新町天満宮参拝【下】+実用的でないらせん状登坂パーキング、上部を保守に使える懸垂式モノレール他
[第529回] 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り(42)-2
千葉市中央区新町 の 新町天満宮 参拝の後半です。
↑ 「新町天満宮」を南西側から見たもの。 東隣には「新町自治会館」があります。

↑ 道路を隔てた南側には「新町公園」。 JRと京成の「千葉」駅からすぐの場所で、「そごう」のすぐ南なので、周囲は店舗やオフィスビルばかりかと思うとそうではありません。 戸建住宅やマンションが建っている地域です。
「新町天満宮」は、かつては「登戸(のぶと)」にあったというのですが、千葉市の「登戸(のぶと)」というと、私などは、京成千葉線の「西登戸(にし のぶと)」駅を思い浮かべますが、「西登戸」駅付近だけが登戸ではなく、新町天満宮がある千葉市中央区新町の西隣、千葉都市モノレールより西側は「登戸1丁目」で、そこから北西に、登戸2丁目、3丁目、4丁目とあって、京成千葉線「西登戸」駅の南西側は登戸4丁目で、さらにその北西の登戸5丁目 があるようです。
《房総史譚 千葉町界隈(2)「遊郭」時代の新町》http://bousou.txt-nifty.com/blog/2008/09/post-730c.html には、≪ 登戸の天神山は江戸時代からの「馬つなぎ場」で、小さな飲み屋などが多くあった所です。 この新町一帯は、明治時代初期から「千葉新地(しんち)」といい、「遊郭」がありました。新地とは新しく居住地として開かれた土地のことで、全国的には遊郭などが出来たことが多かったことから、転じて遊郭・遊里を指すことが多いようです。 ・・・・≫と出ているのですが、その遊郭があったという「千葉新地」というのは、現在の新町なのか登戸1丁目~5丁目のどこかなのか。 そのあたり、どうもよくわかりませんが、現在、新町天満宮がある付近には、それらしき痕跡は、ざっと見まわした限りでは見当たりません。
新町天満宮のすぐ北の「千葉都市モノレール」↓ 「懸垂型」

↑ 福島県東部中部は福島第一原発事故で大変な状態になってしまいましたが、かつて、常磐自動車道の「いわき中央」インターチェンジを出て国道49号線をいわき市平(たいら)地区に向かって走ると、そこに「お帰りなさい。 お疲れさま。 ここはあなたのふるさと、いわき」と書かれたいわき市の「木村牛乳」という会社の看板が出ていて、本当にそんな気持ちになったものでした。 原発事故さえなければ福島県は浜通りも中通りもいい所だったのにととても残念に思います。 ・・・ただし、常磐自動車道で、茨城県北茨城市から福島県いわき市に入ってすぐのあたりに「ここは首都圏 いわき」と書かれた看板が立っていたのですが、あれには・・・・笑った。 「イナカくせえ~え」て、やっぱり、誰しも思うよねえ。(国道49号で、いわき市から郡山市に行くまん中あたり、行政区画としてはいわき市で、小野町に分岐する道がある所で、小野町の方へ行く道の脇に「美人発祥の地」と書いた看板が出ていたが、あれも・・・・笑った。 笑うよねえ、いくらなんでも、というか、あれは笑ってもらおうと思って看板だしてたんじゃないのかな。) で、「千葉都市モノレール」という↑のモノレールの名称ですが、なんで、「都市」という文句を入れたいのか? ちゃいばは都市なんだあ! と言いたいのか? なんか、イナカくせえ~え! て感じしませんか? 「千葉モノレール」でいいのじゃないかて気がするのですが、「都市」と入れたいというあたり、イナカくせ! て感じが・・・・。
↑ 「千葉都市モノレール」の「線路」、ちょっと錆びてますよね。 こういうの、メンテナンスする時てどうするのか。 よく見ると、「懸垂型」モノレールの上に手すりがありますから、この「線路」というのか「レール」というのかの上を歩けるということでしょうか。
大阪府吹田市の北部に、1970年の大阪万博の跡地があります。 大阪万博の時、小学生であった私は、大阪万博に出展していた独創的な建物が好きで、終了後、あれを壊してしまうのかと、とても残念に思いました・・・が、建築業界に勤め、建築についてある程度以上学んだ今、もしかして、万博で建てられていた「独創的」といえば「独創的」、「奇抜」といえば「奇抜」な建物って、もしかして、「半年間限定建築」てことないか? 半年以上1年以下くらいなら十分もつし、魅力的な建物ではあるけれども、もしも、10年以上そこにそのまま建てていると、“ボロ”が出てくる建物・・てことないか? とかいうことを考えるようになったのです。 そこにあった建物というのは独創的で魅力的ではあったものの、「半年間限定の万博建築」だったて、なんか、ありそうな感じがしませんか?
その大阪万博が閉幕した後、南東部のエキスポランドという遊園地はそのまま残り、ダイダラザウルスという、その頃はまだ珍しかった「絶叫型」というのかのジェットコースターも存続しました。 それまでのジェットコースターというのは、百貨店の屋上にある子供向けのもので、最初、ちょっとだけ、急坂を下りるスリルはあるけれども、一周ぐるりと走ってきて、ああ、おもしろかった、というものだったのですが、それが、相当のスリルを感じる「大人向け」のジェットコースターがそこに登場したのでした。
1980年代、その「ダイダラザウルス」のペンキ塗装の作業の手伝いの仕事に、「大学生」であった時、2月の閉園期間中にアルバイトで行ったことがありました。 怖かった。 「ダイダラザウルス」というジェットコースターの片側の横には保守のための通路が設置されてはいるのですが、鋼製の網でできていて、「手すり」は片側にあることはあるけれども、あまり高い手すりを設けたのではジェットコースターが走った時に視界を遮ることになるので、ごく低い手すりしかありません。 そこを、足場として設置するための丸太を2本、肩に担いで歩いてジェットコースターの一番高い所まで行くのです。 アルバイトの人間はズック靴しか履いていないし、丸太は2本担いで運びましたが、専門のとび職の人は地下足袋を履いて、丸太は2本ではなく3本かついで運んでいました。 その狭い通路の上で、「皮すき」という道具で、ふくれあがった前年までにペンキ塗装した部分をはがす作業もやりました。 本当に怖かった。 とび職は「安全帯をしてやれと言われるんだけれども、一箇所にずっといるのなら安全帯をしてやってもいいけれども、移動するのに安全帯なんかやって仕事できない」と言うのです。「安全帯なんかやってたら、かえって落ちる」という言葉も聞きました。 上でペンキ塗装をしていると、そのペンキが落ちてきて地上の施設の上にペンキが落ちて汚すことがあり、上からペンキが落ちてきた時に下のものを汚さないようにブルーシートをかけてまわったり、汚してしまったものをシンナーなのか何なのかを布につけてこすって落としたりといった作業もしました。 下から見ていると、足場をはずす時なのか、丸太を上から落とすことがありました。 聞いた話では、前年、ジェットコースターの高い所から地面まで落下した人がいて、死にはしなかったけれども、半身不随になった、という話を聞きました。
そういう経験をしてみると、はたして、そういうジェットコースターって必要なのだろうか? と疑問を感じました。 「動くものと高いところが好きな人間というのは、子供なのだ」という説もありますが、「絶叫型」のジェットコースターでスリルを味わうのが楽しいという人って、あんまり、文化的レベルが高くないのではないか。 教養人はそんなものに楽しみを感じるものではない、感じるべきではないのではないかと思いました。
慶應大の学生にこういうことを言うと、「そんなこと言ったって、そういう仕事をして食べている人がいるのだから、そういう仕事がなくなったら困るではないか」と言う人が多いのです。 そうでしょうか。 そうではなく、命の危険を冒して仕事をしなくても誰もが食べていける世の中を築くべく努力するべきなのではないでしょうか。・・・そのあたり、どうも、私と「慶應ボーイ」とは認識・感覚が相当ずれているのを感じました。
さて、モノレールですが、「千葉都市モノレール」のような「ぶら下がり型」(懸垂型)のモノレールと、羽田空港へ行く東京モノレールとか大阪モノレール、大阪万博の時に会場を一周していた万博会場内のモノレール、今はなくなった姫路駅から手柄山公園までのモノレールとか、大船から江の島までのモノレールとかのような「跨り形」のモノレールはどちらが良いのか。 なんか、地震で揺られた時、ぶら下がり型より跨り型の方が落ちにくそうて感じがするのですが、そのあたりはどうなのか私はモノレールの専門家でも何でもないのでよくわからない。 で、 ↑の写真なんか見ると、跨り型だと「線路」「レール」の上を歩くわけにはいかないのに対して、ぶら下がり形(懸垂型)は、「線路」「レール」の上を歩けるようにしてその両側にあらかじめ手すりを設置しておくことができるようで、この点で、保守のためを考えると、「ぶら下がり形」(懸垂型)の方が、メンテナンスや清掃をする人の安全にとってはいいのかもしれない、と思ったのですが、どうでしょうか。
最近、「半年間限定の万博建築」ではなく、継続的に使用する建物でも、コクーンタワーだとか変わった形状の建物ができ、東京都庁ビルのような高層ビルでなおかつ高層階の外側にも装飾がいっぱいある、凹凸がいっぱいある建物が建てられていますが、ほぼ直方体の建物であれば、屋上からゴンドラを吊るして保守や清掃をするということもできるでしょうけれども、グッゲンハイム美術館とかコクーンタワーとかそういう独創的というのか、直方体でない形状の建物で、かつ、高層の建物というのは、メンテナンスと清掃がしにくいと思うのです。 それを設計している「おえらい建築家の先生」というのは、そういうことを考えて設計しているのか。 考えてないのではないかという気がするのです。 ジェットコースターの一番高い所から落下して、死にはしなかったけれども半身不随になったという男のことなんか、「おえらい建築家の先生」というのはそんな人間のことなんか考える気はないのではないでしょうか。 はたして、そういうものが、質の高い建築と言えるのだろうか。 どうも、そのあたりに疑問を感じてしまいます。

↑ 手前のらせん状の建物は、「オーロラシティ パーキング」という駐車場で、「そごう」で3000円以上買うと2時間無料になるという駐車場。 これ、斬新でなかなかかっこいい建物のように見えますが、私はここにクルマを停めた経験があるのですが、駐車場の敷地内に入ってから実際に停める場所にたどり着くまで、ぐるぐるぐるぐるまわってけっこう時間がかかるのです。 だから、見た目はけっこうかっこいいけれども、駐車場としては必ずしも実用的ではないような気がします。 ↑の写真を見ると、この駐車場に停めたことがない人は、一度、ぐるぐる自分のクルマでまわってみたい気持ちにもなりそうですが、急いでいる時に実際にこのらせん状の車道を走ると、まだかいな、まだかいなて感じで、あんまり楽しいものではありません。
※ 《そごう 千葉店 駐車場案内》https://www.sogo-seibu.jp/chiba/access/
↑ 「そごう」と「オーロラシティパーキング」の途中の階をつなぐ渡り廊下。 最近は道路の上のこういう渡り廊下はそれほど珍しくなくなりましたが、1960年代の終わり、大阪府池田市の阪急「池田」駅の南側にあった「ダイエー」の池田店に新館ができた時、旧館と新館の間を5階だったか6階だったかでつないでいる渡り廊下を見た時には「すごい!」と感動もすれば、「大丈夫か?」とそこを通るのに不安も感じたものでした。
イタリアのリグリア州のサンレモというと、「サンレモ音楽祭」で有名ですが、サンレモは夏場は避暑地としてにぎわう場所ですが、冬場はオフシーズンで、そうであるからこそ、そのオフシーズンにも人を呼ぼうということでなのか、冬場の2月でしたかにアリストンシアターで「サンレモ音楽祭」が開催されます。 1998年夏、そのサンレモに行った時、サンレモの旧市街で、昔からの建物が建物と建物の間を「バットレス」というものでつないでいるのを見ました。 「バットレス」は、むしろ、建物の強度を増すために設置されているようです。

( ↑ サンレモ )
※ 《YouTube-Al Di La 映画「恋愛専科」主題曲・アルディラ エミリオ・ペリコーリ・歌 》https://www.youtube.com/watch?v=lRj5kZxYdyw&list=RDlRj5kZxYdyw#t=0
《YouTube- 》
そうすると、こういう建物と建物の間を渡り廊下でつなぐというのも、考えようによっては「バットレス」でつないで補強するごとく、むしろ、建物の強度を増すということも考えられるのではないか? ・・・といったことも考えられてきます・・・・・が、↑の写真など見ると、両側の建物と渡り廊下との間に緩衝帯となるような部分があるように見えます。 やっぱり、ここでは、「バットレス」のように渡り廊下が両側の建物をつなぐことで両側の建物の強度を増すのではなく、地震などの力が加わった際、両側の建物と渡り廊下との間で力がそのまま伝わらないように、という方の考え方をとっている・・・・みたいな感じがします。

↑ JR「千葉」駅。 いつの間にか、ずいぶんと感じが変わりました。
☆ 「新町天満宮(千葉市)参拝」は、上下2部作です。 【上】https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_6.html と合わせご覧くださいませ。
(2017.3.14.)
☆冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
市川市北方町4丁目の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_2.html
意富比神社 末社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市河原子の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
子守神社 摂社天神社(千葉市花見川区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201605article_3.html
千葉神社 摂社千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
新町天満宮(千葉市中央区)
【上】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_6.html
【下】 〔今回〕
石川県
金沢神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_1.html
椿原天満宮(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_2.html
田井菅原神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_3.html
京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
高台寺天満宮(京都市東山区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html
曼殊院天満宮(京都市上京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_4.html
大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
露の天神社(お初天神)(大阪市北区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_5.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html
綱敷天神社(大阪市北区)
1.綱敷天神とは。「北野」の由来。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_6.html
2.社殿と桜。堅魚木と千木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_7.html
3.「戦災の狛犬」、筆塚。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_8.html
4.白龍社、歯神社。綱敷天神社の周囲https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_9.html
綱敷天神社 御旅社(大阪市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_11.html
池田市天神1丁目・2丁目 http://shnkahousinght.at.webry.info/201405/article_10.html
西江寺 摂社天満大自在天神(箕面市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
上新田天神社(豊中市)
1 千里中央駅から。電柱看板の是非。卑怯者不動産屋店長https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_15.html
2 鳥居から参道階段を経て拝殿へ。「他力」とは https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_16.html
3 拝殿・本殿・牛・屋根・稲荷社他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_17.html
4 神社の社殿を背後から見下ろす下品な高層マンション https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_18.html
熊本県
山崎菅原神社(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_6.html
船場天満宮(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_7.html
手取天満宮(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_8.html
≪ 平安時代の怨霊といえば、「祟る菅原道真」が名高い。・・・・
菅原道真(845-903)は平安前期の著名な学者であり、また敏腕政治家としても活躍した。平安時代に多くの学者を輩出した菅原氏は古代名族の一つ、土師氏の末裔であった。
土師氏は神代から続く名門豪族で、その祖は天穂日命(あめのほひのみこと)である。 この神は、出雲の国譲りの直前、出雲乗っ取りを画策する天孫族が出雲に送り込んだ神だったが、天穂日命は出雲に同化してしまい、天孫族の思惑からはずれた格好となった。 出雲の国譲りののち、天穂日命の子孫は出雲臣を名乗り、出雲国造家(こくそうけ)となって、出雲神である大国主神を祀っていくようになる。 この天穂日命の十四世の孫に野見宿禰(のみのすくね)がいて、この人物が垂仁天皇の時代、殉葬の風習をやめ、古墳の周囲に埴輪を置くことを提案したという。 これ以降、土師器(はじき)の「土師」を名乗り、さらに桓武天皇の時代、土師氏は菅原に姓をあらためた。 ・・・・・
結局、菅原道真は文人肌の政治家として出世し、複雑な権力闘争の生け贄になったのである。 大宰府へ赴いた道真は、太宰権帥(だざいのごんのそち)(大宰府の次官)にあったが、実際は幽閉であった。 道真は延喜3年、大宰府で憤死する。 晩年の生活は筆舌に尽くし難く、雨漏りのする部屋で、石を焼いて暖を取るも、困憊激しく、脚気(かっけ)と皮膚病に苦しんだという。 子供たちも土佐、駿河、飛騨、播磨に飛ばされ、道真の恨みは深かった。
ちなみに、菅原氏が出雲国造の子孫であったことが、道真の祟りの恐怖を増長させた最たる理由だと思うのだが、もう一つ付け加えておきたい。 六世紀から七世紀にかけて、土師氏は蘇我氏に接近し、蘇我氏とともに没落した疑いが強い、ということである。 この点から、藤原氏が菅原氏を警戒し、彼らを「蘇我」という「亡霊」と同類とみなしていたのではないかと思われるふしもある。 ≫
( 関裕二『もうひとつの日本史 闇の修験道』2015.10.5. KKベストセラーズ ワニ文庫 ↑)
平田耿二(こうじ)『消された政治家 菅原道真』(2010.7.20. 文春新書)には、
≪ 菅家の住いは、曾祖父 古人(ふるひと)の時代には奈良平城京内にあり、西ノ京の大和国添下(そうのしも)郡菅原郷に本貫(ほんかん)(本籍)があった。いまの奈良市菅原町付近で、式内社の菅原神社が氏神として鎮座し、行基が建立した菅原寺(喜光寺 きこうじ)が今も存在する。菅原郷の地には当時習宜(すげ)池があり(『法隆寺伽藍縁起井流記資材帳』)、右京三条三坊にあたる京内に菅原池があった。・・・
平城京を造営するときに、菅原の地に住む九十余家を移転させているから、菅原という地名は京内から京外にかけての呼称であった。習宜(すげ)は「スガ」とも訓み、奈良時代になると政府の命令によって、一字を二字の好字(よきじ)に改めなければならなかったから、「菅」を「習宜」に改めたものである。 ・・≫ とでている。
「習宜」は「スゲ」とも「スガ」とも読めて、菅原道真の「菅」と「習宜」は共通するとして、「菅(スガ)」「習宜(スゲ、スガ)」は、「蘇我(ソガ)」とも通じるところがあるのかもしれない・・とすると、藤原が滅ぼした蘇我入鹿の「蘇我(ソガ)」と菅原道真の「菅原」の「菅(スガ)」には何らかの関係がある可能性も考えられてくる。 もっとも、藤原氏は、乙巳の変以来、はぶりをきかすようになったといっても、私の知り合いで「藤原」という苗字の人間はいるが、誰もが裕福かというとそうでもないし、苗字の2文字のどちらかに「藤」か「原」のいずれかが入っている人は藤原家となんらかの関係がある場合が多いという話があるが、あくまで、「なんらかの関係」であって、この場合、「藤原家に仕えていた」というのもあれば、「近所に住んでいた」とかいうのもあるというので、「なんらかの関係」はあくまで「なんらかの関係」ではあるが。
≪ 延喜9年(909)、道真を無実の罪で左遷に追い込んだ主犯の藤原時平は39歳の若さで亡くなり、しかもその前年には、やはり道真の左遷に協力した藤原菅根が没している。 悪い予感が、都人の脳裏に浮かんだに違いない。
都に異変が起きたのは、道真の没後20年ほどたった、延喜23年(923)のことであった。 醍醐天皇の皇太子・保明(やすあき)親王が21歳の若さで急死したため、道真の祟りに違いないと、宮中が震撼した。
『日本紀略』にはこの時の様子を、次のように記している。
世をあげて云ふ。 菅帥(かんそち)の霊魂 宿忿(しゅくふん)のなす所なり。
世の中の人々が、みな菅原道真の怨霊に恐怖したのだった。
さっそく朝廷は道真を右大臣に復し、正二位が追贈され、左遷の詔勅を棄てたが、効果なく、その二年後、今度は保明親王と時平の娘との間に生まれた子で皇太子の慶頼(よしより)が死んでしまった。 また、さらに五年後、旱魃を憂いて雨乞いをするかどうか議論していると、にわかに黒雲が生じて宮中の清涼殿に落雷し、道真の追い落としに与した藤原清貫(きよつら)が焼け死んだ。
だが変事はそれだけではおさまらず、直後に醍醐上皇の急死するに及び、朝廷は恐怖のどん底に突き落とされた。 ・・・・・≫
( 関裕二『もうひとつの日本史 闇の修験道』2015.10.5. KKベストセラーズ ワニ文庫 ↑)
「明日はあなたも殺人犯!!」 ↑
千葉市中央区新町 の 新町天満宮 参拝の後半です。
↑ 「新町天満宮」を南西側から見たもの。 東隣には「新町自治会館」があります。
↑ 道路を隔てた南側には「新町公園」。 JRと京成の「千葉」駅からすぐの場所で、「そごう」のすぐ南なので、周囲は店舗やオフィスビルばかりかと思うとそうではありません。 戸建住宅やマンションが建っている地域です。
「新町天満宮」は、かつては「登戸(のぶと)」にあったというのですが、千葉市の「登戸(のぶと)」というと、私などは、京成千葉線の「西登戸(にし のぶと)」駅を思い浮かべますが、「西登戸」駅付近だけが登戸ではなく、新町天満宮がある千葉市中央区新町の西隣、千葉都市モノレールより西側は「登戸1丁目」で、そこから北西に、登戸2丁目、3丁目、4丁目とあって、京成千葉線「西登戸」駅の南西側は登戸4丁目で、さらにその北西の登戸5丁目 があるようです。
《房総史譚 千葉町界隈(2)「遊郭」時代の新町》http://bousou.txt-nifty.com/blog/2008/09/post-730c.html には、≪ 登戸の天神山は江戸時代からの「馬つなぎ場」で、小さな飲み屋などが多くあった所です。 この新町一帯は、明治時代初期から「千葉新地(しんち)」といい、「遊郭」がありました。新地とは新しく居住地として開かれた土地のことで、全国的には遊郭などが出来たことが多かったことから、転じて遊郭・遊里を指すことが多いようです。 ・・・・≫と出ているのですが、その遊郭があったという「千葉新地」というのは、現在の新町なのか登戸1丁目~5丁目のどこかなのか。 そのあたり、どうもよくわかりませんが、現在、新町天満宮がある付近には、それらしき痕跡は、ざっと見まわした限りでは見当たりません。
新町天満宮のすぐ北の「千葉都市モノレール」↓ 「懸垂型」
↑ 福島県東部中部は福島第一原発事故で大変な状態になってしまいましたが、かつて、常磐自動車道の「いわき中央」インターチェンジを出て国道49号線をいわき市平(たいら)地区に向かって走ると、そこに「お帰りなさい。 お疲れさま。 ここはあなたのふるさと、いわき」と書かれたいわき市の「木村牛乳」という会社の看板が出ていて、本当にそんな気持ちになったものでした。 原発事故さえなければ福島県は浜通りも中通りもいい所だったのにととても残念に思います。 ・・・ただし、常磐自動車道で、茨城県北茨城市から福島県いわき市に入ってすぐのあたりに「ここは首都圏 いわき」と書かれた看板が立っていたのですが、あれには・・・・笑った。 「イナカくせえ~え」て、やっぱり、誰しも思うよねえ。(国道49号で、いわき市から郡山市に行くまん中あたり、行政区画としてはいわき市で、小野町に分岐する道がある所で、小野町の方へ行く道の脇に「美人発祥の地」と書いた看板が出ていたが、あれも・・・・笑った。 笑うよねえ、いくらなんでも、というか、あれは笑ってもらおうと思って看板だしてたんじゃないのかな。) で、「千葉都市モノレール」という↑のモノレールの名称ですが、なんで、「都市」という文句を入れたいのか? ちゃいばは都市なんだあ! と言いたいのか? なんか、イナカくせえ~え! て感じしませんか? 「千葉モノレール」でいいのじゃないかて気がするのですが、「都市」と入れたいというあたり、イナカくせ! て感じが・・・・。
↑ 「千葉都市モノレール」の「線路」、ちょっと錆びてますよね。 こういうの、メンテナンスする時てどうするのか。 よく見ると、「懸垂型」モノレールの上に手すりがありますから、この「線路」というのか「レール」というのかの上を歩けるということでしょうか。
大阪府吹田市の北部に、1970年の大阪万博の跡地があります。 大阪万博の時、小学生であった私は、大阪万博に出展していた独創的な建物が好きで、終了後、あれを壊してしまうのかと、とても残念に思いました・・・が、建築業界に勤め、建築についてある程度以上学んだ今、もしかして、万博で建てられていた「独創的」といえば「独創的」、「奇抜」といえば「奇抜」な建物って、もしかして、「半年間限定建築」てことないか? 半年以上1年以下くらいなら十分もつし、魅力的な建物ではあるけれども、もしも、10年以上そこにそのまま建てていると、“ボロ”が出てくる建物・・てことないか? とかいうことを考えるようになったのです。 そこにあった建物というのは独創的で魅力的ではあったものの、「半年間限定の万博建築」だったて、なんか、ありそうな感じがしませんか?
その大阪万博が閉幕した後、南東部のエキスポランドという遊園地はそのまま残り、ダイダラザウルスという、その頃はまだ珍しかった「絶叫型」というのかのジェットコースターも存続しました。 それまでのジェットコースターというのは、百貨店の屋上にある子供向けのもので、最初、ちょっとだけ、急坂を下りるスリルはあるけれども、一周ぐるりと走ってきて、ああ、おもしろかった、というものだったのですが、それが、相当のスリルを感じる「大人向け」のジェットコースターがそこに登場したのでした。
1980年代、その「ダイダラザウルス」のペンキ塗装の作業の手伝いの仕事に、「大学生」であった時、2月の閉園期間中にアルバイトで行ったことがありました。 怖かった。 「ダイダラザウルス」というジェットコースターの片側の横には保守のための通路が設置されてはいるのですが、鋼製の網でできていて、「手すり」は片側にあることはあるけれども、あまり高い手すりを設けたのではジェットコースターが走った時に視界を遮ることになるので、ごく低い手すりしかありません。 そこを、足場として設置するための丸太を2本、肩に担いで歩いてジェットコースターの一番高い所まで行くのです。 アルバイトの人間はズック靴しか履いていないし、丸太は2本担いで運びましたが、専門のとび職の人は地下足袋を履いて、丸太は2本ではなく3本かついで運んでいました。 その狭い通路の上で、「皮すき」という道具で、ふくれあがった前年までにペンキ塗装した部分をはがす作業もやりました。 本当に怖かった。 とび職は「安全帯をしてやれと言われるんだけれども、一箇所にずっといるのなら安全帯をしてやってもいいけれども、移動するのに安全帯なんかやって仕事できない」と言うのです。「安全帯なんかやってたら、かえって落ちる」という言葉も聞きました。 上でペンキ塗装をしていると、そのペンキが落ちてきて地上の施設の上にペンキが落ちて汚すことがあり、上からペンキが落ちてきた時に下のものを汚さないようにブルーシートをかけてまわったり、汚してしまったものをシンナーなのか何なのかを布につけてこすって落としたりといった作業もしました。 下から見ていると、足場をはずす時なのか、丸太を上から落とすことがありました。 聞いた話では、前年、ジェットコースターの高い所から地面まで落下した人がいて、死にはしなかったけれども、半身不随になった、という話を聞きました。
そういう経験をしてみると、はたして、そういうジェットコースターって必要なのだろうか? と疑問を感じました。 「動くものと高いところが好きな人間というのは、子供なのだ」という説もありますが、「絶叫型」のジェットコースターでスリルを味わうのが楽しいという人って、あんまり、文化的レベルが高くないのではないか。 教養人はそんなものに楽しみを感じるものではない、感じるべきではないのではないかと思いました。
慶應大の学生にこういうことを言うと、「そんなこと言ったって、そういう仕事をして食べている人がいるのだから、そういう仕事がなくなったら困るではないか」と言う人が多いのです。 そうでしょうか。 そうではなく、命の危険を冒して仕事をしなくても誰もが食べていける世の中を築くべく努力するべきなのではないでしょうか。・・・そのあたり、どうも、私と「慶應ボーイ」とは認識・感覚が相当ずれているのを感じました。
さて、モノレールですが、「千葉都市モノレール」のような「ぶら下がり型」(懸垂型)のモノレールと、羽田空港へ行く東京モノレールとか大阪モノレール、大阪万博の時に会場を一周していた万博会場内のモノレール、今はなくなった姫路駅から手柄山公園までのモノレールとか、大船から江の島までのモノレールとかのような「跨り形」のモノレールはどちらが良いのか。 なんか、地震で揺られた時、ぶら下がり型より跨り型の方が落ちにくそうて感じがするのですが、そのあたりはどうなのか私はモノレールの専門家でも何でもないのでよくわからない。 で、 ↑の写真なんか見ると、跨り型だと「線路」「レール」の上を歩くわけにはいかないのに対して、ぶら下がり形(懸垂型)は、「線路」「レール」の上を歩けるようにしてその両側にあらかじめ手すりを設置しておくことができるようで、この点で、保守のためを考えると、「ぶら下がり形」(懸垂型)の方が、メンテナンスや清掃をする人の安全にとってはいいのかもしれない、と思ったのですが、どうでしょうか。
最近、「半年間限定の万博建築」ではなく、継続的に使用する建物でも、コクーンタワーだとか変わった形状の建物ができ、東京都庁ビルのような高層ビルでなおかつ高層階の外側にも装飾がいっぱいある、凹凸がいっぱいある建物が建てられていますが、ほぼ直方体の建物であれば、屋上からゴンドラを吊るして保守や清掃をするということもできるでしょうけれども、グッゲンハイム美術館とかコクーンタワーとかそういう独創的というのか、直方体でない形状の建物で、かつ、高層の建物というのは、メンテナンスと清掃がしにくいと思うのです。 それを設計している「おえらい建築家の先生」というのは、そういうことを考えて設計しているのか。 考えてないのではないかという気がするのです。 ジェットコースターの一番高い所から落下して、死にはしなかったけれども半身不随になったという男のことなんか、「おえらい建築家の先生」というのはそんな人間のことなんか考える気はないのではないでしょうか。 はたして、そういうものが、質の高い建築と言えるのだろうか。 どうも、そのあたりに疑問を感じてしまいます。
↑ 手前のらせん状の建物は、「オーロラシティ パーキング」という駐車場で、「そごう」で3000円以上買うと2時間無料になるという駐車場。 これ、斬新でなかなかかっこいい建物のように見えますが、私はここにクルマを停めた経験があるのですが、駐車場の敷地内に入ってから実際に停める場所にたどり着くまで、ぐるぐるぐるぐるまわってけっこう時間がかかるのです。 だから、見た目はけっこうかっこいいけれども、駐車場としては必ずしも実用的ではないような気がします。 ↑の写真を見ると、この駐車場に停めたことがない人は、一度、ぐるぐる自分のクルマでまわってみたい気持ちにもなりそうですが、急いでいる時に実際にこのらせん状の車道を走ると、まだかいな、まだかいなて感じで、あんまり楽しいものではありません。
※ 《そごう 千葉店 駐車場案内》https://www.sogo-seibu.jp/chiba/access/
↑ 「そごう」と「オーロラシティパーキング」の途中の階をつなぐ渡り廊下。 最近は道路の上のこういう渡り廊下はそれほど珍しくなくなりましたが、1960年代の終わり、大阪府池田市の阪急「池田」駅の南側にあった「ダイエー」の池田店に新館ができた時、旧館と新館の間を5階だったか6階だったかでつないでいる渡り廊下を見た時には「すごい!」と感動もすれば、「大丈夫か?」とそこを通るのに不安も感じたものでした。
イタリアのリグリア州のサンレモというと、「サンレモ音楽祭」で有名ですが、サンレモは夏場は避暑地としてにぎわう場所ですが、冬場はオフシーズンで、そうであるからこそ、そのオフシーズンにも人を呼ぼうということでなのか、冬場の2月でしたかにアリストンシアターで「サンレモ音楽祭」が開催されます。 1998年夏、そのサンレモに行った時、サンレモの旧市街で、昔からの建物が建物と建物の間を「バットレス」というものでつないでいるのを見ました。 「バットレス」は、むしろ、建物の強度を増すために設置されているようです。
( ↑ サンレモ )
※ 《YouTube-Al Di La 映画「恋愛専科」主題曲・アルディラ エミリオ・ペリコーリ・歌 》https://www.youtube.com/watch?v=lRj5kZxYdyw&list=RDlRj5kZxYdyw#t=0
《YouTube- 》
そうすると、こういう建物と建物の間を渡り廊下でつなぐというのも、考えようによっては「バットレス」でつないで補強するごとく、むしろ、建物の強度を増すということも考えられるのではないか? ・・・といったことも考えられてきます・・・・・が、↑の写真など見ると、両側の建物と渡り廊下との間に緩衝帯となるような部分があるように見えます。 やっぱり、ここでは、「バットレス」のように渡り廊下が両側の建物をつなぐことで両側の建物の強度を増すのではなく、地震などの力が加わった際、両側の建物と渡り廊下との間で力がそのまま伝わらないように、という方の考え方をとっている・・・・みたいな感じがします。
↑ JR「千葉」駅。 いつの間にか、ずいぶんと感じが変わりました。
☆ 「新町天満宮(千葉市)参拝」は、上下2部作です。 【上】https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_6.html と合わせご覧くださいませ。
(2017.3.14.)
☆冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
市川市北方町4丁目の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_2.html
意富比神社 末社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市河原子の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
子守神社 摂社天神社(千葉市花見川区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201605article_3.html
千葉神社 摂社千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
新町天満宮(千葉市中央区)
【上】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_6.html
【下】 〔今回〕
石川県
金沢神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_1.html
椿原天満宮(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_2.html
田井菅原神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_3.html
京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
高台寺天満宮(京都市東山区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html
曼殊院天満宮(京都市上京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_4.html
大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
露の天神社(お初天神)(大阪市北区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_5.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html
綱敷天神社(大阪市北区)
1.綱敷天神とは。「北野」の由来。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_6.html
2.社殿と桜。堅魚木と千木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_7.html
3.「戦災の狛犬」、筆塚。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_8.html
4.白龍社、歯神社。綱敷天神社の周囲https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_9.html
綱敷天神社 御旅社(大阪市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_11.html
池田市天神1丁目・2丁目 http://shnkahousinght.at.webry.info/201405/article_10.html
西江寺 摂社天満大自在天神(箕面市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
上新田天神社(豊中市)
1 千里中央駅から。電柱看板の是非。卑怯者不動産屋店長https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_15.html
2 鳥居から参道階段を経て拝殿へ。「他力」とは https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_16.html
3 拝殿・本殿・牛・屋根・稲荷社他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_17.html
4 神社の社殿を背後から見下ろす下品な高層マンション https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_18.html
熊本県
山崎菅原神社(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_6.html
船場天満宮(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_7.html
手取天満宮(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_8.html
≪ 平安時代の怨霊といえば、「祟る菅原道真」が名高い。・・・・
菅原道真(845-903)は平安前期の著名な学者であり、また敏腕政治家としても活躍した。平安時代に多くの学者を輩出した菅原氏は古代名族の一つ、土師氏の末裔であった。
土師氏は神代から続く名門豪族で、その祖は天穂日命(あめのほひのみこと)である。 この神は、出雲の国譲りの直前、出雲乗っ取りを画策する天孫族が出雲に送り込んだ神だったが、天穂日命は出雲に同化してしまい、天孫族の思惑からはずれた格好となった。 出雲の国譲りののち、天穂日命の子孫は出雲臣を名乗り、出雲国造家(こくそうけ)となって、出雲神である大国主神を祀っていくようになる。 この天穂日命の十四世の孫に野見宿禰(のみのすくね)がいて、この人物が垂仁天皇の時代、殉葬の風習をやめ、古墳の周囲に埴輪を置くことを提案したという。 これ以降、土師器(はじき)の「土師」を名乗り、さらに桓武天皇の時代、土師氏は菅原に姓をあらためた。 ・・・・・
結局、菅原道真は文人肌の政治家として出世し、複雑な権力闘争の生け贄になったのである。 大宰府へ赴いた道真は、太宰権帥(だざいのごんのそち)(大宰府の次官)にあったが、実際は幽閉であった。 道真は延喜3年、大宰府で憤死する。 晩年の生活は筆舌に尽くし難く、雨漏りのする部屋で、石を焼いて暖を取るも、困憊激しく、脚気(かっけ)と皮膚病に苦しんだという。 子供たちも土佐、駿河、飛騨、播磨に飛ばされ、道真の恨みは深かった。
ちなみに、菅原氏が出雲国造の子孫であったことが、道真の祟りの恐怖を増長させた最たる理由だと思うのだが、もう一つ付け加えておきたい。 六世紀から七世紀にかけて、土師氏は蘇我氏に接近し、蘇我氏とともに没落した疑いが強い、ということである。 この点から、藤原氏が菅原氏を警戒し、彼らを「蘇我」という「亡霊」と同類とみなしていたのではないかと思われるふしもある。 ≫
( 関裕二『もうひとつの日本史 闇の修験道』2015.10.5. KKベストセラーズ ワニ文庫 ↑)
平田耿二(こうじ)『消された政治家 菅原道真』(2010.7.20. 文春新書)には、
≪ 菅家の住いは、曾祖父 古人(ふるひと)の時代には奈良平城京内にあり、西ノ京の大和国添下(そうのしも)郡菅原郷に本貫(ほんかん)(本籍)があった。いまの奈良市菅原町付近で、式内社の菅原神社が氏神として鎮座し、行基が建立した菅原寺(喜光寺 きこうじ)が今も存在する。菅原郷の地には当時習宜(すげ)池があり(『法隆寺伽藍縁起井流記資材帳』)、右京三条三坊にあたる京内に菅原池があった。・・・
平城京を造営するときに、菅原の地に住む九十余家を移転させているから、菅原という地名は京内から京外にかけての呼称であった。習宜(すげ)は「スガ」とも訓み、奈良時代になると政府の命令によって、一字を二字の好字(よきじ)に改めなければならなかったから、「菅」を「習宜」に改めたものである。 ・・≫ とでている。
「習宜」は「スゲ」とも「スガ」とも読めて、菅原道真の「菅」と「習宜」は共通するとして、「菅(スガ)」「習宜(スゲ、スガ)」は、「蘇我(ソガ)」とも通じるところがあるのかもしれない・・とすると、藤原が滅ぼした蘇我入鹿の「蘇我(ソガ)」と菅原道真の「菅原」の「菅(スガ)」には何らかの関係がある可能性も考えられてくる。 もっとも、藤原氏は、乙巳の変以来、はぶりをきかすようになったといっても、私の知り合いで「藤原」という苗字の人間はいるが、誰もが裕福かというとそうでもないし、苗字の2文字のどちらかに「藤」か「原」のいずれかが入っている人は藤原家となんらかの関係がある場合が多いという話があるが、あくまで、「なんらかの関係」であって、この場合、「藤原家に仕えていた」というのもあれば、「近所に住んでいた」とかいうのもあるというので、「なんらかの関係」はあくまで「なんらかの関係」ではあるが。
≪ 延喜9年(909)、道真を無実の罪で左遷に追い込んだ主犯の藤原時平は39歳の若さで亡くなり、しかもその前年には、やはり道真の左遷に協力した藤原菅根が没している。 悪い予感が、都人の脳裏に浮かんだに違いない。
都に異変が起きたのは、道真の没後20年ほどたった、延喜23年(923)のことであった。 醍醐天皇の皇太子・保明(やすあき)親王が21歳の若さで急死したため、道真の祟りに違いないと、宮中が震撼した。
『日本紀略』にはこの時の様子を、次のように記している。
世をあげて云ふ。 菅帥(かんそち)の霊魂 宿忿(しゅくふん)のなす所なり。
世の中の人々が、みな菅原道真の怨霊に恐怖したのだった。
さっそく朝廷は道真を右大臣に復し、正二位が追贈され、左遷の詔勅を棄てたが、効果なく、その二年後、今度は保明親王と時平の娘との間に生まれた子で皇太子の慶頼(よしより)が死んでしまった。 また、さらに五年後、旱魃を憂いて雨乞いをするかどうか議論していると、にわかに黒雲が生じて宮中の清涼殿に落雷し、道真の追い落としに与した藤原清貫(きよつら)が焼け死んだ。
だが変事はそれだけではおさまらず、直後に醍醐上皇の急死するに及び、朝廷は恐怖のどん底に突き落とされた。 ・・・・・≫
( 関裕二『もうひとつの日本史 闇の修験道』2015.10.5. KKベストセラーズ ワニ文庫 ↑)
「明日はあなたも殺人犯!!」 ↑
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