金沢城 1-大手門から新丸公園を経て河北門へ

[第448回]
    金沢城を訪問しました。 金沢と言えば、兼六園・・・と多くの人は思うのではないでしょうか。 建築・住宅・インテリア関係の仕事についている者なら、成巽閣(せいそんかく)・・・と思う者と、成巽閣てなにい? と思う人とあるでしょう。 1980年代後半、木質系住宅建築業の小堀住研(株)〔→エスバイエル(株)→ヤマダエスバイエルホーム(株)http://www.sxl.co.jp/ 〕に入社した時、最初の研修で、住宅建築業の営業は、まず、住宅・建築についての知識を蓄えないとできる仕事ではないと教えられ、又、合宿研修の時、課長のMさんが、「きみらの中で、人に頭を下げるのが好きだという人間、何人いてる?」と尋ねたところ、「営業系」(営業・人事・総務・経理など)として入社した20人ほどの中で、人に頭を下げるのが好きだという者は1人もおらず、Mさんは「それなら、住宅・建築について勉強しなきゃだめだな。 お客さんは、この人に相談すればいいと思った相手にぺこぺこ頭を下げさせようとはしないものだ。 それをちっとも勉強しないで売ろうとすれば、ぺこぺこ営業やるしかなくなるわな。」と話したのだが、その後、在来木造の(株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ に行くと、営業本部長のA野T夫さんが「営業に知識なんてまったく関係ないで。 営業はアホが向いてるんや、アホが。 まったく、何やってるらあ、と思われるようなそんな人間が気さくでええんや。ぼくらも、学校出てないから気さくで人間味があるんや。そう思うやろ」と言い、「おい、そう思うだろ。思います、と言え」と言って、無理矢理、「思います」と言わされてしまったことがあった。 会社によって、考え方に違いがあるのかとも思ったが、(株)一条工務店に10年超勤めて、10年以上勤めた者が受ける「永年勤続表彰」を受けた上で考えると、A野さんは営業をやったといっても、20代の時に「社長の義理の弟として『特別扱いの営業』を創業の地の浜松でちょろっとやっただけ」であって、そもそも、「特別扱いの営業」しかやったことがない人の言うことなんぞ、相手にする方が馬鹿馬鹿しい。 小堀住研(株)の場合は、1990年くらいまでは、「知識を基におこなう営業」というスタイルをとっていて、都市部のインテリ層を客層としていたので、営業も大卒の方がよいということで、「ミサワホームあたりの営業は高卒の人が多いですけれども、小堀住研の営業は大卒の営業です。 住宅建築業の営業といっても、ミサワあたりと小堀住研では、営業という職種の社会的位置づけが違います」と言っていたということもあるが、そして、(株)一条工務店の場合、営業本部長になっていた人がそんなことを言っていただけあって、「嘘つき営業」が好き!という経営者の会社だったので、経営者がそういう人間だとそういうタイプの営業が優遇されてしまう、という傾向はあった・・・が、それなら、住宅建築業の営業という仕事は「住宅・建築・インテリアなどについて学習しないアホがいいのか」「嘘つきが『人間性がいい』と評価される業種職種なのか」というと、それは違う、あくまでも、営業本部長のA野さんが自分のようなタイプをいいと言いたいだけの話だったと思う。 1年未満で辞めた人間が言うのではない。「永年勤続表彰」を受けた私が言うのだから、間違いないはずだ。 だから、「成巽閣て何?」という営業と、「できる限り、住宅に関係がある歴史的建築物は足を運んでおのれの眼で見ておのれの心で感じ、おのれの頭で考えるようにするべきだ」と考え、「成巽閣て何?」などと言ってるようでは住宅建築業の仕事に従事する者として情けないと考える営業なら、後者の方がお客様にとっても営業成績の上においても良い営業であるはずだ。ジャン=ジャック=ルソーは、「特殊意思」「全体意思」「一般意思」ということを言っていた。国民ひとりひとりの考えが「特殊意思」であり、特殊意思の総合であるものが「全体意思」である。しかし、国の進むべき方向は全体意思に沿って判断すれば常に正解というわけでもない。全体意思を離れて、国の進むべき方向を考えたものが「一般意思」だというのであるが、この「一般意思」というのは曲者で、全体主義的政治家が「一般意思」ということを言いだした時、それは、その政治家の特殊意思でしかないものを「一般意思」と強引に主張しているという場合がでてくるわけだ。 (株)一条工務店で営業本部長のA野さんが「一条工務店のやり方」とか言い張っていたものは、しょせんは、A野さんのやり方、A野さんの特殊意思でしかなかった。(株)一条工務店には2000年頃においては全国で千人を超える営業がいたわけで、A野さんが「一条のやり方」と主張するやり方でないやり方で営業をおこなっている人間の方がむしろ多かったのではないかと思う。厳密に統計を取ったわけでもないが、A野さんがいいというやり方、「白痴営業」「嘘つき営業」というのは、それは、A野さんの好みのやり方でしかなく、売れる営業のやり方でも、一条工務店の実際にいる営業の多数派のやり方でも何でもなかった。“よしんば”多数派のやり方であっても、多数派のやり方でやる必要はない。営業は、違法な行為や反社会的な行為でない限り、自分が売れるやり方でやればよいのであり、他の営業にはできないが自分にはできるというものは大いにやるべきなのだ。それがわからないような営業本部長は、「A野部長の言うことなんて聞いちゃだめですよ。なにしろ、あれは、アホですから」と従業員に言われるようになる。 なっていたのだ。 そういう「アホ営業」「嘘つき営業」が好きだ♪ という営業も同社にはいたが、いたとしても、そうでない人間もいたわけであり、同社の従業員の一部分、遠州地方を中心とした一部分の営業がそうであっても、全体として見ればそうではないのに、おのれの好みのタイプを、嘘をついて売るのは嫌だ、やっぱり、営業というものは、顧客の相談にのってそれに対応するのが営業の仕事のはずだと考える人間を苛め、排斥しようとする男が営業本部長としてやる行為は、それこそ、会社の「一般意思」に反する行為なのだ・・・・が、それがわからんあたりは、やっぱりアホやな・・・ということになるが、オーナー企業というのは、そんな会社が少なくないようだ。

    金沢城と兼六園と成巽閣はどういう関係かというと、加賀国を一向一揆が支配していた時代、金沢城の場所には尾山御坊(金沢御堂)といって浄土真宗の寺院があった。寺院といっても、一向一揆が加賀国を支配していたので、そこは武装された城のようなものでもあったらしい。織田信長が加賀を責め、佐久間信盛が尾山御坊を陥落させ、城主となったが、柴田勝家の甥であった佐久間信盛は賤ケ岳の戦いで捉えられ斬首され、替わって前田利家が城主となり、秀吉の棄教令に従わず流浪の身となった高山右近を客将として呼び、右近が築城に尽力し、その後、息子の前田利長から利常と引き継がれた。兼六園の場所は最初は金沢城の出城のようになっていたが、後に、金沢城に近い地域は金沢城主の庭園となり、金沢城から遠い南側に藩校が建てられたりしたが、さらに後に、藩校は移転し、今の兼六園全域が庭園として整備され、その南のあたりに、13代藩主 前田斉泰(なりやす)が母 真龍院の隠居邸として作り、金沢城の巽の方角にあったことなどから「巽御殿」と名づけられたが、明治に入り、真龍院が他界後、「成巽閣」と改名された、というものらしい。
    金沢城は、東京とか大阪とか他の地域から行こうとすると、どうやって行くかというと、鉄道なら金沢駅。高速バスなら金沢駅の西口にバスは着く。飛行機なら石川県では小松市に空港がある。 江戸城(皇居)はJRの東京駅の丸の内側で降りてまっすぐ行くと見えてくる。JR甲府駅の南口を降りてすぐの所に、甲府なのに舞鶴城とはこれいかに、という舞鶴城がある。そんな感じで駅のすぐ近くならわかりやすいのだが、金沢城は駅から少しある・・・・が、時間に余裕があれば、歩いてみるのも悪くない・・・が、余裕がなければあせる、というくらいの場所にある。
    「四神相応の地」という考え方が家相にはあり、北に山があり、南が開けていて、西に大通りがあり、東に清い流れがあるという地が良いというのだが、太平洋側の街ならそれもいいかもしれないが、北陸など日本海側では、まあ、一般的に南に山があるのでそうもいかない。  金沢城の場合、大手門は北側にある。 今は、石川門という搦め手が、金沢城に観光で行く人にとっては主要な入口になっているらしいが、それは、石川門の向かいに兼六園の入口があるので、兼六園と金沢城の間の門であり、兼六園のさらに南側に成巽閣などがあり、石川門と兼六園の間の道を西に行ったあたりに金沢21世紀美術館などがあること、石川門が重要文化財にも指定されている金沢城で今も残っている昔からの建物であること、大手門の方が直線距離では金沢駅に近いが、近いといってもすぐ目の前ではなく、兼六園と金沢城との間にある「兼六園下・金沢城」というバス停まで金沢駅東口からバスが出ているということがあるからのようだ。
    大阪でも大手町のあたりには、府庁舎があったり県警本部があったり、NHKがあったり(NOBK・・・・NIHON OSAKA BANBATYO no KADO 日本 大阪 馬場町の角)、そういう役所か役所もどきがあるが、金沢でも大手門の脇のあたりに検察庁があってその後ろに裁判所がある・・・が、市役所は金沢城の南側、石川門より西側にあり、県庁は「金沢駅西口からまっすぐ行って左側」にある。

    それで、だ。 多くの人と同じく、石川門側から行こうかとも思ったのだが、私は、何といっても、裏口から入るというのが嫌いなのだ。 石川門を入ってすぐの所にある休憩所で無料でもらえる「金沢城の見どころ」には、「石川門(重要文化財)」として≪ 金沢城の搦手(からめて)(裏口)門で、高麗門の一の門、櫓門の二の門、続櫓と二層二階建ての石川櫓で構成された枡形門で、金沢城三御門のひとつです。・・≫と書かれている。石川門に恨みはないが、重要文化財と言えども、やっぱり、「裏口門」なのだわ。私は、世の中で、何が一番嫌いかといって、裏口入学ほど嫌いなものはない。 やっぱり、大学に入ろうと思えば、ID野球式学習法でもドラゴン桜式受験術でもとって正規に試験に合格して入るものだと思うのだ、私は。裏口入学するヤツとは肌が合わんのだ。だから、お寺でも神社でもお城でも、正門から入りたい。やましいところがなければ正門から入るべし! ということで、今回も大手門から入った。何かと裏口から入るヤツ、嫌いやねん、ほんまあ~あ!↓
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↑ 大手門口の右脇、大手堀。 右よりにあるプランターの花、悪いとは言わんが、この写真で見ると、ちょっとこの場所にはミスマッチのような気もせんでもない。
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↑ ここから入るのが「大手門」
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↑ このあたりに「大手門」があったらしいが、今現在は、門としての建物はない。

   金沢城は、金沢御堂(尾山御坊)の後に作られたということだが、浄土真宗の金沢御堂(尾山御坊)は今の金沢城公園の範囲そのものだったわけでもないらしい。 又、一向一揆の拠点であったとはいえ、完全に政治的軍事的拠点であって宗教的施設でなかったわけでもないらしい。鳥羽正雄 監修・日本城郭資料館 著『日本名城100選』(1969初版。 1972.2.10.8版 秋田書店)には、≪ 御坊が布教に努めたので、金沢は一向衆徒の相集まるところとなり、門前町を成した。 御坊も次第に空堀をうがち柵を巡らすようになり、城塞化した。 衆徒の中に武力を備えたものも現れ、御坊を守護する武士団を配置し、外敵襲来に備えさせた。こうして尾山御坊は年々発展し、金沢は宗教政治の中心地として加賀に臨んだ。 ≫とある。 最初は、宗教的施設であったが、徐々に城塞化していったらしい。
   又、≪ 尾山御坊の址はちょうど現在の金沢城の本丸に相当するといい、利家大修築により、ずいぶん帰られてしまった。≫ ≪ 佐久間信盛が加賀を平定した功により、信長が信盛に石川・加賀二郡(13万石)を与え、尾山御坊に封じた。 まだ一向衆徒の残党が暗躍し、おだやかならぬ時代だったので、盛政が御坊を拡張し、土堤、空堀を幾重にも巡らし「尾山城」と改めた。 尾山城は、現在の金沢城よりやや小規模だったらしく、西方の西町口を大手としたそうだ。≫ とある。 柴田勝家の甥である佐久間信盛が賤ケ岳の戦いで捉えられ斬首された後、金沢城の城主となった前田利家と長男 前田利長、三男の前田利常の3代の間に、前田家に寄食した築城に長けた高山右近の尽力などで城は拡張され、大手門も今の位置になったらしい。




↑ 「 i 」マークが大手門の場所。

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↑ 新丸広間 と 金沢城・兼六園管理事務所。
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↑ 新丸広場 と 河北門。河北門は復原。




↑ 「 i 」マークが河北門の場所。
兼六園との境目で重要文化財に指定されている昔からの建物である石川門の側から入る人が今は多いようだが、やっぱり、こちらから入る方が正解だと思いますね。 こっちも悪くないと思う。

    金沢城は、加賀百万石の城と言われるわけだが、しかし、加賀前田家というのは、織田信長の家臣の前田利家が祖というものの、前田利家は豊臣政権では五大老で徳川家康に次ぐ立場にあり、秀吉としては家康の対抗勢力として期待したにもかかわらず、豊臣秀吉が他界した翌年、関ケ原の戦いの前年に前田利家が他界すると、徳川家康から恫喝を受けると、あっさりと徳川のにゃんこか飼い犬みたいになってしまって、『利家とまつ』とかいうテレビ番組をNHKがやったが、おしどり夫婦だったとかなんかそんなこと言っているみたいだが、徳川に脅しをかけられて屈従してからは、まつ は秀吉への義理よりも前田家を守る為、人質になるために江戸まで行くが、結局、まつ が産んだ長男の利長(妻の永姫は信長の娘)は病気で倒れ、やはり、まつが産んだ次男の利政は関ケ原の戦いの時の動きが長男と合わず隠居してしまい、まつ の侍女であった千世が産んだ利常が後を継ぎ、利常の子孫が前田家を継いでいくことになるわけで、『利家とまつ』なんてテレビ番組を作ってもらったところで、まつ さんとしては、ありがたくもない、これじゃ何やってることかわからんて感じ。

    河北門は立派な門であるが、↓
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↑ なんか見ると、いい木を使ってるなあとは思うが、なんか、新しそう・・・・て感じがします。 後で石川門の写真を掲載しますが、それと見比べていただくと、昔からある石川門と復原された河北門では、やっぱり、昔からあるものと復原されたものとは違うのがわかります。 石川門の脇の入口休憩所で無料でもらえる「金沢城の見どころ」によると、河北門は≪金沢城の実質的な正門≫だそうで、≪平成22年4月に復元され、内部が一般公開(無料)されています。≫という。 平成22年は2010年。 今から6年前。そりぁ、新しいわな。
    ≪ 金沢城はたびたびの火災に遭ったものの、利家入城以来三百年、一度も戦火の洗礼を受けることはなかった。 太平の世を十分に満喫した城が、金沢城であったといえよう。≫( 武田鏡村「利家、右近、利常が築いた百万石の城」 〔 西ヶ谷恭弘(にしがや やすひろ)監修『新版 名城を歩く3 金沢城』2009.11.13.PHP研究所 PHPムック 所収〕 )というように、金沢城の全身の一向一揆が支配していた金沢御堂(尾山御坊)は織田信長と戦闘をおこなったわけですが、前田利家が城主となって以降は、金沢城は整備されても、どこかの武将と戦闘を交えるということはなく明治維新にまで至ったわけで、楠戸義昭「前田三代を支えた女性たち」〔西ヶ谷恭弘(にしがや やすひろ)監修『新版 名城を歩く3 金沢城』2009.11.13.PHP研究所 PHPムック〕によると、前田利家の長男 利長は、徳川家康から恫喝を受けた際にも、母の まつ を人質として江戸に送り、その交換条件として、徳川秀忠の娘で家光の姉である数え年3歳の珠姫が7歳の利常(3代)と婚約し珠姫が金沢に移り、その後も、4代の光高(みつたか)の妻 大姫は水戸光圀の姉、5代の綱紀(つなのり)の妻は保科正之の娘と、徳川家と縁組を続けて縁戚になり、金沢城内に東照宮を建てるなど、徳川とつながりを持つことで加賀百万石の領主の立場を守ってきたわけで、外様大名といっても、徳川と敵対してきたのではなく、徳川の縁戚として「御三家に準ずる親藩」のような立場で歩んで来たのであり、金沢城では戦闘は行われなかったはずであり、又、≪ 加賀前田氏の金沢は、戦災を免れた古い街である。 姫路、名古屋、岡山などのめぼしい都会は、空襲を受けて城下の古い街が大部分を喪ってしまったが、金沢は爆弾一発すら落とされなかった。 京や奈良に匹敵するほど、古い街の色彩を濃厚に残している。≫というのだが、そのわりには、天守閣はないし、本丸も残っていないし、昔からの建物で残っているのは、重要文化財に指定されている「石川門」、「三十間長屋」、「鶴丸倉庫」などで、橋爪門・河北門も復元であるのは、な~んでだ? ・・・・≪ 金沢城は、その地形的な関係からしばしば落雷に見舞われ、火災に遭っている。≫(武田鏡村「名城物語 利家、右近、利常が築いた百万石の城」〔西ヶ谷義弘監修『新版 名城を歩く3 金沢城』(PHP研究所)所収〕。 落雷による火災で建物を失ってきたらしい。

    兼六園で説明係のおじさんが、団体さんに説明をしているのが聞こえたのだが、兼六園は市街地にあるにもかかわらず、兼六園からはビルが見えない、というのは兼六園は台地の上にあるから周囲のビルよりも高い地盤の上にあるので、市街地にあっても周囲のビルは見えないという長所がある、というのだ。 なるほど、そういえば、金沢城だけでなく兼六園も周囲よりも高い場所にある。 しかし、長所は同時に短所にもなりかねないようだ。 平坦な土地の中の丘に設けられた建物は落雷の被害に合いやすいということか。
≪  ・・・慶長7年(1602)に天守が落雷で焼失するも、天守台には小規模な三重櫓を再建しただけで大規模な天守は再建していない。 これも徳川幕府に対して他意のないことを示しているわけである。 ≫(下條一郎「金沢城の歴史」 〔西ヶ谷恭弘監修『新版 名城を歩く3 金沢城』2009. PHP研究所 所収〕 )と、江戸時代において、前田家が加賀百万石を維持して生き抜くため、城郭を堅固にするよりも徳川家と縁戚関係を結ぶとともに徳川に睨まれないようにという努力を尽くしてきた結果、金沢は戦災に遭わなかったにもかかわらず、天守閣は金沢城にはない、ということだ。
   天守閣は1602年、関ケ原の戦いの2年後、まだ、大坂城に豊臣秀頼は存在し、まだまだ、徳川の天下が継続するかどうかは明らかでない時期、豊臣とのつながりもある前田家が、豊臣と徳川の戦闘になった時にどちらにつくのか、徳川としては疑心暗鬼な時期に焼失して、それ以来、三重櫓を再建しただけにしたとして、本丸も二の丸も今は存在しないのはどうしてかというと、≪ 金沢城は前述の落雷をはじめとして江戸時代に大小三十回もの火災記録があり、本丸、三階櫓も焼失している。 現在の石川門も天明八年(1788)の再建である。 ≫(下條一郎「金沢城の歴史」 〔西ヶ谷恭弘監修『新版 名城を歩く3 金沢城』2009. PHP研究所 所収〕 )ということで、関ケ原の戦いのすぐ後に天守を火災で失った後、三重櫓を建てただけで天守は立てずに江戸時代を過ごしたのみならず、火災で多くの建物を焼失してきたらしい。
   火災に遭ったのは江戸時代だけではないらしい。 鳥羽正雄 監修・日本城郭資料館 著『日本名城100選』(1969初版。 1972.2.10.8版 秋田書店)には、≪ 江戸期のいくつかの火災、明治十四年(1881年)の失火などにより、金沢城の大部分が燃え尽くし、金沢大学の敷地に化してしまった。 本丸は付属植物園、二の丸は本部事務局、三の丸は学生ホールという具合に、城の代わりに大学の諸設備が城域を独占(ひとりじめ)にしてしまった。≫と書かれている。 もっとも、鳥羽正雄監修『日本名城100選』の8版が発行された1972年、大阪万博の1970年の2年後、私が中学生であった時には、金沢城の二の丸に金沢大学の本部事務局、三の丸に学生ホールがあったらしいが、今現在は、二の丸跡にも三の丸跡にも金沢大学の施設はなく、金沢大学は他の場所にある。 本丸の跡は、「本丸の森」「本丸園地」として≪ 約550種もの植物を含む金沢城の緑は、都市の中の緑として守り育てられ、豊かな自然を保っています。・・・≫(現地での説明書き)ということで、森林であり、木の名前が書かれた札が樹木に貼りついていたりするが、植物園というわけではない。

    今は昔、1970年代後半、高校を卒業後、ローニン中だが、父の親友だという医者屋やっているおっさんMが、「患者」を薬漬検査漬毒盛で稼いだカネでドバカ息子を関西医大http://www.kmu.ac.jp/ に金権裏口入学させたというのを自慢しておったのだ。 「思考が柔軟やから裏口入学なんじゃ」とか言うておった。なんで、裏口入学する人が「思考が柔軟」なのか、よくわからなかった。そんなに「思考が柔軟」なら、その柔軟な思考力を生かして、狂大でも犯大でも現役で入ればいいのに。なんで、関西医大なんて、その時、聞くまで名前も知らなかったような学校に行かなきゃならんのか、さっぱりわからんかった。 そのおっさんから私は言われたのだ。「きみなんかは思考が堅いから、わしとかわしの息子とかのようにはできんのじゃろ」とか言われたのだが、思考が堅いとか柔らかいとかの問題ではなく、我が家には裏口入学するようなコネもカネもないからできなかったのだし、同時に、そんな汚らわしいものしなくても、正規の試験を受けて合格するだけの学力が私にはあったから、東大とか京大とかに合格するかどうかというと、相手がある程度以上手ごわい以上は絶対に合格できるということはないが、少なくとも、裏口入学なんぞしなくてもどこかは行ける所があったわけで、裏口入学する必要は別になかったのだ。 それより、なんで、裏口入学したドバカ息子の親に威張られなければならないのか、なんで、「患者」を薬漬検査漬毒盛したカネでドバカ息子を裏口入学させたおっさんが威張るのか、それがわからなかった。今もさっぱりわかりまへ~ん! そういうことを言うと、そのおっさんMから「思考が堅い」とか言われるだろうけれども、なんで、裏口入学する人が「思考が柔軟」で正規の試験に合格して大学に行こうとする人間が「思考が堅い」だの何だのと文句言われなきゃならんのか、ぼく、頭わるいのか、さっぱりわからへん。そんなもん、わかる人て、頭がいいのか悪いのか。頭がいいのなら、なんで、正規の試験で合格して入学しないのか、さっぱりわかりまへ~ん。
    それで、だ。 重要文化財に指定されている石川門は、実は、搦手門、裏口門なのだ・・・・が、だからといって、石川門から入る人が裏口入学しているわけでもないのだが、大手門から入って思った。 やっぱり、金沢城も大手門から入った方がいい。 2回目以降の訪問の時にどこから入ってもいいけれども、初回は、できるだけ、大手門から入った方がいいと思った。 搦手から入って正門から出ても正門のあたりを見ることができるのではないかと思う人もいるかもしれないが、登山でも、同じ道をピストン登山するよりも、登りと下りで別のルートを通った方がおもしろいと言う人がいるのだが、たとえ、同じルートを往復しても、登りに見えるものと下りに見えるものは違うのだ。 お寺でも神社でもお城でも、行きに見えるものと帰りに見えるものは違う。 金沢城も、初回の訪問については、搦手から入って正門から出るのではなく、正門である大手門から入って、出るのは正門から出ても搦手から出ても、それはいいと思う。 これから、金沢城に訪問される方には、私は大手門から入ることをお勧めする。
    『タビッテ 北陸 金沢』(2016.7.昭文社)には、「お勧め度」という欄があって、☆3つ か ☆2つ のどちらかが書いてあり、金沢城公園、兼六園、金沢21世紀美術館は☆3つ、成巽閣は☆2つとなっているが、こんな評価はくだらん。 しょせん、どこかの誰かが決めた評価であり、人がどう評価しようが自分がいいと思ったものがいいのだ。 私は、金沢城公園については、大手門側から入ることを☆3つでお勧めする。

    次回、金沢城の「出窓」とか橋爪門・橋爪門続櫓・五十間長屋などについて述べます。

    それにつけても、裏口入学するヤツは嫌いだ。 裏口入学は不潔よお~お、不潔、ふけつ、不潔、フケツ!!!  裏口入学するバカ息子・アホ娘のおかげで、いったい、何人の患者が薬漬検査漬毒盛されて泣いたことか。 バカ息子、ちょっとは考えてみなさい! ・・・いや、考える頭なんてないか。 そういうことを気にしない「思考の柔軟さ」を持ち合わせているか・・・・。
そういうのって、「思考の柔軟さ」と言うべきなのか???

※ 石川県HP 金沢城公園 http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/
石川県HP 兼六園 http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/index.html
成巽閣HP http://www.seisonkaku.com/

   次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_4.html 、出窓・石落とし について。

    (2016.10.16.) 

☆ 金沢シリーズ
金沢神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_1.html
椿原天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_2.html
田井菅原神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_3.html
金沢城
1.大手門から新丸公園、河北門  〔今回〕
2.「出窓」「石落とし」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_4.html
3.橋爪門・菱櫓・五十間長屋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_6.html
4.極楽橋、三十間長屋、本丸の森、鶴丸倉庫 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_7.html
5.石川門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_8.html
兼六園
上 琴柱灯籠・霞ヶ池・内橋亭・噴水・唐崎の松 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_9.html
中 雁行橋・根上松・山崎山・成巽閣赤門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_10.html
下 夕顔亭・瓢池・翠滝・時雨亭 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_11.html
金沢駅「鼓門」「もてなしドーム」、金沢大病院、金沢暮らしの博物館 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_12.html


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