城官寺、上中里駅、上中里不動尊・摩利支天。「宗教はアヘン」の意味は―平塚神社【9/15】
[第621回]
[14] 平塚山 城官寺
平塚神社の東のあたりに、城官寺 というお寺があります。↓城官寺HPhttp://www.jokanji.jp/ によると、真言宗豊山派らしく、「平塚山 城官寺」というそうです。

( ↑「旗」マークが城官寺。 地図で見ると、けっこう広い敷地のお寺です。 )
↑表札には「真言宗豊山派 城官寺」、門の額には「平塚山」、左の石碑には「弘法大師」、右の石碑には「都旧跡 多紀桂山一族墓」と書かれています。 城官寺HPの「史跡」http://www.jokanji.jp/historic_sites.html によると、東京都指定文化財 と指定されているそうです。
すぐ隣接しているわけでもなく、名称も「平塚寺」とかいう名前ではないので、「単に近くにあるだけ」かと思っていたら、《ウィキペディア―城官寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E5%AE%98%E5%AF%BA によると、
≪ 当寺院は昔筑紫(現在の福岡県)の安楽寺の僧侶が諸国巡礼の折、当寺に宿泊したことに始まる。その際に阿弥陀如来像を置き安楽院と称した寺院を創建した。当初はその関係から浄土宗の寺であった。
その後、江戸時代になり、山川貞久(城官)という江戸幕府に仕えていた鍼灸師がいた。ある時、三代将軍徳川家光が病で倒れた時、山川貞久は、豊島郡の平塚明神(現在城官寺に隣接してある平塚神社)に治癒を日夜祈っていた。家光の病気は治癒し、山川貞久は私財を投じて平塚明神を再建、さらに寛永11年(1634年)には平塚神社の別当して、当寺院を再興し真言宗の寺院とした。
寛永17年(1640年)徳川家光が鷹狩りの際、当地を訪問。その際に平塚神社を見て、その豪華さに当神社は誰が造営したのかと村長に尋ねたところ、家光が病床の際に山川貞久が平塚神社に日々祈願し、治癒した事に感謝してここまでにしたと言ったと言われている。
それを聞いた家光は感激し山川貞久を呼び出して、平塚神社と当寺院の社領として50石、さらに山川貞久に知行地として200石を与え、寺号を平塚山城官寺安楽院とするように命じたとされている。
それ以来、格式ある寺院として知られるようになった。明治時代になり、神仏分離令により平塚神社と切り離され、現在に至っている。 ≫
と出ており、かつて、平塚神社の別当であったことがある寺らしい。
[15] JR「上中里」駅 と 蝉坂
京浜東北線は、初めは「田端」駅の次は「王子」駅で、「上中里」駅は後からできたらしい。後からできたと言っても、《ウィキペディア―上中里駅》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%B8%AD%E9%87%8C%E9%A7%85 によると、≪ 1933年(昭和8年)7月1日 - 鉄道省の駅として開業。 ≫と、1931年の満州事変の2年後の開業ですから、けっこう古くからあります・・・が、後からできた駅だけあって、崖地の下側を電車が走っていて高架に改札口があって、崖の高い側には改札口からそのままの高さで出れるものの、低い側には高架橋で線路を渡って階段かエレベーターで降りるようになっており、平塚神社や西ヶ原方面に行くには出た後、蝉坂という坂を登らないといけないし、平塚神社や西ヶ原方面には駅前に広い平地はなく、駅周辺が大きく開けて行く立地ではありません。 「浅見光彦シリーズ」では、浅見光彦が自宅で話をしたくないという時、平塚神社の脇の平塚亭で話す場面がしばしば出てきますが、それは、ひとつには上中里駅付近に喫茶店とかがあんまりないからではないでしょうか。
↑ の写真で奥に見える高架は東北新幹線ですが、東北本線はこのあたりでは、上中里の東側、尾久操車場(「田端機関区」)の東の尾久駅を経由しますが、新幹線の方は京浜東北線に沿って走っているようです。
JR京浜東北線「上中里」駅を降りて平塚神社の方、本郷通りの方に進む坂を、内田康夫は『金沢殺人事件』では「ダラダラ坂」と書いているが、現地の説明書きでは「蝉坂」と言うと書かれている。↓
内田康夫『萩殺人事件』(2012.光文社 2015.光文社文庫)の「エピローグ」には、
≪ 京浜東北線の上中里駅を出て、切り通しのような坂道を上って行く。道の両側は切り立った崖で、右手の高台の上に平塚神社という、詳しいことは知らないが、源義家ゆかりの神社がある。広い境内には樹齢二百年というイチョウやケヤキが鬱蒼と生い茂る。≫
とあるが、たしかに、「切り通しのような坂道」で「道の両側は切り立った崖」である。
[16] 「上中里 西方不動尊」「摩利支天」 「上中里 七福神」
平塚神社訪問は、初回は、JR「上中里」駅からではなく東京メトロ「西ヶ原」駅から行くことをお勧めしたい理由は、なんと言っても、神社にしろ寺にしろ、正門から入るべきで、世の中何が嫌いと言うて裏口入学ほど嫌いなものはない!・・・ということが第一なのですが、それとともにもうひとつ。 上中里駅で降りて蝉坂を登りかけると、右手、平塚神社の側に、お寺か神社かみたいな幟が立っている所があって、これが平塚神社か? ・・・とか誤解しそうになる所がある、という点もあります。

↑ 幟には、「上中里西方不動尊」 「摩利支天」と手前の2つには書かれています。 右後ろの幟は「上中里・・・」で、おそらく、「上中里七福神」ではないかと思うのですが、写真でははっきり見えません。
・・・それにしても、青木愛 てのは何年経っても、ポスターの写真は歳いかないな・・・・。実際の年齢はもう50過ぎてんだよねえ・・・・・。
↑ (左) 摩利支天
≪ 疾走する猪の背に立つ像は摩利支天だけである。
陽炎や光線を神格化したもので三面六手で猪に乗り真言をとなえて念ずれば一切の厄難をまぬかれることができるといわれ武士に信仰された仏像である。
台石には、御嶽行心講(みたけぎょうしんこう)とある。
亥の年は、吉兆、金運、良縁がかけこむといわれ、 亥はあらゆる難を除き運を開く摩利支天の神力を表す使者とされている。
・・・・ ≫
と現地での説明書きに書かれている。
(右)上中里不動尊(上中里西方不動尊)
≪ この付近には瀧があり行場になっていて、この不動明王像が置かれていたと思われる。 この仏像はあらゆる悪をこらしめることを目的にしているので、憤怒形(ふんぬがた)という怒り狂った恐ろしい形相をしておりますが、実はその内面では慈しみがふかいという。大日如来が変身された姿であるとか、その使者であるとかいわれる。手数料いる。
背中に火炎があり、これが煩悩を焼き尽くし頭から左肩へ髪をたらし、羂索(けんさく)と刀を持ち、岩の上に腰かけている。
台石には享保二十年(1735年)の銘がある。
鉄道工事や道路拡張に伴ってたびたび移転されここに置かれたのは昭和2年(1927年)のことである。
・・・・ ≫
京浜東北線の線路を境に崖地になっていて、それより南西側が「山手」、北東側が「下町」と地形がはっきりと分かれているのだが、≪瀧があり≫ということなら、ここは崖より上側だが、瀧があったのは地形から考えて崖より下側ではないのか・・とか思ったりもするのだが、今となっては、わからないか・・・。
↑ 「上中里七福神」
↑ 左は小槌と背中に袋をかかえて、下は米俵だろうか。 右はよく見ると左腕に魚を抱えているように見えるので、左が大黒さん、右が恵比寿さんか・・。
七福神と大黒・恵比寿は比較的新しく作られた感じだが、摩利支天と上中里西方不動尊はけっこう古くから感がある・・・。 昔からあったのは不動尊だろう。 この地域の地形を考えると、京浜東北線より南西側の高い地域と北東側の低い地域との間の崖部分の下側あたりに、上から水が流れ落ちる「瀧」があって修行場になり不動尊が祀ったられた・・・というのは、「ありそう」という感じがするのだが、今現在は崖の上側にある。
城官寺は、かつて、平塚山城官寺というように、平塚神社の別当であった時期があるらしいが、上中里不動尊は、こちらは、平塚不動尊ではなく上中里不動尊であり、ルーツは別のようだ。 「西方」がどういう意味なのかはよくわからない。
【1/12】https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_3.html で述べた父の「親友」の医者屋のM川は、「『宗教はアヘンである』とマルクスが言うておる」と言って、大学進学時、宗教哲学の研究者になろうかと考えていた私にそれを妨害した。 M川は、おのれは「患者」を薬漬け・検査漬けなどして苦しめてカネをせしめて、その結果、「親の因果が子に報いた」ことでバカ息子は高校も大学も裏口入学しなければ行ける学校はなかったようで、それを「思考が柔軟やから裏口入学なんじゃ」と自慢していたのだが、裏口入学を自慢する人間が、なぜ、マルクス、マルクス言うのか、そのあたりがどうもよくわからん。
「宗教はアヘンである」という「カール=マルクスが言った」と言われている言葉は相当誤解されているところがある。 日本共産党宗教委員だった蔵原惟人氏の『宗教・その起原と役割』(1978.5.25.新日本新書)は、そのあたりを実によく説明されている。
1. カール=マルクスは「宗教はアヘンである」という表現を使ったことがあるのかというと、『ヘーゲル法哲学批判序説』の中で1回だけ、この表現を使用している。他の著作の中では使用していない。何度も繰り返し使用しているというわけではない。エンゲルスはこの表現を使用したことはない。レーニンもこの表現を使用したことはない。
さいとう たかを『ゴルゴ13』「新法王の条件」(「ビッグコミック」1999年8、9号。 『ゴルゴ13 KINDNESS AND WAR』2017.5.11.小学館 My First GIG 所収)では、「レーニンが言ったように・・・ 宗教はアヘンですからな・・・」とある中国人が言う場面があるが、レーニンは「宗教はアヘン」という表現を使ったことはない。さいとう たかを の誤解である。
2. 「宗教はアヘンである」という表現はマルクスが最初に使った言葉なのか、マルクスだけが使った表現なのかというと、マルクスが最初に使った表現ではないようである。「宗教はアヘンである」という表現はマルクスが生きた時代のドイツで比較的よく使われていた表現らしく、わかっているだけでも詩人のハイネ、哲学者のヘーゲルなどがこの表現を使っている。「宗教はアヘンである」という表現を「マルクスが言うておる」というように言う人がいるのだが、「宗教はアヘンである」という表現を最初に使ったのは誰かはわからないようだが、マルクスではないようだ。
3. この言葉の意味であるが、「アヘン」という言葉には、「毒薬」という意味と「なぐさめ」という意味の二通りの意味がある。宗教には中には毒薬のような宗教もあるけれども、マルクスは毒薬のような宗教を批判する時には「宗教はアヘンである」という表現は使用していない。 マルクスはキリスト教やユダヤ教などの宗教を念頭において「宗教はアヘンである」という表現を使っているが、その場合には、マルクスは「アヘン」という言葉を「なぐさめ」という意味で使用している。「宗教は貧しい人たちにとってのなぐさめである」という意味で使っている。決して「毒薬」という意味では使っていない。「宗教は貧しい人たちにとってのなぐさめである。しかし、それは幻想であり、誰もが現実の世の中において生きた幸福の果実をつかむことができるようになれば、なぐさめとしての宗教は必要なくなっていくであろう。しかし、なぐさめを必要としない社会を築くことなくなぐさめだけをとりあげるようなことは決しておこなってはならないことである」と。
だから、父などはその「親友」で医者屋のM川から「『宗教はアヘンである』とマルクスは言うてお~る」と吹き込まれて、大喜びして「『宗教はアヘンであ~る』とマルクスは言うてお~る。焼~き討ちじゃあ! 焼き討ちじゃあ~あ! とってちってたあか~あ!」と叫んでいたのだが、マルクスはそんな意味でこの言葉を使っていない。
4. 又、『ゴルゴ13』で、ある中国人の「要人」が「『宗教はアヘン』とレーニンが言ってくれたおかげで」と発言する場面があったが、レーニンは「宗教はアヘンである」という表現を使ったことはない。但し、レーニンは宗教批判が相当厳しかったようだが、それはロシアにおいては他の国よりも宗教と政治の結びつきが強かったことによる。かつ、レーニンも晩年、「人類の貴重な遺産を尊重せよ」と宗教のプラスの面も述べているようである。
5. 高神覚昇『般若心経講義』(角川文庫)で曹洞宗の高神覚昇氏は、「宗教はアヘンである」とマルクスが言った時、その場合の宗教とは、キリスト教やユダヤ教のような宗教を想定して言ったもので、仏教のような宗教を想定して言ったものではないと思われると述べているが、私もそう思う。
そして、何より、
6. マルクスさんであれ何さんであれ、誰かが何かを言ったとしても、その人が言うことがもっともだと思えばその人の考え方を採用すればいいが、自分がその人の言うことをもっともだと思わなかったならば、何さんの言うことであれその主張を採用しなければならないことはないはずである。筋合いはない。たとえ、「有名人」の言うことであれ「ビッグネーム」の言うことであれ、「巨人哲学者」であれ「巨人経済学者」であれ、別にその人の主張に従わなければならない筋合いはないはずなのだ。
7. そして、何よりも、医者屋のM川は「『宗教はアヘンである』とマルクスは言うておる」とかひとに言って、ひとの大学進学を妨げいようとするわけだが、おのれのドバカ息子は「親の因果が子に報いた」結果として、まともに行ける大学なくなって「患者」を薬漬け・検査漬け等して苦しめたカネで裏口入学させておいて、マルクスもへちまもあったものじゃない。とりあえず、その「患者」を薬漬け・検査漬け等してせしめたカネでドバカ息子を裏口入学させるというのやめたらどうなのか。マルクスがどうとか言うのはそれからにしてはどうか。
8. それから、宗教学・宗教哲学というのは、ともかく、「宗教」と名前がつくものなら、一生懸命、礼賛しようというのが宗教学・宗教哲学ではない。宗教批判もまた宗教学・宗教哲学である。「宗教はアヘンである」のかないのかという議論もまた宗教学であるはずだ。
9. むしろ、「医者なんかは、普通の人間とはちごうてもんのすごい勉強しとるからなあ。そういうわしみたいな特別にえらい医者の言うことは何でもきくようにせんといかん」とか勝手なことを言って、「患者」・「患者の家族」を精神支配(マインドコントロール)して新興宗教の教祖になろうとするような医者屋の方こそ、毒薬の宗教であると判断するべきであろう。 ニューヨーク州立シラキュース大学「精神科」教授トマス=サズの『「精神医学」という神話』(岩崎学術出版社)には「彼らが言っていることを聞くのではなく、彼らがやっていることを見るべきだ」というアインシュタインの言葉が引用されていますが、この言葉の基準で考えると、むしろ、医者屋のM川がやっていることの方が「宗教」であり、それも、レーニンが晩年に「人類の貴重な遺産を尊重せよ」と言ったという宗教のプラスの部分ではなく、相当悪質な宗教、「毒薬」の宗教だと判断すべきです。
私が裏口入学させる人間が嫌いなのは、ひとつには、このM川などは、自分が裏口入学をするだけではなく、他方において、裏口入学などしなくても普通に進学できる小学校から真面目に勉強してきた人間の足を引っ張って行けるものを行けなくしてやろうとするところである。
10. 裏口入学の方が正統だという思想を持っている人というのは、真面目に努力して正規の入試に合格して入ろうとする者の方を不当なことをしている人間と看做して攻撃することがしばしばあります。 裏口入学大好き人間には、旧帝大系国立大学に実力で進学しようとする人間に対して、裏口入学するような人間を「庶民」と称し、「庶民的なんじゃ」とか主張する者がいるのだが、なぜ、「患者」を薬漬け・検査漬けにしてせしめたカネで裏口入学する者が「庶民」なのか、さっぱりわかりまへんなあ。
11. こういうことを言うとM川は「そ~のあたりが、きみは思考が硬いんじゃあ」とか言うと思うが、「思考が柔軟」というのは、「患者」を薬漬け・検査漬けにしたカネでドバカ息子を私立金権関西医大http://www.kmu.ac.jp/ なんぞに行く人間のことを言うものではないと私は思うな。そんなに「思考が柔軟」ならその「柔軟な思考力」を生かして、京都大学医学部でも東京大学理科三類でもさっさと現役で実力で通ればいいことと違うのか? なぜ、私立金権関西医大などというどこの馬の骨かわからん学校に裏口入学なんぞしなければならないのか?
12. イタリアの映画『イル・ポスティーノ』では、郵便配達人の男が結婚するに際し、チリから亡命中の共産主義者パブロ=ネルーダの仲介人の役をやってもらおうとするが、キリスト教の司祭は「共産主義者は神を信じていないからだめだ」と断ろうとするが、その目の前で、パブロ=ネルーダは祭壇の前に跪き神に祈りを捧げる、という場面がある。
13. ≪ 歴史上、キリスト教は一方では支配者の階級支配の論理となり、他方では被抑圧者の反抗の論理となるという二面性をもっている。この二面性は、キリスト教の成立に画期的な役割を果たしたパウロに認められる。彼は一方では、支配者への服従をときながら、他方では、民族差別と階級差別を否定し、神の愛の前ではすべての人は平等であるとした。前者の服従の論理は、中世カトリック教会へ、後者の差別の否定の論理はワット・タイラーの乱などにみられるように農民一揆へと摂取されていった。≫(学習資料「世界史」編集委員会編『学習資料 世界史』1974.4.1. ほるぷ総連合 ) M川は、宗教は服従の論理だと片方で言い、他方で革命の論理じゃないかとして両方の意味で否定し、そして、「医者みたいなえらいエライ人間には何でも言うことをきかんといかん」とかそういったことを言って自分に服従させようという実質宗教の教祖になって人を精神支配しようとしたのだが、代表的な宗教のひとつであるキリスト教は、一方において、≪すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。したがって、権威に逆らうものは、自分の身にさばきを招くことになる。いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖ではなく、悪事をする者にこそ恐怖である。≫(『新約聖書 ローマ人への手紙』)という支配者の論理、体制側の論理があるとともに、他方において、「アダムが耕し、イブが紡いでいた時、いったい誰が大地主であるったか」(ジョン=ボール)というワット=タイラーの乱の論理にもなるものである。そもそも、宗教は支配の論理・体制迎合の論理を強めるものなのか、そうではなく、反逆の論理、革命の論理になりうるものなのか、といったことを検討・吟味すること自体が「宗教学」である。
※ 《ウィキペディア―ジョン・ボール》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
数学者で教育論者の遠山啓は『教育問答 かけがえのないこの自分』(太郎次郎社)で、父親とは外敵から守ってくれる存在であるなどと書いていたが、そういう父親もあるのかもしれないけれども、そうではなく、外敵を引っ張り込んでくる父親、外敵をかき集めてくる父親というのもいる。
カール=マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』(『ユダヤ人問題によせて・ヘーゲル法哲学批判序説』城塚登訳 岩波文庫 所収)には、
≪ 宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非常な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である。
民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるよう要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求することである。したがって、宗教への批判は、宗教を後光とするこの涙の谷〔現世〕への批判の萌しをはらんでいる。
批判は鎖にまつわりついていた想像上の花々をむしりとってしまったが、それは人間が夢も慰めもない鎖を身にになうためではなく、むしろ鎖を振り捨てて活きた花を摘むためであった。宗教への批判は人間の迷夢を破るが、それは人間が迷夢から醒めた分別をもった人間らしく思考し行動し、自分の現実を形成するためであり、人間が自分自身を中心として、したがってまた自分の現実の太陽を中心として動くためである。宗教は、人間が自分自身を中心として動くことをしないあいだ、人間のまわりを動く幻想太陽にすぎない。・・・ ≫
と書かれている。 「『宗教はアヘンであ~る』とマルクスは言うてお~る。焼~き討ちじゃあ。焼~き討ちじゃあ~あ。とってちってたあ~あ!!!」とか言うのが好きな人は、とりあえず、マルクスがそういう内容のことを言っているかいないか、自分自身で、カール=マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』を読んで考えてみるべきであると思う・・・・が、そういう焼き討ち織田信長大好き人間というのは、たいてい、読まないんだわ・・・・。
寺でも神社でも、初回、行きについては「裏口」からではなく正門から入りたいと考えているが、帰りについては、帰りはどちらから帰ってもそれはいいのではないかと考える。 登山について書いた本で、「ピストン登山はつまらない」という記述を読んだことがある。できるだけ、「頂上まで行って帰って」というルートではなく、別ルートで帰った方がおもしろいという主張なのだが、登山に関しては、たとえ、「ピストン登山」であっても、登りの際に見えるものと降りの際に見えるものは違うのでそれほど悪くはないと思うのだが、どこかに訪問した際には、たとえば、最寄駅が2つあったなら、別の駅から帰りは帰るという方がおもしろいところはある。 学校についても、例えばの話だが、大学でも正規に入学試験を受けて合格して入学した人間が、卒業する際に、なんか、この科目危なそう・・・という時、教授先生にお願いして・・・も、お願いすればそれだけで単位をもらえるというものでもないとしても、教授先生も人の子、その科目だけで卒業できるか否かが変るとなると、ぎりぎり合格か不合格かの境目・・なんて時には、本当は不合格なんだけどなあと思っても、ぎりぎりの場合は、「もう、いいにしておけ」と合格にしてくれる・・なんてこともないとはいえないわけで、職場で何人かと話をすると、「ちょっと、先生がおまけしてくれたらみたい」なんて話を聞くことはある。できれば、堂々とそういうこともなく卒業した方がいいのかもしれないけれども、そうであっても、これは裏口入学とはまた別だと思うのだ。だから、私は、神社でも寺でも、出る方については、どこから入るかと違って、どこから出るかはそれほどはこだわらないことにしている。
次回、旧古河庭園、その後、滝野川小学校周辺・・・
(2018.7.14.)
☆ 平塚神社・平塚天神社と浅見光彦
1.裏口は嫌い。西ケ原駅 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_3.html
2.国立印刷局、滝野川警察署、七社神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_4.html
3.花森東京病院、滝野川公園、地震の科学館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_5.html
4.平塚神社全景、門柱、平塚亭 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_6.html
5.平塚神社参道、社殿、蝉坂からの階段と社務所 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_7.html
6.ユニークな狛犬、扇に日の丸の紋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_8.html
7.社殿の裏の岡。猫の死骸を「かわいそう」と思うか「気持ち悪い」と思うか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_9.html
8.菅原神社(平塚天神社)、大門先・元稲荷神社、御料稲荷神社、石室神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_10.html
9.城官寺、上中里駅、蝉坂、上中里不動尊、摩利支天 〔今回〕
10.旧古河庭園(1)洋館、つつじ園 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_12.html
11.(2)心字池、雪見灯篭、石橋、兜門、染井門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_13.html
12.(3)茶室、黒ボク石積、崩石積、書庫 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_14.html
13.滝野川小学校、「御子柴邸」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_15.html
14.滝野川会館。「一里塚」バス停から「上中里」駅まで https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_16.html
15.上中里駅陸橋、尾久操車場・田端機関区、銭湯 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_17.html
≪ 「訴え出人、多岐川萌子さんの言うところによればだね、あんた、以前からだいぶしつこく彼女につきまとっていたそうじゃないの」
せいぜい浅見と同じ程度の年輩なのに、西本警部補は年寄じみた声を出す。それは言わば、刑事に共通した、独特の″尋問調″とでも言うべきものだ。 被疑者にナメられまいとする意識が、警察の歴史の中で積み重ねられ、磨かれ(?)、捜査技術のひとつとして定着した。
「つきまとったりはしていません」
「していませんて、多岐川さんはあんたに恐喝されたと言ってるよ」
「とんでもない、恐喝なんてしてませんよ。そのことは刑事さんだってご存じじゃありませんか」
「そうかね、見ようによっちゃ、恐喝と受け取れないこともないよ。俺と宮井君――もうひとりの刑事(デカ)だがね――二人が口を揃えて恐喝行為があったとすりゃ、立派に送検できるんだ」
「まさか、そんなことをすれば、逆に誣告罪で告訴しますよ」
「生意気言うな!」
西本警部補は怒鳴った。怒鳴ることもテクニックのひとつと心得ている。それが証拠につぎの瞬間は笑顔をつくって、「あんたには犯意はなかったかもしれんがね、訴え出人に恐喝されたと感じさせたんだから、充分、容疑の対象になるんだよ」と、上目遣いに浅見の反応をうかがう。・・・・ ≫
( 内田康夫『平家伝説殺人事件』1985.6.10.角川文庫 ↑)
[14] 平塚山 城官寺
平塚神社の東のあたりに、城官寺 というお寺があります。↓城官寺HPhttp://www.jokanji.jp/ によると、真言宗豊山派らしく、「平塚山 城官寺」というそうです。
( ↑「旗」マークが城官寺。 地図で見ると、けっこう広い敷地のお寺です。 )
↑表札には「真言宗豊山派 城官寺」、門の額には「平塚山」、左の石碑には「弘法大師」、右の石碑には「都旧跡 多紀桂山一族墓」と書かれています。 城官寺HPの「史跡」http://www.jokanji.jp/historic_sites.html によると、東京都指定文化財 と指定されているそうです。
すぐ隣接しているわけでもなく、名称も「平塚寺」とかいう名前ではないので、「単に近くにあるだけ」かと思っていたら、《ウィキペディア―城官寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E5%AE%98%E5%AF%BA によると、
≪ 当寺院は昔筑紫(現在の福岡県)の安楽寺の僧侶が諸国巡礼の折、当寺に宿泊したことに始まる。その際に阿弥陀如来像を置き安楽院と称した寺院を創建した。当初はその関係から浄土宗の寺であった。
その後、江戸時代になり、山川貞久(城官)という江戸幕府に仕えていた鍼灸師がいた。ある時、三代将軍徳川家光が病で倒れた時、山川貞久は、豊島郡の平塚明神(現在城官寺に隣接してある平塚神社)に治癒を日夜祈っていた。家光の病気は治癒し、山川貞久は私財を投じて平塚明神を再建、さらに寛永11年(1634年)には平塚神社の別当して、当寺院を再興し真言宗の寺院とした。
寛永17年(1640年)徳川家光が鷹狩りの際、当地を訪問。その際に平塚神社を見て、その豪華さに当神社は誰が造営したのかと村長に尋ねたところ、家光が病床の際に山川貞久が平塚神社に日々祈願し、治癒した事に感謝してここまでにしたと言ったと言われている。
それを聞いた家光は感激し山川貞久を呼び出して、平塚神社と当寺院の社領として50石、さらに山川貞久に知行地として200石を与え、寺号を平塚山城官寺安楽院とするように命じたとされている。
それ以来、格式ある寺院として知られるようになった。明治時代になり、神仏分離令により平塚神社と切り離され、現在に至っている。 ≫
と出ており、かつて、平塚神社の別当であったことがある寺らしい。
[15] JR「上中里」駅 と 蝉坂
京浜東北線は、初めは「田端」駅の次は「王子」駅で、「上中里」駅は後からできたらしい。後からできたと言っても、《ウィキペディア―上中里駅》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%B8%AD%E9%87%8C%E9%A7%85 によると、≪ 1933年(昭和8年)7月1日 - 鉄道省の駅として開業。 ≫と、1931年の満州事変の2年後の開業ですから、けっこう古くからあります・・・が、後からできた駅だけあって、崖地の下側を電車が走っていて高架に改札口があって、崖の高い側には改札口からそのままの高さで出れるものの、低い側には高架橋で線路を渡って階段かエレベーターで降りるようになっており、平塚神社や西ヶ原方面に行くには出た後、蝉坂という坂を登らないといけないし、平塚神社や西ヶ原方面には駅前に広い平地はなく、駅周辺が大きく開けて行く立地ではありません。 「浅見光彦シリーズ」では、浅見光彦が自宅で話をしたくないという時、平塚神社の脇の平塚亭で話す場面がしばしば出てきますが、それは、ひとつには上中里駅付近に喫茶店とかがあんまりないからではないでしょうか。
↑ の写真で奥に見える高架は東北新幹線ですが、東北本線はこのあたりでは、上中里の東側、尾久操車場(「田端機関区」)の東の尾久駅を経由しますが、新幹線の方は京浜東北線に沿って走っているようです。
JR京浜東北線「上中里」駅を降りて平塚神社の方、本郷通りの方に進む坂を、内田康夫は『金沢殺人事件』では「ダラダラ坂」と書いているが、現地の説明書きでは「蝉坂」と言うと書かれている。↓
内田康夫『萩殺人事件』(2012.光文社 2015.光文社文庫)の「エピローグ」には、
≪ 京浜東北線の上中里駅を出て、切り通しのような坂道を上って行く。道の両側は切り立った崖で、右手の高台の上に平塚神社という、詳しいことは知らないが、源義家ゆかりの神社がある。広い境内には樹齢二百年というイチョウやケヤキが鬱蒼と生い茂る。≫
とあるが、たしかに、「切り通しのような坂道」で「道の両側は切り立った崖」である。
[16] 「上中里 西方不動尊」「摩利支天」 「上中里 七福神」
平塚神社訪問は、初回は、JR「上中里」駅からではなく東京メトロ「西ヶ原」駅から行くことをお勧めしたい理由は、なんと言っても、神社にしろ寺にしろ、正門から入るべきで、世の中何が嫌いと言うて裏口入学ほど嫌いなものはない!・・・ということが第一なのですが、それとともにもうひとつ。 上中里駅で降りて蝉坂を登りかけると、右手、平塚神社の側に、お寺か神社かみたいな幟が立っている所があって、これが平塚神社か? ・・・とか誤解しそうになる所がある、という点もあります。
↑ 幟には、「上中里西方不動尊」 「摩利支天」と手前の2つには書かれています。 右後ろの幟は「上中里・・・」で、おそらく、「上中里七福神」ではないかと思うのですが、写真でははっきり見えません。
・・・それにしても、青木愛 てのは何年経っても、ポスターの写真は歳いかないな・・・・。実際の年齢はもう50過ぎてんだよねえ・・・・・。
↑ (左) 摩利支天
≪ 疾走する猪の背に立つ像は摩利支天だけである。
陽炎や光線を神格化したもので三面六手で猪に乗り真言をとなえて念ずれば一切の厄難をまぬかれることができるといわれ武士に信仰された仏像である。
台石には、御嶽行心講(みたけぎょうしんこう)とある。
亥の年は、吉兆、金運、良縁がかけこむといわれ、 亥はあらゆる難を除き運を開く摩利支天の神力を表す使者とされている。
・・・・ ≫
と現地での説明書きに書かれている。
(右)上中里不動尊(上中里西方不動尊)
≪ この付近には瀧があり行場になっていて、この不動明王像が置かれていたと思われる。 この仏像はあらゆる悪をこらしめることを目的にしているので、憤怒形(ふんぬがた)という怒り狂った恐ろしい形相をしておりますが、実はその内面では慈しみがふかいという。大日如来が変身された姿であるとか、その使者であるとかいわれる。手数料いる。
背中に火炎があり、これが煩悩を焼き尽くし頭から左肩へ髪をたらし、羂索(けんさく)と刀を持ち、岩の上に腰かけている。
台石には享保二十年(1735年)の銘がある。
鉄道工事や道路拡張に伴ってたびたび移転されここに置かれたのは昭和2年(1927年)のことである。
・・・・ ≫
京浜東北線の線路を境に崖地になっていて、それより南西側が「山手」、北東側が「下町」と地形がはっきりと分かれているのだが、≪瀧があり≫ということなら、ここは崖より上側だが、瀧があったのは地形から考えて崖より下側ではないのか・・とか思ったりもするのだが、今となっては、わからないか・・・。
↑ 「上中里七福神」
↑ 左は小槌と背中に袋をかかえて、下は米俵だろうか。 右はよく見ると左腕に魚を抱えているように見えるので、左が大黒さん、右が恵比寿さんか・・。
七福神と大黒・恵比寿は比較的新しく作られた感じだが、摩利支天と上中里西方不動尊はけっこう古くから感がある・・・。 昔からあったのは不動尊だろう。 この地域の地形を考えると、京浜東北線より南西側の高い地域と北東側の低い地域との間の崖部分の下側あたりに、上から水が流れ落ちる「瀧」があって修行場になり不動尊が祀ったられた・・・というのは、「ありそう」という感じがするのだが、今現在は崖の上側にある。
城官寺は、かつて、平塚山城官寺というように、平塚神社の別当であった時期があるらしいが、上中里不動尊は、こちらは、平塚不動尊ではなく上中里不動尊であり、ルーツは別のようだ。 「西方」がどういう意味なのかはよくわからない。
【1/12】https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_3.html で述べた父の「親友」の医者屋のM川は、「『宗教はアヘンである』とマルクスが言うておる」と言って、大学進学時、宗教哲学の研究者になろうかと考えていた私にそれを妨害した。 M川は、おのれは「患者」を薬漬け・検査漬けなどして苦しめてカネをせしめて、その結果、「親の因果が子に報いた」ことでバカ息子は高校も大学も裏口入学しなければ行ける学校はなかったようで、それを「思考が柔軟やから裏口入学なんじゃ」と自慢していたのだが、裏口入学を自慢する人間が、なぜ、マルクス、マルクス言うのか、そのあたりがどうもよくわからん。
「宗教はアヘンである」という「カール=マルクスが言った」と言われている言葉は相当誤解されているところがある。 日本共産党宗教委員だった蔵原惟人氏の『宗教・その起原と役割』(1978.5.25.新日本新書)は、そのあたりを実によく説明されている。
1. カール=マルクスは「宗教はアヘンである」という表現を使ったことがあるのかというと、『ヘーゲル法哲学批判序説』の中で1回だけ、この表現を使用している。他の著作の中では使用していない。何度も繰り返し使用しているというわけではない。エンゲルスはこの表現を使用したことはない。レーニンもこの表現を使用したことはない。
さいとう たかを『ゴルゴ13』「新法王の条件」(「ビッグコミック」1999年8、9号。 『ゴルゴ13 KINDNESS AND WAR』2017.5.11.小学館 My First GIG 所収)では、「レーニンが言ったように・・・ 宗教はアヘンですからな・・・」とある中国人が言う場面があるが、レーニンは「宗教はアヘン」という表現を使ったことはない。さいとう たかを の誤解である。
2. 「宗教はアヘンである」という表現はマルクスが最初に使った言葉なのか、マルクスだけが使った表現なのかというと、マルクスが最初に使った表現ではないようである。「宗教はアヘンである」という表現はマルクスが生きた時代のドイツで比較的よく使われていた表現らしく、わかっているだけでも詩人のハイネ、哲学者のヘーゲルなどがこの表現を使っている。「宗教はアヘンである」という表現を「マルクスが言うておる」というように言う人がいるのだが、「宗教はアヘンである」という表現を最初に使ったのは誰かはわからないようだが、マルクスではないようだ。
3. この言葉の意味であるが、「アヘン」という言葉には、「毒薬」という意味と「なぐさめ」という意味の二通りの意味がある。宗教には中には毒薬のような宗教もあるけれども、マルクスは毒薬のような宗教を批判する時には「宗教はアヘンである」という表現は使用していない。 マルクスはキリスト教やユダヤ教などの宗教を念頭において「宗教はアヘンである」という表現を使っているが、その場合には、マルクスは「アヘン」という言葉を「なぐさめ」という意味で使用している。「宗教は貧しい人たちにとってのなぐさめである」という意味で使っている。決して「毒薬」という意味では使っていない。「宗教は貧しい人たちにとってのなぐさめである。しかし、それは幻想であり、誰もが現実の世の中において生きた幸福の果実をつかむことができるようになれば、なぐさめとしての宗教は必要なくなっていくであろう。しかし、なぐさめを必要としない社会を築くことなくなぐさめだけをとりあげるようなことは決しておこなってはならないことである」と。
だから、父などはその「親友」で医者屋のM川から「『宗教はアヘンである』とマルクスは言うてお~る」と吹き込まれて、大喜びして「『宗教はアヘンであ~る』とマルクスは言うてお~る。焼~き討ちじゃあ! 焼き討ちじゃあ~あ! とってちってたあか~あ!」と叫んでいたのだが、マルクスはそんな意味でこの言葉を使っていない。
4. 又、『ゴルゴ13』で、ある中国人の「要人」が「『宗教はアヘン』とレーニンが言ってくれたおかげで」と発言する場面があったが、レーニンは「宗教はアヘンである」という表現を使ったことはない。但し、レーニンは宗教批判が相当厳しかったようだが、それはロシアにおいては他の国よりも宗教と政治の結びつきが強かったことによる。かつ、レーニンも晩年、「人類の貴重な遺産を尊重せよ」と宗教のプラスの面も述べているようである。
5. 高神覚昇『般若心経講義』(角川文庫)で曹洞宗の高神覚昇氏は、「宗教はアヘンである」とマルクスが言った時、その場合の宗教とは、キリスト教やユダヤ教のような宗教を想定して言ったもので、仏教のような宗教を想定して言ったものではないと思われると述べているが、私もそう思う。
そして、何より、
6. マルクスさんであれ何さんであれ、誰かが何かを言ったとしても、その人が言うことがもっともだと思えばその人の考え方を採用すればいいが、自分がその人の言うことをもっともだと思わなかったならば、何さんの言うことであれその主張を採用しなければならないことはないはずである。筋合いはない。たとえ、「有名人」の言うことであれ「ビッグネーム」の言うことであれ、「巨人哲学者」であれ「巨人経済学者」であれ、別にその人の主張に従わなければならない筋合いはないはずなのだ。
7. そして、何よりも、医者屋のM川は「『宗教はアヘンである』とマルクスは言うておる」とかひとに言って、ひとの大学進学を妨げいようとするわけだが、おのれのドバカ息子は「親の因果が子に報いた」結果として、まともに行ける大学なくなって「患者」を薬漬け・検査漬け等して苦しめたカネで裏口入学させておいて、マルクスもへちまもあったものじゃない。とりあえず、その「患者」を薬漬け・検査漬け等してせしめたカネでドバカ息子を裏口入学させるというのやめたらどうなのか。マルクスがどうとか言うのはそれからにしてはどうか。
8. それから、宗教学・宗教哲学というのは、ともかく、「宗教」と名前がつくものなら、一生懸命、礼賛しようというのが宗教学・宗教哲学ではない。宗教批判もまた宗教学・宗教哲学である。「宗教はアヘンである」のかないのかという議論もまた宗教学であるはずだ。
9. むしろ、「医者なんかは、普通の人間とはちごうてもんのすごい勉強しとるからなあ。そういうわしみたいな特別にえらい医者の言うことは何でもきくようにせんといかん」とか勝手なことを言って、「患者」・「患者の家族」を精神支配(マインドコントロール)して新興宗教の教祖になろうとするような医者屋の方こそ、毒薬の宗教であると判断するべきであろう。 ニューヨーク州立シラキュース大学「精神科」教授トマス=サズの『「精神医学」という神話』(岩崎学術出版社)には「彼らが言っていることを聞くのではなく、彼らがやっていることを見るべきだ」というアインシュタインの言葉が引用されていますが、この言葉の基準で考えると、むしろ、医者屋のM川がやっていることの方が「宗教」であり、それも、レーニンが晩年に「人類の貴重な遺産を尊重せよ」と言ったという宗教のプラスの部分ではなく、相当悪質な宗教、「毒薬」の宗教だと判断すべきです。
私が裏口入学させる人間が嫌いなのは、ひとつには、このM川などは、自分が裏口入学をするだけではなく、他方において、裏口入学などしなくても普通に進学できる小学校から真面目に勉強してきた人間の足を引っ張って行けるものを行けなくしてやろうとするところである。
10. 裏口入学の方が正統だという思想を持っている人というのは、真面目に努力して正規の入試に合格して入ろうとする者の方を不当なことをしている人間と看做して攻撃することがしばしばあります。 裏口入学大好き人間には、旧帝大系国立大学に実力で進学しようとする人間に対して、裏口入学するような人間を「庶民」と称し、「庶民的なんじゃ」とか主張する者がいるのだが、なぜ、「患者」を薬漬け・検査漬けにしてせしめたカネで裏口入学する者が「庶民」なのか、さっぱりわかりまへんなあ。
11. こういうことを言うとM川は「そ~のあたりが、きみは思考が硬いんじゃあ」とか言うと思うが、「思考が柔軟」というのは、「患者」を薬漬け・検査漬けにしたカネでドバカ息子を私立金権関西医大http://www.kmu.ac.jp/ なんぞに行く人間のことを言うものではないと私は思うな。そんなに「思考が柔軟」ならその「柔軟な思考力」を生かして、京都大学医学部でも東京大学理科三類でもさっさと現役で実力で通ればいいことと違うのか? なぜ、私立金権関西医大などというどこの馬の骨かわからん学校に裏口入学なんぞしなければならないのか?
12. イタリアの映画『イル・ポスティーノ』では、郵便配達人の男が結婚するに際し、チリから亡命中の共産主義者パブロ=ネルーダの仲介人の役をやってもらおうとするが、キリスト教の司祭は「共産主義者は神を信じていないからだめだ」と断ろうとするが、その目の前で、パブロ=ネルーダは祭壇の前に跪き神に祈りを捧げる、という場面がある。
13. ≪ 歴史上、キリスト教は一方では支配者の階級支配の論理となり、他方では被抑圧者の反抗の論理となるという二面性をもっている。この二面性は、キリスト教の成立に画期的な役割を果たしたパウロに認められる。彼は一方では、支配者への服従をときながら、他方では、民族差別と階級差別を否定し、神の愛の前ではすべての人は平等であるとした。前者の服従の論理は、中世カトリック教会へ、後者の差別の否定の論理はワット・タイラーの乱などにみられるように農民一揆へと摂取されていった。≫(学習資料「世界史」編集委員会編『学習資料 世界史』1974.4.1. ほるぷ総連合 ) M川は、宗教は服従の論理だと片方で言い、他方で革命の論理じゃないかとして両方の意味で否定し、そして、「医者みたいなえらいエライ人間には何でも言うことをきかんといかん」とかそういったことを言って自分に服従させようという実質宗教の教祖になって人を精神支配しようとしたのだが、代表的な宗教のひとつであるキリスト教は、一方において、≪すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。したがって、権威に逆らうものは、自分の身にさばきを招くことになる。いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖ではなく、悪事をする者にこそ恐怖である。≫(『新約聖書 ローマ人への手紙』)という支配者の論理、体制側の論理があるとともに、他方において、「アダムが耕し、イブが紡いでいた時、いったい誰が大地主であるったか」(ジョン=ボール)というワット=タイラーの乱の論理にもなるものである。そもそも、宗教は支配の論理・体制迎合の論理を強めるものなのか、そうではなく、反逆の論理、革命の論理になりうるものなのか、といったことを検討・吟味すること自体が「宗教学」である。
※ 《ウィキペディア―ジョン・ボール》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
数学者で教育論者の遠山啓は『教育問答 かけがえのないこの自分』(太郎次郎社)で、父親とは外敵から守ってくれる存在であるなどと書いていたが、そういう父親もあるのかもしれないけれども、そうではなく、外敵を引っ張り込んでくる父親、外敵をかき集めてくる父親というのもいる。
カール=マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』(『ユダヤ人問題によせて・ヘーゲル法哲学批判序説』城塚登訳 岩波文庫 所収)には、
≪ 宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非常な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である。
民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるよう要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求することである。したがって、宗教への批判は、宗教を後光とするこの涙の谷〔現世〕への批判の萌しをはらんでいる。
批判は鎖にまつわりついていた想像上の花々をむしりとってしまったが、それは人間が夢も慰めもない鎖を身にになうためではなく、むしろ鎖を振り捨てて活きた花を摘むためであった。宗教への批判は人間の迷夢を破るが、それは人間が迷夢から醒めた分別をもった人間らしく思考し行動し、自分の現実を形成するためであり、人間が自分自身を中心として、したがってまた自分の現実の太陽を中心として動くためである。宗教は、人間が自分自身を中心として動くことをしないあいだ、人間のまわりを動く幻想太陽にすぎない。・・・ ≫
と書かれている。 「『宗教はアヘンであ~る』とマルクスは言うてお~る。焼~き討ちじゃあ。焼~き討ちじゃあ~あ。とってちってたあ~あ!!!」とか言うのが好きな人は、とりあえず、マルクスがそういう内容のことを言っているかいないか、自分自身で、カール=マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』を読んで考えてみるべきであると思う・・・・が、そういう焼き討ち織田信長大好き人間というのは、たいてい、読まないんだわ・・・・。
寺でも神社でも、初回、行きについては「裏口」からではなく正門から入りたいと考えているが、帰りについては、帰りはどちらから帰ってもそれはいいのではないかと考える。 登山について書いた本で、「ピストン登山はつまらない」という記述を読んだことがある。できるだけ、「頂上まで行って帰って」というルートではなく、別ルートで帰った方がおもしろいという主張なのだが、登山に関しては、たとえ、「ピストン登山」であっても、登りの際に見えるものと降りの際に見えるものは違うのでそれほど悪くはないと思うのだが、どこかに訪問した際には、たとえば、最寄駅が2つあったなら、別の駅から帰りは帰るという方がおもしろいところはある。 学校についても、例えばの話だが、大学でも正規に入学試験を受けて合格して入学した人間が、卒業する際に、なんか、この科目危なそう・・・という時、教授先生にお願いして・・・も、お願いすればそれだけで単位をもらえるというものでもないとしても、教授先生も人の子、その科目だけで卒業できるか否かが変るとなると、ぎりぎり合格か不合格かの境目・・なんて時には、本当は不合格なんだけどなあと思っても、ぎりぎりの場合は、「もう、いいにしておけ」と合格にしてくれる・・なんてこともないとはいえないわけで、職場で何人かと話をすると、「ちょっと、先生がおまけしてくれたらみたい」なんて話を聞くことはある。できれば、堂々とそういうこともなく卒業した方がいいのかもしれないけれども、そうであっても、これは裏口入学とはまた別だと思うのだ。だから、私は、神社でも寺でも、出る方については、どこから入るかと違って、どこから出るかはそれほどはこだわらないことにしている。
次回、旧古河庭園、その後、滝野川小学校周辺・・・
(2018.7.14.)
☆ 平塚神社・平塚天神社と浅見光彦
1.裏口は嫌い。西ケ原駅 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_3.html
2.国立印刷局、滝野川警察署、七社神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_4.html
3.花森東京病院、滝野川公園、地震の科学館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_5.html
4.平塚神社全景、門柱、平塚亭 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_6.html
5.平塚神社参道、社殿、蝉坂からの階段と社務所 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_7.html
6.ユニークな狛犬、扇に日の丸の紋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_8.html
7.社殿の裏の岡。猫の死骸を「かわいそう」と思うか「気持ち悪い」と思うか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_9.html
8.菅原神社(平塚天神社)、大門先・元稲荷神社、御料稲荷神社、石室神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_10.html
9.城官寺、上中里駅、蝉坂、上中里不動尊、摩利支天 〔今回〕
10.旧古河庭園(1)洋館、つつじ園 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_12.html
11.(2)心字池、雪見灯篭、石橋、兜門、染井門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_13.html
12.(3)茶室、黒ボク石積、崩石積、書庫 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_14.html
13.滝野川小学校、「御子柴邸」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_15.html
14.滝野川会館。「一里塚」バス停から「上中里」駅まで https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_16.html
15.上中里駅陸橋、尾久操車場・田端機関区、銭湯 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_17.html
≪ 「訴え出人、多岐川萌子さんの言うところによればだね、あんた、以前からだいぶしつこく彼女につきまとっていたそうじゃないの」
せいぜい浅見と同じ程度の年輩なのに、西本警部補は年寄じみた声を出す。それは言わば、刑事に共通した、独特の″尋問調″とでも言うべきものだ。 被疑者にナメられまいとする意識が、警察の歴史の中で積み重ねられ、磨かれ(?)、捜査技術のひとつとして定着した。
「つきまとったりはしていません」
「していませんて、多岐川さんはあんたに恐喝されたと言ってるよ」
「とんでもない、恐喝なんてしてませんよ。そのことは刑事さんだってご存じじゃありませんか」
「そうかね、見ようによっちゃ、恐喝と受け取れないこともないよ。俺と宮井君――もうひとりの刑事(デカ)だがね――二人が口を揃えて恐喝行為があったとすりゃ、立派に送検できるんだ」
「まさか、そんなことをすれば、逆に誣告罪で告訴しますよ」
「生意気言うな!」
西本警部補は怒鳴った。怒鳴ることもテクニックのひとつと心得ている。それが証拠につぎの瞬間は笑顔をつくって、「あんたには犯意はなかったかもしれんがね、訴え出人に恐喝されたと感じさせたんだから、充分、容疑の対象になるんだよ」と、上目遣いに浅見の反応をうかがう。・・・・ ≫
( 内田康夫『平家伝説殺人事件』1985.6.10.角川文庫 ↑)
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