東山神明神社(高山市)-東山遊歩道前半を歩く(5)。 及、伊勢の神、神明神社の神とは何者なのかの考察
[第463回] 高山シリーズ第4回≪7≫
東山遊歩道(8) 東山神明神社
天照寺の北、素玄寺の南を西から東に登る参道が東山神明神社の参道です。 ↓
東山神明神社は、≪ 創立年代は不詳であるが、代々の国司、領主により信仰されてきた。≫(『東山遊歩道』リーフレット) そうです。 但し、伊勢・神明系の神社として≪信仰されてきた≫のか、その土地の神さま、東山から高山の市街を見守ってくれる神さまとして≪信仰されてきた≫のかというと、後者ではないかと私は思います。
まず、↑の社殿と社殿がある場所の雰囲気を考えていただきたいのですが、[第450回]《東山遊歩道(高山市)を歩く(2)東山白山神社・大雄寺・秋葉神社 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_16.html で訪問した、東山白山神社と社殿の造りもその場所の雰囲気も似ていると思いませんか。 [第458回]《大八賀神社(おおはちがじんじゃ)(高山市松之木町)参拝-高山シリーズ第4回≪2≫》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_14.html で訪問した、大八賀神社とも似ているように思います。 おそらく、これらは、「地元の神社」「郷土の神社」で、地域ごとに神社があったのではないでしょうか。
高山祭りでも、春と秋に祭りがおこなわれ、春は山王祭り、秋は八幡祭りと、春は日枝神社、秋は桜山八幡神社と、それぞれ祭神が異なる神社の祭りですが、桜山八幡は高山市の北半分の氏神だということらしく、登場する屋台も、春に登場する神楽台は白山神社の所有らしく、秋に登場する神楽台は飛騨総社の所有だそうで〔《 清流の国 ぎふ 高山祭 屋台 》https://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku/bunka/bunkazai/17768/yukei-minzoku/takayamanmaturiyatai.html 〕、祭神が異なる神社の祭りにも屋台は参加しているわけで、祭神が異なる神社といえども、別に喧嘩しているわけでもなく、「ライバル」であっても「エネミー」ではないようで、日本の他の地域の祭りでは、ぶつけあったり、喧嘩したりというなんか荒っぽい祭りもあるようですが、高山祭りはそういう祭りではないみたいですし、そして、屋台は所有は神社が所有していても、担当は各地域の町が担当らしいし。 神社も、何の祭神の神社というよりも、その地域の神社という性格のものが多いのではないでしょうか。
東山白山神社と大八賀神社は、なにゆえに、ククリヒメが祭神になっているのかというと、「ククリヒメ」は「白山の神」と習合した『古事記』『日本書紀』の神で、白山は石川県という意識が東京や大阪の人間にはあるのですが、白山という山は岐阜県と石川県の境目付近の山、飛騨の国と加賀の国の境目付近の山であり、高山などにとっては「準地元」の神さまのようです。 その「準地元」の「白山の神」とはどういう神かというと、五穀豊穣の神であり、死者を悼む神でもあるようで、今、生きている人々が生活に困ることなくやっていけるように見守ってくれる神であるとともに、先祖を敬い死者を悼む神でもあったようで、それは、「地域の神」「郷土の神」を祀ってきた神社と、基本的な考え方において抵触しない神だったのではないでしょうか。
東山白山神社にせよ、大八賀神社にせよ、地元の神社が祭神として受け入れたのは、「ククリヒメ」だったのか「白山の神」だったのかというと、「白山の神」だったのではないでしょうか。 その「白山の神」が『古事記』『日本書紀』の神である「ククリヒメ」と習合したので、結果として、「ククリヒメ」も受け容れた、ということではないか。
「白山の神」と「ククリヒメ」が習合したのは、ひとつには、性質が似ており、話が矛盾しにくいという点があるのではないでしょうか。 又、その時代の権力・体制にひきずられやすい地域とそうでもない地域があり、飛騨から加賀にかけては、それほど、その時代の権力・体制にひきずられやすくはない地域だったのではないか。特に、飛騨は山肌がヒダヒダになっていて、他から攻め込もうとしても攻め込みにくい地形であり、それだけ、他の地域の権力に対しては抵抗しやすかったということはないか。 そして、その伝統が今も残っていて、明治維新において明治維新政府が、『古事記』『日本書紀』の神を日本全国の神社に押し付けて、天皇制国家にとって都合がいいように、国民をマインドコントロールしやすいように、それまでのその神社の伝統を踏みにじってでも内容を改変してきたわけですが、飛騨地方においては、『古事記』『日本書紀』の神と習合していない神社がけっこう多いというのは、「中央権力」に文化的精神的に比較的支配されにくい土地柄があったのではないかと私は感じています。
但し、伊勢・神明系の神社を各地でいくつかは作らせようという明治維新政府の「政策」を無視するわけにもいかず、高山市の東山地区においては、この神明神社が伊勢・神明系を名のるようになったのか。 伊勢・神明系を名のるようになったものの、実質的には、「地元の神社」「郷土の神社」という性質は変わらなかったということなのかという印象を受けます。
さて、ここで、私は前から不思議に思っていたことが2つあったのですが、1つは、日本全国に、伊勢・神明系の神社はいくつもあり、私が、今、住んでいる千葉県船橋市の家の近所にも「神明神社」があるのですが、伊勢神宮というのは、内宮と外宮の2つからなり、内宮が本体で外宮は摂社・末社のような存在なのかというとそうではなく、内宮と外宮は対等・同格らしいのです。
そうなると、その対等の存在として、伊勢神宮には内宮と外宮があるにもかかわらず、全国にある神明系の神社というのは、なにゆえに、祭神は内宮の神さんであるというアマテラスなのか? 対等・同格のはずなのに、なにゆえ、全国の神明系の神社で祀っているのは、あくまでも、内宮の神だというアマテラスなのか? 考えたことないですか。不思議に思いませんか。
ひとつの理由として考えられるものは、≪ 1871年(明治4)5月、政府は太政官布告で官社、諸社の別と社格を定めた。・・・・ こうして、神社は、官舎(官幣社、国幣社)、府県社、郷社、村社および無格社と、五段階に序列化され、中央集権的に再編成された。 地縁的な小神社では、もともと特定の祭神の神名をさだめていない神社が多かったが、この格づけの過程で、適宜、神明社としたり、復古神道系の祭神を官僚にえらんでもらったりした。 多元的な源流をもつ全国の神社を、津々浦々にいたるまで一元的に統制支配するこの措置は、神道の歴史をつうじて、前例のない徹底した神社制度であった。・・・・≫(村上重良『国家神道』1970.11.27.岩波新書) ということで、明治維新の後に、もともと、特定の祭神が定められていたわけではない、「神社は神社」というような神社、「地元の神社」「郷土の神社」という神社に官僚が「祭神」を決めていったようなケースがあり、その際に、神明神社になった神社がけっこうあったらしい。 その際、神明神社になった神社の祭神として指定されたのは、あくまで、内宮の神であったアマテラスであって、外宮の神のトヨウケノカミではなかった・・・ということがあるのではないか。
それで、さて、伊勢神宮の神とはどういう神かというと、伊勢神宮には内宮と外宮があって、それぞれの祭神が異なるわけです。
≪ トヨウケ大神は、食物の神で、神話では、穀物を成長させる霊力を象徴するワクムスビの神の娘とされている。 その名は、、伊勢の豊受大神宮の祭神としても知られ、御饌(みけ)の神とも呼ばれる。御饌とは、アマテラス大神(おおみかみ)に捧げる食物のことで、この神はそれを調達する役目を果たす神であり、そこから発展して有力な五穀の主宰神となった。・・・≫(戸部民夫『日本の神様がわかる本』2005.1.5.PHP研究所) とされているのですが、要するに、内宮の神であるアマテラスのための食事係の神さん、飯炊き女の神さんだというのです。
ぼけ~っと聞いていると、はあん、そうかいなあくらいに思うかもしれませんが、落ち着いてよく考えてみると、そんな食事係の神さん、飯炊き女の神さんが、天皇家の祖先神(皇祖神)と同格て、なんか変だと思いませんか。
これについて、村上重良『国家神道』(1970.11.27.岩波新書)には、≪ 古代国家が編述した史書が伝える伊勢神宮の起源は、もとよりそのまま歴史上の事実ではない。 伊勢神宮は、もともと伊勢の地方神を祀った神社で、その祭神は、のちに外宮の祭神となった土着の農業神であったようである。 大和朝廷の伊勢への進出とともに、五世紀ごろから、天皇の祖先神を、在来の神社にあわせて祀ることになって、伊勢両宮が成立した。 伊勢の地は、黒潮が寄せる海上交通の要地であり、東国経営のための前進拠点であったから、朝廷は、アマテラスオオミカミをここに鎮座させるとともに、在来の土地神を優遇して外宮に祀ったのであろう。 伊勢神宮が、最高神であるアマテラスオオミカミと、その御饌神にすぎないはずのトヨウケノオオミカミを、同格で祀るという異例の形式をとっているのは、こういう成立事情を反映したものと見られる。≫と出ている。 なるほど、それならわかります。
しかし、まだ、よくわからない「神話」もあるのです。 ≪ トヨウケ大神が、伊勢神宮の外宮に祀られた由来が、『止由気宮(とゆけのみや)儀式帳』(九世紀初め成立)に、次のように記されている。 第二十一代雄略天皇の夢に現れたアマテラス大神が、「私一人ではさびしいし、食事も心やすらかにとれない。 トヨウケ大神を御饌の神としてそばに呼んでほしい」と託宣。 そこで天皇は、丹波国(たんばのくに)(京都府・兵庫県)からトヨウケ大神を迎えて祀ったという。≫(戸部民夫『日本の神様がわかる本』2005.1.5.PHP研究所) というのですが、食事係の神さんがいないので、ろくなメシが食えないので、それで、飯炊き女の神さんを呼んできたというのならともかく、「・・さびしいし、食事も心やすらかにとれない」から呼んでほしいということは、必要としたのは食事係の神ではなく、「御饌の神として」という名目で、トヨウケ大神を呼んでほしいということらしい。 どういうことだろう。
この点について、関裕二『神社が語る古代12氏族の正体』(2014.7.10.祥伝社新書)は、鋭い指摘をしている。 即ち、伊勢の内宮の神は、女の神ではなく、男の神さんだったのではないのか、と。 トヨウケノカミというのは女の神さまなのです。 伊勢の内宮の神が女であれば、「私一人ではさびしいし、・・」ということでトヨウケノカミという女の神さんを呼んでくれというのは、なんか、話がしっくりこない。 それに対して、伊勢の内宮の神が男の神で、女の神さんを呼んでくれというのは、そっちの方が話はわかるように思えますね。
≪ 豊受大神が丹後から伊勢に勧請されるきっかけとなったのも、天照大神が「独り身で寂しい」と神託を下したからで、「気を利かせて女神を連れてきた」のであれば、内宮の天照大神は、やはり「男神」と考えるのが普通ではないだろうか。 ≫(関 裕二『神社が語る古代12氏族の正体』2014.7.10.祥伝社新書)
関裕二氏が、伊勢の内宮の神をもともとは男の神ではなかったかと推測する理由は1つではない。
≪ まず、歴代天皇は、伊勢の神を祀るために、娘や親族の女性を斎王にして、伊勢斎宮に派遣した。しかも、斎王は未婚の女性(処女)に限られ、任を解かれた後も、原則的には結婚できなかった。
それはなぜかといえば、彼女は、男性の神に捧げられ、「(宗教的に)性的な関係」を持ったからだろう。・・・ ≫ というのだが、そうなると、伊勢の内宮の神はどう考えても、男の神ではないか。
さらに、
≪ 伊勢神宮の正殿の床下には、「秘中の秘」が隠されている。 それが「心(しん)の御柱(みはしら)」で、別名を「忌柱(いみはしら)」という。 誰にも見せず、誰にも触れさせない。 二十年に一度の式年遷宮に際し、まず「心の御柱」の用材を切りださなければ、何もはじまらないというほどのものである。 古い正殿が壊されても、心の御柱を小屋で覆い、守られる。
この「心の御柱」を唯一、祀ることができるのが、大物忌(おおものいみ)(子良 こら)と呼ばれる童女だ。 彼女たちは、伊勢外宮の禰宜(ねぎ)をつとめる度会(わたらい)氏の一族から選ばれ、禰宜の娘とも、分身とも考えられていた。成人すると任を解かれたが、成人にはいたらず、初潮を迎えると、お役御免となったようである。 ・・・≫
この童女にのみ祀ることができたという「心の御柱」とは、男根、男性の性器を象徴しているのではないか、とも見られているらしい。 要するに、伊勢の内宮の神は男の神であり、正殿の下にある「心の御柱」は男の神の性器に該当するもので、それを扱うのは男ではだめで、女性でも成人した女性はだめで、初潮を迎える前の童女しか扱えないというのである。
これらの話は、推測・考察による部分もあるとはいえ、十分、ありうる話であり、そう考えると筋が通ると思える話である。 少なくとも、伊勢の内宮の神が女性であるという前提で考えるよりも、辻褄があう話である。
さらに、伊勢の内宮の神というのはどういう神なのか。 天皇家の祖先神だというのは、実は違うのではないかと関裕二氏は推測している。
≪ ・・・『日本書紀』につぎの記事がある。
天照大神〔アマテラス〕と倭大国魂神〔ヤマトノオオクニタマ〕の二柱の神を並べて天皇の大殿のなかに祀っていた。 ところが、その神の勢いを恐れ、ともに住んでいられなくなった。 そこで、天照大神を豊鍬入姫命(とよすきのいりひめのみこと)に託し、ヤマトの笠縫邑に祀り、神籬(ひもろぎ)(神を祀る森)を建てた。 また、倭大国魂神を渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に託し祀らせた。 すると、渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)の髪が抜け落ち、やせ細ったので祀ることができなくなった。
この話は、垂仁二十五年三月条につながってゆく。 アマテラスの祭祀を豊鍬入姫命からヤマトヒメに換え、その結果、ヤマトヒメは祀る場所を求めてさすらい、最終的に伊勢の地にたどり着くという話である。・・・≫
(関 裕二『神社が語る古代12氏族の正体』2014.7.10.祥伝社新書)
関裕二氏も、≪ 崇神天皇の時代、宮中に祀られていたアマテラスを、「神威に圧倒された」といって、遠ざけてしまったのはなぜだろう。 祖神が子孫に、どういう悪さをするというのだろうか。 ≫と述べているのですが、たしかに、アマテラスという神が天皇家の祖先神であったなら、なにゆえ、≪勢いを恐れ、ともに住んでいられなくな≫るのか。 祖先の神が子孫に祟るのか? いつであったか、新聞に、占い屋さんというのか拝み屋さんというのかの女性から、「亡くなったお父さんがお宅の家族に祟っています」と言われたということがあった時、おばあちゃん(祟っているという「お父さん」の妻)が、「うちのじいちゃんは、何があっても、子や孫に祟るようなそんな人と違う」と言って一蹴したという話が載っていたことがありました。 普通、祖先の神というのは、子孫に祟りませんよね。 なぜ、天皇はアマテラスと一緒に住んでいられなくなったのか?
関裕二氏の推論は、『神社が語る古代12氏族の正体』(2014.7.10.祥伝社新書)を読んでいただく方がよいでしょうけれども、結論として、アマテラスというのは、もともとは、天皇家の祖先神ではなかったのではないか、というのです。
アマテラスは天皇家の祖先神ではないのではないか、と考えられる理由としては、他に、天皇の伊勢神宮参拝が、最近では伊勢神宮参拝が天皇の行事の1つのようになってきているが、それは明治維新からのことであって、明治天皇より前に伊勢神宮に参拝した天皇は誰かというと、持統天皇だというのです。持統天皇から明治天皇までの間、天皇が伊勢神宮に参拝した記録はないというのです。 アマテラスが天皇家の祖先神だとすれば、祖先神が祀られている神社になぜ長く参拝しなかったのか。
≪ 伊勢神宮が整備されてからあと、持統天皇が参拝してから、明治天皇の参拝まで、1100年以上も歴代の天皇が直接参拝していないというのも、おかしな話だ。 神宮参拝は、いまでこそ天皇の重要な行事のように考えられているが、それは近代になってからできた習慣にすぎない。 ≫
≪ そして、天皇家にとって伊勢神宮は、アンタッチャブルな場所だったのではないかと思えてくる。≫
というのです。 たしかに、そんな感じがしてきます。
それならどういう性質の神だったのか。
ヤマト政権というのは、もともと、諸豪族の連合政権であったが、それを、乙巳の変のクーデターで中大兄(天智)と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺し、その後、蘇我氏とつながりが強かったのではないかと思える天武〔大海人(オオアマ)〕と天智(中大兄)の息子の大友(弘文)とが壬申の乱で戦って天武が勝ったものの、その後、天武の皇后であったものの同時に天智の娘でもあった持統(ウノノササラ)が鎌足の息子の藤原不比等と手を組んで、ヤマト政権を構成した諸豪族を退けて、藤原氏と藤原氏とのつながりが深い天皇による独裁政権を築いていき、ヤマト政権を構成していた諸豪族の影響力が残っている大和盆地の南部から北部の平城京に都を移し、さらに北の平安京に移した。 藤原氏と藤原系の天皇とが退けてきたヤマト政権成立に尽力した諸豪族の神を、どうか、祟らないでくださいと宮中で祀ったのが、アマテラスとヤマトノオオクニタマだったのではないか。 だから、祟らないでくださいと祈る神は宮中におられたのでは恐ろしいというので、どこか他の場所で祀ろうということで、宮中から移動させ、アマテラスは最終的に伊勢で祀られることになった・・・・というのが関裕二氏の推論らしいのですが、大いにありうる話だと思います。
但し、そうなると、村上重良氏が述べていた、伊勢の地元の神の外宮と大和朝廷の神の内宮という関係はどうなるのか。 外宮の神は伊勢の地元の神で、ヤマト諸豪族の神を祟らないでください、お願いしますと藤原氏と皇室が祀ったのが内宮の神で、内宮の神が一人では寂しいので女神を連れてきてくれと言ったとかいうのは後から作った話であって、内宮の神と外宮の神は地理的に近い場所にあったが、もともとは別のものだったということか。
戦前の「ひとのみち」、戦後の「倫理研究所(=倫理法人会)」では、「太陽を拝みなさい」と言って、太陽は天皇家の祖先神であるアマテラスオオミカミであり、その太陽を拝みなさいと教えている。それも、職場での雇用関係を利用して、「宗教を会社で強制するなら、信教の自由の侵害になるでしょうけれども、倫理研究所は宗教ではないのです。太陽を拝みなさいとかそういった人間である以上やって当然のことをやりなさいと教えてやってあげようと言っているのです。いったい、どこが宗教なんですか。宗教じゃないでしょ。宗教であるわけがないでしょ。社長が太陽を拝みなさいと言ってるんだ。太陽を拝みなさいとかそういったことを丸山先生に教えてもらっていただきなさいと社長が言ってるんだあ」とか言って従業員に強制する。天皇家の祖先神だという想定のアマテラスだということになっている太陽を拝みなさいと、宗教じゃないでしょ、宗教であるわけがないでしょ、と言って強制する宗教、「信教の自由の侵害」をさせる宗教です。 そのやり口は卑劣で、宗教としても外道の宗教である反社会的勢力です。 アマテラスは皇祖神ではない、アマテラスは太陽神ではないと、私はその丸山なんたらとかに教えてあげたいのですけどね。
伊勢神宮では、伊勢神宮の正式名称は「神宮」であって「伊勢神宮」ではない、とか言っているようですが、そういうことを言われると、お寺でも神社でも、うちのお寺の正式名称は「寺」であって「○○寺」ではないとか、あるいは、昔、「コークと呼べるのはコカコーラだけ」とコカ・コーラがテレビで宣伝していましたが(「コーク」というのはコカコーラの略称だからあたり前じゃないのかという気もしますが)、「『寺』と呼んで良いのは◇◇寺だけ」とかコカコーラみたいに言いたいお寺も出てくるかもしれませんが、まあ、言いたければ言ってもいいけれども、まぎらわしいので、伊勢神宮は伊勢神宮でいいと思います。 それよりも、一般の神社で、今は、地名を頭につけて、「○○神社」と呼んでいる神社でも、もともとは、単に「神社」だったという神社はいっぱいあるのではないでしょうか。 「祭神」だって、村上重良氏が『国家神道』(1970.岩波新書)で述べていたように、明治維新政府が「祭神」を何々にしましょうと決めて「祭神」が指定されたのであって、それまでは特定の「祭神」は持たない、その地域の神社、その地域の人たちの幸福を願い、祖先を敬い、死者を悼む神社だったという神社がけっこう多かったのではないか。
その地域の人たちの幸福を願い、祖先を敬い、死者を悼む神社ということなら、「白山の神」は、もともと、そういう性質の神なので、最初は「白山の神」を祀る神社でなかった神社でも、「白山の神」は「祭神」として受け入れやすかったのではないか。 さらに、『古事記』『日本書紀』の神でも「ククリヒメ」は神の性質が「白山の神」と似ているところがあるので、「白山の神」と「ククリヒメ」は習合しやすかったのではないか。
明治になって、もともとは「地元の神」「郷土の神」だった神社に、明治政府が「祭神」を指定する際、神明神社とした神社では、明治政府は「トヨウケノカミ」ではなく「アマテラス」の方を指定したのであろう。 その上で、天皇制国家主義が幅をきかせてきた時に、国家主義的性格を強めた神社と、もとからの「地元の神社」「郷土の神社」という性格を保持した神社とがあったのではないか。
外宮の神さまの名前は、トヨウケノオオカミで、豊受大神と書きますが、戸部民夫『日本の神様がわかる本』には、≪名前のトヨは豊かさを表す美称で、ウケはケと同じく「食(ケ)」の意味で食物神であることを象徴している。≫と書かれていますが、「ケ」とは「ハレ」の対語で、「ハレの日」とか言うように、特別のものを指す「ハレ」に対し、日常のものを「ケ」と言った・・と高校の「古文」で学びましたよね。ですから、「豊なケの神様」というのは、丹波の神であれ伊勢の神であれ、普段の生活に困ることがないよう守ってくれる神さまという意味ではないのでしょうか。
すでに、このブログで何度も引用した話ですが、松浦昭次『宮大工と歩く千年の古寺―ここだけは見ておきたい古建築の美と技―』(2007.9.5.祥伝社 黄金文庫)には、
≪ ・・・御上神社の本殿の屋根の上には、苗村神社や大笹原神社にはないものがあります。 堅魚木(かつおぎ)(読みは同じで勝男木とか鰹木とも書きます。)と千木(ちぎ)です。 どれも神社にだけあるものです。
堅魚木というのは棟の上にあって、棟と直角になるように載せる部材です。 御上神社の本殿の棟には三本の堅魚木が載っています。 また、千木というのは棟の両端に左右から交差するように載せた部材です。
この千木の上のほうの先端断面が地面と垂直になっていたら、その神社が祀っている神様は男の神様、地面と水平になっていたら女の神様とも言われています。
また、男の神様の千木は、側面に穴が開けてあるとも言われます。 さらに、堅魚木についても同じことが言われていて、奇数なら男の神様、偶数なら女の神様ということです。・・・・≫ と出ています。
整理すると、
A. 「男の神さま」は、
1.鰹木の本数が奇数。
2.千木の先端が地面と垂直。
3.千木の側面に穴が開けてある。
B. 「女の神さま」は、
1.鰹木がの本数が偶数。
2.千木の先端が地面と平行。
3.千木の側面に穴が開けられていない。
ということらしい。
しかし、実際に、いろいろな神社を見ると、必ずしも当てはまらないケースもあり、又、鰹木の本数が偶数、千木の先端が地面と平行と女の神様の方の性質を持ちながら、千木に穴が開いているという神社もあります。松浦昭次氏の『宮大工と歩く千年の古寺』にも、
≪ しかし、・・・・堅魚木の偶数奇数や千木の先端の切り方で、男の神様か女の神様か必ず見分けがつくということもないようで、お話の種というぐらいに思っておいたほうがいいかもしれません。 ≫と出ているように、これは、あくまでも「目安」、「お話の種」ぐらいのようです。
しかし、あくまでも、「目安」であったとしても、もしも、「男の神さま」が「主祭神」だということになっている神社の社殿で、鰹木の本数、千木の先端、千木の穴の有無という3つの点で、すべてが「女の神さま」の特徴を持っていたならどうでしょうか。 「女の神さま」が「主祭神」だということになっている神社の社殿で、鰹木の本数、千木の先端、千木の穴の有無という3つの点で、すべてが「男の神さま」の方の特徴を持っていたならどうでしょうか。 最近、建てられた社殿なら、それはあくまで「目安」だから常にあてはまるわけではないということですませて良いかもしれませんが、明治維新より前から建っている社殿の場合、もしも、この3つの点について、すべて、「女の神さま」の特徴を持っているのに「主祭神」は男の神さまとされている神社は、もしかすると、もともとは、「女の神さま」を祀っていた神社だったが、それを明治維新の時点で「男の神さま」を「主祭神」だとされてしまったのではないか、という可能性を考えることができるのではないか。 すべて、「男の神さま」の特徴を持っているのに「主祭神」は女の神さまだとされている神社というのは、もしかすると、もともとは、「男の神さま」を祀っていた神社だったが、それを明治維新の時点で「男の神さま」を「主祭神」にされてしまったという可能性が考えられるのではないか。 あくまでも、可能性としてであるが、考えられるのではないか。
そう思って、この東山神明神社の社殿を見ると、鰹木の本数は5本と奇数。 千木の先端は地面と垂直。 千木には穴が開けられている。 社殿は、この3点すべてにおいて、「男の神さま」の特徴を持っているのです。
おそらく、もともとは、「地元の神さ」「郷土の神」「東山のこの地域の神」を祀る神社で、「神明」をいつから名のるようになったのかわかりませんが、もともとは、「神社」だったのではないか。 それが、明治維新の際に「祭神」を決めろとお上から言われて「神明」にした・・・のかな。 だから、「神明神社」という名称を持っていても、「地元の神社」という色彩が強く、伊勢・神明系のニオイはそれほどではないのではないか。
↑ 東山神明神社 絵馬殿。 岐阜県指定文化財。
≪ 高山城内にあった月見殿という建物が、1695年の高山城破却の際に移築されたと伝わる。 この建物には、金森藩政時代の絵馬額4面が残されている。 ≫(『東山遊歩道』リーフレット)
次回 、天照寺に行きます。 ちなみに、東山神明神社のすぐ南にある宗猷寺の裏(東)に「木地師の集団墓地」(市指定有形民俗文化財)というのがありまして、そこへ上る途中、「熊出没注意」という注意書きがあったのですが、東山神明神社もけっこう山の中にあるのですが、大丈夫だったのか・・・というと、別にクマさんと出会うこともなく帰ってきたので、大丈夫だったのですが・・・、後からちょっと心配になってきました。
(2016.10.23.)
☆高山シリーズ第4回
1.日の出天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
2.大八賀神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_14.html
3.東山遊歩道[1]高山別院照蓮寺から東山白山神社へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_15.html
4. 〃 [2]東山白山神社・大雄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_16.html
5. 〃 [3]雲龍寺・久昌寺・栄鏡院 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_17.html
6. 〃 [4]洞雲院・素玄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_18.html
7. 〃 [5]東山神明神社 〔今回〕
8. 〃 [6]天照寺・法華寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_20.html
9. 〃 [7]善応寺1.本堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_21.html
10.〃 [8]善応寺2.地蔵堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_22.html
11.〃 [9]宗猷寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_23.html
12.〃 [10]町年寄川上家別邸跡 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_24.html
13.煥章館と煥章館2階から見た東山 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_25.html
14.十六銀行 高山支店、早朝は無人の安川交番 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_26.html
15.新装「高山駅」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_27.html
16.片流れ屋根のモデルハウス https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_4.html
東山遊歩道(8) 東山神明神社
天照寺の北、素玄寺の南を西から東に登る参道が東山神明神社の参道です。 ↓
東山神明神社は、≪ 創立年代は不詳であるが、代々の国司、領主により信仰されてきた。≫(『東山遊歩道』リーフレット) そうです。 但し、伊勢・神明系の神社として≪信仰されてきた≫のか、その土地の神さま、東山から高山の市街を見守ってくれる神さまとして≪信仰されてきた≫のかというと、後者ではないかと私は思います。
まず、↑の社殿と社殿がある場所の雰囲気を考えていただきたいのですが、[第450回]《東山遊歩道(高山市)を歩く(2)東山白山神社・大雄寺・秋葉神社 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_16.html で訪問した、東山白山神社と社殿の造りもその場所の雰囲気も似ていると思いませんか。 [第458回]《大八賀神社(おおはちがじんじゃ)(高山市松之木町)参拝-高山シリーズ第4回≪2≫》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_14.html で訪問した、大八賀神社とも似ているように思います。 おそらく、これらは、「地元の神社」「郷土の神社」で、地域ごとに神社があったのではないでしょうか。
高山祭りでも、春と秋に祭りがおこなわれ、春は山王祭り、秋は八幡祭りと、春は日枝神社、秋は桜山八幡神社と、それぞれ祭神が異なる神社の祭りですが、桜山八幡は高山市の北半分の氏神だということらしく、登場する屋台も、春に登場する神楽台は白山神社の所有らしく、秋に登場する神楽台は飛騨総社の所有だそうで〔《 清流の国 ぎふ 高山祭 屋台 》https://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku/bunka/bunkazai/17768/yukei-minzoku/takayamanmaturiyatai.html 〕、祭神が異なる神社の祭りにも屋台は参加しているわけで、祭神が異なる神社といえども、別に喧嘩しているわけでもなく、「ライバル」であっても「エネミー」ではないようで、日本の他の地域の祭りでは、ぶつけあったり、喧嘩したりというなんか荒っぽい祭りもあるようですが、高山祭りはそういう祭りではないみたいですし、そして、屋台は所有は神社が所有していても、担当は各地域の町が担当らしいし。 神社も、何の祭神の神社というよりも、その地域の神社という性格のものが多いのではないでしょうか。
東山白山神社と大八賀神社は、なにゆえに、ククリヒメが祭神になっているのかというと、「ククリヒメ」は「白山の神」と習合した『古事記』『日本書紀』の神で、白山は石川県という意識が東京や大阪の人間にはあるのですが、白山という山は岐阜県と石川県の境目付近の山、飛騨の国と加賀の国の境目付近の山であり、高山などにとっては「準地元」の神さまのようです。 その「準地元」の「白山の神」とはどういう神かというと、五穀豊穣の神であり、死者を悼む神でもあるようで、今、生きている人々が生活に困ることなくやっていけるように見守ってくれる神であるとともに、先祖を敬い死者を悼む神でもあったようで、それは、「地域の神」「郷土の神」を祀ってきた神社と、基本的な考え方において抵触しない神だったのではないでしょうか。
東山白山神社にせよ、大八賀神社にせよ、地元の神社が祭神として受け入れたのは、「ククリヒメ」だったのか「白山の神」だったのかというと、「白山の神」だったのではないでしょうか。 その「白山の神」が『古事記』『日本書紀』の神である「ククリヒメ」と習合したので、結果として、「ククリヒメ」も受け容れた、ということではないか。
「白山の神」と「ククリヒメ」が習合したのは、ひとつには、性質が似ており、話が矛盾しにくいという点があるのではないでしょうか。 又、その時代の権力・体制にひきずられやすい地域とそうでもない地域があり、飛騨から加賀にかけては、それほど、その時代の権力・体制にひきずられやすくはない地域だったのではないか。特に、飛騨は山肌がヒダヒダになっていて、他から攻め込もうとしても攻め込みにくい地形であり、それだけ、他の地域の権力に対しては抵抗しやすかったということはないか。 そして、その伝統が今も残っていて、明治維新において明治維新政府が、『古事記』『日本書紀』の神を日本全国の神社に押し付けて、天皇制国家にとって都合がいいように、国民をマインドコントロールしやすいように、それまでのその神社の伝統を踏みにじってでも内容を改変してきたわけですが、飛騨地方においては、『古事記』『日本書紀』の神と習合していない神社がけっこう多いというのは、「中央権力」に文化的精神的に比較的支配されにくい土地柄があったのではないかと私は感じています。
但し、伊勢・神明系の神社を各地でいくつかは作らせようという明治維新政府の「政策」を無視するわけにもいかず、高山市の東山地区においては、この神明神社が伊勢・神明系を名のるようになったのか。 伊勢・神明系を名のるようになったものの、実質的には、「地元の神社」「郷土の神社」という性質は変わらなかったということなのかという印象を受けます。
さて、ここで、私は前から不思議に思っていたことが2つあったのですが、1つは、日本全国に、伊勢・神明系の神社はいくつもあり、私が、今、住んでいる千葉県船橋市の家の近所にも「神明神社」があるのですが、伊勢神宮というのは、内宮と外宮の2つからなり、内宮が本体で外宮は摂社・末社のような存在なのかというとそうではなく、内宮と外宮は対等・同格らしいのです。
そうなると、その対等の存在として、伊勢神宮には内宮と外宮があるにもかかわらず、全国にある神明系の神社というのは、なにゆえに、祭神は内宮の神さんであるというアマテラスなのか? 対等・同格のはずなのに、なにゆえ、全国の神明系の神社で祀っているのは、あくまでも、内宮の神だというアマテラスなのか? 考えたことないですか。不思議に思いませんか。
ひとつの理由として考えられるものは、≪ 1871年(明治4)5月、政府は太政官布告で官社、諸社の別と社格を定めた。・・・・ こうして、神社は、官舎(官幣社、国幣社)、府県社、郷社、村社および無格社と、五段階に序列化され、中央集権的に再編成された。 地縁的な小神社では、もともと特定の祭神の神名をさだめていない神社が多かったが、この格づけの過程で、適宜、神明社としたり、復古神道系の祭神を官僚にえらんでもらったりした。 多元的な源流をもつ全国の神社を、津々浦々にいたるまで一元的に統制支配するこの措置は、神道の歴史をつうじて、前例のない徹底した神社制度であった。・・・・≫(村上重良『国家神道』1970.11.27.岩波新書) ということで、明治維新の後に、もともと、特定の祭神が定められていたわけではない、「神社は神社」というような神社、「地元の神社」「郷土の神社」という神社に官僚が「祭神」を決めていったようなケースがあり、その際に、神明神社になった神社がけっこうあったらしい。 その際、神明神社になった神社の祭神として指定されたのは、あくまで、内宮の神であったアマテラスであって、外宮の神のトヨウケノカミではなかった・・・ということがあるのではないか。
それで、さて、伊勢神宮の神とはどういう神かというと、伊勢神宮には内宮と外宮があって、それぞれの祭神が異なるわけです。
≪ トヨウケ大神は、食物の神で、神話では、穀物を成長させる霊力を象徴するワクムスビの神の娘とされている。 その名は、、伊勢の豊受大神宮の祭神としても知られ、御饌(みけ)の神とも呼ばれる。御饌とは、アマテラス大神(おおみかみ)に捧げる食物のことで、この神はそれを調達する役目を果たす神であり、そこから発展して有力な五穀の主宰神となった。・・・≫(戸部民夫『日本の神様がわかる本』2005.1.5.PHP研究所) とされているのですが、要するに、内宮の神であるアマテラスのための食事係の神さん、飯炊き女の神さんだというのです。
ぼけ~っと聞いていると、はあん、そうかいなあくらいに思うかもしれませんが、落ち着いてよく考えてみると、そんな食事係の神さん、飯炊き女の神さんが、天皇家の祖先神(皇祖神)と同格て、なんか変だと思いませんか。
これについて、村上重良『国家神道』(1970.11.27.岩波新書)には、≪ 古代国家が編述した史書が伝える伊勢神宮の起源は、もとよりそのまま歴史上の事実ではない。 伊勢神宮は、もともと伊勢の地方神を祀った神社で、その祭神は、のちに外宮の祭神となった土着の農業神であったようである。 大和朝廷の伊勢への進出とともに、五世紀ごろから、天皇の祖先神を、在来の神社にあわせて祀ることになって、伊勢両宮が成立した。 伊勢の地は、黒潮が寄せる海上交通の要地であり、東国経営のための前進拠点であったから、朝廷は、アマテラスオオミカミをここに鎮座させるとともに、在来の土地神を優遇して外宮に祀ったのであろう。 伊勢神宮が、最高神であるアマテラスオオミカミと、その御饌神にすぎないはずのトヨウケノオオミカミを、同格で祀るという異例の形式をとっているのは、こういう成立事情を反映したものと見られる。≫と出ている。 なるほど、それならわかります。
しかし、まだ、よくわからない「神話」もあるのです。 ≪ トヨウケ大神が、伊勢神宮の外宮に祀られた由来が、『止由気宮(とゆけのみや)儀式帳』(九世紀初め成立)に、次のように記されている。 第二十一代雄略天皇の夢に現れたアマテラス大神が、「私一人ではさびしいし、食事も心やすらかにとれない。 トヨウケ大神を御饌の神としてそばに呼んでほしい」と託宣。 そこで天皇は、丹波国(たんばのくに)(京都府・兵庫県)からトヨウケ大神を迎えて祀ったという。≫(戸部民夫『日本の神様がわかる本』2005.1.5.PHP研究所) というのですが、食事係の神さんがいないので、ろくなメシが食えないので、それで、飯炊き女の神さんを呼んできたというのならともかく、「・・さびしいし、食事も心やすらかにとれない」から呼んでほしいということは、必要としたのは食事係の神ではなく、「御饌の神として」という名目で、トヨウケ大神を呼んでほしいということらしい。 どういうことだろう。
この点について、関裕二『神社が語る古代12氏族の正体』(2014.7.10.祥伝社新書)は、鋭い指摘をしている。 即ち、伊勢の内宮の神は、女の神ではなく、男の神さんだったのではないのか、と。 トヨウケノカミというのは女の神さまなのです。 伊勢の内宮の神が女であれば、「私一人ではさびしいし、・・」ということでトヨウケノカミという女の神さんを呼んでくれというのは、なんか、話がしっくりこない。 それに対して、伊勢の内宮の神が男の神で、女の神さんを呼んでくれというのは、そっちの方が話はわかるように思えますね。
≪ 豊受大神が丹後から伊勢に勧請されるきっかけとなったのも、天照大神が「独り身で寂しい」と神託を下したからで、「気を利かせて女神を連れてきた」のであれば、内宮の天照大神は、やはり「男神」と考えるのが普通ではないだろうか。 ≫(関 裕二『神社が語る古代12氏族の正体』2014.7.10.祥伝社新書)
関裕二氏が、伊勢の内宮の神をもともとは男の神ではなかったかと推測する理由は1つではない。
≪ まず、歴代天皇は、伊勢の神を祀るために、娘や親族の女性を斎王にして、伊勢斎宮に派遣した。しかも、斎王は未婚の女性(処女)に限られ、任を解かれた後も、原則的には結婚できなかった。
それはなぜかといえば、彼女は、男性の神に捧げられ、「(宗教的に)性的な関係」を持ったからだろう。・・・ ≫ というのだが、そうなると、伊勢の内宮の神はどう考えても、男の神ではないか。
さらに、
≪ 伊勢神宮の正殿の床下には、「秘中の秘」が隠されている。 それが「心(しん)の御柱(みはしら)」で、別名を「忌柱(いみはしら)」という。 誰にも見せず、誰にも触れさせない。 二十年に一度の式年遷宮に際し、まず「心の御柱」の用材を切りださなければ、何もはじまらないというほどのものである。 古い正殿が壊されても、心の御柱を小屋で覆い、守られる。
この「心の御柱」を唯一、祀ることができるのが、大物忌(おおものいみ)(子良 こら)と呼ばれる童女だ。 彼女たちは、伊勢外宮の禰宜(ねぎ)をつとめる度会(わたらい)氏の一族から選ばれ、禰宜の娘とも、分身とも考えられていた。成人すると任を解かれたが、成人にはいたらず、初潮を迎えると、お役御免となったようである。 ・・・≫
この童女にのみ祀ることができたという「心の御柱」とは、男根、男性の性器を象徴しているのではないか、とも見られているらしい。 要するに、伊勢の内宮の神は男の神であり、正殿の下にある「心の御柱」は男の神の性器に該当するもので、それを扱うのは男ではだめで、女性でも成人した女性はだめで、初潮を迎える前の童女しか扱えないというのである。
これらの話は、推測・考察による部分もあるとはいえ、十分、ありうる話であり、そう考えると筋が通ると思える話である。 少なくとも、伊勢の内宮の神が女性であるという前提で考えるよりも、辻褄があう話である。
さらに、伊勢の内宮の神というのはどういう神なのか。 天皇家の祖先神だというのは、実は違うのではないかと関裕二氏は推測している。
≪ ・・・『日本書紀』につぎの記事がある。
天照大神〔アマテラス〕と倭大国魂神〔ヤマトノオオクニタマ〕の二柱の神を並べて天皇の大殿のなかに祀っていた。 ところが、その神の勢いを恐れ、ともに住んでいられなくなった。 そこで、天照大神を豊鍬入姫命(とよすきのいりひめのみこと)に託し、ヤマトの笠縫邑に祀り、神籬(ひもろぎ)(神を祀る森)を建てた。 また、倭大国魂神を渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に託し祀らせた。 すると、渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)の髪が抜け落ち、やせ細ったので祀ることができなくなった。
この話は、垂仁二十五年三月条につながってゆく。 アマテラスの祭祀を豊鍬入姫命からヤマトヒメに換え、その結果、ヤマトヒメは祀る場所を求めてさすらい、最終的に伊勢の地にたどり着くという話である。・・・≫
(関 裕二『神社が語る古代12氏族の正体』2014.7.10.祥伝社新書)
関裕二氏も、≪ 崇神天皇の時代、宮中に祀られていたアマテラスを、「神威に圧倒された」といって、遠ざけてしまったのはなぜだろう。 祖神が子孫に、どういう悪さをするというのだろうか。 ≫と述べているのですが、たしかに、アマテラスという神が天皇家の祖先神であったなら、なにゆえ、≪勢いを恐れ、ともに住んでいられなくな≫るのか。 祖先の神が子孫に祟るのか? いつであったか、新聞に、占い屋さんというのか拝み屋さんというのかの女性から、「亡くなったお父さんがお宅の家族に祟っています」と言われたということがあった時、おばあちゃん(祟っているという「お父さん」の妻)が、「うちのじいちゃんは、何があっても、子や孫に祟るようなそんな人と違う」と言って一蹴したという話が載っていたことがありました。 普通、祖先の神というのは、子孫に祟りませんよね。 なぜ、天皇はアマテラスと一緒に住んでいられなくなったのか?
関裕二氏の推論は、『神社が語る古代12氏族の正体』(2014.7.10.祥伝社新書)を読んでいただく方がよいでしょうけれども、結論として、アマテラスというのは、もともとは、天皇家の祖先神ではなかったのではないか、というのです。
アマテラスは天皇家の祖先神ではないのではないか、と考えられる理由としては、他に、天皇の伊勢神宮参拝が、最近では伊勢神宮参拝が天皇の行事の1つのようになってきているが、それは明治維新からのことであって、明治天皇より前に伊勢神宮に参拝した天皇は誰かというと、持統天皇だというのです。持統天皇から明治天皇までの間、天皇が伊勢神宮に参拝した記録はないというのです。 アマテラスが天皇家の祖先神だとすれば、祖先神が祀られている神社になぜ長く参拝しなかったのか。
≪ 伊勢神宮が整備されてからあと、持統天皇が参拝してから、明治天皇の参拝まで、1100年以上も歴代の天皇が直接参拝していないというのも、おかしな話だ。 神宮参拝は、いまでこそ天皇の重要な行事のように考えられているが、それは近代になってからできた習慣にすぎない。 ≫
≪ そして、天皇家にとって伊勢神宮は、アンタッチャブルな場所だったのではないかと思えてくる。≫
というのです。 たしかに、そんな感じがしてきます。
それならどういう性質の神だったのか。
ヤマト政権というのは、もともと、諸豪族の連合政権であったが、それを、乙巳の変のクーデターで中大兄(天智)と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺し、その後、蘇我氏とつながりが強かったのではないかと思える天武〔大海人(オオアマ)〕と天智(中大兄)の息子の大友(弘文)とが壬申の乱で戦って天武が勝ったものの、その後、天武の皇后であったものの同時に天智の娘でもあった持統(ウノノササラ)が鎌足の息子の藤原不比等と手を組んで、ヤマト政権を構成した諸豪族を退けて、藤原氏と藤原氏とのつながりが深い天皇による独裁政権を築いていき、ヤマト政権を構成していた諸豪族の影響力が残っている大和盆地の南部から北部の平城京に都を移し、さらに北の平安京に移した。 藤原氏と藤原系の天皇とが退けてきたヤマト政権成立に尽力した諸豪族の神を、どうか、祟らないでくださいと宮中で祀ったのが、アマテラスとヤマトノオオクニタマだったのではないか。 だから、祟らないでくださいと祈る神は宮中におられたのでは恐ろしいというので、どこか他の場所で祀ろうということで、宮中から移動させ、アマテラスは最終的に伊勢で祀られることになった・・・・というのが関裕二氏の推論らしいのですが、大いにありうる話だと思います。
但し、そうなると、村上重良氏が述べていた、伊勢の地元の神の外宮と大和朝廷の神の内宮という関係はどうなるのか。 外宮の神は伊勢の地元の神で、ヤマト諸豪族の神を祟らないでください、お願いしますと藤原氏と皇室が祀ったのが内宮の神で、内宮の神が一人では寂しいので女神を連れてきてくれと言ったとかいうのは後から作った話であって、内宮の神と外宮の神は地理的に近い場所にあったが、もともとは別のものだったということか。
戦前の「ひとのみち」、戦後の「倫理研究所(=倫理法人会)」では、「太陽を拝みなさい」と言って、太陽は天皇家の祖先神であるアマテラスオオミカミであり、その太陽を拝みなさいと教えている。それも、職場での雇用関係を利用して、「宗教を会社で強制するなら、信教の自由の侵害になるでしょうけれども、倫理研究所は宗教ではないのです。太陽を拝みなさいとかそういった人間である以上やって当然のことをやりなさいと教えてやってあげようと言っているのです。いったい、どこが宗教なんですか。宗教じゃないでしょ。宗教であるわけがないでしょ。社長が太陽を拝みなさいと言ってるんだ。太陽を拝みなさいとかそういったことを丸山先生に教えてもらっていただきなさいと社長が言ってるんだあ」とか言って従業員に強制する。天皇家の祖先神だという想定のアマテラスだということになっている太陽を拝みなさいと、宗教じゃないでしょ、宗教であるわけがないでしょ、と言って強制する宗教、「信教の自由の侵害」をさせる宗教です。 そのやり口は卑劣で、宗教としても外道の宗教である反社会的勢力です。 アマテラスは皇祖神ではない、アマテラスは太陽神ではないと、私はその丸山なんたらとかに教えてあげたいのですけどね。
伊勢神宮では、伊勢神宮の正式名称は「神宮」であって「伊勢神宮」ではない、とか言っているようですが、そういうことを言われると、お寺でも神社でも、うちのお寺の正式名称は「寺」であって「○○寺」ではないとか、あるいは、昔、「コークと呼べるのはコカコーラだけ」とコカ・コーラがテレビで宣伝していましたが(「コーク」というのはコカコーラの略称だからあたり前じゃないのかという気もしますが)、「『寺』と呼んで良いのは◇◇寺だけ」とかコカコーラみたいに言いたいお寺も出てくるかもしれませんが、まあ、言いたければ言ってもいいけれども、まぎらわしいので、伊勢神宮は伊勢神宮でいいと思います。 それよりも、一般の神社で、今は、地名を頭につけて、「○○神社」と呼んでいる神社でも、もともとは、単に「神社」だったという神社はいっぱいあるのではないでしょうか。 「祭神」だって、村上重良氏が『国家神道』(1970.岩波新書)で述べていたように、明治維新政府が「祭神」を何々にしましょうと決めて「祭神」が指定されたのであって、それまでは特定の「祭神」は持たない、その地域の神社、その地域の人たちの幸福を願い、祖先を敬い、死者を悼む神社だったという神社がけっこう多かったのではないか。
その地域の人たちの幸福を願い、祖先を敬い、死者を悼む神社ということなら、「白山の神」は、もともと、そういう性質の神なので、最初は「白山の神」を祀る神社でなかった神社でも、「白山の神」は「祭神」として受け入れやすかったのではないか。 さらに、『古事記』『日本書紀』の神でも「ククリヒメ」は神の性質が「白山の神」と似ているところがあるので、「白山の神」と「ククリヒメ」は習合しやすかったのではないか。
明治になって、もともとは「地元の神」「郷土の神」だった神社に、明治政府が「祭神」を指定する際、神明神社とした神社では、明治政府は「トヨウケノカミ」ではなく「アマテラス」の方を指定したのであろう。 その上で、天皇制国家主義が幅をきかせてきた時に、国家主義的性格を強めた神社と、もとからの「地元の神社」「郷土の神社」という性格を保持した神社とがあったのではないか。
外宮の神さまの名前は、トヨウケノオオカミで、豊受大神と書きますが、戸部民夫『日本の神様がわかる本』には、≪名前のトヨは豊かさを表す美称で、ウケはケと同じく「食(ケ)」の意味で食物神であることを象徴している。≫と書かれていますが、「ケ」とは「ハレ」の対語で、「ハレの日」とか言うように、特別のものを指す「ハレ」に対し、日常のものを「ケ」と言った・・と高校の「古文」で学びましたよね。ですから、「豊なケの神様」というのは、丹波の神であれ伊勢の神であれ、普段の生活に困ることがないよう守ってくれる神さまという意味ではないのでしょうか。
すでに、このブログで何度も引用した話ですが、松浦昭次『宮大工と歩く千年の古寺―ここだけは見ておきたい古建築の美と技―』(2007.9.5.祥伝社 黄金文庫)には、
≪ ・・・御上神社の本殿の屋根の上には、苗村神社や大笹原神社にはないものがあります。 堅魚木(かつおぎ)(読みは同じで勝男木とか鰹木とも書きます。)と千木(ちぎ)です。 どれも神社にだけあるものです。
堅魚木というのは棟の上にあって、棟と直角になるように載せる部材です。 御上神社の本殿の棟には三本の堅魚木が載っています。 また、千木というのは棟の両端に左右から交差するように載せた部材です。
この千木の上のほうの先端断面が地面と垂直になっていたら、その神社が祀っている神様は男の神様、地面と水平になっていたら女の神様とも言われています。
また、男の神様の千木は、側面に穴が開けてあるとも言われます。 さらに、堅魚木についても同じことが言われていて、奇数なら男の神様、偶数なら女の神様ということです。・・・・≫ と出ています。
整理すると、
A. 「男の神さま」は、
1.鰹木の本数が奇数。
2.千木の先端が地面と垂直。
3.千木の側面に穴が開けてある。
B. 「女の神さま」は、
1.鰹木がの本数が偶数。
2.千木の先端が地面と平行。
3.千木の側面に穴が開けられていない。
ということらしい。
しかし、実際に、いろいろな神社を見ると、必ずしも当てはまらないケースもあり、又、鰹木の本数が偶数、千木の先端が地面と平行と女の神様の方の性質を持ちながら、千木に穴が開いているという神社もあります。松浦昭次氏の『宮大工と歩く千年の古寺』にも、
≪ しかし、・・・・堅魚木の偶数奇数や千木の先端の切り方で、男の神様か女の神様か必ず見分けがつくということもないようで、お話の種というぐらいに思っておいたほうがいいかもしれません。 ≫と出ているように、これは、あくまでも「目安」、「お話の種」ぐらいのようです。
しかし、あくまでも、「目安」であったとしても、もしも、「男の神さま」が「主祭神」だということになっている神社の社殿で、鰹木の本数、千木の先端、千木の穴の有無という3つの点で、すべてが「女の神さま」の特徴を持っていたならどうでしょうか。 「女の神さま」が「主祭神」だということになっている神社の社殿で、鰹木の本数、千木の先端、千木の穴の有無という3つの点で、すべてが「男の神さま」の方の特徴を持っていたならどうでしょうか。 最近、建てられた社殿なら、それはあくまで「目安」だから常にあてはまるわけではないということですませて良いかもしれませんが、明治維新より前から建っている社殿の場合、もしも、この3つの点について、すべて、「女の神さま」の特徴を持っているのに「主祭神」は男の神さまとされている神社は、もしかすると、もともとは、「女の神さま」を祀っていた神社だったが、それを明治維新の時点で「男の神さま」を「主祭神」だとされてしまったのではないか、という可能性を考えることができるのではないか。 すべて、「男の神さま」の特徴を持っているのに「主祭神」は女の神さまだとされている神社というのは、もしかすると、もともとは、「男の神さま」を祀っていた神社だったが、それを明治維新の時点で「男の神さま」を「主祭神」にされてしまったという可能性が考えられるのではないか。 あくまでも、可能性としてであるが、考えられるのではないか。
そう思って、この東山神明神社の社殿を見ると、鰹木の本数は5本と奇数。 千木の先端は地面と垂直。 千木には穴が開けられている。 社殿は、この3点すべてにおいて、「男の神さま」の特徴を持っているのです。
おそらく、もともとは、「地元の神さ」「郷土の神」「東山のこの地域の神」を祀る神社で、「神明」をいつから名のるようになったのかわかりませんが、もともとは、「神社」だったのではないか。 それが、明治維新の際に「祭神」を決めろとお上から言われて「神明」にした・・・のかな。 だから、「神明神社」という名称を持っていても、「地元の神社」という色彩が強く、伊勢・神明系のニオイはそれほどではないのではないか。
↑ 東山神明神社 絵馬殿。 岐阜県指定文化財。
≪ 高山城内にあった月見殿という建物が、1695年の高山城破却の際に移築されたと伝わる。 この建物には、金森藩政時代の絵馬額4面が残されている。 ≫(『東山遊歩道』リーフレット)
次回 、天照寺に行きます。 ちなみに、東山神明神社のすぐ南にある宗猷寺の裏(東)に「木地師の集団墓地」(市指定有形民俗文化財)というのがありまして、そこへ上る途中、「熊出没注意」という注意書きがあったのですが、東山神明神社もけっこう山の中にあるのですが、大丈夫だったのか・・・というと、別にクマさんと出会うこともなく帰ってきたので、大丈夫だったのですが・・・、後からちょっと心配になってきました。
(2016.10.23.)
☆高山シリーズ第4回
1.日の出天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
2.大八賀神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_14.html
3.東山遊歩道[1]高山別院照蓮寺から東山白山神社へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_15.html
4. 〃 [2]東山白山神社・大雄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_16.html
5. 〃 [3]雲龍寺・久昌寺・栄鏡院 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_17.html
6. 〃 [4]洞雲院・素玄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_18.html
7. 〃 [5]東山神明神社 〔今回〕
8. 〃 [6]天照寺・法華寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_20.html
9. 〃 [7]善応寺1.本堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_21.html
10.〃 [8]善応寺2.地蔵堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_22.html
11.〃 [9]宗猷寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_23.html
12.〃 [10]町年寄川上家別邸跡 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_24.html
13.煥章館と煥章館2階から見た東山 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_25.html
14.十六銀行 高山支店、早朝は無人の安川交番 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_26.html
15.新装「高山駅」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_27.html
16.片流れ屋根のモデルハウス https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_4.html
この記事へのコメント