上宮天満宮(高槻)参拝【4/10】本殿裏末社。神社の「経営」「経営者」とは。捨て猫はどう対処すべきか
[第632回] 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り 第48念-4
本殿の背後の位置に末社が並んでいます。
本殿の左からまわってみますと、
↑ 「四社殿」
左から、日吉社、金毘羅社、稲荷社、荒神社。
↑ 「猫神社 守護天神」と記載されているのですが、天神でも、前の本殿の「天神さん」とどう違うのかと思って見ると、これは、1996年の放火による本殿焼失の後、山林を整備・清掃したところ、捨て猫が相当住みついていたらしく、猫を主としてペットとして飼われた動物を守護する神さまとしてこの位置に設立された、というものらしい。

( ↑ 「鳥居」マークが、「猫神社 守護天神」。 その手前の比較的大きな建物が、上宮天満宮本殿。 )
↑ 厳島神社 と 「天神鉢花園」。
この場所は小山の上ですから、人工の池を作っても水を貯めるのは困難であることから、池状の部分に植木鉢を置いた、ということでしょうか。
↑ 厳島神社の手前に、春日社。
↑ 皇太神社。
「猫神社」の社は新しいのですが、それ以外は建物は年季の入った建物のような感じです。「割拝殿」というのは、あれは拝殿なのか門なのか。門ならば、そこを通って内部に入って参拝して良さそうですが、拝殿ならば、その位置から参拝して、基本的にはそれより内側には無暗に入らないということになると思うのですが、割拝殿よりも内側の本殿のそのさらに奥に「四社殿」があり、本殿の右手(東側)に厳島神社・春日社・皇太神社がある。
山林を整備・清掃した際に、野良猫が相当住みついていた、神社の森林に飼い猫を捨てないでもらいたい・・・、その猫はどうなったんだろう。 どこか他の森林に連れていって捨ててきたのか、保健所に依頼して「殺処分」したのだろうか・・・・とか考えると複雑な思いがしますが、それなら野良猫が住みつくのを放置するのが好ましいわけでもないでしょう。
上宮天満宮HP の「天神さんの猫たち」http://jogu.jp/pdf/2015neko.pdf を見ると、上宮天満宮では、上宮天満宮の敷地内において、捕まえた猫は、すべて、去勢・避妊の手術をおこない、猫の食事と住居は神社が負担して飼うとともに、全域をカメラで記録して、猫などの放棄を防止するようにしている、ということらしい。これは相当大変なことだと思うし、その大変なことをやっているという点には頭が下がります。全域をカメラで撮影して・・という点については、はたしてそういうことをするのがいいのか・・と思ったりもするのですが、猫などのペットを捨てられるのを防ぐという点においては、そうでもするしかないのでしょうか・・。
敷地内に住みついた野良猫を追い出して、神社内のみをきれいにするということならまだできますが、追い出すだけ追い出したのでは周辺地域に住みつくことになりますし、また、神社敷地内に戻って来るかもしれません。「相当遠くまでクルマで連れていって、相当遠くのよその寺か神社の境内に捨ててきてこましたろか」・・・なんてやるわけにもいきませんわな・・・・(あるいは、嫌いな金持ちの家の庭に投げ込んでくるとか・・・)。遠くに捨てにいくのでもなく、追い出して戻ってこないように敷地内から野良猫を一掃しようとするならば、保健所に依頼するという方法もあるかもしれませんが、保健所はどうするかというと、保健所は「殺処分」しかできることはないでしょう。 神社というものの性質から考えて、「殺処分」を求めるというのはできる限り避けたい。しかし、そのまま、野良猫として放置もできない。1匹くらいなら飼えても、何匹も飼わされるのは勘弁ねがいたいし、その神社に捨てれば飼ってもらえると思って捨てる人が続出・・・なんてことになってはたまってものではない。そういうことする人間には、それこそ、天神さんに祈願して、雷でも落としてもらいたい?(「ゴースン、サンダー!」て感じで?⇒《YouTube-タイガージョーの最期 》https://www.youtube.com/watch?v=jwtdcKrUYi0 )。 難しいところです。
2000年頃、栃木県足利市の足利学校の裏手にある鑁阿寺(ばんなじ)に行った時、「犬を捨てないでください」と書かれた掲示があった。 この鑁阿寺(ばんなじ)という寺の多宝塔は、生類憐みの令を出した徳川5代将軍の徳川綱吉の生母の桂昌院が建立したというものらしく、この桂昌院さんは綱吉に、あなたは犬の年の生れであるから特に犬は大事にするべきだと言ったという話がある人であり、それゆえに、桂昌院さんと縁が深い鑁阿寺(ばんなじ)なら、これまで飼ってきた犬をこれ以上飼いきれないと思った人が、ここなら捨てても世話してもらえるのではないか・・・と考えて捨てていく人がいた、ということのようだ・・・・が、寺としては、そういうことをされても困るわけで、もしも、桂昌院さんと徳川綱吉に縁が深い寺であるから、捨てられた犬でも大事にしてくれるのではないか・・などと考えるのであれば、同時に、生類憐みの令というものを出して、犬を中心として生き物を粗末にした者は処罰するぞという姿勢を示した徳川綱吉と生母の桂昌院に縁のある寺である以上は、そこに犬を捨てていくというような者は処罰されても文句は言えない・・・とも考える必要があるのではないか・・・。 実際問題として、最後まで飼うつもりでいたが、飼いきれなくなってしまい、だからといって保健所に「殺処分」を依頼するなんてことはできない・・・と思った人が、鑁阿寺(ばんなじ)に捨てていった・・という人があったのだろう・・・・が、寺としてはそういうことをされても困る・・・ということだったのだと思う。
※ 足利市HP 鑁阿寺http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikaga-kankou/i-bannaji.html
足利市HP 鑁阿寺多宝塔(ばんなじたほうとう)http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/bunkazai/bannajitahoutou.html
足利市観光協会 鑁阿寺https://www.ashikaga-kankou.jp/spot/bannaji
《ウィキペディア-鑁阿寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%91%81%E9%98%BF%E5%AF%BA

( ↑ 「 i 」マークが、鑁阿寺。 その手前、JR「足利」駅と東武「足利市」駅を結ぶ橋の東のあたりの渡良瀬川の河川敷に、足利事件の被害者の女児の遺体が遺棄されたらしい。 かわいそうになあ・・・と思う。特に、その付近で仕事をしていたことがある者としては、かわいそうになあ・・と思うが、だからといって、うかつに、その付近に行って手を合わせたりすると、警察暴力団から菅家さんみたいに犯人扱いされる危険があるから、うかつに近づかない方がよさそうである。)
[第619回]《平塚神社社殿の裏の岡。猫の死骸をかわいそうと思うか気持悪いと考えるか―平塚神社と浅見光彦【7/15】》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_9.html でも述べたことだが、今となっては30年以上前のことだが、大学生であった時だが、川崎市幸区の多摩川に近い場所のアパートに住んでいたのだが、夕方、多摩川の河川敷でバットの素振りを体力づくり・健康増進のつもりで日課としてやっていたのだが、帰ろうとすると、「みゃー」という猫の声がする。どこにいるのだろうと思って見回すと、河川敷に何本か木の杭が打ち込んであって、その杭の上に子猫がいて「みゃー」と鳴いていた。犬なら降りられないということもあるかもしれないが、猫なんだから降りたければ自分で飛び降りればいいだろうと思って行こうとすると、また、「みゃー」と言って呼び止める。私は、猫というものは少々高い所からでも飛び降りることができるものだと思っていたのだが、ところが、子猫は飛び降りることができないらしい。それなら、どうやってそこに乗ったのか? 誰かにいたずらで乗せられたのだろうか。 かわいそうに思い、降ろしてあげようとして両手でつかむと、怖がって、さらに「みゃー」と言う。なんだ、ひとが親切で降ろしてやろうとしたのに、嫌がるのなら無理に降ろしてやることもない・・と思って立ち去ろうとすると、またもや、「みゃー」と言って呼び止める。その子猫にとっては相当高い場所に乗せられたので、そこから降りるのは、両手でかかえてもらったとしても知らない相手に持たれるのは怖いのだろう。しかし、同時にそのままそこに乗せられたまま放置されるのも困るので、それで、「みゃー」と言って呼び止めたのだろう。 しかたがないから、怖がられてもおかまいなしに、両手でつかんで下に降ろしてやったのだ・・・・が、ところが、降ろしてやれば、そこからは、自分でなんとかするだろうとこちらは思ったのだが、アパートに帰ろうとして歩くと、杭の上から降ろしてくれた相手(どうやらその子猫にとっては、その時点で最も頼れる相手・・・ということだったのだろう)の後をついてくるのだ。 離されまいとして、子猫にとっては必死でついてくるのだ。・・・困ったな。 なんとかしてやれるものならしてやりたいが、杭の上から降ろしてやるだけでこちらはせいいっぱい。 アパートは「ペット不可」だし、なにしろ、「わしぁ、日陰の月見草」「わしぁ、貧乏やからな」という者にとっては猫を飼う余裕なんかない。アパートの入口までついてくるが、それ以上ついてこられても困るので、向こうに行けと合図しても、それでも、「みゃー」と言ってついてくる。困ったやつだな、ほんとに・・・と思ったが、何度も何度も追い払って、最後はあきらめたようで、ついて来なくなった・・・・が、あの子猫は、その後、どうしただろうか。 そもそも、なぜ、河川敷に立っている木の杭の上にいたのか。 誰かが河川敷に捨てにきたが、河川敷に置き去りにしようとすると、鳴いて(泣いて?)ついてくるので、それで、ついて来れないように杭の上に乗せて立ち去ったのだろうか。 それを、かわいそうにと思って下に降ろしたものの、だからといって飼ってあげることなんてできない男が無責任に下に降ろしてしまったということだろうか。
今でも、犬なり猫なりを飼ってみたいような気がする時もあるが、気が向いた時に頭をなでるだけならできるが、こちらが疲れ切った時でも、エサを与え、糞尿の世話もきっちりとできるかというと、やりきる自信はない。だから、私は飼わない。 ところが、猫を飼って、その猫にひとの家の敷地内に入らせ、そして、ひとの家の小さい小さい庭で糞させて帰る飼い主というのがいるのだ。 あの猫、つかまえて猫鍋にして食ったろか!・・・とか、かつて、河川敷の杭の上で鳴いていた(泣いていた?)子猫をかわいそうに思って苦労して下に降ろしてあげた同じ男が思うのだが、猫鍋にして食うと「まずい」かもしれないが、だからといって、猫を飼って頭なでるだけなでて、糞はよその家の庭でさせる飼い主がいいというものでもないだろうが!!! 向かいのじいさん(体だけ元気な年寄)が「私は、みんなのために尽くしてるんだ」とか言うので、「ひとの家の庭に入ってきて糞する猫がいるんですけど、あれも困りますねえ」と言ったところ、「それはしかたがない」などと言いおったのだ。 「しかたがない」かあ? おのれは猫の頭をなでるだけで、糞はよその家の庭にさせるというのが、猫の飼い主の「権利」なのか?!?!? 「ち~が~う~だ~ろ! このボケぇ~え!!!」と言いたい。 猫を飼って頭なでるなら、その猫の糞の処理まで責任もってやるべきと違うのか。 頭なでるだけなでて、糞はよその家の庭でさせるのが愛猫家か??? 犬を飼って頭なでて、その犬のしょんべんを我が家の玄関の門柱にその家の住人の眼の前で平気でさせるおっさんが愛犬家か??? 犬の頭なでるだけなでて我が家の車庫の前に爆弾みたいな糞をさせて放置する者が愛犬家か? 猫はよその家の敷地内に入る「権利」があると飼い主は思っているようだが、そうか??? そういうものとは違うと思うがな・・・。
私が子供の頃、住んでいた大阪市東住吉区の家の近所の神社も、姉は中学校で「◇◇神社は、夜は行ってはいけない」と言われたそうで、それは、お祭りで夜店が出ている時など以外は「夜は不良のたまり場になる」からということでした。最も、実際に行ったこともあるのですが、特別どうということもなかったけれども。
それにしても、神社というものは、特に夜に神事を行うといった神社は別として、基本的には昼に行くものでしょう。 朝日新聞出版から出ている『本当にあった怖い話』に掲載されている「霊能者」寺尾怜子さんの話で、神社には「祈りの場」という性質と「呪いの場」という性質があり、昼は「祈りの場」という性質が強いが、夜になると「呪いの場」という性質が強くなるという発言が出ていましたが、そういうこともあるかもしれません。だから、参拝は午後6時までにしてください、と掲示されていましたが、それはもっともではあります・・・・が、それにしても、上宮天満宮HP の「セキュリティー」http://jogu.jp/pdf/2015bouhan.pdf に出ているやり方というのは、ちょっと、やりすぎてことないかな・・・・という印象も受けたのですが、そこまでやらないと対処できない状態だったのでしょうか。
1970年代後半、この近所の予備校に行っていた時期があり、その際、この神社に立ち寄ったことがあったのです。 お寺の場合は、本山とか有名寺院、世界遺産とかに指定されているようなお寺の場合は、拝観料を払うことで誰でも入れるという寺が多いものの、そうではない末寺の場合は、その寺の檀家でない人が立ち入ることは認めてもらえない場合が多いと認識してきました。檀家の人間なら行くといいのかというと、必ずしもそうではなく、母方の祖父の葬式の時、お坊さんが「お墓にはよく来ていただいていましたが、お寺の方にはあまり寄っていただけませんでしたが」と文句というのか苦情というのかを、ひとこと、口にしたことがあり、「なんで、寄らなかったのだろう」と母に言ったところ、「そりぁ、寄れば、その度にお金をせびられるからじゃないの」ということでした。なるほど。お寺というのは、檀家は、「こんにちわあ」と挨拶すると、そのたびに、1万円・2万円とカネ払わないといけないのか・・・・。たまになら、払ってもいいだろうけれども、顔あわすたびに払わされるのなら、足は遠のくわなあ・・・と思ったものでした。
その点、神社というのは、有名神社とか世界遺産とかの神社は、入口もしくは中心となる神域に入る所で拝観料を求められることが多いのに対し、そうでない「そのへんの神社」の場合は、拝観料なんてとらないし、拝観料を受け取るために人を配置したのでは、その人の給料の方が拝観料の収入よりも高くついてしまう、ということもあるでしょうし、そして、「国家神道」の流れなのかもしれませんが、誰でも入っていい、特に氏子でなくても、境内に入って参拝するのは自由・・・としている神社が多いように思います。 ですから、私のような「逍遥学派」というのか、特に観光地でもない場所を歩くのが好き・・という人間は、どこかで少し休憩したいがという時、神社の境内で休ませてもらったりしたことは何度もあります。その「ついで」というとなんですが、ここの神社というのは何の神さんなのだろうかと思って調べたり、休ませてもらった手前、10円でも20円でも賽銭箱に入れていくかと入れていくこともありました。
賽銭泥棒を目的とした放火があって本殿が焼失した・・・ということなどあったからということはわかるのですが、どうも、↓
↑ というのは、やり過ぎてことないかな・・・という印象を受けたのですが、どんなものでしょうか。 むしろ、↑のような「セキュリティ」をとるのなら、警備会社に依頼して警備員に巡回してもらうようにするとかの方がまだいいのではないか。少なくとも、監視カメラで四六時中見られるくらいなら、神社という施設の性質から考えても、生身の人間が巡回する方が良いのではないのか。 あるいは、放火による社殿の喪失が問題なら「セキュリティー」にかける費用で火災保険に入ればいいのではないか、といったことを考えました。
「不良のたまり場」になってもらっては困る・・・とは思いますが、一方で、追い出したとすると、その人達って、どこに行くのだろうな・・・なんてことを思ったりもするのです。 何年か前、宅地建物取引主任者(現 宅地建物取引士)の更新講習の時、法律問題の部分についての講師として来た弁護士が、「家賃滞納で家主から出てくださいと言われて出ていく人を見るたびに、いつも思うんです」と話したことがありました。何を思うのかというと、「この人って、どこに行くのだろうな」・・・・と。 家賃を払わないということでは、家主はそのままいてもらうわけにはいきません。 2006年、(株)エイブルhttps://www.able.co.jp/ におりました時、アパートの家主さんが「家主業というのは、実際問題として多くの人が思ってるほど儲かる商売じゃないんです」と言われたことがありましたが、その物件にもよるでしょうけれども、実際そうだと思います。家主は家賃を払わない人にいつまでもいてもらうわけにはいかないのです。しかし、「払わない」ならともかく「払えない」という人って、家賃を払えないということでアパートを出て、「いったい、どこに行くんだろうな」ということになるのです。 次、また、どこかで借りて何か月か家賃滞納して、また、別の所に行って家賃滞納して、また、別の所に行って・・・という人もいるかもしれませんが、しかし、「この人、どこに行くんだろうな」というその弁護士の感想はわかります。 ・・・で、「不良のたまり場」になってもらっては困るとは思うのですが、追い出したとして、その人達って、どこに行くんだろうな・・・・なんてことも考えるのです。
本殿の東側に、岐阜県のお寺とこの上宮天満宮は「経営者が同じです」といったことが書かれた掲示がありました。 前前から思ってきたのですが、神社の土地とか建物って、誰のものなんだろう・・・・? キリスト教の教会の場合、教会の牧師というのは雇われて牧師をやっていることが多く、教会の土地や建物は、その牧師が自宅で「伝道」を始めたとかいう場合は別として、牧師の所有ではないのが普通で、「牧師館」というのも、その牧師が教会のそばに家を購入して住んでいる場合はその家は牧師の所有であっても、教会が「牧師館」として建てたものは牧師の所有ではないのが普通です。 お寺の場合、本山とか、国宝・重要文化財の建物がいくつもあるような寺院、世界遺産とかになっている寺院の場合と、世襲で息子が跡を継いでいるようなお寺とでは事情は違うのではないかという感じがしますが、誰のものなんだろうな? なんて思いませんか? 東京の富岡八幡宮で、先代の宮司の息子が、宮司を継いだ姉を刺し殺したという事件がありましたが、富岡八幡宮というのは、けっこう大きな神社ですが、ああいう神社って、宮司の私物だったのだろうか?・・・・??? そうでないなら誰のものなんだろう??? 神社って、宮司さんの私物なの? これ、考え出すと、今晩、寝られなくなっちゃう・・・かもしれないけれども、どうなんだろうな・・・・・?
上宮天満宮HPの「セキュリティー」http://jogu.jp/pdf/2015bouhan.pdf のところに、≪ 平成8年以降、経営主体の交代後 ≫という表現もあり、「経営者」が「平成8年」(1996年)、放火により本殿を焼失した年から変わった、ということなのでしょう・・・・けれども、神社って、テーマパークか何かのように「経営者」という人がいるものだったのだろうか? 神社の氏子は株式会社の株主みたいなものなのか、そうではなく、「経営者」が「株」はほとんど持っていて、氏子というのは株主ではなく、「会員」になっている顧客、もしくは「常連さん」で、氏子でない参拝者が「いちげんさん」のお客さん・・・ということなのか・・・?
それにしても、「経営者」とはっきりと記載されると、どうも、神社の参拝者としては違和感を覚えるのですが、たしかに、マックス=ウェーバーなどは「経営」という言葉を、営利企業の経営に限らず、行政機関の経営、公共企業の経営、自治会などの経営、親睦団体の経営、趣味のサークルの経営、政党の経営、労働組合の経営・・・というように、「経営」よりも今現在の日本語としては「運営」という用語を使った方が日本人の感覚に近いような使い方をしているようで、同様に、「神社の経営」という考え方があっても悪いことはない・・・でしょう・・・・けれども、そうであっても、どうも、「経営者」という言葉をお寺や神社について使われると、やっぱり、違和感を覚えます。
で、≪ 平成8年以降、経営主体の交代後 ≫てことは、大塚家具がうまくいかなくなって、ヨドバシカメラが買い取るとか、貸し会議室屋のどこそこが買い取るとかいう説が週刊誌などに出たりしていますが、それと同様に、放火で本殿を失った「経営者」は、株を売り払って、阪神電鉄の株を阪急が買い取って阪急阪神ホールディングスという1つの会社になったみたいに他の神社屋が買い取るのではなく、隣接業界に進出しようとしていた会社の経営者が、経営状況がよくない隣接業界の会社を買い取って、そちらに進出するみたいに、ヤマダ電機が、アホ経営者がぶっつぶしたエスバイエル(株)を買い取り、リフォーム業界で一時は調子が良かった・・みたいな感じがした「リフォームのナカヤマ」を買い取って住宅建築業に進出したみたいに、お寺屋さんが神社屋を買い取って、神社業にも進出した・・・・てこと? 放火するような「不良」を追い出さずにいたために本殿を燃やされてしまったとはいえ、「天神さん」というのは「合格祈願の神さん」として神社業としては「恋愛成就の神さん」「商売繁盛の神さん」などとともに「売れ筋商品」(昔、模擬試験を受けた時、最低の「判定」だと「人事を尽くして天命を待て」なんてのがありましたが、もしかして、あれ?)であり、JRの新快速が停まる高槻駅からも近くて「地の利」があるし、「菅公聖跡二十五拝に選ばれている」、「焼失した旧本殿は豊臣秀吉が修造したものであった」ということで箔漬けもできるし、高槻市は大阪のベッドタウンとして人口もけっこう多いし、神社業としては決して悪くない物件だとして買い取って、「革新的経営」を始めた・・・・てことなの??? で、もしかして、神社業が成功するように、神職そろって今宮戎神社あたりに参拝して「商売繁盛」を祈願してきた♪・・・・なんて、・・・・それはないか???
テーマパークとか、せめて、美術館とかなら、「経営者」が変ったとして、それまでの経営者よりも魅力的な施設にして・・・というのはわかるのですが、神社というのは、マックス=ウェーバーの用語としては「神社の経営」「お寺の経営」「教会の経営」ということもあるわけですが、それは「運営」に近い意味で「経営」という用語を使用して言っているわけで・・・、「不良」のたまり場にするべきだとは思いませんし、放火を認めるべきだとも思いませんが、しかし、どうなんだろうな・・・・という「違和感」というのかを感じました。
マックス=ウェーバーの用語としては「神社の経営」「寺の経営」も「経営」の概念としてありうるのですが、やっぱり、日本人の感覚としては、「神社の経営」「神社の経営者」と言われると違和感を覚えると思います。とりあえず、「経営」「経営者」ではなく「運営」「運営者」という表現にした方がいいのではないか、と思ったのですが、いかがでしょうか。
上宮天満宮HPの「セキュリティー」http://jogu.jp/pdf/2015bouhan.pdf の文章の終わりのところに、「上宮天満宮 代表役員 森嘉和」と書いてあるのですが、「宮司」とか「神職代表」とかではなく「代表役員」なんだな・・・と思ったのです。 どういう団体の役員なのだろう? 「上宮ホールディングス(株)」の「代表役員」なのだろうか・・・?
上宮天満宮HPの「セキュリティー」http://jogu.jp/pdf/2015bouhan.pdf に出ている「状況」としての困った行為一覧ですが、「運動部部活使用」というのもありますが、これも、程度の問題もあると思うのですね。 もし、比較的余裕のあるスペースがあるならば、近所の学校の生徒が少しくくらい使ってもいいのではないのか・・とか思ったりもしないではないのです。 神社の敷地というのはどこまでなのか、というと、これも、けっこう曖昧だったりしますしね。神社専用の場所なのか、その地域の共有の場所なのか、微妙なケースもあります。
四天王寺に行った時、四天王寺では廻廊に囲まれた内側は拝観料を払って入場しましたが、そうでない場所は誰でも入れて、近所の子どもが遊び場所にして、体操服着て走ってるのも見ました。 「シンナー吸引」とかそういうのは認めるべきではないと思いますし、「医療用ゴミ放棄」なんてのはけしからんのですが、「運動部部活使用」とかは、程度の問題もあると思うのですが、一般参拝者の妨げにならない程度のものなら、必ずしも必死になって排除しなくてもという気もするのです。
慶應大学の日吉キャンパスには、「構内をご通行の皆様へ 樹木を折らないでください。・・・」とか書いた掲示板があり、これは東急東横線「日吉」駅から慶應大学の構内を通り抜ける近隣住民がいることからと、学生でも教員でもない人も入場することがあるという前提で出ているのですが、私は近隣の住人が通り抜けることをとがめる大学と、特に何か困ることをしない限り、近隣の住人が通り抜けるなんて、どうぞどうぞという大学であれば、どうぞどうぞという大学のほうが大学のあり方として好ましいと思います。慶應大学の三田の方のキャンパスでは、時々、入口の守衛さんに、トイレを貸してほしいと言うおばさんを見かけましたが、慶應の三田は旧島原藩下屋敷を福澤諭吉が「うまいこと安く買い取った」というものらしく(『福翁自伝』で福沢諭吉が自分で言っているのだからそうだろう)、地形が小山になっていてトイレは入口から階段を登らないといけない場所にしかなかったのですが、それでも、通行人がトイレを借りたいという気持ちになる大学と、あんな所に誰が入るか、トイレを借りるなら他の所で借りるわという気持ちになる大学なら、大学ならトイレくらい貸してもらえるだろう、あそこで借りたいという気持ちになる大学なら、あそこで借りたいという気持ちになる大学の方が、大学のあり方としていいと思うのです。 それと同様に、「シンナー吸引」とか「タカリ/ユスリ」とかは認めるべきではないと思いますし、「性行為」なんてのも、あんまり認めるべきではないと思いますが、「運動部部活使用」などは、程度の問題もあるとは思いますが、あまりにも徹底的に排除するのがいいかどうか、というと、むしろ、一般参拝者の妨げにならない程度なら、多少は許容してもいいということはないのか・・とか思ったりもしました。
神社は神聖な場所だということはわかりますが、同時に、誰もが肩ひじ張らずに入場できてこそ神社だという面もあると思うのです。 又、神社というのは、社殿の前まで行って、賽銭箱にお金を入れてニ礼二拍手一礼すれば、後はさっさと帰ってちょうだい・・という場所なのか・・・? そうではなく、そこでしばらく時間を過ごす場所ではないか・・・・とか思ったりもしたのです。
30年ほど前、私がここに来た時は、石製だったか木製だったかのベンチがあったような気がしたのです。神社なら、特にその神社に崇敬の思いを持つ者でなくても入れてもらっていいのではないか、そこで過ごさせてもらっていいのではないかと思い、ベンチで弁当食ったこともあったのです。賽銭泥棒とか賽銭泥棒を目的とした放火とかは認めるべきではないでしょうし、「性行為」なんてのは神社の境内でやるものではないと思いますが、弁当食べるくらい別にいいじゃないのと思っていたのですがどうでしょうか。 1980年代前半、大学生であった時、東京の二子玉川で、子供用教材の訪問販売の仕事をアルバイトでやった時、食事をどこで食べればいいかなんてわからなかったので、サンドイッチを買って持っていって、付近の神社の境内で食べたことがありました。 なんだか、今の上宮天満宮は、お弁当を持ってきたが食べる場所がないという人間が、神社なら境内で食べさせてもらってもいいだろうと考えて弁当箱を広げる者がいると、監視カメラで映されて排除されそうな感じです。 それは神社ですることではないということでしょうか。それなら、神社ですることって何でしょう。 賽銭箱にお金をいれることですか? 賽銭箱にお金をいれてニ礼二拍手一礼すれば、さっさと帰れということですか。 30年ほど前には、たしか、ベンチがあったと思ったのですが、今は見当たりません。
戦前戦中の「国家神道」の影響もあるのか、10代くらいの頃の私には、神社というと、国営か公営みたいな印象があったので、別にそこの氏子でなくても、特別に高額のお賽銭を入れなくても利用させてもらい、そこで時間を過ごさせてもらっていい場所ではないか・・・みたいに思っていたのです。だから、浪人中、この近所の予備校に行っていた時、ここで時間を過ごさせてもらったことが何度かありました・・・・が、今、監視カメラで全域を24時間監視しています・・・なんて大きく掲示された神社で、かつ、かつては、たしかあったと思ったベンチも撤去されて、社殿に参拝して賽銭いれてニ礼二拍手一礼したらさっさと帰るのが神社というものでしょ・・・みたいな姿勢になってしまったなら・・・・、別にそんな「神社」に行くことないのではないか、あえて立寄る必要はない場所ではないか・・・なんて思ったりもします。 かつて、何度か寄らせてもらい、そこで時間を過ごさせてもらった神社であり、ここは私にとっては「原点」みたいな場所でもあったので、何十年かぶりに訪問して、そして、かつて、時間を過ごさせてもらった神社の賽銭箱には多めにお賽銭を入れてきたのですが、前はなかった授与所ができたというのはできていいと思いますが、どうも、前の方が居心地はよかったような・・・とか思って帰ることになりました。
慶應大学の三田キャンパスの「東京大学の建築学科を卒業して慶應大学で教えておられる槇文彦先生」が設計なさったという新図書館の脇に、「普通の人間と同じ大きさで、普通の人間と同じ高さ」の福澤諭吉の胸像がかつてあったのです。私はそこに何度か行って、福澤諭吉の像に語りかけたことがありました。しかし、最近、三田のキャンパスに行ってみると、その福澤諭吉像は別の場所に移されてしまいました。 一般の学生が通行する通路から生け垣で隔てられた少々高い場所に移され、すぐそばまで行くことはできなくなってしまったのです。 エライ人の像というものは普通の人間よりも高い場所にあるべきだ、エライ人の像は普通の人間はすぐそばまで行くものではない・・というそういう考え方をした誰か「エライ人」が、かつての、誰でもすぐそばまで行くことができる場所から移した、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」と『学問のすすめ』の冒頭に書いた福澤諭吉の像であるから、だから、「普通の人間と同じ大きさで、普通の人間と同じ高さ」の像で、そして、誰もがすぐそばまで行くことができる場所に設置されていたものを、「普通の人間よりも高い場所に」「普通の人間が通る通路とは生け垣で隔てられて、すぐそばには行くことができない場所」に移設されてしまったのです。私なんかと違って「エライ人」がやったことでしょう。そして、おそらく、その「エライ人」はそういう姿勢・態度を「福沢精神」とか「独立自尊」とか思っているのでしょう。
日吉の新図書館の前に、「普通の人間よりもひと回り大きい福澤諭吉像」ができました。その像の前を通らないと図書館に入れないという場所に設置されています。下品な像だと思います。きっと、三田の「普通の人間と同じ大きさ」の福澤諭吉像が「普通の人間と同じ高さ」の場所で、誰もがいつでもすぐそばまで行ける場所に設置されていたものを、「普通の人間よりも高い場所」で「普通の人間が通る通路とは生け垣で隔てられてそばには行けない場所」に移設した人と同じ考えの人がやったことでしょう。その人達は、おそらく、それを「正常化」だと考えていたのではないでしょうか。 福澤諭吉の著作とか伝記など読んだこともなく「福沢精神」と叫ぶのが好きな人というのが慶應義塾の関係者には大変多い。その人達にとっては、福沢諭吉が著作でどういうことを述べているか、どういう生き様の人であったかなんてどうでもいいことであり、自分たちがやることが「福沢精神」であり、自分たちのやることに批判的な者は、たとえ福澤諭吉でも小泉信三でも「福沢精神に反する」ことになるのです。慶應義塾にはそういう人が大変多いのですが、そういう人はそういう態度が「福沢精神」だと思っており、そして、「普通の人間と同じ高さ」で普通の人間がすぐそばまで行くことができた福澤諭吉の胸像を、普通の人間よりも高い場所で、普通の人間がそばに行くことができない場所に移設することを「正常化」と考えたのだと思います。おそらく、そうでしょう。その人はそういう態度を「福沢精神」で「独立自尊」で「塾風」で「自我が確立されている」態度で「アイデンティティーを身に着けている」態度で「大人の対応」で「社会を知っている」で「人間的に成熟している」で「そういう人間が社会で役に立つ」で「会社はそういう人間を喜ぶ」で、なにより「ギャルにもてもて」とか思っているのです。そういう人にうかつに逆らうと、その逆、「福沢精神に反する」「独立自尊の精神を身に着けていない」「塾風をみにつけていない」「自我が確立されていない」「アイデンティティーを身に着けていない」「人間的に未成熟」「世の中を知らない」「そういう人間は社会に役に立たない非国民だ」「会社はそういう人間は採用しない」「結婚する相手ないぞ」とか「診断」されるのです。怖い、怖い。それが慶應義塾の「塾風」という態度で、なにより、慶應大学医学部助教授であった小此木啓吾なんてのはそういう思想の持ち主のようです。まったくつくづく、怖い、怖い!
「普通の人間と同じ大きさ」の福澤諭吉像が、「普通の人間と同じ高さ」の場所にあったものを、普通の人間よりも高い場所に移設するのが「正常化」なのか。 誰もがすぐそばまで行けるという場所にあった福沢諭吉像を生け垣で隔てられたそばには行けない場所に移設するのが「正常化」なのか、というと、違うように思うのですが、それを「正常化」だと思っている人、要するに「塾風を身に着けている人」「自我が確立されている人」「アイデンティティーを持っている人」「ギャルにもてもて」がいたのです・・・・が、そういう人に「それが『正常化』なのでしょうか」などと言おうものなら、「作家で精神科医」の なだ いなだ が『人間、この非人間的なもの』(ちくま書房)で、戦中、「どうも、日本は負けそうだな」と口にしたところ、「おまえはそれでも日本人か!」と怒鳴りつけられたと書いており、「おまえはそれでも日本人か」と言われても、日本人なんだから、しかたがないじゃないか・・・思ったが、慶應大学という大学は「おまえはそれでも慶大生か」という文句を言うのが好きな人間が大変多い大学でした。 私なんかは、そういう文句を聞くたびに、ああ、ここの大学というのは、こういう人の学校なんだな、「おまえはそれでも◇◇か」とかいう文句は、自分や自分が気に入る人間しか認めない心の狭いファッショ的な人間が口にする文句であり、ある程度以上の大学に進学するような教養人は口にするべきではない文句であると認識している私なんかはここの学校では「異邦人」なんだなと思ったものでした。
上宮天満宮の場合は、1996年の「賽銭泥棒を狙った放火による本殿の焼失」をきっかけとして、「経営者」が変わり、今も試行錯誤の途中なのではないかと思いますが、「正常化」というと、そもそも、「正常化」とはどういう状態にするのが「正常化」なのか、「正常」とはどういう状態を言うべきか、という点において、けっこう難しいところもあると思います。 見ていると、けっこう多くの参拝者があります・・・が、社殿に参拝するとさっさと帰る人が多いようにも見えました。 神社というのは、参拝してすぐに帰る人もあっていいけれども、そこでしばらく過ごしたいと思う人だってあっていいのではないか・・・とか思ったのですが、全域・常に監視カメラで見張られているという場所、「神さま」以外の者から見張られている場所に、特に長居してもしかたない・・・ような気もしました。猫を捨てに来る人、賽銭泥棒やシンナー吸引するために来る人は見はられてもしかたないかもしれませんし、「医療用ゴミ」なんて廃棄しに来る者はこれは警察がきっちりと取り締まるべきですが、そうはいっても、やっぱり、神社に監視カメラというのはどうもなんだか・・・・。(「草薙の剣」を盗みに来る人があるらしい熱田神宮では、鉄条網で本殿を取り囲んだ上で、監視カメラが設置され、警備員も常駐していましたが・・・)、なかなか、難しいところがありますね。
次回、5.摂社野身神社、車塚古墳、鉄骨で支えた石の鳥居。反則相撲の野彌宿祢 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_6.html
(2019.11.4.)
本殿の背後の位置に末社が並んでいます。
本殿の左からまわってみますと、
↑ 「四社殿」
左から、日吉社、金毘羅社、稲荷社、荒神社。
↑ 「猫神社 守護天神」と記載されているのですが、天神でも、前の本殿の「天神さん」とどう違うのかと思って見ると、これは、1996年の放火による本殿焼失の後、山林を整備・清掃したところ、捨て猫が相当住みついていたらしく、猫を主としてペットとして飼われた動物を守護する神さまとしてこの位置に設立された、というものらしい。
( ↑ 「鳥居」マークが、「猫神社 守護天神」。 その手前の比較的大きな建物が、上宮天満宮本殿。 )
↑ 厳島神社 と 「天神鉢花園」。
この場所は小山の上ですから、人工の池を作っても水を貯めるのは困難であることから、池状の部分に植木鉢を置いた、ということでしょうか。
↑ 厳島神社の手前に、春日社。
↑ 皇太神社。
「猫神社」の社は新しいのですが、それ以外は建物は年季の入った建物のような感じです。「割拝殿」というのは、あれは拝殿なのか門なのか。門ならば、そこを通って内部に入って参拝して良さそうですが、拝殿ならば、その位置から参拝して、基本的にはそれより内側には無暗に入らないということになると思うのですが、割拝殿よりも内側の本殿のそのさらに奥に「四社殿」があり、本殿の右手(東側)に厳島神社・春日社・皇太神社がある。
山林を整備・清掃した際に、野良猫が相当住みついていた、神社の森林に飼い猫を捨てないでもらいたい・・・、その猫はどうなったんだろう。 どこか他の森林に連れていって捨ててきたのか、保健所に依頼して「殺処分」したのだろうか・・・・とか考えると複雑な思いがしますが、それなら野良猫が住みつくのを放置するのが好ましいわけでもないでしょう。
上宮天満宮HP の「天神さんの猫たち」http://jogu.jp/pdf/2015neko.pdf を見ると、上宮天満宮では、上宮天満宮の敷地内において、捕まえた猫は、すべて、去勢・避妊の手術をおこない、猫の食事と住居は神社が負担して飼うとともに、全域をカメラで記録して、猫などの放棄を防止するようにしている、ということらしい。これは相当大変なことだと思うし、その大変なことをやっているという点には頭が下がります。全域をカメラで撮影して・・という点については、はたしてそういうことをするのがいいのか・・と思ったりもするのですが、猫などのペットを捨てられるのを防ぐという点においては、そうでもするしかないのでしょうか・・。
敷地内に住みついた野良猫を追い出して、神社内のみをきれいにするということならまだできますが、追い出すだけ追い出したのでは周辺地域に住みつくことになりますし、また、神社敷地内に戻って来るかもしれません。「相当遠くまでクルマで連れていって、相当遠くのよその寺か神社の境内に捨ててきてこましたろか」・・・なんてやるわけにもいきませんわな・・・・(あるいは、嫌いな金持ちの家の庭に投げ込んでくるとか・・・)。遠くに捨てにいくのでもなく、追い出して戻ってこないように敷地内から野良猫を一掃しようとするならば、保健所に依頼するという方法もあるかもしれませんが、保健所はどうするかというと、保健所は「殺処分」しかできることはないでしょう。 神社というものの性質から考えて、「殺処分」を求めるというのはできる限り避けたい。しかし、そのまま、野良猫として放置もできない。1匹くらいなら飼えても、何匹も飼わされるのは勘弁ねがいたいし、その神社に捨てれば飼ってもらえると思って捨てる人が続出・・・なんてことになってはたまってものではない。そういうことする人間には、それこそ、天神さんに祈願して、雷でも落としてもらいたい?(「ゴースン、サンダー!」て感じで?⇒《YouTube-タイガージョーの最期 》https://www.youtube.com/watch?v=jwtdcKrUYi0 )。 難しいところです。
2000年頃、栃木県足利市の足利学校の裏手にある鑁阿寺(ばんなじ)に行った時、「犬を捨てないでください」と書かれた掲示があった。 この鑁阿寺(ばんなじ)という寺の多宝塔は、生類憐みの令を出した徳川5代将軍の徳川綱吉の生母の桂昌院が建立したというものらしく、この桂昌院さんは綱吉に、あなたは犬の年の生れであるから特に犬は大事にするべきだと言ったという話がある人であり、それゆえに、桂昌院さんと縁が深い鑁阿寺(ばんなじ)なら、これまで飼ってきた犬をこれ以上飼いきれないと思った人が、ここなら捨てても世話してもらえるのではないか・・・と考えて捨てていく人がいた、ということのようだ・・・・が、寺としては、そういうことをされても困るわけで、もしも、桂昌院さんと徳川綱吉に縁が深い寺であるから、捨てられた犬でも大事にしてくれるのではないか・・などと考えるのであれば、同時に、生類憐みの令というものを出して、犬を中心として生き物を粗末にした者は処罰するぞという姿勢を示した徳川綱吉と生母の桂昌院に縁のある寺である以上は、そこに犬を捨てていくというような者は処罰されても文句は言えない・・・とも考える必要があるのではないか・・・。 実際問題として、最後まで飼うつもりでいたが、飼いきれなくなってしまい、だからといって保健所に「殺処分」を依頼するなんてことはできない・・・と思った人が、鑁阿寺(ばんなじ)に捨てていった・・という人があったのだろう・・・・が、寺としてはそういうことをされても困る・・・ということだったのだと思う。
※ 足利市HP 鑁阿寺http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikaga-kankou/i-bannaji.html
足利市HP 鑁阿寺多宝塔(ばんなじたほうとう)http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/bunkazai/bannajitahoutou.html
足利市観光協会 鑁阿寺https://www.ashikaga-kankou.jp/spot/bannaji
《ウィキペディア-鑁阿寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%91%81%E9%98%BF%E5%AF%BA
( ↑ 「 i 」マークが、鑁阿寺。 その手前、JR「足利」駅と東武「足利市」駅を結ぶ橋の東のあたりの渡良瀬川の河川敷に、足利事件の被害者の女児の遺体が遺棄されたらしい。 かわいそうになあ・・・と思う。特に、その付近で仕事をしていたことがある者としては、かわいそうになあ・・と思うが、だからといって、うかつに、その付近に行って手を合わせたりすると、警察暴力団から菅家さんみたいに犯人扱いされる危険があるから、うかつに近づかない方がよさそうである。)
[第619回]《平塚神社社殿の裏の岡。猫の死骸をかわいそうと思うか気持悪いと考えるか―平塚神社と浅見光彦【7/15】》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_9.html でも述べたことだが、今となっては30年以上前のことだが、大学生であった時だが、川崎市幸区の多摩川に近い場所のアパートに住んでいたのだが、夕方、多摩川の河川敷でバットの素振りを体力づくり・健康増進のつもりで日課としてやっていたのだが、帰ろうとすると、「みゃー」という猫の声がする。どこにいるのだろうと思って見回すと、河川敷に何本か木の杭が打ち込んであって、その杭の上に子猫がいて「みゃー」と鳴いていた。犬なら降りられないということもあるかもしれないが、猫なんだから降りたければ自分で飛び降りればいいだろうと思って行こうとすると、また、「みゃー」と言って呼び止める。私は、猫というものは少々高い所からでも飛び降りることができるものだと思っていたのだが、ところが、子猫は飛び降りることができないらしい。それなら、どうやってそこに乗ったのか? 誰かにいたずらで乗せられたのだろうか。 かわいそうに思い、降ろしてあげようとして両手でつかむと、怖がって、さらに「みゃー」と言う。なんだ、ひとが親切で降ろしてやろうとしたのに、嫌がるのなら無理に降ろしてやることもない・・と思って立ち去ろうとすると、またもや、「みゃー」と言って呼び止める。その子猫にとっては相当高い場所に乗せられたので、そこから降りるのは、両手でかかえてもらったとしても知らない相手に持たれるのは怖いのだろう。しかし、同時にそのままそこに乗せられたまま放置されるのも困るので、それで、「みゃー」と言って呼び止めたのだろう。 しかたがないから、怖がられてもおかまいなしに、両手でつかんで下に降ろしてやったのだ・・・・が、ところが、降ろしてやれば、そこからは、自分でなんとかするだろうとこちらは思ったのだが、アパートに帰ろうとして歩くと、杭の上から降ろしてくれた相手(どうやらその子猫にとっては、その時点で最も頼れる相手・・・ということだったのだろう)の後をついてくるのだ。 離されまいとして、子猫にとっては必死でついてくるのだ。・・・困ったな。 なんとかしてやれるものならしてやりたいが、杭の上から降ろしてやるだけでこちらはせいいっぱい。 アパートは「ペット不可」だし、なにしろ、「わしぁ、日陰の月見草」「わしぁ、貧乏やからな」という者にとっては猫を飼う余裕なんかない。アパートの入口までついてくるが、それ以上ついてこられても困るので、向こうに行けと合図しても、それでも、「みゃー」と言ってついてくる。困ったやつだな、ほんとに・・・と思ったが、何度も何度も追い払って、最後はあきらめたようで、ついて来なくなった・・・・が、あの子猫は、その後、どうしただろうか。 そもそも、なぜ、河川敷に立っている木の杭の上にいたのか。 誰かが河川敷に捨てにきたが、河川敷に置き去りにしようとすると、鳴いて(泣いて?)ついてくるので、それで、ついて来れないように杭の上に乗せて立ち去ったのだろうか。 それを、かわいそうにと思って下に降ろしたものの、だからといって飼ってあげることなんてできない男が無責任に下に降ろしてしまったということだろうか。
今でも、犬なり猫なりを飼ってみたいような気がする時もあるが、気が向いた時に頭をなでるだけならできるが、こちらが疲れ切った時でも、エサを与え、糞尿の世話もきっちりとできるかというと、やりきる自信はない。だから、私は飼わない。 ところが、猫を飼って、その猫にひとの家の敷地内に入らせ、そして、ひとの家の小さい小さい庭で糞させて帰る飼い主というのがいるのだ。 あの猫、つかまえて猫鍋にして食ったろか!・・・とか、かつて、河川敷の杭の上で鳴いていた(泣いていた?)子猫をかわいそうに思って苦労して下に降ろしてあげた同じ男が思うのだが、猫鍋にして食うと「まずい」かもしれないが、だからといって、猫を飼って頭なでるだけなでて、糞はよその家の庭でさせる飼い主がいいというものでもないだろうが!!! 向かいのじいさん(体だけ元気な年寄)が「私は、みんなのために尽くしてるんだ」とか言うので、「ひとの家の庭に入ってきて糞する猫がいるんですけど、あれも困りますねえ」と言ったところ、「それはしかたがない」などと言いおったのだ。 「しかたがない」かあ? おのれは猫の頭をなでるだけで、糞はよその家の庭にさせるというのが、猫の飼い主の「権利」なのか?!?!? 「ち~が~う~だ~ろ! このボケぇ~え!!!」と言いたい。 猫を飼って頭なでるなら、その猫の糞の処理まで責任もってやるべきと違うのか。 頭なでるだけなでて、糞はよその家の庭でさせるのが愛猫家か??? 犬を飼って頭なでて、その犬のしょんべんを我が家の玄関の門柱にその家の住人の眼の前で平気でさせるおっさんが愛犬家か??? 犬の頭なでるだけなでて我が家の車庫の前に爆弾みたいな糞をさせて放置する者が愛犬家か? 猫はよその家の敷地内に入る「権利」があると飼い主は思っているようだが、そうか??? そういうものとは違うと思うがな・・・。
私が子供の頃、住んでいた大阪市東住吉区の家の近所の神社も、姉は中学校で「◇◇神社は、夜は行ってはいけない」と言われたそうで、それは、お祭りで夜店が出ている時など以外は「夜は不良のたまり場になる」からということでした。最も、実際に行ったこともあるのですが、特別どうということもなかったけれども。
それにしても、神社というものは、特に夜に神事を行うといった神社は別として、基本的には昼に行くものでしょう。 朝日新聞出版から出ている『本当にあった怖い話』に掲載されている「霊能者」寺尾怜子さんの話で、神社には「祈りの場」という性質と「呪いの場」という性質があり、昼は「祈りの場」という性質が強いが、夜になると「呪いの場」という性質が強くなるという発言が出ていましたが、そういうこともあるかもしれません。だから、参拝は午後6時までにしてください、と掲示されていましたが、それはもっともではあります・・・・が、それにしても、上宮天満宮HP の「セキュリティー」http://jogu.jp/pdf/2015bouhan.pdf に出ているやり方というのは、ちょっと、やりすぎてことないかな・・・・という印象も受けたのですが、そこまでやらないと対処できない状態だったのでしょうか。
1970年代後半、この近所の予備校に行っていた時期があり、その際、この神社に立ち寄ったことがあったのです。 お寺の場合は、本山とか有名寺院、世界遺産とかに指定されているようなお寺の場合は、拝観料を払うことで誰でも入れるという寺が多いものの、そうではない末寺の場合は、その寺の檀家でない人が立ち入ることは認めてもらえない場合が多いと認識してきました。檀家の人間なら行くといいのかというと、必ずしもそうではなく、母方の祖父の葬式の時、お坊さんが「お墓にはよく来ていただいていましたが、お寺の方にはあまり寄っていただけませんでしたが」と文句というのか苦情というのかを、ひとこと、口にしたことがあり、「なんで、寄らなかったのだろう」と母に言ったところ、「そりぁ、寄れば、その度にお金をせびられるからじゃないの」ということでした。なるほど。お寺というのは、檀家は、「こんにちわあ」と挨拶すると、そのたびに、1万円・2万円とカネ払わないといけないのか・・・・。たまになら、払ってもいいだろうけれども、顔あわすたびに払わされるのなら、足は遠のくわなあ・・・と思ったものでした。
その点、神社というのは、有名神社とか世界遺産とかの神社は、入口もしくは中心となる神域に入る所で拝観料を求められることが多いのに対し、そうでない「そのへんの神社」の場合は、拝観料なんてとらないし、拝観料を受け取るために人を配置したのでは、その人の給料の方が拝観料の収入よりも高くついてしまう、ということもあるでしょうし、そして、「国家神道」の流れなのかもしれませんが、誰でも入っていい、特に氏子でなくても、境内に入って参拝するのは自由・・・としている神社が多いように思います。 ですから、私のような「逍遥学派」というのか、特に観光地でもない場所を歩くのが好き・・という人間は、どこかで少し休憩したいがという時、神社の境内で休ませてもらったりしたことは何度もあります。その「ついで」というとなんですが、ここの神社というのは何の神さんなのだろうかと思って調べたり、休ませてもらった手前、10円でも20円でも賽銭箱に入れていくかと入れていくこともありました。
賽銭泥棒を目的とした放火があって本殿が焼失した・・・ということなどあったからということはわかるのですが、どうも、↓
↑ というのは、やり過ぎてことないかな・・・という印象を受けたのですが、どんなものでしょうか。 むしろ、↑のような「セキュリティ」をとるのなら、警備会社に依頼して警備員に巡回してもらうようにするとかの方がまだいいのではないか。少なくとも、監視カメラで四六時中見られるくらいなら、神社という施設の性質から考えても、生身の人間が巡回する方が良いのではないのか。 あるいは、放火による社殿の喪失が問題なら「セキュリティー」にかける費用で火災保険に入ればいいのではないか、といったことを考えました。
「不良のたまり場」になってもらっては困る・・・とは思いますが、一方で、追い出したとすると、その人達って、どこに行くのだろうな・・・なんてことを思ったりもするのです。 何年か前、宅地建物取引主任者(現 宅地建物取引士)の更新講習の時、法律問題の部分についての講師として来た弁護士が、「家賃滞納で家主から出てくださいと言われて出ていく人を見るたびに、いつも思うんです」と話したことがありました。何を思うのかというと、「この人って、どこに行くのだろうな」・・・・と。 家賃を払わないということでは、家主はそのままいてもらうわけにはいきません。 2006年、(株)エイブルhttps://www.able.co.jp/ におりました時、アパートの家主さんが「家主業というのは、実際問題として多くの人が思ってるほど儲かる商売じゃないんです」と言われたことがありましたが、その物件にもよるでしょうけれども、実際そうだと思います。家主は家賃を払わない人にいつまでもいてもらうわけにはいかないのです。しかし、「払わない」ならともかく「払えない」という人って、家賃を払えないということでアパートを出て、「いったい、どこに行くんだろうな」ということになるのです。 次、また、どこかで借りて何か月か家賃滞納して、また、別の所に行って家賃滞納して、また、別の所に行って・・・という人もいるかもしれませんが、しかし、「この人、どこに行くんだろうな」というその弁護士の感想はわかります。 ・・・で、「不良のたまり場」になってもらっては困るとは思うのですが、追い出したとして、その人達って、どこに行くんだろうな・・・・なんてことも考えるのです。
本殿の東側に、岐阜県のお寺とこの上宮天満宮は「経営者が同じです」といったことが書かれた掲示がありました。 前前から思ってきたのですが、神社の土地とか建物って、誰のものなんだろう・・・・? キリスト教の教会の場合、教会の牧師というのは雇われて牧師をやっていることが多く、教会の土地や建物は、その牧師が自宅で「伝道」を始めたとかいう場合は別として、牧師の所有ではないのが普通で、「牧師館」というのも、その牧師が教会のそばに家を購入して住んでいる場合はその家は牧師の所有であっても、教会が「牧師館」として建てたものは牧師の所有ではないのが普通です。 お寺の場合、本山とか、国宝・重要文化財の建物がいくつもあるような寺院、世界遺産とかになっている寺院の場合と、世襲で息子が跡を継いでいるようなお寺とでは事情は違うのではないかという感じがしますが、誰のものなんだろうな? なんて思いませんか? 東京の富岡八幡宮で、先代の宮司の息子が、宮司を継いだ姉を刺し殺したという事件がありましたが、富岡八幡宮というのは、けっこう大きな神社ですが、ああいう神社って、宮司の私物だったのだろうか?・・・・??? そうでないなら誰のものなんだろう??? 神社って、宮司さんの私物なの? これ、考え出すと、今晩、寝られなくなっちゃう・・・かもしれないけれども、どうなんだろうな・・・・・?
上宮天満宮HPの「セキュリティー」http://jogu.jp/pdf/2015bouhan.pdf のところに、≪ 平成8年以降、経営主体の交代後 ≫という表現もあり、「経営者」が「平成8年」(1996年)、放火により本殿を焼失した年から変わった、ということなのでしょう・・・・けれども、神社って、テーマパークか何かのように「経営者」という人がいるものだったのだろうか? 神社の氏子は株式会社の株主みたいなものなのか、そうではなく、「経営者」が「株」はほとんど持っていて、氏子というのは株主ではなく、「会員」になっている顧客、もしくは「常連さん」で、氏子でない参拝者が「いちげんさん」のお客さん・・・ということなのか・・・?
それにしても、「経営者」とはっきりと記載されると、どうも、神社の参拝者としては違和感を覚えるのですが、たしかに、マックス=ウェーバーなどは「経営」という言葉を、営利企業の経営に限らず、行政機関の経営、公共企業の経営、自治会などの経営、親睦団体の経営、趣味のサークルの経営、政党の経営、労働組合の経営・・・というように、「経営」よりも今現在の日本語としては「運営」という用語を使った方が日本人の感覚に近いような使い方をしているようで、同様に、「神社の経営」という考え方があっても悪いことはない・・・でしょう・・・・けれども、そうであっても、どうも、「経営者」という言葉をお寺や神社について使われると、やっぱり、違和感を覚えます。
で、≪ 平成8年以降、経営主体の交代後 ≫てことは、大塚家具がうまくいかなくなって、ヨドバシカメラが買い取るとか、貸し会議室屋のどこそこが買い取るとかいう説が週刊誌などに出たりしていますが、それと同様に、放火で本殿を失った「経営者」は、株を売り払って、阪神電鉄の株を阪急が買い取って阪急阪神ホールディングスという1つの会社になったみたいに他の神社屋が買い取るのではなく、隣接業界に進出しようとしていた会社の経営者が、経営状況がよくない隣接業界の会社を買い取って、そちらに進出するみたいに、ヤマダ電機が、アホ経営者がぶっつぶしたエスバイエル(株)を買い取り、リフォーム業界で一時は調子が良かった・・みたいな感じがした「リフォームのナカヤマ」を買い取って住宅建築業に進出したみたいに、お寺屋さんが神社屋を買い取って、神社業にも進出した・・・・てこと? 放火するような「不良」を追い出さずにいたために本殿を燃やされてしまったとはいえ、「天神さん」というのは「合格祈願の神さん」として神社業としては「恋愛成就の神さん」「商売繁盛の神さん」などとともに「売れ筋商品」(昔、模擬試験を受けた時、最低の「判定」だと「人事を尽くして天命を待て」なんてのがありましたが、もしかして、あれ?)であり、JRの新快速が停まる高槻駅からも近くて「地の利」があるし、「菅公聖跡二十五拝に選ばれている」、「焼失した旧本殿は豊臣秀吉が修造したものであった」ということで箔漬けもできるし、高槻市は大阪のベッドタウンとして人口もけっこう多いし、神社業としては決して悪くない物件だとして買い取って、「革新的経営」を始めた・・・・てことなの??? で、もしかして、神社業が成功するように、神職そろって今宮戎神社あたりに参拝して「商売繁盛」を祈願してきた♪・・・・なんて、・・・・それはないか???
テーマパークとか、せめて、美術館とかなら、「経営者」が変ったとして、それまでの経営者よりも魅力的な施設にして・・・というのはわかるのですが、神社というのは、マックス=ウェーバーの用語としては「神社の経営」「お寺の経営」「教会の経営」ということもあるわけですが、それは「運営」に近い意味で「経営」という用語を使用して言っているわけで・・・、「不良」のたまり場にするべきだとは思いませんし、放火を認めるべきだとも思いませんが、しかし、どうなんだろうな・・・・という「違和感」というのかを感じました。
マックス=ウェーバーの用語としては「神社の経営」「寺の経営」も「経営」の概念としてありうるのですが、やっぱり、日本人の感覚としては、「神社の経営」「神社の経営者」と言われると違和感を覚えると思います。とりあえず、「経営」「経営者」ではなく「運営」「運営者」という表現にした方がいいのではないか、と思ったのですが、いかがでしょうか。
上宮天満宮HPの「セキュリティー」http://jogu.jp/pdf/2015bouhan.pdf の文章の終わりのところに、「上宮天満宮 代表役員 森嘉和」と書いてあるのですが、「宮司」とか「神職代表」とかではなく「代表役員」なんだな・・・と思ったのです。 どういう団体の役員なのだろう? 「上宮ホールディングス(株)」の「代表役員」なのだろうか・・・?
上宮天満宮HPの「セキュリティー」http://jogu.jp/pdf/2015bouhan.pdf に出ている「状況」としての困った行為一覧ですが、「運動部部活使用」というのもありますが、これも、程度の問題もあると思うのですね。 もし、比較的余裕のあるスペースがあるならば、近所の学校の生徒が少しくくらい使ってもいいのではないのか・・とか思ったりもしないではないのです。 神社の敷地というのはどこまでなのか、というと、これも、けっこう曖昧だったりしますしね。神社専用の場所なのか、その地域の共有の場所なのか、微妙なケースもあります。
四天王寺に行った時、四天王寺では廻廊に囲まれた内側は拝観料を払って入場しましたが、そうでない場所は誰でも入れて、近所の子どもが遊び場所にして、体操服着て走ってるのも見ました。 「シンナー吸引」とかそういうのは認めるべきではないと思いますし、「医療用ゴミ放棄」なんてのはけしからんのですが、「運動部部活使用」とかは、程度の問題もあると思うのですが、一般参拝者の妨げにならない程度のものなら、必ずしも必死になって排除しなくてもという気もするのです。
慶應大学の日吉キャンパスには、「構内をご通行の皆様へ 樹木を折らないでください。・・・」とか書いた掲示板があり、これは東急東横線「日吉」駅から慶應大学の構内を通り抜ける近隣住民がいることからと、学生でも教員でもない人も入場することがあるという前提で出ているのですが、私は近隣の住人が通り抜けることをとがめる大学と、特に何か困ることをしない限り、近隣の住人が通り抜けるなんて、どうぞどうぞという大学であれば、どうぞどうぞという大学のほうが大学のあり方として好ましいと思います。慶應大学の三田の方のキャンパスでは、時々、入口の守衛さんに、トイレを貸してほしいと言うおばさんを見かけましたが、慶應の三田は旧島原藩下屋敷を福澤諭吉が「うまいこと安く買い取った」というものらしく(『福翁自伝』で福沢諭吉が自分で言っているのだからそうだろう)、地形が小山になっていてトイレは入口から階段を登らないといけない場所にしかなかったのですが、それでも、通行人がトイレを借りたいという気持ちになる大学と、あんな所に誰が入るか、トイレを借りるなら他の所で借りるわという気持ちになる大学なら、大学ならトイレくらい貸してもらえるだろう、あそこで借りたいという気持ちになる大学なら、あそこで借りたいという気持ちになる大学の方が、大学のあり方としていいと思うのです。 それと同様に、「シンナー吸引」とか「タカリ/ユスリ」とかは認めるべきではないと思いますし、「性行為」なんてのも、あんまり認めるべきではないと思いますが、「運動部部活使用」などは、程度の問題もあるとは思いますが、あまりにも徹底的に排除するのがいいかどうか、というと、むしろ、一般参拝者の妨げにならない程度なら、多少は許容してもいいということはないのか・・とか思ったりもしました。
神社は神聖な場所だということはわかりますが、同時に、誰もが肩ひじ張らずに入場できてこそ神社だという面もあると思うのです。 又、神社というのは、社殿の前まで行って、賽銭箱にお金を入れてニ礼二拍手一礼すれば、後はさっさと帰ってちょうだい・・という場所なのか・・・? そうではなく、そこでしばらく時間を過ごす場所ではないか・・・・とか思ったりもしたのです。
30年ほど前、私がここに来た時は、石製だったか木製だったかのベンチがあったような気がしたのです。神社なら、特にその神社に崇敬の思いを持つ者でなくても入れてもらっていいのではないか、そこで過ごさせてもらっていいのではないかと思い、ベンチで弁当食ったこともあったのです。賽銭泥棒とか賽銭泥棒を目的とした放火とかは認めるべきではないでしょうし、「性行為」なんてのは神社の境内でやるものではないと思いますが、弁当食べるくらい別にいいじゃないのと思っていたのですがどうでしょうか。 1980年代前半、大学生であった時、東京の二子玉川で、子供用教材の訪問販売の仕事をアルバイトでやった時、食事をどこで食べればいいかなんてわからなかったので、サンドイッチを買って持っていって、付近の神社の境内で食べたことがありました。 なんだか、今の上宮天満宮は、お弁当を持ってきたが食べる場所がないという人間が、神社なら境内で食べさせてもらってもいいだろうと考えて弁当箱を広げる者がいると、監視カメラで映されて排除されそうな感じです。 それは神社ですることではないということでしょうか。それなら、神社ですることって何でしょう。 賽銭箱にお金をいれることですか? 賽銭箱にお金をいれてニ礼二拍手一礼すれば、さっさと帰れということですか。 30年ほど前には、たしか、ベンチがあったと思ったのですが、今は見当たりません。
戦前戦中の「国家神道」の影響もあるのか、10代くらいの頃の私には、神社というと、国営か公営みたいな印象があったので、別にそこの氏子でなくても、特別に高額のお賽銭を入れなくても利用させてもらい、そこで時間を過ごさせてもらっていい場所ではないか・・・みたいに思っていたのです。だから、浪人中、この近所の予備校に行っていた時、ここで時間を過ごさせてもらったことが何度かありました・・・・が、今、監視カメラで全域を24時間監視しています・・・なんて大きく掲示された神社で、かつ、かつては、たしかあったと思ったベンチも撤去されて、社殿に参拝して賽銭いれてニ礼二拍手一礼したらさっさと帰るのが神社というものでしょ・・・みたいな姿勢になってしまったなら・・・・、別にそんな「神社」に行くことないのではないか、あえて立寄る必要はない場所ではないか・・・なんて思ったりもします。 かつて、何度か寄らせてもらい、そこで時間を過ごさせてもらった神社であり、ここは私にとっては「原点」みたいな場所でもあったので、何十年かぶりに訪問して、そして、かつて、時間を過ごさせてもらった神社の賽銭箱には多めにお賽銭を入れてきたのですが、前はなかった授与所ができたというのはできていいと思いますが、どうも、前の方が居心地はよかったような・・・とか思って帰ることになりました。
慶應大学の三田キャンパスの「東京大学の建築学科を卒業して慶應大学で教えておられる槇文彦先生」が設計なさったという新図書館の脇に、「普通の人間と同じ大きさで、普通の人間と同じ高さ」の福澤諭吉の胸像がかつてあったのです。私はそこに何度か行って、福澤諭吉の像に語りかけたことがありました。しかし、最近、三田のキャンパスに行ってみると、その福澤諭吉像は別の場所に移されてしまいました。 一般の学生が通行する通路から生け垣で隔てられた少々高い場所に移され、すぐそばまで行くことはできなくなってしまったのです。 エライ人の像というものは普通の人間よりも高い場所にあるべきだ、エライ人の像は普通の人間はすぐそばまで行くものではない・・というそういう考え方をした誰か「エライ人」が、かつての、誰でもすぐそばまで行くことができる場所から移した、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」と『学問のすすめ』の冒頭に書いた福澤諭吉の像であるから、だから、「普通の人間と同じ大きさで、普通の人間と同じ高さ」の像で、そして、誰もがすぐそばまで行くことができる場所に設置されていたものを、「普通の人間よりも高い場所に」「普通の人間が通る通路とは生け垣で隔てられて、すぐそばには行くことができない場所」に移設されてしまったのです。私なんかと違って「エライ人」がやったことでしょう。そして、おそらく、その「エライ人」はそういう姿勢・態度を「福沢精神」とか「独立自尊」とか思っているのでしょう。
日吉の新図書館の前に、「普通の人間よりもひと回り大きい福澤諭吉像」ができました。その像の前を通らないと図書館に入れないという場所に設置されています。下品な像だと思います。きっと、三田の「普通の人間と同じ大きさ」の福澤諭吉像が「普通の人間と同じ高さ」の場所で、誰もがいつでもすぐそばまで行ける場所に設置されていたものを、「普通の人間よりも高い場所」で「普通の人間が通る通路とは生け垣で隔てられてそばには行けない場所」に移設した人と同じ考えの人がやったことでしょう。その人達は、おそらく、それを「正常化」だと考えていたのではないでしょうか。 福澤諭吉の著作とか伝記など読んだこともなく「福沢精神」と叫ぶのが好きな人というのが慶應義塾の関係者には大変多い。その人達にとっては、福沢諭吉が著作でどういうことを述べているか、どういう生き様の人であったかなんてどうでもいいことであり、自分たちがやることが「福沢精神」であり、自分たちのやることに批判的な者は、たとえ福澤諭吉でも小泉信三でも「福沢精神に反する」ことになるのです。慶應義塾にはそういう人が大変多いのですが、そういう人はそういう態度が「福沢精神」だと思っており、そして、「普通の人間と同じ高さ」で普通の人間がすぐそばまで行くことができた福澤諭吉の胸像を、普通の人間よりも高い場所で、普通の人間がそばに行くことができない場所に移設することを「正常化」と考えたのだと思います。おそらく、そうでしょう。その人はそういう態度を「福沢精神」で「独立自尊」で「塾風」で「自我が確立されている」態度で「アイデンティティーを身に着けている」態度で「大人の対応」で「社会を知っている」で「人間的に成熟している」で「そういう人間が社会で役に立つ」で「会社はそういう人間を喜ぶ」で、なにより「ギャルにもてもて」とか思っているのです。そういう人にうかつに逆らうと、その逆、「福沢精神に反する」「独立自尊の精神を身に着けていない」「塾風をみにつけていない」「自我が確立されていない」「アイデンティティーを身に着けていない」「人間的に未成熟」「世の中を知らない」「そういう人間は社会に役に立たない非国民だ」「会社はそういう人間は採用しない」「結婚する相手ないぞ」とか「診断」されるのです。怖い、怖い。それが慶應義塾の「塾風」という態度で、なにより、慶應大学医学部助教授であった小此木啓吾なんてのはそういう思想の持ち主のようです。まったくつくづく、怖い、怖い!
「普通の人間と同じ大きさ」の福澤諭吉像が、「普通の人間と同じ高さ」の場所にあったものを、普通の人間よりも高い場所に移設するのが「正常化」なのか。 誰もがすぐそばまで行けるという場所にあった福沢諭吉像を生け垣で隔てられたそばには行けない場所に移設するのが「正常化」なのか、というと、違うように思うのですが、それを「正常化」だと思っている人、要するに「塾風を身に着けている人」「自我が確立されている人」「アイデンティティーを持っている人」「ギャルにもてもて」がいたのです・・・・が、そういう人に「それが『正常化』なのでしょうか」などと言おうものなら、「作家で精神科医」の なだ いなだ が『人間、この非人間的なもの』(ちくま書房)で、戦中、「どうも、日本は負けそうだな」と口にしたところ、「おまえはそれでも日本人か!」と怒鳴りつけられたと書いており、「おまえはそれでも日本人か」と言われても、日本人なんだから、しかたがないじゃないか・・・思ったが、慶應大学という大学は「おまえはそれでも慶大生か」という文句を言うのが好きな人間が大変多い大学でした。 私なんかは、そういう文句を聞くたびに、ああ、ここの大学というのは、こういう人の学校なんだな、「おまえはそれでも◇◇か」とかいう文句は、自分や自分が気に入る人間しか認めない心の狭いファッショ的な人間が口にする文句であり、ある程度以上の大学に進学するような教養人は口にするべきではない文句であると認識している私なんかはここの学校では「異邦人」なんだなと思ったものでした。
上宮天満宮の場合は、1996年の「賽銭泥棒を狙った放火による本殿の焼失」をきっかけとして、「経営者」が変わり、今も試行錯誤の途中なのではないかと思いますが、「正常化」というと、そもそも、「正常化」とはどういう状態にするのが「正常化」なのか、「正常」とはどういう状態を言うべきか、という点において、けっこう難しいところもあると思います。 見ていると、けっこう多くの参拝者があります・・・が、社殿に参拝するとさっさと帰る人が多いようにも見えました。 神社というのは、参拝してすぐに帰る人もあっていいけれども、そこでしばらく過ごしたいと思う人だってあっていいのではないか・・・とか思ったのですが、全域・常に監視カメラで見張られているという場所、「神さま」以外の者から見張られている場所に、特に長居してもしかたない・・・ような気もしました。猫を捨てに来る人、賽銭泥棒やシンナー吸引するために来る人は見はられてもしかたないかもしれませんし、「医療用ゴミ」なんて廃棄しに来る者はこれは警察がきっちりと取り締まるべきですが、そうはいっても、やっぱり、神社に監視カメラというのはどうもなんだか・・・・。(「草薙の剣」を盗みに来る人があるらしい熱田神宮では、鉄条網で本殿を取り囲んだ上で、監視カメラが設置され、警備員も常駐していましたが・・・)、なかなか、難しいところがありますね。
次回、5.摂社野身神社、車塚古墳、鉄骨で支えた石の鳥居。反則相撲の野彌宿祢 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_6.html
(2019.11.4.)
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