光明寺(鎌倉市)参拝【2/11】山門と桜。鐘楼。羅漢さん。山門からの景観。「いっけん」と「ひとま」

[第589回] 鎌倉シリーズ(3)-2
  「総門」をくぐると、目の前に迫力がある「山門」が見えてくる。
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( ↑ 天照山 光明寺 山門。 )
≪ 1847年(弘化4)に再建されたもので、2層式で、間口5間の堂々たる構えだ。 ≫
( るるぶ社 国内編集局 企画 編集『アイじゃぱん 18 鎌倉を歩く ’04』(2003.9.1.JTB)




( ↑「 i 」マークが「山門」。山門の左、山門より小さな建物が「総門」。 「卍」マーク、「光明寺」と書かれた建物が「大殿」(本堂)。 その左上、「卍」マーク、「浄土宗神奈川教区教務所」と書かれた建物が「開山堂」、 大殿の上、開山堂の右が「記主庭園」。 )
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↑ 山門の前、桜がきれい。
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↑ 山門の前、アスファルト舗装された部分を、亀さんが、ひょこひょこ歩いておったが、どこかの池から出てきたのか・・・。 アスファルト舗装の所にいたのでは居心地もよくないだろう。 池のある地面は土の庭園がそばにあるのならいいのですが、どこから出てきたのかもわからないので戻してあげるにもどこに戻していいのかもわからず、そのまま、行ってしまいましたが、帰りには見当たらなかった。しかるべき場所に戻れたのでしょうか。

   今回、期間限定らしいのですが、500円を納めることで、山門の上に上がらせてもらうことができました。これはぜひとも上がらせてもらいたいと思って、上がってきました。 なぜ、「ぜひとも上がらせてもらいたい」と思ったかというと、お寺の山門というのは、たいてい、単に下をくぐるだけではなく、中央の人が通る場所の両側に仁王さんが立っていて、上は単なる飾りかというとそうではなく、たいてい、「山門の上には◇◇が祀られている」と書かれているのです・・・・が、その「山門の上」には「関係者以外立入禁止」で上がらせてもらえないので、山門の2階の内部がどうなっているのか、また、どのように祀られているのか見る機会がなかなかないのです。 だから、ぜひともと思って上がらせてもらいました。 参拝は、先に大殿(本堂)に参拝し、本堂から開山堂に行く途中の渡り廊下から大聖閣を参拝して開山堂に行き、その後、本堂の右手のお地蔵さんにお参りして、戦没者の碑に参拝して、大殿の右手から大殿の背後の山を登って、開山である良忠などの墓所に参り、その後、寺務所を訪ねて御朱印をいただいた上で、500円を納めて山門に登らせてもらったのですが、今回は、山門の上からの写真を先にここに掲載させていただきます。↓
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↑ 山門の2階から海側を見たもの。
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↑ 山門の2階の上の斗拱。
   光明寺の山門の2階にはどなたが祀られているかというと、
中央に・・・釈迦如来、
その両側に・・・普賢菩薩と文殊菩薩、
その左に・・・・増長天と広目天
右に・・・・・・・持国天と多聞天
これらの左に・・・・ビンズルバラダジャ尊者、 カナカバサ尊者、 カナカバリダ尊者、 スビンダ尊者、 ナクラ尊者、 バッダラ尊者、 カリカ尊者、 バジャラブタラ尊者 の8人のじいさん、
右に・・・・ジュバカ尊者、 ハンダカ尊者、 ラコラ尊者、 ナガセナ尊者、 インゲダ尊者、 バナバシ尊者、 アシタ尊者、 チュウダハンタカ尊者 の8人のじいさん。
   厳密には、
中央に「釈迦三尊」「四天王」で、
その両側に「十六羅漢」さん。 「じいさん」でないわけではないが、「羅漢さん」が正しい。
≪ 羅漢とは、煩悩を捨て、悟りを得た高僧のことで、十六羅漢とは、お釈迦さまのお弟子の中でも特に選ばれた十六人のお弟子を指します。≫(光明寺でいただいた「山門のしおり」 )  なるほど、「煩悩を捨て、悟りを得た高僧のこと」だそうですから、じいさんはじいさんでも、『ドラゴンボール』にでてくる「亀仙人」、「武天老師さま」なんてのは、あれは煩悩だらけだから、羅漢さんではないわけだ・・・。

   山門の2階は通常の部屋と同じくらいの天井高があり、海側の窓が開いて、「ベランダ」みたいな場所もあって見晴らしがよく、決して「物置みたいな場所」ではない。 2階の大殿(本堂)側に「釈迦三尊」「四天王」「十六羅漢」が祀られている。 いったん、上がると、居心地のいい部屋になってはいるのだが、やっぱり、「門」の上であって、始終、昇り降りする場所ではないので、階段はけっこう急で、昇り降りする際に、気をつけないと頭を打ちそうな感じ。 しかし、今回、光明寺に参拝したことで、「山門」の上というものがどうなっているか体験できた♪
なるほど、山門の上というのはこうなっていたのか・・・・と、わかってしまうと特別のものでもなかった、としても、これまで、「特別にエライ人」か何かでないと上がらせてもらえない、自分なんかは上がらせてもらえないのだろうなあと思っていた所に上がらせてもらえたというのは感動であった。
  『地球の歩き方 フランス』(ダイヤモンド社)に、パリのエトワール凱旋門(俗に言う「パリの凱旋門」)のことを「登って楽しい凱旋門」と書いてあった。門なんて登るものかあ? とそれを見た時は思った。「門」というと、東大の本郷の赤門、浅草の雷門・・・、芝の御成門、大門・・・・あんなもの、よじ登ってどないすんねん! ・・・という感じだったのだが、パリに行って実際の凱旋門を見ると、「門」とはいっても「門」の形をしていても、4階建てか5階建てのビルほどもある建物であり、交差点の中心にあるその「門」の屋上からはパリの市街の景観が見れて素晴らしい。たしかに、「登って楽しい凱旋門」であり、下から見るだけではなく登って周囲を見てこそ「楽しい」凱旋門であった。 ヨーロッパにはあんな「門」もあるのだなあと思ったものだった。 日本では東大寺の南大門とか相当迫力がある「門」はあっても、登るという前提のものではない・・・と思ったのだが、光明寺の山門は上(2階)に上がらせてもらえたのだ。 柱にすがりついてよじ登るのではない、左右に階段があり、正面から見て左側を入口、右側を出口の階段として昇り降りさせてもらえた。 もっとも、お寺の山門というのは、期間を限定して上がって参拝させてもらえたとしても、基本的には普段から始終昇り降りするという前提で作られているものではないのだろうから、だから、階段もけっこう急で気をつけないと頭をぶつけそうになる状態で、やっぱり、凱旋門などと同じではない・・・・が、山門というのは、人手が多くて次々と上らせたのでは事故が起こりそうなお寺では期間限定でも誰でも上らせることは難しいとしても、別段、「秘仏」みたいな扱いでもなく、始終上るものではないとしても、上ってはいけないという性質のものでもなく上れないものでもないとわかると、今までよりも親しみも感じるように思えた。
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↑ は山門をくぐって大殿(本堂)の側から山門を見たもの。
≪ 現在の山門は弘化4年(1847年)に造られたものです。 間口16m、奥行約7m、高さ約20mで鎌倉の寺院の門では最大の格式を備えた山門です。
   五間三戸二階二重門(ごけんさんこにかいにじゅうもん)といわれる門で一階が和風、二階が中国風に造られています。 禅宗の五山形式が浄土宗に取り入れられたものです。
  五間三戸とは、正面からみて柱より5つに間仕切りされていて、中央の3つの間にはそれぞれ両開きの大板戸がありそれが入り口になっているものです。
  柱は全部丸柱で上と下が丸まっています。これを粽(ちまき)柱といいます。 また一階も二階も柱の位置が同じ場所になっていて組み合わせに工夫がほどこされ二階建ての構造を強化しています。
  一階は直線的で装飾性が比較的少ないのに対して二階は広がりをもち装飾性に富んでいます。 板の張り方も一階と二階とでは異なっていて、江戸時代末期の特徴を良く表した山門です。・・・・≫
( 光明寺でいただいてきた 「山門のしおり」 より)

   梅原猛『隠された十字架―法隆寺論』(新潮文庫)や関裕二氏の本を読むと、法隆寺の中門は柱5本で4間でできており、中央に柱が立っているが、お寺の門というものは柱の本数は偶数で奇数間できているものなのに、法隆寺の中門はなぜか柱の本数が奇数で偶数間でできていて中央に柱が立っているというのは、これは、回廊の内側に、怨霊を閉じ込めて外に出れないようにしたものではないのか・・・などと書かれているのですが、たしかに、↑の光明寺の山門(三門)を見ても、正面から見て、あるいは背面から見ても、柱は6本で偶数、5間と奇数間でできていて、門の下を通る場合、3つのスペースを通ることができて、奇数間なので中央には柱は立っていません。

   建築においては、かつては1818mm、最近では1820mmを1間、もしくは、6尺、かつては909mm、最近では910mmを半間、もしくは3尺と言います。 「尺」とは、人間の手首から肘までの間の骨を「尺骨」と言い、手首から肘までの長さが1尺、その3倍が3尺、6倍が6尺。 1間(いっけん)は柱と柱の間で、半間はその半分。 日本の木造建築では、柱と柱の間の距離は、人間の手首から肘までの長さの6倍の長さで作られてきた、ということのようです。 1980年代後半、小堀住研(株)〔→エスバイエル(株)→(株)ヤマダエスバイエルホーム 〕に入社してすぐの研修で、「小堀住研(株)では、半間、3尺のことを『1P』、1間、6尺のことを『2P』という言い方をしていますが、これは小堀での言い方で、建築一般に使われる言い方ではありません。」と教えられたのですが、その後、(株)一条工務店に入社後、他社から転職できた人と話をすると、半間、3尺を「1P」、1間、6尺を「2P」という使い方は、けっこう、何社もでしていたようで、正式に認められたものではないとしても、1社だけが使っているというものではないようでした。
   この「1間」という言い方ですが、木造の軸組構法において柱と柱の間のことを指して言うものですから、古くからのお寺や神社では特によく使ってきた表現かと思っていたのですが、小川三夫『宮大工と歩く奈良の寺』(文春新書)を読むと、少し違って、木造の在来工法でも、住宅の場合には、「1間」を「いっけん」と読むのに対して、寺や神社の場合には「1間」を「ひとま」と読むそうで、かつ、住宅の場合は「1間」はすべて同じ長さであり、あくまで長さの単位であって、実際には半間ごとに柱が建っていても1間半の間隔で柱が建っていても、1間は1818mmもしくは1820mmであるのに対して、寺や神社の場合には「1間」はあくまでも柱と柱の間のことであって、柱と柱の間の長さはそれぞれ異なるらしく、法隆寺の門などでも、柱と柱の間の長さは違うようです。
  1階が和風で2階が中国風に造られていると言われても、そこまで気づきませんでした。 ↑の写真を再度見ますと・・・・・、う~ん、やっぱり、よくわからん・・・。

   山門をくぐると、正面に「大殿」(本堂)、左手に開山堂、右手に鐘楼↓がある。
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≪ 総ケヤキ瓦葺きの鐘楼堂は弘化4年の建造で、現在の梵鐘は昭和36年(1961年)、法然上人750年遠忌に当たり、鋳造せられたもので、重量三百貫を誇ります。・・・・・≫
( 光明寺HP 「境内のご案内」 )
  「弘化4年」ていつのことやねん? と思いそうになりますが、「山門」が、やはり、≪弘化4年(1847年)に造られたもの・・・≫と「山門のしおり」に書かれていますので、「鐘楼」もまた「山門」と同じ1847年に造られた、ということでしょう。 1847年というと、「万国の労働者、団結せよ」という文句が文末に書かれたマルクス・エンゲルス『共産党宣言』が書かれたのが「一番弱(1848)いぞ、団結せよ」で1848年ですから、その前年。 ロシアがアムール川(黒龍江)以北を清からぶんどった愛琿条約が「嫌でごわす(1858)とムラビヨフ」で1858年ですから、その11年前ということになります。 明治維新が1868年ですからその21年前ということになります。 もしくは、セーレン=キルケゴールが『反復』を書いたのが1843年、『死に至る病』を書いたのが1849年〔《ウィキペディア―セーレン・キェルケゴール》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB 〕、「鐘楼」「山門」は『反復』の4年後、『死に至る病』の2年前に建造された、ということになります。 片や、有神論的実存哲学者のセーレン=キルケゴール、片や、カール=マルクス・フリードリヒ・エンゲルスが生きた時代に建てられた建物が「山門」と「鐘楼」・・・なんて考えると、感慨も新たになる・・・人とならない人がいるかもしれませんが、私はなります・・・ね。 キルケゴール『反復』のちょっと後、キルケゴール『死に至る病』及びマルクス・エンゲルス『共産党宣言』のちょっと前に建てられた建物、明治維新の20年ちょっと前に建てられた建物、まだ、ウラジオストクやナホトカはロシア領ではなく清の領土であった時代に建てられた建物・・・ということになります。
  (2018.4.10.)

☆ 桜の開花状況の参考のために申しますと、↑の写真の撮影日は、2018年の3月30日です。写真で見ると花がきれいですが、近づいてよく見ると少しだけ葉が見えるようになってきています。

  次回、
3.「大殿」(本堂)と桜。火灯窓。善導大師とは。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_3.html

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   ところで、「じゅらく壁」とか「京壁」て、ハウスメーカーのカタログをみると、当たり前みたいに書かれていますが、「じゅらく」て何か知っていますか?  私も長年、どうして「じゅらく壁」と言うのだろうかと思い悩んでいたのです。「京壁」というのは京都の建物でよく使われた壁のことなのだろうか?
   その答えは↓の本に出ていました。

京の大工棟梁と七人の職人衆
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笠井 一子

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   『京の大工棟梁と七人の職人衆』。 「じゅらく」というのは豊臣秀吉が造営した「聚楽第(じゅらくだい)」というのがあったあたりのことを指して「聚楽(じゅらく)」と言ったらしく、今で言うと、二条城があるあたりだそうで、今現在は街中も街中ですが、そのあたりで採れた土を「じゅらく土」と言ったらしく、「じゅらく土」を使って塗った壁が「じゅらく壁」。 これを京都の人間は「じゅらく土」「じゅらく壁」と言ったけれども、大阪の人間は「京土(きょうつち)」と言い、京土を使って塗った壁を「京壁」と言ったらしい。 逆に、大阪の四天王寺のあたりだったかで採れた土を京都の人間は「大阪土」と言い、大阪土を使って塗った壁が「大阪壁」。 その後、時代を経て、「京壁」風の壁、「じゅらく壁」風の壁のことを、実際に「京土(きょうつち)」「じゅらく土」を使っていなくても、「京壁」とか「じゅらく壁」とか、ハウスメーカーは勝手に言うようになった・・・らしい。 「京土」と「大阪土」は色が少々違ったらしいが、今、ハウスメーカーはそんなことおかまいなしに、「京壁」とか「じゅらく壁」とか書いとるし、ハウスメーカーの営業でも、私なんかは、これってなんで「じゅらく壁」と言うのだろうか、なんで「京壁」と言うのだろうか? とか考えるのですが、そんなことちっとも考えない人というのもいるわけで、平気で「じゅらく壁」とか「京壁」とか言ったりしておるわけです。 「じゅらく土」が採れた「聚楽第」があったあたりというのは、今でいえば、二条城があるあたり・・・ということは、京都市でも街中も街中であり、今では、そこで壁に使う土なんて採れません。 道路工事か何かの際に採れたとしても、そういうものは、茶室を建てる特別の工務店がさっさと持っていくらしく、ハウスメーカーが建てる家に使われるなんてことは、まず、ありません。 (株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ のカタログにも「じゅらく壁」とか「京壁」と書いてあったもので、先輩社員に質問してみたことがあります・・・が、まともに答えてくれた人はひとりもありませんでした。というよりも、知らないなら知らないで、「さあ、俺は知らないな」と正直に言ってくれればまだいいのですが、しょーもない言い訳みたいなこと言ったり、ごまかすようなこと言ったりする人ばっかりでがっかりしました。特に「浜松流総本舗」には嘘つきが多い。今でも私が在籍したならば、おそらく、「唯一、まともに答えることができる従業員」になっていたでしょう。 さらに、ホームセンターになんて行きますと、「珪藻じゅらく」なんて書かれた壁材が売られていたりします。 「珪藻土」というのは、プランクトンだか藻類だかの死骸が池だか湖だかで底の方にたまってできた土らしいのですが、1990年代の終わりから2000年代の初めにかけて「化学物質過敏症」「シックハウス症候群」といったことが世間でさかんに言われた頃、これを壁に使用すると、ホルムアルデヒドを吸着するので健康にいい、なんて言われたのです・・・・けれども、「珪藻土」と「じゅらく土」はまったく別物なんですよ。 「珪藻土」は藻類だかの死骸が池だか湖だかで底の方にたまってできた土のことであるのに対して、「じゅらく土」とは京都のかつて「聚楽第」があったあたりで採れた土のことであり、まったく別のもののことで、「珪藻土」でかつ「じゅらく土」なんてあるわけないのですが、それでも、「知ったもんか!」!て感じで「珪藻じゅらく」なんて書いた壁材が販売されているのです・・・・。 「いいかげんなこと言い」が多くて、どんなものかと思うのですが、どうも、現実に「いいかげんなこと言い」が多いようです。 ハウスメーカーがカタログに書いている「京壁」「じゅらく壁」とは厳密には京壁・じゅらく壁ではなく、「京壁風の塗り壁」「じゅらく壁風の塗り壁」のことで、「珪藻じゅらく」とは「珪藻土を多く含む壁材を使用したじゅらく壁風の塗り壁」のこと、「じゅらくクロス」とは「じゅらく壁のような見た目・風合いを目指したビニルクロス」のこと、と考えていいでしょう。
   (株)一条工務店の場合は他のハウスメーカーと比べてもいいかげんなところがあって、1992年に私が入社した時、一番メインのカタログに、床下から壁体内を通って軒下に空気が流れる「エアーフローシステム(壁体内換気)」というものが書いてあったのですが、建築現場に行って見ると、それがどのように施工されているのかわからないので、江東区潮見にあった東京展示場で「展示場リーダー」になっていたM崎さん(男。当時、30代前半。一級建築士)に質問したのですが、M崎さんは「お客さんに説明する時には・・・」と言って、ごまかし方を教えてくれるのですが、私はごまかし方を教えてほしいとお願いしたのではなく、実際にどうなっているのか質問したのですが、結論として、(株)一条工務店は実際にやってもいないものをカタログに書いていたので、それで、ごまかし方を教えてごまかそうとしたようでした。 しかし、こちらは従業員であってお客さんではないのですから、ごまかし方を教えるのではなく、実際にどうなのか教えてくれれば、その前提でお客さんにはどう話したものか自分で考えるのですが、(株)一条工務店という会社は、どうも、従業員に本当のことを教えるのを嫌がる会社でした。 さらに、私が応募する際に見た「ビーイング」という求人雑誌には、「(株)一条U.S.A.」という名称の材木会社がアメリカ合衆国のポートランドにあり、「(株)一条ヨーロッパ」というヨーロッパ製の家具やイタリア製・スペイン製のタイルなどを直輸入する会社を持っていて、スペインのバルセロナに駐在所がある・・・と書いてあったのです・・・・が、ところが、入社してみると、バルセロナに誰が行っているといった話をまったく聞かないし、又、「〇〇くんが応募した時にはびっくりしたなあ。慶應大学卒の人間がうちの会社に来てくれるのかとびっくりした」と営業本部長の天野隆夫が私に言ったのですが、それなら、たとえば、バルセロナに1年間行ってくれないかとかそういった話でもあってよさそうですが、そんな話はまったくない。いったい、どうなってるのだろう・・と思って、古くから在籍している某さんに「(株)一条ヨーロッパという会社を持っていてバルセロナに駐在所がある」とずいぶんと言いまくってきたわりに、バルセロナに誰が行っているとかいう話をまったく聞きませんが、どうなってるのでしょうねえ」と尋ねてみたところ、某さんが教えてくれたのは、「バルセロナの駐在所なんて、そんなもの、最初っからありません。 誰も行ってません」と。 はあ? 「今まで知らなかったんですか。この会社にいったい何年いるんですか。(株)一条ヨーロッパなんてそんな会社、最初からどこにもありませんよ。そんなもの。あれは、実際よりも会社を大きく見せるために、求人雑誌とかカタログとかに載せているだけで、最初から(株)一条ヨーロッパなんて会社はどこにもないし、バルセロナの駐在所なんて誰も行ってませんよ」と。 「では、その『バルセロナ』という地名はどこから出てきたのですか?」と質問してみたところ、「だから、それは、(株)一条ヨーロッパの駐在所がヨーロッパのどこにあることにするといいかと考えて、バルセロナでオリンピックがあったから、バルセロナがいいのじゃないかてことで、バルセロナに決まったてことですよ」て。 はあ~あ? 冗談で言うのならともかく、それを活字にしてカタログに載せたり、求人雑誌に載せたりなんて、普通、そんなことするかあ~あ??? と思ったのだが、「しかし、口で言うのならまだしも、カタログに活字で乗せたり、求人雑誌に載せたりなんて、いくらなんでも、普通、そこまでしないでしょう」と言ったところ、某さんは「だ~か~ら、『普通』の会社じゃないでしょうよ。何年、この会社にいるんですか。 新人じゃないでしょうよ、〇〇さんは。いまだにわからないんですか、この会社が『普通』じゃないって」と言われた・・・のでしたが、しばらくすると、カタログから「エアーフローシステム(壁体内換気)」と「(株)一条ヨーロッパ(バルセロナ)」という記述は消えました。たしかに・・・そうかもしれん・・・。「普通」じゃない会社というのは、日本にはけっこうあるが、それにしても、「いくらなんでも、そこまでするかあ~あ」と思ったが、そういう会社だった・・・。
  (2018.4.10.) 

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