箕面市粟生間谷の天満宮 参拝【上】天満宮。地蔵。保護樹木ムクノキ、ほか。

[第584回] 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り(45)‐1
   大阪府箕面市(みのおし)粟生間谷(あお またに)西3丁目 の天満宮↓に参拝してきました。
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   ↑ 南側、「正門」側から見ると、大きな樹木が見えますが、この樹木を祀っている神社というわけではありません。
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↑ クリックすると大きくなるので大きくして見てください。鳥居の上の額には「天満宮」と書かれています。 昭文社発行の『都市地図 箕面市』にも「天満宮」と表示されています。
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↑ 社殿。
付近に、五字(ごあざ)神社、楠木神社があるが、社殿は3つとも似た感じ。

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≪ ・・・・・ここ粟生(あお)の地は、旧石器が拾得され、何万年か以前から人とのかかわりがあったことが明らかとなった。 以来、次第に開拓され、粟がよく実ったので粟生の地名が生まれたという。 地味肥沃で豊かな農村として発展していった。 住民は質朴にして敬虔、中世以後、学徳共に秀でた菅原道真公を尊崇信仰したが、いつの頃よりか中村の村民は これを氏神として尊崇勧請奉祀するようになった。 こうして村民はこの神の威徳を仰いで精神の向上を願ったのである。
      笹川隆平撰文 ≫
と書かれている。
  ところで、笹川隆平て誰やねん? というと、ここは箕面市、箕面市というと元A級戦犯にして船舶振興会の笹川良一さんの地元・・・ということは、笹川隆平なる御仁もまた、元A級戦犯にして「戸締り用心、火の用心」の笹川良一さんのなんらかの縁のお方か・・・・と考えがちですが・・・・、インターネットにて検索すると、
「コトバンク 笹川隆平(ささがわ たかひら)」https://kotobank.jp/word/%E7%AC%B9%E5%B7%9D+%E9%9A%86%E5%B9%B3-1645821 というのがあって、
≪ 昭和期の郷土史家 元・茨木市教育研究所長。 ≫と書かれている。 出生地は箕面市小野原で、1913年(大正2)‐1989年(平成1)。 ≪茨木市立豊川小学校長や同市教育研究所長を歴任した。郷土史の知識が深く、茨木の古文書を10年がかりで調べ、「清水村史」をまとめ、「茨木の道しるべ」などの著書で、郷土の歴史を広く紹介した。≫という人らしい。 今は昔、箕面市の市会議員で笹川なんとかいう人がいて、その人か?と思ったが別人らしい。 「詩吟と武道をならい」の笹川先生とはどういう関係かとも思ったが、それは出ていない・・・・が、≪ 川端康成研究家としても知られ、昭和60〜平成元年3月茨木市の川端康成文学館顧問を務めた。著書に「川端康成―大阪茨木時代の青春書簡集」。≫と書かれており、笹川良一は川端康成と小学校だったかの同級生だったはずなので、もしかすると、何らかの関係がありそうな気もしないでもないが、たしか、川端康成自身が大阪府茨木市の生まれで、茨木高校卒だったはずなので、川端康成の研究をやっても不思議でもない。
「隆平」は「たかひら」と読むらしい。もともと、「笹川」というのは箕面市に多い名字だったのかもしれないし、その土地に多い名字ということは、昔々その昔、おじいさんとおばあさんが川で洗濯をしていると川の上流から大きなものが流れてきたので、おばあさんが「ありぁ、いったい、何だろう」と言ったら、おじいさんが「ありぁ、『ももだろう』」と言ったというくらいの昔までさかのぼると、どこかで血縁だったなんてこともあるかもしれない・・・・かもしれない。
   村の神さまであった神社が、明治以降とかに天神≒菅原道真と結びついたのか・・・と思ったが、↑の説明文によると、むしろ、菅原道真を祀った方が先で、その神社がその付近の氏神になったように書かれている。
   いずれにせよ、「御祭神 菅原道真」と書かれているのだから、菅原道真を祀る天満宮なのだろう。

   最初の写真にも写っていた大きな樹木だが↓、
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↑ 北側(社殿の側)から見ると、樹木の根元に札があって、「伊勢神宮遥拝所」と書かれている・・・ということは、この木に人が向かって立つと、この木の方向の延長に伊勢神宮があるということなのか・・・。
   しかし、菅原道真と伊勢神宮の神さんは本来は関係ないはずなのだが。
   この木だが、箕面市指定の「保護樹木」になっていて、1980年4月1日に指定されたらしい。 何の木かというと、「ムクノキ」だそうだ。↓
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  ≪住民は質朴にして敬虔≫なんて、説明書きには書かれているが、最近では、箕面市の粟生地区も、けっこう外来住民が増えてきて、昔からの住民よりも数が多くなってきているのではないかと思う。 この天満宮の付近を歩いてみると、昔からの家かと思われる家もあり、田んぼもまだ残っているので、昔からの住民もいる地域なのだと思うが、50近く前、1970年の大阪万博の際に北大阪急行電鉄が「千里中央」まで通って、新御堂筋という道路が通り、「新船場」という繊維団地が箕面市の南部にできた・・・というより前の頃は、箕面市でも大阪市内へ通勤する人間が住むのは阪急箕面線の両側くらいで、東よりのこの粟生のあたりなんて、はっきり言って、いなかだった・・・・し、交通の便も悪かったのだが、今や、いなかなんかではない。 「千里中央」からバスがあって、東の方には大阪モノレールの彩都線なんてのも茨木市との境目付近を走り、箕面市は、昔、西寄の箕面町と中央部の萱野村と東部の豊川村、それに北西の山を隔てた止々呂美村の1町3村が合併して箕面市になったのだが、旧箕面町の地域よりも、旧萱野村・旧豊川村のあたりの方が開けてきたみたいな感じすらする。 1970年代のなかば、阪急千里線「北千里」駅の東のあたりにある金蘭千里高校というのを受けたのだが、試験よりも前に何度か学校に行かされたのだが、その際、学校の周囲がどうなっているのか見てみようと思って、夕方、学校の正門から右手にぐるっとまわって行くと、たぶん、箕面市小野原のあたりだと思うのだが、なんだか、どいなかみたいな場所、農家なのだと思うのだが、犬を飼っていてほえられて、もしかして、ここはよそ者が立ち入ると危ない秘境? なんてこと・・・・なんて感じがして怖くなって戻ったという経験があったのだが・・・・、今やそんなこととんでもない。 小野原なんて、箕面市でも相当開けたというのか、かつては、小野原なんていなか・・・・というイメージだったのが今は全然違う。 なんだか、ずいぶんと変わったというのか変わってしまったというのか・・・だが、この付近、天満宮のほかに、五字(ごあざ)神社・楠木神社、さらには素戔嗚神社なんてのがあるが、それらの神社のあたりには昔からの箕面市の東部地区の面影というのか名残というのかを感じられるものがいくらか残っているような気がする。
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↑ 粟生間谷の天満宮の道を隔てた西側にお地蔵さんがいらっしゃるが、これは、すぐ脇に存在しても、天満宮と直接は関係ないかな・・・・。

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↑ 粟生間谷の天満宮の北あたり。 箕面市も田んぼは大分減って、昔は中部・東部はいなか・・・だったはずだが、今はもういなかじゃなくなったが、懐かしいことに今も田んぼ残っているようだ。
  天満宮の北東側の府道 茨木能勢線 を山側に(北西に)クルマで進むと、途中、彩都地区へ行く新しい道があり、そこを過ぎると三叉路があって、右手(北側)に進むと、清掃センター(ゴミ焼却場)がある。 左手に進むと、勝尾寺http://www.katsuo-ji-temple.or.jp/index.html が右手(北側)に見えて来る。 道は曲がりくねっていて幅も広くなくクルマで走りやすい道ではなく、かつてはクルマの量が少なかったので徒歩でも十分に通れた道ではないかと思うが、今は、けっこうクルマが多いので、歩くには快適な道ではなさそうで、歩いている人を見るのは、この天満宮から楠木神社を過ぎたあたりくらいまでか。
  阪急箕面線「箕面」駅から箕面大滝を経てその北に続く川は箕面川だが、この粟生間谷の付近から北西に続く川は何川かというと、「勝尾寺川」という名称らしい。

  (2017.9.25.)

   今回、「箕面市粟生間谷の天満宮」訪問は上下二部作として公開します。
【上】 天満宮、地蔵、保護樹木ムクノキ ほか。 〔今回〕
【下】 天満宮の周辺。五字神社、楠木神社、ガラシア病院 ほか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201709article_15.html
   次回  【下】「天満宮の周辺。五字神社、楠木神社、ガラシア病院 ほか」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201709article_15.html と合わせご覧いただければと思います。


☆ 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
露の天神社(お初天神)(大阪市北区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_5.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html
綱敷天神社(大阪市北区)
1.綱敷天神とは。「北野」の由来。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_6.html
2.社殿と桜。堅魚木と千木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_7.html
3.「戦災の狛犬」、筆塚。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_8.html
4.白龍社、歯神社。綱敷天神社の周囲https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_9.html  
綱敷天神社 御旅社(大阪市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_11.html
池田市天神1丁目・2丁目 http://shnkahousinght.at.webry.info/201405/article_10.html
西江寺 摂社天満大自在天神(箕面市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
箕面市粟生間谷の天満宮
上 天満宮 地蔵、保護樹木ムクノキ ほか〔今回〕
下 天満宮の周囲、五字(ごあざ)神社・楠木神社ほか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201709article_15.html
上新田天神社(豊中市)
1 千里中央駅から。電柱看板の是非。卑怯者不動産屋店長https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_15.html
2 鳥居から参道階段を経て拝殿へ。「他力」とは https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_16.html
3 拝殿・本殿・牛・屋根・稲荷社他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_17.html
4 神社の社殿を背後から見下ろす下品な高層マンション https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_18.html

岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
村山天神(高山市国府町)
1上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
2村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
3村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
4あじめ峡、他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
桜山八幡宮 摂社天満神社(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html
日の出天満宮(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html

石川県
金沢神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_1.html
椿原天満宮(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_2.html
田井菅原神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_3.html

京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
高台寺天満宮(京都市東山区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html
曼殊院天満宮(京都市上京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_4.html
長岡天満宮(長岡京市)
1.八条ヶ池 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_10.html
2.拝殿・祝詞舎・本殿・手水舎他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_11.html
3.春日社八幡宮社・紅梅殿・白梅殿・社務所(連歌所)他 〔今回〕
4.梅園、長岡稲荷、錦景園他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201704article_1.html

熊本県
山崎菅原神社(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_6.html
船場天満宮(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_7.html
手取天満宮(熊本市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201406article_8.html

裁判所の正体:法服を着た役人たち
新潮社
瀬木 比呂志

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(清水) ・・・法廷の正面にある裁判官の席は立派な革製の椅子です。 頭の上まで背もたれがあり、肘掛けもしっかりしている。 次に検察官席と弁護人席は、同じように革の椅子ですが、背の部分が少し低くて肘掛けもちょっと固い素材になる。 そして傍聴席は、映画館にあるような簡素な座席。 最後に被告席はというと、背もたれもない、ただのベンチみたいなものが置いてある。
   裁判官裁判が始まったころから少しその差が小さくはなったようですが、こうしたしつらえは、誰が決めて、いつからあのような形になっているのでしょうか。 私には明らかに格差をつけているように見えるんです。 被告が腰縄をつけて連れて来られたりとか、一番質の悪い椅子に座らされたりというのは、最初から判決がみえている感じがします。
(瀬木) 清水さんらしい鋭い指摘ですね。 あれは、昔からあのような形になってしまっているのです。 たとえば、「博物館明治村」などで昔の法廷を見てもそうですし、僕が若かったころには地方の支部にはまだ戦前からの法廷がある程度残っていましたけど、そういうところも同様でした。むしろ、昔のほうがもっと差が大きいんです。それが現在にまで続いて自然にそうなっている。
  そして、そういう「自然にそうなっているところ」にこそ、制度、システムの思想は一番はっきり現れているのだと思います。被告人に最初から「有罪確定」が働いているから、腰縄がついたりして、一番低いところにいるというのは、おっしゃる通りだと思います。・・・・・
( 瀬木比呂志・清水潔『裁判所の正体―法服を着た役人たち』2017.5.20.新潮社↑ 「第1章 裁判官の知られざる日常」 )

天皇制 (東大新書 (6))
東京大学出版会
井上 清

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≪  年号をもって年を観念し表現するとき、ひとは無意識のうちに、じぶんの存在を天皇にむすびつけている。 私は大正2年にうまれた、というのは私は1913年にうまれた、というのとまったくべつのことである。 後のばあいには私の出生また存在と天皇とのあいだには、なんの関係もないが、前のいいかたでは、私はじぶんを大正天皇とむすびつけ、かれの在位第2年目にうまれたと観念し表現している。・・・・ ≫
≪ ・・・年号制は一刻も早く廃止されるべきであると私は信ずる。それには根本的に二つの理由がある。
    その理由の第一は、年号制はアジア的専制主義の産物であり、その象徴であって、主権在民の民主国家の理念に全面的に相反するということである。
    年号制は古代中国の専制君主、漢の武帝のときにはじめられた。アジア的専制主義の哲学によれば、帝王は天命をうけて唯一最高の支配者となり、天に代わって陰陽を調和するものである。帝王はたんにすべての空間とそこをみたす人および者を所有するばかりでなく、時の運行をも支配するものとされる。この政治哲学からして、時を記録し表現するにも帝王とむすびついた独特の方法がなければならないとして、年号制が案出されたのである。
    年号というのは俗語で、正しくは元号である。 「元」は天元とか元首とかの元である。・・・・ ≫
≪  年号制を廃止しなければならない第二の根本的な理由は、それが日本人の歴史意識の成長をいちじるしくさまたげ、歴史教育を本質的に不可能にするということである。年号制は時の流れを君主の恣意や迷信やその在位期間によって、ずたずたにきりはなすことを意味する。明治10年とか大正10年とかいっても、それはなんらそれ自体で歴史的内容を表現しているものではなく、また1887年とか1911年とかいうのともちがって年代の前後をそれ自体で表現するものでもない。・・・このように歴史時間の連鎖をほしいままにきりはなす無意味の紀年法で歴史意識をやしなったり、歴史教育を真に歴史教育らしくおこなうことができないのはいうまでもないであろう。・・・・ ≫
( 井上清『天皇制』1953.1.10. 東京大学出版会 東大新書 ↑ 所収 井上清「年号廃止論」 )
    私は、日本の裁判においては、年月日の表記は、西暦か日本の元号かのいずれかでの表記とされ、いずれかの表記・表現で認められるものと思い込んでいた。 ところが、民事裁判においては、西暦でも元号での記載でも認められるようなのだが、刑事裁判の場合、西暦で述べられると、裁判官は、いちいち、それを元号になおさせようとする。それだけではなく、裁判官が、日本の元号(げんごう)のことを「和暦」などと言ったりする。 そもそも、いったい、誰が元号を「和暦」などと認めたのか?  「元号」は天皇と結びついた年代表記であり、戦前の天皇を神と祀る思想と結びついた表現であり、それを裁判所が国民に強制するというのは、これは裁判所が民主主義に敵対する側についていることになってしまう。 そのあたりについて、無神経な人間が裁判官に多い。 裁判所における元号の強制は、人権侵害である。 (2017.9.25.)
 

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