飛騨民俗館(飛騨民俗村) 旧 野首(のくび)家住宅-高山シリーズ第5回【5/15】
[第594回] 高山シリーズ第5回【5/15】
高山は、金森氏の城下町から発展した街だということで、高山本線は既成市街地の西側を南北に通り、市街の西側に駅ができて、既成の市街と駅との間が埋まるように市街化てきた所のようだ。 だから、駅の東側と西側では東側の方が開けているのは不思議ではない。 しかし、西側に何もないわけではない。 昨年、訪ねた時、一昨年まであった木造の旧 高山駅がなくなり、新駅舎に変わっていたのにはショックを受けたし、又、名古屋・岐阜方面から「特急 ワイドビュー 飛騨」に乗って高山まで来た場合には、一昨年までの駅舎なら、階段を昇り降りしなくてもそのまま外に出ることができたのが、改札が2階になったので、エスカレーター・エレベーターはあるが、ともかく、登って降りてしないといけなくなったが、西側には迂回しなくても駅の位置で行けるようになった。
高山市の住人としては、西側にも人は住んでいるわけだから、西側の住人にとっては西側にも駅から出れた方が便利だろうけれども、外来者にとってどうかというと、西側には何もないのかというとそうではないので、西側にも出れた方が便利な面はある。 昨年、訪問したところ、バスを降りるとなつかしい旧駅舎が無くなっていたのにはショックを受けた。たとえるなら、親戚のおっさんが他界したのに葬式を教えてもらえなかった・・みたいなそんな感じ。なんで、教えてくれなかったんだよ~お・・・と言っても、高山市民でもないあんたになんでいちいち教えなきゃならんのかと言われるかもしれんが、そんな感じだった。 千葉市中央区の中央区役所と千葉市美術館が入っている建物は、旧川崎銀行千葉支店の建物が建っていた所で、旧川崎銀行川崎支店の建物が歴史的建造物だということで残して、その上に鞘をかぶせるように建てた「鞘堂方式」という建て方で建てたらしいが、そんな感じででも前の駅舎を残すことはできなかったかとかも思ったが、そんなことを言っていたら、何から何まで旧時代のまま残さないといけなくなってしまうおそれもあり、何を残して何を残さないかという判断はなかなか難しいのかもしれない。
で、駅の西側にあるもので、訪問したいと思ってきたもの、訪問したものとしては、飛騨民俗館(飛騨民俗村)・飛騨の里・飛騨高山美術館などがある。駅から歩くとちょっとあるが、バスに乗るほどでもないかもしれない・・というくらいの距離である。
ここ7年間に6回、高山に訪問し、そのうち、2回目からこのブログで訪問記を公開しているのだが、1回目に飛騨の里に行ったが、広大な敷地に何軒もの建物が移築されており、大急ぎでまわったものの、とても、半日やそこらで理解できるようなものではなかった。
今回は、その「飛騨の里」ではなく、「飛騨民俗館」の方を訪問した。
「飛騨民俗館」(「飛騨民俗村」)というから、「飛騨の里」と同じくらいの規模の施設かと思うとそうではない。 「旧 野首(のくび)家住宅」「郷倉」「山岳資料館(旧 高山測候所)」の3つの建物を移築し、建物と展示をおこなっているもので、いずれも、無料で見学できる。その3つを「飛騨民俗館」と言っているようで、「飛騨民俗館」という名称の建物があるわけではない。
その「旧 野首(のくび)家住宅」 岐阜県指定重要文化財 が↓
(↑ 旧 野首家住宅。 元の立地での南面。 「元の立地で」というのは、移築される際に、建てられていた方位とは異なる向きに建てられ、元 南面 が北東を向いて建てられていると思われるため、元はこの向きであったであろうと考えたものである。 10月下旬の後半、紅葉が大変きれい。)
( ↑ 野首家住宅。 元の立地で、南西から。 )
↑ ≪ 高山市片野町から移築。 屋根は 板葺石置屋根 両妻葺きおろし(↓)で、江戸初期の飛騨の様式をとどめる。
居間、台所、仕事場を兼ねた室内の広い土間が特徴。 ≫
( 『アイじゃぱん 高山・奥飛騨・白川郷・五箇山』2004.3.1. JTB るるぶ )
現地にも、屋外に木製の説明書きの看板が立っており、
≪ 旧野首家は大野郡灘郷片野村(現 高山市片野町)にあった・・・・ の飛騨の標準的農家で、・・・・土座生活をした民家です。
元禄八年(1695年)の検地・・・には、屋敷一畝二歩、間口八間半、奥行六間、しものくい八兵衛」とあります。水帖に記載されている当時と大差がなく、往時の形態をよく残した建物です。
江戸時代の農民の生活様式・・・・貴重な資料で、野首家より寄贈を・・・移築しました。 ≫
と書かれているが、雨で字が消えて読めなくなっている部分が多い。 そのあたり、整備してほしい。
( ↑ 野首家住宅。 元の立地で、北西から。 「文学散歩道」より撮影。)
昔、小学生の頃、何の漫画だったか忘れたが、屋根の上に石を置いた家を見たことがあり、その頃、大阪市内で住んでいた我が家の近所では瓦屋根が普通であり、板葺きに石置きの屋根の造りの家があるのだろうかと思ったのだが、江戸時代の飛騨地方の農家では標準的なものだったらしい。
高山市片野町 とはどのあたりかというと、高山の市街より南南東、飛騨天満宮や日枝神社より南、JR高山本線と宮川のすぐ東、江名子町の西、千島町の東のようです・・・・が、非高山人にしては「高山通」と認識するわたくしにとっては、この表現でなんとなくわかるのですが、完全非高山人にはなんのこっちゃ・・・て感じだと思いますが、↓なところ。
(↑ 高山市片野町 )
昔からこの場所にあった建物ではなく移築したものだが、高山市内から移築したもので、とんでもない遠くから移築してきたものではない。
旧 野首家住宅は、元の南側に、元の西から、「まやどま(馬屋土間)」「どじ(土間)(ENTRANCE)」「おおえ(居間)(LIVING ROOM)」「でい(座敷)」「えん(縁側)」と並ぶ。 「まやどま(馬屋土間)」の後ろに「まや(馬屋)」があり、「おおえ(居間)」の後ろの左寄りに「だいどこ(台所)」、その左に「にわ(作業場)」。 「おおえ(居間)」の後ろ、右寄りに「なかおく」、その右(元の東)に「おく(寝室)」。 「おおえ」の右(元の東)に「でい(座敷)」が配置され、「でい」の右(元の東)に「えん(縁側)」があり、「でい」の奥(元の北)に仏壇が配置されている。
今は見学する際には、元の南側の西寄から入るが、南側の「まやどま」「どじ」「おおえ」の南側から出入りでき、「でい(座敷)」の南側に掃き出し窓があり、「でい(座敷)」の東に「えん(縁側)」が配置されていたようだ。
元の南側の東よりに配置される「おおえ(居間)」↓
↑ ≪土座生活をした民家≫と書かれているように、「おおえ」の床は土である。 中央部に「いろり」がある。
「おおえ(居間)」の元の東側にある「でい(座敷)」↓
↑ 「でい(座敷)」は板敷になっており、奥に仏壇が配置されている。右側の障子の向こうに「えん(縁側)」があるようだ。
↑ 野首家住宅。 元 東面。
「でい(座敷)」の東に配置された「えん(縁側)」が、↑の左寄りの出っ張った部分。
野首家の「でい(座敷)」を見ても板敷きであり、座敷は畳敷きとは決まっていない。 ハウスメーカーのカタログを見ると、「フローリング」と称する「板の間」を「洋間」と言い、畳の部屋を「和室」と書いている会社がある。1990年代から2000年代初めにかけての(株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ のカタログはそうなっていた。 1990年前後の小堀住研(株)〔→エスバイエル(株)→ヤマダエスバイエルホームhttp://www.sxl.co.jp/ 〕のカタログでは、「板敷きの和室」というものが写真入りで掲載されていたので、その点ではその頃の小堀住研(株)のカタログの方がまともだったと思う。(こう言うと、(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫は、自社のカタログの書き方の不適切なところを改めようとは絶対にしないで、こう発言する人間の方に激怒するので扱いにくい。) 板敷き=洋間、畳敷き=和室 という単細胞的思考というのか、一条工務店式思考というのか「浜松流」というのかはやめた方がいいと思う。 ↑で見ても、旧 野首家の「でい(座敷)」は板敷であるが、だからといって「洋間」ではないはずである。和か洋かといえば和のはずである。
(株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ で、1993年4月に「設計」で中途入社したT(男。当時、20代なかば。明治大建築学科卒。自称、大成パルウッドで設計2年、住友不動産ホームで営業1年経験)が、和室に「Japanese Room」などと書いていたのを中途入社2年目の営業の「服部半蔵」(仮名)(男。当時、20代後半)が「ほら、図面だって、英語ですよ。Tさんはすごいでしょ」などと言ってきたので、「ええ? すごいかあ?」、「良くないのと違うかあ?」と私は思ったことがあった。 まず、相手がアメリカ合衆国人かイギリス人かオーストラリア人かニュージーランド人かであれば英語で書くのは悪くはないが、日本人が書いて日本人に見せるのに、なんで、英語で書かなきゃならんの? 日本人が書いて日本人に見せる以上、日本語で書いた方がわかりやすいのと違いますか? 日本語で書く方が親切と違いますか? 何か、英語で書く必要はありますか?
それ以上に、良くないと思ったのは、畳敷きの和室を「Japanese Room」と記載していた点である。 「中学校で英語の先生に教えてもらわなかった?」と思ったのだ。 「和室は、Japanese Room と違います」と、私は義務教育の公立中学校の英語の授業で英語の先生から教えられた。 「和室は、tatami room か、そうでなければ、Japanese style room とするべきです」と。 「Japanese room では、『日本人の部屋』か『日本の部屋』であって、和室の意味にはなりません」と。 明治大みたいなもんにあつかましくも行くようなやつが、英語で書く必要もないところでわざわざ英語で書こうなどとアホなこと考えると、こうなるんだな・・・( 一一) と思ったが、それを「服部半蔵」(仮名)は、「すごいでしょ。〇〇さん、Tさんは図面を英語で書くんですよ。すごいと思うでしょ」としつこく言って、「すごい」か「すばらしい」か言わそうとしてしかたがなかったが、それは「すごい」だの「すばらしい」だの言うような性質のものではない・・・・と言うと、また、営業本部長の天野隆夫が怒るだろうけれども、間違った英語で書くくらいなら日本語で書いたほうがよっぽどいいし、それ以前に、日本人が書いて日本人に見てもらう図面を英語で書きたがる理由がさっぱりわからない。
「おおえ(居間)」の奥の右寄り(東より)の「なかおく」↓
「なかおく」のさらに東に「おく(寝室)」↓
↑ 「なかおく」と「おく(寝室)」は板敷き。
「おおえ(居間)」の奥の左寄り(西より)に「だいどこ(台所)」↓
↑ 台所といっても、水道が出るわけでもなく、ガスが出るわけでもなく、煮炊きをする「いろり」は「おおえ(居間)」と「にわ(作業場)」にあるわけで、棚があって、台所作業をする用具を整理する場所ということか・・・。
「おおえ(居間)」の左奥(北西)、「だいどこ(台所)」の西側に「にわ(作業場)」↓
↑ 「にわ」と言っても、庭園ではなく、屋内にある作業場で、元の建物の配置から考えると、北西に位置するようだ。 家相の本など読むと、北西は主(あるじ)の座である・・・などと書いてある本があるが、そのあたりは地方によって考え方が違うのかもしれない。
( ↑ 野首家住宅。 元の立地で、北東から。 )
( ↑ 野首家住宅。 元の立地で、北面。 )
元の北面の西寄に出入口が見えるが、その内側は「にわ(作業場)」で、「にわ(作業場)」から北側に出れるようになっている。
西寄の南側には何があるかというと、「まや(馬屋)」で、「まや(馬屋)」と北側の屋外との間に「にわ(作業場)」があり、「まや(馬屋)」と南側の屋外との間に「まやどま」「どじ(土間)」がある。
↑ 「まや(馬屋)」
10月下旬の後半、高山は紅葉がとてもきれいではあるが、けっこう寒い。冬になるともっと寒いだろうから、それを考えた時、馬は建物の中ほどに入れてやろうということで、「まや(馬屋)」は中ほどに配置されていたのだろうか・・・・。
( ↑ 「おおえ(居間)」の部分の架工。 )
( ↑ 野首家。 軒裏。)
白川郷の合掌造りの家でも見たのだが、↑のような「つる」というのか、頑丈な「ひも」で架工を結びつけるという方法をこの付近の農家では採用していたのだろうか。
なお、ここで「旧 野首家」の写真を掲載していいのだろうか・・などと、一瞬、考えた。 「推理小説」で、まだ、その小説を読んだことがない人に結末を話すことを「ネタバレ」とか言って、好ましくないと言う人がいるらしい。前回まで4回にわたって、内田康夫『風の盆 幻想』の高山における小説の場所を巡ってみたのだが、写真だけ掲載してもしかたがないので、いくらか小説の文章を引用もすれば内容についても述べたが、もし、小説の要約みたいなものを述べると、それを読んだ人がその小説を読む必要はないと考えるか、そうではなく、その小説自体を読んでみたいと考えるか。 その小説自体を読んでみたいと考える方が多いと思うのだが、要約だけ読んで、もう、全体を読む必要はないと思うようなら、それはその読者がその程度の人であるか、それとも、その小説がその程度の小説であるかどちらかであると思う。 もちろん、読んでみたいと思ったとしても、人間、誰しも生きていくのに忙しいので、読んでみたいと思ったものをすべて読めるわけではないが、読んでみたいと思いながら読めずにいるというものと、別に読みたくもないと思うのとは違うと思うのだ。 前回まで4回にわたって、内田康夫『風の盆 幻想』について述べたが、『風の盆 幻想』を読んだことがない人が私が公開したものを見て、それで、もう読む必要はないと思うか、その小説を読んでみたいと思うかというと、読んでみたいと思うことになる可能性の方が高いと思う。
私は、結局、2年も浪人してしまって、それでも、東大に合格することができなかった。但し、すんなり合格できた人が私よりエライとかいうようには思っていない。 今から考えても、我が家の両親は大学受験に協力的ではなかった。また、家庭によって学習環境は異なり、評価の高い大学に合格した人がそうでない人間よりエライと決まっているわけでもない。我が家の場合、母の家系は学校の先生が多い家系で、「出世するかしないかにかかわらず、勉強する人が好きな家系」だったので、その点では有利だったが、母の叔母のつれあいで小学校の先生をしていた人があり、母はその叔母のつれあいというのか叔父というのかから「勉強のしかた」を仕入れてきたようで、それは小学校段階ではプラスになったが、高校から大学受験の段階になっては、その「小学校型の勉強法」は時としてマイナスになるものも出てきたが母は理解しなかった。北野高校の同級生などを見ても、お父さんが京大や東大などに行った人、あるいは、行きたいと思ったけれども行けなくて息子にはなんとしても行かせたいという気持ちの人の息子や娘というのは、親に大学受験についての理解があるので、なんともうらやましいと思ったものだ。我が家はその点では最低だった・・・・が、今さらそんなこと言ってもどうなるものでもないが、行きたいと思った所になんとか行けた人間はそれでいいことにできるかもしれないが、行けなかった者はその後、何十年経っても忘れはしない。相撲の高砂親方(元大関朝潮)が、横綱の朝青龍を指導できないのは親方が大関どまりの親方で横綱になった親方ではないからだと言われ、大関どまりの親方が横綱になった親方より劣るように言われたことについて、そんなことはない、横綱にまでなった親方はたいてい達成したという気持ちでいるが、大関にはなったが横綱にはなれなかったという親方は力士を引退してからも、いつまでもいつまでも、「なぜ、横綱になれなかったんだ」「どこがいけなかったのか」と考え続ける、考えるなと言われても考えないでおれないもので、だから、弟子の指導にもそれを生かそうとするから成果がでると述べていたようだが、それはあるのではないかと思う。 大学入試でもすんなり通った人間は通るとどうして通ったかなんて忘れてしまうかもしれないが、2年も浪人しても合格できなかったような人間はその後も考えるなと言われても考えないわけにはいかないし、今でも夢に見ることがある・・・・が、そのことはとりあえず横に置いておいて。 1浪の時に、文学史の勉強のつもりで、小田切 進『日本の名作-近代小説62篇』(1974.2.25.中公新書)というのを読んだのだ。今から考えると、「入学試験に通る」「受験に勝つ」というためとして考えると、文学史対策にそこまで労力を注ぐ必要はなかったかもしれないが、ともかく、それを読んだわけだ。 この本は、二葉亭四迷・森鴎外・幸田露伴から始まって伊藤整・三島由紀夫・井上靖まで近代の代表的文学者の代表作について述べた上で、その小説の重要部分を2頁だけ掲載していたものだ。で、これを読んで、ここに掲載されている小説を、これを読んだから、もう読む必要はないと考えるようになったか、それとも、その小説全体を読んでみたいと思うようになったかというと、後者である。 もし、そう思わないなら、思わない人間がその程度の人間なのか、それとも、その小説の方がその程度のものなのか、どちらかだと思うのだ。
内田康夫の「推理小説」というのは、私はもともとは推理小説なんてくだらんと思って読む気がしなかったのだが、コンビニに「浅見光彦シリーズ」の漫画版が置いてあって、つい購入して読んだところ、けっこう面白いではないか。 特に、推理小説の作家とかテレビの刑事ドラマとかいうのは、刑事とかを実際に存在するケーサツがどうかなんてちっとも考えないで理想的なものに描いていることが多いのに対して、内田康夫の作品はそうではないのだ。実状をけっこう理解しているみたいだ。で、漫画版ではなく小説の方を読んでみようという気持ちになって何冊か読むと、漫画版よりも小説の方が優れているものが多い。 だから、内田康夫の小説は漫画版を読んだから、だから、小説の方は読まなくていいやと考えるか、漫画版を読んだので、ぜひそれを小説で読んでみたいと思うかというと、後者のものだと思うのだ。 それに対して、言っちゃ悪いが、山村美紗とか夏木静子とかのは、もうけっこう・・・という気になるし、『名探偵コナン』に小説版があっても、とてもじゃないが読む気はしない。内田康夫の作品は、じっくりと腰を落ち着けて何度も読むと・・・・、やっぱり、ここ変だよというところがないわけでもないが、たとえ、そういう箇所があっても、「ネタ」がわかった後で読んでもなお読みたいと思う作品だと思う。だから、ちょっとくらい「ネタバレ」やっても、何ら問題はない作品だと思うのだ。
「古民家」というものもそうだと思うのだ。 寺とかは、外観は好きに撮影してもらっていいが、内部は撮影禁止という寺が多い。 飛鳥寺では住職の考えで、大仏さまのお写真を撮ってかえっていただいてかまいませんということにされたらしいが、そういう寺は少数派である。神社にいたっては、拝殿の前からは撮影できるが、本殿を撮影する以前の問題として本殿を十分に見せてもらえない神社がけっこうある。 それに対して、古民家というものは、外観だけでなく、内部も撮影したければ撮影してもらってかまいませんという所が多い。 それを撮影して帰ってその写真を公開したとすると、それを見た人が、ここで見たから、もう行って見る必要ないねと思うか、そうではなく、ぜひ、そこへ行って自分自身の眼で自分がその場で見てみたいと思うかというと、後者ではないかと思うのだ。 絵画なんかもそうではないかと思う。少し前、東京都美術館で「ボストン美術館の至宝展」が開催されたが、ヴィンセント=ファン=ゴッホの「郵便配達人ジョセフ=ルーラン」の絵を、ぜひ見たいと思って見に行った。この絵は美術史のテキストなどにもよく出ている絵であり、インターネットで検索しても見ることができる絵だけれども、本やインターネットで見たから、だから、美術館まで足を運んで高い入場料を払って見る必要はないねと思うか、本やインターネットで見たあの絵を、ぜひ、実物を直接見てみたいと思うかというと、後者だと思うのだ。
「高山の民家」といっても、「古い町並み」「さんまち」と言われる地域に建つ「日下部民芸館」「吉島家住宅」「平田記念館」「飛騨民族考古館」などと、この「旧 野首家住宅」とは、いずれも、「高山の民家」であっても、ずいぶんと違う。 前者は町家であり、野首家住宅は農家である。又、前者は今は一般公開してそこに住まれているわけではないが、同様の家に近隣の人たちは今も住んでいる家であるのに対して、野首家住宅は、江戸時代初期の様式で、今現在は高山市の農家でも、いくらか似たところはあっても、このままの家に住んでいる人はあまりないだろう。
その町家の方だが、藤井恵介・溝口正人・平山育男・大野敏・中村聡樹・安藤典子『日本の家2 中部』(2004. 講談社)には、高山の吉島家住宅と岩佐家・中村家・田邊家の写真がカラーで掲載されている(岩佐家・中村家・田邊家は非公開)。 吉澤政己『日本列島 民家の旅(6) 中部1 東海・中央高地の住い』(1996.4.30.INAX出版)には吉島家・日下部家(日下部民芸館)・松本家住宅と同書出版時は大野郡丹生川村だったが今は高山市になった荒川家住宅が白黒写真で掲載されている。 そこで写真を見たから、だから、吉島家住宅はもう見に行く必要ないねと思うか、そうではなく、ぜひ、そこに足を運んで直接見てみたいと思うかというと、直接見てみたいと思う方だと思うのだ。 野首家住宅は、同書には掲載されておらず、他の本でも今までに見たことはないが、吉島家住宅と同様、写真で見たからだからそこに行って見る必要はないねと思うか、そうではなく、ぜひ実際にそこへ行ってその場で自分の眼で見てみたいと思うかというと後者だと思うのだ。 又、写真を撮影して帰った場合、頭の中に記憶として残ったものと自分が撮ってきた写真に写っているものと同じでない場合があるが、その場合、写真が正しくて記憶が間違っているとは限らないと思うのだ。 そこに行って感じたもの、思ったものと写真に撮ってきたものに写っているものは、どちらが正しい、どちらが間違っているというものとは違うと思う。 だから、どんなにいい写真があっても、その場所に足を運んで自分自身の眼で見る価値がなくなるものではないはずである。 だから、遠慮なく、写真入りで公開させてもらおうと判断した。
※ 高山市 旧 野首家 http://www.city.takayama.lg.jp/kurashi/1000021/1000119/1000847/1000848/1000858.html
次回、旧 新宮村の郷倉 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_10.html
(2017.10.31.)
☆☆☆☆☆高山シリーズ第5回
1.内田康夫『風の盆 幻想』と巡る高山(1)喫茶店「ロスト」を探す https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_5.html
2. 同 (2)高山ラーメン https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_6.html
3. 同 (3)「K病院」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_7.html
4. 同 (4)高山市役所 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_8.html
5. 旧 野首家住宅 〔今回〕
6. 旧 新宮村 郷倉 ほか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_10.html
7. 山岳資料館(旧 高山測候所)、飛騨民俗村とは https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_1.html
8. 飛騨合掌苑 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_2.html
9.「飛騨民俗村 文学散歩道」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_3.html
10.飛騨高山美術館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_4.html
11.名古屋から高山へ「ワイドビュー飛騨」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_5.html
12.高山駅から飛騨民俗村へ[上]https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_6.html
13. 同 [下]玄関が出た家は変か? 「苦労」は「売り」にするものか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_7.html
14.新上野橋から三福寺橋、山小屋て、なぜ洋風なの? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_8.html
15.「旧 吉城郡細江村の民家」(熱田神宮内) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_9.html
☆☆☆☆高山シリーズ第4回
1.日の出天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
2.大八賀神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_14.html
3.東山遊歩道(1)高山別院照蓮寺から東山白山神社へ 〔今回〕
4. 〃 (2)東山白山神社・大雄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_16.html
5. 〃 (3)雲龍寺・久昌寺・栄鏡院 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_17.html
6. 〃 (4)洞雲院・素玄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_18.html
7. 〃 (5)東山神明神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_19.html
8. 〃 (6)天照寺・法華寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_20.html
9. 〃 (7)善応寺1.本堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_21.html
・・・・・
高山は、金森氏の城下町から発展した街だということで、高山本線は既成市街地の西側を南北に通り、市街の西側に駅ができて、既成の市街と駅との間が埋まるように市街化てきた所のようだ。 だから、駅の東側と西側では東側の方が開けているのは不思議ではない。 しかし、西側に何もないわけではない。 昨年、訪ねた時、一昨年まであった木造の旧 高山駅がなくなり、新駅舎に変わっていたのにはショックを受けたし、又、名古屋・岐阜方面から「特急 ワイドビュー 飛騨」に乗って高山まで来た場合には、一昨年までの駅舎なら、階段を昇り降りしなくてもそのまま外に出ることができたのが、改札が2階になったので、エスカレーター・エレベーターはあるが、ともかく、登って降りてしないといけなくなったが、西側には迂回しなくても駅の位置で行けるようになった。
高山市の住人としては、西側にも人は住んでいるわけだから、西側の住人にとっては西側にも駅から出れた方が便利だろうけれども、外来者にとってどうかというと、西側には何もないのかというとそうではないので、西側にも出れた方が便利な面はある。 昨年、訪問したところ、バスを降りるとなつかしい旧駅舎が無くなっていたのにはショックを受けた。たとえるなら、親戚のおっさんが他界したのに葬式を教えてもらえなかった・・みたいなそんな感じ。なんで、教えてくれなかったんだよ~お・・・と言っても、高山市民でもないあんたになんでいちいち教えなきゃならんのかと言われるかもしれんが、そんな感じだった。 千葉市中央区の中央区役所と千葉市美術館が入っている建物は、旧川崎銀行千葉支店の建物が建っていた所で、旧川崎銀行川崎支店の建物が歴史的建造物だということで残して、その上に鞘をかぶせるように建てた「鞘堂方式」という建て方で建てたらしいが、そんな感じででも前の駅舎を残すことはできなかったかとかも思ったが、そんなことを言っていたら、何から何まで旧時代のまま残さないといけなくなってしまうおそれもあり、何を残して何を残さないかという判断はなかなか難しいのかもしれない。
で、駅の西側にあるもので、訪問したいと思ってきたもの、訪問したものとしては、飛騨民俗館(飛騨民俗村)・飛騨の里・飛騨高山美術館などがある。駅から歩くとちょっとあるが、バスに乗るほどでもないかもしれない・・というくらいの距離である。
ここ7年間に6回、高山に訪問し、そのうち、2回目からこのブログで訪問記を公開しているのだが、1回目に飛騨の里に行ったが、広大な敷地に何軒もの建物が移築されており、大急ぎでまわったものの、とても、半日やそこらで理解できるようなものではなかった。
今回は、その「飛騨の里」ではなく、「飛騨民俗館」の方を訪問した。
「飛騨民俗館」(「飛騨民俗村」)というから、「飛騨の里」と同じくらいの規模の施設かと思うとそうではない。 「旧 野首(のくび)家住宅」「郷倉」「山岳資料館(旧 高山測候所)」の3つの建物を移築し、建物と展示をおこなっているもので、いずれも、無料で見学できる。その3つを「飛騨民俗館」と言っているようで、「飛騨民俗館」という名称の建物があるわけではない。
その「旧 野首(のくび)家住宅」 岐阜県指定重要文化財 が↓
(↑ 旧 野首家住宅。 元の立地での南面。 「元の立地で」というのは、移築される際に、建てられていた方位とは異なる向きに建てられ、元 南面 が北東を向いて建てられていると思われるため、元はこの向きであったであろうと考えたものである。 10月下旬の後半、紅葉が大変きれい。)
( ↑ 野首家住宅。 元の立地で、南西から。 )
↑ ≪ 高山市片野町から移築。 屋根は 板葺石置屋根 両妻葺きおろし(↓)で、江戸初期の飛騨の様式をとどめる。
居間、台所、仕事場を兼ねた室内の広い土間が特徴。 ≫
( 『アイじゃぱん 高山・奥飛騨・白川郷・五箇山』2004.3.1. JTB るるぶ )
現地にも、屋外に木製の説明書きの看板が立っており、
≪ 旧野首家は大野郡灘郷片野村(現 高山市片野町)にあった・・・・ の飛騨の標準的農家で、・・・・土座生活をした民家です。
元禄八年(1695年)の検地・・・には、屋敷一畝二歩、間口八間半、奥行六間、しものくい八兵衛」とあります。水帖に記載されている当時と大差がなく、往時の形態をよく残した建物です。
江戸時代の農民の生活様式・・・・貴重な資料で、野首家より寄贈を・・・移築しました。 ≫
と書かれているが、雨で字が消えて読めなくなっている部分が多い。 そのあたり、整備してほしい。
( ↑ 野首家住宅。 元の立地で、北西から。 「文学散歩道」より撮影。)
昔、小学生の頃、何の漫画だったか忘れたが、屋根の上に石を置いた家を見たことがあり、その頃、大阪市内で住んでいた我が家の近所では瓦屋根が普通であり、板葺きに石置きの屋根の造りの家があるのだろうかと思ったのだが、江戸時代の飛騨地方の農家では標準的なものだったらしい。
高山市片野町 とはどのあたりかというと、高山の市街より南南東、飛騨天満宮や日枝神社より南、JR高山本線と宮川のすぐ東、江名子町の西、千島町の東のようです・・・・が、非高山人にしては「高山通」と認識するわたくしにとっては、この表現でなんとなくわかるのですが、完全非高山人にはなんのこっちゃ・・・て感じだと思いますが、↓なところ。
(↑ 高山市片野町 )
昔からこの場所にあった建物ではなく移築したものだが、高山市内から移築したもので、とんでもない遠くから移築してきたものではない。
旧 野首家住宅は、元の南側に、元の西から、「まやどま(馬屋土間)」「どじ(土間)(ENTRANCE)」「おおえ(居間)(LIVING ROOM)」「でい(座敷)」「えん(縁側)」と並ぶ。 「まやどま(馬屋土間)」の後ろに「まや(馬屋)」があり、「おおえ(居間)」の後ろの左寄りに「だいどこ(台所)」、その左に「にわ(作業場)」。 「おおえ(居間)」の後ろ、右寄りに「なかおく」、その右(元の東)に「おく(寝室)」。 「おおえ」の右(元の東)に「でい(座敷)」が配置され、「でい」の右(元の東)に「えん(縁側)」があり、「でい」の奥(元の北)に仏壇が配置されている。
今は見学する際には、元の南側の西寄から入るが、南側の「まやどま」「どじ」「おおえ」の南側から出入りでき、「でい(座敷)」の南側に掃き出し窓があり、「でい(座敷)」の東に「えん(縁側)」が配置されていたようだ。
元の南側の東よりに配置される「おおえ(居間)」↓
↑ ≪土座生活をした民家≫と書かれているように、「おおえ」の床は土である。 中央部に「いろり」がある。
「おおえ(居間)」の元の東側にある「でい(座敷)」↓
↑ 「でい(座敷)」は板敷になっており、奥に仏壇が配置されている。右側の障子の向こうに「えん(縁側)」があるようだ。
↑ 野首家住宅。 元 東面。
「でい(座敷)」の東に配置された「えん(縁側)」が、↑の左寄りの出っ張った部分。
野首家の「でい(座敷)」を見ても板敷きであり、座敷は畳敷きとは決まっていない。 ハウスメーカーのカタログを見ると、「フローリング」と称する「板の間」を「洋間」と言い、畳の部屋を「和室」と書いている会社がある。1990年代から2000年代初めにかけての(株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ のカタログはそうなっていた。 1990年前後の小堀住研(株)〔→エスバイエル(株)→ヤマダエスバイエルホームhttp://www.sxl.co.jp/ 〕のカタログでは、「板敷きの和室」というものが写真入りで掲載されていたので、その点ではその頃の小堀住研(株)のカタログの方がまともだったと思う。(こう言うと、(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫は、自社のカタログの書き方の不適切なところを改めようとは絶対にしないで、こう発言する人間の方に激怒するので扱いにくい。) 板敷き=洋間、畳敷き=和室 という単細胞的思考というのか、一条工務店式思考というのか「浜松流」というのかはやめた方がいいと思う。 ↑で見ても、旧 野首家の「でい(座敷)」は板敷であるが、だからといって「洋間」ではないはずである。和か洋かといえば和のはずである。
(株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ で、1993年4月に「設計」で中途入社したT(男。当時、20代なかば。明治大建築学科卒。自称、大成パルウッドで設計2年、住友不動産ホームで営業1年経験)が、和室に「Japanese Room」などと書いていたのを中途入社2年目の営業の「服部半蔵」(仮名)(男。当時、20代後半)が「ほら、図面だって、英語ですよ。Tさんはすごいでしょ」などと言ってきたので、「ええ? すごいかあ?」、「良くないのと違うかあ?」と私は思ったことがあった。 まず、相手がアメリカ合衆国人かイギリス人かオーストラリア人かニュージーランド人かであれば英語で書くのは悪くはないが、日本人が書いて日本人に見せるのに、なんで、英語で書かなきゃならんの? 日本人が書いて日本人に見せる以上、日本語で書いた方がわかりやすいのと違いますか? 日本語で書く方が親切と違いますか? 何か、英語で書く必要はありますか?
それ以上に、良くないと思ったのは、畳敷きの和室を「Japanese Room」と記載していた点である。 「中学校で英語の先生に教えてもらわなかった?」と思ったのだ。 「和室は、Japanese Room と違います」と、私は義務教育の公立中学校の英語の授業で英語の先生から教えられた。 「和室は、tatami room か、そうでなければ、Japanese style room とするべきです」と。 「Japanese room では、『日本人の部屋』か『日本の部屋』であって、和室の意味にはなりません」と。 明治大みたいなもんにあつかましくも行くようなやつが、英語で書く必要もないところでわざわざ英語で書こうなどとアホなこと考えると、こうなるんだな・・・( 一一) と思ったが、それを「服部半蔵」(仮名)は、「すごいでしょ。〇〇さん、Tさんは図面を英語で書くんですよ。すごいと思うでしょ」としつこく言って、「すごい」か「すばらしい」か言わそうとしてしかたがなかったが、それは「すごい」だの「すばらしい」だの言うような性質のものではない・・・・と言うと、また、営業本部長の天野隆夫が怒るだろうけれども、間違った英語で書くくらいなら日本語で書いたほうがよっぽどいいし、それ以前に、日本人が書いて日本人に見てもらう図面を英語で書きたがる理由がさっぱりわからない。
「おおえ(居間)」の奥の右寄り(東より)の「なかおく」↓
「なかおく」のさらに東に「おく(寝室)」↓
↑ 「なかおく」と「おく(寝室)」は板敷き。
「おおえ(居間)」の奥の左寄り(西より)に「だいどこ(台所)」↓
↑ 台所といっても、水道が出るわけでもなく、ガスが出るわけでもなく、煮炊きをする「いろり」は「おおえ(居間)」と「にわ(作業場)」にあるわけで、棚があって、台所作業をする用具を整理する場所ということか・・・。
「おおえ(居間)」の左奥(北西)、「だいどこ(台所)」の西側に「にわ(作業場)」↓
↑ 「にわ」と言っても、庭園ではなく、屋内にある作業場で、元の建物の配置から考えると、北西に位置するようだ。 家相の本など読むと、北西は主(あるじ)の座である・・・などと書いてある本があるが、そのあたりは地方によって考え方が違うのかもしれない。
( ↑ 野首家住宅。 元の立地で、北東から。 )
( ↑ 野首家住宅。 元の立地で、北面。 )
元の北面の西寄に出入口が見えるが、その内側は「にわ(作業場)」で、「にわ(作業場)」から北側に出れるようになっている。
西寄の南側には何があるかというと、「まや(馬屋)」で、「まや(馬屋)」と北側の屋外との間に「にわ(作業場)」があり、「まや(馬屋)」と南側の屋外との間に「まやどま」「どじ(土間)」がある。
↑ 「まや(馬屋)」
10月下旬の後半、高山は紅葉がとてもきれいではあるが、けっこう寒い。冬になるともっと寒いだろうから、それを考えた時、馬は建物の中ほどに入れてやろうということで、「まや(馬屋)」は中ほどに配置されていたのだろうか・・・・。
( ↑ 「おおえ(居間)」の部分の架工。 )
( ↑ 野首家。 軒裏。)
白川郷の合掌造りの家でも見たのだが、↑のような「つる」というのか、頑丈な「ひも」で架工を結びつけるという方法をこの付近の農家では採用していたのだろうか。
なお、ここで「旧 野首家」の写真を掲載していいのだろうか・・などと、一瞬、考えた。 「推理小説」で、まだ、その小説を読んだことがない人に結末を話すことを「ネタバレ」とか言って、好ましくないと言う人がいるらしい。前回まで4回にわたって、内田康夫『風の盆 幻想』の高山における小説の場所を巡ってみたのだが、写真だけ掲載してもしかたがないので、いくらか小説の文章を引用もすれば内容についても述べたが、もし、小説の要約みたいなものを述べると、それを読んだ人がその小説を読む必要はないと考えるか、そうではなく、その小説自体を読んでみたいと考えるか。 その小説自体を読んでみたいと考える方が多いと思うのだが、要約だけ読んで、もう、全体を読む必要はないと思うようなら、それはその読者がその程度の人であるか、それとも、その小説がその程度の小説であるかどちらかであると思う。 もちろん、読んでみたいと思ったとしても、人間、誰しも生きていくのに忙しいので、読んでみたいと思ったものをすべて読めるわけではないが、読んでみたいと思いながら読めずにいるというものと、別に読みたくもないと思うのとは違うと思うのだ。 前回まで4回にわたって、内田康夫『風の盆 幻想』について述べたが、『風の盆 幻想』を読んだことがない人が私が公開したものを見て、それで、もう読む必要はないと思うか、その小説を読んでみたいと思うかというと、読んでみたいと思うことになる可能性の方が高いと思う。
私は、結局、2年も浪人してしまって、それでも、東大に合格することができなかった。但し、すんなり合格できた人が私よりエライとかいうようには思っていない。 今から考えても、我が家の両親は大学受験に協力的ではなかった。また、家庭によって学習環境は異なり、評価の高い大学に合格した人がそうでない人間よりエライと決まっているわけでもない。我が家の場合、母の家系は学校の先生が多い家系で、「出世するかしないかにかかわらず、勉強する人が好きな家系」だったので、その点では有利だったが、母の叔母のつれあいで小学校の先生をしていた人があり、母はその叔母のつれあいというのか叔父というのかから「勉強のしかた」を仕入れてきたようで、それは小学校段階ではプラスになったが、高校から大学受験の段階になっては、その「小学校型の勉強法」は時としてマイナスになるものも出てきたが母は理解しなかった。北野高校の同級生などを見ても、お父さんが京大や東大などに行った人、あるいは、行きたいと思ったけれども行けなくて息子にはなんとしても行かせたいという気持ちの人の息子や娘というのは、親に大学受験についての理解があるので、なんともうらやましいと思ったものだ。我が家はその点では最低だった・・・・が、今さらそんなこと言ってもどうなるものでもないが、行きたいと思った所になんとか行けた人間はそれでいいことにできるかもしれないが、行けなかった者はその後、何十年経っても忘れはしない。相撲の高砂親方(元大関朝潮)が、横綱の朝青龍を指導できないのは親方が大関どまりの親方で横綱になった親方ではないからだと言われ、大関どまりの親方が横綱になった親方より劣るように言われたことについて、そんなことはない、横綱にまでなった親方はたいてい達成したという気持ちでいるが、大関にはなったが横綱にはなれなかったという親方は力士を引退してからも、いつまでもいつまでも、「なぜ、横綱になれなかったんだ」「どこがいけなかったのか」と考え続ける、考えるなと言われても考えないでおれないもので、だから、弟子の指導にもそれを生かそうとするから成果がでると述べていたようだが、それはあるのではないかと思う。 大学入試でもすんなり通った人間は通るとどうして通ったかなんて忘れてしまうかもしれないが、2年も浪人しても合格できなかったような人間はその後も考えるなと言われても考えないわけにはいかないし、今でも夢に見ることがある・・・・が、そのことはとりあえず横に置いておいて。 1浪の時に、文学史の勉強のつもりで、小田切 進『日本の名作-近代小説62篇』(1974.2.25.中公新書)というのを読んだのだ。今から考えると、「入学試験に通る」「受験に勝つ」というためとして考えると、文学史対策にそこまで労力を注ぐ必要はなかったかもしれないが、ともかく、それを読んだわけだ。 この本は、二葉亭四迷・森鴎外・幸田露伴から始まって伊藤整・三島由紀夫・井上靖まで近代の代表的文学者の代表作について述べた上で、その小説の重要部分を2頁だけ掲載していたものだ。で、これを読んで、ここに掲載されている小説を、これを読んだから、もう読む必要はないと考えるようになったか、それとも、その小説全体を読んでみたいと思うようになったかというと、後者である。 もし、そう思わないなら、思わない人間がその程度の人間なのか、それとも、その小説の方がその程度のものなのか、どちらかだと思うのだ。
内田康夫の「推理小説」というのは、私はもともとは推理小説なんてくだらんと思って読む気がしなかったのだが、コンビニに「浅見光彦シリーズ」の漫画版が置いてあって、つい購入して読んだところ、けっこう面白いではないか。 特に、推理小説の作家とかテレビの刑事ドラマとかいうのは、刑事とかを実際に存在するケーサツがどうかなんてちっとも考えないで理想的なものに描いていることが多いのに対して、内田康夫の作品はそうではないのだ。実状をけっこう理解しているみたいだ。で、漫画版ではなく小説の方を読んでみようという気持ちになって何冊か読むと、漫画版よりも小説の方が優れているものが多い。 だから、内田康夫の小説は漫画版を読んだから、だから、小説の方は読まなくていいやと考えるか、漫画版を読んだので、ぜひそれを小説で読んでみたいと思うかというと、後者のものだと思うのだ。 それに対して、言っちゃ悪いが、山村美紗とか夏木静子とかのは、もうけっこう・・・という気になるし、『名探偵コナン』に小説版があっても、とてもじゃないが読む気はしない。内田康夫の作品は、じっくりと腰を落ち着けて何度も読むと・・・・、やっぱり、ここ変だよというところがないわけでもないが、たとえ、そういう箇所があっても、「ネタ」がわかった後で読んでもなお読みたいと思う作品だと思う。だから、ちょっとくらい「ネタバレ」やっても、何ら問題はない作品だと思うのだ。
「古民家」というものもそうだと思うのだ。 寺とかは、外観は好きに撮影してもらっていいが、内部は撮影禁止という寺が多い。 飛鳥寺では住職の考えで、大仏さまのお写真を撮ってかえっていただいてかまいませんということにされたらしいが、そういう寺は少数派である。神社にいたっては、拝殿の前からは撮影できるが、本殿を撮影する以前の問題として本殿を十分に見せてもらえない神社がけっこうある。 それに対して、古民家というものは、外観だけでなく、内部も撮影したければ撮影してもらってかまいませんという所が多い。 それを撮影して帰ってその写真を公開したとすると、それを見た人が、ここで見たから、もう行って見る必要ないねと思うか、そうではなく、ぜひ、そこへ行って自分自身の眼で自分がその場で見てみたいと思うかというと、後者ではないかと思うのだ。 絵画なんかもそうではないかと思う。少し前、東京都美術館で「ボストン美術館の至宝展」が開催されたが、ヴィンセント=ファン=ゴッホの「郵便配達人ジョセフ=ルーラン」の絵を、ぜひ見たいと思って見に行った。この絵は美術史のテキストなどにもよく出ている絵であり、インターネットで検索しても見ることができる絵だけれども、本やインターネットで見たから、だから、美術館まで足を運んで高い入場料を払って見る必要はないねと思うか、本やインターネットで見たあの絵を、ぜひ、実物を直接見てみたいと思うかというと、後者だと思うのだ。
「高山の民家」といっても、「古い町並み」「さんまち」と言われる地域に建つ「日下部民芸館」「吉島家住宅」「平田記念館」「飛騨民族考古館」などと、この「旧 野首家住宅」とは、いずれも、「高山の民家」であっても、ずいぶんと違う。 前者は町家であり、野首家住宅は農家である。又、前者は今は一般公開してそこに住まれているわけではないが、同様の家に近隣の人たちは今も住んでいる家であるのに対して、野首家住宅は、江戸時代初期の様式で、今現在は高山市の農家でも、いくらか似たところはあっても、このままの家に住んでいる人はあまりないだろう。
その町家の方だが、藤井恵介・溝口正人・平山育男・大野敏・中村聡樹・安藤典子『日本の家2 中部』(2004. 講談社)には、高山の吉島家住宅と岩佐家・中村家・田邊家の写真がカラーで掲載されている(岩佐家・中村家・田邊家は非公開)。 吉澤政己『日本列島 民家の旅(6) 中部1 東海・中央高地の住い』(1996.4.30.INAX出版)には吉島家・日下部家(日下部民芸館)・松本家住宅と同書出版時は大野郡丹生川村だったが今は高山市になった荒川家住宅が白黒写真で掲載されている。 そこで写真を見たから、だから、吉島家住宅はもう見に行く必要ないねと思うか、そうではなく、ぜひ、そこに足を運んで直接見てみたいと思うかというと、直接見てみたいと思う方だと思うのだ。 野首家住宅は、同書には掲載されておらず、他の本でも今までに見たことはないが、吉島家住宅と同様、写真で見たからだからそこに行って見る必要はないねと思うか、そうではなく、ぜひ実際にそこへ行ってその場で自分の眼で見てみたいと思うかというと後者だと思うのだ。 又、写真を撮影して帰った場合、頭の中に記憶として残ったものと自分が撮ってきた写真に写っているものと同じでない場合があるが、その場合、写真が正しくて記憶が間違っているとは限らないと思うのだ。 そこに行って感じたもの、思ったものと写真に撮ってきたものに写っているものは、どちらが正しい、どちらが間違っているというものとは違うと思う。 だから、どんなにいい写真があっても、その場所に足を運んで自分自身の眼で見る価値がなくなるものではないはずである。 だから、遠慮なく、写真入りで公開させてもらおうと判断した。
※ 高山市 旧 野首家 http://www.city.takayama.lg.jp/kurashi/1000021/1000119/1000847/1000848/1000858.html
次回、旧 新宮村の郷倉 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_10.html
(2017.10.31.)
☆☆☆☆☆高山シリーズ第5回
1.内田康夫『風の盆 幻想』と巡る高山(1)喫茶店「ロスト」を探す https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_5.html
2. 同 (2)高山ラーメン https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_6.html
3. 同 (3)「K病院」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_7.html
4. 同 (4)高山市役所 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_8.html
5. 旧 野首家住宅 〔今回〕
6. 旧 新宮村 郷倉 ほか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_10.html
7. 山岳資料館(旧 高山測候所)、飛騨民俗村とは https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_1.html
8. 飛騨合掌苑 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_2.html
9.「飛騨民俗村 文学散歩道」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_3.html
10.飛騨高山美術館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_4.html
11.名古屋から高山へ「ワイドビュー飛騨」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_5.html
12.高山駅から飛騨民俗村へ[上]https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_6.html
13. 同 [下]玄関が出た家は変か? 「苦労」は「売り」にするものか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_7.html
14.新上野橋から三福寺橋、山小屋て、なぜ洋風なの? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_8.html
15.「旧 吉城郡細江村の民家」(熱田神宮内) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_9.html
☆☆☆☆高山シリーズ第4回
1.日の出天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
2.大八賀神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_14.html
3.東山遊歩道(1)高山別院照蓮寺から東山白山神社へ 〔今回〕
4. 〃 (2)東山白山神社・大雄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_16.html
5. 〃 (3)雲龍寺・久昌寺・栄鏡院 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_17.html
6. 〃 (4)洞雲院・素玄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_18.html
7. 〃 (5)東山神明神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_19.html
8. 〃 (6)天照寺・法華寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_20.html
9. 〃 (7)善応寺1.本堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_21.html
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