大國魂神社【4/6】手水舎・随神門・鼓楼・宝物殿・神楽殿。「軍艦多摩慰霊碑」、慰霊はあくまで慰霊で
[第659回] あけおめ4。
大國魂神社 大鳥居をくぐり、行列のまま前に進みます。↓
↑ 両側に屋台が出ていますが、「行き」はうかつに屋台の方に行ったりすると列に戻れないし、行列は静止しているわけではなく、微妙に前に進みますから買っている余裕はありません・・・・が、なんか、屋台の食べ物って、おいしそうな感じしますよね・・・。空腹なわけでもなし、食事はすませてきたにもかかわらず、なんか、食べたくなってくる・・・。
正月に、これだけの行列がある時に行くと、普段よりも入るまでに時間がかかるということもあるけれども、初もうでの雰囲気を味わうことができるというメリットもあるし、両側に屋台が並んだ雰囲気を味わうことができるメリットもある・・が、普段なら、参道を歩むだけでも両側に見えるものが見えない、という点もある。
大國魂神社HPの「境内案内」「神社案内図」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/ では、左側に、 「宮乃咩神社(みやのめじんじゃ)」があるようですが、行列とともに前に進んでいるうちに通り過ぎたようです。 「宮乃咩神社(みやのめじんじゃ)」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/miyanome.php によると、アメノウズメを祀っているようです。
それより御本社に近い側に「相撲場」があるようです。
↑ 屋台のテントの上にわずかに見える屋根が「相撲場(すもうじょう)」の屋根かと思われます。
内田康夫『汚れちまった道(上・下)』『萩殺人事件』に山口県萩市に「角力場」と書いて「すもうば」と読む地名が出てきますが、この府中市の大國魂神社では「すもう」は「角力」ではなく「相撲」とかいて、「相撲場」は「すもうじょう」と読んでいるらしい。〔「相撲場(すもうじょう)」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/sumo.php 〕


( ↑ 山口県萩市角力場〔すもうば〕。 )
相撲場より拝殿側にあるのが、「軍艦多摩戦没者慰霊碑」。 鳥居があるので、摂社・末社の祠があるのかと思ったら、鳥居の奥niarunoha、「軍艦多摩戦没者慰霊碑」の石碑でした。 大國魂神社HPの「軍艦多摩戦没者慰霊碑(ぐんかんたませんぼつしゃいれいひ)」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/senbotsu.php ≪ 第二次世界大戦時に沈没した軽巡洋艦「多摩」の戦没者を祀った慰霊碑である。≫ということです。戦前に建立されたものかと思うと、石碑はけっこう新しそうです。 ≪平成26年、多摩沈没70年を機に建立された。 ≫というのですが、平成26年というと2014年の建立。新しいわけです。

《ウィキペディア―多摩(軽巡洋艦)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9_(%E8%BB%BD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6) によると、
≪ 多摩(たま)は、日本海軍の二等巡洋艦 (軽巡洋艦)。 球磨型の2番艦。 その艦名は、多摩川に因んで命名された。≫ということで、
≪起工 1918年8月10日
進水 1920年2月10日
竣工 1921年1月29日
最期 1944年10月25日戦没 ≫
と、竣工から沈没まで23年。 第二次世界大戦中の日本の軍艦というと、戦艦「大和」と同じ大きさの戦艦「武蔵」なんてのは、吉村昭『戦艦武蔵』(新潮文庫)なんて本にも書かれていたが、「大和」に並ぶ・・というより「大和」より後で造られたものなので、「大和」より改良された所もある「大和」と同じ大きさの戦艦だったらしいが、南方へ戦闘機をほとんど伴わずに戦艦だけで突き進んで撃沈されたようで、又、「大和」・「武蔵」と同型であったが戦艦よりも航空母艦が必要ということで航空母艦に作り替えられた「信濃」なんてのは、竣工した後、どの戦闘にも参戦していないうちに、日本の港から日本の港まで移動させている途中に撃沈されたという、なんだか、大和・武蔵と同型の巨大航空母艦と言うわりに、いったい何をやってんだか・・て感じなのだが、「軽巡洋艦 多摩」については、かなり長い期間、あちらこちらこちらに転戦したらしい。
≪ 1944年10月20日からのレイテ沖海戦で、多摩は小沢治三郎中将率いる囮艦隊に加えられた。10月25日のエンガノ岬沖海戦で、小沢囮艦隊は空母エンタープライズ・エセックス・イントレピッド・フランクリン・レキシントン・インディペンデンス・ベロー・ウッド・ラングレー・カボット・サン・ジャシントからなる第38任務部隊の攻撃を受けた。多摩はベロー・ウッドのVT-21、サン・ジャシントのVT-51の雷撃機TBF アヴェンジャーによる攻撃をうけ、M 13魚雷が第2機関室を直撃して大破した。多摩は応急修理を受け、軽巡洋艦五十鈴に護衛されて戦線を離脱した。しかし、五十鈴は被弾した空母千代田の掩護を要請されたため、多摩は駆逐艦霜月の護衛を受けた。その霜月も空母瑞鳳の掩護に回る事になったため、多摩は単独で14ノットで沖縄へ向けて航行した。
ルソン島の北西で、多摩はアメリカ海軍の潜水艦ジャラオ (USS Jallao, SS-368) のレーダーに捉えられた。ジャラオにとってはこれが初の哨戒であった。距離1000ヤード(910m)で艦首から発射した3発の魚雷は全て外れたが、距離800ヤード(730m)でジャラオの艦尾から放った4発の魚雷のうち3発が多摩に当たり、2発が爆発した。それから数分後、多摩は北緯21度23分 東経127度19分の地点で2つに折れて沈没した。多摩の艦長以下総員が未帰還となった。
多摩は1944年12月20日に除籍された。
多摩の沈没から70年を経た2014年10月25日、多摩の艦内神社であった大国魂神社(東京都府中市)にて、多摩に乗り組んでいた戦没者慰霊式が初めて執り行われ、2017年時点でも毎年続いている。同神社は境内に慰霊碑を建立しているほか、乗組員とその遺族探しを行っており、2017年時点で乗組員49名が判明している。 ≫
ということらしい。
なぜ、大國魂神社にその「軽巡洋艦 多摩」の戦没者を祀っているかというと、その軍艦の名称が大國魂神社のすぐ南を流れる多摩川に由来することと、大國魂神社が≪多摩の艦内神社であった≫ということがあるようだ。 戦没者を悼む場合、今日においては、たとえ、過去においては戦った「敵国」の人間であっても、その戦争において亡くなった人たちはともに悼むべきであり、自国の軍隊で戦って亡くなった人たちだけを悼み「敵国」の戦没者は悼まないという靖国神社のような姿勢では外国の人たちから理解を得ることはできないであろうが、この慰霊碑の場合は、自国の軍隊で亡くなった人だけを悼むべきだと主張しているわけでもなく、ここでは「軽巡洋艦多摩」と縁があった神社として特に「軽巡洋艦多摩」で戦没した人を特に悼むという趣旨だと考えていいようである。しかし、その慰霊碑の手前に鳥居を設けてあるのだが、どういうつもりで鳥居を設けているのかという問題がある。その慰霊碑をその軍艦での戦没者を「英霊」として祀る祠であるとして扱うのであれば、むしろ、戦没者も浮かばれまい。戦没者を悼むのは大いに悼んでよいと思うが、もしも、それを神さま扱いするのであれば、それは趣旨を取り違えていると考えるべきであろう。手前に鳥居があるというのは、それは、これは大事な慰霊碑なのですという趣旨でならばよいが、慰霊碑で「悼む」のならいいが、もしも「神さま扱い」する場所として鳥居を設けたということならば、そういった考え方は反社会的と判断せざるをえない。慰霊碑は悼むものではあっても神さま扱いして拝むものではない。慰霊碑は設けて良いと思うが、やっぱり、↑の鳥居は余計だと思う。
参道の拝殿に向かって右手(西側)に、「手水舎」↓
↑ 「手水舎」にしては豪勢な建物・・・ですよね。 「手水舎」の右の石碑は「日露戦役記念碑」らしい。
「手水舎」は≪現在のものは明治30年(1897年)完成で、棟梁は当時拝殿や随神門の建築を手掛けた佐藤彌一、中村長作である。≫(大國魂神社HP 「手水舎」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/temizu.php )らしい。 「手水舎」は「ちょうずしゃ」と読むものと思っていたが、大國魂神社HPの「手水舎」では「てみずしゃ」と読みがなが書かれている。 《ウィキペディア―手水舎》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E6%B0%B4%E8%88%8E を見ると、「ちょうずしゃ」「てみずしゃ」の他にも、「ちょうずや」「てみずや」といった読み方があるらしい。
「手水舎」と「日露戦役記念碑」の後ろ、工事中のシートが貼られている建物↑が、「ふるさと歴史館」のようだ。
↑ 提灯がいっぱいかかっていて少々見えにくいが、「随神門(ずいしんもん)」。
↑の写真では行列が途切れているかのようにも見えるが、これは、随神門の前の位置で横に通りたい人に通れるように警備員が行列を手前で一時停止させて通路を確保したことによるもので、私が後ろ側の行列の先頭にいたのでこのような写真を撮ることができた。
大國魂神社HP の「随神門」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/zuijinmon.php によると、≪平成23年(2011年)に大國魂神社御鎮座壱千九百年事業として改築された。≫ということで、≪ 門は高さ8.5m幅25m、門扉は高さ4.5m幅4.7m。扉一枚は畳5畳分程。国産の檜で製作され、屋根は銅板葺き、木造の門としても希に見る大きさである。正面には随神像、後面には恵比寿・大国が納められている。・・・・俗に右大臣左大臣と呼ばれる「豊磐間戸命」「櫛磐間戸命」という門の神様である。・・・・門の設計にあたっては、くらやみ祭での神輿や大太鼓の出入りをスムーズにする為に、先ず間口と高さを決めてから全体の設計にあたった。 ≫らしい。 言われてみると、高さ・幅は、それなりのものが確保されていたように思う。大國魂神社においては「くらやみ祭り」というのが相当重要らしい。 お寺ではなく神社なので、左右にいらっしゃるのは仁王さんとかではなく、「門の神さん」だという「豊磐間戸命」「櫛磐間戸命」らしい。
↑ 随神門の正面から見て右側(西側)、「豊磐間戸命(とよいわまとのみこと)」。
↑ 大國魂神社は、社殿が北を向き、ひとが北から南に参拝するようになっており、「くらやみ祭り」という夜におこなわれる祭りがあり、名前も「大國(おおくに)」→「だいこく」→「大黒」 と変化させて考えると、もしかすると、いつの時代においてか、反主流・反権力・反体制の側での勢力が拠点とした所だったとかあるのだろうか?・・・とか・・・、もしかして、「暗黒勢力」の拠点?・・なんて考えそうになるところがあるが、↑の随神門など見ると、菊の紋がかかっている。
この後、御本社に参拝の後、境内摂社の東照宮に参拝して、境外摂社の天神社に参拝して戻ってきた頃には日は暮れていましたが、「くらやみ」に祭りをする神社だけあって・・なのかどうか、随神門には明かりがともって↓
↑ のようになっていました。 この状態も悪くないですね。 すごい人出で行列に沿って進んだことから拝殿の前までいくのに少々時間がかかり、又、本来なら手水舎で両手と口を清めた後に拝殿に進むものなのでしょうけれども、今回は手水舎によることはできませんでしたが、少々時間がかかったかわりに、日が暮れた後の照明が入った随神門など夜の大國魂神社も見ることができました。

( ↑「旗」マークが、随神門。 )
随神門をくぐると、左側(東側)に、「鼓楼(ころう)」 ↓
・・・ふと、思ったのだが、「鐘楼」て、もしかして、お寺のものだったなんてことないか・・・・? ここはお寺じゃなくて、神社だよね。 まあ、いいか・・・? 佐野厄除け大師なんて、お寺でも「巫女さん」いたしな・・・・・。佐野厄除け大師の場合は、佐野市の住人の話では「あそこは、緩い」からということらしく、お寺でも「きつい」お寺と「緩い」お寺があって、「きつい」お寺の場合は何かと難しくて、一般参拝者といえども、うかつな態度をとると「かあ~あつ!」とか怒鳴りつけられそうでこわ~い・・・けれども、「緩い」お寺の場合はそうではなくて、厄除けやって「巫女さん」からお守り買って、帰りにラーメン食って帰れば、厄除けできてよかったよかった♪ 授与所でお守りを受け取る際も、ボーズから受け取るよりも若いおねーちゃんから受け取った方がご利益ありそうじゃない♪ ・・てそんな感じ(^^♪ 「緩い」らしいのだ。だから、佐野厄除け大師の「巫女さん」は巫女さんと言っても御神楽なんて絶対に踊らない(^^)/ だいたい、高校生のバイトだし(^^)/
・・で、大國魂神社の鐘楼はというと、大國魂神社HPの「境内案内 鼓楼(ころう)」
≪ その昔は、時刻や緊急事態を知らせるための太鼓を置いた建物である。寺の鐘楼に対して、神社では太鼓を置くから「鼓楼」と呼ばれる。 慶長年間の造営の際に、三重の塔と相対して建設された。しかし正保3年(1646)の火災で焼失、約200年余後嘉永7年(1854)再建される。 ≫ と出ている。
なるほど、鐘楼ではなく鼓楼だったのだ。高校生のバイトじゃなかった・・・(^^♪
右側(西側)の手前に、宝物殿 ↓
右側(西側)、宝物殿より拝殿・本殿に近い側に、神楽殿 ↓
※ 大國魂神社HP 「神楽殿」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/kaguraden.php
※ 大國魂神社HP https://www.ookunitamajinja.or.jp/
次回 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201901article_5.html 、中雀門より拝殿・本殿へ・・・
(2019.1.9.)
☆ あけおめ。 大國魂神社。
1.北府中駅から。表から入ろう、神社も大学も。「刑務所の塀」は外から見れる。分譲マンションより居住性は良さそうな刑務所職員宿舎。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201901article_1.html
2.幸町から国分寺街道、欅並木通。鉄人風屋上。司祭館は教会のそば。広い歩道と自転車 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201901article_2.html
3.欅並木通。大鳥居。突けば転びそうな警官。屋台の食べ物はばっちいか。デマカセ心理学 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201901article_3.html
4.手水舎・随神門・鼓楼・宝物殿・神楽殿。「軍艦多摩慰霊碑」、慰霊はあくまで慰霊で。〔今回〕
5.中雀門・自然石風の上の狛犬・おみくじ箱・拝殿・本殿 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201901article_5.html
6.「仕事人の神社」東照宮・北を向く天神社、御旅所。府中競馬場のアルバイトの想い出 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201901article_6.html
大國魂神社 大鳥居をくぐり、行列のまま前に進みます。↓
↑ 両側に屋台が出ていますが、「行き」はうかつに屋台の方に行ったりすると列に戻れないし、行列は静止しているわけではなく、微妙に前に進みますから買っている余裕はありません・・・・が、なんか、屋台の食べ物って、おいしそうな感じしますよね・・・。空腹なわけでもなし、食事はすませてきたにもかかわらず、なんか、食べたくなってくる・・・。
正月に、これだけの行列がある時に行くと、普段よりも入るまでに時間がかかるということもあるけれども、初もうでの雰囲気を味わうことができるというメリットもあるし、両側に屋台が並んだ雰囲気を味わうことができるメリットもある・・が、普段なら、参道を歩むだけでも両側に見えるものが見えない、という点もある。
大國魂神社HPの「境内案内」「神社案内図」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/ では、左側に、 「宮乃咩神社(みやのめじんじゃ)」があるようですが、行列とともに前に進んでいるうちに通り過ぎたようです。 「宮乃咩神社(みやのめじんじゃ)」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/miyanome.php によると、アメノウズメを祀っているようです。
それより御本社に近い側に「相撲場」があるようです。
↑ 屋台のテントの上にわずかに見える屋根が「相撲場(すもうじょう)」の屋根かと思われます。
内田康夫『汚れちまった道(上・下)』『萩殺人事件』に山口県萩市に「角力場」と書いて「すもうば」と読む地名が出てきますが、この府中市の大國魂神社では「すもう」は「角力」ではなく「相撲」とかいて、「相撲場」は「すもうじょう」と読んでいるらしい。〔「相撲場(すもうじょう)」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/sumo.php 〕
( ↑ 山口県萩市角力場〔すもうば〕。 )
相撲場より拝殿側にあるのが、「軍艦多摩戦没者慰霊碑」。 鳥居があるので、摂社・末社の祠があるのかと思ったら、鳥居の奥niarunoha、「軍艦多摩戦没者慰霊碑」の石碑でした。 大國魂神社HPの「軍艦多摩戦没者慰霊碑(ぐんかんたませんぼつしゃいれいひ)」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/senbotsu.php ≪ 第二次世界大戦時に沈没した軽巡洋艦「多摩」の戦没者を祀った慰霊碑である。≫ということです。戦前に建立されたものかと思うと、石碑はけっこう新しそうです。 ≪平成26年、多摩沈没70年を機に建立された。 ≫というのですが、平成26年というと2014年の建立。新しいわけです。
《ウィキペディア―多摩(軽巡洋艦)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9_(%E8%BB%BD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6) によると、
≪ 多摩(たま)は、日本海軍の二等巡洋艦 (軽巡洋艦)。 球磨型の2番艦。 その艦名は、多摩川に因んで命名された。≫ということで、
≪起工 1918年8月10日
進水 1920年2月10日
竣工 1921年1月29日
最期 1944年10月25日戦没 ≫
と、竣工から沈没まで23年。 第二次世界大戦中の日本の軍艦というと、戦艦「大和」と同じ大きさの戦艦「武蔵」なんてのは、吉村昭『戦艦武蔵』(新潮文庫)なんて本にも書かれていたが、「大和」に並ぶ・・というより「大和」より後で造られたものなので、「大和」より改良された所もある「大和」と同じ大きさの戦艦だったらしいが、南方へ戦闘機をほとんど伴わずに戦艦だけで突き進んで撃沈されたようで、又、「大和」・「武蔵」と同型であったが戦艦よりも航空母艦が必要ということで航空母艦に作り替えられた「信濃」なんてのは、竣工した後、どの戦闘にも参戦していないうちに、日本の港から日本の港まで移動させている途中に撃沈されたという、なんだか、大和・武蔵と同型の巨大航空母艦と言うわりに、いったい何をやってんだか・・て感じなのだが、「軽巡洋艦 多摩」については、かなり長い期間、あちらこちらこちらに転戦したらしい。
≪ 1944年10月20日からのレイテ沖海戦で、多摩は小沢治三郎中将率いる囮艦隊に加えられた。10月25日のエンガノ岬沖海戦で、小沢囮艦隊は空母エンタープライズ・エセックス・イントレピッド・フランクリン・レキシントン・インディペンデンス・ベロー・ウッド・ラングレー・カボット・サン・ジャシントからなる第38任務部隊の攻撃を受けた。多摩はベロー・ウッドのVT-21、サン・ジャシントのVT-51の雷撃機TBF アヴェンジャーによる攻撃をうけ、M 13魚雷が第2機関室を直撃して大破した。多摩は応急修理を受け、軽巡洋艦五十鈴に護衛されて戦線を離脱した。しかし、五十鈴は被弾した空母千代田の掩護を要請されたため、多摩は駆逐艦霜月の護衛を受けた。その霜月も空母瑞鳳の掩護に回る事になったため、多摩は単独で14ノットで沖縄へ向けて航行した。
ルソン島の北西で、多摩はアメリカ海軍の潜水艦ジャラオ (USS Jallao, SS-368) のレーダーに捉えられた。ジャラオにとってはこれが初の哨戒であった。距離1000ヤード(910m)で艦首から発射した3発の魚雷は全て外れたが、距離800ヤード(730m)でジャラオの艦尾から放った4発の魚雷のうち3発が多摩に当たり、2発が爆発した。それから数分後、多摩は北緯21度23分 東経127度19分の地点で2つに折れて沈没した。多摩の艦長以下総員が未帰還となった。
多摩は1944年12月20日に除籍された。
多摩の沈没から70年を経た2014年10月25日、多摩の艦内神社であった大国魂神社(東京都府中市)にて、多摩に乗り組んでいた戦没者慰霊式が初めて執り行われ、2017年時点でも毎年続いている。同神社は境内に慰霊碑を建立しているほか、乗組員とその遺族探しを行っており、2017年時点で乗組員49名が判明している。 ≫
ということらしい。
なぜ、大國魂神社にその「軽巡洋艦 多摩」の戦没者を祀っているかというと、その軍艦の名称が大國魂神社のすぐ南を流れる多摩川に由来することと、大國魂神社が≪多摩の艦内神社であった≫ということがあるようだ。 戦没者を悼む場合、今日においては、たとえ、過去においては戦った「敵国」の人間であっても、その戦争において亡くなった人たちはともに悼むべきであり、自国の軍隊で戦って亡くなった人たちだけを悼み「敵国」の戦没者は悼まないという靖国神社のような姿勢では外国の人たちから理解を得ることはできないであろうが、この慰霊碑の場合は、自国の軍隊で亡くなった人だけを悼むべきだと主張しているわけでもなく、ここでは「軽巡洋艦多摩」と縁があった神社として特に「軽巡洋艦多摩」で戦没した人を特に悼むという趣旨だと考えていいようである。しかし、その慰霊碑の手前に鳥居を設けてあるのだが、どういうつもりで鳥居を設けているのかという問題がある。その慰霊碑をその軍艦での戦没者を「英霊」として祀る祠であるとして扱うのであれば、むしろ、戦没者も浮かばれまい。戦没者を悼むのは大いに悼んでよいと思うが、もしも、それを神さま扱いするのであれば、それは趣旨を取り違えていると考えるべきであろう。手前に鳥居があるというのは、それは、これは大事な慰霊碑なのですという趣旨でならばよいが、慰霊碑で「悼む」のならいいが、もしも「神さま扱い」する場所として鳥居を設けたということならば、そういった考え方は反社会的と判断せざるをえない。慰霊碑は悼むものではあっても神さま扱いして拝むものではない。慰霊碑は設けて良いと思うが、やっぱり、↑の鳥居は余計だと思う。
参道の拝殿に向かって右手(西側)に、「手水舎」↓
↑ 「手水舎」にしては豪勢な建物・・・ですよね。 「手水舎」の右の石碑は「日露戦役記念碑」らしい。
「手水舎」は≪現在のものは明治30年(1897年)完成で、棟梁は当時拝殿や随神門の建築を手掛けた佐藤彌一、中村長作である。≫(大國魂神社HP 「手水舎」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/temizu.php )らしい。 「手水舎」は「ちょうずしゃ」と読むものと思っていたが、大國魂神社HPの「手水舎」では「てみずしゃ」と読みがなが書かれている。 《ウィキペディア―手水舎》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E6%B0%B4%E8%88%8E を見ると、「ちょうずしゃ」「てみずしゃ」の他にも、「ちょうずや」「てみずや」といった読み方があるらしい。
「手水舎」と「日露戦役記念碑」の後ろ、工事中のシートが貼られている建物↑が、「ふるさと歴史館」のようだ。
↑ 提灯がいっぱいかかっていて少々見えにくいが、「随神門(ずいしんもん)」。
↑の写真では行列が途切れているかのようにも見えるが、これは、随神門の前の位置で横に通りたい人に通れるように警備員が行列を手前で一時停止させて通路を確保したことによるもので、私が後ろ側の行列の先頭にいたのでこのような写真を撮ることができた。
大國魂神社HP の「随神門」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/zuijinmon.php によると、≪平成23年(2011年)に大國魂神社御鎮座壱千九百年事業として改築された。≫ということで、≪ 門は高さ8.5m幅25m、門扉は高さ4.5m幅4.7m。扉一枚は畳5畳分程。国産の檜で製作され、屋根は銅板葺き、木造の門としても希に見る大きさである。正面には随神像、後面には恵比寿・大国が納められている。・・・・俗に右大臣左大臣と呼ばれる「豊磐間戸命」「櫛磐間戸命」という門の神様である。・・・・門の設計にあたっては、くらやみ祭での神輿や大太鼓の出入りをスムーズにする為に、先ず間口と高さを決めてから全体の設計にあたった。 ≫らしい。 言われてみると、高さ・幅は、それなりのものが確保されていたように思う。大國魂神社においては「くらやみ祭り」というのが相当重要らしい。 お寺ではなく神社なので、左右にいらっしゃるのは仁王さんとかではなく、「門の神さん」だという「豊磐間戸命」「櫛磐間戸命」らしい。
↑ 随神門の正面から見て右側(西側)、「豊磐間戸命(とよいわまとのみこと)」。
↑ 大國魂神社は、社殿が北を向き、ひとが北から南に参拝するようになっており、「くらやみ祭り」という夜におこなわれる祭りがあり、名前も「大國(おおくに)」→「だいこく」→「大黒」 と変化させて考えると、もしかすると、いつの時代においてか、反主流・反権力・反体制の側での勢力が拠点とした所だったとかあるのだろうか?・・・とか・・・、もしかして、「暗黒勢力」の拠点?・・なんて考えそうになるところがあるが、↑の随神門など見ると、菊の紋がかかっている。
この後、御本社に参拝の後、境内摂社の東照宮に参拝して、境外摂社の天神社に参拝して戻ってきた頃には日は暮れていましたが、「くらやみ」に祭りをする神社だけあって・・なのかどうか、随神門には明かりがともって↓
↑ のようになっていました。 この状態も悪くないですね。 すごい人出で行列に沿って進んだことから拝殿の前までいくのに少々時間がかかり、又、本来なら手水舎で両手と口を清めた後に拝殿に進むものなのでしょうけれども、今回は手水舎によることはできませんでしたが、少々時間がかかったかわりに、日が暮れた後の照明が入った随神門など夜の大國魂神社も見ることができました。
( ↑「旗」マークが、随神門。 )
随神門をくぐると、左側(東側)に、「鼓楼(ころう)」 ↓
・・・ふと、思ったのだが、「鐘楼」て、もしかして、お寺のものだったなんてことないか・・・・? ここはお寺じゃなくて、神社だよね。 まあ、いいか・・・? 佐野厄除け大師なんて、お寺でも「巫女さん」いたしな・・・・・。佐野厄除け大師の場合は、佐野市の住人の話では「あそこは、緩い」からということらしく、お寺でも「きつい」お寺と「緩い」お寺があって、「きつい」お寺の場合は何かと難しくて、一般参拝者といえども、うかつな態度をとると「かあ~あつ!」とか怒鳴りつけられそうでこわ~い・・・けれども、「緩い」お寺の場合はそうではなくて、厄除けやって「巫女さん」からお守り買って、帰りにラーメン食って帰れば、厄除けできてよかったよかった♪ 授与所でお守りを受け取る際も、ボーズから受け取るよりも若いおねーちゃんから受け取った方がご利益ありそうじゃない♪ ・・てそんな感じ(^^♪ 「緩い」らしいのだ。だから、佐野厄除け大師の「巫女さん」は巫女さんと言っても御神楽なんて絶対に踊らない(^^)/ だいたい、高校生のバイトだし(^^)/
・・で、大國魂神社の鐘楼はというと、大國魂神社HPの「境内案内 鼓楼(ころう)」
≪ その昔は、時刻や緊急事態を知らせるための太鼓を置いた建物である。寺の鐘楼に対して、神社では太鼓を置くから「鼓楼」と呼ばれる。 慶長年間の造営の際に、三重の塔と相対して建設された。しかし正保3年(1646)の火災で焼失、約200年余後嘉永7年(1854)再建される。 ≫ と出ている。
なるほど、鐘楼ではなく鼓楼だったのだ。高校生のバイトじゃなかった・・・(^^♪
右側(西側)の手前に、宝物殿 ↓
右側(西側)、宝物殿より拝殿・本殿に近い側に、神楽殿 ↓
※ 大國魂神社HP 「神楽殿」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/kaguraden.php
※ 大國魂神社HP https://www.ookunitamajinja.or.jp/
次回 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201901article_5.html 、中雀門より拝殿・本殿へ・・・
(2019.1.9.)
☆ あけおめ。 大國魂神社。
1.北府中駅から。表から入ろう、神社も大学も。「刑務所の塀」は外から見れる。分譲マンションより居住性は良さそうな刑務所職員宿舎。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201901article_1.html
2.幸町から国分寺街道、欅並木通。鉄人風屋上。司祭館は教会のそば。広い歩道と自転車 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201901article_2.html
3.欅並木通。大鳥居。突けば転びそうな警官。屋台の食べ物はばっちいか。デマカセ心理学 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201901article_3.html
4.手水舎・随神門・鼓楼・宝物殿・神楽殿。「軍艦多摩慰霊碑」、慰霊はあくまで慰霊で。〔今回〕
5.中雀門・自然石風の上の狛犬・おみくじ箱・拝殿・本殿 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201901article_5.html
6.「仕事人の神社」東照宮・北を向く天神社、御旅所。府中競馬場のアルバイトの想い出 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201901article_6.html
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