「ミロンガ ヌォーバ」(神保町)-名曲喫茶。 『カムイ伝』とタンゴ。教えるべきでない相手に教えた失敗

[第561回]
   神田神保町の名曲喫茶「白十字」は、1983年、白山通りを歩いていて見つけた。「しろじゅうじ」と読むのかと最初は思ったのだが、「はくじゅうじ」らしい。 同じく名曲喫茶「さぼうる」と「さぼうる2」、それにタンゴの名曲喫茶「ミロンガ ヌォーバ」は1988年、神田神保町にある会社に勤めた時、都営三田線・新宿線の「神田神保町」駅の案内図に「名曲喫茶」と書かれているのを見て訪ねた。 「ミロンガ ヌォーバ」のはす向かいに「ラドリオ」がある。「ラドリオ」は神田神保町駅の案内図には「名曲喫茶」とは出ていなかったが、「ミロンガ ヌォーバ」と「ラドリオ」がある東西方向の路地というのが、なんともいい味を出しているし、なんだか由緒ありげな雰囲気を持っており、入るようになったが、ここも音楽はかかっているので、「名曲喫茶」の中に入れてもいいのかもしれないが、「名曲喫茶」とは書かれてはいない。私が「さぼうる」「さぼうる2」「ミロンガ ヌォーバ」を知った神田神保町駅の案内図は今はない。

【1】 「ミロンガ ヌォーバ」
   「ミロンガ ヌォーバ」の店名は、最初、「ミロンガ」かと思ったのだが、「ミロンガ ヌォーバ」が正しいらしい。それまで、タンゴというと、「ちょっとエッチな踊り」というイメージだったのだが、とりあえず、「名曲喫茶」である以上、入らずばなるまいと思って入店して、そして、タンゴというものが、踊りと別に音楽としてすばらしいものだと思うようになった。そもそも、あの「ちょっとエッチなダンス」とタンゴの音楽が結びつかないといけない理由はないようにも思うのだ。この「ミロンガ ヌォーバ」でタンゴの音楽を聴いてそう思ったのだ。「ミロンガ ヌォーバ」ではタンゴの音楽はかかっているが、「ちょっとエッチなダンス」はない。 「名曲喫茶」である以上、当たり前かもしれないが、ここでは「タンゴ」とはタンゴの音楽の方である。
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〔 東側から見た「ミロンガ ヌォーバ」。 左奥に見えるのが「ラドリオ」。 右奥は「書泉グランデ」の背面(南面)。〕
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〔 西側から見た「ミロンガ ヌォーバ」。〕








〔 「ミロンガ ヌォーバ」 ↑〕
   近くに書泉グランデ東京堂書店がある。 冨山房もあったのだが、1980年前後、私が東京圏に来た頃、冨山房は2階建ての書店だったはずだが、そのうち、1階だけの書店になり、さらにそのうち、冨山房ビルはあるが書店としての冨山房はなくなってしまった。 三省堂書店本店も近いのだが、私は三省堂よりも書泉グランデと東京堂書店の方が本を探しやすい、売場が見やすい、又、自分が欲しい本が置いてあるのでよく利用してきた。 東京の大規模書店で今まで多く利用してきた書店としては、新宿の紀伊国屋と神保町の書泉グランデが最も多く利用してきた書店かと思う。 1988年に勤めた会社は、たしか、土曜日は3時までだったと思うのだが、それで、書泉グランデで買った本を持って「ミロンガ ヌォーバ」に入り、タンゴの音楽を聴きながら買ったばかりの本を読んだことが何度かある。 学問的な本も買ったが、白土三平『カムイ伝』(小学館)などもここでタンゴを聴きながら読んだことがある。 白土三平の劇画にタンゴはバックミュージックとしてなかなか合ったように思う。 書泉グランデは今もあるが、残念ながら、その内容が大きく変わってしまい、今は、かつて、私が何度も通って購入したような品揃えの店ではなくなってしまったようだ。
※ 《YouTube―アルフレッド・ハウゼ ラ・クンパルシータ》https://www.youtube.com/watch?v=8Lbth1LTDCw
   一度、考えてみていただきたいのだが、たとえば、「ラ=クンパルシータ」の音楽は、白土三平の『カムイ伝』や『ワタリ』のバックミュージックとして合いそうに思うのだ、というより、私にとっては合っているのだ。少なくとも、あの「ちょっとエッチな踊り」よりは『カムイ伝』や『ワタリ』の方が。 で、あの「ちょっとエッチな踊り」が悪いとは言わんが、「ラ=クンパルシータ」などと無理にセットにする必要があるようには思わないのだが、どうだろうか。

   「ミロンガ ヌォーバ」は、私にとっては最初から「タンゴの名曲喫茶『ミロンガ ヌォーバ』」だったのだが、遠藤周作『眠られぬ夜に読む本』(1996.9.20.光文社文庫)に、かつて、ここに「ランボオ」という名前の店があり、それが後に「ミロンガ ヌォーバ」になったらしいことが書かれていた。 遠藤周作にとっては、元「ランボオ」のようだ。
≪ 四十年前といえばまだ大学三年生の時だった。 戦争で東京の大部分は焼けたが、ふしぎにこの一角は残っていて「ランボオ」の向かい側にある冨山房という出版社も戦火をまぬがれた古い建物をそのままにして使っていた。
   私は大学で仲よくしていた一学年上の吉田という男から「ランボオ」という店の名を教えられた。 吉田はその前年に卒業して、ある出版社に入社していたから、文壇のさまざまな事情を私にいつも伝えてくれるのだった。
「『ランボオ』は、戦後派の作家の溜まり場所みたいになっているんだよ」
 と彼は言った。
「そこに行けば武田泰淳や梅崎春生や椎名麟三を見られるかもしれない
  その頃、この三人の作家の名は大学の文学部の学生には実にまぶしいものだった。・・・・・
「連れていってくれよ」
 と私は吉田にたのんだ。「蝮のすゑ」や「日の果て」など。本を通してしか知らない実作者がどんな顔をして、どんな風態をしているのかをこの眼で見たかった。・・・・・・
   二階が昭森社(しょうしんしゃ)という出版社になっていた。「ランボオ」の扉は厚い木でできていた。吉田がそれを押すと、なかからは何人かの笑い声がどっと聞こえてきたのを今でも覚えている。
   隣の席にいささか畏まりながら腰を降ろして、上眼づかいに観察すると、テーブルをかこんで写真でみた顔がいくつかあった。吉田が声をひそめて、
「あれが椎名麟三、その隣が埴谷雄高、そして、あそこで眠っているのが武田泰淳」と教えてくれた。
   窓際に風呂敷つづみをおいて一人の男が寝そべっていた。いかにも疲れ切ったというその表情には見覚えがあった。私の愛読していた「蝮のすゑ」の作者だった。椎名氏は埴谷氏と焼酎をのみながら議論をしている。
   色の白い娘さんがコップやチーズをのせた皿を運んでいた。 それが後年の武田泰淳夫人の百合子さんである。 ≫
≪  「ランボオ」は私にとっても青春の忘れがたい場所だが、やはりあそこは戦後文学を語る場合、話題にのぼっていい酒場だった。
    四十年前に歩いたその裏路に、一昨日、私は「ランボオ」をさがした。 向かい側の冨山房はとりこわされて、今、新しいビルを建てるべく準備中のようである。
   「昭森社」という看板が眼についた。こういっては失礼だが、あの戦後の建物をそのまま残している。懐かしさに胸しめつけられる思いでその一階をみると、「ランボオ」はなくそこはM・・・・という喫茶店になっていた。
    扉を押してなかに入る。昔とおなじ広さ。インテリアは変わっているが窓の位置もそのままだ。 二人の客が本を読み、雑誌を読んでいる。 天井も壁もおそらくあの時のままではないだろうか。
   私は隣の席で珈琲を飲みながら、四十年前のこの場所での光景を心に甦らせた。あちこちで聞こえてくる文学論、笑い声、焼酎の瓶。
   ローマやロンドンに行くと、芸術家の集まり場所だったキャフェが、それを記念して書いたプレートを壁にはって市の名所になっている。 しかし、日本ではそういう習慣はない。だからこのM・・・・という店の人たちも、二人の客も、この空間のなかで日本の戦後文学が作られたことを知らないだろう。 ・・・・≫
(遠藤周作『眠れぬ夜に読む本』1996.9.20. 光文社文庫 「神田の裏通りで・・・・・」 )

   『古本・神田神保町ガイド』(2003.11.15.毎日新聞社)には、
≪  戦後の一時期に「ランボオ」という伝説の喫茶店があった。埴谷豊や武田泰淳らが常連客として通った店だったが、2年ほどで閉じられた。昭和27年(1952年)、アルゼンチンタンゴの店としてよみがえったのが、この店の始まり。今も当時の風情が残る。
   ミロンガとは、アルゼンチンタンゴの原型ともいうべき歌のこと。所有するLPは500枚、CDも200~300枚になる。LPは音に深みがあり、リクエストする常連客が多い。・・・・ ≫
と出ている。

   私の場合、『古本・神田神保町ガイド』で「ミロンガ ヌォーバ」を知ったのではなく、遠藤周作『眠られぬ夜に読む本』で「ランボオ」の跡の「M・・・・」という店を探して見つけたのでもなく、神田神保町駅の案内図に書かれていたのを見て、この界隈に来て、なんか、すごい通りがあり、すごそうな店があると思って入ったのが最初だった。 それ以来、「ミロンガ ヌォーバ」は、神田神保町に行くことがあると、しばしば、立ち寄る店になった。

   遠藤周作『眠られぬ夜に読む本』によると、「ミロンガ ヌォーバ」の前にあった「ランボオ」には、埴谷豊や武田泰淳がしばしば来ていたというが、そういえば、武田泰淳の『風媒花』で登場人物が語り合う場所だが、「ミロンガ ヌォーバ」の店内のような場所であるとすれば、なんとなく、話が合いそうにも思えてくる。

   神田神保町の名曲喫茶というと、3回、教えるべきではない相手に教えてしまった失敗経験がある。
(1)   一回は、私と同じ中学校から同じ高校、大阪府立北野高校に行って、慶應大の経済学部に先に行ったSである。 これは、私としては「教えた」つもりではなく、ある程度以上のレベルの東京の大学生というものは、神田神保町の書店(新刊書店・古書店の両方を含む)や名曲喫茶に足を運ぶものだと思っていて、それで、神田神保町の名曲喫茶に行ってきたことを話したところ、Sからバカにした調子で言われたのだ。「おまえ、なんか、東大の学生みたいなことするなあ」と。 そして、言われたのだ。「俺の知ってる慶應の学生で、名曲喫茶なんてそんなものに行くやつなんて、見たことないぞ」と。 「慶應の学生なら、慶應の学生らしくしろよ。 慶應の学生なら神保町に行くとすれば、芳賀書店に行くものだろうが。 慶應に行っておきながら東大の学生みたいなことすんなよ、おまえは。 慶應に行ったら、慶應の学生らしく芳賀書店に行くものだろうが。 ちょっとは気をつけろよ」と、そう言われたのだ。
   よく知らない方のために説明すると、「芳賀書店」というのは、神田神保町交差点のひとつ西側の「専大前」交差点の南東側のカドにあるビルの店で、ポルノ書籍やアダルトビデオ(その頃は「ビデオ」だが今ならDVDだろう)、「大人のおもちゃ」といったものを販売している店で、ビル全体がそういうものの販売をおこなっている店であえる。 名曲喫茶に行くのは「東大の学生みたい」な態度で、そういう芳賀書店のような店に行くのが「慶大生らしい態度」だと彼は言うのだ。 芳賀書店に行くというのが、それが「慶大生のアイデンティティー」らしいのだ。
   実際、私は、慶應義塾大学という日本で最も嫌いだった大学に、暴力と脅迫で行かされてしまい、慶應の学生や教授を見て、こいつらと関わると、悪影響を受ける、というより、ビョーキ移りそう!!! と思って、嫌だったし、自分がこの上もなく品行方正かというと、そうは思っていなかったけれども、しかし、大学生というものは、阿部次郎『合本=三太郎の日記』(角川選書)とかそういうものを読むものであって、芳賀書店に行って「ビニ本」とかを購入して見るのが大学生ではないと思っていた・・・・が、そういう認識は「東大の学生みたい」で、「慶應の学生なら芳賀書店に行ってビニ本見るもんだろうが」というのがS本の主張だった。
    「作家で精神科医」の なだ いなだ が『人間、この非人間的なもの』(筑摩書房)で述べていたのだが、戦中、なだ いなだ は学生だったが、「どうも、日本は負けそうだなあ」と、何気なしに口にしたところ、「おまえはそれでも日本人か!」と言って怒られた、というのだ。 「おまえはそれでも日本人か」と言われても、それでも、日本人なんだから、しかたがないじゃないか、と なだ いなだ は書いていた。 この「おまえはそれでも日本人か」という言葉には、ある人間が、日本人とはこういうものだと規定した「日本人」の像があって、「日本人にもいろいろあらあな」という姿勢を認めない、そういうものではない日本人の存在を許さない思想がある、と なだ いなだ は指摘していた。 私は、この『人間、非人間的なるもの』のこの部分の文章を最初にどこで読んだかというと、高校の「現代国語」の教科書に掲載されていたのだ。 そこで最初に読んで、その後、大学生の立場の時に、この本を慶應の生協書籍部で取り寄せて全文を読んだ。
    私は、この本は高校の「現代国語」の教科書に掲載されているくらいだから、今の日本においては、特別の異端的な立場の認識ではないだろうと思っていた。 この「おまえは、それでも日本人か」という「日本人にも、いろいろ、あらあな」という態度を許さない思想・態度というのは、これは戦中の軍国主義・ファシズムの日本において蔓延していたもので、なだ いなだ より少し年上である私の母などに話しても、「戦中、そう言われたものよ」、「『日本は負けそうだな』なんて、とても、言えなかったよ」ということだった。 そして、「戦後民主主義」と言われる時代の教育においては、そういう、「日本は負けそう」であるにもかかわらず、「負けそうだな」と口にするのは許さないという態度、「日本人にもいろいろあらあな」という姿勢を許さない姿勢というのは、これは否定され、そういうことではいけないというのが、「戦後民主主義」の考え方であり、それが一般的な日本国民の認識であり、「戦後民主主義」の教育であったはずであった・・・・のだが、ところが、慶應義塾という学校においては、「ええ~え、そんなの、慶大生らしくないよお~お」などと口にする男・女というのが、そのへんにゴマンといたのだ。「そのへんに」というのは、慶應の日吉キャンパスを歩いていると、こういう文句があちらこちらから聞こえてきた。「せんえつぅ~う」と言って、自分自身で考えて自分自身の考えを述べるという態度の者を攻撃する。かつ、その「せんえつぅ~う」と言って自分自身で物事を考えて判断して自分の考えを述べる態度を否定・攻撃する態度のことを「独立自尊」などと言う。 そして、先のS本のように、「慶應の学生なら慶應の学生らしくしろ」という文句。 この「慶應の学生らしくしろ」というのは、どういうようにしろということかというと、要するに、先に述べたように、神田神保町に行ったら、新刊書店・古書店に立ち寄ったり、名曲喫茶に寄ったりするのではなく、芳賀書店に行ってエロ本を購入してくるというのが、それが「慶大生らしい態度」だそうだった。 それが「塾風」であり「慶應ボーイ」であり、「ギャルにもてもて」とかいう態度らしく、それが「福沢精神」だそうだ。 遠山啓は『競争原理を越えて』(太郎次郎社)において、学校の名前を自慢する人間というのは、学校の名前以外にとりえのない人間だということを述べ、そして、大学受験において成功しようが失敗しようが、そんなことはおかまいなしに、自分がやろうと思った学問・研究を進めていく者こそ有能な人間ではないかといったことを述べていた・・・・けれども、どうも、慶應義塾大学という所に行ってしまうと、名曲喫茶に入り、その気分を味わうということをおこなおうと思っても、「そんなもの、東大の学生のやることだろうが。おまえ、慶應に入ったなら、慶應の学生らしく、芳賀書店に行けよ。 東大の学生みたいなことしやがって、腹立つなあ、おまえは」とか言われるわけだ。 慶應という学校は、なんとも、学問をしにくい学校だと思った。念のため、断っておくが、私は別に特別に品行方正だとか思っているわけではない・・・・が、「芳賀書店に行け」と命令される大学というのは、住み心地の悪い、学問をする所としてはふさわしい場所ではない大学だ、という印象を持った。
   私は、慶應大学の「学生相談室」という所に行って、この話をした。私としては、神田神保町に行って名曲喫茶に入るというのは「東大の学生のやること」で、「慶應の学生なら、慶大生らしく芳賀書店に行け」というのは、それはおかしいと思い、「学生相談室」の「カウンセラー」ならば、当然、私と同じように、「それはおかしいですね」と言ってくれると思って行ったのだ・・・・が、違った。 「カウンセラー」にして慶應大学の講師だったかの女性T橋はこういったのだ。「『慶大生としてのアイデンティティーを持て』ということですね」と。 はあ? はあ~あ???・・・・。その時は、ともかくも、「カウンセラー」・「心理学者」である慶應大学の教員がそう言うのだから、それが、「アイデンティティー」という言葉の正しい理解なのか・・・?とか思ったのだが、いくら考えても、Tの言うことは納得がいかない。結論として、「アイデンティティー」だの「自我」だのなんだのという、「心理学」「精神医学」の理屈・用語などというものは、「戯言(たわごと)」である。 その頃、1980年代だが、新聞(何新聞だったか忘れた)に、アフリカのどこの国だったか、「社会主義」を名のりながら、虐殺など繰り返している国について、他の社会主義国の党首だったか首相だったかが、「狂った男にマルクスがくっつくと、狂ったマルクス主義ができる」と批評していたのを見た。それと同じ。狂った男にフロイトがくっつくと、狂った「精神分析」ができる。内部進学のへんてこりんな思考の女に「カウンセリング」がくっつくと、へんてこりんな「カウンセリング」ができる。「精神医学」「心理学」「精神分析学」だの何だのと言って、そういう特別の「専門用語」で話されると、どうも、「専門家」の「診断」が正しいかのように思いそうになるが、そうではない。 アメリカ合衆国ニューヨーク州立シラキュース大学の「精神科」教授トマス=サズが、『「精神医学」という神話』(岩崎学術出版社。 日本では『精神医学の神話』という訳名で出版されたが、英語のofを「~の」と訳してしまったことからそういう訳名になったが、この「of」は同格のofとして、「~という」と訳す方が本の内容に合致している)で、「彼らが言っていることを聞くのではなく、彼らがやっていることを見るべきだ」というアインシュタインの言葉を引用し、「精神科医」と称する人間がやっていることというのは、それは医学ではなく、文学・哲学・社会学といったものであり、「精神医学」の用語などというものは戯言である、と指摘しており、又、「何でも、一般用語で述べるよりも、専門用語で述べる方が、内容までもレベルが高くなるというものではない」と指摘している。まさに、それはその通りである。「精神科医」「心理学者」と称する胡散臭い連中が「医学」だ「心理学」だとして主張すると、その「診断」に従わないといけないかのように思いがちであるが、彼らが文学・哲学・社会学といって次元で述べるのであれば、それは妥当である時もあればふさわしくない時もあり、ひとつの意見・主張として検討すればいいのだが、「医学」だ「心理学」だと称して主張するならば、そういった主張のしかたが間違っていると言わざるをえない。「専門用語」で述べることによって自分の主張をきかせてやろうという態度、自分の「言うことをきかせてやろうという態度」はファシズムの傾向の態度であり、民主主義を否定する方向の態度である。 さらに、東大精神科医師連合の森山公夫は『現代精神医学解体の論理』(岩崎学術出版社)において、フロイトの価値がある発見とフロイトの体系化の失敗とを区別し、フロイトとフロイト以降の「精神分析家」と称するエピゴウネンとを区別する必要があることを指摘し、フロイトの死後、「精神分析家」と称するエピゴウネンがフロイトの間違いの部分を拡大再生産している、と指摘している。 「作家で精神科医」の なだ いなだ は、『娘の学校』(文春文庫)で、「精神分析教の信者は、あまり身勝手な解釈はやめた方がいい」と指摘している。 実際のところ、「心理学者」「精神医学者」を名のる痴れ者のおかげで、日本人はどれだけ、迷惑してきたことか。 「モラトリアム人間(病)」だの何だのかんだのといいかげんな「病名」を発明しまくって印税でガッポガッポ儲けてきたのは、慶應大学医学部助教授の小此木啓吾だったが、あんなアホの本なんか、便所でケツ拭くのにも役に立たんわ。
   トマス=サズ『「精神医学」という神話』(岩崎学術出版社)・『「精神医学」という狂気の思想』(新泉社)はいずれも名著である。 いずれも、絶版になってしまっているのが残念であるが、鋭い指摘がなされている。 慶應大学の「学生相談室」の「カウンセラー」にして自称「心理学者」の「心理学」などというものは、しょせん、おそらく内部進学らしいその女の貧困な頭の中身を「心理学用語」を使って表現しただけである。要するに、「慶大生なら、芳賀書店に行け」というのを「(慶大生としての)アイデンティティーを持てということですね」という表現にしたということである。 「慶大生のアイデンティティー」というのは芳賀書店なのか・・・・? なんだか、貧困な「アイデンティティー」だな・・・・。
   そもそも、「アイデンティティー」というのは、個人が持つものであって、大学とか学校というものが「アイデンティティー」なるものを指定して、それを個人に強制するべきものだろうか? そういう強制が通じる社会というのは、それは民主的な社会ではないのではないか。 もし、それが慶應の「アイデンティティー」ならば、慶應義塾という学校は民主的な学校ではないことにならないか。 1980年代のなかば、中曽根康弘が「天皇制を日本人のアイデンティティーにしよう」などと言い出した時があったが、「芳賀書店に行け」というのが「慶大生のアイデンティティー」という主張は、それと同様のもので、民主主義に敵対する思想であると考えざるをえない。
   慶應大学という大学に行って、慶應の学生というのは、特に内部進学の人間を中心として「おまえはそれでも慶大生か」という表現が大好きだということを知り、こいつら、高校まで勉強してきてないのじゃないかと思った・・・・のだが、内部進学の人間というのは、私のような大学から慶應大学に入った人間、彼ら内部進学の人が言うところの「(慶應義塾の)外部の者」と違って、小学校から高校までの勉強というものはしてきていないのだ。黒川行治せんせえという商学部の「この僕は中等部から慶應に行ってるんだぞお。おまえら外部の者とは違うんだ。わかってんのかあ」と叫ばれた助教授(今は、教授になられたらしいが)が、講義の最中に、「小学校から高校までの勉強は害があるんだ。わかってんのかあ~あ!」と絶叫されたことがあったが、それが慶應義塾の思想らしい。だから、私のように、小学校から高校までの勉強は価値があると思って、それをさらに進めたいと思い、小学校から高校までの勉強をしてきた者が大学に行く資格があるという認識をしてきた者とは、黒川行治せんせえなど内部進学のお方とは、認識が180度異なるわけだった。
   王貞治は台湾人で、小さい頃から、お父さんから「我々はここでは外国人なんだ。だから、周囲の人たちには好かれないといけない。決して嫌われてはいけないんだ」と教えられた、と何新聞だったかに書かれていたのを読んだことがあるが、それと似たところがあって、私のような公立進学校出身で国立大学に行くつもりでいたのが、何の因果かいやいや慶應大学に行かされてしまった、という者にとっては、慶應義塾という学校においては、「ここでは我々は外国人なんだ。ここでは周囲の人に好かれないといけないんだ。決して嫌われてはならないんだ」ということになるのかもしれないが、だからと言って、「このぼくは中等部から慶應に行ってんだぞお。我々内部進学の人間はおまえら外部の者とは違うんだ。わかってんのかあ~あ! 小学校から高校までの勉強は害があるんだ。わかってんのかあ~あ!」と講義の最中に教壇で叫ばれる人たちの巣窟においては、たしかに、おのれの本質を隠し、彼らに嫌われないように潜伏する工夫は必要であるとしても、だからといって、内部進学のブタ人間どもを見習って同質化して、神田神保町に行くなら、芳賀書店に行け! というような主張は聞きたくないものだと思った。 こういう認識の人間を慶應義塾では「協調性がない」と言うらしい。私は、自分が芳賀書店に行きたい人間だから、名曲喫茶に行きたいという人間を認めないという態度の人間こそ、「協調性がない」と考えるのであるが、それは小学校から高校までの勉強を通じて身につけた認識であるので、「慶應タイプ」の内部進学の人たち、「小学校から高校までの勉強は害があるんだ。わかってんのかあ」という思想の人たちからすれば、「芳賀書店に行け」というのが「慶大生らしい思考の柔軟さ」であり「協調性」であり「慶應義塾のアイデンティティー」であり「福沢精神」であるということになるようだった。 逆に、 「自分が芳賀書店に行きたいなら勝手に行けばいいことであり、名曲喫茶に行きたい人間を妨げるような態度を取るべきではない。人それぞれに考えがあるのだから、自分が芳賀書店が好きだというなら自分が芳賀書店を愛好すればいいだけのことで、名曲喫茶が好きな人間もまた認めるべきである」という主張・認識の者というのは、彼らからすれば、「協調性がない」「慶大生らしくない」「おまえはそれでも慶應の学生かあ!」ということになり、「塾風を身につけていない」「福沢精神を身につけていない」「アイデンティティーを持っていない」「自我が確立されていない」「人間的に未成熟である」「モラトリアム人間病にかかっている」等々等々という「診断」になるらしい・・・・が、トマス=サズが言うように、彼らの「診断」だのは、結論として、「戯言(たわごと)」なのだ。 いちいち、相手にするとうるさいから、彼らはできるだけ相手にしないように、彼らには本音を言わないように気をつけることが大事である。
   彼らにとっては、「ランボオ」も「ミロンガ ヌォーバ」も遠藤周作も武田泰淳も埴谷豊も なだ いなだ も、「そんなものは受験勉強だ。害があるんだ。わかってんのかあ」というものなので、かわいそうな人たちだな・・・とは思うが、彼らに、それは違うと思いますよ、などと言うと怒るので、怒る人に教えることはない。慶應の内部進学の教授・助教授にとっては、自分たちが知らないもの・わからないものは、大学入試に出題されないものでも大学入試にない科目であっても「そんなものは受験勉強だ」「害があるんだ」ということになる。彼らはそういう教育を「中等部から」とか相当若い頃から受けてきている人たちなのである。
   私が行った公立の小学校では、低学年の時の先生というのは、給食では、できるだけ、好き嫌いなく何でも食べるようにさせようと努力したものだ。中には失敗もあったと思う。小学校の3年の時、牛乳を飲めない生徒がいて、担任の教諭は、毎日、無理にでも飲ませようとして、もともと、赤っぽい顔の男が「はあ、はあ」と肩で息をしながら苦しんで苦しんでいくらか飲んでいたが、あれは「牛乳アレルギー」であって「好き嫌い」とは別のものと思う。まだ、「アレルギー」というものが世間にそれほど認知されていない時代だったということもあるが、あれはあの教諭の失敗であると思う。しかし、ともかくも、食べ物の好き嫌いはできるだけなくそうと教育するのが公立小学校の教育だった。 それに対して、慶應の幼稚舎(知らない方の為に説明すると、慶應の「幼稚舎」とは幼稚園のことではなく小学校のことで共学、中学校は「普通部」という男子校と「中等部」という共学がある)では正反対の教育をおこなっていたようだ。慶應のあるサークルの合宿にいった時、「幼稚舎から慶應」の男が、「種無しブドウなんて、よくそんなめんどうくさいもの、食べるなあ~あ」と言って、普通に種無しブドウを食べる私などを軽蔑の眼で見たことがあった。彼は「ひとに皮をむいてもらってお皿にのせてもらって、スプーンですくってなら食うけれども、そんなもん、自分でひとつひとつちぎって食べるなんて、そんなおかしなこと、できるかあ」と言うのだ。「蜜柑でもそうだ。ひとに皮をむいてもらってカラスにしてもらってなら食うけれども、自分で皮むいて食うなんて、そんなおかしなことできるかあ」とそう言うのだ。どうやら、慶應幼稚舎では、種無しブドウは人に皮をむいてお皿に盛ってもらってスプーンですくって食べるものだと教育しているようだ。そして、「外部の者を教育してやらんといかんからなあ」と、彼は言ったのだ。驚いた。種無しブドウ(デラウエア)をひとに皮をむいてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくって食う男が「教育してやらんといかんからなあ」と言うのである。おまえが教育するのか?おまえが教育されるべきと違うのか?その内部進学が「教育」するとして、どちらの「教育」をするのかというのが問題がある。「種無しブドウというものは自分でひとつひとつ房からちぎって食べるものではない、ひとに皮をむいてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくって食うものだ」と「教育」するのか、それとも、自分たち「幼稚舎から慶應」の人間、「本物の慶大生」の為に、「外部の者」は種無しブドウを房からひとつひとつちぎって皮をむいてお皿に盛って差し上げろと「教育」するのか。・・後者みたいですね。彼は言ったのです。「こらあ。むけえ」と。彼らはそういう「教育」を受けてきた人たちなのです。但し、彼らが勘違いしているのは、彼ら、内部進学の人たちというのは、私たち、大学から慶應大学に行った人間と違って、慶應義塾という団体に自分たちは小学校からカネを払ってきたのであり、慶應義塾は内部進学の人間のものであって「外部の者」のものではないと認識しているようですが、しかし、その「外部の者」「外部の連中」というのは、ともかくも、学費を払って慶應大学に行っているのであって、内部進学の人たちから彼らの下男・婢としての給料をもらってそこに行っているのではないのです。慶應の内部進学の人たちは、その点を誤解しています。
   又、「外部の連中を教育してやらんといかんからなあ」と言って、自分たち、内部進学の人間は「教育」する側であり、「外部の者」は自分たち、内部進学の人間に「教育」される義務があるという思想、「教育」する側と「教育」される側を分けて、自分たちは常に「教育」する側であるという思い上がった思想・認識は、これは、ファシズムの思想、民主主義を否定する思想ですが、彼ら慶應の内部進学の人たちは、それを「慶應リベラル」などと言うのです。変わった「リベラル」ですね。
   私に、「慶應の学生なら、芳賀書店に行くべきだろ」と言ったS本(卒業後、兵庫県庁に勤めたと聞いた)は、慶應の内部進学ではなく、私と同じ公立中学校卒で府立の北野高校卒だったが、彼は私とは違って、慶應大学の経済学部という私が日本の大学の中では最も嫌いだった学部に行きたい行きたいと思って行った人間で、私なんかは、武田泰淳の小説なんかは好きだったが、S本は、「慶應ボーイ」とかいう慶應タイプのブタ人間になりたいなりたいなりたいなりたいとあこがれて、それになれないという男であったわけだが、そういう人間だけあって、武田泰淳なんて、最初から知らないわけだ。「学歴」だけ見ると、彼は私と共通点がけっこうありそうにも見えるが、実際には、私とは根本的に人間が違ったのだ。 そういう人に、名曲喫茶なんて、教えた私が超ド級にアホだった。

(2)  一度、痛い目にあっているのに、さらに同じ失敗を繰り返すというのは愚かなことであるが、それをやってしまった。 1980年代、春休みに、大阪の万国博覧会会場跡の、万博開催中からあったエキスポランドという遊園地、その後、事故があった後に廃園になったが、そのエキスポランドのジェットコースターのペンキ塗装の作業の補助の仕事をアルバイトでやったのだが、そこに同じアルバイトに来ていた和歌山県出身で関西大学に行っていた男から、「東京で、どこか、おもしろい所を教えてくれよ」と頼まれたので、それで、「神田神保町は、何気なしに歩きながら周囲を見回していると、おもしろいものが見つかる」と教えてしまったのだ。「・・・しまった」というのは、どういう意味かというと、彼の返事が「そこ、何があるんだ。 ピンサロでもあるのか」というものだったからだ。 しまった、こんなヤツに教えるのじゃなかった、と思った。 実際のところ、慶應だの関大だのの程度の低い学生に、名曲喫茶などというものを教えた私が超ド級のアホだった。 「聖書」には「聖なるものをイヌにやるな。真珠をブタに投げてやるな。 おそらく、彼らはそれらを足で踏みつけにし、向き直ってあなたがたに噛みついてくるであろうから」と書かれているが、まさにその通りだった。 「聖書」の戒めは決しておろそかにしてはならない、ということがわかる事例であった。

(3)   3人目は男ではなく女性である。 だから、「ピンサロでもあるのか」とは言われなかった。 これは、1990年代のことだ。 姉が「お見合い」の話を決めてきた。 我が家は3人兄弟で上が女2人で私が一番下だったのだが、3人兄弟というのは、どうも、良い子・悪い子・普通の子〔⇒《YouTube-イモ欽トリオ ハイスクールララバイ (1981) 》https://www.youtube.com/watch?v=-m5BlArG3qs 〕というものができるようで、我が家においては、上の姉が「良い子」、下の姉が「普通の子」で、私が「悪い子」だった。父が言うには、上の姉は「ドイツ人」だそうで、下の姉は日本人、私は「ロスケでイタコでチャンコロ」だそうだ。父は毎日のように言っていた。「民族の違いを忘れるな。階級の違いを忘れるな」と。 そう言われると、言われた側の民族といたしましては、「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)。 階級の苦しみを忘れるな(不忘階級苦)。 反逆には理由がある(造反有理)。革命は無罪だ(革命無罪)」と言いたくなるところであるが、我が家はそういう家庭だった。
   父が言うには、「世の中は、自分ではやらずにひとに命令してやらせる民族と、自分で自分のことを決めずに人に決められて命令されたようにせっせせっせとやるのを喜ぶ民族とがあるわけや。どっちか片方ではあかんのや。両方の民族がおってこそ、世の中は成り立つわけや。 そやからやなあ、ドイツ人とかアメリカ人とかはひとに命令するための民族、ひとを支配するために民族として神さまがお造りになった民族で、わし、T子さんとかはドイツ人でアメリカ人なんや。 チャンコロはひとに支配されるために神さまがお造りになった民族で、あんたあはチャンコロで支配されるための民族で、ひとに命令されて命令された通りにせっせせっせとやるのを喜ぶ民族やねん」と。 父はそう何度も何度も言っていた。下の姉は「ドイツ人」ではなく日本人だったはずだが、日本人としては、「ドイツ人」に認められる「チャンコロ」に対する権利が日本人には認められないというのが不満だったようだ。 そういう家庭なので、父は「あんたの結婚はわしが決めたるわ」と言っていた。そんなもの、決められたたまるか!と思ったのだが、それを日本人である下の姉に言うと、「そんなもの、あの人にあんたの結婚相手なんて、決めることできるわけないでしょ。あの人、結婚相手になるような女の子を誰かに紹介してもらえるようなツテなんて持ってる人と違うでしょ。それに、◇◇さんとかなら、どこかで会った女の子にでも話しかけて、会ってみないかとか言う能力があるけれども、あの人、そういう能力なんてあるわけない人でしょ」などとトンチンカンなことを言っていた。そのあたり、下の姉は私と同程度には我が家の構造を理解できていないようだった。父は、私の結婚相手によさそうな女性を自分が捜してくるなどとは一言も言っていないのだ。そうではない。父は、「あんたが、女を何人か用意して、わしの所に連れてきなさい。そうしたら、わしが、その中から、『こいつがええ』と、ええのを決めたる。もし、その中に、ええのがどれもおらんかったら、『みんな、あか~ん』と言うたるから、そうしたら、あんたが、また、女を何人か用意して連れてきなさい。そこにもええのんがおらんかったら、また、『みんな、あか~ん』て言うたるから、また、あんたが何人か女を用意しなさい」と、父はそう言っていたのだ。自分が誰か良さそうな相手を捜すなどとは一言も言っていないし、そんなつもりは父はまったくなかったのだ。 私は「決めていりませんけれども」と言うと、「何を言うとるんじゃ、何を。 それは大事なことやぞ。そういう大事なことは、わしとかM川先生(父の親友の医者屋)とか、そういうエライえらいエライえらいドイツ人に決めてもらうもんや。増長するなよ、チャンコロ。つっけあがるなよ、チャンコロ。そういう大事なことは、おまえが決めることとは違うねんぞ、チャンコロ。甘ったれるなよ、チャンコロ、つっけあがるなよ、チャンコロ。チャンコロが決めるものとは違うねんぞ、チャンコロ。チャンコロは自分のことを自分で決める民族とは違うねんぞ、チャンコロ。増長してはならぬぞ、チャンコロ。ちゃんちゃんころころ、チャン、ころころ」とか言っていた。毎日毎日、ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらいにそう言われてきて、一時的に、お嫁さんなんか、要らんわ、と思うようになった時もあった。
   今回の話は父が他界して後のことだ。下の姉、父が言うところの「おまえとは違って、本当やったら、天高(天王寺高校)から東大に行った人間やねんぞ」という「おまえとは違って素直で優秀なA子さん」という下の姉が、「お見合い」の話を持ってきたのだ。父が他界後のことだが、なにしろ、私は「服従するのが仕合せの民族」であり「チャンコロの民族」であるので、「ドイツ人」の姉も「日本人」の方の姉にもそういう意識が、本人にはそのつもりがなくても身についていた。下の姉は「あんたは、やっぱり、4年制の大学でてる子でないと嫌やろ」と言うので、「そんなこと、ないよ」と言うと、「そんなことないやろ。やっぱり、4年制の大学出てる子でないとあんたはあかんやろ」と言ってきかないのだ。私が「そんなこと、ないよ」と言ってもきかないのなら、最初から尋ねなければいいと思うのだが、「支配する民族」の「ドイツ人のお父さん」の娘だけあってそういうお姉さんだった 私はその時、30代の半ば、姉がこの人がいいと紹介したのは、東京圏の「わけのわからん」と言うといかんかもしれんが聞いたことがない私立の薬大を卒業して薬剤師の資格を取得したという30くらいの女性だった。なぜ、そういう人が私に合うと考えたのか、なんか、よくわからないが、下の姉は、私が高校生の時、クラブのOGの女性がクラブのことの連絡のために電話してきた、それも、こちらが頼んで、向こうが労力を払ってくれて電話してきてくれたというようなそういうものを、母に「こいつ、女にたぶらかされとるんや。こいつ、いつでも、女の言うことをきく男やから」とか言ってあおる女だったわけで、そういう人なので、私の場合、もしも、人生において、死ぬまでに結婚したいと思ったならば、この人の気に入る女でないと一生結婚はできないだろうなあと私は半ばあきらめていた。
   その女性と会ったのは、帝国ホテルの1階の喫茶店でだったが、ともかくも、その人も、せっかく足を運んでくれたのだから、だから、私がいいと思う所を紹介してあげよう、ともかくも、足を運んできてくれた人に、私自身の紹介もかねて、知らない人間は知らないが、「知る人ぞ知る」所を教えてあげよう・・・・という気持ちになって連れていってあげたのが、↑の「ミロンガ ヌォーバ」だった・・・・。
   その結果はどうなったかというと。 やっぱり、「男の隠れ家」は「男の隠れ家」だったようだ。女性に教えるものではなかった。私の方には、断る権利は最初からなかった。下の姉が話を持ってきた時点で、母は言っていたのだ。「あんたみたいなもん、女やったら、誰でもいいでしょうが。甘ったれなさんな、あんたあ。女でさえあれば、あんたは誰でもいいでしょうがあ」と。 だから、私は、ともかく、性別が女でさえあれば、どんな人間でも、私の側には拒否する権利はその時点で存在しなかった。私の側には拒否する権利は存在しなかったが、相手の女性の側には存在した。で、相手の女はその権利を実行した。
   私の方では、別に断ってもらうなら断ってもらってもかまわなかった。私には断る権利は存在しなかったが、別に特別に魅力を感じるような女性でもなかったし、それはどうでもよかった。しかし、私が、せっかく、自分の「隠れ家」を教えてあげたのに、「思ってたのと違った」とか文句を言っただけでなく、私が連れて行ってあげた「ミロンガ ヌォーバ」も面白くなかったらしく、それも不平として言ってきたのだ。 私なら、断る時に、どこが気に入らないというようなことは言わない。「おつき合い」を続けたいが、この点だけは改めてほしいという場合なら、それを言っていいが、断る相手には、どこが気に入らないだのと言うものと違うと私は認識しているが、相手は、そうではなく、「思っていたのと違った」と男性として不服であることを伝え、さらに、私が、この人も、ともかくも、せっかく、足を運んでくれたのだから、と思って、自己紹介もかねて、「男の隠れ家」でもある「ミロンガ ヌォーバ」を教えてあげたのだが、ひとつには、それが面白くなかったようだった。 音楽は人それぞれ、好みもあるし、趣味にしても人それぞれ違いがあるだろうけれども、たとえ、そうであっても、ともかくも、せっかく足を運んでくれた人のためにと思って連れて行ってあげて教えてあげたのだが、それが気に入らないと文句まで言われた。
   「男の隠れ家」は、しょせん、「男の隠れ家」だったようだ。 ・・・・三浦綾子が『愛すること 信ずること』(講談社現代新書)で書いていたのだが、ある男性が、バイオリンがものすごく上手だったので、「ご家庭でも奥様に弾いてあげられるのでしょう」と言うと、「家では弾きません。 うちのが、私がバイオリンを弾くと、味噌が腐ると言うのです」と悲しそうに話された、という話を書いていた。三浦綾子は、せっかく、主人が趣味で弾いているものなら、何もそこまで言わなくてもと思ったし、特にバイオリンが好きでなくても聴いたっていいのじゃないのかと思った、せっかく、多くの人間が聴いて感動するくらい上手いのに、男性に「家では弾きません」という気持ちにならせてしまうというのは、悲しいことだと思ったとも書いていたと思う・・・・が、私としては、別に、断るのなら断ってもらってもかまわないが、私としては、せっかく来てくれた人なのだからと思って、「知る人ぞ知る」店を教えてあげたのだが、それが気に入らないらしいことを断る相手に文句を言われたのが、ショックだった。 私が気に入らないなら気に入らないでも別にかまわないが、「ミロンガ ヌォーバ」を気に入らない旨まで言われたくなかった、私を嫌ってもかまわないが「ミロンガ ヌォーバ」を嫌わないでほしかった・・・が、そういう人をそういう場所に連れていった私が間違っていた。
    たぶん、今後は、女性を「ミロンガ ヌォーバ」に連れて行くことはないだろう。 男にもめったな相手には紹介することはないと思う。

   次回、「ラドリオ」。

   (2017.7.16.) 

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