光明寺(鎌倉市) 参拝【4/11】大聖閣と記主庭園。景観に隠す建築と新たに創造する建築
[第591回] 鎌倉シリーズ(3)‐4
大殿(本堂)と開山堂は渡り廊下でつながっています。 開山堂は、開山堂の正面から拝むことができますが、靴を脱いで本堂に上がり、渡り廊下を通って開山堂の内部に入らせてもらい参拝することもできます。
さて、本堂から開山堂につながる渡り廊下の北側に広がる庭園を「記主(きしゅ)庭園」と言い、その向こう(北)に見える八角形らしいお堂が見えるのですが、それを「大聖閣」と言うらしい。
大聖閣とは、
≪ 庭園内に聳える大聖閣(たいしょうかく)は宗祖 法然上人800年大御忌を期して建てられました。お堂の2階には阿弥陀三尊が安置され、回廊よりその尊顔を拝すことが出来ます。≫
( 光明寺HP 「境内のご案内」http://komyoji-kamakura.or.jp/%e5%a2%83%e5%86%85%e3%81%ae%e3%81%94%e6%a1%88%e5%86%85/ )
というものだそうで、昔からありそうな外観だけれども、比較的、最近、作られたものらしい。 で、「法然上人800大御忌」て、いったいいつなんだ・・・というと、インターネットで検索すると、出てきた。《中島工務店 施行事例 寺院》http://jisya.jp/sekou/category/%e5%af%ba%e9%99%a2 によると、光明寺の大聖閣は、≪2011年3月竣工 ≫だそうだ。
記主庭園の方が有名で、これは、
≪ 本堂左手の記主庭園は伝 小堀遠州作で、夏の紅蓮が見事。≫
( 鎌倉商工会議所 監修・かまくら春秋社 編『鎌倉観光文化検定 公式テキストブック』2007.4.3.かまくら春秋社)
≪ 本堂と書院の間にある記主(きしゅ)庭園は名庭師 小堀遠州の流れをくむ庭師の作といわれ、夏には古代ハスが咲くことで知られる。≫
( るるぶ社 国内編集局 企画編集『アイじゃぱん 18 鎌倉を歩く ’04』2003.9.1. JTB)
≪ 光明寺の庭園は浄土宗庭園で記主庭園とも呼んでいます。 蓮池には、夏ともなれば優雅な色を持って開花いたします。 七月には観蓮会(有料)が開かれ蓮を眼前に抹茶を頂きながら静かな時の流れを感じることが出来ます。・・・≫
( 光明寺HP 「境内のご案内」http://komyoji-kamakura.or.jp/%e5%a2%83%e5%86%85%e3%81%ae%e3%81%94%e6%a1%88%e5%86%85/ )
微妙に表現が違います。 『鎌倉観光文化検定 公式テキストブック』では「伝 小堀遠州作」、『アイじゃぱん18 鎌倉を歩く ’04』では「小堀遠州の流れをくむ庭師の作といわれ」、光明寺のホームページではそのあたりには触れられず、「浄土宗庭園で・・・」という表現。 桂離宮にしても、小堀遠州の設計によるという説があるかと思うと、小堀遠州は何らかの関係はあったらしいが小堀遠州の作ではないという説もあり、結論として「ようわからん」てところらしいのですが、光明寺の記主庭園もそのひとつらしい・・・が、よく見ると、よく味わうといい庭園です・・・・・・が、ひとつ、問題があります。 ↑の大聖閣ですが、はたして、あった方がいいでしょうか、それとも、ない方がいいでしょうか・・・・・。 そこがけっこう問題です。
初めて来て見ると、そこに大聖閣はあるものだ・・・と思って、大聖閣が向こうにあって、左に開山堂・書院、右に本堂があって、その内側に記主庭園・・・・というのが昔からのものか・・と思いそうになりますが、説明を読むと、大聖閣は比較的最近に建てられたらしい。 さらに、≪ かつては現在の本堂(大殿)を祖師堂と称して≫いて、≪ 大正12年(1923年)の関東大震災で倒潰した阿弥陀堂の本尊を旧開山堂へ遷座して本堂とし、開山堂は、翌13年(1924年)、古材等を使用して新たに建てられ≫、≪平成14年(2002年)、老朽のため再建され≫た(光明寺HP 「境内のご案内」http://komyoji-kamakura.or.jp/%e5%a2%83%e5%86%85%e3%81%ae%e3%81%94%e6%a1%88%e5%86%85/ )ということですから、↑の写真では右手にある現 本堂(大殿)が左手、書院の手前にあって、本堂は別の建物がかつてはあったらしい。
昔むかしその昔からのお堂が両側にあるのなら、その間にある庭園に、新たに新しく別の建物を建てたとすると、その新しい建物がどんなにすばらしい建物であったとしても、新たな物が加わることで、それまでの構成を崩してしまうことになりかねません・・・・が、どのみち、もともと、左側にあった建物を右側に移し、左側には新たに別の建物を建てたからには、向こう側に新しく別の建物を建てて再構成するというのも悪くはないのかもしれません・・・・が、そうは言いましても、右手に本堂があって、左手の手前に開山堂、その向こうに書院という構成であった庭園に、向こう側に八角形の大聖閣を作るというのは、はたしてプラスかマイナスか・・・・・。 なかなか、難しいところではないでしょうか。
↑ 大聖閣。 比較的最近作られたもの(2011年3月竣工)・・にしては、なかなかのものという印象を受けます。 単独で見ると、「なかなかのもの」ではあるのですが、小堀遠州の作庭と伝えられたり、小堀遠州の流れを組む庭師の作庭と言われたりする庭園に、加えられたとして考えた時に、はたして、庭園として、↑の大聖閣はあった方がいいのか、むしろ、ない方が良かったのか・・・・。
≪ 庭園内に聳える大聖閣(たいしょうかく)は宗祖 法然上人800年大御忌を期して建てられました。お堂の2階には阿弥陀三尊が安置され、回廊よりその尊顔を拝すことが出来ます。≫
( 光明寺HP 「境内のご案内」http://komyoji-kamakura.or.jp/%e5%a2%83%e5%86%85%e3%81%ae%e3%81%94%e6%a1%88%e5%86%85/ ) と光明寺のホームページには書かれているのですが、実際には、大聖閣は見えても、2階の阿弥陀三尊の「尊顔」は見えませんでした・・・・が、今回、訪問時には大聖閣の2階の窓は閉められていたのですが、インターネット上で、大聖閣の写真が掲載されているものを見ると、2階の阿弥陀三尊が安置されているのであろうと思われる所の窓が開けられている写真があります。 その日によってなのか天候によってなのか、阿弥陀三尊の前の窓が開けられて、外から見える時もあるということなのかもしれません。
大聖閣が記主庭園の一部に存在する景観は悪くないと思うのですが、他方、大聖閣が写らない部分の写真で見ると、↓
( ↑ 左が開山堂。 奥が書院。 )
〔 ↑ 右手の建物は大殿(本堂)。 〕
↑ こちらも悪くありません。 ≪ 蓮池には、夏ともなれば優雅な色を持って開花いたします。七月には観蓮会(有料)が開かれ蓮を眼前に抹茶を頂きながら静かな時の流れを感じることが出来ます。・・・≫( 光明寺HP 「境内のご案内」http://komyoji-kamakura.or.jp/%e5%a2%83%e5%86%85%e3%81%ae%e3%81%94%e6%a1%88%e5%86%85/ )ということですが、3月30日、池に蓮の花を見ることはできませんが、桜の花が大殿の側に咲く景観もなかなかのものです。桜の花は大変きれいです・・・が、もっとも、記主庭園においては、桜は大殿のそばにのみとどめてあるというのは、庭園の景観として考えた時、桜は自己主張が強すぎる、目立ちすぎる、自分が主役になろうという傾向が強すぎるので、それで、この庭園においては大殿のそばにのみとどめた・・・のかな・・などと思ったりもしました。
さて、2011年3月に竣工したという大聖閣ですが、小堀遠州作なのか小堀遠州の流れを組む庭師の作なのか、どちらなのかははっきりしないらしいけれども、この記主庭園にとって、はたしてあった方がいいのかない方がいいのか、なかなか難しいところです。
自然の景観が優れている場所や、それまでに周囲に存在した先住建物がなかなかのものである場所に、新たに建物を建てるという場合に、それまでのものに同化するような外観デザインのものにした方がいいという考え方もありますが、そうではなく、そこに新たなものを加えることによって、それまでとは異なったものになるけれども、新たなものが加わることで、それまでよりもさらに良い状態になることを目指す、という考え方もあります。
「建築家」と言われている人には、どうも、傍若無人で自分さえ良ければいいと思っている人、自分の建物さえよければ、その建物がどんなに使いにくかろうが、施主は我慢するべきで、「世界的建築家」が設計したものである限り、一般人は「王様は裸だ」などとは決して言ってはならない・・・みたいに思っているのではないか、という印象を受ける人が多い。 こう言うと、「建築家」業界の人、「建築家」ムラの人には、怒る人も中にあるのかもしれないが、申し訳ないが、私の場合、「建築家」業界ではなく、「建築屋」業界に勤めてきた人間なので、「建築家」ムラの事情なんて知ったことではない。 但し、「建築屋」か「建築家」かというと「建築家」の方に属する方の人でも、ここで私が述べた、傍若無人で自分の設計する建物さえ良ければ、周囲と調和しなくても、使いにくかろうがいっこうにかまわない・・という姿勢の建築は、少なくとも無条件に良いと認めるわけにはいかないのではないかと考える方もおられる・・・ようです。 愛知産業大学の建築学科でお世話になった守屋先生は、『時空のアトリエ―建築家の夢と現実』(1993.5.20. 悠思社)で、
≪ まず、いくら高名であっても自分のために設計するような建築家は避けたい。 主義主張でなく名前だけで選ぶと、時にへんてこりんなものをつくられてしまう。
先日もそういう建築家が手がけた建物に出くわした。ある地方都市に行った時のことだ。その土地の風土や町並みとまるで合っていない非常に目立つ建物がある。 そこで地元の人に「あれをつくったのは誰ですか」と尋ねてみたところ、まさに想像した通りの高名な建築家の名前がでてきた。そういう建築家は自分の作品をつくることしか考えていない。どこに建とうと関係ない。自分の作品をつくって宣伝すればそれでいいと思っている。・・・≫
( 守屋弓男『時空のアトリエ―建築家の夢と現実』1993.5.20.悠思社 「第1章 建築家の自画像」)
私は、スクーリングなどで守屋先生の話を聞いて、大いにもっともなことを言われると思ったし、この人は私とかなり似た感性を持った方ではないかと思ったのですが、さらに話を聞いていると、私と感じ方が違う部分もあるようだと気づきました。もちろん、デザインについての感じ方は、人が2人おれば、感じ方の違うところがある方が普通であって、同じにしないといけない理由はまったくないし、感じ方が違うからといって喧嘩しなければならない理由もありません・・・・が、この≪ いくら高名であっても自分のために設計するような建築家≫ ≪その土地の風土や町並みとまるで合っていない非常に目立つ建物≫という、そういうのばっかり得意になって設計してきた「高名な建築家」というと、これは、もう、そのものズバリ! 「世界の丹下健三」のことであろう・・・・と私は思ったのですが、この本を読んでいると、守屋先生は丹下健三については高く評価されているらしいので、ここで対象になっているのは固有名詞は出ていませんが、他の人なのかもしれません。 なおかつ、新宿のコクーンタワーという丹下都市建築設計が設計した、あの空から巨大な文鎮が降って来て地面に突き刺さったみたいな巨大な悪趣味建築・・・というのは、あれはいったい何だ、自分の建物さえよければいいみたいな、市民にとってははた迷惑この上ない建物は・・・と私は思ったのですが、守屋先生は、あれについては肯定的に評価されているようでしたので、そのあたりについての感じ方は私とは異なったようです。 まあ、「建築家」業界というのか、「建築家」ムラというのかも、いくつかの「山脈」があって、守屋先生も東京帝国主義大学という「世界の丹下」と同じ「山脈」に所属する方ですから、同じ「山脈」の先輩は批判しにくいのか・・・なんて思ってみたりしないこともないのですが、そうであるのかないのかはわかりません・・・が、私は、現実に「世界の丹下」の設計によるものは、「世界的建築家」一般にそういう傾向はあるにしても、特に≪その土地の風土や町並みとまるで合っていない非常に目立つ建物≫ ≪へんてこりんなもの≫が多いと思っています。
↑の大聖閣ですが、≪その土地の風土や町並みとまるで合っていない非常に目立つ建物≫ではなく、既存の記主庭園や大殿・開山堂との調和を考えて作られた建物だと思います・・・・が、それでも、古くからある記主庭園として、大聖閣がそこにあった景観とない景観でどちらの方がよりいいかというと、なかなか判断は難しい。
同書には、
≪ もう一つ私は国立公園内にある建物のデザインをどうするかという、環境庁の委員会にも入っている。国立公園における人工物は、これまでいかにそれを目立たなくするか、もっといえばいかに隠すかという方向で考えられてきた。 ところが国民休暇村は「眺めの良さ」を訴求してつくられている。眺めがいいということは、逆にいえば見られるということであり、つまり景観を破壊していくことにほかならない。
委員会はまだスタートしたばかりだし、このことについてはこれからさまざまな意見が出てくるだろうが、私としてはもっと積極的に自然公園と人工物とを調和させるべきだと思っている。建築家の立場から、国立公園という自然公園と建築をいかに調和させていくべきか、委員会を通じて素直に考えてみるつもりである。・・・≫
( 守屋弓男『時空のアトリエ―建築家の夢と現実』1993.5.20. 悠思社 「第4章 デザイナーとしての建築家」 )
という話も出ています。 これは、私もそう思っていたものを、この本を読んだところ、私が思ったものが書かれていたので、やっぱり、この先生は私と共通感性するの持ち主なんだろうなあと思ったのです。
『味いちもんめ』という板前を描いた漫画で、京都に来たフランス人が、日本人はせっかくの日本の景観を破壊しているのではないかと指摘し、話を聞いた伊橋くんが、京都なんかは古くからのものを維持されているように思いますと答えたのに対し、そうでもないですよと言って、連れていかれたのは、京都のベンガラ格子の建物が並ぶ通りに、宇宙ロケットみたいな建物が建つのを見て、これはひどいと感じるという場面がありました。 「歴史がある」と言われる街でも、伝統的建造物群保存地区などに指定されている地域は保存されるとして、その隣接地とかに無神経な建物が建つことが時々あります。
内田康夫『龍神の女(ひと)』(内田康夫『龍神の女―内田康夫と5人の名探偵』2010.6.20.祥伝社文庫 所収)では、和歌山県の「ごまさんスカイタワー」という観光用の塔を、登場人物の和泉教授が「どうしてこういう、変てこりんなものを作りたがるのかねえ」と発言する場面があります。 「道を通すだけで、充分、自然を破壊しているんだから、その上に景観までぶち壊しにすることはないよ」と。 内田康夫の小説での「探偵」役の登場人物は浅見光彦にしてもそれ以外の人物にしても内田康夫の分身である場合が多いので、おそらく、この感想は内田康夫が感じたものではないかと思うのですが、その「ごまさんスカイタワー」が実際にどうなのかは、私は、ぜひ一度、見に行ってみたいものだと思いながら、まだ、見に行くことができずにいますので、自分で見たことがないものについては何とも言えません・・・・が、インターネット上の写真で見る限り、あまり、いいとは思えません。
※ 《道の駅 ごまさんスカイタワー》http://www.kkr.mlit.go.jp/road/michi_no_eki/contents/wakayama/gomasanskytower.html
内田康夫の作品では『城崎殺人事件』(2009.7.30. 祥伝社文庫)にも、兵庫県豊岡市の日和山遊園について、≪日本海に突き出した岬の上からの景観が悪い道理はないのだけれど、あまりにも人工的な造形物が多いので、興を削がれる感じなのである。本来、人工的であるはずの城崎の風景より、はるかに人工的だというのは、やはり、いただけない。≫ ≪秋の日差しを受けて輝く海の青や、海岸の緑など、それ自体は目も奪われるほど美しいのだが、そういうものも含めて、何から何まで人間の手を加えないとおかない――という精神に、なんだか食傷しそうだ。≫という批判がある。
※ 《ウィキペディア―日和山海岸》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%92%8C%E5%B1%B1%E6%B5%B7%E5%B2%B8
デザインについてどう思うか感じるかは「人それぞれ」ではあるのです。 私は神奈川県の江の島の上に立つ、サムエル=コッキング苑の「展望灯台」を、鎌倉の七里ガ浜・稲村ケ崎のあたりから江の島の方を見て、あの「灯台」、余計だな、感じ悪いな、嫌だな、なんであんなおかしなもの作ってしまうのだろうな・・・と思ったのです。 ところが、愛知産業大学の建築学科のスクーリングの際、私と比較的感性が共通している方ではないかと思った守屋先生が「私は、展望タワーでいいと思ってものはあんまりない。いいと思ったのは江の島のサムエル=コッキング苑の塔くらい。あれはいいと思う」と言われたので、「ええ~え? あ~れ~があ~あ???」と思ったのです。 まあ、デザインや景観についてどう感じるかは、これは人が2人以上おれば、感じ方が違ったとしても不思議はないわけで、どちらが正しいとか間違っているとかいうことではないとは思います。
しかし、サムエル=コッキング苑の展望塔についての守屋先生の評価を聞いて、私と感じ方が違うひとつの原因として、守屋先生は東大の建築学科を卒業して建築学科の大学院に進んで「建築家」業界に進まれた方で、私は、良きにつけ悪しきにつけ、社会科学系の学部を卒業して、その後、何の因果か「建築屋」業界に勤めたという者であり、一般に、最初から建築学科に進んで「建築家」業界に勤めた人と、そうではなく、社会科学系学部か人文科学系学部に進んで卒業して勤めたという者、特に、人格が「文学者」「哲学者」「詩人」である者とでは、一般的傾向として、後者の方が「自然のまま」の方を高く評価し、前者は「人工的建築物が作られた状態」の方を好む傾向があるのではないか、と感じたのでした。「作家」である内田康夫氏も後者の方の人ではないでしょうか。
パリのエッフェル塔にしても、できたばかりの頃は、パリの景観を壊すと評判が悪かったらしいが、今ではパリの景観のひとつになりました。 パレ=ロワイヤルの中庭のオブジェは、できてすぐは評判が悪くて、撤去すべしと言われたが、撤去費用がなくて撤去されずにいるうちに、そのオブジェをベンチ代わりに使う人がでてきて、オブジェとして考えるのではなく、ベンチ代わりだと思えばいいかあ・・・みたいになって定着したとか。
その場の環境を尊重して、違和感なく建てられた建物としては、前川國男設計の東京都美術館や熊本県立美術館がそうだと思います。東京都美術館は上野公園の一部であり旧寛永寺の敷地であるとして、外に対してはその環境と歴史を尊重した作り方がなされるとともに、美術館占有スペースに入ると、美術館としての雰囲気につつまれる建物です。熊本県立美術館も、その場は熊本城の敷地であり、熊本城が主で美術館が主ではないとして、出しゃばり過ぎない外観となっているけれども、やはり、美術館占有スペースに入ると美術館としての雰囲気が出ている建物で、内部にはいると、屋外の巨木が屋内にも続いているかのようなコンクリートの丸柱が並んでいます。 東京都美術館や熊本県立美術館は、それまでのその場の景観を乱さないように配慮されて作られています。
槇文彦設計の慶應大新日吉図書館はグレー系の色合いで、同じ慶應大三田新図書館はエンジ系の色合い。これは、いずれも周囲の先住建物の色彩との調和を考えて、その色合いが選ばれたものと思われます。 同じ槇文彦の東大本郷キャンパスの法科大学院棟は、東大の先住建物に合わせるということではなく、最近では、建物密度がかつてに比べて過密になってきている本郷キャンパスにおいて、建物が過密である印象を与えないよう(たまたまではなく、そう配慮してのものだと私は考えたのですが)、スケルトンの外観になっています。 これらは、それまでの先住建物との調和を考えて設計されたものと思われます(ということなのだろうと私が思ったのであって、設計者本人に尋ねてみて、そう答えるかどうかは知らんで)。
自然の景観に人工的建築物を加えたことで、高い評価を得ているものとしては、ヨルン=ウッソン設計のオーストラリアのシドニーオペラハウスがあるかと思います。 あれは、シドニー湾という自然の景観もなかなかの場所に、ハーバーブリッジという橋がかかっていた。その橋の脇の岬の先端にシドニーオペラハウスが建てられて、「シドニー湾の自然+ハーバーブリッジ+シドニーオペラハウス」と3つがミックスされて、すばらしい景観になった。 シドニーオペラハウスについては、実際問題として、あれはオペラハウスなのか? そうではなく、シドニー湾を飾るための巨大な彫刻であって、内部はオペラハウスでなくても、国会議事堂でも室内体育競技場でもホテルでもレストランでもパチンコ屋でもストリップ劇場でも何でも良かったのではないのか。 オペラハウスなら、大事なのはそこでオペラが上演される時の音響や居心地の良さで、次に「中」で、「外」はそれ以降のはずなのに、シドニーオペラハウスの場合は、「外」が圧倒的に重視されて議論されているというのはおかしくないか。 あんなオペラハウスあるものか!・・・とも思えるのですが・・・、それはそれといたしまして、「自然環境+先住建造物」にプラスして、それまでより優れた景観を生み出そうとした建築・・として考えると悪くないように思います。自然環境のすばらしさを「損なわないように同化する」のではなく、むしろ、そこに新たなものを加えることで新しい景観を作る、というのが「シドニーオペラハウス」だと考えていいでしょう。
岐阜県高山市のJR「高山」駅は、明治時代の木造駅舎として「高山まちの博物館」でも述べられていた建物でしたが、最近、新しい建物に変りました。高山の街は、駅ができてその周辺が開けたという東京圏や関西圏の郊外の街とは異なり、先に街があって、その西側に高山本線が通って、街の側である東側に駅ができて、既存の街と駅の間が埋まるように街が広がってきたという都市ですから、駅の東側の方が西側より開けているのは当たり前ではあるのですが、西側にも人は住んでいて、今では西側にもいろいろな施設はありますから、西側からも直接駅に出入りできた方がいいし、東側から西側への行き来もできた方がいいということでの建て替えだったのかと思います・・・が、何も考えずに作られた建物ではなく、その街に合うようにと相当考えてデザインされたものとは思うのですが、しかし、やっぱり、前の駅舎を見なれた者としては、機能としてどうかは別として景観としては前の方が良かったような気がしてなりません。高山市では十六銀行高山支店も新しい建物に変りましたが、これも、伝統的な町並みにそうように考えられたデザインだとは思うのですが、やっぱり、前の建物の方がそこに合っていたような感じが私はします。
※ 高山駅については、
[第471回]《新装「高山駅」。周囲の景観との調和を考えた建物だが。及、屋根とは何かわかっていない建築会社について》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_27.html 、
[第561回]《高山駅から飛騨民俗村まで[上]-高山第5回【12/15】高山駅東西の入口。駅西から飛騨の里への導入路 》 参照。
十六銀行高山支店については、
[第470回]《十六銀行 高山支店(高山市)、及、警察官のいない「交番」て、そういうのを交番と言うのでしょうか?》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_26.html 参照。
で、↑の大聖閣ですが、「伝小堀遠州」だか「小堀遠州の流れをくむ庭師による」だかの庭園に、その建物が加わることで、さらに良くなるか、ない方が良かったか・・・・・。 建物だけ見ると、決して悪い建物ではないと思うのですが、庭園と見比べて考えると、さて、どちらなのか・・・・。 判断に迷います。
(2018.4.10.)
次回、
5.「開山堂」。「網引地蔵」。地蔵とは。「戦没者碑」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_5.html
大殿(本堂)と開山堂は渡り廊下でつながっています。 開山堂は、開山堂の正面から拝むことができますが、靴を脱いで本堂に上がり、渡り廊下を通って開山堂の内部に入らせてもらい参拝することもできます。
さて、本堂から開山堂につながる渡り廊下の北側に広がる庭園を「記主(きしゅ)庭園」と言い、その向こう(北)に見える八角形らしいお堂が見えるのですが、それを「大聖閣」と言うらしい。
大聖閣とは、
≪ 庭園内に聳える大聖閣(たいしょうかく)は宗祖 法然上人800年大御忌を期して建てられました。お堂の2階には阿弥陀三尊が安置され、回廊よりその尊顔を拝すことが出来ます。≫
( 光明寺HP 「境内のご案内」http://komyoji-kamakura.or.jp/%e5%a2%83%e5%86%85%e3%81%ae%e3%81%94%e6%a1%88%e5%86%85/ )
というものだそうで、昔からありそうな外観だけれども、比較的、最近、作られたものらしい。 で、「法然上人800大御忌」て、いったいいつなんだ・・・というと、インターネットで検索すると、出てきた。《中島工務店 施行事例 寺院》http://jisya.jp/sekou/category/%e5%af%ba%e9%99%a2 によると、光明寺の大聖閣は、≪2011年3月竣工 ≫だそうだ。
記主庭園の方が有名で、これは、
≪ 本堂左手の記主庭園は伝 小堀遠州作で、夏の紅蓮が見事。≫
( 鎌倉商工会議所 監修・かまくら春秋社 編『鎌倉観光文化検定 公式テキストブック』2007.4.3.かまくら春秋社)
≪ 本堂と書院の間にある記主(きしゅ)庭園は名庭師 小堀遠州の流れをくむ庭師の作といわれ、夏には古代ハスが咲くことで知られる。≫
( るるぶ社 国内編集局 企画編集『アイじゃぱん 18 鎌倉を歩く ’04』2003.9.1. JTB)
≪ 光明寺の庭園は浄土宗庭園で記主庭園とも呼んでいます。 蓮池には、夏ともなれば優雅な色を持って開花いたします。 七月には観蓮会(有料)が開かれ蓮を眼前に抹茶を頂きながら静かな時の流れを感じることが出来ます。・・・≫
( 光明寺HP 「境内のご案内」http://komyoji-kamakura.or.jp/%e5%a2%83%e5%86%85%e3%81%ae%e3%81%94%e6%a1%88%e5%86%85/ )
微妙に表現が違います。 『鎌倉観光文化検定 公式テキストブック』では「伝 小堀遠州作」、『アイじゃぱん18 鎌倉を歩く ’04』では「小堀遠州の流れをくむ庭師の作といわれ」、光明寺のホームページではそのあたりには触れられず、「浄土宗庭園で・・・」という表現。 桂離宮にしても、小堀遠州の設計によるという説があるかと思うと、小堀遠州は何らかの関係はあったらしいが小堀遠州の作ではないという説もあり、結論として「ようわからん」てところらしいのですが、光明寺の記主庭園もそのひとつらしい・・・が、よく見ると、よく味わうといい庭園です・・・・・・が、ひとつ、問題があります。 ↑の大聖閣ですが、はたして、あった方がいいでしょうか、それとも、ない方がいいでしょうか・・・・・。 そこがけっこう問題です。
初めて来て見ると、そこに大聖閣はあるものだ・・・と思って、大聖閣が向こうにあって、左に開山堂・書院、右に本堂があって、その内側に記主庭園・・・・というのが昔からのものか・・と思いそうになりますが、説明を読むと、大聖閣は比較的最近に建てられたらしい。 さらに、≪ かつては現在の本堂(大殿)を祖師堂と称して≫いて、≪ 大正12年(1923年)の関東大震災で倒潰した阿弥陀堂の本尊を旧開山堂へ遷座して本堂とし、開山堂は、翌13年(1924年)、古材等を使用して新たに建てられ≫、≪平成14年(2002年)、老朽のため再建され≫た(光明寺HP 「境内のご案内」http://komyoji-kamakura.or.jp/%e5%a2%83%e5%86%85%e3%81%ae%e3%81%94%e6%a1%88%e5%86%85/ )ということですから、↑の写真では右手にある現 本堂(大殿)が左手、書院の手前にあって、本堂は別の建物がかつてはあったらしい。
昔むかしその昔からのお堂が両側にあるのなら、その間にある庭園に、新たに新しく別の建物を建てたとすると、その新しい建物がどんなにすばらしい建物であったとしても、新たな物が加わることで、それまでの構成を崩してしまうことになりかねません・・・・が、どのみち、もともと、左側にあった建物を右側に移し、左側には新たに別の建物を建てたからには、向こう側に新しく別の建物を建てて再構成するというのも悪くはないのかもしれません・・・・が、そうは言いましても、右手に本堂があって、左手の手前に開山堂、その向こうに書院という構成であった庭園に、向こう側に八角形の大聖閣を作るというのは、はたしてプラスかマイナスか・・・・・。 なかなか、難しいところではないでしょうか。
↑ 大聖閣。 比較的最近作られたもの(2011年3月竣工)・・にしては、なかなかのものという印象を受けます。 単独で見ると、「なかなかのもの」ではあるのですが、小堀遠州の作庭と伝えられたり、小堀遠州の流れを組む庭師の作庭と言われたりする庭園に、加えられたとして考えた時に、はたして、庭園として、↑の大聖閣はあった方がいいのか、むしろ、ない方が良かったのか・・・・。
≪ 庭園内に聳える大聖閣(たいしょうかく)は宗祖 法然上人800年大御忌を期して建てられました。お堂の2階には阿弥陀三尊が安置され、回廊よりその尊顔を拝すことが出来ます。≫
( 光明寺HP 「境内のご案内」http://komyoji-kamakura.or.jp/%e5%a2%83%e5%86%85%e3%81%ae%e3%81%94%e6%a1%88%e5%86%85/ ) と光明寺のホームページには書かれているのですが、実際には、大聖閣は見えても、2階の阿弥陀三尊の「尊顔」は見えませんでした・・・・が、今回、訪問時には大聖閣の2階の窓は閉められていたのですが、インターネット上で、大聖閣の写真が掲載されているものを見ると、2階の阿弥陀三尊が安置されているのであろうと思われる所の窓が開けられている写真があります。 その日によってなのか天候によってなのか、阿弥陀三尊の前の窓が開けられて、外から見える時もあるということなのかもしれません。
大聖閣が記主庭園の一部に存在する景観は悪くないと思うのですが、他方、大聖閣が写らない部分の写真で見ると、↓
( ↑ 左が開山堂。 奥が書院。 )
〔 ↑ 右手の建物は大殿(本堂)。 〕
↑ こちらも悪くありません。 ≪ 蓮池には、夏ともなれば優雅な色を持って開花いたします。七月には観蓮会(有料)が開かれ蓮を眼前に抹茶を頂きながら静かな時の流れを感じることが出来ます。・・・≫( 光明寺HP 「境内のご案内」http://komyoji-kamakura.or.jp/%e5%a2%83%e5%86%85%e3%81%ae%e3%81%94%e6%a1%88%e5%86%85/ )ということですが、3月30日、池に蓮の花を見ることはできませんが、桜の花が大殿の側に咲く景観もなかなかのものです。桜の花は大変きれいです・・・が、もっとも、記主庭園においては、桜は大殿のそばにのみとどめてあるというのは、庭園の景観として考えた時、桜は自己主張が強すぎる、目立ちすぎる、自分が主役になろうという傾向が強すぎるので、それで、この庭園においては大殿のそばにのみとどめた・・・のかな・・などと思ったりもしました。
さて、2011年3月に竣工したという大聖閣ですが、小堀遠州作なのか小堀遠州の流れを組む庭師の作なのか、どちらなのかははっきりしないらしいけれども、この記主庭園にとって、はたしてあった方がいいのかない方がいいのか、なかなか難しいところです。
自然の景観が優れている場所や、それまでに周囲に存在した先住建物がなかなかのものである場所に、新たに建物を建てるという場合に、それまでのものに同化するような外観デザインのものにした方がいいという考え方もありますが、そうではなく、そこに新たなものを加えることによって、それまでとは異なったものになるけれども、新たなものが加わることで、それまでよりもさらに良い状態になることを目指す、という考え方もあります。
「建築家」と言われている人には、どうも、傍若無人で自分さえ良ければいいと思っている人、自分の建物さえよければ、その建物がどんなに使いにくかろうが、施主は我慢するべきで、「世界的建築家」が設計したものである限り、一般人は「王様は裸だ」などとは決して言ってはならない・・・みたいに思っているのではないか、という印象を受ける人が多い。 こう言うと、「建築家」業界の人、「建築家」ムラの人には、怒る人も中にあるのかもしれないが、申し訳ないが、私の場合、「建築家」業界ではなく、「建築屋」業界に勤めてきた人間なので、「建築家」ムラの事情なんて知ったことではない。 但し、「建築屋」か「建築家」かというと「建築家」の方に属する方の人でも、ここで私が述べた、傍若無人で自分の設計する建物さえ良ければ、周囲と調和しなくても、使いにくかろうがいっこうにかまわない・・という姿勢の建築は、少なくとも無条件に良いと認めるわけにはいかないのではないかと考える方もおられる・・・ようです。 愛知産業大学の建築学科でお世話になった守屋先生は、『時空のアトリエ―建築家の夢と現実』(1993.5.20. 悠思社)で、
≪ まず、いくら高名であっても自分のために設計するような建築家は避けたい。 主義主張でなく名前だけで選ぶと、時にへんてこりんなものをつくられてしまう。
先日もそういう建築家が手がけた建物に出くわした。ある地方都市に行った時のことだ。その土地の風土や町並みとまるで合っていない非常に目立つ建物がある。 そこで地元の人に「あれをつくったのは誰ですか」と尋ねてみたところ、まさに想像した通りの高名な建築家の名前がでてきた。そういう建築家は自分の作品をつくることしか考えていない。どこに建とうと関係ない。自分の作品をつくって宣伝すればそれでいいと思っている。・・・≫
( 守屋弓男『時空のアトリエ―建築家の夢と現実』1993.5.20.悠思社 「第1章 建築家の自画像」)
私は、スクーリングなどで守屋先生の話を聞いて、大いにもっともなことを言われると思ったし、この人は私とかなり似た感性を持った方ではないかと思ったのですが、さらに話を聞いていると、私と感じ方が違う部分もあるようだと気づきました。もちろん、デザインについての感じ方は、人が2人おれば、感じ方の違うところがある方が普通であって、同じにしないといけない理由はまったくないし、感じ方が違うからといって喧嘩しなければならない理由もありません・・・・が、この≪ いくら高名であっても自分のために設計するような建築家≫ ≪その土地の風土や町並みとまるで合っていない非常に目立つ建物≫という、そういうのばっかり得意になって設計してきた「高名な建築家」というと、これは、もう、そのものズバリ! 「世界の丹下健三」のことであろう・・・・と私は思ったのですが、この本を読んでいると、守屋先生は丹下健三については高く評価されているらしいので、ここで対象になっているのは固有名詞は出ていませんが、他の人なのかもしれません。 なおかつ、新宿のコクーンタワーという丹下都市建築設計が設計した、あの空から巨大な文鎮が降って来て地面に突き刺さったみたいな巨大な悪趣味建築・・・というのは、あれはいったい何だ、自分の建物さえよければいいみたいな、市民にとってははた迷惑この上ない建物は・・・と私は思ったのですが、守屋先生は、あれについては肯定的に評価されているようでしたので、そのあたりについての感じ方は私とは異なったようです。 まあ、「建築家」業界というのか、「建築家」ムラというのかも、いくつかの「山脈」があって、守屋先生も東京帝国主義大学という「世界の丹下」と同じ「山脈」に所属する方ですから、同じ「山脈」の先輩は批判しにくいのか・・・なんて思ってみたりしないこともないのですが、そうであるのかないのかはわかりません・・・が、私は、現実に「世界の丹下」の設計によるものは、「世界的建築家」一般にそういう傾向はあるにしても、特に≪その土地の風土や町並みとまるで合っていない非常に目立つ建物≫ ≪へんてこりんなもの≫が多いと思っています。
↑の大聖閣ですが、≪その土地の風土や町並みとまるで合っていない非常に目立つ建物≫ではなく、既存の記主庭園や大殿・開山堂との調和を考えて作られた建物だと思います・・・・が、それでも、古くからある記主庭園として、大聖閣がそこにあった景観とない景観でどちらの方がよりいいかというと、なかなか判断は難しい。
同書には、
≪ もう一つ私は国立公園内にある建物のデザインをどうするかという、環境庁の委員会にも入っている。国立公園における人工物は、これまでいかにそれを目立たなくするか、もっといえばいかに隠すかという方向で考えられてきた。 ところが国民休暇村は「眺めの良さ」を訴求してつくられている。眺めがいいということは、逆にいえば見られるということであり、つまり景観を破壊していくことにほかならない。
委員会はまだスタートしたばかりだし、このことについてはこれからさまざまな意見が出てくるだろうが、私としてはもっと積極的に自然公園と人工物とを調和させるべきだと思っている。建築家の立場から、国立公園という自然公園と建築をいかに調和させていくべきか、委員会を通じて素直に考えてみるつもりである。・・・≫
( 守屋弓男『時空のアトリエ―建築家の夢と現実』1993.5.20. 悠思社 「第4章 デザイナーとしての建築家」 )
という話も出ています。 これは、私もそう思っていたものを、この本を読んだところ、私が思ったものが書かれていたので、やっぱり、この先生は私と共通感性するの持ち主なんだろうなあと思ったのです。
『味いちもんめ』という板前を描いた漫画で、京都に来たフランス人が、日本人はせっかくの日本の景観を破壊しているのではないかと指摘し、話を聞いた伊橋くんが、京都なんかは古くからのものを維持されているように思いますと答えたのに対し、そうでもないですよと言って、連れていかれたのは、京都のベンガラ格子の建物が並ぶ通りに、宇宙ロケットみたいな建物が建つのを見て、これはひどいと感じるという場面がありました。 「歴史がある」と言われる街でも、伝統的建造物群保存地区などに指定されている地域は保存されるとして、その隣接地とかに無神経な建物が建つことが時々あります。
内田康夫『龍神の女(ひと)』(内田康夫『龍神の女―内田康夫と5人の名探偵』2010.6.20.祥伝社文庫 所収)では、和歌山県の「ごまさんスカイタワー」という観光用の塔を、登場人物の和泉教授が「どうしてこういう、変てこりんなものを作りたがるのかねえ」と発言する場面があります。 「道を通すだけで、充分、自然を破壊しているんだから、その上に景観までぶち壊しにすることはないよ」と。 内田康夫の小説での「探偵」役の登場人物は浅見光彦にしてもそれ以外の人物にしても内田康夫の分身である場合が多いので、おそらく、この感想は内田康夫が感じたものではないかと思うのですが、その「ごまさんスカイタワー」が実際にどうなのかは、私は、ぜひ一度、見に行ってみたいものだと思いながら、まだ、見に行くことができずにいますので、自分で見たことがないものについては何とも言えません・・・・が、インターネット上の写真で見る限り、あまり、いいとは思えません。
※ 《道の駅 ごまさんスカイタワー》http://www.kkr.mlit.go.jp/road/michi_no_eki/contents/wakayama/gomasanskytower.html
内田康夫の作品では『城崎殺人事件』(2009.7.30. 祥伝社文庫)にも、兵庫県豊岡市の日和山遊園について、≪日本海に突き出した岬の上からの景観が悪い道理はないのだけれど、あまりにも人工的な造形物が多いので、興を削がれる感じなのである。本来、人工的であるはずの城崎の風景より、はるかに人工的だというのは、やはり、いただけない。≫ ≪秋の日差しを受けて輝く海の青や、海岸の緑など、それ自体は目も奪われるほど美しいのだが、そういうものも含めて、何から何まで人間の手を加えないとおかない――という精神に、なんだか食傷しそうだ。≫という批判がある。
※ 《ウィキペディア―日和山海岸》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%92%8C%E5%B1%B1%E6%B5%B7%E5%B2%B8
デザインについてどう思うか感じるかは「人それぞれ」ではあるのです。 私は神奈川県の江の島の上に立つ、サムエル=コッキング苑の「展望灯台」を、鎌倉の七里ガ浜・稲村ケ崎のあたりから江の島の方を見て、あの「灯台」、余計だな、感じ悪いな、嫌だな、なんであんなおかしなもの作ってしまうのだろうな・・・と思ったのです。 ところが、愛知産業大学の建築学科のスクーリングの際、私と比較的感性が共通している方ではないかと思った守屋先生が「私は、展望タワーでいいと思ってものはあんまりない。いいと思ったのは江の島のサムエル=コッキング苑の塔くらい。あれはいいと思う」と言われたので、「ええ~え? あ~れ~があ~あ???」と思ったのです。 まあ、デザインや景観についてどう感じるかは、これは人が2人以上おれば、感じ方が違ったとしても不思議はないわけで、どちらが正しいとか間違っているとかいうことではないとは思います。
しかし、サムエル=コッキング苑の展望塔についての守屋先生の評価を聞いて、私と感じ方が違うひとつの原因として、守屋先生は東大の建築学科を卒業して建築学科の大学院に進んで「建築家」業界に進まれた方で、私は、良きにつけ悪しきにつけ、社会科学系の学部を卒業して、その後、何の因果か「建築屋」業界に勤めたという者であり、一般に、最初から建築学科に進んで「建築家」業界に勤めた人と、そうではなく、社会科学系学部か人文科学系学部に進んで卒業して勤めたという者、特に、人格が「文学者」「哲学者」「詩人」である者とでは、一般的傾向として、後者の方が「自然のまま」の方を高く評価し、前者は「人工的建築物が作られた状態」の方を好む傾向があるのではないか、と感じたのでした。「作家」である内田康夫氏も後者の方の人ではないでしょうか。
パリのエッフェル塔にしても、できたばかりの頃は、パリの景観を壊すと評判が悪かったらしいが、今ではパリの景観のひとつになりました。 パレ=ロワイヤルの中庭のオブジェは、できてすぐは評判が悪くて、撤去すべしと言われたが、撤去費用がなくて撤去されずにいるうちに、そのオブジェをベンチ代わりに使う人がでてきて、オブジェとして考えるのではなく、ベンチ代わりだと思えばいいかあ・・・みたいになって定着したとか。
その場の環境を尊重して、違和感なく建てられた建物としては、前川國男設計の東京都美術館や熊本県立美術館がそうだと思います。東京都美術館は上野公園の一部であり旧寛永寺の敷地であるとして、外に対してはその環境と歴史を尊重した作り方がなされるとともに、美術館占有スペースに入ると、美術館としての雰囲気につつまれる建物です。熊本県立美術館も、その場は熊本城の敷地であり、熊本城が主で美術館が主ではないとして、出しゃばり過ぎない外観となっているけれども、やはり、美術館占有スペースに入ると美術館としての雰囲気が出ている建物で、内部にはいると、屋外の巨木が屋内にも続いているかのようなコンクリートの丸柱が並んでいます。 東京都美術館や熊本県立美術館は、それまでのその場の景観を乱さないように配慮されて作られています。
槇文彦設計の慶應大新日吉図書館はグレー系の色合いで、同じ慶應大三田新図書館はエンジ系の色合い。これは、いずれも周囲の先住建物の色彩との調和を考えて、その色合いが選ばれたものと思われます。 同じ槇文彦の東大本郷キャンパスの法科大学院棟は、東大の先住建物に合わせるということではなく、最近では、建物密度がかつてに比べて過密になってきている本郷キャンパスにおいて、建物が過密である印象を与えないよう(たまたまではなく、そう配慮してのものだと私は考えたのですが)、スケルトンの外観になっています。 これらは、それまでの先住建物との調和を考えて設計されたものと思われます(ということなのだろうと私が思ったのであって、設計者本人に尋ねてみて、そう答えるかどうかは知らんで)。
自然の景観に人工的建築物を加えたことで、高い評価を得ているものとしては、ヨルン=ウッソン設計のオーストラリアのシドニーオペラハウスがあるかと思います。 あれは、シドニー湾という自然の景観もなかなかの場所に、ハーバーブリッジという橋がかかっていた。その橋の脇の岬の先端にシドニーオペラハウスが建てられて、「シドニー湾の自然+ハーバーブリッジ+シドニーオペラハウス」と3つがミックスされて、すばらしい景観になった。 シドニーオペラハウスについては、実際問題として、あれはオペラハウスなのか? そうではなく、シドニー湾を飾るための巨大な彫刻であって、内部はオペラハウスでなくても、国会議事堂でも室内体育競技場でもホテルでもレストランでもパチンコ屋でもストリップ劇場でも何でも良かったのではないのか。 オペラハウスなら、大事なのはそこでオペラが上演される時の音響や居心地の良さで、次に「中」で、「外」はそれ以降のはずなのに、シドニーオペラハウスの場合は、「外」が圧倒的に重視されて議論されているというのはおかしくないか。 あんなオペラハウスあるものか!・・・とも思えるのですが・・・、それはそれといたしまして、「自然環境+先住建造物」にプラスして、それまでより優れた景観を生み出そうとした建築・・として考えると悪くないように思います。自然環境のすばらしさを「損なわないように同化する」のではなく、むしろ、そこに新たなものを加えることで新しい景観を作る、というのが「シドニーオペラハウス」だと考えていいでしょう。
岐阜県高山市のJR「高山」駅は、明治時代の木造駅舎として「高山まちの博物館」でも述べられていた建物でしたが、最近、新しい建物に変りました。高山の街は、駅ができてその周辺が開けたという東京圏や関西圏の郊外の街とは異なり、先に街があって、その西側に高山本線が通って、街の側である東側に駅ができて、既存の街と駅の間が埋まるように街が広がってきたという都市ですから、駅の東側の方が西側より開けているのは当たり前ではあるのですが、西側にも人は住んでいて、今では西側にもいろいろな施設はありますから、西側からも直接駅に出入りできた方がいいし、東側から西側への行き来もできた方がいいということでの建て替えだったのかと思います・・・が、何も考えずに作られた建物ではなく、その街に合うようにと相当考えてデザインされたものとは思うのですが、しかし、やっぱり、前の駅舎を見なれた者としては、機能としてどうかは別として景観としては前の方が良かったような気がしてなりません。高山市では十六銀行高山支店も新しい建物に変りましたが、これも、伝統的な町並みにそうように考えられたデザインだとは思うのですが、やっぱり、前の建物の方がそこに合っていたような感じが私はします。
※ 高山駅については、
[第471回]《新装「高山駅」。周囲の景観との調和を考えた建物だが。及、屋根とは何かわかっていない建築会社について》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_27.html 、
[第561回]《高山駅から飛騨民俗村まで[上]-高山第5回【12/15】高山駅東西の入口。駅西から飛騨の里への導入路 》 参照。
十六銀行高山支店については、
[第470回]《十六銀行 高山支店(高山市)、及、警察官のいない「交番」て、そういうのを交番と言うのでしょうか?》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_26.html 参照。
で、↑の大聖閣ですが、「伝小堀遠州」だか「小堀遠州の流れをくむ庭師による」だかの庭園に、その建物が加わることで、さらに良くなるか、ない方が良かったか・・・・・。 建物だけ見ると、決して悪い建物ではないと思うのですが、庭園と見比べて考えると、さて、どちらなのか・・・・。 判断に迷います。
(2018.4.10.)
次回、
5.「開山堂」。「網引地蔵」。地蔵とは。「戦没者碑」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_5.html
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