金沢城 4-極楽橋・三十間長屋・本丸の森・辰巳櫓跡・丑寅櫓跡・鶴丸倉庫

[第451回]
   大手門から新丸広場を通り河北門をくぐり、三の丸広場から橋爪門をくぐり、二の丸広場まで来ました。やっぱり、お城も大学も正規の入口からはいるもんだ♪ そうであってこそ、このお城はかつてどうなっていたのだろうという思いにふけることもできる♪ 大学だってそうだ。 真面目に試験受けて通ろうとすれば、どんなに努力したって、相手が手ごわければ落ちてしまうことだってあるが、落ちたら落ちたで、真剣に努力したことについては人が認めようが認めまいが自分自身にそれだけの努力をしたのだという矜持がある。
   ・・・・で、その二の丸広場から次は本丸の方へ行くのですが、その間に空堀があって、その堀を渡る橋の名称が「極楽橋」 。↓
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↑ 橋の向こうに見える建物は、重要文化財に指定される三十間長屋。
  南海電鉄高野線の終点の駅の名前が「極楽橋」。 極楽橋からケーブルで高野山に登ることができる。 そういう場所につく名称がなにゆえにお城についているかというと、それは、金沢城の前身が「金沢御堂」「尾山御坊」と呼ばれた浄土真宗のお寺だったからのようです。
   ≪ 尾山御坊の址はちょうど現在の金沢城の本丸に相当するといい、利家大修理により、ずいぶん変えられてしまった。 本丸と二の丸との空堀に掛かる極楽橋も名前がなんとなく寺くさく、御坊に参詣する宗徒が日本海に沈む夕陽を拝しながら渡ったその名残りだろう。≫(鳥羽正雄 監修・日本城郭資料館 著『日本名城100選』(1972.2.10.8版 秋田書店)という推測はあたっているのかもしれない。 今、本丸の建物はないわけだが、「本丸の森」「本丸園地」に金沢城の本丸があったとともに、それより前には浄土真宗のお寺がそこにあった場所だったわけだ。
   ≪ ・・現在の金沢の基を作ったのは、蓮如上人である。 蓮如上人の北陸巡錫(じゅんしゃく)の砌(みぎり)、この地の本願寺門徒が、小立野台に寺院を築き、尾山御坊(金沢御坊)と名づけた。 創立の時期には諸説あるが「越賀雑記(加賀記)」に「延徳年中に、加州尾山に本願寺造営す、本寺山科にありて実如上人御代、蓮如上人御隠居御存命」とある。 延徳年間創立の説が最も有力のようだ。
   御坊が布教に努めたので、金沢は一向衆徒の相集まるところとなり、門前町を成した。 御坊も次第に空堀をうがち柵を巡らすようになり、城塞化した。 衆徒の中に武力を備えたものも現れ、こうして尾山御坊は年々発展し、金沢は宗教政治の中心地として加賀に臨んだ。 ≫と、鳥羽正雄 監修・日本城郭資料館 著『日本名城100選』(1972.2.10.8版 秋田書店)には書かれているのですが、この文章に従うならば、「金沢御堂」「尾山御坊」は、最初から一向一揆の勢力の要塞であったというわけではなく、最初は浄土宗のお寺であり、それが宗徒の中にも武力を備えた者がおり、次第に要塞化していったということのようです。



   極楽橋を渡って階段を登った所にあるのが、重要文化財に指定されている「三十間長屋」です。↓
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↑ ≪ 二層二階の多聞櫓で、安政5年(1858年)に再建されました。 倉庫として使われた建物で長さは26間半です。・・・・≫(「金沢城の見どころ」) ということで、何の建物かと思いましたが、もともとは、倉庫として使われた建物のようです。
   三重間長屋と石川門の内部は、普段は見ることができませんが、「重要文化財の特別公開」として、2016年10月は土日と11日の祭日、11月は土日と3日・23日の祭日に公開されるらしく、その日に来ることができればよかったのですが、そうでない日に来ましたので内部を見ることはできませんでした。

   鳥羽正雄 監修・日本城郭資料館 著『日本名城100選』(1972.2.10.8版 秋田書店)には、≪ 江戸期のいくつかの火災、明治十四年(1881年)の失火などにより、金沢城の大部分が燃え尽くし、金沢大学の敷地に化してしまった。本丸は付属植物園、二の丸は本部事務局、三の丸は学生ホールという具合に、白の代わりに大学の諸設備が城域を独占(ひとりじめ)にしてしまった。・・≫と書かれているが、1972年の時点ではそうだったのかもしれないが、それから44年経ち、今、二の丸に金沢大学の本部事務局はないし、三の丸に学生ホールはなく、金沢大は他の場所に引っ越したようです。 本丸に付属植物園はないが、「本丸の森」として、≪ 約550種もの植物を含む金沢城の緑は、都市の中の森としてまもり育てられ、豊かな自然を保っています。 「本丸の森」には多くの木々や山野草が茂り、モリアオガエルが産卵します。 さらに豊かにして後世に伝えなければならない貴重な財産です。≫(現地での案内書き)となっています。 この本丸跡は、かつて、金沢城の本丸があったらしい所であるとともに、「尾山御坊」「金沢御堂」があった場所でもあり、そして、今は「本丸の森」として多くの植物・動物が生息している。 過去のある時期の状態に何でも戻そうとする人がいますが、本丸の森はこの状態のままで維持した方がいいのかもしれませんね。 ↓
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↑ 中央の木に「クロマツ」と書かれた札がついていますが、幹を見ると赤っぽいので「アカマツ」かと思ったのですが、どちらでしょう。

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↑ 「辰巳(たつみ)櫓跡」。 金沢城の南端。
≪ ・・慶長7年(1602)に天守が落雷するも、天守台には小規模な三重櫓を再建しただけで大規模な天守は再建していない。これも徳川幕府に対して他意がないことを示しているわけである。≫(下條一郎「金沢城の歴史」〔西ヶ谷恭弘監修『新版 名城を歩く3 金沢城』(2009. PHP研究所 PHPムック)というのですが、もとより、金沢城とその南の兼六園は台地の上にあり、地べたの位置からでもこのように見えるので、軍事戦略上は、天守閣は特に必要なかったのかもしれません。 ↑見てください。この見晴らしを考えると、少なくとも、この方向には、天守閣がなかったとしても、別に困りませんでしょ。

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↑ 「丑寅(うしとら)櫓跡」

   「本丸園地」をぐるっとまわってくると、重要文化財に指定される「鶴丸倉庫」(金沢城土蔵)が見える。↓
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↑ ≪ 城郭内に残っているものとしては国内最大級の土蔵です。 武具が保管されていました。 幕末の1848年に竣工し、明治以降は、陸軍によって被服庫として使われていました。 石板を貼った外壁など、櫓や城門などとはデザインを変えています。 ≫(「金沢城の見どころ」)
    なぜ、「鶴丸」と言うのかと思ったのですが、「新丸」「三の丸」「二の丸」ときて、「本丸」と「三の丸」との間、橋爪門から石川門の方向、東に続く塀と堀より本丸側と二の丸と本丸の間を「鶴の丸」と言うようです。
    しかし、金沢城も、明治維新までにおいて戦闘がそこでおこなわれることもなく、第二次世界大戦の間も空襲に遭わなかったわりに、落雷と火災で多くの建物を失い、今、重要文化財に指定されている建物というと、搦手門・裏口門の石川門と倉庫の鶴丸倉庫・三十間長屋の3つというのは、せっかく、戦災に遭わなかったにしては、なんとも・・・・。

   ≪ 嘉永元年(1848)に建てられた武具土蔵で、石川門、三十間長屋とともに城内に残る藩政期の数少ない建物の一つ。 全国の城郭内土蔵の中でも最大であり、腰の石貼りや窓回りなど意匠的にも優れた遺構として、平成20年(2008)に国の重要文化財に指定された。
   明治以降、軍隊の被服倉庫として利用・修理されているが、基本構造は創建時のままである。≫(現地での説明書き)
   明治維新が1868年。1848年というと、その20年前。 「一(1)番(8)弱(48)いぞ、万国の労働者、団結せよ」で、マルクス・エンゲルス『共産党宣言』が発表されたのが1848年。この鶴丸倉庫が建てられたのと同じ年というのか『共産党宣言』が発表された年と同じ年にこの鶴丸倉庫は建てられたわけです。だから、昔からの建物といっても、そんなに昔々その昔ではないわけです。 
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↑ この「腰の石貼り」ですが、石の色合い・模様が見えてきれいといえばきれいなのですが、城の石積みもそうですが、今現在は機械での「カッター」があって、ほぼ正確な長方形に切ることができるようですが、江戸時代においてはそういう機械はないでしょうから、「野面(のづら)積み」といった自然な石をそのまま生かした積みかたならできたとしても、たとえば、この鶴丸倉庫の向かい(北西側)の↓の石積みのような積みかたならできたとしても、↑このような長方形(表から見ると。積む段階では直方体なのでしょう。)にきっちりと切ったものを積んでいくということができたのか。 金沢城の石積みでも表面で見ると長方形に積まれている所がありますが、そういった所は、最近、造りなおしたものなのかと思ったのですが、そうではなく、奈良・平安の昔ではなく江戸時代といっても明治維新の20年前の江戸時代ですが、その時からのもののようです。
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↑ 鶴丸倉庫の北西側の石積み。

  次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_8.html 、石川門に行きます。

  (2016.10.16.)

☆ 金沢シリーズ
金沢神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_1.html
椿原天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_2.html
田井菅原神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_3.html
金沢城
1.大手門から新丸公園、河北門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_5.html
2.「出窓」「石落とし」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_4.html
3.橋爪門・菱櫓・五十間長屋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_6.html
4.極楽橋、三十間長屋、本丸の森、鶴丸倉庫 〔今回〕
5.石川門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_8.html
兼六園
上 琴柱灯籠・霞ヶ池・内橋亭・噴水・唐崎の松 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_9.html
中 雁行橋・根上松・山崎山・成巽閣赤門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_10.html
下 夕顔亭・瓢池・翠滝・時雨亭 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_11.html
金沢駅「鼓門」「もてなしドーム」、金沢大病院、金沢暮らしの博物館 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_12.html

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≪  まず認識しなければならないのは、医学部といっても国立大学の医学部と、私立大学の医学部とはぜんぜん別の世界だということだ。
   国立大では金もコネも入試に影響しない。 純粋に学力だけの勝負で受けられる。 しかし、私立の医学部は金とコネがないと絶対に受からない。 そこが大きな違いだ。
   どうしても医学部に進みたい。しかし、国公立大学には合格できる学力はない。 そういう人には選択肢がふたつある。 まずひとつは、入りたい大学の教授以上の人間にコネがあること。 そして、入学に際して受験も含めて2000万円を用意できるかどうか。
   私立医大の受験に偏差値はあまり意味がない。 大学入試案内などに載っている合格ラインの目安は通用しないということだ。 学力が合格ラインであっても、コネがなくては絶対に合格できない。
   たとえ三流の医大でも、学力だけでは合格できないのだ。 学力で合格できるのは、東大に合格できるだけの学力がある人間だが、もっとも東大に合格できるのに三流医大に進む人はほとんどいないだろうから、現実的に学力だけでは絶対に合格できないということだ。
   だから、私立の医大の学生はほとんどが親が医者が多い。親が医者でなければなかなかコネをつけるのは難しいからだ。
   もうひとつの選択肢は、医学部に進むのはあきらめることである。
   僕が考えるには、コネがない人は私立の医学部は絶対にあきらめたほうがいいということだ。そうしないと人生の貴重な時間を浪費することになるからだ。 ・・・・
   医学部に入ったつくづく思ったことは、自分の実力以外の部分で自分が評価されるということが、いかに屈辱に満ちたことかということだ。
   その屈辱の第一歩が入学試験だった。 ≫
(寺岡元邦(某大学病院医局員)『アブない大学病院―これじゃ患者はたまらない!』1993.11.5. KKベストセラーズ <ワニの本> ↑)

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