日の出天満神社(高山市松之木町)参拝 + なぜか場所によって運転が大きく違う高山のドライバー。
[第457回] 高山シリーズ 第4回≪1≫ 、
冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り(39)
岐阜県の高山への訪問は、今回5回目です。このブログには2回目から4回目について公開してきました。今回は、「東山遊歩道」の前半を巡り、日の出天満神社(高山市松之木町)に参拝しました。
どうも、私が高山に行くと雨が降る。 建築屋を仕事としてきた者としては、晴れの時ばかり見学するのではなく、雨天の時にどうなるかということも見るのは価値があることだ、というのはたしかですが、しかし、身銭を切って来ているのであって、職場から費用を出してもらって来ているわけではないし、あまり何度も雨に降られると、なんで、こうなるの・・て気になりますが、一昨年はもんのすごい雨で、宮地家住宅の前の道ではU字溝から水があふれだすわ、日下部民芸館・吉島家住宅の前の道は靴を履いた状態で足首の上くらいまで水がつかるわ、宮川を超える橋を渡るのも怖いような感じでしたが(実際には、橋が流されるとか堤防を水が超えるとかいうようなことはありませんでしたが)、今回は雨といっても、傘をさすのがめんどくさいな、という程度の雨、特に避難する心配とかはなさそうな雨でした。 宮川だって、↓な感じ。
↑ 左にいるじいさんは誰か?・・・・ ご存知ないですか? 鍛冶橋の欄干にいる「手長」「足長」の「手長」の方のじいさんですよ。

この「手長・足長」のじいさんが橋の欄干にいる鍛冶橋を東に渡りまして、この安川通り(国道158号)をまっすぐ東に行きますと、左手に「真宗大谷派 高山別院」があり、その前をさらに東に進むと、大雄寺(だいおうじ)が見えてきます。
〔 ↑ 突き当りが、大雄寺(だいおうじ)。 手前の橋が江名子川にかかる宝橋。 手前から向こうへの道が安川通り(国道158号) です。〕
江名子川という宮川よりはずっと小さい川を宝橋という橋で渡ります。 大雄寺のところで、この安川通り(国道158号)はクランク状に曲がります。 右(南)に行って左(東)に曲がるのですが、ここで油断してはならないことがあります。実は、高山の自動車のドライバーというのは、この江名子川、あるいは大雄寺の前のクランクより西側と東側で運転が全然違うのです。
今は昔、大阪府下の中学校の同級生で愛媛大学に行った友人がおりまして、松山に行くと、松山では、道を横断したいなあ~あというような顔をして立っていると、信号も何もない所でクルマが停まってくれるという体験をし、松山の人っていい人だなあ~あと感動したが、しばらくそこに住むと、そういうことでもなかったと思うようになった、と話していたのです。 その後、私自身が、1993年のこと、(株)一条工務店に在籍していました時、福島県いわき市に赴任して行ったところ、いわき市で、信号どこかなあ~あと見回していると、信号もないし横断歩道でも何でもない所でクルマが停まってくれたという経験をしました。いい~い所だなあ~あ、ここの人はみんないい人だなあ~あと松山で感動した中学校の同級生と同じようなことを思いました。 実際、福島第一原発事故の後、双葉郡大熊町のコンビニの経営者が、事故の後、避難してしばらくして戻ってみると、レジのお金とかATMとかこじあけて奪われていたといい、「そんなに悪い人が多い地域じゃないはずなんだけれども」と嘆いていたというニュースが出ましたが、実際、いわき市にしてもその北の双葉郡にしても、決して「そんなに悪い人が多い地域じゃない」と思いますし、むしろ、気持ちの優しい人が多い地域だと私は思っていますが、しかし、道路で、「信号はどこかなあ~あ」と思って見まわしていると、信号でも何でもない所でクルマが停まってくれるというのは、それは、いい人であるとかないとかいうそんな問題ではないということに気づきました。なぜなら、私自身もいわき市にしばらく住んでいるうちに、自分もクルマを運転している時に信号でも横断歩道でもなんでもない所で停まってあげるようになったからです。だって、いわき のじいさんばあさんは、横断歩道があろうがなかろうが、信号が青でも赤でもおかまいなしに渡るんだもの、ひき殺すわけにいかない以上、停まらなきゃしかたないじゃない。 だから、信号でもない所でクルマが止まってくれるというのは、それは、別に、いい人だとかそういう問題ではないのでした。 愛媛大に行った某君も、たぶん、そういう点に気づいたのではないかと思います。
しかし、そうはいっても、信号のない横断歩道でクルマが停まってくれる町と、おかまいなしにつっぱしる町となら、停まってくれる町の方がいい町だと思います。最初に高山に来たのは、2011年の8月でした。 夜行バスで朝に高山に到着したのですが、そのうち、雨が降ってきました。日下部民芸館・吉島家住宅の付近の道を歩いていると、向こうから自動車が来ましたが、私がいるのを見ると、徐行した上で私がいるのと逆よりを走るようにして、水をはねないよう配慮して通ってくれました。 ここの町の人はクルマを運転する時、歩行者にそういう配慮をして運転するんだと思い、うれしく思いました。 その後も、高山市内で、信号のない横断歩道で渡ろうと待っていると、東京あたりなら信号のない横断歩道ならそのまま走りすぎて、歩行者はクルマが行った後で渡ることが多いのですが、高山ではそうではなく、クルマの方が横断歩道の手前で停まってくれたのです。 ここの人たちはそういう優しい運転をするんだと思い、いい街だなと思いました。 その後、2014年、早朝にJR高山本線の上枝(ほずえ)駅から歩いて村山天神まで行くと、朝、8時頃、けっこうスピードを出してクルマは走っているので、このあたりは、自動車で通勤する人がいる町で、やっぱり、朝の通勤の時間帯は急ぐのでスピードを出すのだろうと思ったのです。まあ、しかたないよなと思いました。 ところが、今回、この安川通り(国道158号)を東に進み、江名子川を宝橋で渡り、大雄寺の前のクランクを曲がってさらに東に進むと、なんか、高山のドライバーって、江名子川と大雄寺の前のクランクの西と東で別人みたいな運転をするのです。 別人じゃないはずです。 同じ人間が、江名子川と大雄寺より西、JR高山本線より東の間においては、ものすごい優しい運転、ものすごい安全運転をするのに、大雄寺の前のクランクより東側に行くと、制限速度はあっても、「そんなの関係ねえ」て感じ。 ものすごいスピードでぶっ飛ばすし、横断歩道の所で立ってても、そんなの停まってくれるクルマなんてありません。 都会と違って、クルマの量は無茶苦茶多いわけではないので、しばらく待っておれば、そのうち、クルマは途切れるので、渡れないことはありませんが、江名子川や大雄寺より西側で、ものすごい安全運転で、歩行者にものすごい優しい運転をする高山のドライバーが、江名子川と大雄寺の前のクランクから東に行くと、別人みたいな、「どけ、こらあ~あ」とは言いませんが、そんな感じの運転をするのには、そのギャップに驚きました。 日の出天満神社は、この大雄寺の付近のクランクより東にこの国道158号を進みますが、有名寺社ではなく、観光地ではなく、国宝とか重要文化財とか世界遺産とかではない、地元の人が行く神職の常駐もない普通の神社です。ここが「観光地」ですよ、ここに行ってくださいよと「観光協会」が指定し、「観光ガイドブック」に載っている所に行くのではなく、そうでない所に行ってこそ、その土地の状況を理解できるわけで、地元の人としては外来者に「観光地」と指定したわけでもない所にあまり入ってきてもらいたくないかもしれないけれども、そういう場所に嫌がられずに行くことができてこそ、「建築探偵団」であり、また、私の場合、(株)一条工務店にいました時、福島県などの農村部で観光客なんか行くわけがないような所にどんどこ行ってきましたし、別に悪いことしに行くわけではないし、けっこうそういう所に行くのが好きなんです。 もともと、「逍遙学派」でして、「観光地」でない所を歩くのが好きなんです。 その結果、なんか、江名子川と大雄寺より西と東で、高山市のドライバーの運転のしかたの違いにびっくりする経験をしました。
高山市は平成の大合併で周囲の町村と合併してものすごい広い、大阪府や香川県より広い面積の市になりましたが、元から高山市であった所のうちの、さらに昔の城下町であった所、高山城の東の山のふもとに、城主 金森長近がお寺を集めた地域があり、その東山の寺社をたどって歩く「東山遊歩道」が、高山市の観光名所のひとつとされています。今回は、その「東山遊歩道」の前半(北より)と東山遊歩道の途中の位置から東に行ったあたりにある日の出天満宮と日の出神社がかつてあった場所だという大八賀神社とに行きました。 実際には、東山遊歩道を巡る途中で日の出神社に行きましたが、このブログでは、日の出天満神社の方を先に述べます。

国道158号は江名子川の東で、L型2つ、大雄寺の前で北東側に凸のL型で曲り、そのすぐ南で南西側に凸のL型で曲がります。 北の方のL型の東に大雄寺があり、その北に東山白山神社・栄鏡院・雲龍寺・久昌寺があります。 南の方のL型の北東側、Lの内側に洞雲院、南東側に素玄寺があります。 高山駅前の観光案内所で無料でもらえる「東山遊歩道」のリーフレットの地図を見ると、洞雲院と素玄寺との間に地下道があり、そこに「地下道を渡って下さい。 It is dangerous to cross the street here ; please use the underpass. 」と書かれています。 そんな大げさな・・・とそこに行く前は思ったのです。 東京や大阪の街中ならともかく、こんな所で地下道なんて通らなくったって、まあ、通ってもいいけれども、It is dangerous ……て、たいそうな・・と思ったのですが、実際にその場所に行ってみると、たいそうでも何でもない。 江名子川より西、高山本線より東の間ではものすごい安全運転のクルマが、江名子川の東、大雄寺の前のクランク、L型2つのうちの北側のクランクを曲がった所から東においては、人が変わったように猛スピードでぶっとばすのです。
今回、日の出天満宮に行くにおいては、南側のL型から北に行くのではなく、大雄寺の南、洞雲院の北で東に行き、国道158号に合流する道↓ で東に進みました。
こちらの道はクルマはあまり通りませんが、観光コースではなく、地元の人の道ですから、よそから行った者が通行するのを地元の人がどう思うかな、といったことも考えましたが、別にとがめられもしませんでした。 高山って都会だなあ~あ・・・なんて思いながら歩きました。 どこが「都会」かといいますと、福島県では、スパリゾートハワイアンズとか湯本の石炭化石館とか国道6号の「道の駅」とかだとよそ者が行ってもいいのですが、農村部で観光客が普通は行かないような所に入り込むと、「どこ、行くんですか」とか質問されたりするのです。こちらは、そのおっさんに「どこ、行くんですか」なんて尋ねないのに。 単に、公道を歩いているだけで。 で、「◇◇さんの所に行きたいんですけれども」と言うと、「ああ~あ、◇◇ちゃんなら、うちの隣だよお~お。 今、いたと思うよお~お」と言って案内して連れて行ってくれたりするのですが、親切な人やなあと思う時もあれば、わずらわしく感じる時もありましたが、なんか、そんな感じでした。 だから、◇◇さんの所に行くというはっきりとした用事があればいいのですが、そうでなければ、私などは大阪でも東京でも、普通の街を普通に歩いて、ここはこうなっているんだと知るというのがけっこう好きだったのですが、福島県ではそれがなかなかできないのでした。 岐阜県でも岐阜市の街中だと普通に歩いて問題はないでしょうし、東京の街中なんかよりよっぽど安全じゃないかと思うのですが、高山あたりになると、それも、高山の「さんまち」とか「東山遊歩道」とか観光客がよく行く所、最近では外国人の観光客も相当多い所とかは問題ないとしても、そうでない所に、よそ者が行くと、福島県で経験したみたいに、「どこ、行くんですか」とか一般人に「職務質問」される危険があるかと不安を感じながら歩きましたが、少なくとも今までのところでは、高山ではそういうことはありませんでした。 いやあ~あ・・・、高山って都会だなあ~あ、福島県に比べて・・・て、なんか、あんまり意味ないような表現ですが、しかし、今回で5回目の訪問ですが、高山は、東京や大阪のような都会とは違いますが、文化的にはけっこう都会だと思いますよ。文化的には東京より都会かもしれない。少なくとも、精神的には浜松の方がイナカやと思うな! なんて言うと、遠州人に怒られると思いますが、実際問題として、都会でもないのに、都会だということにしたがる人間が多い浜松、「浜松にはホンダ、ヤマハとかいった企業があって…」とか何かそういうことを言ってだから都会だと言いたがる人間が多い浜松なんかより、「平常心是道」という精神態度とでもいうのでしょうか、都会か田舎かなんてどうでもいいじゃないか、ここはここなんだからというようなあり方は、高山の人間一般の方が浜松の人間一般より上だと思いますね。浜松人はこういうことを言うと激怒するでしょうけれども。でも、事実ですから。私が黙れば事実が事実でなくなるわけでもない。私は浜松は別に嫌いということはないが、都会でもないのに都会だと無理に言い張りたい人間が多いという点はあまり好きではない。
↑の大雄寺・洞雲院・素玄寺付近から東に行って国道158号に合流する道ですが、問題点がもう1つありまして、「急傾斜地崩壊危険区域」に指定されている地区で、看板が出ています。 看板が出ていても、今もそこに住んでいる方が何人もおられまして、何も、毎日、崩壊しているわけではなく、たいてい、「崩壊」してないのですが、今回、通行した日のような小雨の時は問題ないでしょうけれども、もしも、もんのすごい豪雨とかの時には、「急傾斜地崩壊危険区域」に指定されている場所に、そこに住んでいるわけでもないのに、わざわざ行かない方がいいと思います。
先ほどから、国道158号で江名子川の東でL型2つのクランクで曲がる箇所について、「大雄寺のあたり」といった表現をしていますが、L型2つのクランクの付近には、「東山遊歩道」として、リーフレットにも出ている、(1)雲龍寺、(2)久昌寺、(3)栄鏡院、(4)東山白山神社、(6)洞雲院、(7)素玄寺が、(5)大雄寺の他にもあるのですが、国道158号(安川通り)、西側でJR高山本線をアンダーパスでくぐり、そこから東に行くと飛騨国分寺が北にあって、手長足長が橋の欄干にいる鍛冶橋で宮川を渡り、橋の脇に宮川交番があり、その東に行くと、北側に高山古い街並み美術館があって、さらに東に行くと、真宗大谷派高山別院が北側にあって、その東で宝橋で江名子川を渡るという道で、西から東を見ると、2番目の写真のように真正面の突き当りに見えるのが、(1)~(7)のうちのどの寺社なのだろうと思って確認すると、(5)大雄寺(だいおうじ)なのです。 かつ、クルマの運転がものすごい安全運転の西側と猛スピードでぶっとばす東側の境目は、L型2つのクランクのうちの南側のL型が境目ではなく北側のL型、この大雄寺の前あたりが境目のように思うのです。 それで、他の寺社より特に優先的な立場とかいうことでもないのですが、「大雄寺の付近」という表現をしています。
↑の大雄寺と洞雲院の間の道を東に進むと、しばらくして、国道158号に合流します。 国道158号はこのあたりでは、相当のスピードを出してクルマは走っていますが、歩道がありますから、歩くのは特に危険ということはありません。 但し、すべての場所で両側に歩道があるわけではなく、片側にしかない場所があり、かつ、道の向こう側に渡ろうとした時、信号でも横断歩道でもない場所で渡るのは危険で、信号のない横断歩道の所では、クルマはまず停まってくれませんが、クルマが途切れる時があるのでその時に渡ることができますが、けっこう気をつけて渡らないといけません。
↑の道が国道158号と合流した所から東に国道158号を進みます。 合流するあたりに、「長坂辻」というバス停がありますが、バスは1時間に1本くらいしか来ないようです。
南の方のL型から、先ほど写真を掲載した道が国道158号に合流する地点までと同じくらいの距離を東に行ったあたりの北側に東小学校があり、東小学校の前あたりに、「東小学校前」だったかいうバス停があり、「松之木歩道橋」という歩道橋があります。 そのあたりで右折します。↓
↑ 今、写真を見て、まっすぐ撮ったつもりなのに、なぜ、傾いているのかと思ったのですが、傘をさして写真を撮ると、片手で撮るために、どうしてもいがんでしまうようでした。 雨天の場合も考えて、傘をさした状態でも、問題なく撮れるようにと考えると、荷物は少な目にしたつもりでしたが、実際に傘をさして歩くと多く持ち過ぎたと思いました。 この後、煥章館(高山市図書館・近代文学館)の2階にある近代文学館に行った際、「高山から都に出るにはいくつもの峠を越えなければならない。都から高山に変える旅人は、おのれの背にどれだけの荷物を背負えるかを考えて、荷物を減らし、最後に残したものはまさに宝物のようなものだった」といったことが書かれていましたが、旅行するには、もっと、そういう姿勢で荷物を減らさないと、結果として、傾いた写真を撮ることになってしまうようでした。
右折する道を2つ過ぎて左折する下り坂の道があり、それを左折。 次の四辻を右折してまっすぐ行くと左側に、「日の出天満神社」があります。↓
南西から北東への道路に面した敷地です。 ↑道路から(北西側から)見た正面。


↑ 南西側の隣地に近い側から見て。
この切妻屋根が双子になったような社殿のつくりの神社を高山市では何か所もで見たのですが、この付近の神社の作り方なのでしょうか。
社殿の後ろに、金属製の塀というのかがあります。 2回目の高山訪問の時、飛騨天満宮の北側で同じようなものを見て、北側のアパートとの間に設けられているというのは、神社の背後の位置で、そこに「結界」を設けることで、神社の後ろの位置という神聖な場所であっても人が住めるようにするという配慮か・・・と思ったら、そういう問題ではなく、どうも、社殿の屋根から落ちる雪を止めるためのものらしかった・・という話を、[第202回]《飛騨天満宮(高山市)上‐冤罪を晴らす神・菅原道真・怨念を晴らす旅(12)。松本家住宅。飛騨の家具館。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html で問題提起編、[第204回]《飛騨天満宮(高山市)下‐冤罪を晴らす神・菅原道真(12)。高山市の白山神社。高山市役所。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html で解答編として述べましたが、ここも背後は一般の戸建住宅らしく、ここの金属板も、社殿の屋根の上の雪が背後の住宅の方に落ちないようにする配慮のようです。
↑ 北東側の隣地に近い側から見て。
前面の道路は、南西から北東にかけての道路で、北東側(国道158号に近い側)の方がやや低くなっています。 社務所? を設けるだけの広さが敷地にないことから、半地下というのか、北東側から見るならば1階で社殿が2階、南西側から見れば社殿が1階で社務所?が地下に、社務所?が設けられています。 そのあたり、工夫が見られますが、気をつけて見ないと、社務所の存在を見落とします・・・が、まあ、地元の人以外でわざわざ遠くから訪問する人間というのは私くらいかもしれませんから、地元の人は知っているのでいいのかもしれません。 普段から、社務所に神職がいるわけでもありませんし。 もっとも、神職が普段から在中している神社ではないにしては、社殿は新しいがなかなか立派な建物です。
今回、訪問に際し、下記を参考にさせていただきました。
岐阜県神社庁 日の出天満神社 詳細 http://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=3318&shrname=%E2%96%A0%E6%97%A5%E3%81%AE%E5%87%BA%E5%A4%A9%E6%BA%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E2%96%A0
神社・寺院検索サイト 八百万の神 日の出天満神社(ヒノデテンマンジンジャ) http://yaokami.jp/1210535/
この神社の場所は、高山市日の出町 と 高山市松之木町 の境目付近で、神社の名称は日の出天満神社ですが、住所は 高山市松之木町2112番地の1、2 だそうです。
岐阜県神社庁 日の出天満神社詳細http://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=3318&shrname=%E2%96%A0%E6%97%A5%E3%81%AE%E5%87%BA%E5%A4%A9%E6%BA%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E2%96%A0 の「由緒由来」には、≪ 以前は松之木町の大八賀神社に属していたが、昭和五十年(1975年)独立し、小さいながらも神殿が建立され土地も無償提供された。≫とある。 大八賀神社とはどこにあるのかというと、この日の出天満神社よりも東の方、国道158号の南の山の中腹にある。 この後、その大八賀神社にも参拝したので、ご覧いただきたい。
≪ 祭神を各地検討されたが、将来を担う子供達の為の神社にしようと願い、菅原道真を祀る飛騨天満宮より御分霊を戴き、町内氏子の守護神としてあがめられ、五月三日の例祭ほか秋季例祭(新嘗祭)除夜祭、新年祭、左義長祭(どんど焼き)春季例祭(新入学児童就学祈願祭)等、毎年町内をあげて齊行されてきている。≫というのですが、祭神は決まっていない神社で、祭神を何者にしようかと相談したところ、菅原道真がいいのと違うかということで、天満神社になった・・・・ということか。
実際のところ、地方の神社、「その地域の神社」には、あくまで、その地域の神社であって、特定の祭神は決まっていないという神社があったらしい。 それが、明治維新の後、神社を国家による国民精神支配のための道具とするために統制を加え、その際に、祭神が決まっていにあ神社にも、祭神は何々と決められたという神社があるらしい。 村上重良『国家神道』(1970.11.27.岩波新書)には、≪1871年(明治4)5月、政府は太政官布告で感謝、諸社の別と社格を定めた。・・・ こうして、神社は、官社(官弊社、国弊社)、府県社、郷社および無格社と、五段階に序列化され、中央集権的に再編成された。 地縁的な小神社では、もともと特定の祭神の神名をさだめていない神社が多かったが、この格づけの過程で、適宜、神明社としたり、復古神道系の祭神を官僚にえらんでもらったりした。 多元的な源流をもつ全国の神社を、津々浦々にいたるまで一元的に統制支配するこの措置は、神道の歴史をつうじて、前例のない徹底した神社制度であった。・・・・・≫と書かれている。
しかし、村上重良『国家神道』に書かれているような経緯で祭神が決められたのなら、それ以前に≪大八賀神社に属していた≫というのは、どういうことだろう。 大八賀神社は、この後、訪問したが、祭神はククリヒメ。白山の神さんで、他にイザナギ・イザナミと住吉大神が祀られている。ククリヒメの方が主らしい。 岐阜県神社庁の《日の出天満神社 詳細》の文章によると、大八賀神社の摂社・末社として天神社があってそれを独立させたということでもなさそうだ。各地域ごとにひとつは神社が欲しいと考えたが、この付近に神社がないので、≪大八賀神社に属して≫この地域の神社としていたが、その地域内に神社の社殿を作ろうということで、ここに日の出神社を作り、その際に、「祭神」は何々と決めた方がいいのと違うかということになって、菅原道真がいいだろうということになった・・・というものなのだろうか・・・?
大八賀神社は≪大八賀郷を開発された国津神を祀っていた≫という、祭神は何という性質の神社ではなく「その地域の神社」だったらしく、今現在の主たる祭神となっているククリヒメは、金森長近が加賀国より白山大神を勧請したということで、白山の神と『古事記』『日本書紀』の神であるククリヒメは習合して同じ神ということになったけれども、ククリヒメというよりも白山の神を勧請したわけで、それ以前は、「国津神」、大八賀郷の神を祀っていた神社であったわけです。 ということは、「大八賀郷」の範囲がどこからどこまでなのかよくわかりませんが、もしかすると、「大八賀郷」という名称から考えると8つの郷から成っていたということでしょうか、もしくは、この「八」は単に四方八方の「八」で具体的な数字の8ではなかったか。 日の出天満神社の前身も、大八賀郷のうちのこの松之木町・日之出町付近を分担する8つ、もしくは、それ以上の数のうちの1つの神社として設けられたということなのか?
村上重良『国家神道』(1970.11.27.岩波新書)には、≪ 10世紀初頭、古代国家の本格的な発展とともに、神祇制度も、さらに拡充されることになった。 これが905年(延喜5)に藤原時平が撰出した『延喜式』の「神祇式」10巻である。・・・・延喜式の神祇制度によって、全国的に官社の範囲と序列が確定し、奉幣の等級もさだまったが、さらに朝廷では、伊勢と平安京付近の名社を、十六社、十九社等として選び、特別の奉幣と祈願を行った。これらの名社については、白河天皇の1081年(永保元)にいたって、二十二社をさだめて、その地位を制度化した。 二十二社は、伊勢神宮以下、石清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日、大原野、大神、石上(いそのかみ)、大和(おおやまと)、広瀬、竜田、住吉、日吉(ひえ)、梅宮、吉田、広田、祇園、北野、丹生川上(にぶかわかみ)、貴布禰(きふね)の格社で、ふつう二月と七月の二度、祈年の奉幣が行われた。・・・・≫と書かれている。 白山の神を勧請した後も、実質的に「地元の地域の神さま」であった大八賀神社から、その地域の一部分が分離して日の出神社となろうとした際に、この22社のどれかが祭神だということにしておいた方がいいかと思う人があって、そうなると、何の神さんかようわからん今ではよう知らん人もいる神さんよりも、北野の天神さんなら学問の神さんということでええのとちゃうかあ~あ、ということで天神社になった・・・・という可能性は、ありそうに思うが、どうだろう。
社殿はけっこう新しいように見えるが、何年の竣工なのかは、インターネットで見ても見つからず、現地にも書かれたものはないが、昭和50年(1975年)に大八賀神社から独立した旨の記述が、岐阜県神社庁のHPにあるところを見ると、その時かもしれない。 とすると、築41年。 一般の住宅なら新しくはないが、神社の社殿なら新しい方か。
その地域によって多い神社と多くない神社がある。 これより前に訪問した石川県の金沢は、地図を見回すと、「菅原神社」はけっこう多かった。 天神・天満・北野・菅原系の神社の中でも「菅原神社」が多いということは、江戸時代にお殿様であった前田家が菅原道真の子孫を名のったことから、菅原神社が多くなったのか、前田家が金沢の領主になるより前から、菅原氏と関係のある人たちが勢力を持っていた地域なので菅原神社が多く、前田利家はそれを理解して、私も菅原の子孫ですと名のったのか。
高山市では、合併前の高山市の範囲で、なおかつ市街地においては、秋葉神社が多いが、これは、市街地は隣家と家が接していることから、問題点として、火災に弱いということがあり、それで、防火の神さまとして秋葉神社があちらこちらに建てられた、ということで、高山市でも、農村部というのか、隣家とそれほど家が接していない地域になると、秋葉神社は必ずしも多くないようだ。 防火の神さまとしては、全国的には、静岡県の今は浜松市の一部分になったが、浜松といっても浜松駅の付近とかではなく、北の山間部にある秋葉神社と、京都の西にある愛宕神社が防火の神さまとされているが、高山市の市街地では、愛宕神社はあまり見かけることはなく、秋葉神社はあちらこちらで見かけるというのは、秋葉神社との方がつながりが深い事情があったということか。
高山市では、大八賀神社の祭神もククリヒメで、東山白山神社の祭神もククリヒメ。 ククリヒメを祭神とする神社は少なくないようだが、これは、『古事記』『日本書紀』の神であるククリヒメを祀っているというよりも、ククリヒメと習合した白山の神を祀っているのでしょう。 白山は何県にあるかというと、石川県というイメージがあったが、地図をよく見ると、実は、石川県と岐阜県の境目付近にある。 昔の国で言うと、加賀国と飛騨国の境目付近にある。 飛騨側でも白山の神を多く祀ったということか。
天神・天満・北野・菅原系の神社は、高山市では多くないように見受けるが、飛騨天満宮は、菅原道真の三男の菅原兼茂が道真が大宰府に流されたのと同様に飛騨に左遷され、道真が大宰府で他界したのを聞いて木造を作り祀ったのが始まりと、《ウィキペディア―飛騨天満宮》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%A8%A8%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE には出ており、又、《ウィキペディア―天満神社(高山市)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%BA%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%B8%82) には、村山天神は≪室町時代の中流公家で武将の姉小路尹綱の軍が戦に敗れた際、同家に伝わっていた菅原公の本像がここに祀られ≫たという記述があり、菅原道真が祀られるルーツはあるわけだが、広まっていないように見受けられる。 建物は木造が多く、木の家具などを扱う店も多く、林業・木工業・木質建築業の神、木の神さまを祀る神社も多いようだが、イソタケルとかスサノオといった『古事記』『日本書紀』に登場する木の神さんと習合はしていない神社が多い。 古代ヤマト政権や藤原氏が支配する平安京の政権の屈服しない勢力が飛騨地方に存在したということなのか、高山など飛騨地方は他の地域に行くのに峠を越えて行かなければならず、その為、攻撃には不利でも防禦には有利な地形だったということなのか。 簡単に断定はできないが、興味深い問題である。
次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_14.html 、日の出天満神社 がかつて属していたという 大八賀神社 に行きます。
(2016.10.20.)
☆冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
村山天神(高山市国府町)
1上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
2村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
3村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
4あじめ峡、他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
桜山八幡宮 摂社天満神社(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html
日の出天満宮(高山市) 〔今回〕
☆高山シリーズ第4回
1.日の出天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
2.大八賀神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_14.html
3.東山遊歩道(1)高山別院照蓮寺から東山白山神社へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_15.html
4. 〃 (2)東山白山神社・大雄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_16.html
5. 〃 (3)雲龍寺・久昌寺・栄鏡院 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_17.html
6. 〃 (4)洞雲院・素玄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_18.html
7. 〃 (5)東山神明神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_19.html
8. 〃 (6)天照寺・法華寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_20.html
9. 〃 (7)善応寺1.本堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_21.html
10.〃 (8)善応寺2.地蔵堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_22.html
11.〃 (9)宗猷寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_23.html
12.〃(10)町年寄川上家別邸跡 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_24.html
13.煥章館と煥章館2階から見た東山 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_25.html
14.十六銀行 高山支店、早朝は無人の安川交番 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_26.html
15.新装「高山駅」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_27.html
16.片流れ屋根のモデルハウス https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_4.html
冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り(39)
岐阜県の高山への訪問は、今回5回目です。このブログには2回目から4回目について公開してきました。今回は、「東山遊歩道」の前半を巡り、日の出天満神社(高山市松之木町)に参拝しました。
どうも、私が高山に行くと雨が降る。 建築屋を仕事としてきた者としては、晴れの時ばかり見学するのではなく、雨天の時にどうなるかということも見るのは価値があることだ、というのはたしかですが、しかし、身銭を切って来ているのであって、職場から費用を出してもらって来ているわけではないし、あまり何度も雨に降られると、なんで、こうなるの・・て気になりますが、一昨年はもんのすごい雨で、宮地家住宅の前の道ではU字溝から水があふれだすわ、日下部民芸館・吉島家住宅の前の道は靴を履いた状態で足首の上くらいまで水がつかるわ、宮川を超える橋を渡るのも怖いような感じでしたが(実際には、橋が流されるとか堤防を水が超えるとかいうようなことはありませんでしたが)、今回は雨といっても、傘をさすのがめんどくさいな、という程度の雨、特に避難する心配とかはなさそうな雨でした。 宮川だって、↓な感じ。
↑ 左にいるじいさんは誰か?・・・・ ご存知ないですか? 鍛冶橋の欄干にいる「手長」「足長」の「手長」の方のじいさんですよ。
この「手長・足長」のじいさんが橋の欄干にいる鍛冶橋を東に渡りまして、この安川通り(国道158号)をまっすぐ東に行きますと、左手に「真宗大谷派 高山別院」があり、その前をさらに東に進むと、大雄寺(だいおうじ)が見えてきます。
〔 ↑ 突き当りが、大雄寺(だいおうじ)。 手前の橋が江名子川にかかる宝橋。 手前から向こうへの道が安川通り(国道158号) です。〕
江名子川という宮川よりはずっと小さい川を宝橋という橋で渡ります。 大雄寺のところで、この安川通り(国道158号)はクランク状に曲がります。 右(南)に行って左(東)に曲がるのですが、ここで油断してはならないことがあります。実は、高山の自動車のドライバーというのは、この江名子川、あるいは大雄寺の前のクランクより西側と東側で運転が全然違うのです。
今は昔、大阪府下の中学校の同級生で愛媛大学に行った友人がおりまして、松山に行くと、松山では、道を横断したいなあ~あというような顔をして立っていると、信号も何もない所でクルマが停まってくれるという体験をし、松山の人っていい人だなあ~あと感動したが、しばらくそこに住むと、そういうことでもなかったと思うようになった、と話していたのです。 その後、私自身が、1993年のこと、(株)一条工務店に在籍していました時、福島県いわき市に赴任して行ったところ、いわき市で、信号どこかなあ~あと見回していると、信号もないし横断歩道でも何でもない所でクルマが停まってくれたという経験をしました。いい~い所だなあ~あ、ここの人はみんないい人だなあ~あと松山で感動した中学校の同級生と同じようなことを思いました。 実際、福島第一原発事故の後、双葉郡大熊町のコンビニの経営者が、事故の後、避難してしばらくして戻ってみると、レジのお金とかATMとかこじあけて奪われていたといい、「そんなに悪い人が多い地域じゃないはずなんだけれども」と嘆いていたというニュースが出ましたが、実際、いわき市にしてもその北の双葉郡にしても、決して「そんなに悪い人が多い地域じゃない」と思いますし、むしろ、気持ちの優しい人が多い地域だと私は思っていますが、しかし、道路で、「信号はどこかなあ~あ」と思って見まわしていると、信号でも何でもない所でクルマが停まってくれるというのは、それは、いい人であるとかないとかいうそんな問題ではないということに気づきました。なぜなら、私自身もいわき市にしばらく住んでいるうちに、自分もクルマを運転している時に信号でも横断歩道でもなんでもない所で停まってあげるようになったからです。だって、いわき のじいさんばあさんは、横断歩道があろうがなかろうが、信号が青でも赤でもおかまいなしに渡るんだもの、ひき殺すわけにいかない以上、停まらなきゃしかたないじゃない。 だから、信号でもない所でクルマが止まってくれるというのは、それは、別に、いい人だとかそういう問題ではないのでした。 愛媛大に行った某君も、たぶん、そういう点に気づいたのではないかと思います。
しかし、そうはいっても、信号のない横断歩道でクルマが停まってくれる町と、おかまいなしにつっぱしる町となら、停まってくれる町の方がいい町だと思います。最初に高山に来たのは、2011年の8月でした。 夜行バスで朝に高山に到着したのですが、そのうち、雨が降ってきました。日下部民芸館・吉島家住宅の付近の道を歩いていると、向こうから自動車が来ましたが、私がいるのを見ると、徐行した上で私がいるのと逆よりを走るようにして、水をはねないよう配慮して通ってくれました。 ここの町の人はクルマを運転する時、歩行者にそういう配慮をして運転するんだと思い、うれしく思いました。 その後も、高山市内で、信号のない横断歩道で渡ろうと待っていると、東京あたりなら信号のない横断歩道ならそのまま走りすぎて、歩行者はクルマが行った後で渡ることが多いのですが、高山ではそうではなく、クルマの方が横断歩道の手前で停まってくれたのです。 ここの人たちはそういう優しい運転をするんだと思い、いい街だなと思いました。 その後、2014年、早朝にJR高山本線の上枝(ほずえ)駅から歩いて村山天神まで行くと、朝、8時頃、けっこうスピードを出してクルマは走っているので、このあたりは、自動車で通勤する人がいる町で、やっぱり、朝の通勤の時間帯は急ぐのでスピードを出すのだろうと思ったのです。まあ、しかたないよなと思いました。 ところが、今回、この安川通り(国道158号)を東に進み、江名子川を宝橋で渡り、大雄寺の前のクランクを曲がってさらに東に進むと、なんか、高山のドライバーって、江名子川と大雄寺の前のクランクの西と東で別人みたいな運転をするのです。 別人じゃないはずです。 同じ人間が、江名子川と大雄寺より西、JR高山本線より東の間においては、ものすごい優しい運転、ものすごい安全運転をするのに、大雄寺の前のクランクより東側に行くと、制限速度はあっても、「そんなの関係ねえ」て感じ。 ものすごいスピードでぶっ飛ばすし、横断歩道の所で立ってても、そんなの停まってくれるクルマなんてありません。 都会と違って、クルマの量は無茶苦茶多いわけではないので、しばらく待っておれば、そのうち、クルマは途切れるので、渡れないことはありませんが、江名子川や大雄寺より西側で、ものすごい安全運転で、歩行者にものすごい優しい運転をする高山のドライバーが、江名子川と大雄寺の前のクランクから東に行くと、別人みたいな、「どけ、こらあ~あ」とは言いませんが、そんな感じの運転をするのには、そのギャップに驚きました。 日の出天満神社は、この大雄寺の付近のクランクより東にこの国道158号を進みますが、有名寺社ではなく、観光地ではなく、国宝とか重要文化財とか世界遺産とかではない、地元の人が行く神職の常駐もない普通の神社です。ここが「観光地」ですよ、ここに行ってくださいよと「観光協会」が指定し、「観光ガイドブック」に載っている所に行くのではなく、そうでない所に行ってこそ、その土地の状況を理解できるわけで、地元の人としては外来者に「観光地」と指定したわけでもない所にあまり入ってきてもらいたくないかもしれないけれども、そういう場所に嫌がられずに行くことができてこそ、「建築探偵団」であり、また、私の場合、(株)一条工務店にいました時、福島県などの農村部で観光客なんか行くわけがないような所にどんどこ行ってきましたし、別に悪いことしに行くわけではないし、けっこうそういう所に行くのが好きなんです。 もともと、「逍遙学派」でして、「観光地」でない所を歩くのが好きなんです。 その結果、なんか、江名子川と大雄寺より西と東で、高山市のドライバーの運転のしかたの違いにびっくりする経験をしました。
高山市は平成の大合併で周囲の町村と合併してものすごい広い、大阪府や香川県より広い面積の市になりましたが、元から高山市であった所のうちの、さらに昔の城下町であった所、高山城の東の山のふもとに、城主 金森長近がお寺を集めた地域があり、その東山の寺社をたどって歩く「東山遊歩道」が、高山市の観光名所のひとつとされています。今回は、その「東山遊歩道」の前半(北より)と東山遊歩道の途中の位置から東に行ったあたりにある日の出天満宮と日の出神社がかつてあった場所だという大八賀神社とに行きました。 実際には、東山遊歩道を巡る途中で日の出神社に行きましたが、このブログでは、日の出天満神社の方を先に述べます。
国道158号は江名子川の東で、L型2つ、大雄寺の前で北東側に凸のL型で曲り、そのすぐ南で南西側に凸のL型で曲がります。 北の方のL型の東に大雄寺があり、その北に東山白山神社・栄鏡院・雲龍寺・久昌寺があります。 南の方のL型の北東側、Lの内側に洞雲院、南東側に素玄寺があります。 高山駅前の観光案内所で無料でもらえる「東山遊歩道」のリーフレットの地図を見ると、洞雲院と素玄寺との間に地下道があり、そこに「地下道を渡って下さい。 It is dangerous to cross the street here ; please use the underpass. 」と書かれています。 そんな大げさな・・・とそこに行く前は思ったのです。 東京や大阪の街中ならともかく、こんな所で地下道なんて通らなくったって、まあ、通ってもいいけれども、It is dangerous ……て、たいそうな・・と思ったのですが、実際にその場所に行ってみると、たいそうでも何でもない。 江名子川より西、高山本線より東の間ではものすごい安全運転のクルマが、江名子川の東、大雄寺の前のクランク、L型2つのうちの北側のクランクを曲がった所から東においては、人が変わったように猛スピードでぶっとばすのです。
今回、日の出天満宮に行くにおいては、南側のL型から北に行くのではなく、大雄寺の南、洞雲院の北で東に行き、国道158号に合流する道↓ で東に進みました。
こちらの道はクルマはあまり通りませんが、観光コースではなく、地元の人の道ですから、よそから行った者が通行するのを地元の人がどう思うかな、といったことも考えましたが、別にとがめられもしませんでした。 高山って都会だなあ~あ・・・なんて思いながら歩きました。 どこが「都会」かといいますと、福島県では、スパリゾートハワイアンズとか湯本の石炭化石館とか国道6号の「道の駅」とかだとよそ者が行ってもいいのですが、農村部で観光客が普通は行かないような所に入り込むと、「どこ、行くんですか」とか質問されたりするのです。こちらは、そのおっさんに「どこ、行くんですか」なんて尋ねないのに。 単に、公道を歩いているだけで。 で、「◇◇さんの所に行きたいんですけれども」と言うと、「ああ~あ、◇◇ちゃんなら、うちの隣だよお~お。 今、いたと思うよお~お」と言って案内して連れて行ってくれたりするのですが、親切な人やなあと思う時もあれば、わずらわしく感じる時もありましたが、なんか、そんな感じでした。 だから、◇◇さんの所に行くというはっきりとした用事があればいいのですが、そうでなければ、私などは大阪でも東京でも、普通の街を普通に歩いて、ここはこうなっているんだと知るというのがけっこう好きだったのですが、福島県ではそれがなかなかできないのでした。 岐阜県でも岐阜市の街中だと普通に歩いて問題はないでしょうし、東京の街中なんかよりよっぽど安全じゃないかと思うのですが、高山あたりになると、それも、高山の「さんまち」とか「東山遊歩道」とか観光客がよく行く所、最近では外国人の観光客も相当多い所とかは問題ないとしても、そうでない所に、よそ者が行くと、福島県で経験したみたいに、「どこ、行くんですか」とか一般人に「職務質問」される危険があるかと不安を感じながら歩きましたが、少なくとも今までのところでは、高山ではそういうことはありませんでした。 いやあ~あ・・・、高山って都会だなあ~あ、福島県に比べて・・・て、なんか、あんまり意味ないような表現ですが、しかし、今回で5回目の訪問ですが、高山は、東京や大阪のような都会とは違いますが、文化的にはけっこう都会だと思いますよ。文化的には東京より都会かもしれない。少なくとも、精神的には浜松の方がイナカやと思うな! なんて言うと、遠州人に怒られると思いますが、実際問題として、都会でもないのに、都会だということにしたがる人間が多い浜松、「浜松にはホンダ、ヤマハとかいった企業があって…」とか何かそういうことを言ってだから都会だと言いたがる人間が多い浜松なんかより、「平常心是道」という精神態度とでもいうのでしょうか、都会か田舎かなんてどうでもいいじゃないか、ここはここなんだからというようなあり方は、高山の人間一般の方が浜松の人間一般より上だと思いますね。浜松人はこういうことを言うと激怒するでしょうけれども。でも、事実ですから。私が黙れば事実が事実でなくなるわけでもない。私は浜松は別に嫌いということはないが、都会でもないのに都会だと無理に言い張りたい人間が多いという点はあまり好きではない。
↑の大雄寺・洞雲院・素玄寺付近から東に行って国道158号に合流する道ですが、問題点がもう1つありまして、「急傾斜地崩壊危険区域」に指定されている地区で、看板が出ています。 看板が出ていても、今もそこに住んでいる方が何人もおられまして、何も、毎日、崩壊しているわけではなく、たいてい、「崩壊」してないのですが、今回、通行した日のような小雨の時は問題ないでしょうけれども、もしも、もんのすごい豪雨とかの時には、「急傾斜地崩壊危険区域」に指定されている場所に、そこに住んでいるわけでもないのに、わざわざ行かない方がいいと思います。
先ほどから、国道158号で江名子川の東でL型2つのクランクで曲がる箇所について、「大雄寺のあたり」といった表現をしていますが、L型2つのクランクの付近には、「東山遊歩道」として、リーフレットにも出ている、(1)雲龍寺、(2)久昌寺、(3)栄鏡院、(4)東山白山神社、(6)洞雲院、(7)素玄寺が、(5)大雄寺の他にもあるのですが、国道158号(安川通り)、西側でJR高山本線をアンダーパスでくぐり、そこから東に行くと飛騨国分寺が北にあって、手長足長が橋の欄干にいる鍛冶橋で宮川を渡り、橋の脇に宮川交番があり、その東に行くと、北側に高山古い街並み美術館があって、さらに東に行くと、真宗大谷派高山別院が北側にあって、その東で宝橋で江名子川を渡るという道で、西から東を見ると、2番目の写真のように真正面の突き当りに見えるのが、(1)~(7)のうちのどの寺社なのだろうと思って確認すると、(5)大雄寺(だいおうじ)なのです。 かつ、クルマの運転がものすごい安全運転の西側と猛スピードでぶっとばす東側の境目は、L型2つのクランクのうちの南側のL型が境目ではなく北側のL型、この大雄寺の前あたりが境目のように思うのです。 それで、他の寺社より特に優先的な立場とかいうことでもないのですが、「大雄寺の付近」という表現をしています。
↑の大雄寺と洞雲院の間の道を東に進むと、しばらくして、国道158号に合流します。 国道158号はこのあたりでは、相当のスピードを出してクルマは走っていますが、歩道がありますから、歩くのは特に危険ということはありません。 但し、すべての場所で両側に歩道があるわけではなく、片側にしかない場所があり、かつ、道の向こう側に渡ろうとした時、信号でも横断歩道でもない場所で渡るのは危険で、信号のない横断歩道の所では、クルマはまず停まってくれませんが、クルマが途切れる時があるのでその時に渡ることができますが、けっこう気をつけて渡らないといけません。
↑の道が国道158号と合流した所から東に国道158号を進みます。 合流するあたりに、「長坂辻」というバス停がありますが、バスは1時間に1本くらいしか来ないようです。
南の方のL型から、先ほど写真を掲載した道が国道158号に合流する地点までと同じくらいの距離を東に行ったあたりの北側に東小学校があり、東小学校の前あたりに、「東小学校前」だったかいうバス停があり、「松之木歩道橋」という歩道橋があります。 そのあたりで右折します。↓
↑ 今、写真を見て、まっすぐ撮ったつもりなのに、なぜ、傾いているのかと思ったのですが、傘をさして写真を撮ると、片手で撮るために、どうしてもいがんでしまうようでした。 雨天の場合も考えて、傘をさした状態でも、問題なく撮れるようにと考えると、荷物は少な目にしたつもりでしたが、実際に傘をさして歩くと多く持ち過ぎたと思いました。 この後、煥章館(高山市図書館・近代文学館)の2階にある近代文学館に行った際、「高山から都に出るにはいくつもの峠を越えなければならない。都から高山に変える旅人は、おのれの背にどれだけの荷物を背負えるかを考えて、荷物を減らし、最後に残したものはまさに宝物のようなものだった」といったことが書かれていましたが、旅行するには、もっと、そういう姿勢で荷物を減らさないと、結果として、傾いた写真を撮ることになってしまうようでした。
右折する道を2つ過ぎて左折する下り坂の道があり、それを左折。 次の四辻を右折してまっすぐ行くと左側に、「日の出天満神社」があります。↓
南西から北東への道路に面した敷地です。 ↑道路から(北西側から)見た正面。
↑ 南西側の隣地に近い側から見て。
この切妻屋根が双子になったような社殿のつくりの神社を高山市では何か所もで見たのですが、この付近の神社の作り方なのでしょうか。
社殿の後ろに、金属製の塀というのかがあります。 2回目の高山訪問の時、飛騨天満宮の北側で同じようなものを見て、北側のアパートとの間に設けられているというのは、神社の背後の位置で、そこに「結界」を設けることで、神社の後ろの位置という神聖な場所であっても人が住めるようにするという配慮か・・・と思ったら、そういう問題ではなく、どうも、社殿の屋根から落ちる雪を止めるためのものらしかった・・という話を、[第202回]《飛騨天満宮(高山市)上‐冤罪を晴らす神・菅原道真・怨念を晴らす旅(12)。松本家住宅。飛騨の家具館。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html で問題提起編、[第204回]《飛騨天満宮(高山市)下‐冤罪を晴らす神・菅原道真(12)。高山市の白山神社。高山市役所。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html で解答編として述べましたが、ここも背後は一般の戸建住宅らしく、ここの金属板も、社殿の屋根の上の雪が背後の住宅の方に落ちないようにする配慮のようです。
↑ 北東側の隣地に近い側から見て。
前面の道路は、南西から北東にかけての道路で、北東側(国道158号に近い側)の方がやや低くなっています。 社務所? を設けるだけの広さが敷地にないことから、半地下というのか、北東側から見るならば1階で社殿が2階、南西側から見れば社殿が1階で社務所?が地下に、社務所?が設けられています。 そのあたり、工夫が見られますが、気をつけて見ないと、社務所の存在を見落とします・・・が、まあ、地元の人以外でわざわざ遠くから訪問する人間というのは私くらいかもしれませんから、地元の人は知っているのでいいのかもしれません。 普段から、社務所に神職がいるわけでもありませんし。 もっとも、神職が普段から在中している神社ではないにしては、社殿は新しいがなかなか立派な建物です。
今回、訪問に際し、下記を参考にさせていただきました。
岐阜県神社庁 日の出天満神社 詳細 http://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=3318&shrname=%E2%96%A0%E6%97%A5%E3%81%AE%E5%87%BA%E5%A4%A9%E6%BA%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E2%96%A0
神社・寺院検索サイト 八百万の神 日の出天満神社(ヒノデテンマンジンジャ) http://yaokami.jp/1210535/
この神社の場所は、高山市日の出町 と 高山市松之木町 の境目付近で、神社の名称は日の出天満神社ですが、住所は 高山市松之木町2112番地の1、2 だそうです。
岐阜県神社庁 日の出天満神社詳細http://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=3318&shrname=%E2%96%A0%E6%97%A5%E3%81%AE%E5%87%BA%E5%A4%A9%E6%BA%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E2%96%A0 の「由緒由来」には、≪ 以前は松之木町の大八賀神社に属していたが、昭和五十年(1975年)独立し、小さいながらも神殿が建立され土地も無償提供された。≫とある。 大八賀神社とはどこにあるのかというと、この日の出天満神社よりも東の方、国道158号の南の山の中腹にある。 この後、その大八賀神社にも参拝したので、ご覧いただきたい。
≪ 祭神を各地検討されたが、将来を担う子供達の為の神社にしようと願い、菅原道真を祀る飛騨天満宮より御分霊を戴き、町内氏子の守護神としてあがめられ、五月三日の例祭ほか秋季例祭(新嘗祭)除夜祭、新年祭、左義長祭(どんど焼き)春季例祭(新入学児童就学祈願祭)等、毎年町内をあげて齊行されてきている。≫というのですが、祭神は決まっていない神社で、祭神を何者にしようかと相談したところ、菅原道真がいいのと違うかということで、天満神社になった・・・・ということか。
実際のところ、地方の神社、「その地域の神社」には、あくまで、その地域の神社であって、特定の祭神は決まっていないという神社があったらしい。 それが、明治維新の後、神社を国家による国民精神支配のための道具とするために統制を加え、その際に、祭神が決まっていにあ神社にも、祭神は何々と決められたという神社があるらしい。 村上重良『国家神道』(1970.11.27.岩波新書)には、≪1871年(明治4)5月、政府は太政官布告で感謝、諸社の別と社格を定めた。・・・ こうして、神社は、官社(官弊社、国弊社)、府県社、郷社および無格社と、五段階に序列化され、中央集権的に再編成された。 地縁的な小神社では、もともと特定の祭神の神名をさだめていない神社が多かったが、この格づけの過程で、適宜、神明社としたり、復古神道系の祭神を官僚にえらんでもらったりした。 多元的な源流をもつ全国の神社を、津々浦々にいたるまで一元的に統制支配するこの措置は、神道の歴史をつうじて、前例のない徹底した神社制度であった。・・・・・≫と書かれている。
しかし、村上重良『国家神道』に書かれているような経緯で祭神が決められたのなら、それ以前に≪大八賀神社に属していた≫というのは、どういうことだろう。 大八賀神社は、この後、訪問したが、祭神はククリヒメ。白山の神さんで、他にイザナギ・イザナミと住吉大神が祀られている。ククリヒメの方が主らしい。 岐阜県神社庁の《日の出天満神社 詳細》の文章によると、大八賀神社の摂社・末社として天神社があってそれを独立させたということでもなさそうだ。各地域ごとにひとつは神社が欲しいと考えたが、この付近に神社がないので、≪大八賀神社に属して≫この地域の神社としていたが、その地域内に神社の社殿を作ろうということで、ここに日の出神社を作り、その際に、「祭神」は何々と決めた方がいいのと違うかということになって、菅原道真がいいだろうということになった・・・というものなのだろうか・・・?
大八賀神社は≪大八賀郷を開発された国津神を祀っていた≫という、祭神は何という性質の神社ではなく「その地域の神社」だったらしく、今現在の主たる祭神となっているククリヒメは、金森長近が加賀国より白山大神を勧請したということで、白山の神と『古事記』『日本書紀』の神であるククリヒメは習合して同じ神ということになったけれども、ククリヒメというよりも白山の神を勧請したわけで、それ以前は、「国津神」、大八賀郷の神を祀っていた神社であったわけです。 ということは、「大八賀郷」の範囲がどこからどこまでなのかよくわかりませんが、もしかすると、「大八賀郷」という名称から考えると8つの郷から成っていたということでしょうか、もしくは、この「八」は単に四方八方の「八」で具体的な数字の8ではなかったか。 日の出天満神社の前身も、大八賀郷のうちのこの松之木町・日之出町付近を分担する8つ、もしくは、それ以上の数のうちの1つの神社として設けられたということなのか?
村上重良『国家神道』(1970.11.27.岩波新書)には、≪ 10世紀初頭、古代国家の本格的な発展とともに、神祇制度も、さらに拡充されることになった。 これが905年(延喜5)に藤原時平が撰出した『延喜式』の「神祇式」10巻である。・・・・延喜式の神祇制度によって、全国的に官社の範囲と序列が確定し、奉幣の等級もさだまったが、さらに朝廷では、伊勢と平安京付近の名社を、十六社、十九社等として選び、特別の奉幣と祈願を行った。これらの名社については、白河天皇の1081年(永保元)にいたって、二十二社をさだめて、その地位を制度化した。 二十二社は、伊勢神宮以下、石清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日、大原野、大神、石上(いそのかみ)、大和(おおやまと)、広瀬、竜田、住吉、日吉(ひえ)、梅宮、吉田、広田、祇園、北野、丹生川上(にぶかわかみ)、貴布禰(きふね)の格社で、ふつう二月と七月の二度、祈年の奉幣が行われた。・・・・≫と書かれている。 白山の神を勧請した後も、実質的に「地元の地域の神さま」であった大八賀神社から、その地域の一部分が分離して日の出神社となろうとした際に、この22社のどれかが祭神だということにしておいた方がいいかと思う人があって、そうなると、何の神さんかようわからん今ではよう知らん人もいる神さんよりも、北野の天神さんなら学問の神さんということでええのとちゃうかあ~あ、ということで天神社になった・・・・という可能性は、ありそうに思うが、どうだろう。
社殿はけっこう新しいように見えるが、何年の竣工なのかは、インターネットで見ても見つからず、現地にも書かれたものはないが、昭和50年(1975年)に大八賀神社から独立した旨の記述が、岐阜県神社庁のHPにあるところを見ると、その時かもしれない。 とすると、築41年。 一般の住宅なら新しくはないが、神社の社殿なら新しい方か。
その地域によって多い神社と多くない神社がある。 これより前に訪問した石川県の金沢は、地図を見回すと、「菅原神社」はけっこう多かった。 天神・天満・北野・菅原系の神社の中でも「菅原神社」が多いということは、江戸時代にお殿様であった前田家が菅原道真の子孫を名のったことから、菅原神社が多くなったのか、前田家が金沢の領主になるより前から、菅原氏と関係のある人たちが勢力を持っていた地域なので菅原神社が多く、前田利家はそれを理解して、私も菅原の子孫ですと名のったのか。
高山市では、合併前の高山市の範囲で、なおかつ市街地においては、秋葉神社が多いが、これは、市街地は隣家と家が接していることから、問題点として、火災に弱いということがあり、それで、防火の神さまとして秋葉神社があちらこちらに建てられた、ということで、高山市でも、農村部というのか、隣家とそれほど家が接していない地域になると、秋葉神社は必ずしも多くないようだ。 防火の神さまとしては、全国的には、静岡県の今は浜松市の一部分になったが、浜松といっても浜松駅の付近とかではなく、北の山間部にある秋葉神社と、京都の西にある愛宕神社が防火の神さまとされているが、高山市の市街地では、愛宕神社はあまり見かけることはなく、秋葉神社はあちらこちらで見かけるというのは、秋葉神社との方がつながりが深い事情があったということか。
高山市では、大八賀神社の祭神もククリヒメで、東山白山神社の祭神もククリヒメ。 ククリヒメを祭神とする神社は少なくないようだが、これは、『古事記』『日本書紀』の神であるククリヒメを祀っているというよりも、ククリヒメと習合した白山の神を祀っているのでしょう。 白山は何県にあるかというと、石川県というイメージがあったが、地図をよく見ると、実は、石川県と岐阜県の境目付近にある。 昔の国で言うと、加賀国と飛騨国の境目付近にある。 飛騨側でも白山の神を多く祀ったということか。
天神・天満・北野・菅原系の神社は、高山市では多くないように見受けるが、飛騨天満宮は、菅原道真の三男の菅原兼茂が道真が大宰府に流されたのと同様に飛騨に左遷され、道真が大宰府で他界したのを聞いて木造を作り祀ったのが始まりと、《ウィキペディア―飛騨天満宮》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%A8%A8%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE には出ており、又、《ウィキペディア―天満神社(高山市)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%BA%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%B8%82) には、村山天神は≪室町時代の中流公家で武将の姉小路尹綱の軍が戦に敗れた際、同家に伝わっていた菅原公の本像がここに祀られ≫たという記述があり、菅原道真が祀られるルーツはあるわけだが、広まっていないように見受けられる。 建物は木造が多く、木の家具などを扱う店も多く、林業・木工業・木質建築業の神、木の神さまを祀る神社も多いようだが、イソタケルとかスサノオといった『古事記』『日本書紀』に登場する木の神さんと習合はしていない神社が多い。 古代ヤマト政権や藤原氏が支配する平安京の政権の屈服しない勢力が飛騨地方に存在したということなのか、高山など飛騨地方は他の地域に行くのに峠を越えて行かなければならず、その為、攻撃には不利でも防禦には有利な地形だったということなのか。 簡単に断定はできないが、興味深い問題である。
次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_14.html 、日の出天満神社 がかつて属していたという 大八賀神社 に行きます。
(2016.10.20.)
☆冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
村山天神(高山市国府町)
1上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
2村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
3村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
4あじめ峡、他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
桜山八幡宮 摂社天満神社(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html
日の出天満宮(高山市) 〔今回〕
☆高山シリーズ第4回
1.日の出天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
2.大八賀神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_14.html
3.東山遊歩道(1)高山別院照蓮寺から東山白山神社へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_15.html
4. 〃 (2)東山白山神社・大雄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_16.html
5. 〃 (3)雲龍寺・久昌寺・栄鏡院 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_17.html
6. 〃 (4)洞雲院・素玄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_18.html
7. 〃 (5)東山神明神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_19.html
8. 〃 (6)天照寺・法華寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_20.html
9. 〃 (7)善応寺1.本堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_21.html
10.〃 (8)善応寺2.地蔵堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_22.html
11.〃 (9)宗猷寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_23.html
12.〃(10)町年寄川上家別邸跡 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_24.html
13.煥章館と煥章館2階から見た東山 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_25.html
14.十六銀行 高山支店、早朝は無人の安川交番 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_26.html
15.新装「高山駅」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_27.html
16.片流れ屋根のモデルハウス https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_4.html
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