旧古河庭園(2)雪見灯篭と心字池、一枚物の石橋、渓谷、兜門、染井門―平塚神社と浅見光彦【11/15】

[第623回]
[18] 旧古河庭園(2) 日本庭園。 心字池、雪見灯篭、一枚物の石橋、渓谷、兜門、染井門。
   旧古河邸・旧古河庭園というと、洋館という印象があり、洋館に付随する庭というと洋風の庭ではないかと考えやすいのですが、洋館の前にバラ園があり、その前にツツジ園がある・・とはいえ、バラは花の開花の季節だといいのですが、そうでない季節だとがっかりするようなところがあります。千葉県八千代市の京成バラ園http://www.keiseirose.co.jp/garden/ では、バラの開花の季節とそうでない季節とで入場料に差をつけていますが、実際のところ、バラの花の開花の季節に行ったなら、少々入場料が高くても価値がありますが、そうでない季節に行くと、ちっとも花の咲いていないバラの木だけ見ても、たとえ、入場料が安くても、安いという気持ちにはなりません。
   旧古河邸では、洋館と洋風庭園の設計者がジョサイヤ=コンドルと有名人であるのに対し、日本庭園の作庭は、京都の庭師の小川治兵衛・・・て、知っている人は知っているのかもしれないけれども、ジョサイヤ=コンドルに比べると知名度は高くない・・・・が、実際に日本庭園を歩いてみると、これがなかなかのものです。
画像

↑ 「心字池」 左の灯籠は「雪見灯篭」
  東大の本郷の三四郎池というのは、あれは正式には「育徳園心字池」と言って、池の形が「心」という字の形になっている・・・と聞いた時には、はあ、なるほど、そう言われれば「心」という形になってるのでしょうかねえ~え・・・とか思ったものでしたが、その後、寺の庭とか庭園とかに行くと、池はたいてい「心字池」なんですよね。 兼六園の琴柱灯籠が琴柱(ことじ)なのか「琴」という字なのかどちらとも言えるのかもしれませんが、たしかに、「琴」という字の形になっているようにも見えますし、琴柱(ことじ)なんて言われても、「お琴」なんて、宮さんと結婚する女がたしなむようなものなんて知りませんからよくわからんのですが、琴柱の形なのかなあ~あ・・・なんて思ってみたりもするのですが、「心」という字の形なんて言われても、要するに「丸みを帯びた三角形」てところで、日本庭園の池の形なんて、たいてい、「丸みを帯びた三角形」なんですよね。 「カドがとがった正方形」なんて池ないでしょ、庭園に。「カドがとがった長方形」てプールじゃあろまいし。
  しかし、それはそれとして、旧古河邸というと洋館・洋風という印象があったのですが、日本庭園もなかなかのものです。「旧古河邸」ではなく「旧古河庭園」と言うだけのことあります。
画像

画像

↑ 右よりの灯籠、ずいぶんとでっかいのですが、現地の説明書きでは、
≪ 雪見型灯籠(ゆきみがたとうろう)
 この灯籠は水辺によく据えられ、その姿が水面(みなも)に浮いて見える「浮見(うきみ)」と点灯時にその灯(ともしび)が浮いて見える「浮灯(うきび)」が「雪見」に変化したとする見方がある。 ≫
と出ています。 たしかに、たいして雪が降るわけでもない地域に、「雪見灯篭」という名称もどうなのだろうなんて思ったことがあるのだが、こういうルーツがあるのか・・・・などと思ったが、しかし、池の端になくても「雪見灯篭」と言ったりしていないか。 さらには、「雪見障子」なんてのがあるわけですが、あれも、雪を見るので雪見障子・・・なんて建築雑誌に載っていたように思ったのですが、実際に雪を見るかな・・とか、雪がたいして降らない地域でも雪見障子がついている家があるのだが、あれは雪じゃなくて他のものを見るのじゃないのかなとか思ったり・・・。 で、雪見灯篭が実は浮見灯籠・浮灯灯籠だったとすると、雪見障子は??? 
《株式会社杉田石材店 雪見灯篭》http://www.sugitasekizai.jp/yukimitop.html には、≪ 雪見灯篭のいわれは色々な説があり、傘を広げた上に雪が積もった形に似ている。 近江八景の浮見堂にちなんで作られた、など説があります。なかでも、浮見→雪見と言葉が変化したという説が適当ではないかと言われています。 ≫と書かれており、雪見灯篭にも「浮見灯籠」から変化したという説があるらしい。
《手作り墓石の石屋さん 石灯籠(とうろう)の種類について解説|販売している産地は?価格はいくら?》http://e-haguro.co.jp/wordpress/rollingstone/2016/10/05/%E7%9F%B3%E7%81%AF%E7%B1%A0%EF%BC%88%E3%81%A8%E3%81%86%E3%82%8D%E3%81%86%EF%BC%89%E3%81%AE%E7%A8%AE%E9%A1%9E%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E8%A7%A3%E8%AA%AC%EF%BD%9C%E8%B2%A9%E5%A3%B2%E3%81%97/ には、灯籠の種類として、雪見灯篭のほか、春日灯籠・岬灯籠・織部灯籠 が出ています。雪見灯篭というのは春日灯籠と比べると、笠が大きくてずんぐりしてちょっとおデブ・・て感じのものと言えばいいでしょうか。
※ 《コトバンク 大辞林 雪見障子》https://kotobank.jp/word/%E9%9B%AA%E8%A6%8B%E9%9A%9C%E5%AD%90-403466
《不動産用語集 雪見障子》https://www.homes.co.jp/words/y3/525003602/
《間違いやすい 猫間障子と雪見障子》https://profile.ne.jp/w/c-55104/
   ちなみに、「雪見大福」てのは、あれは何で雪見なのか・・・・ 

画像

↑ 「段違石橋」・・・なんて名称がついていたわけではなく、適当な呼び名がないかと考えて、今、名づけた。
なかなかの風情がある。 かつ、これだけ、大きい石を、いったいどこから、どうやって持って来たのだろう?
日光東照宮の家康廟への階段の石は、ずいぶんと大きい一枚ものが使われていて、さすがにその時代の最高権力者が作ったものだけあると思ったのだが、古河庭園というのは、もともとは「小野家の糸店の支配人」だった古河市兵衛が鉱山経営で利益を得て古河財閥となった古河家が作ったということだから・・・ということは、足尾銅山その他の鉱山で劣悪な環境で低賃金で働いてきた労働者がおり、足尾銅山の精錬により周囲の山林の環境が破壊され、銅山から出た鉱毒が渡良瀬川に流れ込んで栃木県南西部・群馬県南東部の住人の健康を害し、渡良瀬川鉱毒問題を解決するためと称して谷中村(藤岡町に吸収合併された後、現在は「平成の大合併」で栃木市の一部になった、渡良瀬川遊水池。)を廃村にして、片方でそういった被害を発生させたことによって得たカネが、この旧古河庭園と旧古河邸に化けて、その一部がこのでっかい石だ・・・ということか・・・。 理屈から考えるとそうなるわけだ。
   内田康夫『追分殺人事件』では、もともとは信州の軽井沢の西の信州追分の馬子唄だった追分節が新潟に伝わり、海の仕事をする人間の歌になり、それが日本海沿いに北上して、北海道の江差で江差追分としてニシン漁をする人たちの歌になり、海で遭難して亡くなった人を悼む鎮魂歌ともなり、それが北海道の夕張炭坑に伝わり、夕張では落盤や炭坑火災で亡くなった仲間を悼む歌になったという話が出ている。殺人事件の被害者になった追分節が好きだった男は、元夕張炭坑で働いていた者で、命がけで炭坑で働いていた者を利用して、何人もの人間を炭坑で死なせて儲けた連中に「復讐してやりたい」と語っていた、という。
   庭園自体はいい庭園なのですけれどもね。 古河市兵衛は足尾銅山で儲けて財閥を築いたというのですが、渡良瀬川鉱毒問題と闘った田中正造は、もともとは「庄屋とはいっても中の下くらいの庄屋で」と語っていたそうですが、栃木県佐野市にある田中正造生家を見ると、たしかに、庄屋にしてはそれほど立派な家でもない建物でしたが、最後、亡くなる時に持っていたものは、『福音書』と趣味で集めていたという石ころと何だったか、たいしたものはなかったという。 庭園自体はいい庭園ではあるとはいっても、そのまま称賛するわけにもいかないですよね・・・。 「患者」を薬漬け・検査漬けにして苦しめて儲けたカネでドバカ息子を私立金権関西医大http://www.kmu.ac.jp/ に裏口入学させて得意がっている医者屋なんてのと同類なのか、それよりはマシなのか・・・。 労基法違反・安全対策不備で従業員に怪我させたり死亡させたりして儲けてきた(株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ から「防潮堤の費用」と称してカネもらって大喜びの浜松市長 鈴木康友。この男、慶應大学 a 法学部(アホウ学部)卒だけあって、行政が労基法違反の札付き企業からカネもらっていいのか? なんて考える頭がないらしい。 さらに、「一条工務店て、防潮堤の費用を寄付したというすばらしい会社なんですね」などとノー天気なことを言う「国民」もいたりしまして。そのカネはどこから出てきたのか? 給料払う時には「そんなこと言っても、カネないのに払えるわけないだろ」とか言ってる会社がなんでそんなカネあるのか? (株)一条工務店の「オーナー」大澄賢二郎て1996年8月にドバカ息子が女性を刺し殺した件で退いたのと違うのか? いつから復活したんだ? とか、大澄賢二郎は「お世話になった浜松に恩返ししたい」などと言ったというのだが、その言い方だと浜松市以外の市町村・都道府県には世話になってないみたいな言い方だが、うちの都道府県には世話になってないと言いたいんかい、なんや、えらい悪かったなあ!・・なんて普通は考えると思うのですが、考えない人がいるんですね。なんだか・・・。 普通、考えるでしょ、俺の給料こんなに安いのに、なんで、浜松市に300億円も払うカネあんねん?・・・と。 あるいは、そんなカネあるなら、その分、もう少し安い金額で建てたらどうなんや・・・・と。普通、考えませんか?

  「段違石橋」を渡ってすぐ、小島と陸地との間、「渓谷」
画像

画像


※ 旧古河庭園 園内マップ https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/map034.html

画像

↑ 「兜門」 北東側。
画像

↑ 「兜門」 南西側。
   ↑この門の造りを見ると、やっぱり、南西側、「馬車道」の側が門の外、北東側が門の内としての造りと思われる。

画像

↑ 「馬車道」から見た「染井門」(「通常閉鎖中」)
画像





↑ 「染井門」(「通常閉鎖中」)
   「染井」というと、内田康夫『津和野殺人事件』で、浅見光彦の母の雪江が染井霊園を通ったところ、そこで人が倒れていたので、親切で警察に通報したところ、巣鴨警察署の刑事から犯人扱いされたと激怒した、という話が出ている。その染井霊園が、浅見邸の南方の位置にあり、又、「ソメイヨシノ」という桜の名前は吉野とは関係なくて染井霊園の染井からきているという話が出ているが、旧古河庭園の染井門の名前はその染井から来ているのか? と考えたくなる名称ではあるが、染井門は「通常閉鎖中」で私の訪問時も閉鎖中だったのだが、この門の外側はどのあたりかというと、本郷通りが「滝野川会館前」交差点でぐいっと南に曲がってきたあたりの本郷通りから西に少しだけ入ったという所であり、染井霊園の方は向いていない。 しかし、染井霊園は現在は住居表示としては北区駒込 になるが、染井という地名は霊園だけの地名ではなかったはずで、もともとの地名の染井がどこからどこまでなのかわからない。 この門の外のあたりも「染井」だったのか、この門を出てしばらく行ったあたりが「染井」だったのか・・・・。
≪  警部補は、「まあ、もうしばらくそっとしておられたほうがよろしいでしょう」などとクドクド言いながら、慌てた様子で部屋を出て行ってしまった。
「何が必要なくなったですか、陽一郎さんのことを知ったものだから、態度が変ったくせに。それまでは、まるでわたしが犯人かなにかのような、口をきいていたのですよ」 ≫
≪「・・わたしや陽一郎さんの名誉のためにも、一日も早く決着を見せてくれないと困るのです。それとも、わたしにかけられた嫌疑を晴らす必要はないとでもおっしゃるの?」
「いえ、嫌疑なんて、そんな大袈裟なことには、なってないようですが」
「いいえ、あの警部補の態度は、明らかにわたしを犯人扱いしたものでした。あのときの非礼を思い出すだけで身震いが出るのです。・・・・」 ≫
( 内田康夫『津和野殺人事件』2007.5.15. 徳間文庫 )
   私は1990年代、法務省で警備員の仕事をしたことがあるのだが、その際、私が勤務するより前、元警察官の警備員がそこにいて、法務省の「エライ人」から苦情を受けて他の場所に移動した、ということがあったという話を聞いた。どういう苦情があったのかというと、その「エライ人」の娘が法務省に勤めていたのだが、元警察官はその「エライ人」の娘・・・と言っても「エライ人の娘」と書いた名札をつけているわけでもないのだが、その20代の女性に「持ち物検査」をやったというのだ。「うちの娘に何してくれるんじゃ」と親爺は激怒して、それで、その元警察官の警備員は他の場所に移動させられた、らしい。 警察官であれ警備員であれ、ひとが持っているカバンなり何なりの中を検査する「権利」などというものはない。「権利」はないけれども、何らかの事件があったという場合、もしくは、特に何らかの理由で特に警戒しているという時に、「すいませんが、・・・・ということで、今、警戒させていただいております。申し訳ありませんが、・・・・の中を見せていただけませんでしょうか」と「お願い」して、本人が承諾したのなら、本人が承諾した以上は、悪いことはないことになる。 しかし、その場合でも、中に入っているものを見たいという場合には、勝手に手をつっこんで引っ張り出すのではなく、「すいません。それは何ですか。見せていただけますか」と「お願い」して、本人が持って見せてもらうようにするものである。又、何であれ、「見せてください」と言って渡してもらったなら、それはその場で見ないといけない。持って移動してはいけない。持って場所を移動したならば、強盗と変わらないことになる。警備会社の研修、これは法律で定められている研修であるが、その研修で、自称「元警察のエライ人」という講師がそう説明したのである。「元警察のエライ人」が言ったことであるとともに、私もそうだと思う。 そして、その「元警察のエライ人」は、「警備員の場合は研修は4日間ですが、こういったことは、警察官は警察学校で1年間かけてびしい~っと叩き込まれますから、徹底しています」と発言したのだが・・・、実際には警察官はちっとも「びしい~っと叩き込まれ」ていない。そうではなく、警察官は、「見せろ! ごらあ~あ」と「善良な市民」にいきなり襲いかかったり突き飛ばしたりするし、「見せてください」と言って預かった物を持って平気で移動する。 「元警察のエライ人」は「あるべきもの」を話していたのかもしれないが、警察について「実態としてあるもの」は大きく違う。
   私は、現実に、東京都目黒区にて、普通に公道を歩いていただけであるのに、向こうから来た私服の警察官に、すれ違いざま、いきなり、突き飛ばされて、「どこ、行くんじゃ、ごらあ!」と言われ、「職務質問じゃ。ポケット、何はいってるんじゃ。見せろお!」と言われて、無理矢理、外套のポケットに手をつっこまれそうになった、ということがあった〔この件については、[第107回]《日中、男性でも非常ベル携帯は必要かも~警察の恐怖(2)~東京都目黒区の警察、及、営業の安全》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201206article_9.html で述べた。〕。 又、東京都大田区にて、見せる理由はないけれども、「見せてください」と言われて見せたところ、その巡査は私の承諾もなくどこへ行くのかも言わずに持ってどこかへ行ってしまった、ということもあった。警備員の研修で自称「元警察のエライ人」が発言したように、これでは強盗と変わらない、これでは強盗である。私はこれでは強盗であるとか判断して、110番通報したところ、即座にパトカーが何台もやってきて、そして、「見るからにヤクザ」「見るからにチンピラ」という警察官が4、5人、その強盗の巡査にではなく、私に襲いかかってきて暴行を加え怪我させられた、という経験もある。私としては、その巡査が強盗であると判断されても文句を言えないことをやったのであるから、だから、警備員の仕事の経験のある者として警察署に連絡してあげたのであり、警察は連絡してもらって喜び感謝するはずだ、と思っていたのだが、そうではなかった。警察は「善意の通報者」に襲いかかり怪我させたのである。そして、暴力ふるって市民に怪我させておきながら、「警察官は暴力ふるったりしません」と居直ったのである。この件については、いずれ、別の場所で公開するつもりである。警察こそ暴力団である。警察こそ「反社会的勢力」である。
    ひとが持っている物を「見せろ!ごらあ!」と言って、いきなり、ひとを突き飛ばして取り出そうとするとか、「見せてください」と言って預かった物を持って移動してどこかへ行くとかは、これは警備員でも警察官でもやってはいけないことです。 やったら犯罪です。しかし、警備員はそういうことをしませんが、警察官は平気で日常的にやります。 かつ、「警察官はそんなことしません」とやっておきながら言います。「盗っ人猛々しい」と言うしかありません。これは、「一部、性質の良くない警察官がいる」というものかと私も若い頃は思っていたのですが、そうではなく、警察とはそういうものなのです。警察がそうなのです。そして、検察は警察のパシリですから、警察の言いなり、暴力警察官のテカです。 世の中には、「警察官というのは体育会系のバカだが、検察官というのは一流大学を卒業して司法試験という難しい試験に通ったインテリだから、検察は警察みたいなことないだろう」などと思っている人がいますが、その認識はあまりにも甘い! 第一、検察官というのは司法試験に通った人間がなるものと思いこんでいたら、違うんです。実際には「副検事」というのがいて、これはその検察庁で上から二番目にエライ人という意味ではなく、検察官には司法試験に合格して検察官になった検事と司法試験に合格していないのになぜか検察官になっている、いわば、国営裏口入学みたいな「副検事」がいて、「副検事」というのは司法試験になんて通ってないし、もちろんのろん、「一流大学」なんて入ってもいないし出てもいないのです。「検察官というのは一流大学を卒業して司法試験という難しい試験に合格したインテリがなっているのだろう」なんて思いこんで、顔みると、「ええ~え、この人があ~あ?」て感じのが検察庁にいると思いますが、たいてい、それは「副検事」です。「私は『一流大学』なんて天地がひっくり返っても出てません」と顔に書いてあります。そういう国営裏口入学みたいな「警察官とたいして変わらんやつ」が「副検事」と称して検察官やってるんです。
   法務省に勤務していた警備員でも、他の場所に勤務していた警備員でも、「持ち物検査」なんてそこの職員にやる人なんていません。職制上の上役から指示されれば、あくまで、本人の承諾のもとに、本人にとり出して見せてもらうということは可能性としてないとは言えませんが、そういうことはめったにありません。警備員は警察官みたいに悪質ではありません。ところが、元警察官の警備員てのがいて、元警察官だけあって、研修で、警備の都合でひとが持っている物を見たいということがあった場合には、こうこうこういう事情で見せていただきたいと「お願い」して、あくまで、本人が承諾した場合に、本人の手で出して見せてもらうもので・・と教えられても、自分は元警察官で「それより上のことをやってきた」みたいに思っているのか、研修で言われたことなんて上の空、警察官としてやっていたことを実行した・・・ということでしょう。「警察官としてやっていたこと」といっても、やっていいと法律は定めていない違法なことを警察官はやっているのですが、警察官から違法なことをされたとしても、警察署に訴えても「警察官はそんなことしません」と言われ、検察に言っても、やはり、「警察官はそんなことしません」と言われ、むしろ、「それはおまえが作った話だろう!」と怒鳴りつけられ、「虚偽告訴罪(もしくは、虚偽申告罪)で起訴するぞ!」と脅されることもあります。警察官・検察官というのはそういう無法者・「反社会的勢力」ですから、そういう「仕事」を経験してきて、それが正しいという信念もつようになった人が、民間人である警備員の仕事につくと、「昔とった杵柄」で警察官みたいなことをやってしまうみたいです。 で、「エライ人」の娘に持ち物検査やったらしい。・・・で、「エライ人」は激怒して、元警察官は他の場所に勤務場所を移動した、らしい。
   で、ここで問題です。その「法務省のエライ人」は自分の娘が受けたしうちに父親として激怒したらしいのですが、その「エライ人」は自分の娘がそういうことをされることに苦情を言ったのか、それとも、誰に対してでも、理由もなく「持ち物検査」なんてやってもらっては困ると言ったのか。おそらく、自分の娘でなければ別にかまわんと言ったつもりはないでしょう。しかし、もしも、「エライ人」の娘でなかったとしたならば、どうなったかというと状況は違った可能性だってあるわけです。 浅見光彦の母が染井霊園で倒れていた人がいたので、親切心から警察に連絡したのに、犯人扱いされたと激怒し、「警部補」は恐縮したといっても、あくまでも、「警察庁刑事局長の母君」であったから恐縮したのであって、そうでなければ、「まあ、それはいいです」とか言って、実際、ちっともよくないのに言ってしらばっくれるでしょう。〔一例を、[第416回]《本当にあった笑えない話―「休日出勤」と嫁には話してホステスと出かける男。本当にあった怖い佐野警察署》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201606article_1.html 【2】(2) で述べました。〕 
   内田康夫の「浅見光彦シリーズ」で浅見光彦が作品の中では女性に好かれるものの、読者としては男性にも嫌われないというのは、浅見は「兄上が刑事局長」というので警察官が態度を急変するのを見て、それで調子に乗ったりはせず、むしろ、毎度、その変化にあきれ、情けない思いをしているところからでしょう。 「刑事局長の弟」でない者は、警察官に突き飛ばされたり、首しめられたり、・・・・されたりといったことを決して忘れてはいませんし、忘れることはありません。「水戸黄門の印籠」持っていない者は、持っていない者として、それ以外の方法で対抗することになります。 「反社会的勢力」警察暴力団を決して許す気はありません。
   2005年のこと、千葉県船橋市のJR「船橋」駅前のプラウドタワーというマンションに訪問した時、入る時に、警備員が、氏名と住所と入館時刻を書いてくれというので記入し、帰り、警備員に「どうも、ありがとうございます」と挨拶して出ようとしたところ、警備員が「こらあ~あ! 退館時刻を書いていかんか。こらあ!」と怒鳴りつけたので、驚いたということがありました。 こちらはそこの住人の来客であり、来客に向かって「こらあ」とは何だ、その態度はというところですが、普通は警備員はあんな態度は取りません。あの警備員も、もしかすると、元警察官だったのかもしれませんね。〔 プラウドタワー船橋の場合、警備員でしたが、警備員ではないマンション管理人でも変な人間は少なくありません。そのあたりも、いずれ、別の場所で述べたいと思います。〕




( 「旗」マークが、「プラウドタワー船橋」。 ☆1つ、「今市」。 )

  (2018.7.16.)

  次回、【12/14】旧古河庭園(3)茶室、黒ボク石積、崩石積、書庫 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_14.html


☆ 平塚神社・平塚天神社と浅見光彦
1.裏口は嫌い。西ケ原駅 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_3.html
2.国立印刷局、滝野川警察署、七社神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_4.html
3.花森東京病院、滝野川公園、地震の科学館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_5.html
4.平塚神社全景、門柱、平塚亭 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_6.html
5.平塚神社参道、社殿、蝉坂からの階段と社務所 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_7.html
6.ユニークな狛犬、扇に日の丸の紋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_8.html
7.社殿の裏の岡。猫の死骸を「かわいそう」と思うか「気持ち悪い」と思うか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_9.html
8.菅原神社(平塚天神社)、大門先・元稲荷神社、御料稲荷神社、石室神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_10.html
9.城官寺、上中里駅、蝉坂、上中里不動尊、摩利支天 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_11.html
10.旧古河庭園(1)洋館、つつじ園 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_12.html
11.(2)心字池、雪見灯篭、石橋、兜門、染井門 〔今回〕l
12.(3)茶室、黒ボク石積、崩石積、書庫 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_14.html
13.滝野川小学校、「御子柴邸」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_15.html
14.滝野川会館。「一里塚」バス停から「上中里」駅まで https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_16.html
15.上中里駅陸橋、尾久操車場・田端機関区、銭湯 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_17.html

日本財閥史 (1978年) (教育社歴史新書―日本史〈123〉)
教育社
森川 英正

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 日本財閥史 (1978年) (教育社歴史新書―日本史〈123〉) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル


≪ 古河財閥の創始者古河市兵衛は、抵当増額令の結果、明治7年(1874年)に倒産した小野家の糸店支配人であった。糸店は小野家の「商社」であると同時に、同家が政府から預かった官金を投下して、多数の鉱山を獲得、経営した。この糸店時代に市兵衛は鉱山経営に通暁し、小野家倒産後、独立して鉱山業者を志した。当初、生糸貿易をも兼ねたが、失敗した後、産銅一筋をめざすことになる。
   資力に欠けた市兵衛は、旧小野家取引先から出資を仰ぎ、小野家鉱山であった草倉(新潟)幸生(さちう)(山梨)、さらには足尾銅山を入手した。足尾入手は明治9年(1876年)末、これには小野家時代から市兵衛と関係の深い渋沢栄一も協力した。市兵衛は、草倉等の収益をつぎ込んで足尾を開発するとともに、かつて小野家が所有した官営院内・阿仁鉱山(どちらも秋田県)の払い下げをも受けた。
   古河市兵衛は、産銅業近代化に異常な情熱を注いだ。鉱山電化、電気精錬、ベッセマー精錬の導入等、いずれもわが国で初めての事業だった。とくに、足尾の鉱山電化に当たり、明治23年(1890年)12月に開始した水力発電は、わが国第二番目(最初は同年8月に鹿沼の下野麻紡績)、動力用としてはわが国最初のパイオニア的事業であった。水力発電、電気精錬(本所熔銅所)の設備は、独ジーメンス社から買い入れた。
   市兵衛が産銅産業近代化に熱心だったのは、明治21年(1888年)にジャーディン・マディスン商会との間に結んだ有利な契約――28か月間、月680トンの銅を1トン約350円の超高値で引き渡す――を履行するために、生産力の増強を急ぐ必要があったからである。
   設備投資の結果、明治24年(1891年)における足尾の産銅量は7550トンに達した。これは前述した別子の約3.6倍になる。古河家は、足尾を中心として、明治24年(1891年)に全国産銅量の40%、38年(1905年)に25%を供給するわが国最大の産銅業者であった。やがて、鉱山による富を足場に財閥への展開を遂げていくことになる。 ≫
( 森川英正『日本財閥史』1978.12.20.発行。 1985.8.10.新装発行 教育者歴史新書 )
※ 幸生(さちう)(山梨県)・草倉(新潟県)はいずれも銅山。
《ウィキペィア―日本の鉱山の一覧》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%89%B1%E5%B1%B1%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 によると、阿仁(秋田県)は金・銀・銅、院内(秋田県)は金・銀・鉛と出ているが、院内は主として銀山だったらしい。《ウィキペディア―院内銀山》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E5%86%85%E9%8A%80%E5%B1%B1 には、≪院内銀山(いんないぎんざん)は、秋田県雄勝郡院内町(現在の湯沢市)にあった鉱山である。「東洋一」の大銀山とうたわれ、年間産出量日本一を何度も記録している。≫と出ている。
《ウィキペディア―阿仁鉱山》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BB%81%E9%89%B1%E5%B1%B1 によると、阿仁は≪金、銀、銅が採掘され、とくに銀鉱、銅鉱の産出が多く、1716年(享保元年)には産銅日本一となり、長崎輸出銅の主要部分を占めた。≫
   内田康夫『鬼首(おにこうべ)殺人事件』(2009.7.30.祥伝社文庫)に、院内銀山の廃坑跡の話が出て来る。
≪ 「いまはどうなっているのですか?」
「いまはもう、完全な廃墟です。建物は事務所も住居も跡形もなくなってしまって、墓石だけが並んでおるだけです。ちょっと不気味だすけどね」
「墓石? 墓ですか・・・」
「んだす、お墓です。お墓がズラーッと並んでいるんです。どのくれえあるのか数えたことはねえすが、そりぁ膨大な数の墓です。・・・・」 ≫
≪ ・・まるで墓石そのものが賽の河原を形成しているように思えた。そのじめじめした地面からは、妄執やら怨念やらがたえず立ち昇っている気配を感じる。・・・・ ≫

≪ しかしその無理な生産増加が、そしてそれを後押しした明治政府の工業優先政策が地元に大きな被害をもたらすことになったのである。・・・≫
( 布川清司(ふかわ きよし)『人と思想 田中正造』1997.5.10.清水書院センチュリーブックス ) 

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック