天照寺・法華寺(高山市)参拝-東山遊歩道前半を歩く[6]
[第464回] 高山シリーズ第4回≪8≫
懐奘編『正法眼蔵隋聞記』(和辻哲郎校訂 1929.第1版、1982.改版 岩波文庫)に、
≪ 亦有る時、僧正の門弟の僧等の云く、今の建仁寺の寺ら屋敷、川原に近し。 後代に水難ありぬべしと、僧正の云く、我れ寺の後代の亡失、是れ思ふべからず。 西天の祇園精舎もいしずゑばかりとどまれり。 然あれども寺院建立の功徳失すべからず。 亦当時一年半年の行道、其の功徳莫大なるべしと。今ま是れを思ふに、寺院の建立寔に(まことに)一期(いちご)の大事なれば、未来際をも兼て難無きやうにとこそ思ふべけれども、さる心中にも此の(かくの)如き道理、存ぜられたる心のたけ、寔に(まことに)是れを思ふべし。 ≫ と書かれている。
≪ この書にひきつけられた和辻哲郎先生の感激を、逐次紹介し、若干の付言を加えたいと思う。
『隋聞記』がわれわれに訴えるのは、そこにたぎっている精神的気魄である。精舎とか寺院というような外面的なものではなくて、その内に具現されている精神である。 その精神的な気魄、心構えを、道元は、入宋以前に師の栄西から受けていたらしい。
ある時、建仁寺の僧たちが師栄西に向かって言った。 「今の建仁寺の寺屋敷は鴨河原に近い。 いつかは水難に逢うでありましょう。」 栄西は答えた。「自分の寺がいつかは亡び失せる。――そんなことを考える必要はない。 インドの祇園精舎は礎をとどめているに過ぎぬ。重大なのは寺院によって行う真理体現の努力である。」 (『日本精神史研究』、和辻哲郎全集」第四巻166頁) ≫(中村元「改版に際して」 )
より大事なものは、「寺院によって行う真理体現の努力」であって、寺の建物ではない・・・というのは、それは確かにそうではあるのですが、そうは言いましても、この高山市の「東山遊歩道」にある寺を見てまわると、最初は、「遊歩道」の途中にある遊歩道とセットの寺社なのかくらいに思って歩きかけたものの、なんとも、立派な堂宇が並んでいるのに驚き、これは、いくつもの寺社をセットで考えるようなものではなく、1寺ごとに訪ねるべき寺ではないかと思うようになりました。
で、今回は、
東山遊歩道(9) 明眼山 天照寺(みょうげんざん てんしょうじ) (浄土宗 ← 天台宗)
≪ 1182年頃、天台宗の寺院、天照皇寺(てんしょうこうじ)と称して創建。 中世に一時衰退したが、1615年頃に浄土宗天照寺として再建された。≫
(『東山遊歩道』リーフレット)
≪ 徳川家康の六男で、高田藩主 松平忠輝が1618年(元和4)に高山に配流されて8年間過ごした寺。≫
≪ また、後に加藤清正の孫、加藤光正も金森家のあずかりとなり、この寺に身を置いている。≫
(『アイじゃぱん31 高山・奥飛騨・白川郷・五箇山』2004.るるぶ社、JTB)
※ 《ウィキペディア-松平忠輝》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E8%BC%9D
《デジタル版日本人名大辞典+Plus の解説 加藤光正》https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%85%89%E6%AD%A3-1066200
《ウィキペディア-加藤忠広》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%BF%A0%E5%BA%83
↑ 「グーグル」の地図では、「ひが高山 天性寺ユースホステル」とのみ書いてあって、「天照寺」という記述がないが、天照寺がお寺をやめてユースホステルになったのではなく、
≪ 庫裏はユースホステルとして利用され、若い観光客に人気がある。≫(『アイじゃぱん31 高山・奥飛騨・白川郷・五箇山』2004.るるぶ社、JTB) ということで、天照寺は健在である。
※ 《ひだ高山 天性寺ユースホステル》http://www.jyh.or.jp/info.php?jyhno=4101
「庫裏(くり)」とは、《ウィキペディア-庫裏》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%AB%E8%A3%8F には、≪寺院の僧侶の居住する場所、また寺内の時食を調える、つまり台所も兼ねる場合がある。≫と出ている。 ユースホステルがあるということに気づかずに帰ってきてしまったが、↑は本堂であり、地図を見る限り、この右側(南側)に庫裏だというユースホステルがあるらしい。
《ひだ高山 天性寺ユースホステル》http://www.jyh.or.jp/info.php?jyhno=4101 を見ると、泊まってみたいという感じがしてきます。 お寺では「宿坊」として、一般の人間が宿泊させてもらえるお寺があり、私は、「宿坊」としては、青森県 下北半島の恐山菩提寺で宿泊させてもらったことがあるのですが、部屋に「宿坊は単なる宿泊施設ではありません」といったことが書かれたものが貼ってありましたが、特別に難しいことを言われることもなく快適に泊まらせてもらいましたし、宿泊者でなければ入らせてもらえない所まで入らせてもらってお坊さんにお話を聞かせてもらったりもしましたが、他のお寺がどうなのかはわかりません。お寺によっては、うかつなことをすると、「か~っつ!」とか怒られるのでは・・・とか心配したり。 その点、「ユースホステル」だと何をやってもいいわけではなく、ユースホステルの規定があるはずで、今は昔、1970年代、私が高校生の時に、クラブの合宿で和歌山県の某ユースホステルに宿泊した時、朝食後、練習の開始時刻まで少し時間があったので漫画を読んでいたら、「朝から漫画を読まないでください」と「ペアレント」のおじさんからお叱りを受けたこともありましたが、「宿坊」よりは気を使わずに泊まらせてもらえるかな・・・とか思ったりもします。恐山の宿坊は別に気難しいとかいうことはありませんでしたけれども。
現地での説明書きには、
≪ 明眼山 天照寺(みょうげんざん てんしょうじ)
宗派 浄土宗 本尊 阿弥陀如来
真空明照大阿闍梨を開基とし、寿永元年(1182)七堂伽藍をもった天台宗の巨刹として創建され、天照皇寺と称したが、中世に衰退した。
元和年間(1615年頃)に源誉受徳上人が天照寺と改め浄土宗に改宗し開山となった。
明治3年(1870年)まで裏山の東山神明神社の別当でもあったが、
神仏分離の際に、天照寺を天性寺に字を変更させられた。
昭和17年(1942年)に寺号は旧字に改称したが、町名は変更することができなかった。≫
とある。
最初は天台宗の寺だったということなので、「天照寺」の「天」は、天台宗の天かと思ったが、天台宗の寺であった時は「天照皇寺(てんしょうこうじ)」という名称であったということで、「皇寺」となると、皇族の「皇」の字がそこに入っていることになり、そうなると、「天」も天皇の天なのか? 「天台宗の皇族とつながりがある寺」なのか? とも思えてくる。 しかし、「天」は天台宗の天で、「皇」は天皇・皇族の「皇」だという可能性もありうるであろうが、「皇」も天皇・皇族の「皇」ではなく他に由来する可能性もあるだろう。
「裏山の東山神明神社の別当でもあった」ということであれば、神明神社の「祭神」は一般にはアマテラスであり、「天照寺」の「天照」を訓読みすると「あまてる」「アマテラス」になる。 東山神明神社に行った印象としては、特に、伊勢・神明系のインパクトは受けなかったのであるが、別当寺になっていた寺の名称が「天照寺」で、訓読みすると「アマテラス寺」と読めなくもない名称であるとなると、東山神明神社は、やはり、江戸時代からアマテラスを祀る神社だったのだろうか。
逆に、別当寺の名称が「天照寺」だったから、「天照」つながりで、明治維新後、裏山の神社が,祭神を「アマテラス」、神社名を「神明神社」とされたということで、天照寺は、もともと、天台宗の天と、あまねく世を照らすといった意味で「天照」だったという可能性もありうるのではないか。
東山神明神社の「神明」と天照寺の「天照」は、アマテラスを意味していそうな感じがする名前ではあるのだが、単に、天台宗の天と世を照らすの照の字による寺という可能性もあるし、東山神明神社のところでも述べたが、もしも、昔々からのアマテラスの神社なら、鰹木が奇数、千木の先端が地面に垂直で、千木に穴が開いているというのはどういうことなのか。 アマテラスは男の神だという認識でそうなったのか。
「天照寺」は、後ろの山にある神社の名称が神明神社であることを考えると、「天照」は「アマテラス」かと思いそうになるが、そうでなければ、「天を照らす」「天から照らす」「天地を照らす」「天をも照らす」「天の下あまねく照らす」といった意味、もしくは、「天台の照明(あかり)」「天台(宗)をもって照らす」といった意味の可能性は十分考えられると思う。 天台宗の時代にどうであったかはよくわからないところもあるが、浄土宗という宗派は、江戸時代になってから、徳川家が浄土宗であったことから「格が上がってしまった」ところがありますが、最初の出発点においては、浄土真宗と同じく庶民の宗派であり、権力や皇室と結びつく傾向は大きくない方の宗派であったはずで、少なくとも、浄土宗になって以降は、天照寺は「アマテラス」とは特に関係はなかったのではないかと私は思う。後ろの(東の)神社もアマテラスと特に関係のない神社だったのではないか。明治維新の後、明治維新政府から地域ごとに伊勢・神明系の神社を作らされて、その際に、「天照」つながりで後ろの神社が「神明神社」にされたのではないか。片方で、後ろの神社は「天照」つながりで神明神社にされ、一方で、もとから「天照寺」であった寺は、神仏分離ということで「天性寺」と字を変えさせられた・・・。そんなところではないのか、と私は思うが・・・。
現地の説明書きには、
≪ 元和4年(1618)越後少将高田城主 松平忠輝(家康の六男)は、高山城主三代金森重頼に、あずけられ東寺に8年間居住し、寛永3年信州諏訪へ去られた。
また、寛永9年(1632)には同様に肥後熊本城主加藤清正の孫加藤光正が、当寺に閉居されたが、翌年死去された。
高貴の流人が二人も住んだ寺は飛騨では他にない。 ≫ ともある。
加藤清正は、関ケ原の戦いの時には、「消極的東軍」のような態度で、関ケ原の戦いの後、もともと、肥後(熊本県)の半分の領主であったのが、他の半分の領主で西軍についた小西行長が斬首されたことから、肥後1国の領主となったものの、結局、徳川家康より先、大坂の陣より前に他界してしまうことになる。 子の忠広が減封されてしまうことになるのなら、関ケ原の戦いの時に東軍につくのではなく、西軍についておいた方が良かったのかとも思えてくるが、西軍についたなら、それならそれで、近江閥・文治派の石田三成らに対し、尾張閥・武断派の加藤清正は、やはり、冷遇された可能性が考えられる。 加藤清正にせよ、福島正則にせよ、ぎりぎりのところで、どちらにつくべきものかという判断で徳川方についたものの、結局、子孫は減封され、ほぼ、消えて行ったようになってしまった。 加藤清正は、司馬遼太郎『関ケ原』(新潮社)では梅毒だったということになっており、『あずみ』では、あずみ に暗殺されたことになっているのだが、相当長生きした徳川家康に対し、家康よりも若い加藤清正などが先に他界し、徳川家康とそれほど変わらない年齢の前田利家は関ケ原の戦いの前年に死去し、前田利家の長男で織田信長の娘を正室にする利長も健康を害し、徳川秀忠の娘を正室にした前田利常が後を継ぐことになる。 豊臣から徳川への権力の移行の過程において、どうも、徳川の対抗勢力になりそうな人間が、徳川方に都合がいい時期に他界しているというのは、「あずみ が殺した」のではなくても、暗殺者か毒を持った者がいたか何かあったのかとも思えるが、実際はどうなのか。 「あずみ に殺された」・・・のではないと思うけれども・・・。
加藤清正の孫を預かった金森家だが、その後、金森家自身が減封・移封されてしまうことになる。江戸時代250年間を生き抜いた藩と比較的早くに消滅した藩というのは、どこが違うのだろうか。加藤清正や福島正則の子孫というのは、関ケ原の戦いで徳川方についたといっても、それでも、豊臣の縁者と見られてしまったのかとも思えるし、大坂の陣においても、もしも、大坂方が優勢になることがあったなら、いったい、どちらにつくのかわからない存在であったということがあるであろうが、しかし、金森長近は織田信長の父の織田信秀に仕え、その後、信長に仕えて、本能寺の変の後には柴田勝家の方につき、柴田勝家が亡びた後に、秀吉に従ったという者であり、関ケ原の戦いで東軍についたのも、特別に豊臣に恩があるという立場でもなかったはずである。 たしか、陣屋には、徳川幕府が、木曽地方を尾張徳川家の所有にした為、他に木材の産地を天領として手に入れたいと考え、飛騨地方を天領にしようとしたという説が書かれていたと思うが、はたしてそうなのか。
↑ 天照寺 鐘堂。
東山遊歩道[10] 常栄山 法華寺(じょうえいざん ほっけじ) (法華宗)
↑ 法華寺 本堂。 岐阜県指定文化財。
≪ 1632年、九州から配流され、翌年この地で没した加藤光正(熊本藩主加藤清正の孫)の霊を哀れんだ金森重頼(3代)が、高山城内の建物を移して本堂としたと伝えられる。≫(『東山遊歩道』リーフレット)
≪ 1558年(永禄元)に建立された寺。 肥後藩の加藤清正の孫・光正は18歳で世を去ったが、本堂は加藤光正の一周忌に供養のために、3代藩主・金森重頼(しげより)が1634年(寛永11)に高山城二の丸の建物を移築して建立した。 ・・・・≫(『アイじゃぱん31 高山・奥飛騨・白川郷・五箇山』2004.るるぶ社、JTB)
今回は訪ねなかったが、『東山遊歩道』リーフレット によると、背後の(東側の)山に「加藤光正墓」(高山市指定史跡)があるらしい。
「加藤歩簫(ほしょう)墓」(岐阜県指定史跡)も≪法華寺山頂上にある加藤家の墓地にある≫(《岐阜県HP 加藤歩簫墓》https://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku/bunka/bunkazai/17768/siseki/katouhoshou.html )と書かれているが、加藤歩簫て誰なのかというと、≪ 歩簫は名を貴雄、通称を小三郎という。蘭亭歩簫、白翁(しららおう)(晩年)と号した。俳諧を泊庵蝶夢に、国学を伴蒿蹊(ばんこうけい)に学び、安永元年(1772年)家督を相続し、父の私塾を継承した。二之町組頭を40余年間勤める一方、雲橋社を創立し、図書1千余巻を一般に公開するなど文教の振興に力を尽くした。・・・≫(《高山市HP 加藤歩簫墓》http://www.city.takayama.lg.jp/kurashi/1000021/1000119/1000847/1000954/1000961.html )、≪明和8年(1771)に同志を集めて国学及び俳諧の研究を行い、鴎社を創立して飛騨文教の振興に力をそそいだ。・・・≫(《岐阜県HP 加藤歩簫墓》)という人らしい。 加藤歩簫と加藤清正・加藤忠広・加藤光正とはどういう関係なのかと思ってインターネットで検索したが、≪加療歩簫は、寛保3年(1743)加藤円道の嫡男として生まれた。≫と《岐阜県HP 加藤歩簫墓》には出ているが、清正・忠広・光正との関係は出ていない。それなら、加藤円道て誰なんだというと、インターネット上で検索しても出てこない。
現地の説明書きには、
≪ 常栄山 法華寺(じょうえいざん ほっけじ)
宗派 法華宗 本尊 十界互具本尊 ≫
と書かれている。
法華宗と日蓮宗は違うのか、というと、《ウィキペディア-十三宗五十六派》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%AE%97%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%B4%BE には、
≪ 日蓮宗
日蓮宗は、以下の9派。
一致派(1876年成立の各派)
日蓮宗
日蓮宗不受不施派
日蓮宗不受不施講門派 (現、不受不施日蓮講門宗)
勝劣五派(1876年成立の各派)
顕本法華宗
(旧)本門法華宗
法華宗(本成寺派)
本妙法華宗(本隆寺派)
本門宗
その後に成立した宗派 日蓮正宗1900年本門宗より独立
「日蓮宗#近現代の動向」も参照 ≫
《ウィキペディア-日蓮宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E5%AE%97#.E8.BF.91.E7.8F.BE.E4.BB.A3.E3.81.AE.E5.8B.95.E5.90.91 には、≪ 1875年(明治8年) 3月、 日蓮宗一致派は、派名を廃し単称日蓮宗とする名称変更を、政府へ請願する。 同門他派を踏まえ一度は却下されるも、再三の働きかけにより、 1876年 (明治9年) 2月、政府はこれを承認した ≫ と出ている。日蓮宗一致派とは身延山(山梨県)・中山法華経寺(千葉県市川市)などらしい。
世間一般には、「日蓮宗」という言葉は、法華・日蓮系の宗派全体を言うことが多いが、それとは別に「旧 日蓮宗一致派」を「日蓮宗」と呼び、それ以外の宗派は「日蓮宗」とは別の名称で呼ぶことがあるらしい。
法華・日蓮系として9つの派があって、その中に「法華宗(本成寺派)」というのがあるが、高山市の法華寺が「法華宗」というのは、それなのか?
本成寺は≪ 新潟県三条市西本成寺にある、法華宗陣門流の総本山≫〔《ウィキペディア-本成寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%88%90%E5%AF%BA_(%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%B8%82) 〕らしい。
「一致派」「勝劣派」とは何かというと、村上重良『日本の宗教』( 岩波ジュニア新書)には、
≪ (室町時代に)日蓮宗の各門流が京都に進出し、京都の商工民の間で法華信仰がめざましくひろがると、宗内では日蓮教学をめぐる論争がさかんとなりました。 各門流の学僧たちは、それぞれ自派が日蓮の教えを正しく受けついでいると主張して論争しました。論点は教学のほとんど全面にわたり、中でも最大の論点となったのは法華経にかんする一致と勝劣の争いでした。
法華経は、伝統的な解釈では、序分、正宗分(しょうしゅうぶん)、流通分(るつうぶん)に三分され、また前半の14章を迹門(じゃくもん)、後半の14章を本門とよんで二分します。 本門と迹門は等価値で、優劣深浅はないとするのが本迹一致(ほんじゃくいっち)(一致義)です。 これにたいして、本門がすぐれ迹門が劣るとするのが本勝迹劣(ほんしょうじゃくれつ)(勝劣義)です。 思想の性格からいえば、一致義は真理を幅広くとらえることで、保守的で現状肯定に傾きやすく、勝劣義は、真理を究極的にしぼっていこうとすることから、変革的で現状打破の傾向をもつことになります。 ≫ と出ています。
高山市の法華寺の「法華宗」とは、「法華宗(本成寺派)」のことでよいのでしょうか。 「日蓮宗」という言葉を法華・日蓮系の宗派全体を言う場合と、「旧 日蓮宗一致派」を言う場合があるようですが、さらに、上の《ウィキペディア-十三宗五十六派》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%AE%97%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%B4%BE に出ている9つの宗派は、一致派は「日蓮宗・・・」、勝劣派は「・・・法華宗」という名称である場合が多いことから、一致派全体を「日蓮宗」、勝劣派全体を「法華宗」と呼んだりもしているのではないか。 そうなると、「法華宗」という表記ですと、勝劣派を意味しているのか、「法華宗(本成寺派)」を意味しているのかわからなくなります。
≪ 建物内部には、ゆったりした広縁があり、腰唐戸の障子がやわらかい感じを与えている。
本堂の内陣には、正面の蟇股や欄間の花鳥彩色彫がみられ、桃山時代の様式を残している。
外観は間口が八間あって重量感に溢れ、書院造の風格がいっそう漂うものである。
昭和45年8月11日指定
高山市教育委員会 ≫
と現地には説明書きが出ているのですが、北側から(天照寺の側から)来て、この本堂を見て(↑の上の方の2枚の写真参照)、何間か数えると、8間ではなく、7間と違うのか? あれ? という感じ。中央部の出入口の部分が1間で、その左右に3間ずつで計7間、法華寺本堂とはこの建物のことで、他のもののことではないはずだが、7間と違うのか? と感じます。 実は、一番右側(南側)に、もう1間、後ろに引っ込んであるのです(↑ 一番下の写真参照)。
この「東山遊歩道」の寺は、(1)の雲龍寺から(12)の宗猷寺までの10寺と(14)清傳寺から(16)照蓮寺の3寺とを合わせて13寺のうち、
曹洞宗 6寺
浄土宗 3寺
臨済宗 1寺
真宗大谷派 1寺
高野山真言宗 1寺
法華宗 1寺
と、曹洞宗が多いのは、金森家が曹洞宗だったからでしょう。 この法華寺だけが法華宗というのは、加藤家が法華宗だったということではないでしょうか?
↑ 法華寺 鐘堂。
↑ この付近は、「東山風致地区」と、風致地区に指定されているようです。
「風致地区」とは、
≪ 都市の風致を維持するため定める地区で、政令で定める基準に従い、地方公共団体の条例で、建築物の建築、宅地の造成、木竹の伐採等について規制(都市計画法58条)。
「都市の風致」とは、都市において自然的景観が良好に維持されている状態をいう。 例えば、東京都の明治神宮内外苑付近。 ≫
(『宅地建物取引の知識 平成27年版(2015年版)』2015.3.6. 住宅新報社 「第3編 土地及び建物についての法令上の制限」「第3章 都市計画法及びこれに関連する法律による土地及び建物についての制限」 )
住宅屋は、風致地区と言われると、「うわっ」と引いてしまうところがありますが、それだけ、法規制が厳しいので、それだけ、環境が守られることになります。
次回 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_21.html 、善応寺 へ行きます。
(2016.10.24.)
☆☆☆☆高山シリーズ第4回
1.日の出天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
2.大八賀神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_14.html
3.東山遊歩道(1)高山別院照蓮寺から東山白山神社へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_15.html
4. 〃 (2)東山白山神社・大雄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_16.html
5. 〃 (3)雲龍寺・久昌寺・栄鏡院 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_17.html
6. 〃 (4)洞雲院・素玄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_18.html
7. 〃 (5)東山神明神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_19.html
8. 〃 (6)天照寺・法華寺 〔今回〕
9. 〃 (7)善応寺1.本堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_21.html
10.〃 (8)善応寺2.地蔵堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_22.html
11.〃 (9)宗猷寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_23.html
12.〃 (10)町年寄川上家別邸跡 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_24.html
13.煥章館と煥章館2階から見た東山 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_25.html
14.十六銀行 高山支店、早朝は無人の安川交番 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_26.html
15.新装「高山駅」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_27.html
16.片流れ屋根のモデルハウス https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_4.html
☆☆☆高山シリーズ第3回
1.藤井美術民芸館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_1.html
2.高山陣屋[1]床の間、釘隠し・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_2.html
3.高山陣屋[2]白洲、土縁庇・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_3.html
4.高山市政記念館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_4.html
〔番外 宮川にかかる欄干に加圧注入木材使用の橋と 防腐防蟻剤について。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_5.html 〕
5.桜山八幡宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_6.html
6.桜山八幡宮 摂社 天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html
7.山桜神社、古い町並美術館、手長足長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_8.html
8.宮川交番、高山警察署、高山市役所 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_9.html
9.飛騨国分寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_10.html
10.新宿‐高山のバスの予約をインターネットで「後部」を希望すると。「労災」のおかげで歩行困難にされた話 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_11.html
☆☆ 高山シリーズ第2回は、
(1)国府町村山天神参拝1上枝駅から宮川沿い。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
(2)同2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
(3)同3浸透桝で雨水処理 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
(4)あじめ峡、あじか、廣瀬神社、国府小学校https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
(5)国府大仏、阿多由太神社https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_6.html
(6)飛騨国府駅周辺。「耳付片流れ屋根」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_7.html
(7)松本家住宅・ヒラノグラーノhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_8.html
(8)松本家住宅・宮地家住宅https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_9.html
(9)宮地家住宅・平田記念館https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_10.html
(10)飛騨民族考古館1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_11.html
(11)同2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_12.html
(12)同3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_13.html
(13)同4 喫茶ばれん、質屋の入口から逃げる裁判官 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_14.html
(14)飛騨高山まちの博物館https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_15.html
(15)東西反転プランでは玄関だけ移動するのかhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_16.html
〔(16)~(20)の前提、権威主義的パーソナリティーの「デザイナー」が「建築家」の名前で敬意を表した慶應日吉(新)図書館について https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_17.html 〕
(16)高山の町家で曲がった松をわざわざ柱に使用するか? 1 JR日光駅はライトの設計でなければ価値はないか? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_18.html
(17)同2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_19.html
(18)同3 マーケティング的発想のない店 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_20.html
(19)同4 店のコンセプトが理解できない建設部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_21.html
(20)同5 「酒が飲めない人にも飲める酒」を勧められない「日本酒ソムリエ」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_22.html
(21)飛騨総社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_23.html
☆ 高山シリーズ第1回
上 [第202回]飛騨天満宮、松本家住宅他https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 [第203回]「天神」考察。居酒屋はいいかげんhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 [第204回]高山市の白山神社。高山市役所https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
懐奘編『正法眼蔵隋聞記』(和辻哲郎校訂 1929.第1版、1982.改版 岩波文庫)に、
≪ 亦有る時、僧正の門弟の僧等の云く、今の建仁寺の寺ら屋敷、川原に近し。 後代に水難ありぬべしと、僧正の云く、我れ寺の後代の亡失、是れ思ふべからず。 西天の祇園精舎もいしずゑばかりとどまれり。 然あれども寺院建立の功徳失すべからず。 亦当時一年半年の行道、其の功徳莫大なるべしと。今ま是れを思ふに、寺院の建立寔に(まことに)一期(いちご)の大事なれば、未来際をも兼て難無きやうにとこそ思ふべけれども、さる心中にも此の(かくの)如き道理、存ぜられたる心のたけ、寔に(まことに)是れを思ふべし。 ≫ と書かれている。
≪ この書にひきつけられた和辻哲郎先生の感激を、逐次紹介し、若干の付言を加えたいと思う。
『隋聞記』がわれわれに訴えるのは、そこにたぎっている精神的気魄である。精舎とか寺院というような外面的なものではなくて、その内に具現されている精神である。 その精神的な気魄、心構えを、道元は、入宋以前に師の栄西から受けていたらしい。
ある時、建仁寺の僧たちが師栄西に向かって言った。 「今の建仁寺の寺屋敷は鴨河原に近い。 いつかは水難に逢うでありましょう。」 栄西は答えた。「自分の寺がいつかは亡び失せる。――そんなことを考える必要はない。 インドの祇園精舎は礎をとどめているに過ぎぬ。重大なのは寺院によって行う真理体現の努力である。」 (『日本精神史研究』、和辻哲郎全集」第四巻166頁) ≫(中村元「改版に際して」 )
より大事なものは、「寺院によって行う真理体現の努力」であって、寺の建物ではない・・・というのは、それは確かにそうではあるのですが、そうは言いましても、この高山市の「東山遊歩道」にある寺を見てまわると、最初は、「遊歩道」の途中にある遊歩道とセットの寺社なのかくらいに思って歩きかけたものの、なんとも、立派な堂宇が並んでいるのに驚き、これは、いくつもの寺社をセットで考えるようなものではなく、1寺ごとに訪ねるべき寺ではないかと思うようになりました。
で、今回は、
東山遊歩道(9) 明眼山 天照寺(みょうげんざん てんしょうじ) (浄土宗 ← 天台宗)
≪ 1182年頃、天台宗の寺院、天照皇寺(てんしょうこうじ)と称して創建。 中世に一時衰退したが、1615年頃に浄土宗天照寺として再建された。≫
(『東山遊歩道』リーフレット)
≪ 徳川家康の六男で、高田藩主 松平忠輝が1618年(元和4)に高山に配流されて8年間過ごした寺。≫
≪ また、後に加藤清正の孫、加藤光正も金森家のあずかりとなり、この寺に身を置いている。≫
(『アイじゃぱん31 高山・奥飛騨・白川郷・五箇山』2004.るるぶ社、JTB)
※ 《ウィキペディア-松平忠輝》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E8%BC%9D
《デジタル版日本人名大辞典+Plus の解説 加藤光正》https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%85%89%E6%AD%A3-1066200
《ウィキペディア-加藤忠広》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%BF%A0%E5%BA%83
↑ 「グーグル」の地図では、「ひが高山 天性寺ユースホステル」とのみ書いてあって、「天照寺」という記述がないが、天照寺がお寺をやめてユースホステルになったのではなく、
≪ 庫裏はユースホステルとして利用され、若い観光客に人気がある。≫(『アイじゃぱん31 高山・奥飛騨・白川郷・五箇山』2004.るるぶ社、JTB) ということで、天照寺は健在である。
※ 《ひだ高山 天性寺ユースホステル》http://www.jyh.or.jp/info.php?jyhno=4101
「庫裏(くり)」とは、《ウィキペディア-庫裏》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%AB%E8%A3%8F には、≪寺院の僧侶の居住する場所、また寺内の時食を調える、つまり台所も兼ねる場合がある。≫と出ている。 ユースホステルがあるということに気づかずに帰ってきてしまったが、↑は本堂であり、地図を見る限り、この右側(南側)に庫裏だというユースホステルがあるらしい。
《ひだ高山 天性寺ユースホステル》http://www.jyh.or.jp/info.php?jyhno=4101 を見ると、泊まってみたいという感じがしてきます。 お寺では「宿坊」として、一般の人間が宿泊させてもらえるお寺があり、私は、「宿坊」としては、青森県 下北半島の恐山菩提寺で宿泊させてもらったことがあるのですが、部屋に「宿坊は単なる宿泊施設ではありません」といったことが書かれたものが貼ってありましたが、特別に難しいことを言われることもなく快適に泊まらせてもらいましたし、宿泊者でなければ入らせてもらえない所まで入らせてもらってお坊さんにお話を聞かせてもらったりもしましたが、他のお寺がどうなのかはわかりません。お寺によっては、うかつなことをすると、「か~っつ!」とか怒られるのでは・・・とか心配したり。 その点、「ユースホステル」だと何をやってもいいわけではなく、ユースホステルの規定があるはずで、今は昔、1970年代、私が高校生の時に、クラブの合宿で和歌山県の某ユースホステルに宿泊した時、朝食後、練習の開始時刻まで少し時間があったので漫画を読んでいたら、「朝から漫画を読まないでください」と「ペアレント」のおじさんからお叱りを受けたこともありましたが、「宿坊」よりは気を使わずに泊まらせてもらえるかな・・・とか思ったりもします。恐山の宿坊は別に気難しいとかいうことはありませんでしたけれども。
現地での説明書きには、
≪ 明眼山 天照寺(みょうげんざん てんしょうじ)
宗派 浄土宗 本尊 阿弥陀如来
真空明照大阿闍梨を開基とし、寿永元年(1182)七堂伽藍をもった天台宗の巨刹として創建され、天照皇寺と称したが、中世に衰退した。
元和年間(1615年頃)に源誉受徳上人が天照寺と改め浄土宗に改宗し開山となった。
明治3年(1870年)まで裏山の東山神明神社の別当でもあったが、
神仏分離の際に、天照寺を天性寺に字を変更させられた。
昭和17年(1942年)に寺号は旧字に改称したが、町名は変更することができなかった。≫
とある。
最初は天台宗の寺だったということなので、「天照寺」の「天」は、天台宗の天かと思ったが、天台宗の寺であった時は「天照皇寺(てんしょうこうじ)」という名称であったということで、「皇寺」となると、皇族の「皇」の字がそこに入っていることになり、そうなると、「天」も天皇の天なのか? 「天台宗の皇族とつながりがある寺」なのか? とも思えてくる。 しかし、「天」は天台宗の天で、「皇」は天皇・皇族の「皇」だという可能性もありうるであろうが、「皇」も天皇・皇族の「皇」ではなく他に由来する可能性もあるだろう。
「裏山の東山神明神社の別当でもあった」ということであれば、神明神社の「祭神」は一般にはアマテラスであり、「天照寺」の「天照」を訓読みすると「あまてる」「アマテラス」になる。 東山神明神社に行った印象としては、特に、伊勢・神明系のインパクトは受けなかったのであるが、別当寺になっていた寺の名称が「天照寺」で、訓読みすると「アマテラス寺」と読めなくもない名称であるとなると、東山神明神社は、やはり、江戸時代からアマテラスを祀る神社だったのだろうか。
逆に、別当寺の名称が「天照寺」だったから、「天照」つながりで、明治維新後、裏山の神社が,祭神を「アマテラス」、神社名を「神明神社」とされたということで、天照寺は、もともと、天台宗の天と、あまねく世を照らすといった意味で「天照」だったという可能性もありうるのではないか。
東山神明神社の「神明」と天照寺の「天照」は、アマテラスを意味していそうな感じがする名前ではあるのだが、単に、天台宗の天と世を照らすの照の字による寺という可能性もあるし、東山神明神社のところでも述べたが、もしも、昔々からのアマテラスの神社なら、鰹木が奇数、千木の先端が地面に垂直で、千木に穴が開いているというのはどういうことなのか。 アマテラスは男の神だという認識でそうなったのか。
「天照寺」は、後ろの山にある神社の名称が神明神社であることを考えると、「天照」は「アマテラス」かと思いそうになるが、そうでなければ、「天を照らす」「天から照らす」「天地を照らす」「天をも照らす」「天の下あまねく照らす」といった意味、もしくは、「天台の照明(あかり)」「天台(宗)をもって照らす」といった意味の可能性は十分考えられると思う。 天台宗の時代にどうであったかはよくわからないところもあるが、浄土宗という宗派は、江戸時代になってから、徳川家が浄土宗であったことから「格が上がってしまった」ところがありますが、最初の出発点においては、浄土真宗と同じく庶民の宗派であり、権力や皇室と結びつく傾向は大きくない方の宗派であったはずで、少なくとも、浄土宗になって以降は、天照寺は「アマテラス」とは特に関係はなかったのではないかと私は思う。後ろの(東の)神社もアマテラスと特に関係のない神社だったのではないか。明治維新の後、明治維新政府から地域ごとに伊勢・神明系の神社を作らされて、その際に、「天照」つながりで後ろの神社が「神明神社」にされたのではないか。片方で、後ろの神社は「天照」つながりで神明神社にされ、一方で、もとから「天照寺」であった寺は、神仏分離ということで「天性寺」と字を変えさせられた・・・。そんなところではないのか、と私は思うが・・・。
現地の説明書きには、
≪ 元和4年(1618)越後少将高田城主 松平忠輝(家康の六男)は、高山城主三代金森重頼に、あずけられ東寺に8年間居住し、寛永3年信州諏訪へ去られた。
また、寛永9年(1632)には同様に肥後熊本城主加藤清正の孫加藤光正が、当寺に閉居されたが、翌年死去された。
高貴の流人が二人も住んだ寺は飛騨では他にない。 ≫ ともある。
加藤清正は、関ケ原の戦いの時には、「消極的東軍」のような態度で、関ケ原の戦いの後、もともと、肥後(熊本県)の半分の領主であったのが、他の半分の領主で西軍についた小西行長が斬首されたことから、肥後1国の領主となったものの、結局、徳川家康より先、大坂の陣より前に他界してしまうことになる。 子の忠広が減封されてしまうことになるのなら、関ケ原の戦いの時に東軍につくのではなく、西軍についておいた方が良かったのかとも思えてくるが、西軍についたなら、それならそれで、近江閥・文治派の石田三成らに対し、尾張閥・武断派の加藤清正は、やはり、冷遇された可能性が考えられる。 加藤清正にせよ、福島正則にせよ、ぎりぎりのところで、どちらにつくべきものかという判断で徳川方についたものの、結局、子孫は減封され、ほぼ、消えて行ったようになってしまった。 加藤清正は、司馬遼太郎『関ケ原』(新潮社)では梅毒だったということになっており、『あずみ』では、あずみ に暗殺されたことになっているのだが、相当長生きした徳川家康に対し、家康よりも若い加藤清正などが先に他界し、徳川家康とそれほど変わらない年齢の前田利家は関ケ原の戦いの前年に死去し、前田利家の長男で織田信長の娘を正室にする利長も健康を害し、徳川秀忠の娘を正室にした前田利常が後を継ぐことになる。 豊臣から徳川への権力の移行の過程において、どうも、徳川の対抗勢力になりそうな人間が、徳川方に都合がいい時期に他界しているというのは、「あずみ が殺した」のではなくても、暗殺者か毒を持った者がいたか何かあったのかとも思えるが、実際はどうなのか。 「あずみ に殺された」・・・のではないと思うけれども・・・。
加藤清正の孫を預かった金森家だが、その後、金森家自身が減封・移封されてしまうことになる。江戸時代250年間を生き抜いた藩と比較的早くに消滅した藩というのは、どこが違うのだろうか。加藤清正や福島正則の子孫というのは、関ケ原の戦いで徳川方についたといっても、それでも、豊臣の縁者と見られてしまったのかとも思えるし、大坂の陣においても、もしも、大坂方が優勢になることがあったなら、いったい、どちらにつくのかわからない存在であったということがあるであろうが、しかし、金森長近は織田信長の父の織田信秀に仕え、その後、信長に仕えて、本能寺の変の後には柴田勝家の方につき、柴田勝家が亡びた後に、秀吉に従ったという者であり、関ケ原の戦いで東軍についたのも、特別に豊臣に恩があるという立場でもなかったはずである。 たしか、陣屋には、徳川幕府が、木曽地方を尾張徳川家の所有にした為、他に木材の産地を天領として手に入れたいと考え、飛騨地方を天領にしようとしたという説が書かれていたと思うが、はたしてそうなのか。
↑ 天照寺 鐘堂。
東山遊歩道[10] 常栄山 法華寺(じょうえいざん ほっけじ) (法華宗)
↑ 法華寺 本堂。 岐阜県指定文化財。
≪ 1632年、九州から配流され、翌年この地で没した加藤光正(熊本藩主加藤清正の孫)の霊を哀れんだ金森重頼(3代)が、高山城内の建物を移して本堂としたと伝えられる。≫(『東山遊歩道』リーフレット)
≪ 1558年(永禄元)に建立された寺。 肥後藩の加藤清正の孫・光正は18歳で世を去ったが、本堂は加藤光正の一周忌に供養のために、3代藩主・金森重頼(しげより)が1634年(寛永11)に高山城二の丸の建物を移築して建立した。 ・・・・≫(『アイじゃぱん31 高山・奥飛騨・白川郷・五箇山』2004.るるぶ社、JTB)
今回は訪ねなかったが、『東山遊歩道』リーフレット によると、背後の(東側の)山に「加藤光正墓」(高山市指定史跡)があるらしい。
「加藤歩簫(ほしょう)墓」(岐阜県指定史跡)も≪法華寺山頂上にある加藤家の墓地にある≫(《岐阜県HP 加藤歩簫墓》https://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku/bunka/bunkazai/17768/siseki/katouhoshou.html )と書かれているが、加藤歩簫て誰なのかというと、≪ 歩簫は名を貴雄、通称を小三郎という。蘭亭歩簫、白翁(しららおう)(晩年)と号した。俳諧を泊庵蝶夢に、国学を伴蒿蹊(ばんこうけい)に学び、安永元年(1772年)家督を相続し、父の私塾を継承した。二之町組頭を40余年間勤める一方、雲橋社を創立し、図書1千余巻を一般に公開するなど文教の振興に力を尽くした。・・・≫(《高山市HP 加藤歩簫墓》http://www.city.takayama.lg.jp/kurashi/1000021/1000119/1000847/1000954/1000961.html )、≪明和8年(1771)に同志を集めて国学及び俳諧の研究を行い、鴎社を創立して飛騨文教の振興に力をそそいだ。・・・≫(《岐阜県HP 加藤歩簫墓》)という人らしい。 加藤歩簫と加藤清正・加藤忠広・加藤光正とはどういう関係なのかと思ってインターネットで検索したが、≪加療歩簫は、寛保3年(1743)加藤円道の嫡男として生まれた。≫と《岐阜県HP 加藤歩簫墓》には出ているが、清正・忠広・光正との関係は出ていない。それなら、加藤円道て誰なんだというと、インターネット上で検索しても出てこない。
現地の説明書きには、
≪ 常栄山 法華寺(じょうえいざん ほっけじ)
宗派 法華宗 本尊 十界互具本尊 ≫
と書かれている。
法華宗と日蓮宗は違うのか、というと、《ウィキペディア-十三宗五十六派》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%AE%97%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%B4%BE には、
≪ 日蓮宗
日蓮宗は、以下の9派。
一致派(1876年成立の各派)
日蓮宗
日蓮宗不受不施派
日蓮宗不受不施講門派 (現、不受不施日蓮講門宗)
勝劣五派(1876年成立の各派)
顕本法華宗
(旧)本門法華宗
法華宗(本成寺派)
本妙法華宗(本隆寺派)
本門宗
その後に成立した宗派 日蓮正宗1900年本門宗より独立
「日蓮宗#近現代の動向」も参照 ≫
《ウィキペディア-日蓮宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E5%AE%97#.E8.BF.91.E7.8F.BE.E4.BB.A3.E3.81.AE.E5.8B.95.E5.90.91 には、≪ 1875年(明治8年) 3月、 日蓮宗一致派は、派名を廃し単称日蓮宗とする名称変更を、政府へ請願する。 同門他派を踏まえ一度は却下されるも、再三の働きかけにより、 1876年 (明治9年) 2月、政府はこれを承認した ≫ と出ている。日蓮宗一致派とは身延山(山梨県)・中山法華経寺(千葉県市川市)などらしい。
世間一般には、「日蓮宗」という言葉は、法華・日蓮系の宗派全体を言うことが多いが、それとは別に「旧 日蓮宗一致派」を「日蓮宗」と呼び、それ以外の宗派は「日蓮宗」とは別の名称で呼ぶことがあるらしい。
法華・日蓮系として9つの派があって、その中に「法華宗(本成寺派)」というのがあるが、高山市の法華寺が「法華宗」というのは、それなのか?
本成寺は≪ 新潟県三条市西本成寺にある、法華宗陣門流の総本山≫〔《ウィキペディア-本成寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%88%90%E5%AF%BA_(%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%B8%82) 〕らしい。
「一致派」「勝劣派」とは何かというと、村上重良『日本の宗教』( 岩波ジュニア新書)には、
≪ (室町時代に)日蓮宗の各門流が京都に進出し、京都の商工民の間で法華信仰がめざましくひろがると、宗内では日蓮教学をめぐる論争がさかんとなりました。 各門流の学僧たちは、それぞれ自派が日蓮の教えを正しく受けついでいると主張して論争しました。論点は教学のほとんど全面にわたり、中でも最大の論点となったのは法華経にかんする一致と勝劣の争いでした。
法華経は、伝統的な解釈では、序分、正宗分(しょうしゅうぶん)、流通分(るつうぶん)に三分され、また前半の14章を迹門(じゃくもん)、後半の14章を本門とよんで二分します。 本門と迹門は等価値で、優劣深浅はないとするのが本迹一致(ほんじゃくいっち)(一致義)です。 これにたいして、本門がすぐれ迹門が劣るとするのが本勝迹劣(ほんしょうじゃくれつ)(勝劣義)です。 思想の性格からいえば、一致義は真理を幅広くとらえることで、保守的で現状肯定に傾きやすく、勝劣義は、真理を究極的にしぼっていこうとすることから、変革的で現状打破の傾向をもつことになります。 ≫ と出ています。
高山市の法華寺の「法華宗」とは、「法華宗(本成寺派)」のことでよいのでしょうか。 「日蓮宗」という言葉を法華・日蓮系の宗派全体を言う場合と、「旧 日蓮宗一致派」を言う場合があるようですが、さらに、上の《ウィキペディア-十三宗五十六派》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%AE%97%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%B4%BE に出ている9つの宗派は、一致派は「日蓮宗・・・」、勝劣派は「・・・法華宗」という名称である場合が多いことから、一致派全体を「日蓮宗」、勝劣派全体を「法華宗」と呼んだりもしているのではないか。 そうなると、「法華宗」という表記ですと、勝劣派を意味しているのか、「法華宗(本成寺派)」を意味しているのかわからなくなります。
≪ 建物内部には、ゆったりした広縁があり、腰唐戸の障子がやわらかい感じを与えている。
本堂の内陣には、正面の蟇股や欄間の花鳥彩色彫がみられ、桃山時代の様式を残している。
外観は間口が八間あって重量感に溢れ、書院造の風格がいっそう漂うものである。
昭和45年8月11日指定
高山市教育委員会 ≫
と現地には説明書きが出ているのですが、北側から(天照寺の側から)来て、この本堂を見て(↑の上の方の2枚の写真参照)、何間か数えると、8間ではなく、7間と違うのか? あれ? という感じ。中央部の出入口の部分が1間で、その左右に3間ずつで計7間、法華寺本堂とはこの建物のことで、他のもののことではないはずだが、7間と違うのか? と感じます。 実は、一番右側(南側)に、もう1間、後ろに引っ込んであるのです(↑ 一番下の写真参照)。
この「東山遊歩道」の寺は、(1)の雲龍寺から(12)の宗猷寺までの10寺と(14)清傳寺から(16)照蓮寺の3寺とを合わせて13寺のうち、
曹洞宗 6寺
浄土宗 3寺
臨済宗 1寺
真宗大谷派 1寺
高野山真言宗 1寺
法華宗 1寺
と、曹洞宗が多いのは、金森家が曹洞宗だったからでしょう。 この法華寺だけが法華宗というのは、加藤家が法華宗だったということではないでしょうか?
↑ 法華寺 鐘堂。
↑ この付近は、「東山風致地区」と、風致地区に指定されているようです。
「風致地区」とは、
≪ 都市の風致を維持するため定める地区で、政令で定める基準に従い、地方公共団体の条例で、建築物の建築、宅地の造成、木竹の伐採等について規制(都市計画法58条)。
「都市の風致」とは、都市において自然的景観が良好に維持されている状態をいう。 例えば、東京都の明治神宮内外苑付近。 ≫
(『宅地建物取引の知識 平成27年版(2015年版)』2015.3.6. 住宅新報社 「第3編 土地及び建物についての法令上の制限」「第3章 都市計画法及びこれに関連する法律による土地及び建物についての制限」 )
住宅屋は、風致地区と言われると、「うわっ」と引いてしまうところがありますが、それだけ、法規制が厳しいので、それだけ、環境が守られることになります。
次回 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_21.html 、善応寺 へ行きます。
(2016.10.24.)
☆☆☆☆高山シリーズ第4回
1.日の出天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
2.大八賀神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_14.html
3.東山遊歩道(1)高山別院照蓮寺から東山白山神社へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_15.html
4. 〃 (2)東山白山神社・大雄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_16.html
5. 〃 (3)雲龍寺・久昌寺・栄鏡院 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_17.html
6. 〃 (4)洞雲院・素玄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_18.html
7. 〃 (5)東山神明神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_19.html
8. 〃 (6)天照寺・法華寺 〔今回〕
9. 〃 (7)善応寺1.本堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_21.html
10.〃 (8)善応寺2.地蔵堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_22.html
11.〃 (9)宗猷寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_23.html
12.〃 (10)町年寄川上家別邸跡 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_24.html
13.煥章館と煥章館2階から見た東山 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_25.html
14.十六銀行 高山支店、早朝は無人の安川交番 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_26.html
15.新装「高山駅」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_27.html
16.片流れ屋根のモデルハウス https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_4.html
☆☆☆高山シリーズ第3回
1.藤井美術民芸館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_1.html
2.高山陣屋[1]床の間、釘隠し・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_2.html
3.高山陣屋[2]白洲、土縁庇・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_3.html
4.高山市政記念館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_4.html
〔番外 宮川にかかる欄干に加圧注入木材使用の橋と 防腐防蟻剤について。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_5.html 〕
5.桜山八幡宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_6.html
6.桜山八幡宮 摂社 天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html
7.山桜神社、古い町並美術館、手長足長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_8.html
8.宮川交番、高山警察署、高山市役所 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_9.html
9.飛騨国分寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_10.html
10.新宿‐高山のバスの予約をインターネットで「後部」を希望すると。「労災」のおかげで歩行困難にされた話 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_11.html
☆☆ 高山シリーズ第2回は、
(1)国府町村山天神参拝1上枝駅から宮川沿い。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
(2)同2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
(3)同3浸透桝で雨水処理 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
(4)あじめ峡、あじか、廣瀬神社、国府小学校https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
(5)国府大仏、阿多由太神社https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_6.html
(6)飛騨国府駅周辺。「耳付片流れ屋根」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_7.html
(7)松本家住宅・ヒラノグラーノhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_8.html
(8)松本家住宅・宮地家住宅https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_9.html
(9)宮地家住宅・平田記念館https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_10.html
(10)飛騨民族考古館1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_11.html
(11)同2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_12.html
(12)同3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_13.html
(13)同4 喫茶ばれん、質屋の入口から逃げる裁判官 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_14.html
(14)飛騨高山まちの博物館https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_15.html
(15)東西反転プランでは玄関だけ移動するのかhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_16.html
〔(16)~(20)の前提、権威主義的パーソナリティーの「デザイナー」が「建築家」の名前で敬意を表した慶應日吉(新)図書館について https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_17.html 〕
(16)高山の町家で曲がった松をわざわざ柱に使用するか? 1 JR日光駅はライトの設計でなければ価値はないか? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_18.html
(17)同2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_19.html
(18)同3 マーケティング的発想のない店 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_20.html
(19)同4 店のコンセプトが理解できない建設部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_21.html
(20)同5 「酒が飲めない人にも飲める酒」を勧められない「日本酒ソムリエ」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_22.html
(21)飛騨総社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_23.html
☆ 高山シリーズ第1回
上 [第202回]飛騨天満宮、松本家住宅他https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 [第203回]「天神」考察。居酒屋はいいかげんhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 [第204回]高山市の白山神社。高山市役所https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
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