田井菅原神社(金沢市)参拝―冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り(38)

[第447回]冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り(38)
    金沢市の「天神」「天満」「北野」「菅原」系神社参拝の3回目。 今回は、金沢市天神町1丁目の田井菅原神社参拝です。 場所は、前回の椿原天満宮から歩いて5分もかからないのではないでしょうか。
    椿原天満宮の南側、階段の下の位置からですと、東へ行くあまり広くない道をまっすぐ行って突き当りを右折してしばらく行って金沢信用金庫鈴見橋支店の手前を右折、さらにしばらく行くと、↓の幟が道の左側(南側)に立っているのでそこを左折します。
画像

するとすぐ右に田井菅原神社はあります。↓
画像









もっとも、今、地図を見ると、そうではなく、右に行って左折して左折して右折の方が近かったかもしれませんが、どっちにしろ、たいして離れていません。
   途中、「田井」と表札の出たお家があったので、この付近は、今は天神町1丁目だが、かつては、今も「金沢市田井町」だけが「田井」ではなく、「金沢市天神町1丁目」とそのほかこの周辺の地域一帯が「田井」で、住人にも「田井」という名字の人が多い地域なのかな・・・と思って、しばらく、周囲の家の表札を見て回ったのですが、椿原天満宮から田井菅原神社までの間の道に沿った家で「田井」と表札が出ていた家は1軒だけでした。

画像

↑ 椿原天満宮を江戸時代においては、「田井天神」「田井天満宮」と言ったらしいのでまぎらわしいのですが、入口の石の鳥居の左側に、「田井菅原神社」と書かれた石碑が立っています。↓
画像

↑ 石碑とともに、幟にも「田井菅原神社」と書かれています。
こちらの名称は「田井菅原神社」のようです。 『わかりやすい天神信仰 学問の神さま』〔1994. (株)鎌倉新書〕に掲載の「主要天満宮名簿」に石川県では泉野菅原神社(金沢市野田町)と2社のみ掲載されている神社ですから、相当敷地も広くて社殿もでっかいか・・・・と思って行くと、そんなことはありません。 普通の神社です。

   現地での説明書きには、
≪  当神社のご神体は、菅原道真より直接賜った自画像であると伝えられる。 この自画像は、菅原道真が大宰府(福岡県太宰府市)へ左遷される途中、河内国の道明寺(大阪府藤井寺市)の伯母を訪ねた際、田邊左衛門に与えたもので、以来、田邊家では家宝として守り伝えた。
    のちの田邊喜兵衛の代に、加賀藩三代藩主・前田利常より十村役(大庄屋)と代官を命ぜられ、代々その職を継いだが、邸内に社を建て、菅原道真の自画像を祭った。 明治期には田邊家の庭園内に神社が建てられ、明治十三年(1880)に、田井の生産神(うぶすながみ)となった。
   境内には、芭蕉の「風流のはじめ奥の田植歌」との句碑が建ち、金沢に十一ある芭蕉碑の一つに数えられている。
   また、鳥居は珍しい木製の杉材の瓦葺で、福井県勝山市の平泉寺白山神社の旧鳥居と同形である。
                            金沢市   ≫
と書かれている。

    前田利家が金沢の領主になるよりも前、菅原道真が在命中に田邊左衛門が道真の自画像を、大阪府藤井寺市で、直接、本人から受け取ったということですが、その田邊さんがなにゆえに加賀国にやってきたのか、というあたりは書かれていません。 ということは、田邊さんが持っていた平安貴族の男性らしい彫刻なのか絵なのかを菅原道真だと言い、かつ、直接、本人からもらったもので、本人が作成したものだと主張したが、実際はどうかわからない・・・のかもしれない?  本人は有名人の自作と思っていたが、何でも鑑定団に頼んで鑑定してもらったらそうではなく、たいして価値はなかった・・・とか。 というよりも、今、誰々の作と言われているものは、その多くが実際にその人の作かどうかわからないものが多いし、左甚五郎なんてのは、実際に存在したかどうかもわからないらしいし、そういったものは珍しいことでもない。
    この田井菅原神社の「ご神体」の彫刻なのか絵なのかについては、大阪府藤井寺市のあたりに住んでいた伯母を大宰府に流される途中の菅原道真が訪ねた時に田邊さんに渡したというのですが、田邊さんと菅原さんはどういう関係だったのか。 どうも、そのあたりがよくわからない。
    今はこの場所は「金沢市天神町1丁目」ですが、その東隣に「金沢市田井町」があり、もともと、この付近は「田井」という地名であったらしく、「田井」という表札が出ていた家も近隣にあったわけで、田んぼの「田」と井戸の「井」で「田井」という地名・人名があったなら、田んぼのあたりということで「田邊」という名字があっても悪くなさそうであり、この付近の田邊さんが、どこかで手に入れた平安貴族の像を大事にしていた、それは誰なんだ? ときかれて、菅原道真と知っている人名を言ったところ、菅原道真から自画像をもらって・・・というお話になってしまった・・・・なんてことも、絶対にないとは言えないような・・・・。
    そもそも、菅原道真は大宰府に流される途中で、本当に河内国の道明寺の伯母を本当に訪ねたのか?  菅原道真は右大臣から大宰府の役人に左遷された・・・とはいえ、右大臣からすれば左遷であっても、大宰府の役人というのはそんなに下の方の立場ではないわけだが、大宰府に行く時は「罪人扱い」であったといったことが言われるし、たとえば、大宰府天満宮HP の「道真公のご生涯」http://www.dazaifutenmangu.or.jp/about/michizane には、≪ ご家族とも十分な別れも許されないまま京都を離れる際、ご自宅の梅の木に別れの歌を詠まれました。 【京都を離れる際に詠まれた和歌】東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ≫と書かれており、家族との別れも十分に許されないまま、大宰府に追いやられた・・・・ということですが(家族との別れの時間もないわりに、和歌よんでる時間はあったわけだが)、その割に、京都から福岡県までの途中には、菅原道真が立ち寄ってなんたらしたといったお話がある神社があっちやらこっちやらにあるわけで、「罪人扱い」の人間がそんなにあっちやらこっちやらに立ち寄ることができたのか?
    道真が立ち寄ってなんたらしたといった話のいくつかは後から創作されたものかもしれないとしても、菅原家はもともと、河内国の道明寺のあたりの出身だという説があるわけで、伯母がそこに住んでいたとしても不思議ではないし、伯母なら、ともかく、一目、会うだけということで会いに行くことを認められたということもありうると思えないこともないのですが・・・・・。 しかし、一方。 大阪市東淀川区、阪急電鉄の京都線と千里線が別れる駅の名前が「淡路」というのですが、この「淡路」という大阪市東淀川区の地名はなぜついたかといいますと、天野太郎 監修『阪急沿線の不思議と謎』(2015.4.16. 実業之日本社 じっぴコンパクト新書)には、≪・・・901(延喜元)年、政敵である藤原時平に陥れられ、大宰府への流罪に処せられてしまう。 道真が船で大宰府へ向かう途中、現在の西淡路町周辺に上陸した。 当時の淡路近辺は、千里山の榎坂辺りまで入り込んでいた海に浮かぶ島の一部であり、その周囲には大小様々な島が浮かんでいたという。 その様子を見た道真は、「ここは淡路島か」と供の者に尋ねた。 このことから、淡路という地名がついたのだという。≫と書かれている。 菅原道真の祖先の土師氏は河内国の出であったと言われるものの、菅原道真自身は京都で生まれて京都で育った人間であり、讃岐国の国司を務めたこともあったとはいえ、『阪急沿線の不思議と謎』に書かれているものが正しいとすれば、大阪市東淀川区の淡路と兵庫県の淡路島との違いもわからん男に、大阪府藤井寺市のあたりに「なつかしい伯母さま」がいたという話は、なんか嘘くさいような気もしてくる。
    だいたい、大阪市北区の東梅田と扇町の間あたりに綱敷天神社があり、神戸市須磨区の須磨寺の南のあたりにも愛媛県今治市にも綱敷天神社があって、菅原道真が船で大宰府に送られる際、港で休息しようとしても、座布団すらもないということで、船の艫綱を巻いて座布団のかわりにしたというお話があるくらいで、そんな困窮した状態の人間に、人に自画像をプレゼントする余裕なんてあったのか?・・・・という疑問も感じないでもない。
    さらに、そもそも、菅原道真は、京都・大阪から大宰府まで船で行ったのか陸路で行ったのか。 三田誠広『菅原道真 見果てぬ夢』(2013.2..28. 河出書房新社)では、「罪人扱い」であったので、船に乗せてもらえず、陸路で行ったことになっている。 片方で、船の艫綱を座布団のかわりにして休んだというお話がある神社があっちやらこっちやらにあるわけで、いったい、どっちなんだ? というと、どうも、よくわかってないみたいな感じ・・・・。
    大阪市東淀川区の「淡路」の地名が、菅原道真が淡路島と勘違いしたことからついた・・という話は、なんか、「田舎から大阪に出てきた丁稚(でっち)どんをからかう話」みたいで、なんか、そのまま信じてよいのか躊躇する。 今は昔、大阪の船場の商店に田舎から丁稚奉公にでてきたにいちゃんを先輩がからかう話として、「おい、これから福島行くぞ。準備せえ」と言うと、「え? 今から福島行くんでっか」と驚いて旅支度を始めるが、行く先は大阪市福島区であって福島県ではない。 な~んや、と思ったところに、「おい、これから、いばらぎ行くぞ」と言うので、「え、いばらぎ 行きますのか、これから?」とまたもや旅支度をすると、行く先は茨城県ではなく大阪府茨木市・・・という話。その続編で、「おい、これから淡路行くぞ」と言われて淡路島に行くのかと思いきや、大阪市東淀川区の淡路だった・・・・て、秀才 菅原道真がそんなあほな手に丁稚どんみたいにひっかかるかいな・・・。 もしかして、誰か他の人間、たいして有名でない人間が淡路島と間違えたのを面白がって「淡路」と呼んだ地名を、もっと「有名人」が間違えたことにした方がおもしろい♪ ということで、誰がええかな・・・? 菅原道真あたりがええのとちゃうか・・・ということで菅原道真が勘違いしたことになった・・・という話はありそうな感じがしないでもない。 在来木造の戸建住宅建築業の(株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ では、かつて、(株)一条ヨーロッパというヨーロッパ製の家具を直輸入する会社を持っていてスペインのバルセロナに駐在所がある、と言っていた、口で言うだけでなくカタログにも書いていたし、1992年、私が応募した時の「ビーイング」にも活字になっていた、活字になって世間一般に発行されている以上、バルセロナに駐在所がある(株)一条ヨーロッパという会社があるんだろうなあと思っていた・・・が、入社後、(株)一条ヨーロッパに所属している人というのを見ることはまったくないし、バルセロナの駐在所から帰ってきたといった人の話を聞くこともない。 どうなってんだと思って、ベテランの従業員の某さんに尋ねたら、「一条ヨーロッパなんて、最初からそんなものないですよ」と。 「では、バルセロナに駐在所があるという『バルセロナ』という地名はいったいどこから出てきたんですか」と言うと、「会社を実際よりも大きく見せるためにヨーロッパに輸入家具を扱う会社があることにしようということで、ヨーロッパのどこかに駐在所があるということにするのに、どこがいいかという話になって、オリンピックがバルセロナであったから、バルセロナがいいんじゃないか、ということでバルセロナになっただけ。 最初から、バルセロナに駐在所なんかありませんよ」て。 よく、そんな話、広めるなあ・・・、ましてや、まったくのウソッパチをよくカタログに活字にして印刷するなあ~あ・・・、長年よくもそんな嘘つき通すなあ・・・とあきれたが、「しかし、いくらなんでも、普通、会社がそこまでやりますかあ?」と言うと、「普通じゃないでしょお、一条工務店は。 何年、一条工務店にいるんですか。今頃、何を言ってんですか」と言われたのだが、そんな類で、「お~い、淡路島と間違えた人間、誰にするう? 菅原道真あたり、いいのと違うかあ?」「そうやなあ。菅原道真なら、イメージも悪うないし、勉強しいやし、悲劇の主人公で悪もんやないからええんちゃうかあ」ということで菅原道真に決まった・・・・という可能性も、なんかありそうな気もするが・・。 但し、大阪市の今の新淀川を挟んで南側の北区・福島区と北側の東淀川区には、「天神」「天満」「北野」「菅原」系の神社はけっこう多く、大宰府に流される途中の菅原道真がこのあたりで宿泊したというお話はよくあり、東淀川区東淡路の東側に東淀川区菅原という地名は存在し、菅原天満宮もあることを考えると、やっぱり、菅原道真はそのあたりに来たか。 やっぱり、いくらなんでも、(株)一条工務店の「バルセロナ」と一緒てことはないだろ、いくらなんでもお~お!!! てことか・・とも思えるが、それにしても、菅原道真がここに来てなんたらかんたらという神社が新淀川を挟んで大阪市北区・福島区と東淀川区とその付近に多すぎるようにも思うのだが。
    菅原道真から自画像をもらったという田邊さんがどういう人だったのかよくわからないし、また、右大臣に出世して羽振りがいい時の菅原さんならともかく、「罪人扱い」で流されるという人から、なんやらもらったとかいうのは、はたして、うれしいか?  そもそも、「伯母さん」にしても、「罪人扱い」で流されるという男に訪ねてこられて、はたして、うれしいか?  「そんなん、あんたなんか、来られたら迷惑やわ」とはっきり口に出さんとしても、ほどほどでさっさと帰ってほしい、巻き添えにせんといてほしい・・・て思うかも。 会社を相手に裁判やってみなさい。匿名で「がんばってください」と言ってくれる人はいても、片方で、この相手と決して仲悪くなかったはずなのに・・というヤツが、ありもしないようなことを、当人はその場にいなかったはずなのに「私は◇◇が・・・・するのを見ました」とか「証言」してみたりしますでしょ。 小早川秀秋みたいな男とか、「『女の腐った』ような男」とかいっぱい出現しますでしょ。 右大臣の道真さんなら「お友達になりたいわあ」という男や女はいても、「罪人扱い」の菅原さんに訪ねてこられても、「はっきり言って、迷惑なんですけどお~お」という態度を取られる、ということは十分考えられますでしょ。 伯母さんだって、右大臣のみっちゃんなら来てほしいけど、「罪人扱い」の道真くんに来られてもねえ・・と実は心の中で思ってたなんてことも・・・・? 藤井寺市に住んでいた伯母さんがどうたらという話も、そのままは受け取れないような気がします。
    で、菅原さんと知り合いだったらしい田邊さんは、なんで、北陸・金沢に来たのか。 前田利家は、前田家の先祖は菅原道真だと言い出したというのですが、それも、ほんまかあ・・・・?  成巽閣http://www.seisonkaku.com/ に置かれていた家紋についての説明書きには、≪ 前田家の家紋は剣梅鉢がよく知られていますが、正式には剣梅輪内(けんむめはち)、桐(五七の桐)、菊(九弁)の三つの紋がありました。 桐と菊は関白となった秀吉から贈られたものです。 ・・・≫と書かれており、前田家の家紋は、もともとは、梅が絶対的ではなかったらしい。 秀吉から贈られたという家紋、特に、桐の方は、うかつに使用すると、関ケ原で西軍の総大将でもやって徳川家康と戦ってやろうというような前田さんならともかく、関ケ原の戦いの前年に、前田利家が他界した後は、徳川家康の恫喝にやられて、ふにゃふにゃして、もはや、「徳川と戦う前田」ではなく、「徳川とともに歩む前田」「徳川と縁戚関係を結ぶ前田」になっていったわけで、いわば、アメリカ合衆国とともに歩むニッポンみたい? に「徳川さんとともに歩む前田家」になっていったわけで、そうなると、桐の紋はまずい! ということで、梅の方を多用するようになった・・・ということか・・・?。
     田邊さんは菅原さんとどういう関係だったのかよくわからないが、ともかく、菅原さんと何らかの縁があったらしい田邊さんが、なにゆえに、もともと、大阪府藤井寺市にいたのに石川県まで来たのか。 関裕二『闇の修験道』(ワニ文庫)によると、菅原氏は、もと、「土師」氏と言い、土師氏は蘇我入鹿とつながりがあった。菅原道真を左遷させた張本人は藤原時平で、藤原氏というのは、中大兄とともに蘇我入鹿を暗殺した勢力であり、藤原鎌足というのは、もともとのヤマト政権の豪族とは異なり、実は百済の皇子の豊璋が中臣氏の家系にもぐりこんだものであり、藤原氏はヤマト政権を構成してきた蘇我・物部や大伴らの諸豪族とは性質が異なり、菅原道真の左遷も、菅原道真の台頭を、蘇我入鹿の縁者と古代ヤマト勢力の復活とおそれた可能性もないとは言えないという。 蘇我入鹿が暗殺された後も、大和の中南部から河内にかけては、蘇我氏及び、藤原氏が斥けた古代ヤマト政権につながる豪族の子孫が住んでいたのであり、伯母であろうがなかろうが、藤原氏に退けられた豪族の子孫は、菅原道真がどうであるかに関係なく、反藤原であり、菅原道真が河内の道明寺のあたり、大阪府藤井寺市のあたりに立ち寄ったというのは、もしかすると、菅原氏の祖先でもある反藤原勢力を頼っていったが、頼られた側では、頼られてもそこで藤原氏を相手に戦うほどの力はなかった。 田邊さんは、頼られた南河内地方の勢力の1人だったが、反藤原であるのは間違いないので、藤原氏に退けられて左遷される道真に好意的ではあり、それゆえ、「自画像」をも受け取った。 藤原氏としては、左遷しようとした菅原道真に好意的な勢力は、やはり、気にいらない相手であり、菅原道真を大宰府に左遷したのと同様、道真の息子も全国あちらこちらに左遷しており、田邊さんも加賀国に流された。 反藤原の意識のある田邊さんは、道真の「自画像」を大事に持ち続けた・・・・といった可能性はないとは言えないのではないか。
    もしくは、田邊さん自身は菅原家と親戚とかでなく、情報が今ほど伝わらない時代において、菅原道真が南河内に来たとしても、「罪人扱い」にされて来たとはつゆ知らず、それほど難しく考えないで、「自画像」をもらったところ、権力にある藤原氏から目をつけられて、菅原道真の子供と同様に流された。田邊さんが流されたのが加賀の金沢だった・・・という可能性ならありそうな気も・・・。
    古代ヤマト政権は諸豪族の連合政権で、中臣鎌足と中大兄に暗殺された蘇我入鹿の蘇我一族は、もともと、丹波・丹後から若狭のあたりに勢力を持っていたヤマト政権を構成する主要豪族の一つだったのではないかといったことを関裕二氏は推測しているが、蘇我氏に限らず、菅原氏の祖の土師氏など古代ヤマト政権の主要豪族で反藤原勢力が丹波・丹後から北陸方面に勢力を持っている者が平安時代においても存在していたのなら、南河内地方においても、道真と同様に藤原勢力から迫害を受けた田邊さんが、自ら、北陸方面の反藤原勢力を頼って加賀・金沢まで移動した・・・ということはありえないことはなさそう。 そもそも、平安時代の藤原氏を中心とする政権が日本全国どこまで支配していたのか、支配力が及ぶ地域は広くとも、完全に支配していたのは京都近辺であって、京都から離れると影響力は徐々に希薄になっていったということはないか。 そうであれば、「罪人扱い」の菅原道真にでも好意的な態度をとるような人が、京都から近い南河内地方にいたのでは危ないと感じて、京都からより遠い地域へ移動した、ということはありえない話ではない。 持っていた「自画像」が実際に自画像であるか他の誰かが作成したものであるかにかかわらず、「罪人扱い」の者の像を持っていたという意識ではなく、もともと、反藤原であった田邊さんが、一時的にせよ、反藤原のエースであった菅原道真の像を反藤原復活の希望の象徴として持ち続けた・・・ということなら、ありえそうにも思えてくる。
    江戸時代、真田幸村は各地の大名の間でけっこう人気があったという話がある。大阪の陣で反徳川で戦って死んだ真田幸村が徳川方についていた武将の間でなぜ人気があったのかというと、江戸時代になって完全に徳川に支配されるようになった後、もともと、徳川家の家臣であったわけでもないのに、徳川に支配され、逆らうこともできないおのれ自身と違い、反徳川で奮戦した真田幸村に、戦いたくも戦えないおのれのかなわぬ思いを込めたのではないかという話をどこかで読んだのだが、「菅原道真の像」というのも、平安時代、藤原家の支配する時代において、本人がどう考えていたかにかかわらず「反藤原のエース」とも見られたこともあった菅原道真を心のよすがとして、その像を「家宝」のように持ち続けた、ということはありえないことではなさそうに思える。
    前田家の祖先が菅原氏であったかどうかはわからないが、前田利家が加賀に赴任した時、一向一揆の勢力を織田信長が倒して、柴田勝家の甥の佐久間信盛が金沢城に入って5年後に、羽柴秀吉と柴田勝家の争いで佐久間信盛は斬首され、かわって前田利家が金沢城に入ったわけだが、加賀の在地の勢力と融和しようとした前田利家とその子孫は、加賀地方で人気があった菅原道真の子孫であると実際にそうであるかないかにかかわらず名のった(大阪府出身でもないのに大阪府知事の選挙にでて当選した太田房江さんというおばさんが「阪神ファンですぅ」と名のったように?)・・・・ということはないか。 そして、反藤原勢力として、菅原道真を象徴として存在してきた加賀の勢力を大庄屋に任命することで、前田家の一員に前田家が加賀に来るより前から加賀で力を持っていた者を加賀の前田家の政権を構成する一員に取り込んだのではないか。
    そう考えると、「菅原道真の自画像」というものが、本当に菅原道真の作なのか、本当に菅原道真を描いたものなのかは別として、菅原道真と何らかの関係があった田邊さんが創設したという話は、全体がそのまま本当かどうかはさておき、なんらかの話として十分考えられる話とも思えてくる・・・・が、それだけ由緒があって、『わかりやすい天神信仰 学問の神さま』〔(株)鎌倉新書〕の「全国主要天満宮名簿」に石川県で2社のみ記載されているうちの1社にしては、敷地面積も社殿の建物の規模も大きくはない。 

    現地の説明書きに書かれている、瓦屋根が載った杉材による鳥居がこれ↓。
画像

たしかに、瓦屋根が載って鳥居というのは、私はここで初めて見ました。 鳥居の脚の内側に、1本ずつ柱の跡が残っているのは、かつての鳥居が傷んだ後、その外側に脚を建てて新しい鳥居を建てたということなのでしょうか。

    道路から入って直進して左に曲がると、拝殿↓。
画像

金沢訪問は今回が初めてで、私は冬に訪れたことはないのですが、拝殿の全面をガラスで覆っているというのは、冬場の積雪に備えて、雪がはいらないようにという配慮なのでしょうか。 JR金沢駅の東口の「もてなしドーム」(中江建築研究所。 2005年竣工)は、≪ 雨や雪の多い金沢で「駅を降りた人に傘を差しだすもてなしの心」を表現した≫(アフロ『絶対に行きたい! 世界の現代建築』2013.1.1. 中経出版 中経の文庫)というが、金沢大病院にも似たような「覆い」が入口の前にあった。訪問時は晴天であったのだが、冬場、積雪が多いことからその対策なのでしょうか。 冬、寒い北の地方にそれほど寒くない時期にだけ訪問して推測するのは、なんだか勝手な気もしますが、そういうことなのか・・・・。

画像

↑ 拝殿の屋根の梅の紋。 「天神」「天満」「北野」「菅原」系の神社では梅の紋が入っていることが多いのですが、金沢の場合、前田家が梅の紋を使用している為、天神社の梅の紋なのか、前田家の梅の紋なのかよくわからないところがあります。
   金沢城の瓦は、雪の対策として瓦に鉛をかぶせたというのですが、金沢の街を歩いてみますと、一般の家の瓦には鉛はかぶせられていないのですが、瓦の素材の選択として、雪や雨、水をはじくつるつるした性質の素材の瓦を使用しているのか、東京や大阪で和風の家、昔からの家でよく使用されてきたような和瓦とは使われている瓦が異なるように思えます。

   道路に近い側に本殿があり、拝殿は道路から遠い側にあって、道路から鳥居をくぐって直進して、向き直り、奥から道路の方を向いて参拝するという社殿の配置になっているのですが、方角を考えてみると、この敷地は北道路であり、北側から入って、奥の南側から、それより北に配置される社殿に参拝するというようにできているようです。 
画像

↑  西側から見た社殿。 北より、本殿の側。
はしご は雪下ろし用?

   椿原天満宮と田井菅原神社は、すぐ近くですが、椿原天満宮は椿原山砦であった場所だけに丘で傾斜地ですが、それに対し、田井菅原神社は平坦な場所にあります。 場所は近くとも、それぞれに別のルーツがあるようです。
   「天神」「天満」「北野」「菅原」系の神社では、「天神」社には、菅原道真ではなく、もともと、天候の神さまを祀っていた神社であって菅原道真を祀る神社ではない天神社もあり、もともとは天候の神さまを祀っていた天神社であるけれども、天神つながりで菅原道真も祀るようになったという神社もあるようで、「菅原」神社の中には、菅原道真が生まれるより前から存在した菅原氏の氏神さまの神社で菅原道真が祭神であるわけではない神社もあるようですが、多くの「天神」「天満」「北野」「菅原」神社は、祭神として菅原道真を祀っていますが、神社の名称として、「北野」を名のっている神社には、もともと、北野という場所であった所に作られた神社、お城なりその地域の中心市街地なりから見て「北の」方にあった神社についた名称である場合もあるようですが、京都の北野天満宮から勧請した神社に「北野」という名称がつく場合が多いのに対し、「菅原」という名称は、菅原氏と縁がある土地、菅原氏と縁がある人が創設した神社であることが多いように思います。 それを考えると、田井菅原神社も、河内の道明寺のあたりで、田邊さんが菅原道真から自画像をもらって・・・といった話がそのまますべて正しいのかどうかはわからないとしても、菅原道真と何らかの縁があった人が創設した、という可能性は考えられるように思えます。

    「最寄駅」というと、JRなら「金沢」駅、北陸鉄道なら「野町」という駅が最も近いことになるかもしれないが、いずれも近くない。 「桜町」というバス停がすぐ近くにあるが、私は行きも帰りも歩いて行ったので、そのバスがどこから出ているのかわからない。 時間に余裕があれば、兼六園や成巽閣(せいそんかく)のあたりから歩いて行って悪くないと思うが、時間に余裕がなくなると、行きはよいよい帰りはあせることになる。タクシーは兼六園の前あたりには止まっているが、田井菅原神社とか椿原天満宮とかは観光客がいっぱい来る場所ではないので、止まっていない。
    (2016.10.11.)

☆ 金沢シリーズ
金沢神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_1.html
椿原天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_2.html
田井菅原神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_3.html
金沢城
1.大手門から新丸公園、河北門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_5.html
2.「出窓」「石落とし」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_4.html
3.橋爪門・菱櫓・五十間長屋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_6.html
4.極楽橋、三十間長屋、本丸の森、鶴丸倉庫 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_7.html
5.石川門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_8.html
兼六園
上 琴柱灯籠・霞ヶ池・内橋亭・噴水・唐崎の松 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_9.html
中 雁行橋・根上松・山崎山・成巽閣赤門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_10.html
下 夕顔亭・瓢池・翠滝・時雨亭 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_11.html
金沢駅「鼓門」「もてなしドーム」、金沢大病院、金沢暮らしの博物館 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_12.html


☆冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り 
石川県
金沢神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_1.html
椿原天満宮(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_2.html
田井菅原神社(金沢市) 〔今回〕

千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
市川市北方町4丁目の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_2.html
意富比神社 末社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市河原子の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
子守神社 摂社天神社(千葉市花見川区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201605article_3.html
千葉神社 摂社千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html 

東京都 
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
湯島天神社(文京区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_10.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_11.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_12.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
根津美術館 庭園内 渡唐天神祠(「飛梅祠」)(港区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201603article_3.html 
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html

神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html

岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
村山天神(高山市国府町)
1上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
2村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
3村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
4あじめ峡、他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
桜山八幡宮 摂社天満神社(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html

京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
高台寺天満宮(京都市東山区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html
曼殊院天満宮(京都市上京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_4.html

大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
露の天神社(お初天神)(大阪市北区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_5.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html
綱敷天神社(大阪市北区)
1.綱敷天神とは。「北野」の由来。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_6.html
2.社殿と桜。堅魚木と千木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_7.html
3.「戦災の狛犬」、筆塚。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_8.html
4.白龍社、歯神社。綱敷天神社の周囲https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_9.html  
綱敷天神社 御旅社(大阪市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_11.html
池田市天神1丁目・2丁目 http://shnkahousinght.at.webry.info/201405/article_10.html

熊本県
山崎菅原神社(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_6.html
船場天満宮(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_7.html
手取天満宮(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_8.html

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック