金沢城 5-石川門。高麗門の一の門・石川櫓・櫓門の二の門。「切石積」と「粗加工石積」。「出窓」他

[第452回]
   金沢城の5回目。 搦手門である石川門ですが、今回、私は大手門から入って河北門をくぐり三の丸、橋爪門をくぐって二の丸を経て本丸の森を通り鶴丸倉庫の前を通って三の丸広場に戻り、石川門にたどりついたのですが、門は出る時と入る時とで見え方も違うと思うのですが、入る時の方が主で出る時の方は従であると考え、石川門に入る方から写真は掲載したいと思います。
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   この場所のどの部分が「石川門」なのだろうと最初は思ったのですが、石川門を入ってすぐの入口休憩所で無料でもらえる「金沢城の見どころ」には、「石川門(重要文化財)」として、≪ 金沢城の搦手(裏口)門で、高麗門の一の門、櫓門の二の門、続櫓と二層二階建ての石川櫓で、金沢城三御門のひとつです。 天明8年(1788年)に再建されました。・・・・≫と出ており、「高麗門の一の門」「櫓門の二の門」「続櫓」「二層二階建ての石川櫓」の4つの部分から構成される全体が「石川門」のようです。 もうひとつ、「高麗門の一の門」から「櫓門の二の門」に行く間で、L型に曲がるようになっており、敵が攻め入った場合でも一直線に中に入れないようにという配慮かと思われます。 この「L型の経路」も門の構成要素の1つと考えるべきでしょう。
   ↑ の写真では、右下の小さ目の門が「高麗門の一の門」で、左上の建物が「二層二階建ての石川櫓」ということだと思います。
   大手門から河北門を経て、五十間長屋を見ながら橋爪門から二の丸広場に入って戻って来たのですが、これまで、河北門やその両側、五十間長屋や橋爪門においても、「城のシンボライズされた装飾兼実戦用の石落(いしおとし)」の「唐破風出窓」(西ヶ谷恭弘「金沢城の構成」〔西ヶ谷恭弘監修『新版 名城を歩く3 金沢城』2009. PHP研究所 PHPムック〕 )という出窓を何か所も見てきたのですが、この石川櫓の出窓だけが、緑青を吹いたように緑がかっています。
   しかし、この「唐破風出窓」ですが、相当高い場所についているものもあれば、比較的低い位置にあるものもあり、低いものは比較的近くから見ることができますし、塀についている出窓は、三の丸広場からその内側を見ることができます。 又、五十間長屋についている「出窓」は五十間長屋の内部に入って見学することができるので、中からも見せてもらいましたし、1箇所、出窓の下部を開けて見せていた所もありましたが、いずれも、木製であり、緑青を吹くようなものはなかったと思うのです。 石川櫓の所の「出窓」だけ銅製なのでしょうか。

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↑  「高麗門の一の門」を入るとすぐに右折します。 このまっすぐ入らせないL型の経路も、敵の進入を止めるための工夫かと思われます。 この後、もう1回、L型に曲がります。
   ↓ に石垣の部分を拡大して撮影した写真を掲載します。 
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↑  右側と左側で石垣の積みかたが違いますね。 西ヶ谷恭弘監修『新版 名城を歩く3 金沢城』(2009.11.13.PHP研究所 PHPムック)には、金沢城のいくつかの箇所の写真が掲載されていますが、そのうち、「石川門枡形虎口に残る多聞櫓と二重櫓」の写真の石垣は自然な石をつみあげた石垣になっていますが、それに対し、「本丸戌亥櫓台より二の丸、三の丸をのぞむ。」という写真に写っている「橋爪脇櫓(復原)」では、きれいに長方形に切られた石が積み上げられており、こちらは「復原」だから最近の技術で最近の積みかたをしたものか・・とこれを見た時は思ったのです。 しかし、西ヶ谷恭弘監修『新版 名城を歩く3 金沢城』(2009.11.13.PHP研究所 PHPムック)の「石垣の野外博物館」では、何種類もの石垣の積みかたが写真とともに説明されており、そこに、「二の丸橋爪門脇櫓台石垣」として、≪配色を考えての布目積だ≫と書かれているので、これは、石垣は最近の積みかたをしたということではないのだろうか、と考えたのです。
    この石川門の所で、ちょうど、右側と左側で、左側は自然石をそれほど加工せずに積み上げた積みかたで、右側は長方形にきれいに切られた上で積まれているのですが、左側は昔からのもので右側は最近の復元なのか。 石川門は昔からのものが残っているということで重要文化財に指定されているのですが、この右側だけは復原なのか。 現地での「石川門石垣」の説明書きでは、≪ ・・・右側は「切石(きりいし)積」、左側は「粗加工石(あらかこういし)積」となっています。 同じ場所で違う積み方をした珍しい例で、明和2年(1765)の改修時のものと考えられています。 文化年間に書かれた文書には、「左右違い分けて積むのはおかしい」などと記されており、石垣の積み方にもいろいろな思いやこだわりがあったことがうかがえます。≫と書かれ、≪創建 慶長(1596~1615)頃≫ ≪改修 寛永8年(1631)頃、明和2年(1765)、文化2~4年(1805~1807)≫ ≪ 現状 主に明和2年頃の姿をとどめる。≫ と書かれています。 文化年間、19世紀初めに書かれた文書にすでに「左右違い分けて積むのはおかしい」と書かれていた、ということですから、18世紀半ばの明和2年の改修時のものだというように、1800年より前、18世紀の工事によるもののようです。 18世紀半ばに、このように長方形に切って積み上げることができたということのようです。
   「日本経済新聞」2016.10.8.(土)の「NIKKEI プラス1」に「何でもランキング 一芸が光る城 天守閣だけじゃない」で、1位 五稜郭(函館市)に次いで、2位に金沢城(金沢市)が選ばれています。 〔その後、3位 中城城(沖縄県北中城村〕、4位 会津若松城(福島県会津若松市)、5位 山中城(静岡県三島市)・・と続きます。〕 金沢城が2位に選ばれたのは、「加賀百万石、時代重ねた石垣の博物館」として、≪ 「石垣の博物館と呼ばれるほど、様々な時代の石垣を見ることができる」(河村さん)、「加賀百万石の城として独特の文化が栄え、石垣研究に役立つ」(田中邦煕さん)など石垣への評価が際立つ。城壁の美しさだけでなく「鉄砲を撃つための『鉄砲狭間(てっぽうはざま)』や石を落とす出窓の『出し』などを親子で発見しながら楽しめる」(大下さん)。 ≫だそうだ。 河村さん、田中さん、大下さんはこの「何でもランキング」の10人の「選者」で、河村亮太(日本旅行総研)・田中邦煕(工学博士)・大下孝枝(いこーよ編集部)だそうです。

   このL型を曲がると、↓
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↑ 「櫓門の二の門」。
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↑  河北門・橋爪門でもこの構造が見えましたが、河北門・橋爪門は復原だけあって、材木が新しい。 石川門で使われているものは、それなりの年月を経たという感じが見てわかります。
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↑  三の丸広場の側から見た 「二層二階建ての石川櫓」
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↑  ≪ 金沢城の建物はすべて鉛をかぶせた鉛瓦だ。 これは一般の本瓦葺では冬期に割れてしまうからだ。 一説に戦の折、鉛を熔かし弾丸(鉄砲玉)にするためだったともいう ≫(西ヶ谷恭弘「金沢城の構成 金沢城の構造と仕組み」〔西ヶ谷恭弘監修『新版 名城を歩く3 金沢城』2009. PHP研究所〕)という、石川櫓の鉛をかぶせた瓦。


   積雪地では、屋根材は瓦はあまり使用せず、金属系の屋根材を使用することが多いかと思うのですが、金沢の市街を歩いてみると、瓦屋根の家は少なくありません。 しかし、瓦の素材が和風の家でも、つるつるとした素材、水をはじく素材かと思われる瓦を使用している場合が多いように思えます。↓ は通りかかった道沿いの家の屋根ですが、これもそうです。 [第447回]《田井菅原神社(金沢市)参拝―冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り(38)》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_3.html で、田井菅原神社の拝殿の屋根の写真を掲載しましたが、田井菅原神社でも、神社ですから和風の外観ですが、黒色ですが、東京や大阪あたりで使用される日本瓦とは違ってつるつるした素材のもの、水を吸い込む素材ではなく水をはじく素材かと思われる瓦が使用されていました。
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   ところで、「石川門」て、なんで、石川門て言うのだろう?  ・・・・・東京メトロに「半蔵門線」があり、「半蔵門」という駅があって、それは江戸城の半蔵門の近くにあるから半蔵門駅。 江戸城の半蔵門は服部半蔵の屋敷の近くにあったので半蔵門、という話ですが、そうすると、金沢城の石川門は、石川五右衛門の屋敷が近くにあったのか・・・?
   そうではないようです。 現地での説明書きには、「石川門(いしかわもん)」は≪三の丸東端に位置し、石川郡に向いていることから石川門と呼ばれた。≫と書かれていました。 なるほど、ここは石川県。 石川県石川郡の方に向いているから石川門。 五右衛門も次元大輔も関係なかったんだ♪ ≪石川門は門の出入りと小立野方面を見渡す櫓でもあった。≫そうです。
   もっとも、『分県地図 石川県』(2016年7版 昭文社)を見ると、平成の大合併の結果なのか、今現在、「石川郡◇◇町」「石川郡〇〇村」はもうない。 「河北門」は、なぜ、河北門と言うのかな、川の北側だとするとどの川かな、などと思ったのですが、「河北郡津幡町」「河北郡内灘町」と「かほく市」が今もあります。石川門が石川郡の方向を向いていたから石川門ということなら、河北門も河北郡の方向を向いているということなのでしょうか。 蛇足ながら、「野々市」は「ののし」かと思ったら、そうではなく、「野々市」で「ののいち」と読み、北陸本線の駅の名前も「ののいち」で、「野々市市」は書き間違いではなく、「ののいちし」らしい。さらに、蛇足ながら、今は昔、私の姉が、大阪駅の近くで、東京もんのおっさんから、「『にしなかのしまなんぽう』へは、どう言くんですか」と尋ねられて、「はあ~あ?」と思ったことがあったそうで、大阪市地下鉄御堂筋線「西中島南方(にしなかじま みなみかた)」駅に行きたかったらしいのだが、東京もんのおっさんは、それを「にしなかのしまなんぽう」と読んだらしい。 

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↑ 石川門・石川櫓に続く塀の「出窓・石落とし」の塀の内側。
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↑ 三の丸 から新丸広場の方を向いた塀の「出窓」の三の丸側。内側。
木製でできているのですが、石川櫓の「出窓」だけ、外から見ると、緑青が吹いたようになっているのは、石川櫓だけ、銅製なのでしょうか。

   石川門を出ると、そこから兼六園に行こうとすると、すぐ前の道路はずいぶん下を通っており、石川橋という鉄骨製の橋が道路の上にかかっています。 この鉄骨製の橋は、最近、造られたものでしょうから、かつては、どうなっていたのか。
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↑は、兼六園の蓮池門口から金沢城を撮影したものですが、この部分の石垣は相当の高さです。
  金沢城と兼六園の間の道路、「お堀通(百間堀)」は、かつては堀であったというのですが、それなら、石川門からはどこへどうやって出たのかというと、西ヶ谷恭弘監修『新版 名城を歩く3 金沢城』(2009. PHP研究所)の西ヶ谷恭弘「金沢城の構成」に掲載されている古地図を見ると、石川門から兼六園の側へは今の石川橋のように、その古地図においても橋が渡されており、但し、橋の南側の蓮池と橋より北側の堀はつながってはいたようですが、橋の下にはかなりの範囲で石垣が築かれていたようです。 石川門から堀を渡る橋を渡った所にも、「新坂柵御門」という門があったことが書かれています。
   (2016.10.16.)

☆ 金沢シリーズ
金沢神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_1.html
椿原天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_2.html
田井菅原神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_3.html
金沢城
1.大手門から新丸公園、河北門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_5.html
2.「出窓」「石落とし」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_4.html
3.橋爪門・菱櫓・五十間長屋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_6.html
4.極楽橋、三十間長屋、本丸の森、鶴丸倉庫 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_7.html
5.石川門  〔今回〕
兼六園
上 琴柱灯籠・霞ヶ池・内橋亭・噴水・唐崎の松 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_9.html
中 雁行橋・根上松・山崎山・成巽閣赤門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_10.html
下 夕顔亭・瓢池・翠滝・時雨亭 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_11.html
金沢駅「鼓門」「もてなしドーム」、金沢大病院、金沢暮らしの博物館 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_12.html

    今となっては40年近く前、私がローニン中、父の親友だという医者屋やってたMが、ドバカ息子を関西医大に裏口入学させたというのを自慢してしかたがなかった。 なんで、裏口入学した人間させた人間が自慢するのか。 裏口入学というようなものは、たとえ、するにしても、恥ずかしそうにするものと違うのか、と思うのだが、「裏口入学ということは、思考が柔軟ちゅうことなんじゃ」とか言っていた。 そんなに「思考が柔軟」なら、その柔軟な思考で、狂大でも犯大でも実力で現役で通ればいいだろうにと思ったのだが、そう言うと、「そのあたりが、思考が堅いんじゃ」とか言うのです。 なんで、正規の手段で合格して大学に行こうとする人間が「思考が堅い」だの何だのと裏口入学した人間させた人間に言われなきゃならんのか。 さっぱり、わからんかったが、「さっぱり、わからん」と言うと、また、「思考が堅いな。わしらは思考が柔軟じゃから、バカ息子は裏口入学じゃ」と言うのです。逆らわない方がよさそうとは思いましたが、数学者で教育論者の遠山啓は、お父さんが小さい頃に亡くなったそうで、『競争原理を超えて』(太郎次郎社)で、父親というものは、外敵に対する防波堤になってくれる存在だとか書いていたが、それは、父親を持たなかった人がよそのいい父親を見て思うことで、父親があった者からすると、そういう父親もあるかもしれないけれども、そうではなく、外敵を引っ張り込んでくる父親もあるということを、この人、わからんのかという気がします。 そのドバカ息子を金権関西医大に裏口入学させたおっさんMは、ドバカ息子に「おまえが大学に行けたのはすべてわしがエライからやねんぞ。おまえは何の努力もしとらんねんぞ。すべて、わしがエライから大学に行けてんぞ」とドバカ息子に言ってやるのだと話していたのです。父はそれを聞いて、ええこと聞いた、わしも言うたろと思ったようで、私に、「お前が慶應に行けたのは、すべてわしがエライから行けてんぞ。おまえは何ひとつ努力しとらんねんぞ。おまえは何の努力もしとらんねんぞ。すべてわしがエライから行けてんぞ」と何度も何度も言いました。 しかし、ここに、2つ、間違いがあります。 1つは、その医者屋のMの息子は関西医大に裏口で入学したのですが、私は通った所も落ちた所も、裏口で受けたのではないのです。すべて、正規の試験を受けて通ったり落ちたりしたのです。 なんで、裏口入学で入ったのでもないのに、裏口入学で入った人間みたいなこと言われにゃならんのかと思いました。 2つ目の間違いは、Mのドバカ息子は金権関西医大に裏口入学させた医者屋のMがエライから裏口入学できたのではありません。Mに薬漬け・検査漬け・毒盛りされてカネ払わされた「患者」がいたから裏口入学できたのです。 Mがエライから裏口入学できたのではなく、薬漬け・検査漬け・毒盛りされた「患者」のおかげで裏口入学できたのです。
   「検査漬け」でも、必要のない検査をすることで「患者」から検査費としてカネを盗るという汚い手口はまだいい方です。 X線撮影などというものは、必要がなければ、受けない方がよいのです。たとえ、わずかでも、放射線というものはあびない方が健康には良いのですから。 なぜ、X線撮影という検査をするのか、特に、健康診断の際には胸のX線撮影をやりますが、何のためにするのかというと、わずかの放射線をあびるても、その検査によって、何か病気にかかっていた場合、胸のX線撮影なら結核にかかっていた場合、それを早期に発見して治療をすることができるというメリットがあり、マイナスの面とプラスの面を比較して考えると、十分にプラスの面が大きいという判断でX線撮影の検査はおこなわれるのです。 しかし、必要もないのに検査をする、本人が希望していないのに、同じ検査を年に何度もするといった検査のやり方をするならば、それは、もはや、検査ではなく、意図的に放射線をあびせる行為であって、傷害罪に該当する行為であると考えるべきです。Mはそういったことをいくつもやって、カネを稼いでいたのです。 そのカネでドバカ息子を裏口金権関西医大に入学させたのです。Mがエライからドバカ息子は裏口入学できたのではなく、何人もの「患者」が必要もないX線撮影その他の検査漬け、薬漬け、毒盛りをされて、カネ払わされたことと引き換えで、ドバカ息子は関西医大に裏口入学したのです。今、関西医大のホームページhttp://www.kmu.ac.jp/ を開くと、「躍進する関西医科大学」などという文句が出てきますが、関西医大には「躍進」しないでほしいですね。 関西医大が裏口入学で得たカネで「躍進」するごとに、その分だけ、「患者」が薬漬け・検査漬け・毒盛りされて苦しむのです。 おまえが「躍進」するために、いったい、何人の娘が泣いたと思うとるんじゃ! ちょっとは反省せえ! 金権裏口私立ドバカ医大は「躍進」なんてしないでもらいたいものです。「躍進」されたら迷惑です。
   父は、Mからセデスだのアリナミンだの処方されて、「これ、M先生からもらった」とか言って喜んでいたのですが、その頃、健康保険は本人は無料(全額健康保険で負担)だったのですが、その為に、父は「M先生からアリナミンにセデスもらった」とか言って喜んでいたのですが、受け取った方は「もらった」と思っているかもしれないし、かつ、処方したおっさんは「あげるわ」とかいう言い方をするのですが、そのおっさんがくれたのではなく、すべて、健康保険でカネを盗ってるのです。 そもそも、必要もないのに、セデスだのアリナミンだの出す「医者」というのを、「ええ、先生やあ」とかアホは喜んでいたのですが、そういうことしていいのでしょうか。 よくないのではないかと思うのですが。 私は、一度、言ったことがあるのです。 「アリナミンとかそういったもので栄養をとるのではなく、食事で栄養をとるのが本来のはずです」と。 そうすると、医者屋のMは「きみは、頭が固いぞ。 もし、ほうれん草と同じ成分の薬があったとしたら、ほうれん草を食べずに同じ成分の薬を飲んだっていいじゃないか。そんなこともわからんのか、きみは」と逆に文句を言われてしまったのです。だいたい、なんで、この裏口入学大好き人間のおっさんMに「きみ」などと言われなきゃならんのでしょうね。 もしも、ほうれん草と同じ成分の薬があったなら、ほうれん草を食べた方がいいと思いませんか? 父は薬売りの医者屋Mからいっぱい薬を売りつけられて健康保険だからタダやとか言って喜んで受け取って来ていたのですが、ついに、健康保険組合から、請求が無茶苦茶高額だが、いったい、どんな治療を受けているのかと問い合わせがきたらしいのです。そういうことをやって稼いだカネで、ドバカ息子を金権関西医大に行かせて、「『わしがエライから大学に行けたんじゃ。おまえは何の努力もしとらんねんぞ。すべてわしのおかげじゃ』と息子に言うたりますねん」と言い、父はそれを聞いて、よし、わしもその言い方したろと思って、裏口入学したわけでもない、たとえ、裏口入学したいなどと思っても我が家にはそんなコネもカネもないからやりようがない私に、「おまえが慶應入れたのは、すべてわしがエライからやねんぞ。おまえは何ひとつ努力しとらんねんぞ。おまえはチャンコロやねんぞ。おまえはロスケやねんぞ。おまえはイタコやぞ。おまえは何ひとつ値打ちのない人間やねんぞ」とか言っていましたが、なんで、裏口入学させてもらったわけでもないのに、裏口人間みたいに言われにゃならんのかと思いました。
   その薬売りの医者屋のおっさんMは金沢大医学部卒と自称していたのですが、今から思うと、嘘の可能性が高いと思います。 あの「金沢の薬売り」、いったい、どうしているでしょうね。 裏口入学のドバカ息子も私より年上ですから、一般の会社なら定年でおかしくない年齢になったはずですが、カエルの子はカエル、ドバカの息子はドバカ、裏口入学の息子は裏口入学で、ドバカ息子の息子も金権裏口入学で関西医大に行ったかもしれませんね。 
   (2016.10.16.) 


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