深奥山 方広寺(浜松市)と信教の自由の侵害【9】三重塔。堂宇を増やすのが寺の発展なのか

[第553回] 会社と営業の話(126)
   黒門をくぐり、参拝受付の後ろの赤い山門をくぐり、二俣になった道の左の小川に沿った道を進み、椎河龍王の宮の下を進んでいくと、道は上り坂になって、赤い亀背橋という鉄骨造の橋の左側に出るが、そこで橋を渡らずに、左手に坂を進んでいくと、登り切った所が駐車場になっていて、駐車場の手前に、もう1箇所の参拝受付がある。 参拝受付よりも外側に三重塔があるが、三重塔のすぐ下まで行くこともできる。
   その三重塔だが、↓
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↑ こうやって見ると、なかなか、周囲の山の木と調和して見た目がいい・・・・けれども、↓
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↑ その三重塔がよく見えるように、これらの↑樹木は邪魔だと伐採したということなの?  そういうの、いいのか? そこまでするほどの三重塔か?
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で、↑の三重塔を、夜間はライトアップしてはどうかということで照明設備も設けられたようだ↓
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↑ けれども・・・・・・だ。 この三重塔の向こう側って、どんな所かというと、↓
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↑ こんな所なんだわ。 だから、たとえ、ライトアップしても、見る人、あんまりないと思うよ・・・・・。 




↑ 三重塔。 ラシャ問屋の山口なんとかさんが寄付したカネで造った、という。↓
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↑ 昔から言いますように、「お金っちゅうもんは、うちにはないけれども、ある所にはあるもんや」いうことでんな・・・・・。
≪間宮英宗老師の頃≫と言われても、それだけではいつのことやらわからん。 深奥山方広寺HPの「歴代管長系譜」http://www.houkouji.or.jp/kancho.html#mamiya を見ると、≪明治4年10月1日(1871)~ 昭和20年3月21日(1945) ≫の方で75歳まで生きた方らしい。「英宗」は「えいじゅう」と読むそうだ。 1868年の明治維新の3年後、1873年、「岩浪(1873)ほど大きくない明六社」の明六社結成の2年前、1975年、「イワナごっそり(1875)、千島列島」の千島樺太交換条約の1875年の4年前に生まれ、1945年8月の敗戦の年のまだ敗戦になっていない3月に75歳で亡くなった人で、深奥山方広寺の管長には、≪ 大正7年、奥山方廣寺派管長に就任。山口玄洞氏の寄進によって設立された 京都市寺町の仏教会館と方廣寺を拠点として日本国内及び台湾・朝鮮・中国東北・南洋を布教飛錫。昭和2年(1927)、 方廣寺を辞し・・・≫とあるので、大正7年というと1918年、「ひどくいい名(1917)のロシア革命」の1917年、ロシア革命の翌年、「第一次世界大戦、行くといい(1911)」の第一次世界大戦開始の7年後、「ひどく不合理(1925)、治安維持法」の治安維持法制定の1925年の7年前に管長に就任、1927年というと、1925年の治安維持法制定の2年後、「ひどく災(1931)」の1931年、満州事変の4年前に辞任したという人らしい。
  1868年 明治維新
1871年 間宮英宗 生まれる。
  1873年 明六社
  1875年 千島樺太交換条約
  1911年 第1次世界大戦 開始
  1917年 ロシア革命
1918年 間宮英宗 管長就任。
  1923年 関東大震災。 フランク=ロイド=ライト設計「帝国ホテル」竣工。
  1925年 治安維持法制定
1927年 間宮英宗 管長辞任。
  1931年 満州事変
1945年3月 間宮英宗 75歳で没。
  1945年8月 ポツダム宣言受諾。 敗戦。
・・・・どうも、この深奥山方広寺という「寺」は、ラシャ問屋を営んでいて財を成したとか、なんかそういう人と結びついて建造物を建てていくという、そういう伝統みたいなものがあると見受けられる。 建物を建てて悪いということはないのだが、なんか、そういう世俗とのつながりを感じる「寺」。 「カネ持ってるもんが強いんや、なんやかんや言うても」という認識なのかもわからないが、深奥山方広寺(浜松市北区引佐町)のボーズどもは(株)一条工務店から「研修料」としてカネもらって従業員の信教の自由を侵害したわけだが、そのカネを(株)一条工務店の経営者からとかオーナーからとかもらったと深奥山方広寺(浜松市北区引佐町)のボーズどもは思っているのだろうけれども、経済学的に見て、そのカネを生み出したのは誰か、何がそのカネを生み出したのかというと、あくまでも労働が生み出した、従業員・元従業員の労働が生み出したのであって、オーナーが生み出したのではないのです。そのあたりを認識せずに、従業員・労働者と敵対する行為、従業員・労働者の人権を侵害する行為、「信教の自由」という人間にとって大変重要な権利を侵害する行為をおこなっているのであるが、そのあたり、それはホトケの道であると言えるのか? 禅の精神であると言えるのか? 言えないはずであるが、そのあたり、深奥山方広寺の白痴ボーズどもは理解できないようである。
  
   京都の建仁寺http://www.kenninji.jp/ は、鴨川から近い場所にあるわけです。




その件について、弟子が栄西に述べたことに対する栄西の返答が『正法眼蔵随聞記』に出ています。
≪ 亦有る時、僧正の門弟の僧等の云く、今の建仁寺の寺ら屋敷、川原に近し。 後代に水難ありぬべしと。 僧正の云く、我れ寺の後代の亡失、是思ふべからず。 西天(さいてん)の祇園精舎もいしずゑばかりとどまれり。 然(しか)あれども寺院建立の功徳失すべからず。 亦当時一年半年の行道(ぎょうどう)、其の功徳莫大なるべしと。 今ま是れを思ふに、寺院建立寔(まこと)に一期(いちご)の大事なれば、未来際(みらいざい)をも兼て難無きやうにとこそ思ふべけれども、さる心中にも亦此(かく)の如きの道理、存ぜられたる心のたけ、寔に是れを思ふべし。 ≫
( 懐奘 編『正法眼蔵随聞記』和辻哲郎校訂 1929.第1刷 1982.改版 岩波文庫)
≪ ある時、建仁寺の僧たちが師栄西に向かって言った。 「今の建仁寺の寺屋敷は鴨河原に近い。 いつかは水難に逢うでありましょう。」 栄西は答えた。「自分の寺がいつかは亡び失せる――そんなことを考える必要はない。 インドの祇園精舎は礎をとどめているに過ぎぬ。 重大なのは寺院によって行う真理体現の努力である。」 ≫
(『日本精神史研究』、「和辻哲郎全集」第四巻166ページ 〔懐奘 編『正法眼蔵随聞記』和辻哲郎校訂 1929.第1刷 1982.改版 岩波文庫 中村元「あとがき」 所収〕 )
   こういう考え方は、臨済宗だけではないようで、本多顕彰(あきら)『歎異抄入門』(1964.7.1. 光文社 カッパブックス)にも、
≪ 如来は、色も形も持たぬ真理であり、光明なのだから、その像を刻もうとしても刻みようがない。 それだから、親鸞は仏像を作ったり、その仏像をおさめる寺院を造ることは、弥陀の本願にはない行いであって、念仏の行者は、これを企ててはならない、と戒めている(『改邪抄』第九章)。 そこで、彼の在世中は、直弟子たちは寺を建てることはしなかった。 ただ、おたがいに法話をしたり念仏をとなえたりするための道場の建築は、親鸞もこれを認め、しかし、それは、ふつうの住家と少し区別して「小棟をあげて作るように」と言っている。 ・・・・・≫
(本多顕彰(あきら)『歎異抄入門』1964.7.1. 光文社 カッパブックス)
と書かれています。
   キリスト教の伝道者で建築家でもあったウィリアム=メレル=ヴォーリズは、教会は特別の建物である必要はない、と語ったことがあるという。
   寺があって悪いということはないが、大事なのは寺の建物ではなく、禅の心、ホトケの心であり、宗教者としての基本的な心掛けをドブに捨てた上で、不良経営者に媚びをうってカネをもらって建物を建てまくる、というのは、それは好ましい宗教者の態度とは言いがたい、はずですが、深奥山方広寺のボーズどもは、そのあたりを理解する能力が欠落しているようです。

    さらに言いますと、ね。 「塔」て何か? という問題があります。 渡辺照宏『仏教』(1974.12.20.  岩波新書)に、塔とは何なのか、わかりやすく説明されています。
≪  中国や日本の仏教とインドの仏教との差異を示す一例は塔である。日本では三重塔、五重塔の如き木造の建築物をいうが、漢字の“ 塔 ”はサンスクリット語の“ ストゥーパ ”の音写である。 インドのストゥーパも時代によって変遷があるが、その基本型は上のサーンチーの大塔の如きものである。 その聖域は欄楯(石垣)でかこまれ、四面にそれぞれ鳥居状の門がある。その敷地の中央に円形の基壇を盛り上げ、基壇の上に大きな半球形の覆鉢を築き上げる。 正面の階段を登ると、基壇の周辺をめぐる欄楯の内側にそって通路があり、覆鉢を一周することができる。 覆鉢の頂上に四角形の平頭(柵)を設け、その中央に輪竿を立て、そこに三個の笠蓋を取りつける。
   覆鉢はもと偉人の遺骨をまつる塚に相当し、仏陀時代以前からとくにガンジス河中流地方の土俗であったと言われる。 傘蓋をさしかけるのは貴人に対する礼儀で、それを塔にも用いたのである。
   ところが、インドでも時代がくだるにつれて、欄楯の部分が拡張されて二階ないし数階の建造物となり、覆鉢は上に押しあげられるようになり、のちには覆鉢は建造物の屋上を飾る付属品のような観を呈するにいたった。 西域を経て中国でも建てられるようになった塔は大体においてこの形式に従い、中国風の多層家屋状の建造物が主体となった。 わが国の三重塔、五重塔もその例に倣ったものである。 たとえば法隆寺(七世紀)その他の五重塔を見て、誰がこれらをただちにサーンチーの大塔と結びつけて考えることができるであろうか。
   しかしこれらの五重塔をよく観察すると、屋上には、九重の相輪をささえる輪竿が高くそびえ、その輪竿の台として露盤があり、その下に覆鉢があり、平頭がこれを受けて五重塔の屋根の頂上に接続している。 多くの観察者の眼にとまらないこの覆鉢が実はサーンチーの大塔の主体であった。そして、さらに遡れば仏陀時代の土俗であった土饅頭の名残りなのである。 相輪はもと貴人に対する儀礼をあらわす傘蓋に相当する。・・・・≫
(渡辺照宏『仏教』1974.12.20. 岩波新書)
   さて、↑の深奥山方広寺(浜松市北区引佐町奥山)の山口玄洞なるラシャ問屋のおっさんにカネをもらって、治安維持法が制定されたりして軍国主義に突き進む時代に建てたという三重塔であるが、「ストゥーパ」「塔」というものは、もともと、「偉人の遺骨をまつる塚」であったということなのだが、この三重塔は誰の遺骨を祀っているのか? 遺骨なんか祀っていないのと違うか? それなら、何のための「ストゥーパ」なのか? 単なる観光用か? ただの娯楽か? ・・・そのあたり、まがりなりにも寺ならば、なんらかの認識、なんらかの見解があっていいのではないのか? たしかに、この谷を挟んで片側に本堂・鐘楼などがあり、他方に三重塔があって、その間に亀背橋という赤色の橋が結んでいる景観↓は、デザインとしては悪くないと思う。
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この全体のデザインを考えた人は、十分、全体のデザインを考えて構成しており、そのデザイン力は悪くないと思う。 しかし、寺である以上、デザインが良ければいいというものでもないのではないか。 そのあたりについての見解・認識が見られないのだが、違うか?

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↑ 三重塔の駐車場を隔てた向かいの位置に、「◇◇碑」と書かれた石碑が立っているが、摩耗して何と書いてあるかわからない。 説明書きもない。 あっちこっちに、なんちゃらかんちゃらと効能書きがいっぱい書いてあるこの「寺」において、説明書きがないということは、寺としてあまり大きく主張したくない石碑なのか・・・・・。
(↑ クリックすると大きくなるので大きくして見てください。 「◇◇碑」の「碑」は読めても、「◇◇」は読めません。 由緒書にも「方広寺・半僧坊拝観コース」にも掲載はありません。)

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↑  三重塔の前の駐車場の本堂側に配置されている、↑はお地蔵さん・・・ですよね。 「羅漢さん」ではなく「お地蔵さん」でしょう。

   深奥山方広寺というのは、後醍醐天皇の皇子の無文元選が開山というのだが、≪後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ・・・・≫(《ウィキペディア―後醍醐天皇》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87 )というのだが、なにゆえ、この無文元選という人だけ、南北朝の争乱の当事者にならずに、坊さんやってんのお~お? て感じもしないではない。
   又、後醍醐天皇の皇子が、なんで、遠州の山奥なんかに寺を造るのか・・・・。 京都が足利と北朝の支配を受けていたというのなら、奈良県あたりとかありえそうな気がするのだが・・・・。 まあ、南朝後醍醐天皇の子孫という熊沢天皇も尾張一宮の人だった、ということを考えると、尾張に後醍醐天皇の子孫がいたということから考えると、遠江にいたとしても悪くないか・・・・・。
   しかし、だ。 深奥山方広寺の開山という無文元選は、《ウィキペディア―無文元選》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%85%83%E9%81%B8 には、≪父の後醍醐天皇が崩御した翌年の1340年に建仁寺で出家し、・・・・≫なんて出ているのだが、楠木正行が四条畷の戦いで死亡したのは、≪正平3年/貞和4年(1348年)に河内国北條(現在の大阪府四條畷市)で行われた四條畷の戦い(四條縄手)において足利側の高師直・師泰兄弟と戦って敗北し、弟の正時と共に自害して果てた。≫(《ウィキペディア―楠木正行》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E8%A1%8C )というように、1348年なんだわ。 後醍醐天皇の息子でも親戚でもない楠木正行が南朝のために戦って、結果、命を落としているのに、後醍醐天皇の息子が、それより8年も前に、さっさと「出家」して争乱の圏外に逃亡している・・・・て、なんか、南朝のために戦って命を落とした人間からすると、あほくさいというのか、この無文元選て皇子、なんか勝手と違うのん? て思いませんか? 少なくとも、楠木正行からすれば、なに、それえ~え・・・・て感じ!!! そんな感じ、しませんか?
   父親の後醍醐天皇とともに、鎌倉幕府打倒に尽力しながら、父親がメカケと「逆賊」の言うことばっかり聞きやがってからに、そのために殺された大塔宮護良親王(おおとうのみや もりながしんのう)からすれば、自分だけ「出家」して争乱の圏外に逃げたり、中国へ行ったり、無文元選て、この弟は、こいつ、いったい何なんだ!?!?!? て感じじゃないか? そんな感じ、しませんか?
    ・・・・というより、無文元選て、この人、本当に後醍醐天皇の息子やの? とか思いませんか?

  (2017.7.9.)

   次回、【10】鐘楼、本堂。 裏口は嫌い。従業員の労働が化けた羅漢? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_10.html


☆ 深奥山方広寺(浜松市)と「信教の自由」を侵害する者
1. 八百長の通算契約棟数全国1位。遠州地方の営業の我田引水。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_1.html
2. 商品を大事に思う心。住宅営業にとっての知識。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_2.html
3. 払うべきカネを払わない者。掛川の人口は4万人ではない。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_3.html
4. 営業は自分で考えるもの+協力を求めてそれで契約になるのなら。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_4.html
5. うかつに「売れる人」と言うな。営業は大貧民ゲーム。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_5.html
6. 山門。 「もうかってる」会社が人をやめさせてよいのか。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_6.html
7. 弁天堂。 利益を生み出したのは労働。使用者に媚びる俗物寺。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_7.html
8. 椎河龍王。亀背橋。「信教の自由の侵害」を認識できないのは「病」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_8.html
9. 三重塔。 堂宇を増やすのが寺の発展なのか。 〔今回〕
10. 鐘楼、本堂。 裏口は嫌い。従業員の労働が化けた羅漢? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_10.html
11. 上天台舎利殿、観音堂。 「親に感謝」は「教育勅語」の思想。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_11.html
12. 開山堂、勅使門、半僧坊真殿。 本人が希望しないお守りは害がある。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_12.html
13. 七尊堂(富士浅間・春日・伊勢・稲荷・八幡・梅宮・北野)と稲荷社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_13.html
14. 不良ボーズによる宗教の強制は国民に信仰心を妨げる https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_14.html 
15. (株)一条工務店の従業員の給料へつった金が、深奥山方広寺門前のじいさんとその孫の小遣いに化けた https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_15.html

※ 《一条工務店の白旗山メガソーラー乱開発の説明会 日本共産党嘉飯地区委員会》http://jcp-kahan.info/archives/194 


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