新町天満宮(千葉市中央区)参拝-千葉駅から最も近い天神社【上】

[第528回] 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り(42)-1
   千葉市中央区新町 の 「新町天満宮」に参拝してきました。
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↑ クリックすると大きくなるので、大きくして見て下さい。 天神社にも、菅原道真を祀る天神社と、道真とは関係なく、天候の神を祀る天神社があるようですが、屋根の部分に「梅鉢」の紋が入っていますから、菅原道真を祀っている神社だと考えてよさそうです。
   左手前の石碑には、「新町天満宮」「記念碑」と書かれ、ここにも梅鉢の紋が書かれています。 「二八〇周年大祭」と書かれていますが、何から280年なのでしょう。








   住所は、千葉市中央区新町22-13 らしい。鉄道の最寄駅はJR総武線・外房線・内房線「千葉」駅、京成千葉線「千葉」駅、千葉都市モノレール「千葉」駅です。 東隣に「新町自治会館」がある。 南道路の敷地で、道路を隔てた南側に「新町公園」があるが、公園内にトイレはない。 西側の戸建住宅の西に時間パーキングがある。 トイレを使用したい場合、付近にはセルフサービス方式の喫茶店はいくつもあるが、そういう店に入ってトイレを借りても、片方で排出して片方で水分を入れたのではあまり意味がないかもしれない。 すぐ北に「そごう」があるが、朝は午前10時から開店なのでそれ以前にはトイレを借りることはできない。 電車で行った場合は駅のトイレで用を足してから行くようにした方がいいかもしれない。
   社殿の手前の左側に「御神牛」の像がいます。 ↓
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↑  牛にしては痩せているようにも思えますが、牛です。

   社殿の後ろに、いくつもの石碑・石像が並んでいます・・・・↓
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〔 ↑ 社殿の後ろの石碑・石像。 右寄り(東寄り)のもの。〕
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〔 ↑ 社殿の後ろの石碑・石像。 左寄り(西より)のもの。〕
↑ ・・・が、残念ながら、その多くは摩耗して読めません。
クリックすると大きくなるので大きくしてみてください。
左から2番目の石碑には「仙 天満宮 水」と書かれているようですが、「仙」と「水」がどういう意味なのかよくわかりません。

   社殿の左右の手前に梅の木が植えられています。↓
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↑ 社殿の左手前の梅。
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↑ 社殿の右手前の梅 と 「天満宮」の石碑。

   「奉献」「記念之碑」として、由緒が書かれた石碑が右手前に立っています。 それによると、
1. 千葉市登戸(のぶと)町天神山の中腹に祀られていた。
2. 明治40年(1907年)6月11日の火災で類焼。 12月2日、再建される。
3. 昭和38年(1963年)〔東京オリンピックの前の年。〕 登戸より新町156番地へ移転。
4. 平成2年(1990年)、市街地再開発事業推進のため、当地に造営移転。
・・・・ということのようです。 しかし、《神社探訪狛犬見聞録 天神社 》http://www.komainu.org/chiba/chibasi/chuuouku/TenjinSinmati/tenjin.html では、≪ 昭和三十八年に登戸より新町に移転の件は、それ以前から新町に存在していたので、何らかの間違えか、移転に対する解釈の違いから来ていると思われる。≫と書かれている。 昭和38年(1963年)より前から新町に天神社はあったが、登戸(のぶと)にあった天神社をこの地に移転させて登戸の天神社と新町の天神社を新町において1つにしたということなのだろうか。 それとも、「昭和38年」という年が正確ではなく、たとえば、昭和28年(1953年)とか、あるいは、1938年(昭和13年)とかか。
   《クチコミ広場 新町天満宮》http://kuchikomi.navitime.co.jp/spot/review/00000024023_ntjcgm_00000023621 には、≪ 1715年9月25日の勧請と言われ ≫と出ています。
   登戸の天神山てどこなのだろうと思ったのですが、《天満宮 巡拝 天満宮(新町 千葉)》http://gozmez49.blog.fc2.com/blog-entry-183.html には、≪ 登戸付近の天神山を探すも見当たらないが、これは、この山を崩して埋め立てに使ったためだという。登戸の南に幸町があるが、これが埋め立てでできたまちである。 ≫と出ています。 言われてみると、「幸町」という地名は、どうも、人工的につけたような名称だと思いました。 かつて、1980年代終わり頃、幸町に総合住宅展示場があって、木質系住宅建築請負業の小堀住研(株)〔→エスバイエル(株)→ヤマダエスバイエルホーム(株)http://www.sxl.co.jp/ 〕に在籍した当時、同社の幸町展示場があり、「新 桂(しん かつら) 和のかたち」の展示場が建っていましたが、今は幸町の住宅展示場はなくなり、どこだったか捜そうとしてもわからなくなってしまいました。
   神奈川県川崎市幸区に住んだことがあったのですが、「幸区(さいわいく)」とは、これも幸町と一緒で、人口的につけたような名称だなと思い、最近、話題になっている東芝(株)の小向工場とかがある所で、かつて、東北の方から、東京圏に中学校を卒業すると同時に集団就職で来て、ここで幸せになれればいいなあと思って、そういう人達が「幸区(さいわいく)」と名づけた・・・・のかなと思っていたら、東芝(株)の小向工場の北のあたりに、御幸公園(みゆきこうえん)があって、そこには、明治天皇が御幸されたことから御幸公園と名づけられた公園で、「幸区」もそこから名づけられたという説明書きがあったので、な~んだと思ったのですが、明治天皇が御幸されたからということもあったかもしれませんが、片方で、ここで幸せになれたらと思った人だってあったかもしれない。
   千葉市の臨海部は、工場地帯で、幸町のあたりも、そういった工場に働きに来た人が住んだ地域ではなかったか。 そういう人たちが、幸せになれたらと思って、幸町(さいわいちょう)と名づけた・・・・のかどうかわからないが、天皇へーか が御幸されたという公園は千葉市中央区の幸町にはない。

   社殿の右手にもう1つ、祠があります。↓
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↑ その左手前に「弘法大師一千百年御遠忌記念」と書かれているのですが、ということは、この祠は弘法大師を祀っている祠なのか?  掃除に来られていたおばあさんがおられたので尋ねてみたのですが、「弘法大師と書かれている以上、そうなんでしょうか。 私も掃除に来ているだけなのでよくわからないんです」ということでしたから、付近の住人の方でこの天神社の掃除をされたりしているような方でもよくわからない・・・・みたいです。 どなたかよくご存知の方、おられたら教えてください。

※ インターネットで検索すると、新町天満宮 について述べられたものとして、下記のものが見つかりました。
《八百万の神 新町天満宮》https://yaokami.jp/1120006/
《天満宮巡拝 天満宮(千葉市 新町)》http://gozmez49.blog.fc2.com/blog-entry-183.html
《事事関心 神社探訪 千葉県千葉市》http://toppa10.web.fc2.com/brari/jinja_chi_chiba.html#014
《猫のあしあと 千葉市の神社》http://www.tesshow.jp/chiba/chiba/shrine_index.html
《房総史譚 千葉町界隈(2)「遊郭」時代の新町》http://bousou.txt-nifty.com/blog/2008/09/post-730c.html
《千葉探訪記 新町天満宮》http://ameblo.jp/masayoshi-take/entry-12169408218.html
《神社探訪狛犬見聞録 天神社 》http://www.komainu.org/chiba/chibasi/chuuouku/TenjinSinmati/tenjin.html
《クチコミ広場 新町天満宮》http://kuchikomi.navitime.co.jp/spot/review/00000024023_ntjcgm_00000023621

   新町天満宮(千葉市中央区)参拝、 後半、東隣の新町自治会館、南側の新町公園、 北のあたりを走る千葉都市モノレール、その東のあたりにある「オーロラシティパーキング」、新しくなったJR「千葉」駅などを次回 【下】https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_7.html  で述べます。

   (2017.3.14.) 
☆冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
市川市北方町4丁目の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_2.html
意富比神社 末社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市河原子の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
子守神社 摂社天神社(千葉市花見川区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201605article_3.html
千葉神社 摂社千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html 
新町天満宮(千葉市中央区) 
【上】〔今回〕
【下】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_7.html

東京都 
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
湯島天神社(文京区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_10.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_11.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_12.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
根津美術館 庭園内 渡唐天神祠(「飛梅祠」)(港区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201603article_3.html 
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html

神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html

岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
村山天神(高山市国府町)
1上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
2村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
3村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
4あじめ峡、他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
桜山八幡宮 摂社天満神社(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html
日の出天満宮(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html

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≪ ・・・寛平9年(897)、宇多天皇は上皇となり、醍醐天皇が誕生した。 その翌々年、菅原道真はとうとう右大臣に任ぜられるが、延喜元年(901)、藤原時平は菅原道真が醍醐天皇を廃そうとしていると讒言、道真は大宰府に左遷させられ、配所で憤死する。 左遷というよりも、実質的な流罪であり、道真の晩年は悲惨なものだったらしい。
   当然、道真は都の権力者たちを恨んだだろうし、藤原氏にしても、やましい気持ちはあったに違いない。 だから、左遷から二年後に道真が死ぬと、道真の祟りがまことしやかに語られていくことになる。 道真の死から5年の延喜8年(908)に、道真追い落としの片棒を担いだ藤原菅根が没し、疫病が流行、その翌年には主犯の時平が死に、おまけに都に隕石が落下するおよび、恐怖が増幅された。
   それだけではない。 菅原道真を追い落とした者どもが次々に変死、宮中の清涼殿に落雷と、都はもうパニックとなった。  「菅帥(かんそち)の霊魂宿忿(しゅくふん)のなす所なりという(道真の怒り、恨みに違いない)」と人びとはうわさしあったといい、(『日本紀略』)、また『大鏡』は、藤原時平の末裔が早死にするのは、道真の祟りにほかならないとしている。
   それはそうだろう。 藤原時平は延喜の諸改革を断行した名政治家として名高いが、じっさいには、この改革事業の設計図は、菅原道真が書き上げたにもかかわらず、時平が道真を左遷しておいて、手柄を横取りしたわけである(もっとも、このような図式は平田耿二(ひらた こうじ)氏が指摘してはじめて明らかになったのだが、成り行きから考えて、この方が自然である)。 ・・・・≫
( 関裕二『蘇我氏の正体』2009.5.1. 新潮文庫 ↑)

   明治維新の際、徳川の幕臣であった勝海舟と榎本武揚は、明治維新政府においても要職について優遇されたが、福澤諭吉は、伯夷叔斉とまでいかないとしても、自分が仕えていた徳川幕府を倒しておいて、又、徳川方で戦って戦死した者、斬首された者もいるのに、倒した側の政府で要職について優遇されているというのは、これはいくらなんでも節操がないのではないかと、『痩我慢の説』を書いて、勝海舟・榎本武揚に送りつけるとともに出版したが、勝海舟からも榎本武揚からも返答はなかったらしい。 福沢諭吉は下級武士とはいえ幕臣で、又、洋学者であり、攘夷などとんでもない、開国して西洋文明を大急ぎで取り入れないと日本は大変なことになると主張する開国派で、攘夷派から命を狙われていた人間であり、攘夷派などという愚か者を支持などできないと考えていた人間だったが、明治維新後、「尊王攘夷派」はその「攘夷」の主張を引っ込めて開国するようになった。
   リイド社発行の「コミック乱 ツインズ」に連載されていた 木村直巳『天涯の武士』↓では、明治維新に際して、幕臣の小栗上野介忠順(ただまさ)が斬首にされたが、これは小栗忠順が他の人間よりも罪を犯したとかいうことからではなく、小栗忠順(ただまさ)は幕臣で佐幕派であるとともに開明的な人間で、徳川幕府を継続させながら抜本的な改革をおこなうか、徳川の将軍を大統領に就任させて新しい政府を作るかといったことを考えていた人間であり、小栗を生き残らせたのでは、佐幕派は頑迷固陋な反動派ではなく、開明派もいたということになるために、開明派であるがゆえに殺された、小栗忠順がやろうとしていたことを明治維新後に尊王攘夷派・討幕派の人間がやったと説く。
   小栗忠順についてはそれほどよく知らないが、有能であるがゆえに退けられ、計画したものを退けた者が実行して自分の手柄のようにする、ということは、歴史上、けっこうあるのかもしれない。
※ 《ウィキペディア-小栗 忠順(おぐり ただまさ)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E5%BF%A0%E9%A0%86 

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 「裁判所の門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ」 ↑    

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