「受験英語」で学ぶ 「セクシュアルハラスメント行為」。「求婚する」は英語で何と言うか?
[第587回] 会社と営業の話(143)
私が高校生だった1970年代後半、高校の科目で、国語・社会科・英語を「文系科目」、数学・理科を「理系科目」と定義づける人がいたのだが、それはあんまり適切ではないと思う。 特に、「語学は覚えればしまい」なんて気軽に言う人がいたのだが、なかなか覚えられない者にとっては、「覚えればおしまい」なんて言われると、かえって、ドツボにはまる。「覚えれば」のその「覚える」のが大変なんだよ。で、「覚えればおしまい」なんて言う人というのは、「覚える」型人間じゃないかと私は今は思っている。
人間には、「覚える」型人間と「考える」型人間がいると思うのだ。 遠山啓『競争原理を越えて』(太郎次郎社)・佐伯胖『「学び」の構造』・森毅『元気が出る教育の話』(だったか『数学受験術指南』だったかどっちか)(中公新書)の3つに、「『覚えた』ものは忘れるが、『わかった』ものは忘れない」なんてことが書いてあって、なるほどと読んだ時は思ったのだが、しかし、高校を卒業して、大学受験から離れて何十年か経ってしまった今、「わかった」はずの数列とか、「覚えた」のではなく「わかった」はずなのだが・・・・、忘れた。あれだけ、苦労して努力して「わかった」はずのものだが、忘れた。 だから、「覚えたものは忘れるが、わかったものは忘れない」から、「覚える」型で学習するのではなく、「わかる」型の学習の方がよいというのは、一理はあるけれども、わかったものは忘れないというのは、それは2年とか3年とかのスパンでのことであって、何十年か経つと、「わかった」ものでも忘れるよ。 それともうひとつ、遠山啓も森毅も教育論者ではあるが数学者であり、この「わかったものは忘れない」という思考・思想自体が数学者型の発想・「わかる」型人間の発想であり、語学はやっぱり「覚える」型で学習しないと、「わかる」型でやってうまくいくのは数学とか物理とかで、語学は「わかる」型では無理だと思う。
で、日本史とか世界史とかを「覚える科目」とか思っていた人がいたのだが、そう思う人は2種類で、ひとつは英語が得意だという人で、日本史とか世界史とかも英語を学習するような調子で「覚える」型・語学型の学習法で学習していた人、もうひとつは、工学部あたりを目指していた人で、社会科を重視していなかった人だ。 いずれも、正しくはない。日本史や世界史は、こういう状況があって、その周囲でこのような事件があり、その結果としてこうなって・・・と原因があって結果があるものだ。経済の状態がこうで政治の状態がこうでその相互関係の上でこのようになって・・と考えるものであって、「考える」学問であって「覚える」学問ではない。だから、工学部あたりを目指す人が数学や物理・化学に時間を費やし、社会科は「致命傷を防ぐことができればいい」という程度の点数で良いと考えた人なら「覚える」型学習法でも「致命傷を防ぐ」程度の点数はとれても、それは本来の社会科の学習法ではないはずだ。
私なんかは、「考える」型人間だった。もっとも、こういうことを言うと、「考える」型も「覚える」型もあるかいとか言う人が出てくるかもしれないが、「考える」型・「覚える」型というのは、これは「デジタル」ではなく「アナログ」であり、「考える」型・「覚える」型が相当に強い人と、どちらかというと「考える」型・どちらかといえば「覚える」型というくらいの人とがおり、どちらかというと・・・というタイプの人には自分はどちらなのかといった自覚がない人がいる。もしくは、大学受験において、「たいした大学じゃない大学」にさっさと合格して行った人には、こういったことを考える前に大学受験を「終戦」させたため、そんなこと、考えることもなく生きてきた人もいると思う。 私は、「考える」型の傾向が相当強い方の人間だったと思っている。だから、数学や物理は好きだったし、日本史・世界史も倫理社会も好きだったし、文学と哲学はどちらが好きかというと、どちらも好きだったが哲学の方が好きだった。この「考える」型の傾向が相当に強い人間は「覚える」ことに苦痛を感じる。そもそも、何であれ、自分自身で考えてわかって理解するべきもので、わかりもしないものを覚えさせられてたまるか! て認識がある。「覚える」前に頭の中の画面に「覚えてよろしいか」と出て、「はい」をクリックして始めて「覚える」ことができる人間と、さっさと「覚える」人間なら、さっさと覚える人間の方が「覚える」科目、即ち語学は学習が早いように思える・・・・が、性分は簡単には変わらない・・・が、だから、英語が入試にない大学に行こうなんて考えても、国立大学とか早慶に行こうと思えば、そんな所はない。だから、しょーことなしにやるしかない。やるしかないが、どうやれば、「覚える」という難しいことができるのか。そんなこと口にすると、「覚える」のが得意な人間、「覚える」型人間は「英語なんて、覚えればおしまい」なんて気軽に言うのだが、それが大変なんだよ、「考える」型人間にとっては。で、強度の「考える」型人間の私は、「作った」のだ。これは感覚的な表現で、説明が難しいのだが、自分自身は「考える」型人間なのだが、本来の自分と別に「作った」のだ。語学の学習用の学習姿勢というものを。プロ野球の中継なんか見ると、スイッチヒッターなんてのがいるが、もともと、右打者だったものが、左打ちを「作った」という選手がいる。そして、「作った」方の打席の方が打率が高い選手もいる。相当強度の「考える」型人間の者は右打者が左打ちを「作る」ことでスイッチヒッターになるごとく「作る」ことで「覚える」科目を克服できると思う。私はそうしたのだから。が、やっぱり、「作った」ものというのは放置しておくともとの「考える」型に戻ろうとするところがあるので、始終、「作る」姿勢を確認しないといけない。又、それでも、時として、「考える」型で学習してしまう時もある。
それで、今回、「考える」型人間だった私が、大学受験の際に、英語の学習において、気づいたものを述べる。 ちなみに、英語という語学は、イタリア語とかフランス語とかロシア語とかと比べると、学習自体がおもしろくない。 イタリア語は、イタリアに行ってイタリア人が話しているのを聞くと、普通に話していても歌を歌っているような言葉。普通に話していても、愛を語りかけているのではないかと思えるような言葉。 講談社現代新書の『ロシア語のすすめ』に出ていた話だが、ロシア人のお国自慢に「ドイツ語は男と話すのによく、フランス語は女と話すのに適しており、スペイン語は神に語りかけるのによい。しかし、ロシア語はそのすべてにふさわしい」というものがあるらしい。たしかに、ロシア語は普通に話す言葉が韻を踏んでいて、普通の言葉が詩のようなもので、イタリア語やロシア語は語学の学習自体がおもしろい♪ のに対して、英語はおもしろくない。 雁屋哲が書いていたが、フランス人は「フランス語のできそこないがイギリス語(英語)だ」と言うらしい。 で、語学の学習自体については、英語の学習というのは、イタリア語やロシア語やフランス語なんかと比べると、どう考えてもおもしろくない・・・・のだが、大学入試においては、高校で英語以外の語学をやっている高校なんて、慶應義塾高校とか、言うと怒られるかもしれないが「ちょっと特殊な高校」であって、「普通の公立高校」では英語をやっているものだ・・・・から、英語はやるしかない。 だから、「赤尾の豆単」に入っていたしおりに書かれていたように、「人間は忘れる動物である。忘れることを心配する必要はない。忘れればまた覚えればよいのである」という教示に従い、忘れても覚える、忘れれば覚える、覚えられなくても覚える・・・という姿勢で、雨ニモ負ケス、風ニモ負ケス、ホメラレモセス・・・ひたすら、覚える、覚えられなくてもやっぱり覚える・・・と思ってやると、ひとより覚えたかどうかはわからんが、それなりにできるようにはなるのではないか。
月日は百代の過客にしてなんとか言うように、年年歳歳花愛似たり、歳歳年年人同じからず・・・とかいうように、いつしか、歳いったものだ。 私の場合、20代の後半で大学を卒業したが、卒業式の後くらいに、慶應大学の日吉キャンパスをうろついていると、サークルの勧誘をやっていたにーちゃんから、「新入生の方ですか」と誘われたりしたもので、30過ぎの時にも、入学式の後くらいに日吉に行ったことがあって、「新入生の方ですか」と誘ってもらったという「実力」もしくは「実力のなさ」があったのだが、さすがに今は誘ってもらえない。代わりに、何年か前、三田の学生部に卒業証明証をもらいに行った時、今は私が卒業した頃と違って求人票は貼りだされるのではなくパソコンに入っているようなのだが、大学生のねーちゃんから、その使い方を質問されて、なんで、俺に訊くんだよ・・・と思ったが、就職部か学生部の職員と間違われたようだった。教授先生とは間違われずに、事務職員と間違われるというのは、卒業後、「先生」でない仕事についてきたからか・・・、それとも、あんまり、「エライ人」に見えなかったからか・・・。まあ、「エライ人」になんて見えなくていいけどね。
今となっては、40年も前のことになる・・・・か。 浪人中に、英和辞典を見ていて気づいたものがあった。「求婚する」とは、英語で何と言うか?
英語の単語でも、しばしば、登場する単語で、単語のつづりとかは何をいまさらて感じだけれども、その用法については、なかなか難しいという単語がある。 その1つが、ask という単語である。ask は他動詞と自動詞の両方の用法があるが、 『研究社 新英和大辞典 第4版』(研究社)を見ると、 ask の他動詞としての6番目の意味として、「(女に)結婚を申し込む(propose to)」というのが出ている。 なるほど、「尋ねる」とか「頼む、求める」とかだけでなく、その発展形として「(女に)結婚を申し込む」という意味もあるのか・・・。な~るほど、と思った。岩崎民平監修『現代英和辞典』(研究社)にも、他動詞として、「<人にものを>尋ねる、問う(inquire)、<人にものを>頼む、請う、求める(request, beg)・・・」などとともに、「<女に>結婚を申し込む(propose to)」というのが出ている。
そして、岩崎民平・小稲義男監修『新英和中辞典 第3版』(研究社)には、hand のところに、熟語として、
「ask for a person's hand. 女に結婚を申し込む」
というのが出ている。 直訳すると「私にあなたの手をください」、そこから⇒「私と結婚してください」 な~るほど、女に「あなたの手を私にくださいと求める」ということは、「私の妻となってください」と求めるということか、な~るほど、なるほど・・・・と感心したのだ。 なにしろ、英語を学習する時だって、どうしても、「考える」型で思考してしまうタイプの人間だったもので。 また、おまえは何者か? というと、内田康夫の小説に登場する浅見光彦なんてのは「職業はフリーのルポライター」と、おっしゃっているけれども、それは世を忍ぶ仮の姿であって、「実は名探偵」、しかも、「兄上は警察庁刑事局長であらせられる」という水戸黄門の印籠みたいのをお持ち・・・だそうで、だから、警察に留置なんてされようものなら私らなら、どうしよう~と大変なところが、浅見さんの場合、さて、いつ、印籠をだしたものやら・・・てところで余裕♪ 余裕♪・・・。 今は昔、連合赤軍のハイジャック犯だかが、裁判で職業を訪ねられて「革命家」と答えたことについて、「革命家」なんて職業あるか! と非難していた評論家があったが、たしかに、「革命家」は「食っていく為の手段」としての職業(occupation)ではないが、返答者は、おそらく、「天職」(calling)としての意味、生き様として「革命家」だと言ったつもりだったのだろう。 で、浅見光彦というのは、食っていくための手段としては「フリーのルポライター」であるが、その実態は「名探偵」だそうだが、私は何者かというと、「食っていくための手段」の方ではなく、生き様、人間としてのありようとしては、「詩人で名剣士、科学者で、しかも、音楽家」・・・である、となるはずだった。 高校卒業した頃の意識としたは。そうなったかならなかったかは別として。 この文句、「詩人で名剣士、科学者で、しかも、音楽家」という文句は、どこから仕入れたかというと、ロスタン『シラノ=ドゥ=ベルジュラック』で、シラノについて言われる文句である。「詩人で名剣士、科学者で、しかも、音楽家」と。 劇の中で言われる文句だけあって、10代後半に『シラノ=ドゥ=ベルジュラック』を読んだ時はそうも思わなかったが、今、もしも、口にするなら、少々、きざったらしいような感じがしないでもない・・・・・が、嘘でないよ、実際に、詩人だし、音楽家だし・・・・てことで、詩人の魂が感応したのだ。 "ask for a person's hand. " な~るほど、「あなたの手を私にください」・・・・→で、「求婚する」か、な~るほど、なるほどお~お・・・・と。 《「考える」型語学学習法》だからこそ感動する、「詩人で名剣士、科学者で、しかも、音楽家」であるからこそ感動する♪ まさに、詩人型英語学習法! 「セレナーデ」でも歌おうか(^^♪ 〔⇒《Schubert(シューベルト) Ständchen (Serenade)(セレナーデ) Peter Schreier(ペーター=シュライヤー) 》https://www.youtube.com/watch?v=oaq-6U7ZJt8 〕
研究社辞書編集部編『新リトル英和和英辞典』(英和:第4版、和英:第4版 研究社)の和英の方で「求婚する」を引くと、「求婚する」は英語では、「 propose <to> 、ask for sb's hand 、court 、woo 」と4つ出ていて、その2番目に、「 ask for 誰それのhand 」というのがある。 ちなみに、他の3つを『新英和中辞典』でひくと、
propose には他動詞と自動詞があり、自動詞の2番目に「結婚を申し込む」が掲載されていて、例文として、
「 Have you proposed to her ? 彼女に結婚の申し込みをしたのか。」というのが載っている。
court には、中庭とか裁判所とかいう意味の名詞と、他動詞・自動詞があり、他動詞の1番目に「<女に>言い寄る、くどく、求愛する(woo)」があり、自動詞に「求愛する」が載っている。例文として、
「 He has been courting Kate for more than two years. 2年以上もケイトの愛を求め続けている。」
「 a courting couple. 愛を語り合っている男女。」 というのが出ている。
woo は他動詞で文語らしく、1番目に「<女を>くどく、言い寄る、求愛する、求婚する(court)」が出ている。
単語1語で「求婚する」になる propose to , court, woo はさておき、“ ask a woman's hand ”
「手を求める」⇒「求婚する」というのは、まあ、語学を学ぶ面白さというのか、英語には珍しいというのか、文学的感動を覚えたものだった・・・・。 慶應大学というのは内部進学の教授・助教授が多く、そういう人は大学から入った人間、特に公立高校出身の人間が嫌いである。 特に私が卒業した北野高校というのは慶應の教授から嫌われている高校で、「北野高校の人間というのは、私学よりも国立・公立の方がいいみたいに思っていませんか。大阪の学校なんだから、大阪は商品の街なんだからもっと民間のものを大事にするべきなのに、国立・公立の方がいいみたいに思って、どうかしてるんじゃないかと思うね。北野高校の人間というのは『どうして、私学だったらいいんですかあ』とか言うでしょ。バカか! 『私学だ』てことは『いい』てことじゃないか! こんな常識がわからんのかあ!」とか講義の最中に教壇で叫ぶような人の大学だった。 私なんかは、そんなことを言われると、「せ~んせえ~え。 どうして、『私学だったらいい』ていうのが『常識』なんですかあ~あ?」と訊きたくなるのだが、逆らうとうるさいから黙っていた方がいい。 逆らうとうるさいから。彼らにうかつに逆らうと、「なんとか症候群」とか「なんじゃらシンドローム」とか「病名」つけられて「治療」される危険がある。怖いから逆らわない方がよろしい。 1984年のことだが、黒川行治という助教授(男。当時、30歳)が、「会計学総論」という講義の最中に、「この僕は中等部から慶應に行ってるんだぞお。わかってんのかあ。おまえら、外部の者とはわれわれ内部進学の人間は違うんだ。おまえらは自分たちは偏差値が高い優秀な人間だとか思ってるんだろお。そんなものは何の価値もあるものか。 小学校から高校までの勉強は害があるんだ! その点、われわれ、内部進学の人間は『塾風』というものを身につけているんだ。われわれ内部進学の人間とおまえら(慶應義塾の)外部の者とは違うんだ。わかってんのかあ! その中等部から慶應に行っているこのぼくがおまえら(慶應義塾の)外部の者に話しをしてやってんだぞお。わかってんのかあ。もっと、畏まってききまさい。わかってんのかあ。内部進学のこの僕がおまえら外部の者を教育してやろうと言ってるんだ、中等部から慶應のこの僕がおまえら(慶應義塾の)外部の者を教育してやろうと言ってんだぞお。わかってんのかあ!」と叫ばれたことがあったが、内部進学の人間同士で居酒屋にでも行って言うのならともかく、正規の講義の最中にアルコールも入らずに何人もを前にしてマイクに向かって叫ぶというあたりが、「塾風を身につけている」内部進学の教員だけのことはある! という印象を受けた。 ほとんどビョーキ! て感じであった・・・・が、黒川行治が叫んだように、内部進学の人達というのは「小学校から高校までの勉強は害があるんだ。わかってんのかあ!」と思っておるわけだ。そういう人達なのだ。(不思議なのは、「小学校から高校までの勉強は害があるんだ」とか言いながら、自分たちが「害がある」と主張している高校の勉強を教える高校の教諭の資格を取得しようと教員養成課程を履修しているような内部進学の人もいるのだ。マカ不思議!)かわいそうな人たちだな、かわいそうな教育うけてきてるなあ、この人たちは・・と思ったものだった。 「ask for a woman's hand」で「求婚する」、な~るほどなるほど・・・なんて感動した経験のない人たちなのだ、慶應の内部進学の教授・助教授というのは。かわいそうに。 そういうものを「そんなものは受験勉強だ。害があるんだ」と「中等部から」観念的に叩き込まれてきた人達なのだ。かわいそうにねえ。ほんとにかわいそうにねえ・・・と思うが、言うと怒るから黙っておいた方がいい。「塾風というものを見につけていらっしゃいますからねえ」とか言うと喜ぶのだろう、アホが。そんな教育受けてきた人間だから、だから、公立校出身の人間はドジンに見えるらしく、内部進学の支配階級は公立校出身のドジンには強姦しようが何しようが好き放題にする権利がある! みたいに思うのだ。その強姦魔養成所・不良養成所みたいな慶應義塾高校卒の黒川行治は、インターネットで検索すると、今、教授から名誉教授におなりあそばしたらしい。 なるほど、「中等部から慶應に行ってる」おえらい方はさすがに違いますなあ。
私の場合、「考える」型人間であり、「詩人で、名剣士。 科学者で、しかも、音楽家」であったので、「考える」型語学学習法で英語を学び、「詩人で、名剣士。科学者で、しかも、音楽家」型の詩的感性をもって学ぶ英語学習法で学んだおかげで、 ask for a woman's hand という熟語は、これは「覚える」のではなく「わかる」型学習法によって「わかる」ことで「覚える」ことができた。 だから、単に「覚える」ことで覚えたもの以上に、よく覚えた。
戸建住宅請負建築業の小堀住研(株)は、1970年前後は在来木造の会社で、阪急沿線を中心としての関西を中心として「高級住宅の小堀」として、けっこう評価された時期があり、その後も、「小堀ならではのデザイン」「技術の小堀、設計の小堀、デザインの小堀」として、それは「自分で言いまくっていた」面もあるけれども、そう評価されて、小堀ファンのような客層もできていたのだが、1989年に相談役だった創業者の小堀林衛が他界した後、2代目の社長の中島昭午が安物路線で行くとあっちやらこっちやらで叫びまくって、そして、1970年代後半から始めた「ハウス55」という「高品質、低価格」タイプのものを「高品質、低価格」ではなく「安もん」として吹聴して、そして、だめにしてしまった。 中島昭午が卒業した滋賀県の長浜北高校http://www.nagakita-h.shiga-ec.ed.jp/ の応援部のブログhttp://kitakou.pokebras.jp/e306447.html には、コメントで、中島昭午のことを「さっそうたるメンバー」などと書き込んでいた人がいたが、実質は「会社をつぶしたアホな二代目」である。2代目の中島昭午は初代の小堀林衛の「おいっこ」と言っていたのだが、1990年頃、初代の小堀林衛の弟らしい小堀東という人が専務でいたのだが、同じ苗字の弟ではなく、異なる苗字の「おいっこ」が2代目になっているというのは、「な~んでだ?」と思う人は思ったようだが、従業員の間では「おいっこ」というのはウソで、実際は「メカケの子」だか「メカケの娘の婿」だからしいと言われていた。おそらく、そんなところだろう・・・が、その男が会社をつぶした。1990年に、2代目の社長の中島昭午が会社名から「小堀」を取り除きたかったのか、黙っていても、桂離宮の造営に関係したかとか言われる建築家にして茶道家の小堀遠州と関係あるのか? と客の側で勝手に誤解する「小堀」を取り除いて、「セックスとエロをかけあわせる」で「エスばいエロ」か? とか言われる(実際は、「スペースとライフをかけあわせる」という意味らしいが、説明されなきゃ誰もわからん)「エスバイエル(株)」という名前に変えた会社は、ヤマダ電機が買収して、(株)ヤマダエスバイエルホームhttp://www.sxl.co.jp/ という後継会社があることはあるが、富士銀行から来た破産管財人みたいな社長が、大阪駅の目の前の一等地にあった本社ビルなどを売却させて「取れるだけ取って」銀行に去り、その後、積水ハウス(株)から来た男が社長になったので、積水ハウス(株)はかつて在来木造のトーヨド建設を買収して積水ハウス木造(株)にしたように、エスバイエル(株)も買収するつもりか? と思ったら、すでに木質系部門を確保した積水ハウス(株)としては、イメージの悪いエスバイエル(株)を買収しても「うまみがない」と判断したのか、積水ハウス(株)から来た社長も社長を退き、松川という工事部にいた男が「敗戦処理」みたいに社長になった後、ヤマダ電機に買収されて、ヤマダ電機から来た人間が社長にもなった。 小堀住研(株)が名前を変えたエスバイエル(株)は、いったん、つぶれて、つぶれた店を「いぬき」でヤマダ電機が買い取って、「いぬき」で買い取った店に「ヤマダエスバイエルホーム」という名前をつけた、というものだ。 「メカケの子」だか「メカケの娘の婿」だかの中島昭午は、せっかくの会社をぶっつぶした男であり、長浜北高校の「卒業生」なる人が「さっそうたるメンバー」などと書き込んでいたのは、愚かである。
1989年7月、小堀住研(株)〔→エスバイエル(株)・・・→(株)ヤマダエスバイエルホームhttp://www.sxl.co.jp/ 〕の千葉支店に「支店長」だとして赴任することになった渡邊士直は、本来、7月1日から赴任のはずなのに、7月下旬まで千葉支店に赴任しなかった。 会社という所においては、どこそこに赴任してくれと言われたらさっさと赴任するもので、当たり前みたいに、7月下旬まで来なかった渡邊の態度は会社員として評価されるものではない・・・・が、1989年7月下旬に千葉支店に来た渡邊士直(男。当時、40代。最終学歴:熊本県の底辺の高校卒)は、千葉支店に赴任して最初に何をやったかというと、歓迎会の席上、何人もが見ている目の前で、「男性がさわりたいと思うお尻をしているというのは大変いいことだねえ」と言いながら女性社員の尻をなでまわした。 「ちょっと、さわった」ではなく「なでまわした」。 「わからないように、こそっとさわった」のではなく「何人もが見ている前で」「男性がさわりたいと思うお尻をしているというのは大変いいことだねえ」と言いながら、堂々と、「なでまわした」のである。 びっくりした! 慶應大に行っていた時、ある女性が、「『どうして、そこで大きな声を出して助けを呼ばなかったのか』とか言う人がいるけれども、女性の気持ちとして、その場になったら、なかなか言えないものよ」と言った人がいたのだが、「男性の気持ちとして」も、突然、目の前で、そういうことをされて、「その場で言えばよかったではないか」とか言われても、びっくりして、「なかなか、言えないもの」である。
「満員電車の中でこそっと」というのでも、いいか悪いかといえば、いいということはないのだろうけれども、しかし、「何人もが見ている目の前で」「どこの誰かわからない相手にではなく、自分が勤める会社の従業員に」というのは、しかも、「赴任早々」というのには、びっくりした。 びっくりもしたし、精神的にショックも受けた。 時々、「男性がどうこう言うことないではないか」とか非常識なことを言う人がいるが、そういう問題ではない。撫でまわされた人間がどう思ったかにかかわらず、目の前でそういうことをされて、私は大変なショックを受けた。「トラウマ」という用語を使った方がよければ、「トラウマ」にもなった。 1990年2月、富士銀行(現 みずほ銀行)から出向できていた増田和二(男。当時、60代?)が「された人間が、はっきりと訴えて、しかも、社会問題になったというのでなければ、どうってことない」と暴言をはいたが、増田和二は根本的に物事の考え方を間違えている。「された人間」というのは、その時、尻を撫でまわされた人間のことではないはずなのだ。 目の前でそういうことをされて精神的にショックを受けた私も「された人間」であるし、1人の女性社員に対してそういった人権侵害行為を渡邊士直がおこなったということ、それを富士銀行から出向できて住宅建築業の仕事なんて何もわかっていないのに「常務取締役」・「東部営業本部長」にならせてもらった増田和二がそのような暴言をはいた、ということは、それらの行為は、小堀住研(株)のすべての男性・女性の従業員に対しての人権侵害行為であり、小堀住研(株)の男性・女性のすべての従業員が「された人間」であって、世の中には男性にも女性にも様々な人がいるのであり、その時に、直接、尻を撫でまわされた女性が、たとえ、「かまわない」と認めたとしても、支店における「歓迎会」という会社の行事の場においてなされたものである以上、「された人間」は小堀住研(株)の全従業員であり、それを直接撫でまわされた女性が「かまわない」などということにする権利はないとともに、増田和二にそのような暴言をはくことは許されることではなく、富士銀行(現 みずほ銀行)は増田和二のような不良社員を他社に派遣して他社の風紀を乱し従業員の人権を侵害する権利は存在しません。富士銀行には使用者責任があります。
渡邊士直という人は、「渡邊さんの場合は、信念もってやってる」と従業員の間で言われていた。 又、小堀住研(株)は、慶應義塾大学に出していた求人表では、「応募資格」として「営業系(営業・人事・総務・経理)・・・4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」「技術系(設計・工事・工務・アフターサービス)・・・・4年制大学の建築学科・土木学科卒の人」と明記して募集していたはずで、この会社は昔から「小堀住研は大卒しか採らない会社なんです」と言いまくってきた会社であり、「ミサワあたりの営業は高卒の営業ですが、小堀の営業は大卒の営業です」とも言っていた会社だった。 4月の大阪駅前の本社での全体研修でも講師役で来た人が「小堀住研は昔から大卒しか採らない会社です」と新卒社員全員を前に発言したし、4月後半の芦屋市での営業系の合宿研修でも講師役で来たTQC営業部会課長の川崎が「ミサワホームあたりの営業は高卒の人が多いけれども、小堀住研は昔から大卒しか採らない会社で、ミサワの営業は高卒の営業ですが、小堀の営業は大卒の営業で、ミサワホームと小堀住研では営業という職種の社会的位置づけが違います」と発言した・・・・はずだったが、それにしては、なぜか、熊本県の底辺の高校卒の渡邊士直がそこにいた・・・・のだった。私は「住宅会社の一線の営業」という仕事に応募して入社したのではなく、「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」というコースに応募して採用されて入社したはずだったのだ。 そうではなく、「底辺の高校卒の人のコース」の募集であったなら応募していない。 渡邊は、裏口入学みたいに、「応募資格」を満たしていないにもかかわらず入社して、なぜか、支店長になっていて、そして、私に「この俺は支店長なんじゃ。俺が支店長である限り、おまえは俺にはどんなことでも服従せんといかんのじゃあ、ごらあ!」と言って何度も何度も怒鳴りつけたが、しかし、「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」のコースに入社した私が「底辺の高校卒の人」のコースで入社した痴漢人間の渡邊士直にそういう口をきかれる筋合いはないはずなのだ。
1984年、慶應義塾大学商学部の助教授であった「中等部から慶應に行ってる」黒川行治サンは、「小学校から高校までの勉強は害があるんだ。わかってんのかあ!」と絶叫なさったが、私は「小学校から高校までの勉強は害がある」とは思わないし、「受験勉強」と「高校の勉強」に明確な境界線があるとも思っていないし、「受験勉強」だから「害がある」とも思っていない。むしろ、黒川行治サンみたいな認識を持つようになってしまった方というのは、かわいそうな人だなあ、ほんとにかわいそうだなあと心の底から思う。 “ ask for a woman's hand ”「女性に手を求める」で「求婚する」になる・・・と知って感動するという経験を「そんなものは受験勉強だ。害があるんだ」と観念的に教え込まれて来た慶應の内部進学の人というのを、私は心のそこからかわいそうに思う。 ある「幼稚舎から慶應」という人が言ったのだが、「種無しブドウなんて、そんなもの、よく食べるなあ」と。「ひとに皮むいてお皿に持ってもらってスプーンですくってなら食べけど、そんなもん、種無しブドウをひとつひとつ自分でちぎって口にいれて食べるなんて、そんなおかしなこと、できるかあ!」と。そして、「みかんでもそうだ。ひとに皮むいてもらってカラスにしてもらってなら食べるけど、自分で皮むいてみかん食べるなんて、そんな非常識なことできるかあ。おまえ、よく、そんなもの食べるなあ」と言って、自分でみかんの皮をむいて食べる(慶應義塾の)「外部の者」〔慶應の内部進学の人は、大学だけ慶應に行った人間を「(慶應義塾の)外部の者」と言います〕を軽蔑の眼で見るのだった。かわいそうな男だなあ。かわいそうな教育うけてきた男だなあと彼を見て思ったのだが、そいつがこう言ったのだった。「外部の連中を教育してやらんといかんからなあ」と。私は、最初、彼がみかんや種無しブドウをまともに食べれない教育を受けてきたことについて、かわいそうにと思い、彼を被害者だと思ったのだったが、彼は被害者じゃなかった。彼は加害者だった。彼は加害者として「外部の者」を「教育」してやらんといかんと考えていたのだった。 黒川行治さんもその類の人間のようだ。「会計学総論」という講義は教えても、しょせんは、精神的にカタワの簿記屋でしかない男である。
小堀住研(株)の千葉支店長に1989年7月1日に赴任するよう辞令を出されながら7月下旬にやっと赴任した渡邊士直は、従業員の間で「信念もってやってる」と言われていた痴漢人間だった。人格が痴漢の人間だった。渡邊は、1989年12月の忘年会の際にも、嫌がる女性社員の手を無理矢理つかんで離さないという行為をおこなった。 野蛮人! と言うしかない。 渡邊士直は、1990年2月、私がこの件を指摘すると、「握手だろうが、この馬鹿たれがあ!」と言って怒鳴りつけた。 あんな「握手」はない。 嫌がる女性の手を無理矢理つかんで離さない、それも、おミズかお風の女性にではなく、カタギの会社で会社の女性社員に対して渡邊士直はそういう行為をするのである。 それは、性的侵害行為と評価されるんべきものであり、「握手」であるわけがない。おミズの女性が男性客に「握手」しようと言うのは、それは「サービス」でやっているのである。そのくらいのことも理解できない男というのはアホと言うしかない。渡邊は精神面がおかしいと判断せざるをえない。 当然、「支店長」などという役職につかせるべきではないし、あえて、「支店長」などという役職につかせるのであれば、彼が異常な行為をしないように防ぐための護衛(渡邊の侵害行為を防ぐための護衛)を会社としてつける必要がある。 通称 デューク東郷・「ゴルゴ13」も握手は断るように(ゴルゴさんの場合は、「俺は、利き腕を相手に預けることができるほど自信家ではない」という理由によるらしいが)、日本を含めて東洋には「握手」という挨拶は存在しないし、西洋では、握手は女性から男性に求めるのは良いが男性から女性に求めるものではないとされており、男性は握手の際には手袋ははずすのが礼儀であるのに対し、女性は手袋をはずしてもはずさなくてもよいとされている。 戸建住宅建築業の会社の従業員ならば、そのくらいのマナーは心得ておくべきであろう。小堀住研(株)の松戸営業所の課長の石井は、渡邊士直のことを「営業系の支店長」などと言ったことがあったがそれは違うはずである。小堀住研(株)では「4年制大学の建築学科・土木学科卒の人」のことを「技術系」というのに対して、「営業系」とは「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」のことを言うはずであり、「底辺の高校卒」の渡邊士直は「営業系」ではないはずなのだ。 渡邊は「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」という意味での「営業系」ではないのだが、たとえ、そうであっても、住宅建築業の会社で「営業」の仕事についたことがある人間ならば、「握手」というものは、女性から男性に求めるのは良いが男性から女性に求めるものではない、握手する際に男性は手袋ははずすものであるが女性は手袋をはめたままでもよい、といったマナーくらいは理解しておかないといけない。 渡邊は「営業系」社員ではないが、「営業」の仕事についたことは過去にあったとしても、「その程度の営業」「その程度の、営業としては、程度の低い営業」ということになる。渡邊のような程度の低い従業員の比率が増えれば、それにともなって会社のレベルも低下し、商品のレベルも低下し、会社の評価も低下し・・・→そして、エスバイエル(株)は、つぶれた。
慶應大学商学部助教授だった(現 名誉教授らしい)黒川行治さんは「小学校から高校までの勉強は害があるんだ」「そんなものは受験勉強だ。害がある」と御発言なさったのだが、私は「小学校から高校までの勉強は役に立つ。益である」と思っている。 なにより、“ ask for a woman's hand ” 、直訳すれば、「(女性に)あなたの手を私にくださいと求める」は、意訳として「求婚する」という意味である、ということを理解しておけば、嫌がる女性の手を無理矢理つかんで離さない、などという野蛮人の行為を、おミズかお風の女性にするならまだしも、自分が勤めるカタギの会社の女性従業員におこなうなどということはしないものである。 又、渡邊士直のような野蛮人の行為を働くような者は、渡邊が実際の学歴として「底辺の高校卒の人」であるとともに、人間として「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」という条件を満たしていない、ということを本人が自ら示しているということになる。
渡邊士直(男。当時、40代。最終学歴:熊本県の底辺の高校卒)は、1990年2月、富士銀行から出向できて住宅建築業の仕事に詳しいわけでもないのにいきなり「常務取締役」「東部営業本部長」にならせてもらった増田和二(男。当時、60代? 「本部長、アタマ、ボケてる」「また、銀行から何もわからんヤツが来たか」と従業員の間で言われていた。最終学歴:東北大法学部卒)と、松戸営業課長の石井(男。当時、30代なかば。最終学歴:千葉県の外房の方の高校卒。)と3人で、私を密室に連れ込み、1人を3人で取り囲んだ上で、「この俺は支店長なんじゃ。俺が支店長で、お前が小堀住研の従業員である以上、俺はおまえにどんなことでも服従させる権利があるんじゃ!」「俺は、間違いなく会社の女の尻を撫でまわしたし、今後も間違いなく絶対に会社の女の尻を撫でまわすが、それは、中島社長(中島昭午。男。当時、60代? 最終学歴:滋賀県立 長浜北高校卒)から、渡邊は会社の女性従業員である限り、誰でもいつでも好きなだけ尻を撫でまわしてもかまわん、女性従業員である以上、尻でもどこでもいつでも好きなところを好きなだけ撫でまわしてもかまわんと許可されとるんじゃあ。俺は社長から許可されて女性社員の尻を撫でまわしとるんじゃあ! わかったか、この馬鹿たれ、アホンダラがあ! 俺は、小堀住研の女性社員である限り、誰でも、いつでも、好きなだけ尻を撫でまわす権利があるんじゃあ! 中島社長がそうお決めになったんじゃあ! 俺が女性社員の尻を撫でまわすのをいかんなんぞと言うやつは、会社を辞めんといかんのじゃあ! 俺は今後とも絶対に会社の女の尻を撫でまわすが、それをいかんなんぞと言うヤツは、中島社長が絶対に許さんのじゃあ! わかったか、この馬鹿たれがあ、会社やめろ、ごらあ! 会社、やめろお! こらあ、『今後は、支店長が女性社員の尻を撫でまわすのをいけないなんぞとは絶対に申しませんから、どうか、お許しくださいませ』と言って、地面に頭すりつけて、ドゲザしろ、ゴラア! ドゲザしろ、ごらあ! ドゲザしろお!」と、えんえんと1時間以上にわたって、密室で3人で1人を取り囲んで怒鳴り続けたのだった。 世の中には、相手の体に触れなければ「暴行」にはならないと勘違いしている人がいるがそうではない。「会社の命令」と称して1人を密室に連れ込んだ上で、1人を3人で取り囲んだ上で、「俺が会社の女性社員の尻を撫でまわすのをいかんなんぞと言うやつは中島社長が絶対に許さんのじゃあ。『《支店長が女性社員の尻をさわったのをいかんなんぞと申しまして、誠に申し訳ありませんでした。今後は絶対にそのようなことは申しませんので、どうか、お許しくださいませ》と言ってドゲザしろお。ゴラア』と言ってえんえんと長時間に渡って怒鳴りつけるというのは、これは「暴行罪」の構成要件に該当するもので、違法・有責な行為である。 私は精神的に強く苦痛を感じたし、「トラウマ」(「精神的外傷」)という用語を使った方がよければ、渡邊士直・増田和二・石井の3名の行為により「トラウマ」(「精神的外傷」)を受けた。代表取締役の中島昭午には使用者としての責任がある。 富士銀行(現 みずほ銀行)及び、富士銀行の代表取締役にもまた、増田和二の使用者とlして使用者責任がある。
( ふと気づいたのだが、小堀住研(株)〔⇒エスバイエル(株)⇒(株)ヤマダエスバイエルホーム 〕という会社は、「小堀住研は昔から大卒しか採らない会社なんです」と言いまくってきたはずで慶應大学に提出していた求人票に掲載されていた「応募資格」は「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」か「4年制大学の建築学科卒もしくは土木学科卒の人」だったはずで、私もそういう会社だと思って応募して入社したはずだったが、そのわりには、たまたま、ここで登場した従業員、社長の中島昭午、痴漢人間で千葉支店長の渡邊士直、松戸営業課長の石井、富士銀行から出向できた「ボケてる」と従業員の間で言われていた増田和二、それに私の5人で見ても、富士銀行から出向できた増田と私の他は3人とも高卒であり、初代社長の「メカケの子」だか「メカケの娘の婿」だからしい中島は特別としても、「大卒しか採らない会社」のわりに高卒が多い、というのは、な~んでか?
東北大は東大・京大・阪大の仲間ではなく岩手大・山形大・福島大の仲間だと言う人があるが、増田和二を見てこの男が東北大卒ならそうかもしれないと思った。)
慶應大学に行った時、横浜市港北区日吉の日吉キャンパスの中に慶應義塾高校があった。三田の生協は慶應女子高の生徒も使っていたのを見たが(そして、見るたびに、なんで、こいつら、こんなにかわいくないのだろう。普通、高校生くらいの女の子というのは、もうちょっと、かわいらしいものと違うのか・・なんて、見るたびに思ったものだが)、日吉の生協は慶應義塾高校の生徒も使っていたようだった・・・が、慶應義塾高校の生徒というのは『週刊プレイボーイ』を読んでいた、というのか、見ていた。 公立進学校では考えられないことだった。 高校生が読むものというと、夏目漱石の『こころ』、森鴎外の『青年』、アンドレ=ジッド『狭き門』、ロマン=ロラン『ジャン=クリストフ』といったものではないのか。 「週刊プレイボーイ」なんて高校生が読むものか? と思ったが、そのあたりの発想が「塾風を身につけた」人は違うようだった。 内部進学の教授は「小学校から高校までの勉強は害があるんだ。わかってんのかあ」と叫ばれるのだが、アンドレ=ジッド『狭き門』も、ロマン=ロラン『ジャン=クリストフ』も、「塾風を身につけた」人からすれば「害がある」ということになるのだろうし、シューベルトの「セレナーデ」も「害がある」ということになるのだろう・・・・が、私はそうは思わない。別段、自分が特別に品行方正とか思っていないけれども、しかし、やっぱり、高校生は「週刊プレイボーイ」なんて見て、そんなものを「思考が柔軟な慶應ボーイ」とか称するものではなく、慶應の教授からは「そんなものは受験勉強だ。害があるんだ」とたとえ言われても、アンドレ=ジッドの『狭き門』、キルケゴール『反復』、ツルゲーネフ『はつ恋』、阿部次郎『合本=三太郎の日記』などを読むものではないかと思う。 その結果、「この俺は、会社の女性社員である限り、いつでも、誰の体でも好きなだけさわってもかまわんと中島社長から許可されとるんじゃあ」とかいうおっさんから、3人で取り囲んで、「ごらあ、ドゲザしろ、ごらあ!」とえんえんと怒鳴り付けられることになるかもしれないが(というより、そうなったのだが)、たとえ、それでも、アンドレ=ジッドの『狭き門』は読むべきだし、プラトン『饗宴』も読むべきだし、阿部次郎『合本=三太郎の日記』も読んだ方がいいと思うし、シューベルト『セレナーデ』も聴くべきだし、自分自身でも祈りとして歌ってみるべきだと思う。 なにより、種無しブドウをひとに皮むいてもらってスプーンですくって食べる人というのは、たぶん、私なんかよりよっぽど金持ちの息子なんだと思うけれども、だからといってうらやましいとは少しも思わないのと同様、「俺は会社の女である限り、誰であれ、いつでも好きな時に好きなだけ、カラダをさわる権利があるんじゃあ。中島社長からそう認められとるんじゃあ」とか言ってるおっさん、嫌がる女性の手を無理矢理つかんで離さない、そんな行為に快感を覚えるような男を、うらやましいなんて少しも思わない。
セーレン=キルケゴールは『死に至る病』(斎藤信治訳。2010.改版。岩波文庫)で、≪自分が絶望していることに気づいていない絶望者は、それに気づいている絶望者に比して、真理と救済から要するに否定ひとつ分だけ遠ざかっているのである。・・・・≫と述べているが、「この俺は会社の女性社員である限り、誰であれ、いつでも、好きなだけ尻を撫でまわしてもかまわんと中島社長から許可されとるんじゃあ。俺は今後も絶対に間違いなく会社の女の尻を撫でまわすが、・・・」とか言ってるおっさんというのは、キルケゴールが言う「絶望」の状態になっており、なおかつ、自分が「絶望」の状態になっていることを自覚できていない「絶望」の状態になっているということである。
そして、キルケゴールは言う。≪絶望は本書全体を通じて病として理解されているので、薬として理解されているのではないということをここではっきりと注意しておきたいのである。・・・≫と述べている。 「支店長の権利じゃ」とか言って、嫌がる女性社員の手を無理矢理つかんで離さない男というものを見て、それを何とも思わないようになった男というのは、それは「薬」が効いたのではなく、「絶望」の状態にその男もなった、ということである。 「英語なんて覚えるだけ」なんて言う人というのは、あんまり、意味を考えずに簡単に覚えて英語でいい成績をとるかもしれないが、「覚える」行為をしようとすると、頭の中の画面に「これを、覚えてもかまいませんか」という表示が出て、頭の中で「はい」をクリックしないと覚えられないというタイプの人間、かつ、「詩人で名剣士。科学者で、しかも、音楽家」である者は、「覚える」という作業には手間がかかるようなところがあるが、その一方で、“ ask for a woman's hand. ” で「女性にあなたの手を私にくださいと求める」⇒「求婚する」かあ~あ・・・・、なるほどなあ~あ・・・と感じる詩人の心を持って生きることができる。そして、その分だけ、キルケゴールが言う「絶望」でない側の状態で生きることができる・・・かもしれない。
痴漢人間の守護者 中島昭午の卒業校 滋賀県立 長浜北高校http://www.n-nagakita-h.shiga-ec.ed.jp/ の英語の先生、
“ ask for a woman's hand. ”
の意味、知ってますか?
(2018.3.17.)
私が高校生だった1970年代後半、高校の科目で、国語・社会科・英語を「文系科目」、数学・理科を「理系科目」と定義づける人がいたのだが、それはあんまり適切ではないと思う。 特に、「語学は覚えればしまい」なんて気軽に言う人がいたのだが、なかなか覚えられない者にとっては、「覚えればおしまい」なんて言われると、かえって、ドツボにはまる。「覚えれば」のその「覚える」のが大変なんだよ。で、「覚えればおしまい」なんて言う人というのは、「覚える」型人間じゃないかと私は今は思っている。
人間には、「覚える」型人間と「考える」型人間がいると思うのだ。 遠山啓『競争原理を越えて』(太郎次郎社)・佐伯胖『「学び」の構造』・森毅『元気が出る教育の話』(だったか『数学受験術指南』だったかどっちか)(中公新書)の3つに、「『覚えた』ものは忘れるが、『わかった』ものは忘れない」なんてことが書いてあって、なるほどと読んだ時は思ったのだが、しかし、高校を卒業して、大学受験から離れて何十年か経ってしまった今、「わかった」はずの数列とか、「覚えた」のではなく「わかった」はずなのだが・・・・、忘れた。あれだけ、苦労して努力して「わかった」はずのものだが、忘れた。 だから、「覚えたものは忘れるが、わかったものは忘れない」から、「覚える」型で学習するのではなく、「わかる」型の学習の方がよいというのは、一理はあるけれども、わかったものは忘れないというのは、それは2年とか3年とかのスパンでのことであって、何十年か経つと、「わかった」ものでも忘れるよ。 それともうひとつ、遠山啓も森毅も教育論者ではあるが数学者であり、この「わかったものは忘れない」という思考・思想自体が数学者型の発想・「わかる」型人間の発想であり、語学はやっぱり「覚える」型で学習しないと、「わかる」型でやってうまくいくのは数学とか物理とかで、語学は「わかる」型では無理だと思う。
で、日本史とか世界史とかを「覚える科目」とか思っていた人がいたのだが、そう思う人は2種類で、ひとつは英語が得意だという人で、日本史とか世界史とかも英語を学習するような調子で「覚える」型・語学型の学習法で学習していた人、もうひとつは、工学部あたりを目指していた人で、社会科を重視していなかった人だ。 いずれも、正しくはない。日本史や世界史は、こういう状況があって、その周囲でこのような事件があり、その結果としてこうなって・・・と原因があって結果があるものだ。経済の状態がこうで政治の状態がこうでその相互関係の上でこのようになって・・と考えるものであって、「考える」学問であって「覚える」学問ではない。だから、工学部あたりを目指す人が数学や物理・化学に時間を費やし、社会科は「致命傷を防ぐことができればいい」という程度の点数で良いと考えた人なら「覚える」型学習法でも「致命傷を防ぐ」程度の点数はとれても、それは本来の社会科の学習法ではないはずだ。
私なんかは、「考える」型人間だった。もっとも、こういうことを言うと、「考える」型も「覚える」型もあるかいとか言う人が出てくるかもしれないが、「考える」型・「覚える」型というのは、これは「デジタル」ではなく「アナログ」であり、「考える」型・「覚える」型が相当に強い人と、どちらかというと「考える」型・どちらかといえば「覚える」型というくらいの人とがおり、どちらかというと・・・というタイプの人には自分はどちらなのかといった自覚がない人がいる。もしくは、大学受験において、「たいした大学じゃない大学」にさっさと合格して行った人には、こういったことを考える前に大学受験を「終戦」させたため、そんなこと、考えることもなく生きてきた人もいると思う。 私は、「考える」型の傾向が相当強い方の人間だったと思っている。だから、数学や物理は好きだったし、日本史・世界史も倫理社会も好きだったし、文学と哲学はどちらが好きかというと、どちらも好きだったが哲学の方が好きだった。この「考える」型の傾向が相当に強い人間は「覚える」ことに苦痛を感じる。そもそも、何であれ、自分自身で考えてわかって理解するべきもので、わかりもしないものを覚えさせられてたまるか! て認識がある。「覚える」前に頭の中の画面に「覚えてよろしいか」と出て、「はい」をクリックして始めて「覚える」ことができる人間と、さっさと「覚える」人間なら、さっさと覚える人間の方が「覚える」科目、即ち語学は学習が早いように思える・・・・が、性分は簡単には変わらない・・・が、だから、英語が入試にない大学に行こうなんて考えても、国立大学とか早慶に行こうと思えば、そんな所はない。だから、しょーことなしにやるしかない。やるしかないが、どうやれば、「覚える」という難しいことができるのか。そんなこと口にすると、「覚える」のが得意な人間、「覚える」型人間は「英語なんて、覚えればおしまい」なんて気軽に言うのだが、それが大変なんだよ、「考える」型人間にとっては。で、強度の「考える」型人間の私は、「作った」のだ。これは感覚的な表現で、説明が難しいのだが、自分自身は「考える」型人間なのだが、本来の自分と別に「作った」のだ。語学の学習用の学習姿勢というものを。プロ野球の中継なんか見ると、スイッチヒッターなんてのがいるが、もともと、右打者だったものが、左打ちを「作った」という選手がいる。そして、「作った」方の打席の方が打率が高い選手もいる。相当強度の「考える」型人間の者は右打者が左打ちを「作る」ことでスイッチヒッターになるごとく「作る」ことで「覚える」科目を克服できると思う。私はそうしたのだから。が、やっぱり、「作った」ものというのは放置しておくともとの「考える」型に戻ろうとするところがあるので、始終、「作る」姿勢を確認しないといけない。又、それでも、時として、「考える」型で学習してしまう時もある。
それで、今回、「考える」型人間だった私が、大学受験の際に、英語の学習において、気づいたものを述べる。 ちなみに、英語という語学は、イタリア語とかフランス語とかロシア語とかと比べると、学習自体がおもしろくない。 イタリア語は、イタリアに行ってイタリア人が話しているのを聞くと、普通に話していても歌を歌っているような言葉。普通に話していても、愛を語りかけているのではないかと思えるような言葉。 講談社現代新書の『ロシア語のすすめ』に出ていた話だが、ロシア人のお国自慢に「ドイツ語は男と話すのによく、フランス語は女と話すのに適しており、スペイン語は神に語りかけるのによい。しかし、ロシア語はそのすべてにふさわしい」というものがあるらしい。たしかに、ロシア語は普通に話す言葉が韻を踏んでいて、普通の言葉が詩のようなもので、イタリア語やロシア語は語学の学習自体がおもしろい♪ のに対して、英語はおもしろくない。 雁屋哲が書いていたが、フランス人は「フランス語のできそこないがイギリス語(英語)だ」と言うらしい。 で、語学の学習自体については、英語の学習というのは、イタリア語やロシア語やフランス語なんかと比べると、どう考えてもおもしろくない・・・・のだが、大学入試においては、高校で英語以外の語学をやっている高校なんて、慶應義塾高校とか、言うと怒られるかもしれないが「ちょっと特殊な高校」であって、「普通の公立高校」では英語をやっているものだ・・・・から、英語はやるしかない。 だから、「赤尾の豆単」に入っていたしおりに書かれていたように、「人間は忘れる動物である。忘れることを心配する必要はない。忘れればまた覚えればよいのである」という教示に従い、忘れても覚える、忘れれば覚える、覚えられなくても覚える・・・という姿勢で、雨ニモ負ケス、風ニモ負ケス、ホメラレモセス・・・ひたすら、覚える、覚えられなくてもやっぱり覚える・・・と思ってやると、ひとより覚えたかどうかはわからんが、それなりにできるようにはなるのではないか。
月日は百代の過客にしてなんとか言うように、年年歳歳花愛似たり、歳歳年年人同じからず・・・とかいうように、いつしか、歳いったものだ。 私の場合、20代の後半で大学を卒業したが、卒業式の後くらいに、慶應大学の日吉キャンパスをうろついていると、サークルの勧誘をやっていたにーちゃんから、「新入生の方ですか」と誘われたりしたもので、30過ぎの時にも、入学式の後くらいに日吉に行ったことがあって、「新入生の方ですか」と誘ってもらったという「実力」もしくは「実力のなさ」があったのだが、さすがに今は誘ってもらえない。代わりに、何年か前、三田の学生部に卒業証明証をもらいに行った時、今は私が卒業した頃と違って求人票は貼りだされるのではなくパソコンに入っているようなのだが、大学生のねーちゃんから、その使い方を質問されて、なんで、俺に訊くんだよ・・・と思ったが、就職部か学生部の職員と間違われたようだった。教授先生とは間違われずに、事務職員と間違われるというのは、卒業後、「先生」でない仕事についてきたからか・・・、それとも、あんまり、「エライ人」に見えなかったからか・・・。まあ、「エライ人」になんて見えなくていいけどね。
今となっては、40年も前のことになる・・・・か。 浪人中に、英和辞典を見ていて気づいたものがあった。「求婚する」とは、英語で何と言うか?
英語の単語でも、しばしば、登場する単語で、単語のつづりとかは何をいまさらて感じだけれども、その用法については、なかなか難しいという単語がある。 その1つが、ask という単語である。ask は他動詞と自動詞の両方の用法があるが、 『研究社 新英和大辞典 第4版』(研究社)を見ると、 ask の他動詞としての6番目の意味として、「(女に)結婚を申し込む(propose to)」というのが出ている。 なるほど、「尋ねる」とか「頼む、求める」とかだけでなく、その発展形として「(女に)結婚を申し込む」という意味もあるのか・・・。な~るほど、と思った。岩崎民平監修『現代英和辞典』(研究社)にも、他動詞として、「<人にものを>尋ねる、問う(inquire)、<人にものを>頼む、請う、求める(request, beg)・・・」などとともに、「<女に>結婚を申し込む(propose to)」というのが出ている。
そして、岩崎民平・小稲義男監修『新英和中辞典 第3版』(研究社)には、hand のところに、熟語として、
「ask for a person's hand. 女に結婚を申し込む」
というのが出ている。 直訳すると「私にあなたの手をください」、そこから⇒「私と結婚してください」 な~るほど、女に「あなたの手を私にくださいと求める」ということは、「私の妻となってください」と求めるということか、な~るほど、なるほど・・・・と感心したのだ。 なにしろ、英語を学習する時だって、どうしても、「考える」型で思考してしまうタイプの人間だったもので。 また、おまえは何者か? というと、内田康夫の小説に登場する浅見光彦なんてのは「職業はフリーのルポライター」と、おっしゃっているけれども、それは世を忍ぶ仮の姿であって、「実は名探偵」、しかも、「兄上は警察庁刑事局長であらせられる」という水戸黄門の印籠みたいのをお持ち・・・だそうで、だから、警察に留置なんてされようものなら私らなら、どうしよう~と大変なところが、浅見さんの場合、さて、いつ、印籠をだしたものやら・・・てところで余裕♪ 余裕♪・・・。 今は昔、連合赤軍のハイジャック犯だかが、裁判で職業を訪ねられて「革命家」と答えたことについて、「革命家」なんて職業あるか! と非難していた評論家があったが、たしかに、「革命家」は「食っていく為の手段」としての職業(occupation)ではないが、返答者は、おそらく、「天職」(calling)としての意味、生き様として「革命家」だと言ったつもりだったのだろう。 で、浅見光彦というのは、食っていくための手段としては「フリーのルポライター」であるが、その実態は「名探偵」だそうだが、私は何者かというと、「食っていくための手段」の方ではなく、生き様、人間としてのありようとしては、「詩人で名剣士、科学者で、しかも、音楽家」・・・である、となるはずだった。 高校卒業した頃の意識としたは。そうなったかならなかったかは別として。 この文句、「詩人で名剣士、科学者で、しかも、音楽家」という文句は、どこから仕入れたかというと、ロスタン『シラノ=ドゥ=ベルジュラック』で、シラノについて言われる文句である。「詩人で名剣士、科学者で、しかも、音楽家」と。 劇の中で言われる文句だけあって、10代後半に『シラノ=ドゥ=ベルジュラック』を読んだ時はそうも思わなかったが、今、もしも、口にするなら、少々、きざったらしいような感じがしないでもない・・・・・が、嘘でないよ、実際に、詩人だし、音楽家だし・・・・てことで、詩人の魂が感応したのだ。 "ask for a person's hand. " な~るほど、「あなたの手を私にください」・・・・→で、「求婚する」か、な~るほど、なるほどお~お・・・・と。 《「考える」型語学学習法》だからこそ感動する、「詩人で名剣士、科学者で、しかも、音楽家」であるからこそ感動する♪ まさに、詩人型英語学習法! 「セレナーデ」でも歌おうか(^^♪ 〔⇒《Schubert(シューベルト) Ständchen (Serenade)(セレナーデ) Peter Schreier(ペーター=シュライヤー) 》https://www.youtube.com/watch?v=oaq-6U7ZJt8 〕
研究社辞書編集部編『新リトル英和和英辞典』(英和:第4版、和英:第4版 研究社)の和英の方で「求婚する」を引くと、「求婚する」は英語では、「 propose <to> 、ask for sb's hand 、court 、woo 」と4つ出ていて、その2番目に、「 ask for 誰それのhand 」というのがある。 ちなみに、他の3つを『新英和中辞典』でひくと、
propose には他動詞と自動詞があり、自動詞の2番目に「結婚を申し込む」が掲載されていて、例文として、
「 Have you proposed to her ? 彼女に結婚の申し込みをしたのか。」というのが載っている。
court には、中庭とか裁判所とかいう意味の名詞と、他動詞・自動詞があり、他動詞の1番目に「<女に>言い寄る、くどく、求愛する(woo)」があり、自動詞に「求愛する」が載っている。例文として、
「 He has been courting Kate for more than two years. 2年以上もケイトの愛を求め続けている。」
「 a courting couple. 愛を語り合っている男女。」 というのが出ている。
woo は他動詞で文語らしく、1番目に「<女を>くどく、言い寄る、求愛する、求婚する(court)」が出ている。
単語1語で「求婚する」になる propose to , court, woo はさておき、“ ask a woman's hand ”
「手を求める」⇒「求婚する」というのは、まあ、語学を学ぶ面白さというのか、英語には珍しいというのか、文学的感動を覚えたものだった・・・・。 慶應大学というのは内部進学の教授・助教授が多く、そういう人は大学から入った人間、特に公立高校出身の人間が嫌いである。 特に私が卒業した北野高校というのは慶應の教授から嫌われている高校で、「北野高校の人間というのは、私学よりも国立・公立の方がいいみたいに思っていませんか。大阪の学校なんだから、大阪は商品の街なんだからもっと民間のものを大事にするべきなのに、国立・公立の方がいいみたいに思って、どうかしてるんじゃないかと思うね。北野高校の人間というのは『どうして、私学だったらいいんですかあ』とか言うでしょ。バカか! 『私学だ』てことは『いい』てことじゃないか! こんな常識がわからんのかあ!」とか講義の最中に教壇で叫ぶような人の大学だった。 私なんかは、そんなことを言われると、「せ~んせえ~え。 どうして、『私学だったらいい』ていうのが『常識』なんですかあ~あ?」と訊きたくなるのだが、逆らうとうるさいから黙っていた方がいい。 逆らうとうるさいから。彼らにうかつに逆らうと、「なんとか症候群」とか「なんじゃらシンドローム」とか「病名」つけられて「治療」される危険がある。怖いから逆らわない方がよろしい。 1984年のことだが、黒川行治という助教授(男。当時、30歳)が、「会計学総論」という講義の最中に、「この僕は中等部から慶應に行ってるんだぞお。わかってんのかあ。おまえら、外部の者とはわれわれ内部進学の人間は違うんだ。おまえらは自分たちは偏差値が高い優秀な人間だとか思ってるんだろお。そんなものは何の価値もあるものか。 小学校から高校までの勉強は害があるんだ! その点、われわれ、内部進学の人間は『塾風』というものを身につけているんだ。われわれ内部進学の人間とおまえら(慶應義塾の)外部の者とは違うんだ。わかってんのかあ! その中等部から慶應に行っているこのぼくがおまえら(慶應義塾の)外部の者に話しをしてやってんだぞお。わかってんのかあ。もっと、畏まってききまさい。わかってんのかあ。内部進学のこの僕がおまえら外部の者を教育してやろうと言ってるんだ、中等部から慶應のこの僕がおまえら(慶應義塾の)外部の者を教育してやろうと言ってんだぞお。わかってんのかあ!」と叫ばれたことがあったが、内部進学の人間同士で居酒屋にでも行って言うのならともかく、正規の講義の最中にアルコールも入らずに何人もを前にしてマイクに向かって叫ぶというあたりが、「塾風を身につけている」内部進学の教員だけのことはある! という印象を受けた。 ほとんどビョーキ! て感じであった・・・・が、黒川行治が叫んだように、内部進学の人達というのは「小学校から高校までの勉強は害があるんだ。わかってんのかあ!」と思っておるわけだ。そういう人達なのだ。(不思議なのは、「小学校から高校までの勉強は害があるんだ」とか言いながら、自分たちが「害がある」と主張している高校の勉強を教える高校の教諭の資格を取得しようと教員養成課程を履修しているような内部進学の人もいるのだ。マカ不思議!)かわいそうな人たちだな、かわいそうな教育うけてきてるなあ、この人たちは・・と思ったものだった。 「ask for a woman's hand」で「求婚する」、な~るほどなるほど・・・なんて感動した経験のない人たちなのだ、慶應の内部進学の教授・助教授というのは。かわいそうに。 そういうものを「そんなものは受験勉強だ。害があるんだ」と「中等部から」観念的に叩き込まれてきた人達なのだ。かわいそうにねえ。ほんとにかわいそうにねえ・・・と思うが、言うと怒るから黙っておいた方がいい。「塾風というものを見につけていらっしゃいますからねえ」とか言うと喜ぶのだろう、アホが。そんな教育受けてきた人間だから、だから、公立校出身の人間はドジンに見えるらしく、内部進学の支配階級は公立校出身のドジンには強姦しようが何しようが好き放題にする権利がある! みたいに思うのだ。その強姦魔養成所・不良養成所みたいな慶應義塾高校卒の黒川行治は、インターネットで検索すると、今、教授から名誉教授におなりあそばしたらしい。 なるほど、「中等部から慶應に行ってる」おえらい方はさすがに違いますなあ。
私の場合、「考える」型人間であり、「詩人で、名剣士。 科学者で、しかも、音楽家」であったので、「考える」型語学学習法で英語を学び、「詩人で、名剣士。科学者で、しかも、音楽家」型の詩的感性をもって学ぶ英語学習法で学んだおかげで、 ask for a woman's hand という熟語は、これは「覚える」のではなく「わかる」型学習法によって「わかる」ことで「覚える」ことができた。 だから、単に「覚える」ことで覚えたもの以上に、よく覚えた。
戸建住宅請負建築業の小堀住研(株)は、1970年前後は在来木造の会社で、阪急沿線を中心としての関西を中心として「高級住宅の小堀」として、けっこう評価された時期があり、その後も、「小堀ならではのデザイン」「技術の小堀、設計の小堀、デザインの小堀」として、それは「自分で言いまくっていた」面もあるけれども、そう評価されて、小堀ファンのような客層もできていたのだが、1989年に相談役だった創業者の小堀林衛が他界した後、2代目の社長の中島昭午が安物路線で行くとあっちやらこっちやらで叫びまくって、そして、1970年代後半から始めた「ハウス55」という「高品質、低価格」タイプのものを「高品質、低価格」ではなく「安もん」として吹聴して、そして、だめにしてしまった。 中島昭午が卒業した滋賀県の長浜北高校http://www.nagakita-h.shiga-ec.ed.jp/ の応援部のブログhttp://kitakou.pokebras.jp/e306447.html には、コメントで、中島昭午のことを「さっそうたるメンバー」などと書き込んでいた人がいたが、実質は「会社をつぶしたアホな二代目」である。2代目の中島昭午は初代の小堀林衛の「おいっこ」と言っていたのだが、1990年頃、初代の小堀林衛の弟らしい小堀東という人が専務でいたのだが、同じ苗字の弟ではなく、異なる苗字の「おいっこ」が2代目になっているというのは、「な~んでだ?」と思う人は思ったようだが、従業員の間では「おいっこ」というのはウソで、実際は「メカケの子」だか「メカケの娘の婿」だからしいと言われていた。おそらく、そんなところだろう・・・が、その男が会社をつぶした。1990年に、2代目の社長の中島昭午が会社名から「小堀」を取り除きたかったのか、黙っていても、桂離宮の造営に関係したかとか言われる建築家にして茶道家の小堀遠州と関係あるのか? と客の側で勝手に誤解する「小堀」を取り除いて、「セックスとエロをかけあわせる」で「エスばいエロ」か? とか言われる(実際は、「スペースとライフをかけあわせる」という意味らしいが、説明されなきゃ誰もわからん)「エスバイエル(株)」という名前に変えた会社は、ヤマダ電機が買収して、(株)ヤマダエスバイエルホームhttp://www.sxl.co.jp/ という後継会社があることはあるが、富士銀行から来た破産管財人みたいな社長が、大阪駅の目の前の一等地にあった本社ビルなどを売却させて「取れるだけ取って」銀行に去り、その後、積水ハウス(株)から来た男が社長になったので、積水ハウス(株)はかつて在来木造のトーヨド建設を買収して積水ハウス木造(株)にしたように、エスバイエル(株)も買収するつもりか? と思ったら、すでに木質系部門を確保した積水ハウス(株)としては、イメージの悪いエスバイエル(株)を買収しても「うまみがない」と判断したのか、積水ハウス(株)から来た社長も社長を退き、松川という工事部にいた男が「敗戦処理」みたいに社長になった後、ヤマダ電機に買収されて、ヤマダ電機から来た人間が社長にもなった。 小堀住研(株)が名前を変えたエスバイエル(株)は、いったん、つぶれて、つぶれた店を「いぬき」でヤマダ電機が買い取って、「いぬき」で買い取った店に「ヤマダエスバイエルホーム」という名前をつけた、というものだ。 「メカケの子」だか「メカケの娘の婿」だかの中島昭午は、せっかくの会社をぶっつぶした男であり、長浜北高校の「卒業生」なる人が「さっそうたるメンバー」などと書き込んでいたのは、愚かである。
1989年7月、小堀住研(株)〔→エスバイエル(株)・・・→(株)ヤマダエスバイエルホームhttp://www.sxl.co.jp/ 〕の千葉支店に「支店長」だとして赴任することになった渡邊士直は、本来、7月1日から赴任のはずなのに、7月下旬まで千葉支店に赴任しなかった。 会社という所においては、どこそこに赴任してくれと言われたらさっさと赴任するもので、当たり前みたいに、7月下旬まで来なかった渡邊の態度は会社員として評価されるものではない・・・・が、1989年7月下旬に千葉支店に来た渡邊士直(男。当時、40代。最終学歴:熊本県の底辺の高校卒)は、千葉支店に赴任して最初に何をやったかというと、歓迎会の席上、何人もが見ている目の前で、「男性がさわりたいと思うお尻をしているというのは大変いいことだねえ」と言いながら女性社員の尻をなでまわした。 「ちょっと、さわった」ではなく「なでまわした」。 「わからないように、こそっとさわった」のではなく「何人もが見ている前で」「男性がさわりたいと思うお尻をしているというのは大変いいことだねえ」と言いながら、堂々と、「なでまわした」のである。 びっくりした! 慶應大に行っていた時、ある女性が、「『どうして、そこで大きな声を出して助けを呼ばなかったのか』とか言う人がいるけれども、女性の気持ちとして、その場になったら、なかなか言えないものよ」と言った人がいたのだが、「男性の気持ちとして」も、突然、目の前で、そういうことをされて、「その場で言えばよかったではないか」とか言われても、びっくりして、「なかなか、言えないもの」である。
「満員電車の中でこそっと」というのでも、いいか悪いかといえば、いいということはないのだろうけれども、しかし、「何人もが見ている目の前で」「どこの誰かわからない相手にではなく、自分が勤める会社の従業員に」というのは、しかも、「赴任早々」というのには、びっくりした。 びっくりもしたし、精神的にショックも受けた。 時々、「男性がどうこう言うことないではないか」とか非常識なことを言う人がいるが、そういう問題ではない。撫でまわされた人間がどう思ったかにかかわらず、目の前でそういうことをされて、私は大変なショックを受けた。「トラウマ」という用語を使った方がよければ、「トラウマ」にもなった。 1990年2月、富士銀行(現 みずほ銀行)から出向できていた増田和二(男。当時、60代?)が「された人間が、はっきりと訴えて、しかも、社会問題になったというのでなければ、どうってことない」と暴言をはいたが、増田和二は根本的に物事の考え方を間違えている。「された人間」というのは、その時、尻を撫でまわされた人間のことではないはずなのだ。 目の前でそういうことをされて精神的にショックを受けた私も「された人間」であるし、1人の女性社員に対してそういった人権侵害行為を渡邊士直がおこなったということ、それを富士銀行から出向できて住宅建築業の仕事なんて何もわかっていないのに「常務取締役」・「東部営業本部長」にならせてもらった増田和二がそのような暴言をはいた、ということは、それらの行為は、小堀住研(株)のすべての男性・女性の従業員に対しての人権侵害行為であり、小堀住研(株)の男性・女性のすべての従業員が「された人間」であって、世の中には男性にも女性にも様々な人がいるのであり、その時に、直接、尻を撫でまわされた女性が、たとえ、「かまわない」と認めたとしても、支店における「歓迎会」という会社の行事の場においてなされたものである以上、「された人間」は小堀住研(株)の全従業員であり、それを直接撫でまわされた女性が「かまわない」などということにする権利はないとともに、増田和二にそのような暴言をはくことは許されることではなく、富士銀行(現 みずほ銀行)は増田和二のような不良社員を他社に派遣して他社の風紀を乱し従業員の人権を侵害する権利は存在しません。富士銀行には使用者責任があります。
渡邊士直という人は、「渡邊さんの場合は、信念もってやってる」と従業員の間で言われていた。 又、小堀住研(株)は、慶應義塾大学に出していた求人表では、「応募資格」として「営業系(営業・人事・総務・経理)・・・4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」「技術系(設計・工事・工務・アフターサービス)・・・・4年制大学の建築学科・土木学科卒の人」と明記して募集していたはずで、この会社は昔から「小堀住研は大卒しか採らない会社なんです」と言いまくってきた会社であり、「ミサワあたりの営業は高卒の営業ですが、小堀の営業は大卒の営業です」とも言っていた会社だった。 4月の大阪駅前の本社での全体研修でも講師役で来た人が「小堀住研は昔から大卒しか採らない会社です」と新卒社員全員を前に発言したし、4月後半の芦屋市での営業系の合宿研修でも講師役で来たTQC営業部会課長の川崎が「ミサワホームあたりの営業は高卒の人が多いけれども、小堀住研は昔から大卒しか採らない会社で、ミサワの営業は高卒の営業ですが、小堀の営業は大卒の営業で、ミサワホームと小堀住研では営業という職種の社会的位置づけが違います」と発言した・・・・はずだったが、それにしては、なぜか、熊本県の底辺の高校卒の渡邊士直がそこにいた・・・・のだった。私は「住宅会社の一線の営業」という仕事に応募して入社したのではなく、「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」というコースに応募して採用されて入社したはずだったのだ。 そうではなく、「底辺の高校卒の人のコース」の募集であったなら応募していない。 渡邊は、裏口入学みたいに、「応募資格」を満たしていないにもかかわらず入社して、なぜか、支店長になっていて、そして、私に「この俺は支店長なんじゃ。俺が支店長である限り、おまえは俺にはどんなことでも服従せんといかんのじゃあ、ごらあ!」と言って何度も何度も怒鳴りつけたが、しかし、「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」のコースに入社した私が「底辺の高校卒の人」のコースで入社した痴漢人間の渡邊士直にそういう口をきかれる筋合いはないはずなのだ。
1984年、慶應義塾大学商学部の助教授であった「中等部から慶應に行ってる」黒川行治サンは、「小学校から高校までの勉強は害があるんだ。わかってんのかあ!」と絶叫なさったが、私は「小学校から高校までの勉強は害がある」とは思わないし、「受験勉強」と「高校の勉強」に明確な境界線があるとも思っていないし、「受験勉強」だから「害がある」とも思っていない。むしろ、黒川行治サンみたいな認識を持つようになってしまった方というのは、かわいそうな人だなあ、ほんとにかわいそうだなあと心の底から思う。 “ ask for a woman's hand ”「女性に手を求める」で「求婚する」になる・・・と知って感動するという経験を「そんなものは受験勉強だ。害があるんだ」と観念的に教え込まれて来た慶應の内部進学の人というのを、私は心のそこからかわいそうに思う。 ある「幼稚舎から慶應」という人が言ったのだが、「種無しブドウなんて、そんなもの、よく食べるなあ」と。「ひとに皮むいてお皿に持ってもらってスプーンですくってなら食べけど、そんなもん、種無しブドウをひとつひとつ自分でちぎって口にいれて食べるなんて、そんなおかしなこと、できるかあ!」と。そして、「みかんでもそうだ。ひとに皮むいてもらってカラスにしてもらってなら食べるけど、自分で皮むいてみかん食べるなんて、そんな非常識なことできるかあ。おまえ、よく、そんなもの食べるなあ」と言って、自分でみかんの皮をむいて食べる(慶應義塾の)「外部の者」〔慶應の内部進学の人は、大学だけ慶應に行った人間を「(慶應義塾の)外部の者」と言います〕を軽蔑の眼で見るのだった。かわいそうな男だなあ。かわいそうな教育うけてきた男だなあと彼を見て思ったのだが、そいつがこう言ったのだった。「外部の連中を教育してやらんといかんからなあ」と。私は、最初、彼がみかんや種無しブドウをまともに食べれない教育を受けてきたことについて、かわいそうにと思い、彼を被害者だと思ったのだったが、彼は被害者じゃなかった。彼は加害者だった。彼は加害者として「外部の者」を「教育」してやらんといかんと考えていたのだった。 黒川行治さんもその類の人間のようだ。「会計学総論」という講義は教えても、しょせんは、精神的にカタワの簿記屋でしかない男である。
小堀住研(株)の千葉支店長に1989年7月1日に赴任するよう辞令を出されながら7月下旬にやっと赴任した渡邊士直は、従業員の間で「信念もってやってる」と言われていた痴漢人間だった。人格が痴漢の人間だった。渡邊は、1989年12月の忘年会の際にも、嫌がる女性社員の手を無理矢理つかんで離さないという行為をおこなった。 野蛮人! と言うしかない。 渡邊士直は、1990年2月、私がこの件を指摘すると、「握手だろうが、この馬鹿たれがあ!」と言って怒鳴りつけた。 あんな「握手」はない。 嫌がる女性の手を無理矢理つかんで離さない、それも、おミズかお風の女性にではなく、カタギの会社で会社の女性社員に対して渡邊士直はそういう行為をするのである。 それは、性的侵害行為と評価されるんべきものであり、「握手」であるわけがない。おミズの女性が男性客に「握手」しようと言うのは、それは「サービス」でやっているのである。そのくらいのことも理解できない男というのはアホと言うしかない。渡邊は精神面がおかしいと判断せざるをえない。 当然、「支店長」などという役職につかせるべきではないし、あえて、「支店長」などという役職につかせるのであれば、彼が異常な行為をしないように防ぐための護衛(渡邊の侵害行為を防ぐための護衛)を会社としてつける必要がある。 通称 デューク東郷・「ゴルゴ13」も握手は断るように(ゴルゴさんの場合は、「俺は、利き腕を相手に預けることができるほど自信家ではない」という理由によるらしいが)、日本を含めて東洋には「握手」という挨拶は存在しないし、西洋では、握手は女性から男性に求めるのは良いが男性から女性に求めるものではないとされており、男性は握手の際には手袋ははずすのが礼儀であるのに対し、女性は手袋をはずしてもはずさなくてもよいとされている。 戸建住宅建築業の会社の従業員ならば、そのくらいのマナーは心得ておくべきであろう。小堀住研(株)の松戸営業所の課長の石井は、渡邊士直のことを「営業系の支店長」などと言ったことがあったがそれは違うはずである。小堀住研(株)では「4年制大学の建築学科・土木学科卒の人」のことを「技術系」というのに対して、「営業系」とは「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」のことを言うはずであり、「底辺の高校卒」の渡邊士直は「営業系」ではないはずなのだ。 渡邊は「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」という意味での「営業系」ではないのだが、たとえ、そうであっても、住宅建築業の会社で「営業」の仕事についたことがある人間ならば、「握手」というものは、女性から男性に求めるのは良いが男性から女性に求めるものではない、握手する際に男性は手袋ははずすものであるが女性は手袋をはめたままでもよい、といったマナーくらいは理解しておかないといけない。 渡邊は「営業系」社員ではないが、「営業」の仕事についたことは過去にあったとしても、「その程度の営業」「その程度の、営業としては、程度の低い営業」ということになる。渡邊のような程度の低い従業員の比率が増えれば、それにともなって会社のレベルも低下し、商品のレベルも低下し、会社の評価も低下し・・・→そして、エスバイエル(株)は、つぶれた。
慶應大学商学部助教授だった(現 名誉教授らしい)黒川行治さんは「小学校から高校までの勉強は害があるんだ」「そんなものは受験勉強だ。害がある」と御発言なさったのだが、私は「小学校から高校までの勉強は役に立つ。益である」と思っている。 なにより、“ ask for a woman's hand ” 、直訳すれば、「(女性に)あなたの手を私にくださいと求める」は、意訳として「求婚する」という意味である、ということを理解しておけば、嫌がる女性の手を無理矢理つかんで離さない、などという野蛮人の行為を、おミズかお風の女性にするならまだしも、自分が勤めるカタギの会社の女性従業員におこなうなどということはしないものである。 又、渡邊士直のような野蛮人の行為を働くような者は、渡邊が実際の学歴として「底辺の高校卒の人」であるとともに、人間として「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」という条件を満たしていない、ということを本人が自ら示しているということになる。
渡邊士直(男。当時、40代。最終学歴:熊本県の底辺の高校卒)は、1990年2月、富士銀行から出向できて住宅建築業の仕事に詳しいわけでもないのにいきなり「常務取締役」「東部営業本部長」にならせてもらった増田和二(男。当時、60代? 「本部長、アタマ、ボケてる」「また、銀行から何もわからんヤツが来たか」と従業員の間で言われていた。最終学歴:東北大法学部卒)と、松戸営業課長の石井(男。当時、30代なかば。最終学歴:千葉県の外房の方の高校卒。)と3人で、私を密室に連れ込み、1人を3人で取り囲んだ上で、「この俺は支店長なんじゃ。俺が支店長で、お前が小堀住研の従業員である以上、俺はおまえにどんなことでも服従させる権利があるんじゃ!」「俺は、間違いなく会社の女の尻を撫でまわしたし、今後も間違いなく絶対に会社の女の尻を撫でまわすが、それは、中島社長(中島昭午。男。当時、60代? 最終学歴:滋賀県立 長浜北高校卒)から、渡邊は会社の女性従業員である限り、誰でもいつでも好きなだけ尻を撫でまわしてもかまわん、女性従業員である以上、尻でもどこでもいつでも好きなところを好きなだけ撫でまわしてもかまわんと許可されとるんじゃあ。俺は社長から許可されて女性社員の尻を撫でまわしとるんじゃあ! わかったか、この馬鹿たれ、アホンダラがあ! 俺は、小堀住研の女性社員である限り、誰でも、いつでも、好きなだけ尻を撫でまわす権利があるんじゃあ! 中島社長がそうお決めになったんじゃあ! 俺が女性社員の尻を撫でまわすのをいかんなんぞと言うやつは、会社を辞めんといかんのじゃあ! 俺は今後とも絶対に会社の女の尻を撫でまわすが、それをいかんなんぞと言うヤツは、中島社長が絶対に許さんのじゃあ! わかったか、この馬鹿たれがあ、会社やめろ、ごらあ! 会社、やめろお! こらあ、『今後は、支店長が女性社員の尻を撫でまわすのをいけないなんぞとは絶対に申しませんから、どうか、お許しくださいませ』と言って、地面に頭すりつけて、ドゲザしろ、ゴラア! ドゲザしろ、ごらあ! ドゲザしろお!」と、えんえんと1時間以上にわたって、密室で3人で1人を取り囲んで怒鳴り続けたのだった。 世の中には、相手の体に触れなければ「暴行」にはならないと勘違いしている人がいるがそうではない。「会社の命令」と称して1人を密室に連れ込んだ上で、1人を3人で取り囲んだ上で、「俺が会社の女性社員の尻を撫でまわすのをいかんなんぞと言うやつは中島社長が絶対に許さんのじゃあ。『《支店長が女性社員の尻をさわったのをいかんなんぞと申しまして、誠に申し訳ありませんでした。今後は絶対にそのようなことは申しませんので、どうか、お許しくださいませ》と言ってドゲザしろお。ゴラア』と言ってえんえんと長時間に渡って怒鳴りつけるというのは、これは「暴行罪」の構成要件に該当するもので、違法・有責な行為である。 私は精神的に強く苦痛を感じたし、「トラウマ」(「精神的外傷」)という用語を使った方がよければ、渡邊士直・増田和二・石井の3名の行為により「トラウマ」(「精神的外傷」)を受けた。代表取締役の中島昭午には使用者としての責任がある。 富士銀行(現 みずほ銀行)及び、富士銀行の代表取締役にもまた、増田和二の使用者とlして使用者責任がある。
( ふと気づいたのだが、小堀住研(株)〔⇒エスバイエル(株)⇒(株)ヤマダエスバイエルホーム 〕という会社は、「小堀住研は昔から大卒しか採らない会社なんです」と言いまくってきたはずで慶應大学に提出していた求人票に掲載されていた「応募資格」は「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」か「4年制大学の建築学科卒もしくは土木学科卒の人」だったはずで、私もそういう会社だと思って応募して入社したはずだったが、そのわりには、たまたま、ここで登場した従業員、社長の中島昭午、痴漢人間で千葉支店長の渡邊士直、松戸営業課長の石井、富士銀行から出向できた「ボケてる」と従業員の間で言われていた増田和二、それに私の5人で見ても、富士銀行から出向できた増田と私の他は3人とも高卒であり、初代社長の「メカケの子」だか「メカケの娘の婿」だからしい中島は特別としても、「大卒しか採らない会社」のわりに高卒が多い、というのは、な~んでか?
東北大は東大・京大・阪大の仲間ではなく岩手大・山形大・福島大の仲間だと言う人があるが、増田和二を見てこの男が東北大卒ならそうかもしれないと思った。)
慶應大学に行った時、横浜市港北区日吉の日吉キャンパスの中に慶應義塾高校があった。三田の生協は慶應女子高の生徒も使っていたのを見たが(そして、見るたびに、なんで、こいつら、こんなにかわいくないのだろう。普通、高校生くらいの女の子というのは、もうちょっと、かわいらしいものと違うのか・・なんて、見るたびに思ったものだが)、日吉の生協は慶應義塾高校の生徒も使っていたようだった・・・が、慶應義塾高校の生徒というのは『週刊プレイボーイ』を読んでいた、というのか、見ていた。 公立進学校では考えられないことだった。 高校生が読むものというと、夏目漱石の『こころ』、森鴎外の『青年』、アンドレ=ジッド『狭き門』、ロマン=ロラン『ジャン=クリストフ』といったものではないのか。 「週刊プレイボーイ」なんて高校生が読むものか? と思ったが、そのあたりの発想が「塾風を身につけた」人は違うようだった。 内部進学の教授は「小学校から高校までの勉強は害があるんだ。わかってんのかあ」と叫ばれるのだが、アンドレ=ジッド『狭き門』も、ロマン=ロラン『ジャン=クリストフ』も、「塾風を身につけた」人からすれば「害がある」ということになるのだろうし、シューベルトの「セレナーデ」も「害がある」ということになるのだろう・・・・が、私はそうは思わない。別段、自分が特別に品行方正とか思っていないけれども、しかし、やっぱり、高校生は「週刊プレイボーイ」なんて見て、そんなものを「思考が柔軟な慶應ボーイ」とか称するものではなく、慶應の教授からは「そんなものは受験勉強だ。害があるんだ」とたとえ言われても、アンドレ=ジッドの『狭き門』、キルケゴール『反復』、ツルゲーネフ『はつ恋』、阿部次郎『合本=三太郎の日記』などを読むものではないかと思う。 その結果、「この俺は、会社の女性社員である限り、いつでも、誰の体でも好きなだけさわってもかまわんと中島社長から許可されとるんじゃあ」とかいうおっさんから、3人で取り囲んで、「ごらあ、ドゲザしろ、ごらあ!」とえんえんと怒鳴り付けられることになるかもしれないが(というより、そうなったのだが)、たとえ、それでも、アンドレ=ジッドの『狭き門』は読むべきだし、プラトン『饗宴』も読むべきだし、阿部次郎『合本=三太郎の日記』も読んだ方がいいと思うし、シューベルト『セレナーデ』も聴くべきだし、自分自身でも祈りとして歌ってみるべきだと思う。 なにより、種無しブドウをひとに皮むいてもらってスプーンですくって食べる人というのは、たぶん、私なんかよりよっぽど金持ちの息子なんだと思うけれども、だからといってうらやましいとは少しも思わないのと同様、「俺は会社の女である限り、誰であれ、いつでも好きな時に好きなだけ、カラダをさわる権利があるんじゃあ。中島社長からそう認められとるんじゃあ」とか言ってるおっさん、嫌がる女性の手を無理矢理つかんで離さない、そんな行為に快感を覚えるような男を、うらやましいなんて少しも思わない。
セーレン=キルケゴールは『死に至る病』(斎藤信治訳。2010.改版。岩波文庫)で、≪自分が絶望していることに気づいていない絶望者は、それに気づいている絶望者に比して、真理と救済から要するに否定ひとつ分だけ遠ざかっているのである。・・・・≫と述べているが、「この俺は会社の女性社員である限り、誰であれ、いつでも、好きなだけ尻を撫でまわしてもかまわんと中島社長から許可されとるんじゃあ。俺は今後も絶対に間違いなく会社の女の尻を撫でまわすが、・・・」とか言ってるおっさんというのは、キルケゴールが言う「絶望」の状態になっており、なおかつ、自分が「絶望」の状態になっていることを自覚できていない「絶望」の状態になっているということである。
そして、キルケゴールは言う。≪絶望は本書全体を通じて病として理解されているので、薬として理解されているのではないということをここではっきりと注意しておきたいのである。・・・≫と述べている。 「支店長の権利じゃ」とか言って、嫌がる女性社員の手を無理矢理つかんで離さない男というものを見て、それを何とも思わないようになった男というのは、それは「薬」が効いたのではなく、「絶望」の状態にその男もなった、ということである。 「英語なんて覚えるだけ」なんて言う人というのは、あんまり、意味を考えずに簡単に覚えて英語でいい成績をとるかもしれないが、「覚える」行為をしようとすると、頭の中の画面に「これを、覚えてもかまいませんか」という表示が出て、頭の中で「はい」をクリックしないと覚えられないというタイプの人間、かつ、「詩人で名剣士。科学者で、しかも、音楽家」である者は、「覚える」という作業には手間がかかるようなところがあるが、その一方で、“ ask for a woman's hand. ” で「女性にあなたの手を私にくださいと求める」⇒「求婚する」かあ~あ・・・・、なるほどなあ~あ・・・と感じる詩人の心を持って生きることができる。そして、その分だけ、キルケゴールが言う「絶望」でない側の状態で生きることができる・・・かもしれない。
痴漢人間の守護者 中島昭午の卒業校 滋賀県立 長浜北高校http://www.n-nagakita-h.shiga-ec.ed.jp/ の英語の先生、
“ ask for a woman's hand. ”
の意味、知ってますか?
(2018.3.17.)
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