)
1上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
2村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
3村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
4あじめ峡、他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
桜山八幡宮 摂社天満神社(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html

熊本県
山崎菅原神社(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_6.html
船場天満宮(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_7.html
手取天満宮(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_8.html

もうひとつの日本史 闇の修験道 異端の古代史5 (ワニ文庫)
ベストセラーズ
関 裕二

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≪  ・・・平安時代に多くの学者を輩出した菅原氏は古代名族の1つ。土師(はじ)氏の末裔であった。
    土師氏は神代から続く名門で、その祖は天穂日命(あめのほひのみこと)である。この神は、出雲の国譲りの直前、出雲乗っ取りを画策する天孫族が出雲に送り込んだ神だったが、天穂日命(あめのほひのみこと)は出雲に同化してしまい、天孫族の思惑からはずれた格好となった。 出雲の国譲りののち、天穂日命の子孫は出雲臣(おみ)を名乗り、出雲国造家(こくそうけ)となって、出雲神である大国主を祀って行くようになる。 この天穂日命の14世の孫に野見宿禰(のみのすくね)がいて、この人物が垂仁天皇の時代、殉葬の風習をやめ、古墳の周囲に埴輪を置くことを提案したという。これ以降、土師器の「土師」を名乗り、さらに桓武天皇の時代、土師氏は菅原に姓をあらためた。 ・・・・

    結局、菅原道真は文人肌の政治家として出世し、複雑な権力闘争の生け贄になったのである。 大宰府へ赴いた道真は、太宰権帥(だざいのごんのそち)(大宰府の次官)にあったが、実際には幽閉であった。 道真は延喜3年、大宰府で憤死する。 晩年の生活は筆舌に尽くし難く、雨漏りのする部屋で、石を焼いて暖を取るも、困憊激しく、脚気(かっけ)と皮膚病に苦しんだという。 子供たちも土佐、駿河、飛騨、播磨に飛ばされ、道真の恨みは深かった。
    ちなみに、菅原氏が出雲国造家の子孫であったことが、道真の祟りの恐怖を増長させた最たる理由だと思うのだが、もう1つ付け加えておきたい。 六世紀から七世紀にかけて、土師氏は蘇我氏に接近し、蘇我氏とともに没落した疑いが強い、ということである。 この点から、藤原氏が菅原氏を警戒し、彼らを「蘇我」という「亡霊」と同類とみなしていたのではないかと思われるふしもある。

   延喜9年(909)、道真を無実の罪で左遷に追い込んだ主犯の藤原時平は39歳の若さで亡くなり、しかもその前年には、やはり道真の左遷に協力した藤原菅根(すがね)が没している。 悪い予感が、都人の脳裏に浮かんだに違いない。
   都に異変が起きたのは、道真の没後20年ほどたった、延喜23年のことであった。醍醐天皇の皇太子・保明(やすあき)親王が21歳の若さで急死したため、道真の祟りに違いないと、宮中が震撼した。
   『日本紀略』はこの時の様子を、次のように記している。

   世をあげて云う。 菅帥(かんそち)の霊魂宿忿(しゅくふん)のなす所なり。

   世の人々が、みな菅原道真の怨霊に恐怖したのだった。
   さっそく朝廷は道真を右大臣に復し、正二位が追贈され、左遷の詔勅を棄てたが、効果なく、その二年後、今度は保明親王と時平の娘の間に生まれた子で皇太子の慶頼(よしより)が死んでしまった。 また、さらに五年後には、旱魃を憂いて雨乞いをするかどうか議論していると、にわかに黒雲が生じて宮中の清涼殿に落雷し、道真の追い落としに与した藤原清貫(きよつら)が焼け死んだ。
   だが変事はそれだけではおさまらず、直後に醍醐天皇も急死するに及び、朝廷は恐怖のどん底に突き落とされた。
   このため正暦4年(993)には、道真に正一位・左大臣、さらに同年、太政大臣が追贈されたのだった。・・・・

   ところで、この時、朝廷の意思とは別に道真の怨霊を喧伝し、民衆の不安感をあおって北野天神創建にひと役買ったのが、どうやら修験者だったらしい。
   たとえば、『扶桑略記』『道賢上人冥途記』には、次のような説話が残されている。 修験者道賢が冥土で疫病災難の主・太政天(だじょうてん)に出会い、日本においては太政天を火雷天神(からいてんじん)と祀り敬っているのに、なぜ災いをもたらすのか、と問い質したところ、それは菅原道真の霊が祀られず成仏できないでいるからだと諭される「体験」があり、さらに比良山の神官に道真の霊が降りて、創建を懇願した、というのだ。・・・≫
( 関裕二『もうひとつの日本史 闇の修験道』2015.10.5.KKベストセラーズ ワニ文庫 ↑
「第3章 安倍晴明の軌跡」「祟る菅原道真」)

   『週刊日本の神社6 北野天満宮』(2014.3.25.ディアゴスティーニ・ジャパン)に掲載の人物相関図を見ると、菅原道真の母は伴真成(とものまなり)の娘。
   かつては、「大化の改新」とは、中大兄(なかのおおえ)(天智天皇)と藤原鎌足による蘇我入鹿暗殺事件とそれに続く改革を言ったはずだったが、最近では、中大兄と鎌足による蘇我入鹿暗殺事件は「乙巳(いっし)の変」と言って「大化の改新」と分けて表現するようだ。 関裕二氏の説によると、蘇我入鹿と中大兄では入鹿の方こそ改革派で、鎌足というのは実は百済の皇子の豊璋(ほうしょう)であり、朝鮮半島の百済・新羅・高句麗に対して「全方位外交」の姿勢であった入鹿に対して、百済のみを支持する姿勢をとりたい豊璋(ほうしょう)が中大兄を巻き込み、中大兄としては、蘇我の影響の強く有力な皇子である大海人(おおあま)(天武天皇)を退けて、自分が皇太子となることをもくろんだのが乙巳の変で、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に惨敗した後に、没落気味であった豪族・中臣の系図に豊璋(ほうしょう)が入り込んで名のったのが「中臣鎌足」、後の「藤原鎌足」であったのではないか。天智天皇(中大兄)の没後、蘇我の影響の強い大海人(おおあま)と天智の息子の大友が争い、蘇我を始めヤマト政権の主たる豪族を味方につけた大海人が勝利をおさめたのが壬申の乱であり、天武(大海人)の存命中は鎌足の息子の不比等は表に出ることはできなかったが、天武(大海人)の没後、皇后で天智(中大兄)の娘であるウノノササラ(持統)は、姉の大田皇女(おおたのひめみこ)の子 大津皇子を殺害したことからヤマト政権の諸豪族の支持を失い、そこで藤原不比等と手を組み、「蘇我系の天武の皇后」としてではなく「反蘇我の天智の娘」として動き出し、それをあやつるのが藤原不比等とその息子であった・・・・という。『日本書紀』『古事記』にそのままもとづくお話よりはよっぽど真実に近そうに思える。
   「蘇我と物部の争い」と言われるものも、蘇我馬子と物部守屋は戦ったとしても、蘇我と物部は常に戦っていたわけではなく共同して動いていた時もあり、もともと、ヤマト政権は諸豪族の連合政権だったのだが、それを、百済王家の子孫である豊璋(ほうしょう)〔藤原鎌足〕とその子孫が、ヤマトの諸豪族を片っ端から退けて政権を握り、ヤマト諸豪族の力が残る大和盆地の南部から北部の平城京に移転し、さらに北の平安京に移動したというのだ。 だから、平安時代において政権を支配し、はぶりをきかせた藤原氏にとっては、退けてきたヤマト諸豪族の子孫というのは脅威であり、特に、菅原氏(土師氏)が蘇我氏とつながりが強く、菅原道真が蘇我氏とともに没落した豪族の子孫となると、藤原にとってはかつて滅ぼした蘇我氏と同様に見えてくる存在であった、というのはありそうな話である。 道真の母は「大伴(おおとも)」「伴(とも)」の出身だということだが、「大伴(おおとも)」「伴(とも)」もまた、ヤマト政権の中心豪族あったが藤原に退けられた存在であり、蘇我とつながりが深かった菅原(土師)氏と大伴・伴の子孫である道真の台頭が、藤原に脅威に感じられ、特に退けずにおけない相手と受け取られた。そして、「菅原道真の祟り」が「蘇我入鹿の祟り」と重なって感じられた、というのもありそうな話ではある。
  (8.14.)

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